悠歩の管理人室

歩くことは、道具を使わずにできるので好きだ。ゆったりと、迷いながら、心ときめかせ、私の前に広がる道を歩いていきたい

往生際

2008-02-29 19:11:18 | Weblog
 時々大きなくしゃみ、鼻水、眼の周辺が少々むずがゆい、もしかしたらと思うのだが、まだ本人は了解していない。

 外を歩いても何ともないことが多い。現時点では、自己診断名「超軽度・間歇的だがちょっと派手な・くしゃみ症候群」。と理解している。以前、職場の長が、「根性で乗り切れ、根性の問題だ」と言っていた。その当時は、まったくその気(け)がなかったので、「なんと野蛮な、非科学的な」発言、と内心思っていた。

 去年もこんな状態が少しあったが、たいしたことはなかった。”少~しずつ、症状は進むのだよ~~”という声も聞こえてこないこともない(否定の連続とパソコンめに注意された)。

 だが、ぎりぎりまで認めない。前立腺だって、「今の状況が辛いかどうか」で判断してくださいという言葉を金科玉条のように信奉しているのだから。
 
 

今回は、それほどでも(少汗)

2008-02-28 18:22:29 | Weblog
 夕飯の材料を求めて、近くのスーパーに買い物に行った。さて、支払いの段になって、財布が空っぽであることを発見。レジのお姉さんに「預かっておいて」と言って、家に帰り別の財布を捜して来て、無事会計を済ませた。

 今回は、全く足りなかったので、むしろ潔く、それほど恥ずかしくはなかった。これが、少し足りないと、けっこう恥ずかしい。どれを戻すかということになる。必要度を勘案し戻すわけだが、この間が気まずい。

 これまでで最高だったのは、25年くらい前、三和の手話サークルの帰り、午後8時過ぎ、125号線のラーメン店でのこと。無事食べ終わって、さて支払おうと思ったら、財布がない。この時は最初から財布を忘れていた。心臓が「ドキ、ドキ、ドキ」。他の客もいた。仕方なく、「済みません、後で持ってきます」と言ったら、「あぁいいよ」と言ってくれた。「明日持ってきます」、「ついでの時で良いよ」などと、やりとりをした。この店は、2、3度来ているが、顔を覚えてもらうほど通ってはいなかった。翌日、仕事が終わってから持って行ったが、冷や汗ものだった。

 この話には、後日談がある。この店は間もなく閉じた。ここ主人が間もなく亡くなったのである。私は、事情があって、このお宅を訪ねることになった。奥様に、先の事情を伝えて、「その節はお世話になりました」と伝えたのは言うまでもない。

困ったときのカレー

2008-02-23 19:18:37 | Weblog
 最近は、いつも困っているので、珍しく困ったわけではないのだが、今日は(も!)カレーである。「地中海カレー」と銘打ったもので、母が孫とヨーカドーに行ったとき買ってきたもの。味見コーナーにあったらしく、「おいしかったよ」と言うのだが、普通のカレールーと手間は同じ。最初に聞いた話では、温めれば食べられる、レトルトと勘違いするような話だった。
 仕方なく、型どおりに作る。月桂樹は、買ってきたはずなのに見つからない。仕方がないのであきらめる。例によって、ウスターソース(いつもはトンカツソース)、酢、ケチャップ、醤油少々を加える。スープは、鶏ガラに塩、醤油、胡椒少々、ネギを加えたもの。
 明日は、真壁のひなまつりウォーク。古河からは、19人が参加する。弁当をどうしようかな~

勝手に街づくり委員会その②

2008-02-19 11:23:17 | Weblog
 昨年4月、門前の狭い空間にベンチを2個置いた。昨年の「太田グリーンマーチ」参加の行き帰り、「歩いて暮らせる街づくり」構想を話したところ、同行のKさんが、家に手作りのベンチがあるので寄付をしてくれることになった。太田からの帰り、早速いただいてきた。門には、「どうぞご自由にお休みください」と表示した。
 時々、高齢のご婦人が、フレッシュでの買い物の帰りに通られ、一休みしていくことがある。

