メディアの暴走。
言論の自由を掲げて他宗教への冒涜行為は戦争を仕掛けた事とよく似ている。単なる風刺として片付けられないのは先立って異教徒のシンボル(イスラム教の場合は預言者)をテロリストと見立てて絵を書いたこと。
現状況を見て何が原因でテロが起きているのかを理解するように努めるならば、このような風刺は書けないはずだし、そもそも歴史からみても判るように戦争のほとんどは宗教戦争だということ、また異宗教を理解するということが国際平和へ繋がるんだということが理解されていない。
デンマークからドイツ、フィンランド、とヨーロッパ国で、その風刺が擁護されるのは、おそらくイスラム教への嫌気ではなく、「イスラム原理主義から出たアルカイダ」への嫌気がごっちゃまぜになってしまっているからではないだろうか。
イスラム教はそもそもは多神教で、他の神をも受け入れ理解する教えであった。しかし古い歴史の中で、キリスト教とユダヤ教の一神教の考えを支持する一部のイスラム教グループが力を持ち、現イスラム教(信仰はアラー)になったと言われる。(まぁこの段階で一神教の根底は崩れているんだけど。)
しかしながら、このように一部の異宗教信者(かどうかは知らんけど?!)がメディアを使って行われる冒涜行為はある種メディアによる「テロリズム」と同レベルである。
今は一番気をつけなければいけない時に、わざわざ自分らから「ジハード」をしかけたようなものだ。これでデンマークやドイツでテロが起こっても文句は言えまい。
もちろんテロリズムを肯定することは毛頭ないが、「何故テロが起こるのか」という部分をピックアップして考え,歴史の中からも、現状からも、そのテロを少なくしてゆく道があるんだということに気づかなければいけない。
私は全くの無宗教者であるが、「何故世界の人々は宗教を必要とするのか」「一神教という教えがある中で、何故違う宗教(崇拝の対象の違い)が存在しているのか」は常に考えていかなければいけないのではないか、と思っている。
そうして初めて異なった価値観を理解し、「宗教上、生活文化上のタブー」を知り、平和へ持っていけるのではないかと思うから。(あ、でもカルト系は論外。。。というか、根底と目的が違いすぎなので。)そして、いつの時代にも宗教と政治は癒着しているものだという事実も念頭において、世界情勢を見ていかねばいけない。
ドイツといえば、つい最近クジラの死体を日本大使館の前に置き、抗議したとかしないとか。動物を思いやるのは結構だが、そこに文化の違いがあるということを理解してもらいたい。クジラは食べるなと言って、牛、ブタ、鳥、羊、などは抗議の対象外?ムダに牛肉を生産・加工して売れなかったらゴミ箱行きという現状はどう思うんだろう。
自由主義社会と同時に責任もついてくるという事実はどう考えるのか。
狂牛病だって、そもそもは人間の「身(勝手さ)から出た錆び」の結果。
もうちょっと冷静になって風刺というものをしていただきたいものだ。
風刺だったはずが、世界大戦への火付け役にでもなったら、その「言論の自由に対する責任」を彼らがとることが出来るとは到底ありえないし。
言論の自由を掲げて他宗教への冒涜行為は戦争を仕掛けた事とよく似ている。単なる風刺として片付けられないのは先立って異教徒のシンボル(イスラム教の場合は預言者)をテロリストと見立てて絵を書いたこと。
現状況を見て何が原因でテロが起きているのかを理解するように努めるならば、このような風刺は書けないはずだし、そもそも歴史からみても判るように戦争のほとんどは宗教戦争だということ、また異宗教を理解するということが国際平和へ繋がるんだということが理解されていない。
デンマークからドイツ、フィンランド、とヨーロッパ国で、その風刺が擁護されるのは、おそらくイスラム教への嫌気ではなく、「イスラム原理主義から出たアルカイダ」への嫌気がごっちゃまぜになってしまっているからではないだろうか。
イスラム教はそもそもは多神教で、他の神をも受け入れ理解する教えであった。しかし古い歴史の中で、キリスト教とユダヤ教の一神教の考えを支持する一部のイスラム教グループが力を持ち、現イスラム教(信仰はアラー)になったと言われる。(まぁこの段階で一神教の根底は崩れているんだけど。)
しかしながら、このように一部の異宗教信者(かどうかは知らんけど?!)がメディアを使って行われる冒涜行為はある種メディアによる「テロリズム」と同レベルである。
