採集生活

お菓子作り、ジャム作り、料理などについての記録

シャータフマスプのシャーナーメの画集

2023-07-10 | +イスラム細密画関連

シャーナーメの画集、買ってしまいました~☆
むっふっふ~。
まずは見て下さいませ~。

シャーナーメ画集TMOCA2021
シャーナーメ画集TMOCA2021

きれいな本! 
(表紙や外箱の触り心地がとてもよいです)

これは、イランで比較的最近(2021)出版されたものです。
私の拙い翻訳を読んで下さっているお友達と、
「シャーナーメのweb画像もいいけど、本でぱらぱらめくって見られたらいいですよね~」
と話をしていたその流れで、イランで画集が出ているらしい、と突き止め、そして取り寄せて下さったのです。(Oさん、ありがとうございます!!!)
イランからの送料を入れても私のお小遣いで買えるくらいのお値段でした。
(ダンナサマに秘密にしなくていいレベル)

イランの、テヘラン近代美術館(TMOCA)の出版です。


調べたサイトによると、出版に際しては次のような苦労があったようです。

目標は、シャー・タフマスプの最も完全なシャーナーメであるこの分厚い本を、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の印刷版のような優れた品質で、同時に祖国で手頃な価格で出版することでした。多くの努力とフォローアップにもかかわらず、この提案は最終的にテヘラン現代美術館の館長によって承認された2018年の秋まで実現できませんでした。その後ようやく、個人の資金と博物館出版局の支援により、この貴重な版の準備と印刷が始まりました。
そしてすべてのシャー・ナーメ作品について準備作業が行われ、メトロポリタン版で間違って書かれていて、イランの専門家やシャーナーメの研究者達が気付かなかったすべての事柄(いくつかのコースの題名など)はすべて修正されました。
また、原典への忠実性を維持しつつ、色彩の正確さ、細部の品質、明瞭さといった点も満足させてこの版が出版できるよう、すべての画像は最初から慎重に検討され、編集されました。


調べてみると、シャーナーメの画集は、これのほかに、3つのバージョンがあります。
(計4バージョン)
アメリカで2種類(大きい本と、これと同じ大きさの本)。イランで、これよりも大きな本。

アメリカでは、メトロポリタン美術館から、2011年に豪華版(大きい本、細密画は全てではない)が、2014年に小さ目の本(全細密画掲載)が出版されています。
イランでは、2013年に大型豪華版(おそらくMetの2011と同様のもの)、そしてだいぶ時間が経って、2021年にこの本が出ました。


・・・なんか、他の本も見てみたいですよね???


イランの大きい方は見つからなかったのですが、アメリカの大小2版は、大学図書館のルートで借りてみられるということがわかり、実際に閲覧することができたので、ご報告します。

いま現在、アメリカの2冊、そしてイランの大きい方も相当入手困難で(古本しかなく、プレミアがついて千ドル越えくらい)、どれを買おうか、と迷っている人はあまりいないかもしれないのですが・・・。
私としては、画集の出版って大変そうだな、と伺い知れました。

 

three-versions-of-shahname-of-shah-tahmasp

3冊並べてみました。
左から、アメリカの大きい方、アメリカの小さい方、イランの小さい方。
アメリカのものは、背が左にきて、横書きの本のようにすすみます。
イランのものは、間違えて背を左に置いてしまいましたが、日本の縦書きの本と同様のページの進み方です。

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厚み。
アメリカの小さい方が、一番分厚いです。
細密画掲載数はイランのと同じ(全細密画)ですが、細密画以外に、解説ページが結構充実しているためです。


まずは、小さいサイズのアメリカのとイランのを眺めていきます。

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アメリカの小さい方の、巻頭記事。
細密画に登場するモノの、本当の遺物の写真があります。これは楽しそう。
細かい(←ザツな表現)絵の何が楽しいって、服とかモノがきっちり描き込まれていることで、本物はどんなかなー、といつも思うのです。
(文章は読めていません。今度借りなおして読んでみたいです)

あと、巻末白黒ページに、全ての絵のリスト(タイトル、所蔵館、画家、1行程度の物語)がありました。この画家の情報が、私には嬉しかったです。

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登場人物リスト。
よく似ていますが、トリミング範囲がちょっと違っていたり。
あと、イラン版は、イランのアルファベット?順にならんでいるようで、英語版とは並び順が違います。


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左がアメリカ、右がイラン。
アメリカのは、ページの上端と横端に余白がなく、イランのは上・横にも余白があります。
ぱっと見で違うなーと思うのが、マージンの金砂子の色合い。
アメリカの方がゴールドを強調している色合いで、イランのはシルバーっぽい色です。

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よくよく見ると、金砂子のところは色が違うだけではなくて、イランは別処理をしているようです。
上がイラン、下がアメリカ。
下のアメリカのを見ると、金砂子の汚れみたいなものが挿絵との境目、右寄りにありますが、上のイランのにはありません。

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こちらも。
左(アメリカ)のには金砂子の汚れや、罫線と砂子の間に隙間がありますが、右(イラン)のにはないです。
どうやらイランのは、この金砂子部分のみ、別画像で合成しているようです。

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分かりやすいのがこの絵。
(左がイラン、右がアメリカ)
これは、本来はマージンの金砂子がない絵です(制作時期のずいぶん後になってから描かれて追加されたという説あり)。
この絵についても、イラン版は金砂子をつけて、画集として統一感をつけているようです。


three-versions-of-shahname-of-shah-tahmasp
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砂子の色合いに引っ張られてか?、絵の色合いもちょっと違います。
上がアメリカ、下がイラン。
アメリカの方がゴージャス・ゴールドな感じで、イランのはちょっと涼しいというかさみしい色合いです。
(どちらが原画に近いのか、見たことがないのでよく分かりません)


three-versions-of-shahname-of-shah-tahmasp

さて、大きい本。
これは、でかい。
とにかく圧迫感があります。
もはや持ち上げるのは厳しく、机の上をずりずり引っ張るのですが、それでも大きい。
そして、1ページをめくるのも、なんか体力が必要な感じです。


この本のサイズが、45.7cm×30.5cm。
(中にある紙のサイズは本の表紙より少し小さくなりますよね)

でもって、原画のフォリオ(紙)のサイズが、47 cm×31.6 cm。
(製本されていた本のサイズはもう少し大きかったでしょうね)
この豪華本は、気持ち小さ目ですが、ほぼ原画をめくっている気分が味わえる本です。

納品された王様(もしくは王族の誰か)は、こんな大きな本、きちんと読んでくれたのかなあ。
書見台に置いて奴隷にめくらせたのだろうか。
(発注したタフマスプ王は納品時には写本に興味を失っていたという説も・・・切ない・・・)

three-versions-of-shahname-of-shah-tahmasp

見開いてみるとこんな感じ。
ページ四辺に余白があり、フォリオ全体が見えるようなイメージです。
(この余白もあるので、縮小率は90%くらいかな?)
本来は、見開き右側の絵は右にマージン多め、などの法則があったはずですが、ページを詰めて収録しているので、マージンのバランスはもとの本の見栄えとは違っていると思います。

three-versions-of-shahname-of-shah-tahmasp

同じ絵を、アメリカ版の小さい本でみたのがこちら。
上端と横端(綴じ代でない断端)に余白をつけず、金砂子でカットしていることで、絵に没入しているような印象が強まります。


でね、大小の版を見比べると。

three-versions-of-shahname-of-shah-tahmasp

原画が、無駄(←失礼)にマージンが大きい場合があるせいで、こんな風に、小さい版の方がむしろ拡大されてしまっている、(老眼にはうれしい)絵もあったりします。
(マージン幅は統一されていないので、絵による)

これはびっくり。
豪華大型本はさぞかし立派な、と思っていましたが、マージンが大きいし本は重たいし、小さい版で十分楽しめるということが分かりました。



画質なのですが、イランの版は(おそらく予算苦の割には)相当善戦しているとは思います。全ての絵について、METと画質はほぼ同じで、ものによりやや劣るものもあったりしました。やや勝るものも数点。(画質よりも、色味の違いの方が気になりました)

このイラン版を買えて大満足です!

でも。
テヘラン近代美術館(TMOCA)は、100枚以上の原画を所蔵しているはずです。
それらに関しては、自分のところで写真をとって製版し放題な訳ですよね。
自館所蔵の絵なのにこの画質?と思うものもありました。
もしそうしていたら、METのを超える、本当に世界一の画集にできたはずだなーと思いました。

こういう本を、もう一度出版する、というのは相当難しそうです。
(特にいまイランは経済的に不安定のようですし・・)
どんな手段を使ってでも(大金持ちに寄付を求めるとか)、この一回目のときに、あとちょっとコストをかけて頑張っていたら、と思ってしまいました。




■■参考資料

(1)アメリカの大きい方 2011
The Shahnama of Shah Tahmasp : the Persian book of kings introduction
by Sheila R. Canby ;
[edited by Philomena Mariani] Metropolitan Museum of Art ,
Distributed by Yale University Press, c2011 : Yale university press
Ciniiリンク)(Amazonリンク
出版社 ‏ : ‎ Metropolitan Museum of Art; Slp版 (2011/11/29)
発売日 ‏ : ‎ 2011/11/29
言語 ‏ : ‎ 英語
ハードカバー ‏ : ‎ 288ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 0300175868
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0300175868
寸法 ‏ : ‎ 45.72  x 30.48 x 4.45 cm

 

(2)アメリカの小さい方 2014
The Shahnama of Shah Tahmasp : the Persian book of kings
Sheila R. Canby ; [edited by Marcie M. Muscat] Metropolitan Museum of Art ,
Distributed by Yale University Press, c2014
: Metropolitan Museum of Art: Yale University Press
Ciniiリンク)(Amazonリンク
出版社 ‏ : ‎ Metropolitan Museum of Art (2014/4/29)
発売日 ‏ : ‎ 2014/4/29
言語 ‏ : ‎ 英語
ハードカバー ‏ : ‎ 360ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 0300194544
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0300194548
寸法 ‏ : ‎ 33.02 x 24.77 x 3.81  cm

(3)イランの大きい方 2013
AbeBooksリンク)(イランの書店?daybookのサイト
Hardcover ISBN 10 ‏ : ‎ 9642321882  
ISBN 13 ‏ : ‎ 9789642321889
Publisher: Tehran Museum of Contemporary Art (TMOCA), 2013
ページ数  イラスト430ページ(カラー)
ISBN 9789642321889
重さ 1500グラム
大きさ 48 x 33 cm
掲載されている細密画は全てではない

(4)イランの小さい方 2021
Amazonリンク)(イランの本屋さん?のサイト
Publisher ‏ : ‎ Tehran Meuseum of Contemporary Arts; First Edition (January 1, 2021)
Language ‏ : ‎ Persian
Hardcover ‏ : ‎ 335 pages
ISBN-10 ‏ : ‎ 6009347645
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-6009347643
Reading age ‏ : ‎ 15 years and up
Item Weight ‏ : ‎ 3.08 kg  /6.8 pounds
Dimensions ‏ : ‎ 33.02 x 25.4 x 3.81cm

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その11

2022-08-11 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
本文は、今回でようやく終わり!
長かった・・・。
(無理矢理つきあわされているみなさんは、もう飽き飽き??ごめんなさーい)

絵のここがこう描かれてて、など実際的な話を期待していたのですが、
はからずも、サファビー朝写本絵画の概要を、結構しっかり勉強させて頂きました。主要な写本の情報もあったりして、自分で検索しまくるよりやはり専門家のガイドがあると知識を得るのに効率的だなと思いました。

とりあえず訳していくのに精一杯だったので、これから過去の本文を読み返して多少直しを入れていこうかと思います。
リンクなども追加したり。

a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死

○タフマスプの気鬱
タフマースプは、その偉大な庇護の時代から数年間、特に1550年代前半[30歳代後半]には、統治において並外れた高みに達したが、その後、気分が沈んでいったようである。彼は、かつて良いワインを吹き出したきらめく噴水であったが、今は濁った水をためているようなものだった。寛大で、楽しいことが大好きで、人なつっこい王が凍りついてしまったのだ。
彼の心の中には、かつての笑い上戸で時折恍惚とした表情を見せる青年がまだ存在していたのだが、今では目も耳も口も塞がれた。その若者は、自分の心の中にいる、不機嫌だが有能な空っぽの男たちからなる陰気な兵士達によって、自ら投獄されていた。彼らは髑髏の塔を建てることができる残忍な将軍であり、世俗の汚物や宗教的異端による汚染を恐れる、罪悪感にさいなまれた純粋主義者、嫉妬深く愛されない恋人、そして税金を払うことに熱心な守銭奴でもあり、その見かけの気前良さには強欲が隠されていた。 

時折、内なる少年が目を覚ます。それは、国王が自ら閉じこもった病院のような無菌の宮殿の中でさえも垣間見える。
かつて意気揚々としていた中年の王は、孤独で、まだ未熟な少年であり、偉大な王になることに恐れをなしていた。男としての自分を受け入れられず、成長することも、人に認められることもできなかった。かろうじて生きている少年と、彼が擬似的に作り出した自動人形たちとの間で綱引きが行われ、ひどい内紛が起こった。

○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
少年が勝つと、彼のお気に入りの甥スルタン・イブラヒム・ミルザが彼の長女と結婚したときのように祝宴が開かれた。スルタン・イブラヒムは『Haft Awrang』の後援者でもあった。
しかし、哀れな甥は、妬みと憎しみをあおる気難しい「男たち」の内面に打ち負かされる運命にあった。ひととき、王が寛大な心になって、自分の内なる少年の同志であるイブラヒム・ミルザをマシュハドの知事に任命しても、結局は嫉妬によってその動きは打ち消された。また、イブラヒム・ミルザが大作のために残りの王室画家を雇うことを許されたとき、冷酷で自動的な嫉妬は、彼らが宮殿での通常の仕事を与えられないにもかかわらず、画家たちを取り戻したいと思ったのである。その頃の宮殿は、正統主義の名のもとに、あらゆる種類の喜びが追放されていたのに。

叔父と甥の間には固い友情があったが、その関係は大変なものだった。タフマースプ王は贈り物をし、イブラヒムはそれを受け入れた。愛と憎しみの間で揺れ動く王は、贈り物の返還を要求する。甥は困惑し、怒った。彼は風変わりな叔父を揶揄する詩を書いた。ある時、王が宮廷音楽家を全員解雇し、そのうちの一人を殺すように命じたとき、イブラヒムは地下の部屋を用意して彼を守った。常に罪の意識はあった。

○中年期のタフマスプの揺れる心
国王の苦悩する潜在意識は決して平穏ではなく、ときに昼は沈黙しても、夜になると滔々と演説することがあった。ある夢の中で、彼の良心は、宗教的な法律で正当化されない税金はすべて取り消すべきだと宣言した。消費税や通行税は翌日には払い戻された。

暗い時代だった。一人の人間が支配する社会では、その人間の気分は彼の影響力の及ぶ範囲に蔓延する。それ以前の非常にエネルギッシュな国王がイランを真に支配していたのに対し、内向し、自らを閉じ込め、自らを弱めた国王は、体制を泥沼化させた。おそらく直感的に、より傷つかないようにと引き下がったのだろう。宮廷の仲間内では、王の恐怖との闘いが深い影を落としていた。1572年[58歳]、北の空に緑色の奇妙な光が見えたとき、悲観的な解釈しかできなかった。かつて勝利を謳い、愛を讃えた詩人たちが、今は王命によってシーア派の殉教者の痛ましい苦悩を挽歌に託している。愛は、国王の怒りから逃れた隠れた歌手のように、地下に潜らざるを得なかった。 


○晩年のタフマスプ

老いはしばしば、悩める人々に安らぎをもたらす。 シャー・タフマースプもその一人だった。
彼は生涯を通じて、危機に瀕したときに病気になる傾向があった。最も活躍した時期の前には、身体の不調があった。そして、1574年[60歳]、彼は再び病に倒れた。このとき彼は、体力を奪うと同時に安らぎを与えるこの病気から、豊かなものを得たように見える。不安な少年は、魔法のように満ち足りた老人に変身した。それまで真の寛大さをもって与えることができなかった王は、少なくとも善良な精神をもって受け取ることができるようになった。彼は、以前の不幸の痛みを和らげる忘却の時に入ったのだ。今、彼は許し、幼い者と老いた者のために用意された無邪気で愛情深い喜びを味わうことができる。子供のように、理屈や思考に頼らなくてよいのだ。彼は直感に導かれ、受け入れ、愛し、楽しむことができるようになった。病気と時間が、彼に無私を強いたのだ。 

この晩年は、活動的ではなかったが幸せだったに違いない。おそらく幼少期以来、最も幸せな時期だっただろう。彼は何かをしなければならないという強制はなかった。ただ宮殿でやすんだり、おそらくは多くの孫を伴って、常に心満ち足りる憩いの場所であった庭園を散策したりしていた。この時期は、具体的な意味での創造性はなかったが、早々と老け込んだ老人は、長年の自己否定で失われた人や物に対する感性を取り戻したのだろう。

○タフマスプ治世最晩年の細密画
シャー・タフマースプの最後の2年間については、推測するしかない。この時期も絵画の創作活動が行われていた可能性は高いが、それを示す主要な写本は残っていない。スルタン・イブラヒムは再び一流の芸術家を雇える立場にあり、老いた王は甥の関心に触発されて、芸術に対する熱意を取り戻したものと思われる。この時期には、まだ主要な画家の一人であったミルザ・アリ[スルタン・ムハンマドの息子。wiki]による見開き二枚組の風景画が描かれていたと思われる(図17)。これらの場面を『ハフト・アウラング』の場面と比較すると、痛みや辛さがないことに驚かされる。国王の性格が穏やかになった今、シェイク・ムハンマドの辛辣な描写は過去のものとなった。その代わりに、私たちは共感と理解を見出すことができる。フリーアの細密画では不吉な印象のある曲がりくねった線が、ここでは成長のための緩やかな曲線を描いている。

Hunting-scenes-double-page-miniature Hunting-scenes-double-page-miniature

図17 狩猟の情景  ミルザ・アリ作 2枚組細密画 1570年頃 
左ページ:メトロポリタン美術館(12.223.1 ) , ロジャース基金 , 1912. 
右ページ:ボストン美術館。 フランシス・バートレット寄贈・特別絵画基金、1914年 受入番号 14.624

○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死
1576年5月4日、国王は62歳で死去した。宮廷内に控えていた権力者たちの派閥が、宮殿の敷地内で公然と争った。スルタン・イブラヒムは、自分を後継者とするよう国王に迫ったらしいというのだ。このため、彼は投獄され、シャー・イスマイル2世[シャータフマスプの息子。スルタン・イブラヒムのいとこで、妻の兄]によって処刑された[1577年]。彼は死ぬ前に、それだけで赦免が不可能であることを確実にするような激烈な告発文を書いている。