 構想というのは大げさだが、買い物その他で街を歩いている人が、疲れたとき座れる場所があれば、安心して出歩けるのではないか。買い物にも、車ばかりではなく、歩いて近所の店に行く。歩いて、役所に行く。こんなことがしやすい街になれば、市民は歩き、結果として健康市民が増える。「歩いて暮らせる街」だ。

 一般住民は言うに及ばず、高齢者、障害者、観光客なども、至る所に休憩所があれば、助かる。私の家は、観光客が通る可能性は少ないが、これを見た人がまねをして、町中に広がることをねらっている。ベンチでなくても、椅子一つでも良い。

 昨年の桃まつりの頃、あるお店に緋毛氈を引いたベンチがあったのを見つけた。聞くとこの時期だけ、商工会議所で用意し、店の前に出しているとのこと。できれば、毎日出してくれると、観光客にも嬉しいのではないか。街の雰囲気が良ければ、リピーターも増え、街の活性化は、いずれ商業の発展にも繋がると思う。お金をかけなくても、迎える気持ちは伝わる。全国を歩いてみると、そんな姿勢を受ける街がある。すぐに収入増に結びつかなくても良いではないか。何もしなければ、何も変わらない。
 古河の七福神巡りとカレー麺は、おもしろい取り合わせだが、参加者が増えれば良いと思う。散歩だけに終わらせるのはもったいないので、せめて10㎞くらいのコースを作ってみると、外来者も増えると思う。

 ※ 街で見つけたもの。これは、先の話と関連するが、歩道を造るときの副産物。最初の写真は、駅西の通り。ここに座る気にはなれない。



 ※ これらの石は、縁石代わりだが、次の写真は大聖院の北、境土木事務所管轄の敷地脇の歩道にある石。椅子代わりと見えなくもない。



 ※ 次の写真は、さらに100㍍ほど西に向かったところにあるコンビニの店先。


見つけもの

2008-02-17 16:25:11 | Weblog
 昨日、例会で鎌倉に行った。朝方は少々寒かったが、歩き出す頃には歩きにふさわしい頃合いになった。鎌倉は、歩いて楽しい街だ。街の案内書などを片手に歩くのも良い。私は、写真担当のつもりだったが、後半アンカー付近をうろうろしてしまった。開かずの踏切に阻まれたこともあったが、先頭を見失ったりもした。コースはわかりやすかったので、地図を見て追いつくことはたやすかった。

 途中で、オーガニックマフラーという表示に誘われ、気に入った色のマフラーをもとめた。宮崎タオル制作の今治マフラーというもので、自然の素材を使ったもの。お店の人に、「マフラーだけ持って行きますか」と言われ、それでも良かったのだが、簡易包装の中に、メッセージらしきものが見えたので、そのまま持ち帰った。帰って包装を解くと、メッセージには商品の紹介がされていた。辰濃和男さんが天声人語に書いた、「楽しみながら歩けば、風の色がみえてくる」が紹介されており嬉しくなった。このマフラーは、「歩く」をコンセプトに作ったとのこと。UVカット効果や、吸汗、速乾性がある。

 私が初めて、スリーデーマーチに参加したのが1985年11月2日~4日。この言葉が、最初に掲載されたのが、1985年7月21日の天声人語だった。この3年くらい前から、気になっていた大会だった。もしかしたら、この記事を読んだことが、東松山行きを後押ししたのかもしれない。

認定のことなど

2008-02-14 22:35:16 | Weblog
 私たちウォーカーは、歩きを形に残すことを楽しみの一つとしている。IVV(国際市民スポーツ連盟)の距離、参加回数認定、地球一周四万キロ等々。
 これらは、原則として買い物や通勤などの歩きは含めない。歩こうという意思の下に、距離を稼いだものが認定の対象となる。ここで、IVVの場合は、10㎞以上とか、IVV登録団体の認定とか、それなりの仕組みが介在する。

