【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「落語娘」:柳島バス停付近の会話

2008-09-10 | ★門33系統(豊海水産埠頭~亀戸駅)

この川沿いの散歩道もこれだけ長いと、歩いているうちに落語の「じゅげむじゅげむ・・・」も全部語り終わっちゃうかもしれないわね。
散歩しながら、落語の稽古をするつもりか?
いけない?
いけねえ、いけねえ。女が落語をするなんて、女が寿司を握るようなもんで、どうも粋じゃないねえ。
そう?
あったりめえよお。真昼の星だ。見られたもんじゃねえ。
なに、落語家みたいな口調になってるのよ。
いや、だって、映画の「落語女」の中の偉い落語家も女に落語は無理って言ってたじゃねえか。
弟子入り志願のミムラも同じようなことを言われて門前払いされてたけど、一風変わった落語家に拾われてたわ。
女と金にだらしねえ異端の落語家だろ。津川雅彦が軽妙に演じやがってた。
彼の弟子になったミムラは、すったもんだしながら一流の女落語家になっていく。めでたし、めでたし。
ま、ひとことで言うとそういう話なんだけどよ、ただの人情話とはどこか趣きが違ってたぜ、はっつぁん。
って、誰がはっつぁんよ。
じゃあ、くまさん。
誰がくまさんよ。
だって、お前の目の下、くまだらけだぜ。
あのねえ、あなたの無駄話につきあってるひまないの。いまは映画の話をしてるのよ。
そう、そう。映画の話だった。「落語娘」。タイトルがいかにもだし、主演はミムラだし、「しゃべれども しゃべれども」のような展開の、心にポッと火が灯る温かい物語だとばかり思ってたら、途中からちょっとトーンが変わってくる。
意外よね。
その演目を演じた者はみんな死ぬという呪われた落語を津川雅彦が披露するっていうおどろおどろしい展開にポイントが移っていく。
さあ、津川雅彦は無事にこの一席を演じ切れるのか。弟子のミムラは師匠の危機を救えるのか。
毛に汗握る展開だ。
それを言うなら“手に汗握る”展開でしょ。それにしても、津川雅彦の演じる落語がどうにも本格的な怪談話なのにびっくり。
鼻の毛もよだつ展開だ。
それを言うなら“身の毛もよだつ”展開でしょ。
そうとも言うな。
落語の中に出てくる哀れな女の怨念が、それを演じる落語家に乗り移っちゃうっていう設定。
江戸時代の男と女の怨念話を丁寧に見せていくんだけど、それがまるで中田秀夫の「怪談」みたいな本格的な時代劇になってる。
でも、最後はくるっと回ってミムラが主人公の明るい人情話に戻ってくるんだけどね。
思いがけずミムラが師匠を助け、また落語家としても成長する。元気な女落語家と、恐ろしい怪談話と、温冷二題話みたいな展開を一本の映画にまとめあげていく、その手つきがうまい。鮮やか。監督の中原俊は、職人的な技で好編に仕上げたな。
でも、職人的なだけに、どこか地味な印象もつきまとう。
観た人は結構面白かったって言うけど、最初から観る気にはなかなかならない。
この手の映画のつらいところね。
ま、女の落語ファンがひとり増えただけでも、もうけものってところだな。な、くまさん。
はい、はい。じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのぶらこうじパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーのちょうきゅうめいのちょうすけさん。
って俺のことか?
もちろんよ、じゅげむじゅげむごこうのすりきれ・・・。
長い!



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