[1577 年 2 月 23 日、]彼が37歳で殺された後、彼の妻であるガワール・スルタン・ハヌム王女は、彼が集めた素晴らしいアルバムを彼女の元に持ってくるように命じた。それを知っていたはずのガジ・アフマド[wiki]によると、そのアルバムには「巨匠の書写作品やビフザドなどの絵画が収められていた」という。年代記の作者はそれを詩で賞賛している。

清潔さと区別の観点からすると 
その中に魂以外のものを見出すことはできないだろう。 
花のイメージと鳥の形のために 
秋風に汚されない楽園であった。 
そのバラやチューリップの茎や花びらの数千は 
嵐や雹の害を受けない。 
太陽のような顔をした若者たちは、恥ずかしさのあまり、会話の中で唇を閉じてしまった。 
唇を閉じて会話していた。 
彼らは皆、戦争と平和のために団結している。 
偽善と汚辱に満ちた世界の住人のようではない。 
昼も夜も同じ宿舎の仲間。
不和のない交わりをする者たちである。

アルバムが持って来られたとき王女は、
「これが兄シャー・イスマイル[2世]の目に触れないように、水でアルバムを洗い流してください」
と言ったという。

二人の創造的なパトロンたち―ひとりは若くもうひとりは年老いた―の人生が、斯くのごとくして死によって綴じあわされたのである。



■■参考情報
■その5に出てきたウプサラ大学蔵『ジャマール・ウ・ジャラール』写本
ハーバード大学のHOLLIS Images から書物の番号(HOLLIS Number)8001266923で検索するとこの写本の挿絵カラー写真が出ます。
(検索欄に画像IDを入れてもヒットしますが、画像でなく書物全体)
各フォリオ、全体図や部分それぞれ何枚も撮影され、フォリオ順などとは関係なくランダムに並んでいます。
画像はのべ200枚ほどもあるのに、検索・ソートはなし。
フォリオの順を追って一通り見られるように、整理してみました。
先頭の括弧数字はDB内でつけられている画像の連番。
(ストーリーのあらすじがどこかで読めないかと思っていますがみつかりません)

(126)f. 2v: ソファに座るスルタン  SCW2016.07318 画像ID 19303632
(144)f. 3v: スルタンが宰相に話しかける SCW2016.07320 画像ID 19303634
(12)f. 5r: アドバイスをするディンダル  SCW2016.05358 画像ID 17932425
   (余白なしの全ページ絵!めずらしい)
(94)f. 8b:ジャハングスターが助言する SCW2016.05276 画像ID 17932342
(95)f. 15a: Mihr-i-rai がが助言する SCW2016.05277 画像ID 17932343
(8)f. 17a: ムダビールが助言する SCW2016.05360 画像ID 17932427
(93)f. 19b:ペリスの中のジャラル SCW2016.05275 画像ID 17932341
(17)f. 20b: 糸杉の前のジャラル SCW2016.05353 画像ID 17932420
(84)f. 21a: ツゲの木の前のジャラルとオウムになったジャマル SCW2016.05266 画像ID 17932332
(86)f. 21b: 糸杉の前のジャラルと雌鳩のジャマル SCW2016.05268 画像ID 17932334
(105)f. 24b: ジャラルと彼の使用人ファイラスフ SCW2016.05287 画像ID 17932353
(19)f. 25b:戦闘シーン(開きの右) SCW2016.05351 画像ID 17932418
(186)f. 26a:戦闘シーン(見開の左) SCW2016.07345 画像ID 19303659
(97)f. 32b: 白檀の木の前のジャラル SCW2016.05279 画像ID 17932345
(108)f. 33b: ジャラルとヒューマ SCW2016.05290 画像ID 17932356
(34)f. 35v: 高い城の前のジャラル SCW2016.05336 画像ID 17932402
(65)f. 41r: 鬼が殺される SCW2016.10009 画像ID 20331789
(155)f. 43a: バラの木がジャラルと愛について語る SCW2016.07353 画像ID 19303667
(32)f. 46b: ブティ・ザバルジャードとジャラル SCW2016.05338 画像ID 17932404
(68)f. 50a: ジャラルが竜魔サガルを倒す SCW2016.10016 画像ID 20331796
(37)f. 55b: ジャラルが悪魔シャムタルを殺す SCW2016.05333 画像ID 17932399
(39)f. 57b: ターコイズドームの前のジャラル SCW2016.05331 画像ID 17932397
(41)f. 59b: ジャラル、四山に到達 SCW2016.05329 画像ID 17932395
(43)f. 61r: 神秘の木の前のジャラル SCW2016.05327 画像ID 17932393
(181)f. 61a: ジャラールは、頂上に女性の頭がある 4 つの山に到達する SCW2016.07364 画像ID 19303678
(61)f. 65a: 回転ドームの王の前にジャラルが乗る SCW2016.10005 画像ID 20331785
(45)f. 66b: 愛に燃えるジャラル、水銀の海にたどり着く SCW2016.05325 画像ID 17932391
(49)f. 70a: ジャマル城の前のジャラル SCW2016.05321 画像ID 17932387
(102)f. 71b: ジャマルに手紙を書いているジャラル SCW2016.05284 画像ID 17932350
(62)f. 80a: Maimun が Pirafgan の前に Jalal を連れてくる SCW2016.10006 画像ID 20331786
(52)f. 88b: ジャラルがピラフガンを殺す SCW2016.05318 画像ID 17932384
(55)f. 91a: ジャラルとディルシャッド SCW2016.05315 画像ID 17932381
(76)f. 92b: Farrukhbakht がジャマルの隣の玉座にジャラルを座らせる SCW2016.10020 画像ID 20331800
(69)f. 94a: ジャラルがジャマールを抱きしめる SCW2016.10019 画像ID 20331799
(54)f.  96b: ディンパルバーがジャラルにアドバイス SCW2016.05316 画像ID 17932382
(78)f. 97v: ジャラルが洞窟の賢者ディンパルバーを訪ねる  SCW2016.05312 画像ID 17932378
(67)f. 108a: ジャラルの死 SCW2016.10017 画像ID 20331797

■その5に出てきたトプカプ・サライ美術館蔵(Hazine 762)
ニザーミ『カムセ』写本(1475–1481頃制作)
パトロン:ティムール朝の王族で、大ホラサン地域の領主 アブー・カシム・バブール・ミルザ(治世1449–1457)(父親はやはり芸術のパトロンのバイスングル)(wiki)と、
白羊朝5代君主、スルタン・ハリル(治世1478年1月-7月)(wiki

ハーバード大学のHOLLIS Images(HOLLISではダメ) から書物の番号(HOLLIS Number)olvwork49227 で検索するとこの写本の挿絵カラー写真が出ます。
(検索欄に画像IDを入れてもヒットしますが、画像でなく書物全体)
先頭の括弧数字はDB内でつけられている画像の連番。

(98)見開き口絵、右側 SCW2016.02387 画像ID 16198879
(97)見開き口絵、左側 SCW2016.02388 画像ID 16198880
ー●謎の宝庫ーーーーー
(88)f. 12rスルタン・サンジャルと老婆 SCW2016.02397 画像ID 16198889
ー●ホスローとシーリンーーーー
(86)f. 38v ホスローはシリンの入浴をスパイ SCW2016.02399 画像ID 16198891
(83)f. 46r ホスローはライオンを素手で殺してシーリンを救った SCW2016.02402 画像ID 16198894
(110)f. 51v 戦闘中のホスローとバフラム・チュビン SCW2016.00939 画像ID 14174641
(77)f. 69r シリンと彼女の馬を運ぶファルハド SCW2016.02409 画像ID 16198901
(76)f. 82v シリンの宮殿を去るクスラウ(未完成) SCW2016.02410 画像ID 16198902
(114)f. 89v クスローとシリンの結婚(余白なし全面絵) SCW2016.00928 画像ID 14174630
ー●ハフトペイカール(七人の美女)ーーーー
(69)f. 163v 彼の従者に囲まれた牧草地に即位したバーラム SCW2016.02417 画像ID 16198909
(66)f. 167r バフラムは、若い子牛を運ぶフィトナを観察します SCW2016.02420 画像ID 16198912
(11)f. 170v の詳細図。グリーン パビリオンのバフラム グル(全体図はログインしないと見られない) SCW2016.00943 画像ID 14174645
(63)f. 171v ブラック パビリオンのバフラム グル SCW2016.02423 画像ID 16198915
(62)f. 177v イエロー パビリオンでムーア人の王女とバフラム グル SCW2016.02424 画像ID 16198916
(59)f. 180v グリーン パビリオンのバフラム グル SCW2016.02427 画像ID 16198919
(57)f. 183v レッド パビリオンのバフラム グル SCW2016.02429 画像ID 16198921
(105)f. 187r ブルー パビリオンのバフラム グル SCW2016.00950 画像ID 14174652
(19)f. 191r サンダルウッド パビリオンのバフラム グル (緻密で見応えあり)SCW2016.00926 画像ID 14174628
(50)f. 196r ホワイト パビリオンのバフラム グル SCW2016.02436 画像ID 16198928
ー●イスカンダルナーマーーーー
(46)f. 233r 瀕死のダラを慰めるイスカンダル SCW2016.02440 画像ID 16198932
(108)f. 244r 肖像画からイスカンダルを認識するヌシャバ SCW2016.00947 画像ID 14174649
(38)f. 285r 羊飼いと会話するイスカンダル SCW2016.02448 画像ID 16198940

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その10

2022-08-10 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

本文は、今回で終わりそうと思いましたが、文字数制限の関係でその11までになりました。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死


○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
タフマースプの絵画に対する姿勢は、未熟な少年がヘラートで触れたビフザドの様式に感心したことに始まる。タブリーズに戻ると、まだ多感な王子は、父親が庇護する全く異なる流派を知ることになる。この2つの流派が出会い、融合して、後にカムセとシャー・ナーメの傑作となる総合的なスタイルに昇華したのである。やがてシャー・タフマスプは、技術的に完成され、知的で、繊細で、新しい考え方に抵抗のある芸術、つまりアカデミックな傾向のある芸術を賞賛するようになっていった。タフマスプが少年時代に没頭した絵画は、かつて彼の個人的な欲求を満たすためのものだった。しかし、青年になると、絵画を愛するパトロンになる必要はなくなった。彼の感情には、別の出口が必要だったのだ。 

スルタン・ムハンマドは絵画の創造性によって真の満足を得たが、王はそうではなかった。未熟なときの彼は、自分の感情を芸術の流派の形成に注ぐことができたが、苦悩と挫折を伴った成熟への課程は、彼に完全な幸福をもたらすことはなかった。彼の道は、恐怖を愛に変えることができる、歓びに満ちた庭園の輝く宮殿に至るのではなく、砂と灰に行き着くのである。シャー・タフマースプは、人間も芸術も、生者も死者も愛せなかった。彼の人生の中で最も幸福で、自信に満ち、創造的であったはずの年月は、かえって苦いものとなってしまった。彼は正統派[十二イマーム派]に帰依した。すべての人に与えられている自然な愛が、彼の中で枯渇してしまったのだ。憎しみと欲望だけが残り、それをコントロールするには、厳格な自己規律と死を招くような自己監禁をするしかなかった。
1556年[42歳]以降、タフマースプ王は一度だけガズヴィーン[1555-1598の間のサファビー朝の首都]の王宮の周辺を離れたことがある。もともと彼は生涯を通じて罪の意識に苛まれていたが、中年期には更にワインやその他の快楽を断つことが多くなった。また、悪夢にうなされることもしばしばであった。このような不幸は、おそらくずっと前に負った心の傷からきているのだろう。彼の人生は、世俗的な権力は十二分に与えられたが、幼い頃に愛を否定された男の悲劇であった。 

○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
その代償として、彼は芸術に目を向けた。この献身的な活動を証明する最も説得力のあるものは、彼のかかわった絵画そのものである。そして更に、文献による記述もある。もちろん、これらは適切に評価されなければならない。作家の中には、特にサファヴィー朝に仕えた作家にとっては、お世辞が目的であったかもしれない。また、時に嫉妬深く、常にライバルであった弟のサム・ミルザのコメントのように、才能や興味を認めただけの言葉は、過小評価であると考えられる。 

カディ・アフマッド[ペルシャの作家・書家。1547-?。wiki]は、おそらく正直な報告者であろうが、「この高貴な陛下は、自分がマスターしているこの不思議な細工の芸術に大いに傾倒していた......」と伝えている。 「シャー・タフマスプは、最初はナスターリク文字と絵画の習得に没頭し、それらに時間を費やした。彼は、図面と絵画のすべての芸術家の上に立つ比類のないマスターになった......。(そして)10万の賞賛と賛辞に値する」。
 16世紀後半の芸術家であり、芸術に関する著述家でもあるサディキ・ベグ[wiki]は論争好きでかなり反抗的な性格の持ち主で社交辞令のために真実を曲げたりしない人物と思われるが、次のように語っている。
「絵画の分野での彼の能力は非常に高く、図書館の主要な巨匠たちは、陛下の修正と承認のために作品を提出するまでは、最後の仕上げをすることができなかったのである」。

オスマン帝国の文人であるアリは、競合する勢力の宮廷人として、素直に感心して書いている。その中には、情報を提供するためというよりは、サファヴィー朝の支配者をけなしして自分のパトロンを賞賛するためという意図の発言もあったが、シャー・タフマスプを「名画家(naqqash-i-mtad)、その芸術性は創造性においてビフザド的」と書いたことは間違いなく偽りのない見解であっただろう。「これは、彼がアブド・アル=アジズ[ʿABD-AL-ʿAZĪZ B.]のもとで修行したことに起因すると同時に、絵や絵画の優れた目利きから得た自然な喜びでもあるのだ」と書いている。
さらに、国王の甥であるもう一人のパトロンについて、こう述べている。1556年から65年にかけて制作された『ハフト・アウラン』の制作者であるスルタン・イブラヒム・ミルザ[wiki]について、アリは、彼とシャー・タフマスプを「さかのぼっては、栄光のジャライル朝[1336年 - 1432年。イルハン朝の解体後にイラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラーム王朝。最終的には黒羊朝やティムール朝、白羊朝の間で埋没していった。wiki]を継ぐスルタン・ウヴェイス・バハドウル[ジャライル朝の第2代君主で、実質上の建国者(在位:1356年 - 1374年)シャイフ・ウヴァイス一世のことか。この時期の首都はタブリーズ。wiki]と、ティムールの系統を継ぐミルザ・バイスングール[ティムール朝第三代君主の息子。wiki]といった芸術における王子の先駆者にのみ与えられていた稀な功績を有する」と評している。「サファヴィー朝の王子たちが芸術の領域で見せた洗練された技術と比類なき偉業は、まさに唯一無二のものとして世界的に認められているのです」。

○青年期以降のタフマスプの精神的問題
また、オスマン帝国の作家は、国王の芸術性を心から賞賛しながらも、噂話をしないわけにはいかなかった。彼は、国王のお気に入りの小姓の一人が、国王の絵画の師匠であるアブド・アル=アジズとその弟子のアリ・アシュガーに連れ去られた逸話を語っている。王室印章の盗難、偽造文書への使用、逃亡と追跡、犯人の逮捕と投獄、そして激怒した王自身の手によるアブド・アル=アジズの鼻と耳の切断という陰惨なエピソードである。少年は許され、アブド・アル・アジズの芸術性が発揮された。彼は自分で木彫りの新しい鼻を作ったが、それは王室のナイフで失ったもとの鼻より立派なものであったと言われる。 

この事件については、王の弟サム・ミルザも1550年[タフマスプ36歳]に言及しているので、それより前のことである。この頃までには、シャー・タフマースプの芸術に対する目利きに関するこの弟のコメントは、過去形で語られるようになっていた。他の作家は、彼が徐々に芸術への関心を失い、拒絶するようになったことを語っている。
例えば、カディ・アフマドは、シャー・マフムード・ザリン・カラーム[ザリン・カラームは黄金の葦ペンの意]という書家に関連して、彼の心変わりに言及している:
「しばらくの間、彼は首都タブリーズに居住していた。... 書道と絵画の分野に飽きたシャー・タフマースプが、国の安寧と臣民の平穏という重要な国務に専念するようになると、マウラーナ(師)は許可を得て聖地マスハドにやってきた。そこで彼は20年ほど暮らした。」
カーディ・アフマドも、この書家が1564/65年にマシュハドで亡くなったと伝えているので、国王が心変わりしていったのはその20年前、1544/45年頃[タフマスプ30/31歳]であったのだろう。 

○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
シャー・タフマースプの治世に現存する最後の大写本であるフリーア美術館所蔵の『ハフト・アウラング』[七王座]は、彼のために作られたものではないが、これが制作された1556年から65年までの彼の精神が多くの点で反映されている[タフマスプ42-51歳]。この写本のシェイフ・ムハンマドによる細密画は、この時期の様式をよく表している(図16)。

Majnun-visiting-Layla

図16 メジュヌンがライラを訪れる シェイク・ムハンマド画 
ジャーミの『ハフト・アラン(七王座)』 1556-65年作
フリーア美術館蔵[F1946.12.253。画像はwikidataより。是非どちらかで拡大画像を見てみて!
天幕へり布の大胆な幾何学模様と細かなアラベスクの対比がすごい・・・]


科学者が悪性組織の完璧な標本を顕微鏡で覗き込むように、私たちは慎重にこの絵に近づく。この絵は、この種のものとしては素晴らしいものであることは間違いない。だが、物語の筋書きは混乱を極め、たくさんの猥雑なエピソードの中で迷宮入りしているように見える。貞淑な王女、邪悪な召使いと女中、堕落した少女や少年たちが出演しているのだ。駱駝は化粧をした娼婦のようであり、馬は悪魔の愛人にしか似合わない馬である。この偉大な芸術家の輝かしい作品は、苦悩しているとはいえ、プルーストの雰囲気のようなものを呼び起こさせる。この作品にはウィットがあり、それは登場人物にぴったり合っている。鋭い観察眼を持つ廷臣のウィットであり、道徳家であり、宴の参加者でもある。彼はワインが酢であることを指摘したが、それを飲んだ。 