 今日は、10,000歩、歩いた。すべて、所用であるが、ウォーキングシューズを履き、リュックを背負い、用向きの出先までの間は、時速6㎞近くで歩き汗をかいた。
 これから「距離測」をしてみたいが、さて何㎞となるか?予想では、8㎞である。

結果は、ここを見てください。

 私は、四万㎞はやっていないが、このような歩き方をした場合は、申請して良いのだろうと思います。

風が吹くと餃子が売れる

2008-02-13 19:08:43 | Weblog
 NPO準備会(歩けではないが)の役員会があり、歩いて出かけるつもりだった。帰りに玉宝堂(歓歩賞のストラップを作ってくれるはんこ屋さん)まで歩いていき、もしかしたら歴史博物館まで足を延ばそうかと思っていた。ところが、家人が、「今日は寒いので、車で送ってくれないかな~」というので予定が狂った。

 とりあえず、会議場所までは徒歩。そのまま歩いて帰って、それから車で、家人を迎えに行く。ついでだから、玉宝堂に寄って、近くの山陽楼に寄った。つまり、「今日は餃子だ」ということになった。

 寒いのが苦手な家人だが、私もそのうち、子や孫に移動を頼るようになるのだろうか。近未来を見るような、ありふれた風景を見たのだろうか。

 たまたま、昨日読み終わった志水辰夫の「滅びし者へ」は、オカルトっぽい変な作品だった。未来を予見できる主人公の冒険譚風のもので、一気に読んでしまったから面白かったのだが、んんん~ん!!どうなのかな~という作品だった。だが、宮部みゆきの「模倣犯」よりはよっぽど読後感は良かった。因みに、「蒲生邸事件」は2回読み直した。これは面白いし、読後感も悪くない。

 

市内悠歩

2008-02-11 17:38:11 | Weblog
 「山と渓谷」に気になる記事があったので、駅ビルの「かもじや」に行く。他に「郷土の先達と行く筑波山」、「江戸の<かたち>を歩く」などをもとめた。店を出て、当てもなかったが西口に出た。「イヤーラウンド」の基地探しが頭の片隅にあるので、眺め回したが、すぐに散歩に切り替えた。

 西口からまっすぐ2丁目の通りに向かう。信号を渡り、旧市役所前からサンスイ前の白壁の屋敷を眺め、参宮道路に向かう。雀神社は、「正一位雀大明神」となっており、出雲大社の分霊を移したと言われている。神社本殿に向かわず、土手への階段を上ると「万葉歌碑」がある。日光連山を眺め、永井寺(えいせんじ)の裏手から入る。ここは家康に仕え、長久手、関ヶ原の戦いで戦功のあった、永井直勝(ながいなおかつ)の墓があり、永井家の菩提寺である。

 ここから、「水戸藩勤王の志士殉難の碑」を探して歩く。何度か見ているが、城下町らしい道の造りでまっすぐにたどり着けなかった。これは、水戸藩の家老以下百余名が幕府の命により処刑されたことを祀るため建てられたもの。古河藩預けとなり、古河にて処刑されたので、水戸のゆかりの方は、最近まで古河を受け入れ難かったとのこと。

 このあと、「田町福寿稲荷神社」に寄った。ここは、神主は不在であるが、月に3回ほど、中田の「鶴峯八幡神社」の神主であり、中田郵便局局長の高橋さんが来られる。ここは、数年前に失火で焼けた。小さな社だったが、「おおぞら」で木工の指導員をされていた方が修繕を担当していたところであった。消失後かなり気落ちされ、当時90歳を超えていたこともあり、間もなく亡くなったと聞いた。

