現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

本田和子「タブーは破られたか」日本児童文学1978年5月号所収

2024-03-02 10:50:53 | 参考文献

 「タブーの崩壊」を特集した日本児童文学1978年5月号の巻頭論文です。
 日本児童文学のバックナンバーは入手が比較的容易ですし、「現代児童文学論集4」にも収録されていますので、簡単に読むことができます。
 刺激的なタイトルのせいもあって児童文学論の世界では非常に有名で、その後のいろいろな研究者の論文にもよく引用されています。
 この号でタブーの崩壊を取り上げたのは、それまで日本の児童文学で取り上げられなかった人間の陰の部分である「性・自殺・家出・離婚」などを取り上げた作品(例えば、岩瀬成子「朝はだんだん見えてくる」、末吉暁子「星に帰った少女」(その記事を参照してください)、今江祥智「優しさごっこ」など)がそのころに発表されたことが背景にあります。
 しかし、本田の論文では、「タブー」の中でも「離婚児童文学」だけを論じていて、取り上げた作品もこの分野では定番のワジム・フロロフの「愛について」(1966年に発表されたソ連の作品です。内容についてはこのブログの「愛について」の記事を参照してください)と今江祥智の「優しさごっこ」だけです。
 児童学や心理学の知見をふんだんにちりばめて、アカデミックな用語を多用して格調高く書かれていますが、要は日本の児童文学において、もともと「性・自殺・家出・離婚」などはタブー(言葉に厳格な本田は本来の意味である「聖なる禁止」という意味で使っています)ではなく、「覆い隠しておきたい「不浄域」として位置づいていたのではないか。そして、それゆえに、より意識的な制限に基づくものだったと思われるのである。」と主張しています。
 つまり刺激的なタイトルは疑問形であったわけで、答えは現代日本児童文学にはタブーはもともと存在しなかったということです。
 しかし、この論文がユニークで歴史的価値を持っている理由は、その部分ではありません。
「性・自殺・家出・離婚」など取り上げた作品群が、作者のもくろみ(例えば、この論文では、「離婚児童文学」の分野では古典的な作品である「ふたりのロッテ」(その記事を参照してください)の作者のケストナーの有名なことば、「世間には、両親が別れたために不幸な子どもがたくさんいる。しかし、両親が別れないために不幸な子どもも、同じだけいるのだ……」や今江祥智のことば、「この世間に数多いああした子どもと両親のことを考えて創作した」を紹介しています)を超えて、より多くの一般の子どもたちにとっても、「彼らの成長にかかわる通過儀礼として、機能していると考えられないだろうか」と、この問題を読者論として捉え直した点にあります。
「子どもの文学を、彼らの意識的な生活のレベルに対応させ、その次元での効用を考えるのは短絡的に過ぎる。物語とかかわりを持つのが彼らの内的世界であれば、当然、その作用は無意識のレベルに大きい。無意識は、内に広がる未踏の暗がりであり、意識的な生を昼の世界と見るなら、無意識は夜の世界に属している。物語は、存在の夜の部分に働きかけることで、昼の生活を補填するものとして位置づくのだ。子どもの文学と言えども、もちろん、例外ではない。
 児童文学が、人間の陰の部分からも目を逸らさなくなった、という最近の現象は、この自明の理が、漸く浸透し始めたことのあかしではないか。そして、その動きは、「論」としてよりもむしろ、「作品の出現と読み手の出会い」という、具体的な形で、現れている。成長困難な文化状況の中で、読み手たちの内的要請は、これらがダークサイドにかかわる物語に向けて、従来とは比較にならないほどに、著しい高まりを見せ始めているのである。」
 以上の最後のまとめ部分は、その後の80年代における人間の陰の部分を描いた多様な児童文学作品の出現を予見するものでした。
 しかし、この論文が描かれてから四十年以上が経過した現在、「子どもたちが成長困難な文化状況」はますます深刻になっているにもかかわらず、商業主義にからめ捕られている現在の児童文学の出版状況は、この「読み手たちの内的要請」に全く応えられていないのが実情です。

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