○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン』(1556-65作)の比較
驚くにはあたらないが、この絵は最終的に、[サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)で]スルタン・ムハンマドが描いたアリの神格化を告げるガブリエルの絵(図8)と同じように、ほとんど同じ手段で私たちを感動させるのである。先の絵の空間(運河と木々の関係に注目)は、馬やラクダがどこからともなく飛び出してくるこの絵と同様、論理的な空間ではないのである。どちらの絵でも、人物は互いに不可能な関係で立っており、プロポーションも奇妙なほど一定していない。両者とも、知的さと静謐さは同じ程度に欠落しているか、あるいは存在している。しかし、先の絵が単純で無邪気で、頂上に向かって上昇する意欲に満ちているのに対し、後の絵は複雑な罪悪感に苛まれ、意図的に忘却の彼方へと向かっているのだ。共感を呼ぶ身体感覚は取り戻されているが、それは健全さよりもむしろ苦痛をもたらすようになった。ガブリエルは明るく新鮮で未熟な生々しさを、マジュヌンでは黒が混じり、不潔で過熟なほろ苦さを与えているのだ。 

この2つを形式的に比較すると、また別のことがわかる。前者は構成が頑丈で、よく編み込まれ、筋肉質で、事実上若々しい。後者はのびやかで、弛緩した老成したものである。テント柄には目を見張るような激しい菱形、斜線、縞模様があるが、全体の効果は外側に回転する運動のようなものである。デザインの要素は、ガブリエルのように集まっているのではなく、分散しているのだ。芸術はもはや盛りを過ぎて種となっており、この絵に見て取れる渦巻く力は、その種をまき散らす風の象徴といえるかもしれない。運が良ければ、数粒の種が肥沃な土地に降り立ち、育まれる。これは芸術の自然な再生産の一つである。このような細密画から、また新しいサイクルが始まるかもしれない。


■■参考情報
■シェイク ムハンマド:画家ダスティ ディヴァネの生徒であり、シャー タフマースプのシャーナメに取り組んだ最年少のアーティストの 1 人であった

■フリーア美術館にある1556年から65年までのJamiのHaft Awrangの写本(302ページ)の挿絵
この写本は、サファービー朝写本のベスト5入りかつ最後の大作のようです。
確かに、挿絵の数が多いし、見惚れるものが沢山。特にテントの色使いが大胆で素敵。
あと、よくわからないけれど、テントや服など布の描写が、他と違う気がします。ふっくら感や布のヒダが、比較的リアルです。

Haft awrang(7つの玉座)からのSilsilat al-dhahab(金の鎖)
F1946.12.10(賢い老人は愚かな若者を叱る)
F1946.12.30(堕落した男は獣姦を犯し、サタンに殴られる)
F1946.12.38(素朴な百姓は、セールスマンに自分のすばらしいロバを売らないでほしいと懇願する)
F1946.12.52(父親が息子に愛について助言する)
F1946.12.59(修道士は最愛の人の髪をハマムの床から拾い上げる)
F1946.12.64(盗賊がエイニーとリアのキャラバンを攻撃)

Haft awrang(7つの玉座)
F1946.12.100(アジズとズライカがエジプトの首都に入り、エジプト人が彼らに挨拶するために出てくる)
F1946.12.105(ユースフが井戸から助けられる)
F1946.12.110(ユスフは群れの世話をする)
F1946.12.114(ユスフはズライカの庭で娘たちに説教する)
F1946.12.120(幼い証人はユスフの無実を証言する)
F1946.12.132(ユスフは彼の結婚を記念して王室の宴会を開く)
F1946.12.147(グノーシス主義者は、天使が光のトレイを詩人サディに運ぶというビジョンを持つ)
F1946.12.153(ピルはプレゼントとして持ってきたアヒルを拒否する)
F1946.12.169(アラブ人がゲストを非難する)
F1946.12.179(町人、村人の果樹園を襲う)
F1946.12.188(ソロモンとビルキスは一緒に座り、率直に話し合う)
F1946.12.194(サラマンとアブサルは幸せな島で休む)
F1946.12.207(ミューリドはピルの足にキスをする)
F1946.12.215(亀の飛行)
F1946.12.162(気まぐれな古い恋人は屋上から落とされる)
F1946.12.221(東アフリカ人は鏡で自分自身を見る)
F1946.12.231(Qays(Majnun)レイラを初めて見る)
F1946.12.253(Majnun は Layli のキャラバンのキャンプに近づく)
F1946.12.264(Majnun は羊に変装した Layli の前に来る)
F1946.12.275(預言者の昇天)
F1946.12.291(Khusraw Parrizand Sirin は魚屋と取引する)
F1946.12.298(イスカンダルは鼻血に苦しみ、休息する )


ペルシャ細密画に登場する植物について

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その9

2022-08-08 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

本文は、今回とその次でようやく終わりそうと思いましたが、文字数制限の関係でその11までになるかも。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死



○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
ホートンの写本の最後期に描かれた細密画をできるだけ知るためには、1539年から43年にかけての大英博物館の『カムセー』[or.2265挿絵リスト]に目を向ける必要がある。この本は、バフラム・ミルザのアルバムでダスト・ムハマンドがホートン写本とともに紹介したものに違いないが、有名な書記のシャー・マハムード・ニシャプリが書写したもので、彼もまたShah-namehを執筆した可能性がある。シャー・タフマスプの名前は、『カムセー』の序文と宮殿の壁に描かれた細密画の中に登場する。現存するものでは、14枚の同時代の細密画と、17世紀後半に画家ムハマド・ザマンによって追加された3枚の細密画がある。
全体的に、絵の状態はホートン本に比べるとあまりよくない。顔料の酸化(一般に修復可能な障害)は少ないものの、多くの作品に再加工が施されている。ムハンマド・ザマンは筆を休めることなく、16世紀の宮廷の美女や天使のような美女を現代的なものに変え、中にはヨーロッパ風の顔をしたものもある。過剰な扱いによって、手直しされた時のカムセーは、やや残念な状態であったに違いない。

理由はともかく、細密画のほとんどに、17世紀末のスタイルで、元の縁取りよりはるかに精巧でない、新しい図像の金彩縁取り画が施された。特に輪郭が不規則な細密画の周辺では、こうした置き換えが特に目立ってしまっている[例えば18r。絵の左辺部分に明らかに切り貼りした形跡がみられる。]。また、この本の細密画のいくつかは、行き過ぎた保存修復のために取り除かれてしまったようである。そのうちの1点、Mir Sayyid Aliが描いた「Bahram Chubinehと戦うKhosrow Parviz」は、現在エディンバラの王立スコットランド博物館に所蔵されている[A.1896.70]。また、半分に切断された2枚がフォッグ美術館に所蔵されている。「アレクサンダーの余興」[タイトルがあっていないが上下二つにカットされていることから1958.76か?]と「ナウファル族とレイラ族の会議」[タイトルがあっていないが上下二つにカットされていることから1958.75か?]、これらもミール・サイード・アリの作品である[大英図書館のカムセーの一部かどうかは定まっていない模様]。

『カムセー』の絵のひとつ、フォリオ15vには、1538年の日付と、一部が消された署名が刻まれた壁がある。フォッグの絵の一つを含む他の多くの絵には、スルタン・ムハンマド、アカ・ミラック、ミルザ・アリ、ミール・サイード・アリ、ムザッファール・アリという名前が刻まれている。ただし、フォリオ48vのボーダーを置き換えた部分にある「ミルザ・アリ」だけは例外で、後世の同じ作者によるものと思われる。
これまで見てきたように、サファヴィー朝絵画ではオリジナルの署名は稀であり、画家はもちろんのこと、後援者も、最も賞賛される司書でさえ、細密画を文字で汚すことは許さなかっただろう。名前の伝わっていないこの鑑定家の不謹慎さや、あまり上品でない書法には異論があるかもしれないが、『カムセ』における彼の帰属表記は、内的整合性や他の署名入り作品との比較において、完全に信頼できるものであることが証明されている。

ホートン・シャ・ナーメとは異なり、カムセーは統一され、調和がとれている。また、『シャー・ナーメ』の長所でもあり短所でもある挿絵の多さも、『カムセー』にはない。もし画家AからFがこの本のために描いたとすれば、彼らはより進歩的で賞賛される人物の無名の助手として描いたのである。このことは、1539年までに、技術的な洗練と宮廷の「趣味の良さ」へのこだわりが、最も王道的な写本の挿絵の数に制限を設けたことを示している。高尚な絵画は低俗なものを駆逐したのである。 

芸術と同様に政治においても、その精神はさらに高みを目指していた。正統派が時代の命題だった。1537年に、王と彼の大宰相であるカディ・イ・ジャハン(彼の前のララ、仲間の絵画愛好家、および1523/24ギ・ウ・チャウガンの受領者)は、テヘランに立ち寄り、過激派スーフィズムを裁くために立ち寄った。荒々しく屈託のない芸術家たちと同様、これらのスーフィたちも以前は賞賛されていたことだろう。1541年には、クジスタンにおいて、同様に極端な政治的・宗教的要素を撲滅するためのキャンペーンが行われた。詩の世界でも、恍惚とした幻想的なものが流行らなくなりつつあった。しかし、パトロンであるシャー・タフマースプと支配者であるシャー・タフマースプが異なる考えを持つことを期待すべきだろうか。 

カムセの精神は、描かれた人物の洗練された姿にある程度象徴されており、彼らはその時代の理想像とみなすことができる。私たちは二代目の、あるいは三代目の宮廷を見ているのである。初代は戦いに勝ち、権力を掌握した。その権力を守り、確保した今、それを享受する時が来たのだ。カムセで出会う人々のほとんどが、宮廷人である。 
王女や王子、侍従、花婿......その豪華な衣服は、仕立て屋の軍勢によって縫い上げられたものであるように見える。豪華なものばかりだ。金の玉座、繊細な細工の施された弓のケース(武器も今や貴重な芸術品)、美味な料理が盛られた美しい皿が、雰囲気を盛り上げる。勇敢な戦士の息子たちの心を揺さぶるために、王女は狩場でハープを鳴らす。かつて勇敢に駆け巡り、舞い上がった龍や鳳凰は、今ではしなやかに空を飾っている。
しかし、その前の世代は「古き良き時代」を嘆きながら生きており、カムセの中で優しく揶揄される不機嫌な老兵たちだけがそれを表しているわけではない。スルタン・ムハンマドのような年配の画家は、依然として重要な画家であった。カムセーに見られる新しい総合芸術には、恍惚とした雰囲気が漂っている。 

○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
たとえば、スルタン・ムハンマドの『預言者の昇天』[Or.2265. 195r]は、ビフザドと同様、トルクマン様式、ジャマール・ウ・ジャラル様式、『眠れるルスタム』の流れを汲むものである。この画家は「地下の」スーフィー、つまり野生の聖者を巧みに装った人物になったのである。預言者が人頭の馬ブラクに乗って天空に舞い上がると(図15)、無限の星空よりも近い距離に、水色のオーラに包まれた輝く黄金の月が見える。ムハマドは、おそらく地上の最後の縁取りとして意図されたドラゴンやグロテスクなもので満たされたうねる雲の上に昇り、その中をランプ、天の火の供物、香炉を持った礼拝用の天使が飛んでいる。他の贈り物を持った天使たちも、預言者の周りに揺らめく楕円を構成し、主天使(おそらくガブリエル)が手招きしている。しかし、その神秘的な可能性にもかかわらず、昇天はもっともらしい具体的な言葉で私たちの前に示されている。預言者はサファヴィー朝時代のかぶり物(現在は少し変色している)をかぶり、ブーラクの毛布と天使の衣装はサファヴィー朝王室の工房で作られた最高のものとして描かれているのである。さらに、素晴らしいブーラクは完全に信じられ、空間は説得力を持って定義され、すべてのプロポーションは信頼できるほど自然である。この絵の精神だけが、見る者を天国に近づけるような、別世界のものなのだ。 

The-ascent-of-the-Prophet

図15 ニザミのカムセーから、スルタン・ムハンマドによる預言者昇天の様子。 
1539-43年。 
大英図書館 OR. 2265. 195r 

スルタン・ムハンマドの『シャー・ナーメ』のための最新作『ザハクの処刑』(117ページ, 37v)[Aga khan museum蔵]は、『カムセ』のための細密画と非常によく似たスタイルで、数年以上前に描かれたとは思えないほどだ。トルクマンの影響を受けながらも、竜のような雲、人が住む山、不吉な処刑人、優雅な装束の馬は、カムセの世界に属しており、シャーナーメの初期の絵の階層に属するというよりは、カムセの世界に属している。 

○画家アカ・ミラク
ホートン写本とカムセの両方に携わったもう一人の画家、アカ・ミラクは、第二世代目ではないものの、スルタン・ムハンマドより相当に若かったようである。
彼の作品とされる最古のものは、1523/24年のGuy u Chawganの中にある。最新のものは、フリーア美術館にある1556年から65年までのJamiのHaft Awrangの写本[1946.12.*]に描かれている。 

Aqa Mirakは国王の肖像画家であると同時に、国王の良き理解者であった。彼は、我々の写本の最初の絵である「Firdowsi encounters the court poets of Ghazna」(80ページ,16r)[Aga khan museum蔵]に彼を描いたと思われる。このような細密画の冒頭には、伝統的にパトロンの肖像が描かれており、ここでは他の人物から少し離れたところに立っている人物が、特に豪華な衣装を身にまとっている[黄色いローブに青い袖なしの上着を着たひげのない男性。この絵の完成当時シャー・タフマスプは18歳]。カムセのためのアカ・ミラクの細密画には、同じ人物を描いたものがさらに2点あり、その長くやや垂れ下がった鼻と強くない顎は、シャー・タフマースプの人物の評価と一致している。カムセーに描かれたこの人物は、王族の代名詞として尊敬される伝説的人物、ホスローにふさわしい人物である。 

○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在王とスルタン・ムハンマドは当初、この本が最初から最後まで同じような細密画の連続としてスムーズに進むと思っていたのだろうが、すぐにそうではないことに気がついたに違いない。 
画家たちがいかに早く作業を行っても、量的にこのプロジェクトの要求に追いつくことはできなかったし、絵心のあるパトロンの宮廷で起こっている急速な様式の変化にも対応することはできなかった。この本は、後の国王が1522年にタブリーズに戻った直後に始められたと推測されるが、その最終的な時期を推定するのは難しい。この本は、王が絵画に没頭していた時代、すべてではないにせよ、ほとんどの期間にわたって書き続けられたと思われる。彼は、気が向いたときにいつでもこの本に手を加えることができた。王室図書館でページをめくりながら、突然ミルザ・アリやアカ・ミラクに細密画を描かせることを思いついたのだろう。このように、本書の最初の数枚は年代的にもっとも遅い部類に入るが、本書の最後の絵であるダスト・ムハンマドの戦闘場面(フォリオ745裏)は、様式から見て1530年代前半以前とすることが可能である。 

その結果、様々な様式が混在し、それぞれが王家の美意識と精神的な進歩の段階であり、変化する哲学に沿った表現方法を模索する王家の姿を象徴している。一見すると、無秩序で混乱し、計画性がないように見えるが、実はサファヴィー朝時代の最も才能ある芸術家たちが、精力的で深い関心を持つパトロンの好みを記録するために建てた記念碑なのである。大英博物館のカムセが、王が画家たちと協力して到達した成熟した高みを示しているとすれば、シャー・ナーメは、頂上への道のりを、いくつかの落とし穴を含めて、すべて見せてくれているのだ。時に、苦難な道程の副産物はゴールを凌駕する面白さがある。 

■■参考情報
■大英図書館のカムセーの挿絵リスト(後世の追加挿絵は色を変えています)
●Or. 2265, ff 2v-35r 謎の宝庫
(15v) アヌシルヴァーンとフクロウたち「画家Mīra[k] 946年 (1539/40)」と刻まれている。
(18r) Sulṭān Sanjarと老婆
(26v) 医師たちの決闘

●Or. 2265, ff 36v-128r ホスローとシーリン
(53v) シーリンの入浴を見守るホスロー 絵師:スルタン・ムハンマド
(57v) Khusrawの元に戻るShāpūr。絵師:ミーラク
(60v) クスローの戴冠 絵師:ミーラク
(66v) シリーンの乙女たちによる物語を聞くクスローとシリーン。絵師: ミーラク
(77v) リュートを演奏するバールバドに聞き入るクズロー。絵師:ミルザ・アリ

●Or.2265, 129r-192r ライラとマジュヌン
(157v) 老婆に鎖につながれてレイラーの天幕に運ばれるマジュヌン。絵師:ミール・サイード・アリ
(166r) 砂漠で動物たちと一緒にいるマジュヌーン。絵師: ミーラク。

●Or.2265, ff 193v-259v ハフトペイカール(七人の美女)
(195r)ブラーフに乗った預言者が、ジブラールに導かれ、天使に護衛されて天に昇るところ。
(202v) 一本の矢で驢馬と獅子を射るバフラーム・グール。絵師:スルタン・ムハンマド
(203v) バフラーム・グールは竜を殺す。絵師:ムハマド・ザマーン、「1086年(1675/76)「マザンダラン州アシュラフにて」。
(211r) バーラム・グール(シャフ・タフマースプの肖像)、一本の矢で驢馬の蹄を射てFitnahにその腕前を証明する 絵師:ムジャファル・アリ
(213r)召使の少女フィトナが、牛を肩に担いでバフラーム・グールにその強さを印象付けている。碑文:「最も強力な命令に従って、スレイマーンの時代」。画家 ムハマド・ザマーン、マザンダラン州アシュラフにて、1086年(1675/76年)の日付。
(221v) インドの王女の物語からのエピソード:妖精の女王トゥルクタズの魔法の庭を訪れるトゥルクタズ王。絵師:ムハマド・ザマーン at マザンダラン県アシュラフ、1086年(1675/76年)の日付。

●Or. 2265, ff 260v-396r イスカンダルナーマ
(48v、乱丁) ヌシャバの前で自分の肖像画を見るイスカンダル。絵師:ミルザ・アリ

 

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その8

2022-08-02 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

けっこう時間をかけて調べているのが、文中に出てくる絵を実際に見られるサイト探し。
実物の絵も見ずに、その絵の解説文章を読まされるのってなんか意味ないし、と思って。
で、みつかった場合は、[MET所蔵]などとしてリンクをつけているのですが、
もしかして、まれにこの長い文章を読んでくれる方がいらっしゃるとしても、
リンクは踏まないかも?
絵が見られる場合は、サムネイルとか、入れといた方がいいでしょうか?
(それでもわざわざ見にいかないかな??)
より読みやすくするためのアドバイスがありましたら是非お願いします。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(長い章でした・・・。あと2回分です。先が見えてきた。)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死

