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+ 紀元節・・・ 日本国建国の起源を考える  憲法の精神  自由と平等の人権論

2015年02月12日 07時49分12秒 | 幸福実現党応援隊


 

 

 紀元節  今を紀元と  神集い  

   梅士 Baishi

 

  

  

 日本の建国は、海外のそれとは少し違う。

 なぜなら、他国の脅威がないところでの建国だからで

ある。

 その分、緩やかでおおらかな国作りであったろう。


 しかし、縄文時代といわれるような原始社会だったわ

けではないはずである。

 否、縄文時代でさえも、国家としての高度の精神文明

があったと思われる。

 そこには、国を作ろうとする高度の文明があったと思

われる。

 日本建国の原始として語られる紀元節は、それを物語

る。


 なにもかも、文化文明がチャイナ文明の滴でもあるか

のような教育がなされてきたが、これも自虐史観と言う

べきであろう。

 チャイナ全盛期の文化から多くを学んできた所もある

が、学ぶ力が日本文明としてあったということに思いを

いたすべきである。

 チャイナから学ぶ価値も、唐の昔に終わったことでも

ある。


 日本は新たなステージに立っている。

 アジアのリーダーとして、世界のリーダーとして、新

しい地球文明を引っ張る役割を担わなければならない。

 いつまでも、公務員的反日左翼の勝手にさせてはなる

まい。



 

 

 戦後七十年の日本の課題は独立宣言にある。

 独立宣言に続く人権宣言も見直されなければならない。

 そこに、憲法問題があるということである。

 まずは、独立宣言の憲法を持つアメリカにならって、

独立宣言をすることである。


 アメリカの奴隷的植民地国家のままであってよいはず

がないではないか。

 もちろん、反日左翼が目指す、中国の属国になるなど

もってのほかである。


 平和とは事なかれ主義の事ではあるまい。

 発展的競争はあるのであり、その舵取りとしての調和

の精神が求められるのである。

 その意味で、平和とは発展的調和と言うべきである。


 その手段として欠かせないのが、軍事力である。

 警察の機能をみれば、それくらいのことは分かるであ

ろう。

 国際社会にあっても同じことである。


 自治体で人権といえば、同和教育とされている。

 なぜこんなことがまかり通っているのか。

 人権の原点は神の視点である。

 『王といえども、神と法の下にあり』というマグナカ

ルタにも表現されていることである。

 人の視点に立った人権論は、私利私欲にならざるを得

ない。

 

 『自分がされたくないことを人にはするな、人が喜ぶ

ことを我が喜びとしてせよ』というのが道徳律としてあ

るであろうが、支配者には通用しないであろう。

 道徳の原点にも神があるということは認めなければな

るまい。


 神とは人としてこの世に現れて人々を思想と行動で導

いた人格神である。

 神を否定すれば、強者による弱者の支配という脆い社

会になる。

 そのような社会を平和とは思えないであろうし、支配

を人権とは感じられないことであろう。

 チャイナに人権がないのをみれば分かることである。

 

 



 人権論の本質は自由にあるが、もう一つ、一見矛盾す

る平等が説かれるところに理解の難しさがある。

 個性を探究し、発展を目指すのが自由である。

 しかし、結果は平等とはならない、という矛盾である。


 格差が広がることはよろしくないという、結果平等主

義が平等ということの理解である。

 禍の国フランスのピケティーという経済学者の本が売

れていると言うが、格差否定論を中核とする社会主義経

済学というべきであろう。

 結果平等主義の考え方が格差批判である。


 しかし、格差を悪いことだというなら、自由とは悪い

ことだということになる。

 個性も認めるべきではないということになる。

 個性もまた、結果平等を妨げる要素だからである。

 故に、社会主義政治は恐怖政治となる。


 人権としての平等とは、格差社会批判にみられる結果

平等主義にはない。

 そもそも、格差という考え方自体が、十派一からげの

画一的人間観を前提としているように思う。

 貧乏と言われる状態にも、大きなお世話だという自由

がある。


 すなわち、平等の理解にも神の視点が大切だというこ

とである。

 神の目から見た平等観とは、愛に他ならない。

 等しくかわいいという育みの愛である。

 この愛を、平等という思想に置き換えると、「弱い者

いじめをしてはならない」という調和の精神になる。


 自由への戒めが、平等という愛の精神にあるというこ

とである。

 法の下の平等とは、弱い者いじめをしてはならないと

いう愛の精神である。

 そう理解することによって、自由と平等が人権として

の幸福追求の思想として融合することができるのである。


 もう一つは、それぞれの格差のある試練の中で、チャ

ンスを奪ってはならないということであろう。

 チャンスの平等というが、現実は平等ではない。

 しかし、それも結果平等的に理解してはならないので

あって、チャンスを奪ってはならないという意味に解釈

されるべきである。

 

 その中で、特に大事なのが教育機会を奪ってはならな

いという観点である。

 学資融資制度の充実が求められる理由である。

 また、自習環境としての図書館機能を充実することも

大切である。


 図書館は、本を借りたり閲覧することよりも、自習す

る学習の場としての役割を柱とするべきであろう。


 以上、簡単に自由に対する平等の意義が、自由のモラ

ルとしての愛にあることを述べてきた。

 間違っても、共産主義や社会主義という、人の人によ

る支配と、結果平等の強制という思想に取り違えられて

はならない。

 だからこそ、信仰が大切なのである。

 信仰なくして、人権理解はないであろう。


 日本人は恵まれている。

 街にはたくさんの神社や寺社がある。

 そこで神への感謝をささげることができる。

 さらには、奇跡の教団、幸福の科学に学ぶことができ

る。

 

 幸福を追求するとは、愛と知恵を深め、反省から発展

をめざす志に生きることである。

 そこに、「人生は一冊の問題集」という悟りの言葉が

ある。


 さて、自分はどうするべきか・・・、貧困克服という

課題を重たく感じさせるのは私利私欲なのであろうか・・・。 

  

         

立憲女王国・神聖九州やまとの国

幸福実現党応援隊・ 梅士党

 

 

 

 

 

  

  

 

 

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