諏訪の坂 神もごったに おくんちし
馬糞 Bafun
今日は、長崎くんちのフィナーレである。
もう20年来見ていない。
くんちの頃は、朝夕がとても冷える。
その緊張感の中、あの狭い諏訪神社の階段踊り場で
「コッコデショ」と傘が踊る。
何とも異国情緒な奉納祭りである。
秋は祭りやイベントのシーズンである。
しかし、祭りとイベントは似て非なるものである。
祭りは神聖であるが、イベントは社会的娯楽か宣伝行
事にすぎない。
祭りはアートであるが、イベントは商業広告である。
祭りは神のブランドであるが、イベントは商品ブラン
ドである。
祭りと呼ばれているものの中に、祭りではないものが
ある。
同様に、芸術といわれるものに地獄のものがまぎれて
いる。
神のブランドをもたないものを祭りというべきではな
い。
祭りの本源は、神降しの儀式である。
神を迎え、神を見送る祭礼なのである。
博多祇園山笠は神聖な祭りの緊張感と芸術性があるが、
博多どんたくにはそうしたものがない。
だから、どんたくは心に響くものがない。
昨年はギリシャの原点に返ったはずのオリンピックで
あったが、中身は祭りではなく、イベントと化していた。
近代オリンピック生みの親であるクーベルタン男爵は
そうした区別をしていただろうか。
古代オリンピックはオリンポスの神々の前に奉納され
た祭典であった。
肉体と精神の調和、自制と相手尊重のスポーツマンシ
ップがオリンピックの精神である。
神聖な祭りであったからこその精神ではないのか。
神なき競争は弱肉強食への歯止めがないが、神の前に
する競争はお互いが磨きあう切磋琢磨である。
人間社会がイベント社会になると弱肉強食に堕落する。
見よアメリカを、見よおぞましきチャイナを。
イベント社会の悪相が現れている国である。
アメリカには神聖さが残っているが、
チャイナの神は共産党の牢獄につながれている。
およそ神聖とは縁遠い下品な国柄である。
神なき国は滅びるのみである。近づいてはならない。
日本の政治もまた、本来のまつりごとを忘れ、
イベントとしての政争を演じてはいないか、反省せよ。
神なき政党、それが、共産党であり、社民党であり、
その親戚の民主党の本質である。
神なき政治は、力を権威として、人が人を支配する政
治となるであろう。
経済もまたしかり。
本来の経済は経世済民の神聖な使命を本源とした。
ところが、今日の商業経済は風俗営業を入れたイベン
トであり、欲望の闘争に堕落している。
それが、経済の崩壊と社会の無法化に連鎖している。
神仏から離れるとき、人は下品になり、堕落が始まる。
長いデフレ経済が続く間、天変地異がやむことはない
であろう。
われわれは、仏神の前に謙虚になって反省しなければ
ならないのではないか・・・。
諸悪の根源は神を追放した人間の傲慢にある。
不幸の根源は、人間の自己中心。
心から、仏神を追い出してはならない。
J.D.Subunroco.