○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
1527年頃にディヴァンのために描かれたシェイク・ザデの「モスクでのエピソード」は、サファヴィー朝宮廷で賞賛された、より心理学的志向のイディオムに適合するように、この頃までには作風がいくらか変わっていたことを示している。彼の見事なまでにバランスのとれたモンドリアン風の構図は、精密な技巧とバランスのとれた長方形を駆使しているのだが、進歩的な愛好家にとって魅力的ではなくなりつつあった。シェイク・ザデはスルタン・ムハンマドのようなヒューマニズムを実現しようとしたことは、すでに述べたとおりである。しかし、それは不十分なものだった。 
ザデーの勢いは衰えつつあった。彼の絵と他者の絵の比率は変化していた。1525年に出版された豪華な絵の『カムセー』はほとんど彼の作品であるが、1526/27年の『アンソロジー』には彼の絵は6枚中5枚であり、彼が喜ばせようと大変な努力をした『ディヴァン』では、彼の絵は全部で5枚あるが3対2の割合であった[4枚中1枚だから、3対1では?]。

1527年までにサファヴィー朝宮廷派は、シャー・イスマイルの宮廷で流行していた様式を超えることができない画家や、シェイク・ザデのように一世代前のヘラートの定型を繰り返すことに執着する画家を排除していたのである。Shaykh Zadehの作品は、Houghtonの写本にも、Fogg Divanより後にサファヴィー朝で描かれた他の巻にも見当たらない。
そして次にシェイク・ザデの作品が見られるのは、1530年から40年までウズベクを支配したスルタン・アブド・アル・アジズ[シャイバーニー朝ブハラ・ハン国(首都ブハラ)の第4代君主ウバイドゥッラー・ハン(在位:1533年 - 1540年)のことか。wiki]のために、1538年にブハラでミル・アリが書写したハテフィ[ペルシャの詩人。イスマーイール一世の父親世代くらいで、尊敬されていた。 wiki]のハフト・マンジャーの中である[例えばこの絵とか?。スミソニアンサイトには情報みつからず]。フリーア美術館に所蔵されているこの写本の細密画のひとつには、こう刻まれている。「これはスルタンの召使いの中でも最も取るに足らないシェイク・ザデが描いた」。
そのスタイルは、1525年の『カムセー』を彷彿とさせるが、さらに古風である。ブハラでは、シェイク・ザデがビフザド様式をややドライに解釈したものが、この後何年にもわたって主流となるのである。 

○ビフザドの晩年
ホートン写本は、シャー・タフマスプが父親の趣味の要素を楽しむようになったことをはっきりと示している。かつてはビフザド芸術一辺倒であったが、タブリーズに戻るとすぐにその態度が変わった。ビフザド自身、老齢と視力の衰えから大きな力を失い、『シャー・ナーメ』のために絵を描くことはなかったが、ダスト・ムハンマドによれば、彼は1535年まで生きていた。 
1528年に王室書記官スルタン・ムハンマド・ヌールが写したシャラフ・アル・ディン[ティムールの子供世代のペルシャの学者。wiki]の『ザファール・ナーマ』[「勝利の書」。ティムール朝創始者ティムールの死後20年後に書かれた伝記。wiki]の写本は、この老師ビフザドの晩年のプロジェクトのひとつと思われる。[The Zafarnameh of Shah Tahmasp (no.708, Herat or Tabriz,1528), Courtesy of Golestan Palace, Iran.]
この写本の24枚の細密画は、テヘランのグリスタン宮殿の図書館にあるため、私は見ることができなかったが、複製画で見ることができるものは、ホートン写本を手がけたどの画家によるものでもないようです。これらの細密画の中には、ビフザドによると思われるデザインの要素が含まれており、その構成から、ビフザドが計画したと思われる。
もしそうなら、ビハザードはかなり降格されていたことになる。なぜなら、このザファール・ナメのような 歴史物の写本は、最高の人材に依頼されることはめったになかったからである。 


○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」

タフプマスのユーモアのセンスは、東西からの軍事侵攻や、いわゆる従者から無視されたり見捨てられたりしたエピソード、13歳のときに弓矢で敵を射殺せざるを得なかったようなエピソードを乗り越えてきたのである。そのサバイバルは、彼の治世における最も人間的で魅力的な文書のひとつ(図14)、王室スタッフの率直な一瞥、王自身による署名、そして彼のお気に入りの(そして唯一の腹心の)弟、バフラム・ミルザへの署名によって証明されている。

The-royal-household-staff-by-Shah-Tahmasp

図 14 「王室スタッフ」 タフマスプ作 6世紀第2四半期 上部に画家のサイン、その下に碑文。 
トプカプ・セレー博物館図書館 H. 2154 f.1b [通称Bahram Mirza Album]
[カラー画像みつけられませんでした→前景の3人部分のみカラーあり
http://id.lib.harvard.edu/images/olvwork404695/urn-3:FHCL:29643799/catalog]

このミニアチュールは、ダスト・ムハンマドが作成したアルバムの冒頭、フォリオIの裏面という重要な位置を占めている(ページI6)。絵の上部にはスタッフの名前が刻まれており、下段にいる腹の出た陽気な男は「カルプス(メロン)・スルタン」と呼ばれ、親しみを込めて呼ばれている。同じアルバムの次のページには、この家来を描いた王室執事と思われる絵があり、アリフィの『ガイ・ウ・チャウガン』と同じ書式(「世界の避難所」)で署名されています。この絵と素描はともに1520年代後半から30年代前半のものと推定され、ホートン写本には明らかにこの王族の手による作品はありませんが、同じ精神を感じさせる細密画が多くあります。例えば、「カブールでミフラブに敬意を表するザール」(129ページ、67v)[個人蔵。Harvard Fine Arts Library, Special Collections SCW2016.00624 Image ID 13615513で閲覧可]の右端の廷臣[下図]は、丸みを帯びた横顔で描かれており、ミフラブを諷刺することができた王は、彼の優しい肥満表現も楽しむことができただろう。これはもしかしたら、我々の友人であるカルプス・スルタンのことではないのか、とさえ思う。 
The-celebration-of-Id

○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
この本は、タフマスプの人格の成長を記録したものであり、空想的なシリアスさからドタバタ喜劇まで変化する雰囲気、『ガユマールの宮廷』のような質の高いページへの上昇、比較すれば単なる戯言に見えるページへの下降、そしてそのスタイルの多様性は、活発で楽しいことを愛する若い後援者だけが理解できたことである。この本の258点の細密画は、一貫して構成されたアンサンブルを形成していない。むしろ、散発的に構想された個人の年代記として見ることができ、そこには叙事詩の詩とほぼ同じ数の親密な逸話が閉じ込められているのである。タフマスプが生きていて、それを語ってくれればいいのだが......。 

1520年代から30年代にかけての政変で、国王は頻繁に移動していたため、シャー・ナーメは不均整に成長したのだろう。 
芸術家の中には、パトロンの旅に同行した者もいただろう。また、タブリーズに留まったり、休暇で村に行ったり、オスマン帝国の侵略の危機から逃れたりした画家もいた。画家Cの細密画の一群は、検査のために小さな山に積まれて運ばれているときに事故に遭ったようである。そのため、折れ曲がり、同じようなしわができ、ようやく最終的に製本された。 

○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
スルタン・ムハンマドやミール・ムサヴヴィールは、シャー・イスマイルが即位した当時、すでに名画家であったに違いない。次の世代の画家たちは、新しい総合芸術を形成したこれらの先輩たちに弟子入りしたのである。1530年代前半には、新たな幹部が誕生していた。彼らはまだ若かったが、主要な写本の重要な注文を受けることができるようになった。 
スルタン・ムハンマドの息子ミルザ・アリは、ホートンの巻のために初めて大きな「単独作品」を描いたと思われる。
これらの絵の中で最初に登場するのは(最も古いものではないかもしれないが)、「フィルドゥシのシーア派の船の寓話」(f18v。MET所蔵)である。
これは、大英図書館所蔵の1539-43年の断片的なカムセー[or.2265挿絵リスト]に描かれた、信頼できる彼の作品[77v48v]と類似していることから、ミルザ・アリの作品と特定することができる。大胆な構図と鮮やかな色彩。  

「ヌシルヴァンはヒンドの王から使節を受け取る」(8oページ。f.638r。Ebrahimi Family Collection、ELS2010.7.3。スミソニアンでのシャーナーメ1000年記念展での解説に画像あり)は、ミルザ・アリーが『シャ・ナーメ』の中で最も意欲的に描いた作品の一つで、これまで考察したほとんどの資料の要素を組み合わせており、この点で、若くて影響を受けやすい第二世代の画家の作品に典型的である。人物像は、ミルザ・アリのより成熟した細密画に見られる特徴を持ち始めているが、特に突き出た顎、悲しげに垂れ下がった目、奇妙に平坦な横顔は、依然としてシェイク・ザデに多くを負っている。しかし、それ以上にスルタン・ムハンマドやその出典であるトルクマン・タブリズの風通しのよい植物画、1477年のカバラン・ネームや1502/03年のヘラト・ジャマル・ウ・ジャラルの様式に負うところが大きいのである。ミルザ・アリの廷臣や音楽家、侍従たちが、ビフザドの抑制された心理的関心を示しているとすれば、スルタン・ムハンマドの大胆でユーモラスな人間観察眼もまた、それを物語っている。ページをめくるたびに躍動するリズムや、垂れ幕[画面左側の建物、一人くぐろうとしている紺地に金模様のカーテン]に描かれた生き生きとした龍と鳳凰の意匠も、ムハンマドの影響である。 

 

■■参考情報
■Bahram Chubinehと戦うKhosrow Parvizの別版  ブリティッシュミュージアムの1925,0902,0.1 (1490年頃)

■じゅうたん屋さん?のHP
各時代絵画に登場する絨毯

ハーバード大学の2枚の絵画(カットされたもの)の見方についての一般向け解説

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その7

2022-07-20 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

今回は、未知のゾーンだった、フランス所蔵の写本を見る手がかりが出来ました。
本に出てくる資料を検索する過程で、いいサイトを見つけたのです。
Biblissimaというポータルサイトは、キーワードで細密画等を横断的に検索出来て、きれいな絵をカラーで見放題。
(文字情報はグーグル翻訳にお任せ)
いま、翻訳を終わらせるべくちまちま作業していますが、終わったら、このサイトで絵ばっかり眺めようかなーと。
(文章、飽きた~)
(読む方も飽きてますよね、すみませんね)
(翻訳作業の貯金分がいよいよ尽きたので、続きはしばらくあきます)

a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(それにしてもこの章長すぎ!!! 編集者ちゃんとついて仕事したのかなあ。
 あまりに長いので、勝手に小見出しのようなものをつけました)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死


○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
シャー・ナーメの細密画が多く描かれた1520年代から30年代にかけて、サファヴィー朝ではあらゆる分野で、高い文化と低い文化、つまり頭脳と身体的・直感的なものが混在していたのである。 
政治、詩、宗教、哲学、そしてこの数十年の芸術は、対立、闘争を経て、最終的には統合され、やがてハイカルチャーが優位に立つようになった。変化は不規則に起こる。政治では、トルクマン兵(キジル・バシュ)に代表される下層の派閥が、血みどろの闘争の末に次第に失脚していった。 
宗教的な過激派の裁判と処刑が増えた。(シャー・イスマイルが初期に書いていたようなことを今書いている人は、異端者として処刑されただろう。) 

芸術の世界についても、進歩的な芸術家やパトロンと、それ以前のやり方に固執する人々との間で対立がおこったが、同じような経過をたどった。パトロンのすべてが時代に合わせて嗜好を変えるわけではないし、より賢明で、知的で、柔軟な芸術家だけが、文化状況の変化に適応することができたのである。 
芸術家は、政府の役人や宗教的な過激派と違って、たとえそのエートスに沿って発展できなくても、比較的安全だった。彼らは生きたまま焼かれることはなく、単に流行遅れになっただけだったのである。おそらく、シャー・イスマイルの幻想的な様式の中で働いていた多くの画家たちは、そのような芸術がまだ評価されていたインドのような海外や、シラーズのような近隣の古風な工房に職を求めることを余儀なくされたのだろう。 

ホートンの写本は、ビフザドのヘラートの洗練された知的さと、スルタン・ムハンマドのタブリーズの刺激的な表現主義との間で、長い一連の小競り合いが行われた戦場と言えるかもしれない。ティムール派とトルクマン派の融合は必然的な流れであったが、写本の芸術家たちはみな同じ装備で戦いに臨んだわけではない。ある者は最新鋭の武器を携え、それを巧みに使いこなし、ある者は装備が不十分であったり、新しい武器の扱い方を学び始めたばかりであった。 

スルタン・ムハンマド自身は、最新の武器を把握し、改良し、破壊的な効果を発揮して、戦いに参加することができた。また、若い世代の画家たち、ミルザ・アリ、ミル・サイード・アリ、ムザファル・アリは、最初から新しい武器について訓練を受けていた。スルタン・ムハンマドの信奉者である画家AからFは、あまり適応が早くなかった。特にA、B、Dは、プロジェクト期間中にかなり進歩したが、CとEは、新しい芸を学べない老犬だったのか、最初から最後までほとんど変わらなかった。 

○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
サファヴィー朝初期の芸術の発展のほとんどは、他のすべての王室写本を合わせたものよりも、ホートン・シャーナメで他のどの史料より詳細にたどることができるが、他のいくつかの写本についても、特にその署名や信頼できる帰属や年代から、検討することが不可欠である。 

これらの写本のうち3点は、シャー・タフマースプの弟であるサム・ミルザ[wiki]のために作られたようである。 これらのうち1点には彼の名前があり、様式的にも似ている。

一つ目はメトロポリタン美術館に所蔵されている『ニザーミのカムセー』[おそらく所蔵番号13.228.7.*のもの]である。これは、ヘラートの書家スルタン・ムハンマド・ヌールによって1525年に書かれ、現在15枚の細密画が収められている。そのうち14点は無署名であるが、様式からヘラートの画家シェイク・ザデ[活動時期1510–1550頃。wiki]か、その監督下にあった弟子たちのものと考えられる。もう一枚の細密画は、これも署名がないが、ホートン写本の上級画家の一人、Mir Musawirの作であることは間違いないだろう。 

二つ目の写本は2巻に分かれており、ミール・アリー・シール・ナヴァーイーMir Ali-Shir Nava'i[15世紀後半のチャガタイ文学の文学者 wiki]のアンソロジーで、1526/27年にAli Hijraniがヘラートで写したものである。これはフランス国立図書館[BnF]に所蔵されている[Supplément turc 316,317316全ページ閲覧。細密画は316のみにあり、169r, 268r, 350v, 356v, 415v, 447v]。6枚の細密画のうち、5枚はシェイク・ザデ自身か、彼の側近によるものである。6枚目のユーモラスな狩りの場面[350v]は、様式的にはホートン写本の画家Aが手助けしたスルタン・ムハンマドの作品とすることができる。 

三つ目の写本は、[ハーバード大学の]フォッグ美術館に所蔵されているハーフィズ[シーラーズ生まれの詩人。wiki]のディヴァン[詩集]である。 [美術館サイトやハーバードサイトを探してみましたがどうもこれは本ではなくバラバラのページの模様]
当初は5つの細密画が含まれていたが、そのうちの1つは失われている。
[整理すると、
イドの祝祭」スルタン・ムハンマド(図12)、
「庭の王子と王女」スルタン・ムハンマド、
モスクでのエピソード」シェイク・ザデ、
酔っぱらいの頌歌」スルタン・ムハンマド(図13)の4点]

このディヴァンには、年代や書かれた場所の名前、筆者の名前などは記されていないが、スルタン・ムハンマドの署名が入った細密画2枚のうち1枚、「イドの祝祭」の戸口の上にパトロンであるサム・ミルザの名前が記されている(図12)。もう一枚の絵、「庭の王子と王女」もスルタン・ムハンマドの作とすることができよう。さらにもう一枚「酔っ払いの頌歌」も。
モスクでのエピソード」は、シェイク・ザデの署名入りで、彼の代表作といえる。師ビフザドの作品とは異なり、彼の絵には人間に対する思いがほとんど感じられず、その点ではスルタン・ムハンマドとは正反対である。彼のビジョンは、モンテーニュに対するパスカルのようなもので、抽象的なパターンや法則に関係している。そのため、私たちは彼の絵の表面を巡り、そのまばゆいばかりの複雑さを楽しむことになる。確かに、彼の描く線はすべて正しく、唐草模様のひねりも見事だ。

The-celebration-of-Id

図12 「イドの祝祭」 スルタン・ムハンマド作 1527年頃
王座のカルトゥーシュに画家のサイン。ハフィズのディヴァンより。
ハーバード大学フォッグ美術館蔵 
[画像はPeerless images : Persian painting and its sources by Sims, Eleanorからお借りしました]
[本にはフォッグ美術館蔵とありますが、別の資料にはArthur M. Sackler Galleryとも。Hollis Images 17719173で閲覧可]


○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
これら3つの写本は、1522年から29年までサム・ミルザが総督を務めたヘラートで書写されたと思われるが、細密画はすべてここで描かれたわけではないだろう。シェイク・ザデはヘラートに残っていたかもしれないが、ミール・ムサウィールやスルタン・ムハンマドがこの時期にヘラートにいたとは考えにくい。おそらく、不在のパトロンがタブリーズの王室スタジオで描くよう依頼したか、あるいはシャー・タフマースプが彼の弟に贈ったのであろう。

一つ目、様式的に最も早い1525年のカムセー[MET所蔵。所蔵番号13.228.7.*のもの]は、ビフザドの様式をシェイク・ザデーが解釈したものである。彼の細密画は、硬質で形式的な性格付け、極端な二次元性、硬質な線によって、タブリーズのイディオムの影響を全く感じさせない。タブリーズから送られたと思われるミール・ムサウィールの作品は、スルタン・ムハンマド自身によるものとされることもあるほど、生き生きとした印象を与える。Mir Musawirはサファヴィー朝を代表する画家で、Houghton写本の時代を通じて細密画のスタイルにほとんど変化がない唯一の画家であり、Khamsehにある彼の絵は、彼がShah-namehのために描いた絵を年代測定する助けにはならない。
しかしながら、彼の『シャー・ナーメ』の細密画(169ページ。フォリオ516v)(この本で唯一の日付のある絵)は、『カムセ』の細密画のすぐあとに描かれたものであろう。

二つ目、ミール・アリー・シール・ナヴァーイの『アンソロジー』[パリ写本]に収められたシェイク・ザデの細密画[169r, 268r, 356v, 415v, 447v]、1年ほど前の『カムセ』の作品に比べると、より開放的なデザインで、かなり独創的である。また、「カムセ」の一連のパビリオンを単調なものにしていた左右対称の建築の正面性を排除している。さらに、人物描写を生き生きとさせることにも力を注いでいる。横顔やしぐさなどの細部は従来通りだが、人間同士の交流を描こうとしたのである。おそらく、ここで彼は、新しい総合芸術の影響力を示しているのだろう。 
ビフザドとスルタン・ムハンマドの様式が新たに統合され、イラン美術の中で最も人間的な瞬間がもたらされたのである。