今は一番気をつけなければいけない時に、わざわざ自分らから「ジハード」をしかけたようなものだ。これでデンマークやドイツでテロが起こっても文句は言えまい。
もちろんテロリズムを肯定することは毛頭ないが、「何故テロが起こるのか」という部分をピックアップして考え,歴史の中からも、現状からも、そのテロを少なくしてゆく道があるんだということに気づかなければいけない。
私は全くの無宗教者であるが、「何故世界の人々は宗教を必要とするのか」「一神教という教えがある中で、何故違う宗教(崇拝の対象の違い)が存在しているのか」は常に考えていかなければいけないのではないか、と思っている。
そうして初めて異なった価値観を理解し、「宗教上、生活文化上のタブー」を知り、平和へ持っていけるのではないかと思うから。(あ、でもカルト系は論外。。。というか、根底と目的が違いすぎなので。)そして、いつの時代にも宗教と政治は癒着しているものだという事実も念頭において、世界情勢を見ていかねばいけない。
ドイツといえば、つい最近クジラの死体を日本大使館の前に置き、抗議したとかしないとか。動物を思いやるのは結構だが、そこに文化の違いがあるということを理解してもらいたい。クジラは食べるなと言って、牛、ブタ、鳥、羊、などは抗議の対象外?ムダに牛肉を生産・加工して売れなかったらゴミ箱行きという現状はどう思うんだろう。
自由主義社会と同時に責任もついてくるという事実はどう考えるのか。
狂牛病だって、そもそもは人間の「身(勝手さ)から出た錆び」の結果。
もうちょっと冷静になって風刺というものをしていただきたいものだ。
風刺だったはずが、世界大戦への火付け役にでもなったら、その「言論の自由に対する責任」を彼らがとることが出来るとは到底ありえないし。
人間の知性の成長度合は、
それぞれの集団間の
異なった価値観をいかに
相互に受け入れられるかで
計られると思う。
人間というものを互いに
理解することが、平和な
世界を造る一歩だと思う。
聖なるものへの
冒瀆と、
またその行為への
復讐は、
憎悪と残虐への
スパイラルへと
導いていく、
最も無智な行為
であると気付く
べきである。
「世界平和」
この言葉が現実になるのはあるのでしょうか。悲しいものです。
自分達の都合の悪いところは見ないフリ。
おっしゃる内容の風刺画が掲載されたときにどう反応するかを過去と現在から推測すると彼らは「他宗教の為の言論の自由」については真っ向から否定してくるでしょうね。なんとも身勝手な。。。
まず第一に、この事件において
・ムハンマドが描かれたこと、それはイスラム教の戒律違反であること
・ムハンマドが風刺されたこと、それをイスラム教徒が侮辱と感じたこと
・漫画の転載に対してすら批判が起こり、新聞各紙が自主規制を行ったこと
この3点の問題の明確な区別が誰もできていない。
信仰の自由は、まず他の宗教の教義を押し付けてはならず、個人は誰からも信仰を強制されないという意味での自由である。
風刺漫画掲載問題で、「ムハンマドを侮辱したこと」に関してはイスラム教徒が批判するのももっともだと思うが、
「ムハンマドを描いてならない」という点に関しては、戒律を守るべきはイスラム教徒内部に限定されることを忘れてはならない。
他の宗教信者がムハンマドをどれだけ描こうとも、それでイスラム教徒から文句を言われたりましてや死刑の対象にされるいわれはない。
そんな横暴を許してしまえば、次は「豚を食う奴は異教徒だろうと死刑だ」「酒を飲む奴は異教徒だろうと死刑だ」と言い出すだろう。
(じっさい、日本でもムハンマドの絵は数多く描かれてきたが、それが問題になったことなどない。
イスラム世界でもこれは厳格には守られておらず、ムハンマドを描いた絵はいくらでもある)
例えば、ある宗教Aの教典に「正方形は聖なる図形であり、何人も描いてはならない」という記述があったとして、
その宗教Aの信者自身が守るのはもちろんかまわんが、その宗教Aの信者でもなんでもない人類一般にまで戒律の厳守を強制したとしたらどうか?
「正方形を描くのはわれわれの宗教Aに対する侮辱である。描いた奴は異教徒だろうと他の国の国民であろうと、全員死刑にせよ、テロで暗殺せよ」と言い出したら納得できるか?
