現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

戌井昭人「すっぽん心中」すっぽん心中所収

2017-02-26 11:07:36 | 参考文献
 追突事故でリハビリ中の27歳の男が、社会の底辺をきわどく歩いてきたような19歳の女の子と繰り広げた珍道中を描いた作品です。
 土浦でのすっぽん捕りをクライマックスに、いきあたりばったりの猥雑な二人の関係がこれでもかと描かれているのですが、女の子に奇妙なバイタリティがあって、不思議と二人の場当たり的な生き方に共感できます。
 社会の底辺で閉塞した現状を生き抜くには、こんな風な生き方もありなのかと思いました。
 児童文学の世界でも、今問題になっている教室カースト制度の底辺の子どもたちにエールを送る、このようなたくましい作品があってもいいかもしれません。

すっぽん心中
クリエーター情報なし
新潮社
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北川透「〈異界〉からの声をめぐって ―宮沢賢治と「四季」派の詩」

2017-02-26 10:37:56 | 参考情報
 四季派学会・宮沢賢治学会イーハトーブセンター合同研究会 ―宮沢賢治から「四季」派へ―で行われた講演です。
 講演要旨は以下の通りです。
「賢治の詩と「四季」派の詩の関係についてという、わたしにとって思いがけないテーマをいただきました。まだ、いまの段階で、どんなことがお話できるか、あらましの輪郭もできていない状態です。このテーマや周辺に、これまでどんな研究や分析があるのか、ということもわたしにはよく分かっていません。
「四季」派の詩という漠然とした領域で、賢治の詩を比較しやすいのは、たぶん、自然観とか、自然認識についてでしょう。でも、それには賢治はともかく、「四季」派の詩の感性を最大公約数的に、浅く掬いあげてしまうような危うさがあります。本当はそこに大事な問題が潜んでいるような気もしますが、そこへいきなり接近するのは安易かな、という気もしました。「四季」派という括り方をすると、いいアイディアが浮かんでこないので、個々の同人と賢治との関係ではどうか、と考えてみました。たとえば同人の一人中原中也を取りあげれば、これは影響ということを中心に、沢山の接点があります。しかし、中也は存在としても、ことばの質や詩の傾向としても、「四季」派とは異質というか、傍系に位置する詩人です。それにわたしは、賢治と中也の関係では、これまでに公的な場で喋ったり、書いたりしていますので、今回触れるとしても、主要な対象にすることは避けたい、と思います。
そうすると、「四季」派の要の位置にいた同人、三好達治をここへ、やはり持ってくる他ありません。そう思った時、戦後詩人・田村隆一に、短いエッセー「鳥語――達治礼讃」があることに気づきました。「荒地」派の詩人は、鮎川信夫、黒田三郎、吉本隆明など、いずれも三好達治に(「四季」派の他の詩人も含めて)、とてもからい点数をつけています。その中で、ほとんど唯一の例外が田村隆一です。このエッセーでも、サブタイトルは、「達治礼讃」でした。これの詳しい紹介は止めますが、田村は達治のよく知られた詩「雪」のニ行《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。》を引いて、こんな風に言っています。

《この有名な詩を、もう一度、声に出して読んでみたまえ、きみ自身の声が、すでに鳥の声になっている。太郎や次郎をねむらせる声は、人間の声ではないからだ。/鴎(かもめ)、鶫(つぐみ)、燕(つばめ)、鴉(からす)、雉(きじ)、雲雀(ひばり)、鶸(ひわ)、鶲(ひたき)、鵜(う)、鵯(ひよ)どり、鵲(かささぎ)、鳶(とび)、……》。

「雪」の解釈の是非を超えて、ここには田村のユニークな「雪」の読み方が出ているばかりでなく、田村の三好達治観までもが凝縮しているような印象があります。それを一口で言えば、自然や社会のなかから、異界の声を聞いている人、ということです。田村自身が、鳥語の詩人でした。
もとより、宮沢賢治ほど異界の声を聞いた詩人はいないでしょう。近代で言えば、北村透谷は『蓬莱曲』のなかで、魑魅魍魎の声を聞いていました。山村暮鳥や萩原朔太郎然りです。中原中也も丸山薫も異界の方に、耳を欹てていました。異界というより、他界、彼岸、虚界、凶(狂)域等、別の言い方をした方がいい場合もありますが、ともあれ、人間の現実世界、日常の界域以外からの声が、わたしたちの詩の世界にひびいていること、語りかけられていることをどう考えたらよいのか、ということです。それを賢治と三好達治の詩の接点、境界において、これから考えてみようかな、というのがわたしのいまの段階のモティーフです。まだ、講演当日まで八週間ほどありますが、それに集中できるほど余裕のある生活をしていません。どこまで考えを詰められるか覚束ない限りですが、とりあえず、講演要旨とは似て非なるメモを提出して、務めだけは果たさせていただきます。」
 冒頭で「賢治は嫌いだ」と明言し、一時間半を超える講演の中でも賢治に触れたのは最後の十分だけというおざなりな取扱いでした。
 講演の内容は、鳥をキーワードにして、四季派の代表的な詩人である三好達治を中心に、戦後の荒地派の詩人の田村隆一なども含めて紹介し、それを、賢治の「銀河鉄道の夜」の「鳥を捕る人」や詩の「白い鳥」と結びつけようとするものでした。
 そして、「鳥」が、「異界」と現世を結びつける象徴であることを述べようとしたもので、それ自体は興味深い内容です。
 しかし、話し方がだらだらと長く、結局尻切れトンボに終わってしまいました。
 現代詩の実作と詩論では若いころからならした方のようですが、ご高齢のせいか話が堂々めぐりしていてくどく、レジュメも本のコピーの切り貼りにすぎず、何が言いたいのか理解するのに苦労しました。
 前に述べた賢治に対する取扱いも含めて、今回の研究会(四季派学会と宮沢賢治学会の合同主催)の講演者としては、明らかにミスキャストだったように思います。

わがブーメラン乱帰線
クリエーター情報なし
思潮社



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