画家Aのホートン写本の細密画の多くは、スルタン・ムハンマドの助力を受けたり、その影響を受けたりしており、パリ写本の彼の狩猟シーン[350v]と密接に関連しているため、『アンソロジー』の年代である1526/27年はホートン写本との関連において有益である。画家Aによる「ルスタムが魔女を殺す」 (149ページ、120v、MET所蔵)はパリの細密画とほぼ同時期のものと思われ、土俗的なユーモアや、風景画、人物画、動物画の類似点が見られる。 

三つ目、フォッグ美術館の『ディヴァン』のスルタン・ムハンマドの細密画3点も、1526年頃に描かれたものと思われる。署名入りの細密画2点における茶番劇の描写は、サファヴィー朝宮廷の主要な識者の一人であった若きパトロン、サム・ミルザによって奨励されたものと思われる。
酔っぱらいの頌歌」(図13)は、ビフザドの繊細な技巧(象眼細工の扉は、レンズなしには絵柄がわからないほど繊細)と、「眠れるルスタム」の奔放さが融合した、宇宙のお祭り騒ぎのような作品である。ホートンの傑作のように。ガユマールの宮廷で、スルタン・ムハンマドは自らのかつての作法と、彼にとって最も魅力的なビフザド様式の要素を融合させた。その融合によって失われたものは何もない。彼のユーモアのセンスは、筋肉質な滑稽さで表現され、『イドの祝祭』では、群衆の中でたった一人(屋根の上の、右から3人目の間抜け)だけが祝宴の宗教的目的を真剣に受け止めているという、俗世間の宮廷の複雑な心理を楽しませてくれる。
このような戯画的な即興は、画家とサム・ミルザが特に楽しんでいたようである。シャー・タフマースプの人生観が形式張ったものになりつつあり、王室の目に近いところでこのような悪ふざけができなくなったのであろう。

Earthly-Drunkenness

図13 酔っぱらいの頌歌の挿絵(スルタン・ムハンマド作、1527年頃)。 
左の扉口上に画家のサイン。ハフィズのディヴァンより。 
フォッグ美術館 


■■参考情報

この本をテキスト化してあるもの
を使ってます。便利☆

■ミール・アリ・シヴァーイについての論文(英語)
ヘラートからシラーズへ:白羊朝の「AlīShīrNawā」の詩のユニークな写本(876/1471 )

■サファビー朝初期主要写本の1点目、MET所蔵1525年の『カムセー』の挿絵
本文では、流行遅れとイマイチの評価のシェイク・ザデですが、構図はすっきり、唐草模様は想像を超える細かさで、めちゃ綺麗です。私は好き。
folio*  装丁と最初の装飾ページ等 13.228.7.1
ー●謎の宝庫ーーーーー
folio17 「スルタン・サンジャルと老婆」13.228.7.2 Shaikh Zada 画
ー●ホスローとシリンーーーーー
folio50 「ホスロー、シリンの水浴びを目撃」13.228.7.3
folio64 「玉座に座るクスラウ」13.228.7.4 Shaikh Zada 画
folio74 「Farhad は Shirin のためにミルクチャンネルを切り開く」13.228.7.5 Shaikh Zada 画
folio104 「クスローとシリンの結婚」13.228.7.6 Shaikh Zada 画
ー●ライラとマジュヌンーーーーー
folio129 「学校のライラとマジュヌン」13.228.7.7 Shaikh Zada 画
ー●ハフトパイカル(七王妃)ーーーーー
folio207 「土曜日の暗い宮殿のバフラム グル」13.228.7.8 Shaikh Zada 画
folio213 「日曜日の黄色い宮殿のバフラム グル」13.228.7.9 Shaikh Zada 画
folio216 「水曜日のターコイズ パレスのバフラム グル」13.228.7.10 Shaikh Zada 画
folio220 「火曜の赤い宮殿のバーラム グル」13.228.7.11 Shaikh Zada 画
folio224 「月曜日の緑の宮殿のバフラム グル」13.228.7.12
folio230 「木曜日のサンダル宮殿のバフラム グル」13.228.7.13 Shaikh Zada 画
folio235 「金曜日の白い宮殿のバーラム グル」13.228.7.14 Shaikh Zada 画
ー●イスカンダル・ナーマーーーーー
folio279 「アレクサンダーとダリウスの戦い」13.228.7.15
folio321b 「宴会でのアレクサンダー」13.228.7.16

■フランス国立図書館にも沢山細密画がありそうです。
turc316を探し当てるまでに漁った中からは・・
Turc762
数多くのイルミネーションや絵画で飾られた、テブリズまたはカズヴィンのシャータフマースの将校のためにコピーされた非常に豪華な写本。
図書館サイトでも同様に見られますが、ビブリシマというサイトでも全巻閲覧可。(ページ下部にイラストページのリストがあるのが便利)
Turc991
シャータフマースの治世下で5枚の絵画
ビブリシマサイトでの全巻閲覧
Persan 1150
たとえばf.165v f.239
ビブリシマサイトでの全巻閲覧
図書館サイトでは解説文が全然なくて、重要でない書物のように見えますが、細密画は沢山入っています。
Persan 1559
たとえばf.185
ビブリシマサイトでの全巻閲覧
こちらも、図書館サイトでは解説文全然なくて、重要でない書物のように見えますが、細密画は沢山入っています。
Persan 1817
中の閲覧はなし
Persan 580
25枚の絵画が含まれています
中の閲覧はなし
Persan 578
中の閲覧はなし

■ゴレスタン宮殿のzafarnamahのうち2枚がこの論文でカラーで見られます。
IMAGES AS HISTORICAL SOURCES:ANALYSING PERSIAN MINIATURE
PAINTINGS AS DOCUMENTATIONS OF ARCHITECTURAL HISTORY

この論文は面白そうで、挿絵の中の立体構造を解釈して、飛び出す絵本的に、3次元に絵を再配置してみています。
近景平面図、近景横から、遠景、などが平面画面上にかなり複雑に構成されていることが分かります。

zafarnamahの各種写本の細密画

イ ス タ ン ブ ー ル ・ トプ カ ピ宮 殿 所 蔵 の画 冊 に つ い て(日本語)
1970年代?のトプカピ美術館蔵アルバムの概説。引用図等はなし。

コメント
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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その6

2022-07-14 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
が。
内容が難しくなってきて、飽きてきたよー、と泣きが入ってきたところで、
なんと、この本をテキスト化してあるものを発見!
便利!

いやー、便利なサイトがあるものだと調べてみると、これは、インターネットアーカイブ(Internet Archive)wiki)というアメリカの非営利団体によるサイトでした。
どうも、(著作権的に問題ない範囲で)、出版、記録、放送されているような人類の営為の全てを記録しよう、という壮大なプロジェクトを実施している団体のようです。今のところ、

が含まれているのだとか。
なんか、SF小説の世界のよう。。。。
一般からもデータ提供を受け付けているようなので、今後もさらに増えていくと思われます。
(tv放映の記録をちょっと見てみましたが、放送内容はテキスト化されて検索できるようになっているし、コマーシャルまで含めて記録されていて、その時代がよみがえるようです)
ジム・キャリーの映画「トゥルーマンショー」は、Youtubeなど動画配信サイトの発展で、もはや現実のものになってきていますが、それの、文明丸ごとバージョン、て感じでしょうか。
わけわからないくらい沢山データがあって、誰が何に役立てているのかもよく分かりませんが(映画や動画、バンドのライブ画像などが閲覧が多い模様ですが)、資金が尽きず、当分存続してほしいものです・・・。


という訳で、読む方は飽きてきたかもしれませんが、もうちょっと続けます。
(あ、ところで、英語原文も併記したほうがいいでしょうか?訳がアプリ任せでしかもあんまり直せてないし・・)

=========================


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(この章はあまりに長いので、勝手に小見出しのようなものをつけました)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死

 

○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
ここで、ビフザドがタブリーズの美術に与えた影響について考えてみよう。1522年、若き日のタフマースプ王子[8歳](後にホートン写本のパトロンとなる)がヘラートより帰国したとき、初めてその影響が強く感じられるようになった。1516年、まだ2歳に満たない彼は、父親の命令でヘラートへ総督として派遣された。私たちから見れば、子供を家族から引き離すなんて奇妙で残酷なことだが、当時は決して珍しいことではなかった。幼い王子は、摂政、家庭教師、父親を兼ねるララという役割の人物に預けられて海外に送られるのが普通であった。このような習慣は、トルコ・イラン世界の最上流部において、愛情に満ちた家族関係が希薄であったことを説明し、お互いをよく知らない兄弟や、父親のことをほとんど知らない息子たちが、権力争いを繰り広げることがしばしばあった。このことは、イラン絵画のあり方をも変えてしまった。

ヘラートは、ティムール朝最後の、そしておそらく最も偉大なパトロンであるスルタン・フサイン・ミルザ[フサイン・バイカラ wiki 在位:1469年 - 1506年]の首都であった。タフマースプ王子が到着したとき、彼の宮廷の開花に貢献した多くの知識人、音楽家、芸術家、職人たちがまだ存在していた。ヘラートで育ったサファヴィー朝の王子は、ローマ人の青年がアテネに送られたようなものであった。しかしこの場合、タブリーズから出発したのは、第一にウズベキスタンの辺境近くに王族を駐在させるという政治的必要性、第二にティムール朝の中心地の文化に父親が感心したためであったろうと思われる。

ヘラートでの生活で、王子は日常的に賢人たちとの出会いを体験していたに違いない。コーランとその法律を解説する学識ある医師、芸術的な書家、機知に富み時に深遠な詩人、ティムール朝宮廷の気品に貢献しサファヴィー朝の新進にその礼儀作法を伝える礼儀作法の達人、複雑な抽象概念の網を紡ぐ数学者、歴代のカン、スルタン、シャーの知恵や過ちを解説する歴史家、などである。これらは王子の師匠のごく一部に過ぎない。松明の明かりの下、あるいは樹上の家、庭の小川のほとりに座って、詩歌の古典の朗読を聞いたに違いなく、おそらく自分の図書館用に用意された高貴な書物を読んだのだろう。体を鍛えるために、鞍に乗れるようになると、白髪交じりのベテランたちが次々と乗馬を習わせた。アーチェリー、剣の練習、ポロも早い時期に加えられたことだろう。もちろん、絵画や鑑定も習い、スルタン・フセインの最も偉大な芸術家、ビフザドと接触することになったのだろう。

1507年にヘラートがウズベクに陥落した後のビフザドの経歴は、明瞭でない。オスマン帝国の歴史家アリによれば、1514年のチャルディラーンの戦いでシャー・イスマイルが彼の運命を案じていたというが、この記述には書家シャー・マハムッド・ニシャープリ[イラン辞典]に関する問題のある言及が含まれており、おそらく架空のものであろう。ビフザドはヘラートで政治的危機に陥ったタフマースプ王子が呼び戻され、王子とともにタブリーズに行くまでヘラートに留まったと思われる。ビフザドは1522年4月24日にシャー・イスマイルによって王室図書館の館長に任命された。もし彼がもっと早くタブリーズに滞在していたなら、もっと早くこの任に就いたに違いなく、王子の帰国前にタブリーズ絵画に直接影響を及ぼしたことだろう。
タブリーズに到着した時、ティムール朝の老巨匠はもはや全盛期ではなかったことは確かである。フリーア美術館に所蔵されている老人と少年の風景画の円形作品[wiki画像スミソニアン博物館フリーアギャラリーの該当作品]など、晩年の作品には初期のような繊細なタッチは見られない。それでも、イスラム美術の中でも独創的な円形作品の構成は見事なものである。


○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
ガジ・アフマド[wiki]は、ビフザドがシャー・タフスプのためにシャー・マフムッド・ニシャプリが微細な文字で書写したカムセーに絵を描いたと書いているが、タブリーズでのビフザドの主たる役割は、実務家よりもむしろ指導者であったと思われる。彼はそこで1536年に亡くなった。
このことは、現在レニングラードにある1523/24年のアリフィの魅力的なポケットサイズのコピー、アリフィの「Guy u Chawgan(ボールとポロスティック)」が証明している。それは、その書記によってカディ・イ・ジャハン[wiki]に贈られた。10歳の早熟な書記はタフマースプ王子その人であり、この本は彼の父が亡くなる直前、アルダビルの巡礼からの帰途に書かれたものである。受取人は、タフマースプ王子の最近再配置されたララ[教育係 wiki]であった。彼はヘラートでの初期の時代に彼と一緒にいて、1550年まで彼の人生の主要な人物であり続けた。

Guy-u-Chawgan-by-Sultan-Muhammad

図11 スルタン・ムハンマドによるポロの試合(1523/24年版アリフィのガイ-チャウガンより)。
レニングラード公共図書館 D.N. CDXLI
[カラー画像みつけられませんでした→発見、あとで差し替えます
 http://id.lib.harvard.edu/images/olvwork723545/urn-3:FHCL:29643797/catalog]

サファヴィー朝絵画の発展における「ギイ・チャウガン」の重要性は、いくら強調してもしすぎることはないだろう。その細密画の様式は、後の国王の宮廷で最も高貴な人々の間で当時何が賞賛されていたかを正確に物語っている。その様式とはビフザドのもので、細密な人物像と詩的で自然主義的な風景画は、しばしば小さな不精な木や切り株で縁取られ、至る所に見られる。
この本には、16点の同時代の無署名細密画が収められており、そのほとんどは、宮廷画家たちの作品と見なすことができる。そのうちの1枚、2ページにわたる屋外の王座の場面は、ビフザド自身が描いたものと思われるが、彼は円形の絵を描いた後、さらに視力が低下していたに違いない。おそらく、タフマースプ王子のヘラート従者で、芸術家・書家・歴史家でもあるダスト・ムハマンドが補佐したのだろう。

他の細密画はビフザド派特有のもので、ヘラートの老画家が綿密な指導を行ったか、場合によっては輪郭線を提供したものと思われる。サファヴィー朝で長く活躍したスルタン・ムハンマドでさえ、このプロジェクトにいくつかの細密画を提供しているが(図11)、ビフザドのスタイルにうまく合わせ、彼の初期と後期の特徴の痕跡を認めることができる程度である。

○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て
「ガイ・ウ・チャウガン」では、ヘラートのビフザド様式とスルタン・ムハンマドのタブリーズ様式(白羊朝宮廷様式の発展形)と、カバラン・ナーメで指摘した様式から生まれた1502/03年のジャマル・ウ・ジャラルの様式が対立する瞬間が見られる。王子の芸術家たちは、「ガイ・ウ・チャウガン」のビフザドのスタイルを模倣し、彼の衣裳を着ていましたが、マントはまだぴったりではなく、靴もつっかえていた。ここには、シャー・イスマイルの主要な芸術家の先見性のある作法と、ヘラートからの純粋な形で最近輸入された作法との間の来るべき融合の兆しはほとんどない。

もちろん、王子が書写したこの本に、ヘラートで最も著名な芸術家の精神が色濃く反映されていることは驚くにはあたらない。
しかし、考えられることは、その細密画の好みは、王子の成長期の間に強力な影響力を持ったララ、カディ・イ・ジャハンの好みをも反映しているということである。少年期と青年期には、タフマスプはおそらく芸術の中に大きな安らぎと避難所を得た。内戦、家族の争い、オスマン帝国とウズベク帝国の侵略、脱走、そしてほとんど絶え間ない軍事行動など、彼の青年期は決して楽なものではなかったが、特に幼児期に受けた心の傷を考えると、その影響は大きい。サム・ミルザによると、兄のタフマスプはタブリーズ近郊の家で何時間も謎の行動をとり、不思議がられたという。この謎の密会は、おそらく画家たちとのものだったのかもしれない。 

彼の芸術に対する強い情熱はヘラートで培われたはずだが、1522年に少年が帰国するまで、そのことは父に知られることはなかったかもしれない。離ればなれになっていた息子は、おそらく非常に臆病で、ダイナミックで征服的な父と再会したとき(あるいはむしろ初めて会ったとき)、絵画は二人の間で際立って大きな関心事だったのだろう。二人の会話の中には、当時国王のために執筆され、挿絵が描かれていた、大きくて立派な『シャー・ナーメ』に関するものもあったかもしれない。ヘラートの教育を受けている息子は、その荒々しさや暴力性を批判したのではないだろうか。このような議論がもしあったとすれば、私たちのものと同じ大きさの未完成Shah-namehの3ページが存在することが説明できるかもしれない。そのうちの1枚が、大英博物館所蔵の見事な「眠れるルスタム」である。 

これらの絵は、シャー・イスマイルが帰国した息子に「ホートン・シャーナメ」を贈るため、既にあった依頼を取りやめたときに、脇に置かれたのだろうか?  
もしそうならば、ページサイズが合っていること、また、私たちの写本に描かれた最古の絵が、同じスタイルの少し後の例であることの説明がつく。 

ホートン写本の制作を依頼した経緯が正しいかどうかはともかく、王子がタブリーズに到着して間もなく制作に着手したことは確かである。「サデの宴」(93ページ)[22v。MET所蔵]や「タフムラス、ディブを倒す」(97ページ)[23v。MET所蔵]などの細密画は、「眠れるルスタム」に酷似しているが、これはスルタン・ムハンマド自身が、若い愛好家をヘラートの古典趣味から父の宮廷の荒々しい様式に変えようとしたものであろうと思われる。この画家はある程度成功した。

ホートンの『シャー・ナーメ』には、若いパトロンが楽しんだのでなければ存在しないような、似たような生き生きとした細密画が数多く収められている。しかし、この熱心な若者は、ヘラートの土俗的でない洗練された芸術から目をそらすことはなかった。『シャー・ナーメ』で、(描かれた時期から推定して)次に描かれた絵(105ページ、「ザハークは自分の運命を知らされる」29v MET所蔵)は、ビフザド派の趣味に合ったもので、スルタン・ムハンマドとその一派が『ガイ・ウ・チャウガン』のために描いた小さくてあまり凝った絵と多くの点で同じである。右の背景に描かれた廷臣や門番などの人物像をよく見て初めて、スルタン・ムハンマドの作者であることが明らかになるのである。

○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合
スルタン・ムハマンドは、ヘラートの巨匠の様式を吸収すると同時に、それまでのやり方を一新して絵を描くようになっていった。1524年、父のアトリエを受け継いだヘラート出身の王子[10歳]にふさわしい、新たな総合芸術が誕生したのである。スルタン・ムハマンドは、自分の大らかで活気に満ちた作風を、一見堅苦しく感じられるような作風にあわせることへの不快感をすぐに克服した。「ザハークがビルマイヤを殺す」(109ページ)[30v。wikidataハリリコレクション所蔵]では、「サデの宴」(93ページ)[22v。MET所蔵]の前景に描かれた、至って愚かで賢明な動物たちが、新たな繊細さと質感、比率への配慮をもって描かれている。また、「眠れるルスタム」[大英博物館蔵]で顕著だった樹木や植生に対する才能は、この同じ絵の中で、洗練されつつも、詩情や活力に劣らず、再び発揮されている。 

