現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

吉田恵理「〈宮沢賢治〉をみる中原中也の眼」

2016-11-09 08:22:26 | 参考情報
 四季派学会・宮沢賢治学会イーハトーブセンター合同研究会 ―宮沢賢治から「四季」派へ―で行われた研究発表です。
 研究発表要旨は以下の通りです。
「中原中也の宮沢賢治受容に関しては、『春と修羅』や童話からの引用や影響をさまざまに指摘されてきただけでなく、中也研究の側から賢治の思想に接近するような試みも行われてきた。近年の動向として注目すべきは、「中原中也研究」第八号(二〇〇三)における「宮沢賢治と中原中也」特集とそれ以降の先行論であろう。そこでの議論は話題を様々に取り揃えつつも、二人の〈他力〉的境地にみる共通性、賢治の〈心象スケッチ〉と中也の〈名辞以前〉の親和性と差異をめぐる問題が柱となっているように見受けられる。しかし〈心象スケッチ〉と〈名辞以前〉が近づけば近づくほど、中也が賢治を評する文の中に用いた〈民謡の精神〉なる語――「古来「寒月」だの「寒鴉」だの「峯上の松」だのと云つて来た、純粋に我々のもの」――の居心地の悪さはますます際立っていくように思われる。
ところで、賢治を評するのに〈民謡〉の語を用いたのは中也だけではない。たとえば『宮澤賢治研究 第一号』(宮澤賢治友の会、一九三五)における永瀬清子がそうである。中也の言説を、賢治没後俄かに賢治評価が高まる同時代の潮流の中に置き直すとき、他の言説との比較を踏まえて、〈民謡の精神〉が賢治を媒介にして詩壇あるいは一般に向けて発せられていること、また「未だ我が国に於て、芸術は、手段として以外に認められたことはない」という主張に目を向ける必要がある。倉橋健一氏(『深層の抒情――宮澤賢治と中原中也』)が指摘したように、ここには「中也にとって根底にあったおのれに対する地方と、方法としてあらわれた都会の問題が横たわ」っていることも見過ごせない。中也と賢治の問題とは、〈宮沢賢治〉を語る中原中也の問題でもある。
大正末年から昭和十年代にかけて、民衆詩派に対抗する新興勢力として、あるいは〈農民文学〉、〈地方主義文学〉として、さまざまな政治的力学によって要請された〈宮沢賢治〉という詩人を、中也はどのような眼を以て評したと言えるのか。中也の〈民謡の精神〉と賢治の〈イーハトヴ〉の距離の測定と具体的な詩の検討を踏まえ、自らの作品とこれからの詩が取るべき方向の構想の中で中也がどのように〈宮沢賢治〉を通過していったのか、そして同時代の〈宮沢賢治〉をめぐる問題から中也の位置はどのように照らし返されるのかを考察したい。」
 四季派学会側からの発表ですが、賢治に対する中也の発言を丹念に調べてあり、非常に興味深い内容でした。
 冒頭に、「本発表のねらい」、「発表次第」が述べられ、わかりやすくする工夫がなされています。
 各項目では、中也の発言の引用、先行研究の引用が整理されていて、その上で吉田の考察がまとめてあり、研究発表の方法として理路整然としていて参考になりました。
 また、中也の「野卑時代」、「星とピエロ」、「秋岸清涼居士」といった賢治の影響がみられる詩が全文引用されていて、吉田が見事な調子で朗読したので、詩には門外漢な私でも、中也の詩の魅力の一端を堪能できました。
 懇親会の時に、吉田に「詩の学会の研究発表では朗読するのが普通なのですか?」と尋ねたら、逆に「児童文学では朗読しないのですか?」と聞かれ、返答に窮しました。
 久しぶりに、詩集を読んでみようかという気にさせられました。

中原中也詩集 (新潮文庫)
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新潮社

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