「俺たちは別に宗教Aに入信しているわけでも信仰しているわけでもない。
勝手にそっちの教義をこちらに強制するな」といっても「いや宗教Aは絶対唯一の宗教であり、異教徒もその法に従わなければならない」と聴く耳を持たなかったら?
要するに、今回の問題の一つは、イスラム教に入信しているわけでもないキリスト教徒に対して、イスラム教徒が自分たちの宗教の戒律を押し付けたことにある。
本来それはイスラム教徒の戒律であり、キリスト教徒がそれに反したからといって弾圧される筋合いではない。
ところがイスラム教徒は自分の宗教を絶対で唯一のものだと考えているから、他の宗教の信者にイスラムの戒律を強制して恥じることがない。
これはイスラムの信仰の自由が侵害されたのではなく、逆にイスラムが信仰の自由を侵害しているのである。
次に、
・ムハンマドが風刺されたこと、それをイスラム教徒が侮辱と感じたこと
の点であるが、この点に関しては、イスラムが批判するのは当然である。
ただ、それはあくまでも言論による批判に限る。
今回の事件では、それが正当な批判ではなく暴力を伴う限りにおいて、イスラム側に全面的に非がある。
たとえば、漫画家の首に莫大な懸賞金がかかり、テロや暗殺が推奨される状況はもはや正当な批判行為ではない。
(風刺という表現に対して暴力で応酬した場合、どちらに非があるか、考えるまでもない。
それを何をとち狂ったか、イスラム教徒の暴力行為を容認するかのような日本人には呆れるばかりである)
さらに根源的な問題は、『そもそもなぜあのような風刺が描かれねばならなかったのか?』という問題意識がイスラム側にまったくないことである。
(これはアメリカが嫌いという理由だけで、よく考えもせずにイスラム教徒に共感する愚かな日本人にもいえることだが)これは、ヨーロッパにおけるムスリムによるテロや暗殺事件が背景にある。
たとえばゴッホというオランダの映画監督が、イスラム社会における夫による妻への虐待を描いた映画を作成したところ、イスラム原理主義者によって殺害されるという事件がおきている。
ヨーロッパのイスラム移民は、言論の自由や信仰の自由といった人権思想をかたくなに拒絶し、むしろ非イスラムのヨーロッパ人をイスラムの戒律によって断罪し脅迫や暗殺という手段に訴える者がいるのである。
もちろんそれはごく少数だが、このような背景があるからこそ、あのような風刺漫画が描かれるということを理解しなければならない。
イスラム教徒はあの風刺漫画に対し正当に批判することはもちろんだが、一方ではあのような風刺を描かざるをえない状況を作り出した原理主義者の暴挙にも厳正に対応しなければならない。
ところが、イスラム教徒は風刺漫画を描いた漫画家や掲載した新聞社を非難するばかりで、自らの問題にまったく目を向けようとしない。
テロリストを押さえつける自浄能力がイスラム側にない以上、同じような風刺漫画は描かれ続けるだろう。
むしろイスラム教徒はあの風刺漫画を真摯に受け止め、襟を正すべきではないか。
今回の風刺漫画事件で、単純にキリスト教徒=悪、イスラム教徒=善という構図でみてしまうと、イスラム教原理主義者の言論の自由に対する迫害を許容することにもつながる。
イスラム原理主義者による自己の宗教を絶対化することによる言論の自由への暴力的脅迫は、ヨーロッパ人にとってまさに現在直面している大問題なのである。
そのような背景も知らずに、脊髄反射的にイスラム擁護・ヨーロッパ批判に走る日本人ほど愚かなものはないのである。
しかし、日本に関係してもっとも深刻な問題は、
・漫画の転載に対してすら批判が起こり、新聞各紙が自主規制を行ったこと にある。
今回の事件の特異なことは、イスラム教徒のほとんどが、当の風刺漫画を見ることもなしに非難していることである。
そしてそれは日本人も同じである。いったい、問題の発端となっている風刺漫画も見もしないで、それがどの程度深刻なのか判断できるのであろうか?