この頃、スルタン・ムハマンドは、仲間の画家たちが頭を垂れたという代表作「ガユマールの宮廷」[20v。Aga Khan Museum, Toronto]の制作に取り組んでいたのだろう。長い時間をかけて愛情たっぷりに描かれたこの絵は、ティムール朝美術とトルクマン美術の統合を象徴している。細部の描写や心理描写の洗練度はビーザードを凌ぐと思われ、その劇的なインパクトは、14世紀半ばのシャ・ナーメのページ(図4)で指摘したような緊張感を思い起こさせる。 

しかし、このページを、タブリーズ派のあらゆるモチーフをめぐる美術史的な旅にしたとしても―そのライオンはトルクマンのアルバムページに、サルはイスタンブールの大学図書館にある14世紀の獣類学のシリーズに結びつけられるとしても―、「ガユマールの宮廷」は単なる折衷主義者の作品ではない。 
スルタン・ムハンマドは、王立図書館と工房の信じられないほど豊かな遺産を吸収し、ここで、この世とあの世のすべてを描き出すためにそれを利用したのである。聳え立つ岩と中国の木々、そこには不思議で素晴らしい自然の精霊の世界が広がっている。瑠璃色、紫色、硫黄色の岩山には、ラクダ、猿、ライオン、そしてさまざまな種類の人間など、秘密の存在、あるいはその集団が次の存在と融合しながら宿っている。スルタン・ムハマンドは、この一枚の絵の中に世界のすべてを描き出そうとし、そして成功したようだ。私たちも、この絵の前で頭を垂れるなら、より真摯にこの絵を見つめることが必要であろう。 


■参考情報

ペルシア絵画における明代花鳥画の受容
サファービー朝絵画には、中国の花鳥画の影響があるようです。

2
チェスター・ビーティ図書館写本コレクション
デジタル化されているものはまだ少なめで逐次拡充しているようです。
ペルシャ写本コレクションほか、インド写本、イスラムなどなど、綺麗なものが沢山あります。

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その5

2022-07-07 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
ある程度作業が進んだ状態で公開しはじめたのですが、続きの進捗よりも公開スピードの方が早いようで、貯金分がだいぶ減ってきました。
しかも内容が、歴史や地理、イスラム文化に関することになってきて、ムツカシイ感じに・・・。
最後の長い章が終わったら、目当てだった、それぞれの絵の解説があるので、なんとか進めたいものです・・・・。


私が書き込んだメモ的なものは、[]でかこってあります。

a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(この章はあまりに長いので、勝手に小見出しのようなものをつけました)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死


●シャーイスマイルとシャータフマスプ時代の写本(p42)
○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
ホートンの写本は、イラン王朝の芸術様式とその発展を、日誌のように正確に記録している。
そのページを通して、芸術家やパトロンに代表されるサファヴィー朝時代のエートスの発展をたどることができる。

この巻の制作は、長大で複雑なプロットと数百人のキャストからなる叙事詩に例えることができる。
ここでは、最初の2人のサファヴィー朝支配者、数人の芸術家、そして1、2人の廷臣という主要な人物だけを取り上げることにする。

シャー・イスマイルは、アゼルバイジャンのアルダビル[現イラン。タブリーズからカスピ海側に200km。wiki]のスーフィー・シェイク、サフィ・アル・ディン[wiki]の子孫である。
彼はイスラム神秘主義の一派であるサファヴィー教団を結成し、1334年に死んだ。サファヴィーはトルコ語を話すが、おそらくクルド人出身で、シェイク・サフィ・アルディン自身はイスラム教のスンニ派に属していたと思われる。しかし、彼の後継者は過激なシーア派となり、アゼルバイジャン、イラク、アナトリア、シリアのトルクマン族に多くの改宗者を得た。15世紀半ば、教祖の孫の死によって、宗派は保守派と過激派に分裂した。保守派はアルダビルに平和的に留まり、過激派はアナトリアやシリアに移り、教団はますます軍事的な性格を強めていった。当初、サファヴィー教団は白羊朝トルクマンの指導者ウズン・ハサン[wiki ハイダルの叔父/伯父にあたる]によって守られていたが、1478年にウズン・ハサンが亡くなると、サファヴィー教団過激派の軍事的性格が不穏に鮮明になってきた。白羊朝指導部の後継者Ya'qub Beg[ヤクブ・ベグwiki]とサファヴィー朝指導者ハイダル[wiki]の衝突で、Haydarは殺害された。

ハイダルの息子であるスルタン・アリ[wiki]、イブラヒム、そして後にシャー・イスマイル[wiki]となる幼児は、南部のファールス州にあるイスタクルの城に幽閉された。その後、ルスタム・アク・コーユンル(1492〜97)の時代に、彼のいとこであるサファヴィー教団の王子たちが釈放され、教団兵士の軍を率いてルスタムの敵に対抗することになる。
次の展開として、ルスタムはスルタン・アリと敵対し、サファヴィー教団は白羊朝との戦いで敗れた。幼いイスマーイールはカスピ海のギラン州に逃れ、1499年までそこに潜伏し、12歳のときに権力の座を狙ったのである。アナトリアでは、部族を含む多くの改宗者が加わり、サファヴィー朝軍の基礎となった「赤い頭」(Qizil Bash)[wikiクズルバシュ]は、ターバンを緋色の直立物に巻き付けた独特の頭飾りから名づけられた。

1500年、イスマイルはサファヴィー朝にとって伝統的な敵である白羊朝のファルーク・ヤサールを倒し、殺害した。1年後、イスマーイールは白羊朝の共同統治者であったアルヴァンド[Alwand bin Yusuf bin Uzun Hasan]を倒した。その後まもなくタブリーズを占領し、シーア派を国教とすることを宣言し、自らを国王とした。1503年にはシラーズを占領し、かつての広大なアク・コユンル[白羊朝]帝国の南部と西部を支配していたムラドを粉砕した。その後、東に向かい、1510年にメルヴで、遊牧ウズベク[シャイバーニー朝]の指導者、シェイバニ・ハーン[wiki]を破り、殺害した。
シェイバニ・ハーンは、1506年にスルタン・フサイン・ミルザ[フサイン・バイカラとも。wiki]の死後、ティムール朝からヘラートを奪っていたため、その支配地域を引き継いで、ヘラートとホラーサーン地方全体がイスマイルの支配下に置かれることになった。

シャー・イスマイルの強烈な個性は、今の時代でも感じられる。
この赤毛の強者は、「少女のように愛らしいが、どの廷臣よりも強力である」と同時代の旅行者が言っている。彼は、同じく武勇、陽気な楽観主義、無情な冷酷さ、文学・芸術・音楽への愛を兼ね備えた征服者、バーブル[ティムール朝ほぼ末代君主、のちにムガル帝国の初代君主 wiki]を思い起こさせる存在であった。
イスマイル王は、戦地でないときはタブリーズのアク・コユンル宮殿に住み、1514年以降は事実上ここで隠棲していた。1518年にタブリーズを訪れたベネチア人によると、「このスーフィーは民衆から神として愛され尊敬されており、特に兵士の多くは、主人であるイスマイルが戦場で見守ってくれると期待して、鎧を着ずに戦場に入る」。
イスマイルはカリスマ的存在であった。それ以上に、彼は詩人であり、空想家であった。恍惚とした詩の中で彼は自分自身を神と呼んだ。彼は生々しい異端的な詩を書いた。「私はファリドゥン、ホスロー、イスカンダル、イエス、ザハークだ」「私はモーゼの杖だ」「ノアの印が私の中に現れ、洪水がはじけ飛んだ」...。彼の詩を過激派兵士への意図的な檄文ととるかどうかは別として(多くの詩は戦乱の時代に書かれた)、それらは国王の性格の重要な一面を表し、初期のサファヴィー朝宮廷の精神が反映されている。

○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
シャー・イスマイルの幻想的な詩は、我々が知っている最古のサファヴィー朝絵画、すなわちウプサラ大学の図書館にあるモハンマド・アサフィーのDastan-i Jamal u Jalal[ジャマール・ウ・ジャラール この作品のあらすじについて調べたけれど著者名すらwikiにもなく詳細不明]を飾る絵画と精神的に似ている[Uppsala U., O Nov. 2 もとの画像はハーバード大のHOLLIS Imagesから。文字数の都合でその11末尾に全画像リストをつけました]。
1502/03年の奥付には、この写本の所在をヘラートとし、書写はスルタン・アリであることが明記されている。このスルタン・アリは、より有名な名前のスルタン・アリ・アル=マシュハディではなく、スルタン・アリ・カイニと推測される人物である。Sultan Ali Qayiniは、ヘラートで書かれた他の写本からも知られている。ジャマール・ウ・ジャラールの細密画のうち2枚には年代が記されており、1枚には1503/04年、もう1枚には1504/05年に相当する日付が記されている。

なぜ、ティムール朝の首都ヘラートで、サファヴィー朝時代の細密画を含む、この最初期の写本が作られたのだろうか。この巻の最初の絵は、様式的には他の多くの絵と似ているが、サファヴィー朝のバトンターバンを巻いていない人物が描かれている。おそらく、ヘラートで地元の後援者のために描かれたものと思われる。残りの絵は、ヘラートの作品では描かれなかったであろうサファヴィー朝時代の被り物をしている人物が多く、おそらくサファヴィー朝領内で追加され、未完成の写本はその領内へ行ったに違いない。
この説明は、この時期のヘラートの政治状況を考慮すれば、もっともなことである。ティムール朝を統治していたスルタン・フサイン・ミルザ[フサイン・バイカラとも。wiki]の息子たちは、毎年のように内戦を起こし、父親と対立していた。そのうちの一人は、1504年にマザンダランに出陣したサファヴィー朝に協力し、シャー・イスマイルと行動を共にした。このとき、「ジャマール・ウ・ジャラール」は未完成のままイスマーイールに持ち込まれ、画家たちとともにサファヴィー朝のアトリエに集結したものと思われる。

 

f57bJalal-before-the-turquoise-dome

図7 トルコ石のドームの前のジャマル、1502/03年のDastan-i Jamal u Jalalから。
この絵は、1504/05年の日付(扉の上の碑文)。
ウプサラ大学図書館、ウプサラ、スウェーデン
Dastan-i Jamal u Jalal (Uppsala U., O Nov. 2)Image Title: f. 57b: Jalal before the turquoise dome 17932397
[解説本(デジタルデータはなし):Mohammed Asafi, The story of Jamal and Jalal, an illuminated manuscript in the Library of Uppsala University by Karl Vilhelm Zetterstéen

これらのサファヴィー朝初期の絵画(図7)は、ビフザドによって指示されたスルタン・フサインによるティムール朝の工房のものとは、様式的に全く異なっている。細部はほとんど描かれておらず、丸顔の人物、平坦な建築物や風景、東洋風にアレンジされた乱れた雲や植生を含む。

○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
『ジャマール・ウ・ジャラール』の絵は、イブン・フサームの叙事詩『カバランナーメ』[The Book of the East。内容写本]の、最も古い挿絵写本[制作年代1476-87頃]に見られる様式を都市化したものである。『カバランナーメ』のテキストと細密画の多くは現在テヘランの装飾芸術博物館に所蔵されている。[ゴレスターン宮殿図書館MS 5750。115 のイラスト][他何カ所かに分散所蔵されておりMETにも5点ある模様

イランの研究者ヤヒヤ・ヅカは、シーア派の聖人アリの戦争と活躍を描いたこの『カヴァランナーメ』写本は、メヴレヴィー派[旋舞教団 wiki]の修道院のために描かれたとする説を唱えている。これは、写本に時折見られる宗教的熱狂と一致する。さらにヅカは、いわゆる舞踏団の拠点がコンヤやホラーサーン北部にはあったが、南部にはなかったことを指摘している。彼は『カヴァランナーメ』をヘラート地方とし、『ジャマール・ウ・ジャラール』に近い様式を持つことと整合的であるとしている。『カヴァランナーメ』には1477年の日付があるが、その細密画の多くは10年以上にわたって描かれたものと思われる。その中で最も幻想的なページ(図8)は、私たちが再現したページを含め、『ジャマール・ウ・ジャラル』の大部分を描いたのと同じ巨匠による初期の作品であると思われる。
この作品は、サファヴィー朝芸術の新たな総合的な形成において、もう一つの重要な要素を例証している。サファヴィー朝美術は、イスマーイールの征服によってもたらされた多くの絵画の中心地から生まれたといえよう。

Gabriel-announcing-the-apotheosis-of-Ali

図8 アリの神格化を告げるガブリエル
スルタン・ムハンマド作 1477年制作 Khavaran-nameh から。
個人蔵
[画像引用元:https://openresearch-repository.anu.edu.au/handle/1885/208951

○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
1481年にタブリーズのアク・コユンル王家のために制作された壮麗なカムセーについて、その細密画が「征服者のイスタンブール・アルバム」の絵と関係があることはすでに述べた。タブリーズを占領したイスマイル王は、王室図書館の残りの部分とともにこのカムセーを所有することになった。その未完成の細密画は、「ジャマール・ウ・ジャラール」の制作を指揮した画家の指示のもと、王の若いアトリエで完成されたようである。
例えば、「白い館のバフラム・グール」(図9)は、「ジャマール・ウ・ジャラール」と、その制作の最初の時期にカムセのために描かれた白羊朝の様式的要素を組み合わせている。後期細密画のここかしこに、人形のような顔、自然主義的というよりは表情豊かなプロポーション、大胆なスケール、ヘラート・カヴァラン・ナームの熱情と、白羊朝トルクマンのもとでのタブリーズ派の最高レベルの洗練された要素が混在しているのが見て取れる。

BahramーGurーinーtheーwhiteーpavilion

図9 白い館のバフラム・グール(スルタン・ムハンマド作) 16世紀初頭。
1481年版ニザーミのカムセよりfolio 196r。
イスタンブール、トプカプ・サライ美術館図書館、H. 762
[Hollis Images 16198928
[この写本の全挿絵リストを、文字数の都合でその11末尾につけました]


○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
このイディオムの集大成が、大英博物館所蔵の未完成のシャー・ナーメ細密画『眠れるルスタム』(図10)であることがわかる。この絵は、シャー・イスマイルの個性である幻視的な面をそのまま表しており、彼の恍惚とした詩にも表れている。この画家は、『ジャマール・ウ・ジャラール』の挿絵を担当し、このトルクマン写本がシャー・イスマイルの手に渡ってから『カムセ』に加筆した工房の責任者であったに違いないが、彼の主要画家の初期の発展における最高点として見ることができる。この画家の成長の初期段階は、Khavaran-namehの細密画に見ることができる。ガブリエルの絵ではやや生硬でぎこちなかった作風が、眠れるルスタムでは達者になっているが、いずれにも画家の個性が光っている。何よりも表現にこだわっている。風景と動物との関係や、ルスタムが昼寝している空飛ぶじゅうたんのように見えることからわかるように、彼は現実の空間にはほとんど関心がない。それよりも、物語のすばらしさで感動させ、舞台の魅惑で驚かせたいのである。

Sleeping-Rustam

図10 眠るルスタム スルタン・ムハンマド作 16世紀前半
大英博物館 1948-12-11-023 著作権:大英博物館
[画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sleeping_Rustam.jpg
[大英博物館の当該サイト(キュレーター解説あり):https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1948-1211-0-23

「眠れるルスタム」のパワーは強烈で、まるで爆発を封じ込めたようだ。どこにも休まるところがない。葉や蔓の一本一本、曲がった木の幹や炎のような奔流が、乱れたリズムで振動している。緑、赤茶、ジンジャー、ピンク、赤、紫など、熱帯の森を思わせる豊かで新鮮な色彩と、信じられないほど緻密なテクスチャーが気分を昂揚させ、Khavaran-namebのページの約束が実現されている。
タペストリーのような緑の鮮やかなフォルムなど、これまでの絵も見応えがあったが、この絵はそのすべてを受け継いでいる。物語が最も愛情深く語られている。私たちは、青々とした下草の中を散策するように促される。すると、大蛇が小鳥を飲み込んで満足げにほくそ笑んでいる。さらによく見ると、もっと幸運なウグイスのペアが激しく抗議しているのに驚く。そして、少し右上に目をやると、岩に隠れて微笑んでいる虎の霊が、蛇の食事を身をもって喜んでいるように見える。また、眠っている主人公が、休息を邪魔されたことに苛立っている様子も、ウィットに富んだ描写で描かれている。そして、主人公の馬。獰猛な目をしたラクシュの電気を帯びたたてがみを描き、ライオンのあごがラクシュの足首にかかる音を感じさせるのは、よほどの巨匠でなければできないことだろう。

『眠れるルスタム』は、その性質がよく似ているシャー・イスマイルの宮廷で最も代表的な様式であったと思われるが、ヘラートのビフザードのイディオムのタブリーズ版も存在したのかもしれない。ボルチモアのウォルターズ美術館にある1512年制作のハフィズのディヴァン[W.628]は、その一例である。このような絵の流れは、正統派にこだわったシャー・イスマイルと完全に一致する。彼は1508年(最も異端的な詩が書かれた年)に、サイイド(預言者の家系)からの子孫を証明するために文書を偽造し、偽の系図を含む大胆な欺瞞に走らせたのであった。



■参考情報
1
図9の、1481年頃の『カムセ』写本について
パトロンは、ティムール朝の王族で、大ホラサン地域の領主 アブー・カシム・バブール・ミルザ(治世1449–1457)(父親はやはり芸術のパトロンのバイスングル)(wiki)と、
白羊朝5代君主、スルタン・ハリル(治世1478年1月-7月)(wiki

2
今回イスラム世界の歴史が出て来て、何か解説がほしいと思って探し当てたのが、
「イスラーム史」(全14回)(農三世界史チャンネル)
イスラム教の誕生から現在のイスラム世界まで、どわーっと勉強できます。
講義で使っているプリント(懐かしい用語ですね)もダウンロードできます。

この前、ニンニクを編みながら全編聴講!
(見入ってしまって、手がとまる・・・)



これは、東京農大第三高校の世界史の先生(関先生だったかな?)による動画。
おそらくコロナの自宅学習期間をきっかけに作られたのではないかと。
この先生の専攻が中近東関係(トルコ?)だったようで、アラビア語も書けるのです。
(他にも中国史やヨーロッパ史などどっさり講義があります。生徒なしの講義動画のほか、授業風景動画もあって、なんか生徒たちに慕われてる感じが伝わってきます)

高校生向けの受験世界史の動画は沢山ありますが、いくつか見た中では、一番パワフルで、面白いです。
(熱感が伝わってくる!)
そして、現代・未来を生きていく若者たちに、歴史を血肉にしてもらって、この先の長い人生を乗り越えて欲しい、というあたたかい気持ちがじんわり伝わってきます。
人生たそがれの中高年夫婦ですが、すっかり忘れてた高校世界史の授業、
「いやあ、勉強になるよねえ。基礎知識はやっぱあった方がいいよねえ」
と楽しませて頂いています。
(いまは中国史聴講中)

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その4

2022-06-30 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

ペルシャ細密画に興味があり、この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
(絵本や児童文学の挿絵、マンガやアニメ(まんが日本むかし話とか)に通じるものがある気がして惹きこまれます。
遠近法がないとか影がないなどと西洋からはみられる絵ですが、日本人はそういう絵にとっても親しんでいますよね?)

