【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「グーグーだって猫である」:十間橋バス停付近の会話

2008-09-06 | ★門33系統(豊海水産埠頭~亀戸駅)

うなぎといえば、「グーグーだって猫である」を思い出すな。
なんで?
どちらも、とらえどころがない。
なるほど、座布団一枚!・・・なわけないでしょ。ただのこじつけじゃない。
しかし、犬童一心監督の「グーグーだって猫である」は、漫画家の日常を点描するだけで、なーんかとらえどころのない映画だったなあ、って気がしないか?
だって、大島弓子の原作がそうなんだから仕方ないじゃない。
でも映画までそれでいいのか?俺は、一本芯が通った物語があって、それに展開が貢献していく映画じゃなきゃ満足できないんだよ。だらだらと漫画家の生活が描かれても眠くなるだけでさあ。
それはまた不幸な性格ね。グーグーという名前のオス猫が白いメス猫を追いかけるシーンとか、老人体験だといっておかしな器具をつけて街中を走り回るシーンとか、けっこう愉快なシーンがいっぱいあったのに。
そこにあるのは、‘恋’と‘老い’だろ。中年の漫画家にとって切実な問題だ。ちゃんとそういうテーマはあるのに、映画として深く掘り下げることなく、うわべだけなぞって終わっている。それが俺には悔しいのさ。
軽いタイトルから感じられるように、そんな深刻な映画にするつもりは始めからないんだから、それを期待するほうが間違いよ。
しかし、名前は変えてあるものの、明らかに主人公は原作者の大島弓子で、彼女が実際に描いた過去の漫画の一部が映画の中に出てくるんだけど、そこは核心をついてる感じがあったぜ。
うん。ちょっと映画の空気が変わってね。「四月怪談」とか「八月に生まれる子供」とかもう一度読んでみたくなったわ。
あの線で映画にも一本芯を通せば結構傑作が出来上がった予感もするのに、中途半端にコメディに流れてしまった。惜しい。
でも、小泉今日子は相変わらず魅力的だし、猫はかわいいし、上野樹里も森三中も軽い演技を楽しんでるし、それでいいじゃない。
そういう細部だけで満足しちゃうから女はやだよなあ。男は、もっと全体として芯があるかどうかっていう大きな観点から映画を観てるんだよ。
そう?別に女だからとか男だからとかの問題じゃないと思うけど。
加瀬亮だって「人のセックスを笑うな」の松山ケンイチみたいに年上の女と恋する儲け役を演じているのに、あの映画ほどツバを飲むような胸焦がす展開にはならないし・・・。
品がいいのよ。
そうじゃないだろう。切り込み方が浅いんだよ。
だから、もともとそういう映画なの。素直に楽しめばそれでいいの。
やっぱり、そういう映画なのか。とらえどころのない・・・。
言いたきゃ、言ってなさい。私は結構満足したんだから。
ああ、エド・はるみのファンが観たら大満足だろうけどな。しまいには、これでもか、これでもか、と、グー、グー、グーが出てくるんだから。
そして、映画もグー。
俺はうなぎを食ったときのような、肝のある映画のほうが好きだけどな。
じゃあ、うなぎパイでも食べてたら?
昼間っから夜のお菓子かよ!



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