この点、風刺漫画を、『読者に情報を提示し判断させるために』転載しなかった日本やイスラムの新聞社は、致命的な失敗をしたのである。
ちなみにエジプトのアル・ファゲルという新聞はイスラム紙にもかかわらずあの風刺漫画を転載したのだが、それはこの漫画を読者に見せることで正当な批判を喚起するためであった。
これこそが報道機関のあるべき姿である。
問題になっているからこそ、それがどのようなものであるのか、正しい形で開示されねばならない。
それを転載しないということは、『イスラムに対する批判は全て許さず死刑にする』というイスラム原理主義に自ら屈したことになる。
(エジプト紙ですら批判のために転載しているのに、日本の新聞社はまったく何をやっているのだろうか?)
ムハンマドを描いてはならないというイスラム教徒だけに適用される戒律に従ったことも、日本の報道機関がそのように一部宗教に偏向的に屈して自主規制をした点で論外である。
現在、イスラム世界で風刺漫画に抗議しているのは、ほとんどが伝聞推定で、風刺漫画がとんでもなくひどい侮辱的なものだと『思い込んでいる』人によるものである。(日本人も同様)
実際に漫画をみたら、その印象は大きく変わるであろう(ヨーロッパのムスリムが以外に冷静なのはそのためである)
ここには、報道機関の自主規制によって人々が冷静な判断を下せず、いたずらに風刺漫画へのイメージを膨らませていく構図がある。
そしてこれが言論の自由を根本から破壊していることに報道機関も読者も気づいていない。
日本における風刺漫画問題にはこれが最大の問題である。
少なくとも日本においてイスラムを風刺漫画で描くことはほとんど不可能になってしまった。
いや、宗教に対する風刺行為全般が暗黙のうちに禁止されてしまったに等しい。
これでは戦前の国家神道への批判が禁止されていたころと何もかわらない。
マスメディアが言論の自由を弾圧することにむしろ荷担するという構図である。
このような言論の自由および信仰の自由の破壊は、それを支持した多くの愚かな日本人に責任があるだろう。
ハンドルネームがわかりませんので、Unknownさんへ、という形でコメントしますね。
言論の自由と信仰の自由の中には「責任」がついてまわるものだと思いますが、イスラムであってもキリストであってもヒンズーであっても他宗教であっても、互いの宗教に干渉しない、いうことが理想論からいうとそれは大前提にあってほしいわけです。一神教でも、攻められないかぎりは。攻めて行く方はそこで宗教上の干渉が存在しているわけですが。だから難しい問題なのではないでしょうか?
イスラムでもキリストでも宗派の違いがあり、それを受け入れられるグループとそれを排除したいと思うグループがあります。
が、なぜ彼らはそこまでこだわるのか。
国として教育と自由レベルの違い。
宗教を何に利用するかの違い。
各宗教への絶対的なタブーへの理解。これは宗教以外で他国での文化タブーを理解することにも通じます。
また、今回の911については明らかに宗教を利用した戦略的証拠文書もでてきていることから、単純に宗教的な闘争とは言いきれず、またそのテロが起こった背景を勉強してゆくと一概に言論の自由とか信仰の自由という問題だけでは理解しがたい深い問題なのではないでしょうか?
またイスラム教を「擁護」しているわけではなく、今の情勢を考えると今回の風刺画の表現が本当に理解を得られる範囲だったのかが論点にもなってきます。絵を見ましたが、言論の自由に対する責任については全然おかまいなしであったのではないかと思いました。
事実アメリカのライス氏でさえもイスラム過激派を刺激するような内容、またはテロを引き起こす要因をはらんでいる、と個人的見解で述べていました。
各宗教や国を勉強して理解すると、この問題はもっと深いものではないかと思うわけです。
>今回の風刺漫画事件で、単純にキリスト教徒=悪、イスラム教徒=善という構図でみてしまうと
これはどうでしょうか?イスラム教の中にもキリスト教の中にも仏教の中にも宗派はいろいろありますし。
>(ヨーロッパのムスリムが以外に冷静なのはそのためである)
国での教育レベルも大きく関連しているのではないでしょうか?
「風刺画を載せない」のではなく、その背景と見解をジャーナリズムで堂々と述べればよいのではないでしょうか?画による暴力とならないように工夫して載せ、それぞれ頭を使ってやればよいこと。それを短絡的に「イスラム原理主義に屈した」ことになるかどうかは個人の価値観の違いと視点の違いではないかと感じました。
しかし闘争が終わらない(悪化している)のは「報復」「悪意」「征服」「利権」そして「利己主義」などなど悪いスパイラルが刺激し合っているからでしょうね。