私が書き込んだメモ的なものは、[]でかこってあります。

a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1)
本の制作  p18 (その1)
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3)
イラン絵画の技法  p28 (その3)
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4)
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 (その5~11)


●二つの伝統。ヘラートとタブリーズの絵画(p33)

ホートン・シャーナメとサファヴィー朝絵画は、一般にトルコ・イランの伝統と呼ばれるものの中で、二つの大きな流れを統合している。ひとつは東部ヘラートのスルタン、フサイン・ミルザに代表されるティムール朝の流派、もうひとつはイラン北西部、アク・コーユンル族[白羊朝]の首都であったタブリーズの流派である。16世紀初頭にイランを征服したシャー・イスマイルが陥落した都市の中で、この2つの都市には最もダイナミックで創造的な絵画のアトリエがあった。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
地名や国名がいくつか出てくるため、このあたりの地理と歴史について補足しておきます。

Cairo-Bustan

[参考図 15世紀半ばのアジア 世界の歴史まっぷ 14世紀の東アジアにタブリーズの概略位置を追記]


Cairo-Bustan

[参考図 16世紀頃、オスマン帝国とサファヴィー朝の最大領域地図 世界の歴史まっぷ サファヴィー朝にヘラート、ガズウィンの概略位置を追記]

◆白羊朝:1378-1508年。首都タブリーズ(現イラン北西のほぼ端っこ)。神秘主義教団サファヴィー教団の教主イスマーイールらが白羊朝の一族から首都タブリーズを奪いサファービー朝支配下となり、白羊朝は滅亡した。

◆ティムール朝:1370-1507年。首都はサマルカンドとヘラート分立政権。シャイバーン朝(ウズベク・ハン国。首都サマルカンドのちブハラ(現ウズベキスタン))によって滅ぼされ、末代君主は南下し、インドにおけるティムール朝としてムガル帝国を打ち立てた。(細密画もインドで振興)
首都ヘラート(現アフガニスタン西部)は最盛期には文化が花開いたが、王朝末期から紛争に巻き込まれ、辺境の一都市となり衰退する。

◆サファービー朝:1501-1736年。首都は、16世紀前半はタブリーズ、後半はガズウィン、17世紀以降はイスファハン。白羊朝、ティムール朝南半部の支配地域を受けつぐ。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

15世紀末にティムール家の王子とトルクマン家の王子に出会ったとしたら、このライバルを区別することは困難だっただろう。なぜなら、彼らは共通の文化を共有していたからだ。言葉は同じで、同じ詩人を読み、同じ知識人、音楽家、その他の著名人を競って雇った。しかし、彼らの間には違いもあった。それはシエナやフィレンツェの絵画のように、同じテーマ、同じ神の名で描かれた絵に、それぞれの地域的な差異が表れている。
ティムール朝絵画は、今日、イワン・ストゥーキンらの研究によってよく知られている(ただし、その初期段階については、トプカプ・サライ美術館のアルバムや写本でさらなる調査が待たれるところである)。これに対して、トルクマン絵画はまだ定義されていない。ひとつには、文字が記されたトルクマン資料がまだ十分に公開されていないため、その様式はまだ多くの推測の対象である。いずれイスタンブールの図書館から、タブリーズの絵画の年代物が十分に発見され、その流派の発展を完全にたどることができるようになるに違いない。その一方で、この流派の特徴を大まかに示唆し、『ホートン・シャーナーメ』へのトルクマンの影響を明らかにするいくつかの例を示すことは可能であろう。

まず、よりよく知られたティムール朝様式を簡単に見てみよう。その歴史をたどるのではなく、その最高の天才であるビフザドの作品を検証するのである。1488/89年にヘラートでティムール朝最後の偉大な王子、スルタン・フサイン・ミルザ(1468-1506)のために制作されたサディーの素晴らしいブスタン[『果樹園』]写本は、ティムール朝絵画全体の発展を反映しているとは言い難いものの、多くの点でティムール朝の特徴を最高レベルの宮廷様式で完全に体現しているといえるだろう。スルタン・フサインが特に表現したのは、政治でも軍人でもない(ただし、若いころは大胆で強く、賢明な戦士であることを示した)。彼は権力の継承者であったが、彼自身の最も優れた能力は、詩人として、また創造的な支援者として、別のところにあった。この哲学者の王は、ミール・アリシール・ナヴァイなどの詩人や、ビフザド[wiki]を筆頭とする芸術家など、優れた知識人たちに囲まれていた。

1488年(ブスタン)当時、ビフザドは明らかに絶頂期にあり、気質的にも充実していたため、霊感の強いパトロンと理想的にマッチしていた。二人は協力し合い、世界的に見ても優れた写本をいくつも生み出している。
ビフザドの才能は、賢明で刺激的なパトロンのもとで、現実の世界と対峙するまでに至ったのだ。彼は自然に目を向け、そこで見たものを、抑制された、技術的に完璧な、この上なく写実的で、しかもすべてを包み込むようなビジョンに変貌させたのである。彼の繊細な観察眼は、「ブスタン」[果樹園]の5つの細密画の前例のない自然主義として実を結んだ。そのうちの1枚(図1)は、酒に関する陽気な論考で、右上のインド人夫婦が優雅なスチルを操作し、夫がヴィーナを伴奏に妻に歌っている。その下には、肖像画のような使用人たちが水差しや瓶に酒を注ぎ、静物画家のように形、色、質感にこだわって描かれている。また、この写本には、足の指の間を洗う老人が描かれており、黒人の使用人が少しくしゃくしゃになったタオルを差し出している。しかし、ビフザドの世界に対する興味は新鮮なものであったが、彼は自分の見たものを一般的な表現方法に適合させた。彼は人間の欠点を熱心に観察していたが、彼の描くよろめく酔っ払い、農民、乞食は決して下品でなく、行儀が悪いわけでもない。彼の人物描写は常に寛容で、愛情に満ちており、ウィットは常に完璧な調子を保っている。技術的な革新に没頭し、顔料を厚く盛って荒々しい質感を表現し、それがひび割れたり剥がれたりしても、名人芸で詩的なビジョンを弱めることはない。

 

Cairo-Bustan

図1 ビフザド作「酒の蒸留、消費、効果」(1488年/サディーのブスタンより
1488/89年のサディーのブスタンから。カイロ、エジプト国立図書館
[https://twitter.com/tif_dak/status/1173182746082127872 
またはHollis Images Bustan of Sa'di (Dar al-Kutub, 22 M. Adab Farsi) 21092907

カイロ・ブスタンにある「ズライカから逃げるユスフ」のような細密画は、閉所恐怖症の宮殿で、主人公が逃れようとするすべての閉じた扉と階段という空間を、緊密に論理的に処理することによって、いっそう感動的なものになっている。ビフザドの絵では、すべての登場人物が空間のどこに立ち、何をしていて、何を考えているのかが正確にわかる。しかし、精緻な唐草模様の舞台装置、豊かな色彩、細密な衣装、心理的に深く入り込んだ人物や動物の描写など、どの要素も他を圧倒しているわけではない。ビフザドの細密画は、常に調和がとれており、心と体、知性と直感が完全に統合されている。

 

次に、トルクマン様式について見てみよう。1481年にタブリーズで、トルクマンのスルタンであるヤクブ・ベグに仕えた王室書記官アブド・アル・ラヒム・アル・ヤクビが書いたニザミの『カムセ』の写本から、その宮廷レベルでの特徴をうかがうことができる。現在トプカプ・サライ美術館に所蔵されているこの写本は、スルタンの弟ピル・ブダックのために書き始められ、別の弟ハリルのために続けられ、その後スルタンのために書き直されたが、未完のままであった。19枚の細密画が収められているが、そのうち9枚(2枚は未完成)は15世紀後半に描かれたものである。残りの10点は、シャー・イスマイルがタブリーズを占領した後(1501年)、彼のために完成させたか、あるいは全部を描き上げたものである[全挿絵リストはその11末尾参照]。初期の細密画の一つ、黄色のパビリオンのバフラム・グール(図2)は、おそらくスルタン・ヤクブ自身の肖像画として意図されたものであろう。

パビリオンでは王子が姫に付き添われてクッションにゆったりと腰掛け、外の花畑では同じ王子が小川のほとりに座る姫を色っぽく覗き込んでいる。細密画でありながら、ビフザドの抑制された作風とは一線を画すダイナミックな躍動感がある。ヘラートの巨匠とほぼ同時代の細密画と比較すると、発展途上であるように思われる点もある。ビフザドの心理的な洞察力はほとんどなく、プロポーションの正確さもなく、空間を論理的に処理する能力もない。そのかわり、このトルクマンの画家は、明るい色彩(豊かなラピスラズリ、サーモンピンク、オレンジ、その他多くの明るいアクセントが、褐色、薄い緑、薄い青紫の地に置かれている)のファンタジー世界で我々を楽しませてくれるのだ。

BahramーGurーinーtheーyellowーpavilion
図2 黄色いパビリオンのバフラム・グール
1481年、タブリーズで書かれたニザーミのカムセーから
イスタンブール、トプカプ・サライ美術館図書館、H. 762 folio 177v
[画像の引用元:HOLLIS Images Khamsa of Nizami (TSK H762) 16198916


彼の世界は、竜の爪のような雲、愛すべき獣や怪物たちの不思議な隠れ動物園がある崖、宝石店のウィンドウにあるような石や岩、そして非常に様式化された中国の影響を受けた花々で構成されています。これらは特にトルクマン芸術の特徴であり、このイディオムの事実上の特徴である。
これらは画面全体に春の花束のような甘美さを与えているが、ほとんどの場合、自然から直接ではなく、芸術に由来するものである。その中の形は、風車や花火のように、渦を巻いたり回転したり、舞い上がったり急降下したりする。大きすぎることもあり、熱帯のジャングルから飛び出してきたかのようだ。この絵をよく見ると、驚かされることがある。手前のウサギは穴から顔を出して草を食べ、鴨は銀色の小川で互いに見つめ合い、猟鳥獣は尖塔の上から眺めている。これほどまでに「地上の楽園」を表現した絵はないだろう。

しかし、この絵がティムール朝ではなく、トルクマン朝である理由は他にあるのだろうか?その少し古風な趣は?その過剰ともいえる活力?色彩の緊迫感と強度がより強いこと?東洋的な龍や鳥を勢いよくデザインしたクッションやローブ、強い斑点や縞などの装飾文様の趣味、自然主義的というより表現的なプロポーションの人物画、建築や舞台の効果的だが空間的に非論理的な処理、風景の中に隠されたグロテスクさ、などである。これらの要素が組み合わさって、イスラム美術の中でも最も魅力的な独特の様式を作り上げている。トルクマン絵画は、デカン地方のアーメッドナガル、ビジャプール、ゴルコンダなどのインド絵画の一派を思い起こさせる。その精神はアポロ的というよりもディオニュソス的である。ティムール朝の絵画ほど緊張感はなく、トルクマンの細密画はページからぐっと飛び出してみえる。美食にたとえると、トリュフをふんだんに使った濃厚なフォアグラのパテのような味わいである。濃厚!

トルクマンのイディオムの特徴をさらに理解するために、イスタンブールに代々伝わるアルバム、トプカプ・セライ図書館H.2153に目を向けてみよう。トルコでは「征服者のアルバム」と呼ばれるこの巨大なアルバムがいつオスマン帝国の宮廷に届いたのかは定かではないが、16世紀初頭にオスマン帝国がタブリーズに侵攻した際に捕獲された可能性は十分にある。あるいはサファヴィー朝が1501年にタブリーズを占領した際に入手し、サファヴィー朝からオスマン帝国に献上された可能性もある。[Fatih Album (TSM H. 2153, ff. 2a - 100b) 画像閲覧 HOLLIS Images または DLME

この巻は、おそらくトルクマンのスルタン、ヤクブ・ベグによって形成されたもので、彼の名前は伝統的にこの巻と関係がある。19世紀の赤モロッコで装丁されたこの本は、壮大なスクラップブックで、カリグラフィー(その多くはヤクブの書記によるもので、知る限り彼の治世より後のものはない)、15世紀のイタリアの版画を含むヨーロッパの版画が収められている。中国から運ばれた粗悪なバザール画、その現地での複製や変種、モンゴル、ジャライール朝、ティムール朝の絵画の数々、要するに、トルクメン人が収集したであろう資料の一群である。しかし、このアルバムの大部分は、トルクメン人のために自国の画家が描いた壮麗な細密画や素描で占められている。

SultanーYa'qubーBegーandーhisーcourt

図3 スルタン・ヤクブ・ベグ(?)とその宮廷、タブリーズ、1480年頃。
トプカプ・サライ美術館蔵 H.2153 ff. 90b-91a
[画像引用元:Hollis Images 21092928
この絵では、図2と図3の作者が同じだなんて考えつきません]

 

このアルバムに収められている群像画は、スルタン・ヤクブ自身と、彼の高貴な集団が、見事な青と白の天蓋の下で動物的なエネルギーに満ちた表情をしている様子を描いたものと推定される(図3)。衣装、顔はやや人形のようだが、生き生きとした横顔、プロポーション、色彩は、1481年のタブリーズ・カムセーに見られるものと全く同じである。実際、この細密画『黄色いパビリオンのバフラム・グール』は、おそらく同じ画家によって描かれたものであろう。最も特徴的なのは、集合体の下と後ろにダイナミックなタペストリーを形成する植生である。

このような花や木や葉は、トルクマンのイディオムを最もよく表しており、その脈打つようなみずみずしさを物語っている。ティムール朝の絵画もトルクマンの絵画も、背景は花や草の塊で構成されているが、後者ではより野性的で、より率直に中国に由来するものである。黄色い線の長い花びらが曲がりくねり、特大の牡丹の花やパルメットがページの上に広がるようであり、震えるほど繊細な葉が下向きに折れて、相互に関連した力強い形が我々の目を楽しませるのである。

このような異国情緒は、古くからイランで東西交易の中心であったタブリーズで期待されたものである。中国をはじめ、インドやヨーロッパから、キャラバン隊が織物や陶器、金属細工、絵画などを運んできたのだ。エキゾチックなモチーフが、この地の芸術家やパトロンに影響を与えなかったとしたら、それは驚くべきことだ。しかし、東洋の思想が影響を及ぼしたのは、貿易だけが理由ではない。14世紀、タブリーズはモンゴルの支配下にあり、モンゴル人は中国からの輸入品を好むという血統を持っていた。

龍はタブリーズ芸術で好まれたモチーフであった。そして14世紀半ばに描かれたモンゴルのシャー・ナーメ[大モンゴルシャーナーメ]の竜の場面は、タブリーズ芸術の重要な初期段階を象徴しており、ホートン写本の初期[サファービー朝になって]にその性質がティムール朝様式と融合するまで花を咲かせ続けた。この絵(図4)は、私たちが知る限り、トルコ・イラン美術の中で最も魅力的な作品である。アクションは、画面の一番手前まで描かれていて、私たちを惹きつける。

Bahram-Gur-slaying-a-dragon

図4 竜を倒すバフラム・グール
タブリーズ、デモット・シャーナーメから 14世紀中頃
クリーヴランド美術館、グレース・レイニー・ロジャース基金より購入
[この図の出典:https://www.britannica.com/topic/Shah-nameh
 クリーブランド美術館でこの絵を閲覧(拡大可):https://www.clevelandart.org/art/1943.658

主人公のバフラム・グルは、こちらに背を向けて、息絶えた怪物に立ち向かい、その体幹に強力な剣を突き刺し、激しい身振りであらゆる力を振り絞っている。その巨大な姿は、均整のとれた力強い線で描かれ、装飾的な中国の木の幹に巻きつく大蛇のように、ページ全体にうねるように描かれている。怪物の最後の力を振り絞るように、ドラゴンの前足は子猫のように宙を舞う。怪物とは対照的に、バフラム・グールの馬は、血生臭さが日課であるかのように、この凄惨な光景を冷静に見つめている。瀕死の竜の口の向こうと上には、草木が生い茂るジグザグの岩があり、残酷な雰囲気に一役買い、その刺々しい角度が、怪物の最期に伴うあらゆる恐怖を私たちの目に焼き付ける。彼の死に際の咆哮は、ページから鳴り響くのである。


トルクマン王朝の時代におけるタブリーズ絵画の発展をここでさらに探ることはできないが、少なくとも15世紀末の竜と、トルクマン絵画の登場人物に欠かせない一対のディブ(悪魔)に出会わなければならない。イスタンブールの大アルバムには、このような一団を描いた絵(図5)があり、特徴的な植物の群れとともに、こうした絵と1481年のカムセーとの関係を立証している。この例では、ドラゴンとディブが異常に飼いならされている。
しばしば トルクマンの絵や細密画には、あまり好ましくない生き物が登場することが多い。毛むくじゃらのディヴが白い種馬を噛み砕く絵のように、悪夢のように恐ろしいものもある。

Mehmet-Siyah-Kalem

図5 ドラゴンを持つ悪魔 タブリーズ 1485年頃
トプカプ・サライ美術館蔵 H.2153
[図の出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Topkap%C4%B1_Saray%C4%B1_Album_Hazine_2153
[このとても特徴的な絵は、Mehmet-Siyah-Kalem メフメト・シヤ・カラム(黒ペン)によるものとされています。
https://vl-sokolov.livejournal.com/3687.html]

 