 この後駅に戻り家路についた。締めて5.6㎞の悠々散歩であった。

予感

2008-02-09 18:04:51 | Weblog
 中島みゆきのアルバムに「予感」というタイトルがある。「髪を洗う女」 、「テキーラを飲みほして」、「ファイト!」などが収録されている。

 今朝の台所の水道水は、かなり冷たかった。ぬか床も冬になるといつまでもかき回していると、手が冷え切ってしまう。外の水場には薄い氷が張っていた。空気も冷たく、この分では雪になるかと思った。先に凍えていた水仙は、10幾つ花をつけて元気に咲いていた。午後、1時過ぎには雪がちらついた。今日の古河悠歩の会役員会には3人の欠席者があったので、1人分私が届けることになった。歩いて行くのは億劫だったので、車で行ったが、間もなく上がってしまった。

 今、池波正太郎の本を読んでいる。全集はあるのか調べたところ、「完本池波正太郎大成」…全31巻…が、講談社から出されている。古本で20万円丁度。26巻のものが8万8千円。これでそろえれば12万円位で揃う。注文すると、20数万円になる。
 いかにも高いので、古河図書館に行った。この頃には、雪がたっぷりと降ってきた。全集コーナーで見つけた。厚いものでは、6センチほどもあった(目測)。これでは、歩きに行く時、リュックに入れていくには重いしかさばる。やっぱり、文庫かなと思いながら、帰ってきた。文庫でも、梅安シリーズ、剣客商売、鬼平シリーズだけで、50冊を超すだろう。これらはすでに持っているので、他のものを読めば良い。図書館には全集が揃っているので、これを借りに行くという手もある。歩いて412mである。どうということはない。

 しかし、家に揃えるという誘惑は大きく、しばらくは悩み多い日々を過ごすことになりそうだ。
 

1960年前後

2008-02-08 19:11:11 | Weblog
 この時代は、私にとって物心ついてから小学校高学年までの間になる。

 弟が生まれた時、私は3歳であったので、覚えているわけはないはずだが、ある映像がはっきりと浮かぶ。台所の南側には四畳半の食卓があり、小さな炬燵もあった。私が座っている頭の上にはラジオがあり、1丁目1番地や赤胴鈴之助などを楽しみにしていた。その後、私は島倉千代子、弟は美空ひばりが好きになり、ラジオから歌声が聞こえると、飛んで帰ったものだと、父母から聞かされた。このラジオには、アースがついていて、黄色い線が床下に延びていた。当時の家は、父が買ったもので、東京から疎開してきた人が移した建物とのこと。東京サイズで、畳も柱も丈が足りない。高校生くらいになるとよく額をぶつけていた。

 この部屋に、今は川崎に住む叔母と父と私がいたようだ。そのうちに弟の産声が聞こえてきた…この部分は、想像である。たぶん、後で聞いた話をつじつまを合わせて記憶したのだと思う。

 この部屋の南側には6畳間があり、その西側は狭い土間だった。この土間で餅つきをした記憶がある。臼と杵は、知り合いの石屋さんでリヤカーも借り、運んでいた。二十日ネズミやひよこを飼ったこともある。土間は、もちろん下が土で、当然のことに踏み固められており、今でいえば不細工なアンツーカーみたいなものだ。

 当時、家では鶏を飼っており、卵を取っていた。そのうち卵を産まなくなると、しめた。先の台所の東側に井戸があり、そこで父が鶏の首をはねる。首をはねられた鶏は、駈け出して隣の家の塀にぶつかって倒れた。こんな記憶がいつまでも残ってい、鶏の肉が食べられなくなった。首を刎ねるといっても武芸者ではないのだから、スパッというわけにはいかず、中途半端に駈け出したのかもしれない。この後遺症は、約40年以上続いた。

 最近は、この時の鶏にはたいへん申し訳ないのだが、近所の安くてボリュウムたっぷりの焼き鶏が好ましくなり、気恥ずかしい思いで、いただいている。