同じイスタンブールのアルバムに収められている2頭のライオンの見事な細密画を見て、Aq-Qoyunlu[アク・コユンル 白羊朝]トルクマン芸術を特徴づけるこの試みを終わろう(図6)。中国風の花咲く木の下で慈愛に満ちた笑みを浮かべるこの獣は、このアルバムの群像画とほぼ同じ時期のものと思われる。この作品では、群像の脇役である花々が、動物界、植物界、鉱物界のあらゆる幸福を放射する、全体の曲線的な性格の鍵を握っている。岩に潜む精霊が微笑み、鳥がさえずり、蝶さえも祝福に燃えているように見える。スルタン・ムハンマドがこのトルクマンの細密画に触発されて、『ホートン』所収のガユマールの素朴な王座の下に一対の獅子を描いたのは当然で、この絵はサファヴィー朝時代に描かれてはいるが、トゥルクマンによるタブリーズ・イディオムの頂点と言えるかも知れない。

 

Lions-in-a-landscape

図6 風景の中のライオン タブリーズ、1480年頃
トプカプ・サライ美術館蔵 Fatih Album TSM H. 2153 ff. 127v
[Hollis Images 22395661

■参考情報
基本的にこの本の画像はHollis Images の Stuart Cary Welch Islamic and South Asian Photograph Collectionにあります。
(ほぼ作業が終わってからようやく気付きました・・・)
また同じ画像がDigital Library of the Middle Eastでも見られます。
後者の方がシステムが新しいのか表示が早いです、前者では著作権等の関係で非公開設定の画像のサムネイルだけは見られるけれど、後者ではみられません。なので今回は画像参照元としてHollis Imagesの方を使います。

ペンシルバニア大学図書館ほか各機関所蔵のイスラム写本のフリー閲覧サイト(ダウンロード可)
イスラム世界の500以上の写本と827点の絵画のデジタル版が含まれます。
好みの絵がどこにあるか自分で発掘する必要がありますが、宝の山かも。
しかも、閲覧のみならず利活用もフリー。

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その3

2022-06-24 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
その2の続き。

翻訳ソフトにほぼ頼り切りなので、訳が不自然なところもあるでしょうし、ですます調と、だである調が統一しきれていない部分もあるかもしれません。固有名詞の表記ゆれなども。
私が書き込んだメモ的なものは、[]でかこってあります。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 (その5)~(その11)

●伝統的なイランにおける芸術家(続きから)

もちろん、絵筆は非常に細いものであったが、伝説にあるような一本の毛で構成されることはあり得なかった。それでは繊細な線ではなく、醜い雫がぼったりと垂れてしまう。絵筆は非常に個人的な道具であり、通常、画家が自分の握り方や必要性に応じて自分で作ったものである。毛は通常、子猫や灰色リスの尻尾から抜いたものを使用する。毛は子猫や灰色リスの尾から採取し、丹念に選別した後、束ねて羽の軸に装着する。

顔料は、輝き、純度、そして時には欠点もあるが、永続性のあるものが選ばれた。動物性、植物性、鉱物性など、さまざまな材料から構成されている。ラピスラズリ、マラカイト、朱、金など、まるで宝石商の "宝石 "のように、原料も調合も高価なものが多いので、精密に作られたのも不思議ではない。
顔料は、根気よく刷毛で何度も塗り重ねるものもあれば、瑠璃や朱などのように一度だけ厚く塗るものもある。結合材は膠(にかわ)かサイズ[礬水どうさ。膠とミョウバンを混ぜたもの]が一般的だが、ガムや卵黄が使われたこともある。中には特殊な結合材を必要とする色もある。ほとんどの場合、結合剤の量が多すぎても少なすぎても、色調の均一性、輝き、永続性が損なわれる。腐食性の強い銅色顔料であるバーディグリスは、保護地によって紙を密閉した後でなければ安全に塗ることができなかった。このヴェルディグリスが周囲の顔料を黒ずませることもあり、また封をしたにもかかわらず紙を腐らせることもあった。

金や銀の下地にも同様の下地処理が施された。金属顔料については、金箔屋から入手した金箔を動物糊と砕いた塩と一緒に乳鉢ですり潰し、指で練り上げる。糊と塩を洗い流して、微粉末になった金属を取り出す。温かみのある金色にしたい場合は、少量の銅を加え、レモン色にしたい場合は銀、あるいは亜鉛を加えた。特殊な結合剤(サディキ・ベグによればサイズ糊)と混ぜた後、メタリックペイントはブラシで塗られた。衣装の装飾など、他の色の上に塗ることが多いが、それ自体に色をつけたり、ニスで調色したりすることもあった。また、金の表面を象牙の針や鋭利な歯で刺して、キラキラした輝きを増すこともよく行われた。
顔料は、作るのが難しいものが多い。亜鉛華は、調理、製錬、化学的混和など、非常に手間がかかる。製本用のサンダラク・ワニスは、調合が難しいだけでなく、危険でもあった。Sadiqi Begは、「住居の近くでこの作業を試みてはならない」と警告している。火災の危険があるだけでなく、カジフが指摘するように、悪臭を放つのである。

この時代の画家の多くは、伝統的な技法に満足していたが、中には実験的な試みをする画家もいた。スルタン・ムハンマド(Sultan Muhammad)は、白を基調とした平坦な絵では満足しなかった。ターバンやヤクの尾の鬚など、それらしい箇所は、白の顔料を厚く塗り重ねて浮き彫りにした。岩や宝石をちりばめた装飾品、飛び跳ねる魚などに真珠層や宝石を貼り付けて豪華さを出すという、初期の細密画に見られる工夫も、彼の弟子たちが採用していたものだ。
このように、絵の各部分を描き、修正し、金箔や銀箔を貼り、彩色し、さらに修正するという作業を何ヶ月も、場合によっては何年もかけて行い、この画家の細密画はほぼ完成した。そして余白の罫線を完成させ、動物や鳥、唐草などの特別な縁取りがなければ、あとはバニシングを残すのみとなった。細密画を硬くて滑らかな面に当て、メノウや水晶の卵のような特殊な道具でこすっていくのだ。これでようやく、写本やアルバムに掲載する絵が完成する。

●イラン細密画の特徴(p28)

イランの芸術家たちは、現実の世界を鏡に映すようなことはしなかった。むしろ、その外観と精神を、おそらくイスラム以前の時代にまでさかのぼることのできる、ありふれた図式に変換したのである。形式的には、3次元の立体的な世界を、任意の2次元に落とし込んだのである。色彩は平面的で、人物も舞台もほとんど実在のものをモデルとしていない。しかし、大勢の戦士や馬、象が繰り広げる戦闘、天空を舞う天使、廷臣や従者がひしめく王座の場面など、複雑な状況をもっともらしく表現しているのである。伝統に縛られている感じはほとんどない。

影や遠近法、造形、質感の違いへのこだわりなど、だまし絵的な表現は排除されがちであった二次元表現なのだが(これらはのちに18世紀までにヨーロッパの影響を受けて取り入れられた)、サファヴィー朝の画家はほとんどすべてを表現できた。
例えば、空間の後退は、しばしばわずかな隙間を空けて重ね合わせ、遠くのものを画面上部へ、近くのものを画面下部へ配置することで表現された。時には、遠くのものを小さくすることもあった。
庭園、中庭、プールなどは、横向きのままでは理解しがたいが、鳥が頭上から見ているように描かれている。人物や動物を正面から、斜めから、さらには真正面からと、さまざまな角度から描くことを学んだ画家もいたが、空間把握能力の高い画家による細密画だけが、読者に物や人物、動物の位置関係を正確に「マッピング」させることができる。

イラン絵画を賞賛する人々は、その色彩の繊細さをよく口にする。これは、キャンバスに油絵具で描かれた作品の、黒ずんだ、ニスのかかった表面に慣れた人々にとっては、特に明白な特質である。イランの画家たちは、平坦な色彩の領域を正確に塗り分け、輪郭線に並々ならぬ注意を払いながら、それ以上のことを考えた。彼らは画面全体を色彩構成として捉え、時には2、3色の比較的単純な組み合わせで、息を呑むようなパレットを作り上げた。
その中に、一目でわかるような小さなアクセントとなる単位、つまり色群を導入し、そこから次の単位へと視線を誘導している。ひとつの絵の中に同じ色が何十色も入っていることもあり、そのバリエーションはデザイン全体に貢献するだけでなく、それぞれ独立して鑑賞することができる。あたかも バッハのカンタータが、それぞれの声部を別々に聴いても楽しめるのと同様に。

色彩の選択と構成にこだわる芸術家たちは、色彩を、気分の演出など、他の目的にも使っている。ダイナミックな色調をスタッカートに配置することで戦闘を盛り上げ、深い赤と深い青のパレットは恋人たちの感情と夜の闇を同時に表現し、赤、オレンジ、紫、硫黄の黄色の組み合わせは時に異世界の凄みを感じさせる(89ページ[フォリオ20の裏面、カユーマルスの宮廷])。
鮮やかで純粋な色彩を喜びとし、事実上すべての錯視的表現を排除した伝統の中では、夜と昼という単純なものでさえ表現することは困難を極めたのである。画家たちは一般に、金色の空や明るい青色の空を用いて昼の光を表現し、あるいは光り輝く放射状の太陽も加えていた。松明やろうそく、月を描くことで夜を表現しているが、中には闇を連想させる地味な色調を組み合わせたアーティストもいる。また、細密画全体に白い顔料で吹雪を描くなど、特殊効果を必要とする場面もあった。/p29

色彩はまた、特定の事実を観察者に知らせるために使われた。緑色の旗や衣は、その持ち主がサイイド(預言者一族の子孫)であるか、メッカに巡礼していることを意味するものであった。サファヴィー朝時代の赤い直立した棒のついた頭飾りは、政治的な所属を示すものであった。
また、ある種の英雄は、特別な色や模様の衣装と結びついていた。例えば、ルスタムの虎の皮はほとんど彼の一部であり、彼の馬ラクシュのピンクがかったオレンジ色の斑状の皮は、ユニフォームに等しい。しかし、ホートン写本に何度も登場するラクシュの色彩を見ればわかるように、絵の目的のために画家たちはこうした慣習に自由裁量を与えているのである。

イランの絵画は、一点集中型ではない。構図は、「この英雄がドラゴンを倒している!」というようなものではない。むしろ、物語的な主題を越えて、リズムや形、色彩を順々に追っていくことを促している。イランの絵画の中には、一度目にした瞬間、強烈なインパクトを与え、そのメッセージによって私たちを解放してくれるものもあれば、王子から王女へ、王女の冠の唐草に一瞬目をやり、近くに咲く低木へ、さらに、心地よい房の草原、曲がりくねった流れ、複雑な岩群へと、ほとんど無限に次の要素へと目を移させるものもある。急いで一瞥するだけならばむしろ見ない方がいいだろう。

イランの線は、均整のとれた、細く、機械のように正確であることもあれば、自由でのびやかな、カリグラフィーのようなものもある。書道は、西洋よりもはるかに重要な位置を占めていた。伝統的な正統派イスラム教では、生物を描くことは、生命の創造主である神の役割を先取りする行為であると反発し、視覚芸術はしばしば非具象的な領域へと移行した。建築、陶器、織物、宝飾品など、あらゆるものの装飾に文字が用いられるようになったのだ。コーラン(クルアーン)の引用は、もちろんモチーフとして最適で、詩の一節とともに、数世紀にわたって発展した多くの芸術的な文字で刻まれた。
コーランの写本は、王侯の敬虔な行為として、またプロの書写家によって、細心の注意と献身をもって書かれ、最高レベルの書写家は高い報酬を得た。また、書家を中心とする芸術家たちは、文字の美しさを人物画や絵画に取り入れた。ペン使いのリズム、太さや細さ、間隔を見極める繊細な目は、カリグラフィーに重点を置くことで脇に追いやられていた芸術そのものに、新たな、そして特異な特質をもたらしたのである。

もう一つのイスラム的な特徴は、自然界に存在しない植物の形からなる装飾体系で、その相互のリズムはイラン絵画に影響を与え、まるでアラベスクの世界観のようなものとなった。この見事な装飾様式は、曲線と反曲線の生きたネットワークで、構図全体から木々、人物、顔、髪のカールまで、多くの絵画を満たしている。葉は風になびくように、鶴ははばたくように、武者は槍を放つように、唐草のリズムが生命を吹き込んでいる。

とりわけ才能と霊感に恵まれた芸術家たちは、心理的に説得力のある新しいキャラクターを考案したとはいえ、ホートンの写本に登場する多くの人物は、古代の伝統に従った身のこなしで、慣習的に描かれている。私たちの文化では沈黙を促すために指を口に当てることが多いが、彼らの文化では驚きを伝える。両手を耳の上に置く人は、騒音に敏感なのではなく、深い敬意を表している。
サファヴィー朝では、多くの役者が登場すると、私たちが「パンチとジュディ」のショーで見せるような半自動的な反応を引き起こしたに違いない。彼らのキャラクターは、普遍的で理解しやすいものが多い。たとえば、満月のような顔をした糸杉のような若い英雄とバラのつるのようなヒロイン(時に、花のつるが絡まった糸杉に喩えられる)、気配りと真の献身を併せ持つ、少女の賢い老乳母、白髪を生やし慎み深い態度の老賢人、控えめな若い従卒を伴った重装備の武骨なパラディン[高位の騎士]やナイト、農場の匂いが漂う、芯まで正直で信頼できる農夫または牧夫などだ。

また、ライオン、悪魔、魔女、怪物などのキャラクターも重要で、これらのキャラクターは、人間の役者たちを生き生きとさせ、その血しぶきは写本の細密画の多くに見られる。
これらの絵柄が、私たちにとって見慣れた、あるいは陳腐なものに見えるとしたら、サファヴィー朝にとっては、どれほどそうだったことだろう。しかし、16世紀のイランでは、私たちが悪徳酒場経営者や銃を持ったカウボーイや無垢な乙女を好むのと同じように、こうしたキャラクターが好まれていたことは確かである。しかし、サファヴィー朝は、われわれのようにタイプに傾倒していたため、それらを控えようとしたり嘲笑したりすることはめったになかった。

イランの絵画では、特にホートンの写本では、崇高さだけでなく、バーレスク(戯れ言)も描かれている。大胆なファリドゥンのさまよえる目は、邪悪なザハークを打ちのめすときでさえ、窓の上の少女に釘付けになる(113ページ[36vファリドゥンがザハクを倒す])。
また、酒に酔った歴戦の兵士が襲われる場面(156ページ[241r 酔いつぶれたイラン陣営が攻め込まれる])で垣間見られる軍隊生活ほど、無作法で滑稽なものはないだろう。

ホートン写本の珍しい魅力は、サファヴィー朝初期の芸術(シャー・イスマイルの武装陣営の雰囲気がまだ残っていた時代)の土臭い雰囲気から、1530年代後半から40年代初頭のシャー・タフマスプの法廷の洗練と優雅さまで、幅広いユーモアを備えている点である。
後期の細密画では、喜劇性よりもウィットが際立っている。また、人間の癖を鋭く観察することによって、多くの楽しみを生み出している。初期の作品では、通常、より大衆的な内容で、ラブレーのような状況に遭遇し、精神状態の正確な分析よりも、身体の外観や身振りに依存する。

しかし、イランの細密画に衝撃を受けることはほとんどない。おそらく、そのすべてが社会のより上品な、あるいは格式ある層に由来するものだからだろう。(例外のほとんどは、「好奇心」の旺盛なパトロンのために作られたようです。)14世紀末のジャライール朝、スルタン・フサイン・ミルザのヘラート、1540年代のシャー・タフマースプの周辺など、特に洗練された宮廷では、不快に感じられる題材が複雑な装飾によって無害にされている。(例外は、「好奇心」を好むパトロンのために作られたものが多いようだ)。
特に洗練された宮廷(14世紀後半のジャライール朝、スルタン・フサイン・ミルザのヘラート、1540年代のシャー・タフマースプの周辺)では、不快感を与える可能性のある題材が、複雑な装飾によって無害化された。淫らな行為の真っ最中の恋人たちは小さく描かれ、垂れ幕がかけられた。また血は、戦場というよりもシャンパンの噴水を思わせる装飾的なパターンで流された。

イラン絵画は、超高級で快楽主義的な芸術だと思われがちである。実際、イラン絵画は、その起源となった多面的な文明の不可欠な一部なのである。しかし、『シャーナーメ』のような書物は、若い読者を喜ばせ、楽しませるためのものでありながら、同時に教えるためのものであった。その物語は、それが作られた文明の伝承を要約したものである。歴史書であり、政治書であり、宗教書でもあるこの書物は、ある文化の身体と精神、直感と知性を集約したものである。また、その図版は、シャー・タフマースプの宮廷の様子や風俗を知る上で信頼できるものである。p32

イラン絵画における宗教的要素は、一般に西洋ではほとんど理解されていない。おそらく、イスラム世界とキリスト教世界における宗教的主題の伝統の違いが主な理由であろう。西洋では最近まで、宗教団体が主要な後援者であり、十字架や告解、預言者や聖人の似顔絵など、宗教の神話を表現する芸術は、教会や宮殿、家庭などにふさわしいものだった。イスラム教では、このような宗教芸術は珍しい。
クルアーンには挿絵がなく、モスクの壁も聖画やその他の絵で飾られることはなかった。しかし、イスラム教が宗教的な表現をする機会をあまり与えなかったからといって、宗教美術が存在しなかったわけではない。神学書や聖人の生涯、メッカ巡礼などのテキストには絵が描かれていた。まれに、私たちの文化圏でもそうであるように、そのような挿絵は、主題だけでなく感情も宗教的であることがある。また、ニザーミのような詩人が宗教的なエピソードを描くこともあった。例えば、預言者の昇天は、真に宗教的な芸術作品にインスピレーションを与えたと思われるテーマである。

しかし結局のところ、西洋と同様にイスラムにおいても、深い宗教的な絵画は、特定の図像ではなく、神秘的あるいは汎神論的な性質に依存する。画家が宗教的な気質を備えていれば、宗教画を制作する可能性は高い。スルタン・ムハンマドの《ガユマールの宮廷》[folio20v]は、イラン最初の支配者の物語を描いているが、一見しただけでも、その下にはるかに多くのものがあることが確認できる。山肌には、霊界からやってきた幻の存在、おそらくは再生を待つ魂がうごめく。この絵は、世界でも有数の神秘的な芸術作品として認識されるに違いない。


■メモ
スルタン・ムハンマドの《ガユマールの宮廷》[folio20v]、画面中央に濃いグレーの色の滝が見えます。これは銀の顔料で、制作当時は銀色に輝いていたものと思われます。滝と、その下、ライオンの寝そべる緑地にも小川が流れている様子です。いまは中央部が黒っぽく、重たい印象ですが、この部分が銀色だと、随分違うでしょうね。。。

細密画ファンの方のブログ(最近はあまり更新されていないようです)

ペルシャ細密画の材料と技法 イギリスの研究所The British Institute of Persian Studies (BIPS) のサイト

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