本書は残念ながら読んだ本ではない。
↓の書評を読んで読みたくなった本。
ただし、¥5538 う~ん・・・
特記しておこう。
『日本の現代建築を、ふりかえる。
今、建築家たちはどこにむかおうとしているのかを、考える。
そんな文章を、古い建築にもこだわりつつ、
これから書きついでいくつもりである。(「ささやかな前口上」より)
私たちには、モダニズムの前後、第二次世界大戦の前後で断絶しがちだった、建築の見方があります。
そんな中、長野宇平治、伊東忠太からはじまり、坂倉準三、丹下健三、菊竹清訓は勿論、磯崎新、安藤忠雄に至る、
明治から新しい国家をつくりあげてきたキラ星のような建築家たちを一緒くたにし、ひとつながりの視点でつづられた
井上流のものがたりは、これまでの建築界内の通説や、一般化したイメージを覆す、かつてない目からウロコの建築家論になりました。
明治に生まれ、モダニズムの波を越えて、現代に至る日本の建築家たち。
日本の自我は、どのように建築や都市にあらわされてきたか。
建築家のあゆみを、社会のありようから考える、画期的な日本近代化論としても読める一冊です。
ささやかな前口上
長野宇平治
「建築の解体」にさきがけて
世界のなかでとらえれば/あふれるロマンを、ふうじこめ/形式とのたわむれ
立方体へいたるまで/古典形式がくずれる時
伊東忠太
ロマンティックにアラベスク
バシリカやラテン十字をとりいれて/なにより、アジアを見てみたい/ブルーノ・タウト
ジョサイア・コンドル/東と西の物語/WTCにもイスラムは
吉田鉄郎
保存をめぐる政治学
郵政民営化のなかで/モダニズム建築の旗手/タイルとサッシュ
国会議員の先生がた/吉田鉄郎って、だれですか
渡辺仁
様式の黄昏をのりこえて
「日本趣味」の建築家/大正デモクラシーのなかで/ポトマック河畔の記念堂
国家になびくモダニズム/近代日本の国家意志/北品川のバウハウス
松室重光
コロニアリズムと建築家
かがやくホテル/王宮と総督府/建築自慢
海のむこうの祇園祭/ロシア正教でつなぐ糸
妻木頼黄
オリエンタリストたちの夢の跡
日本橋の下、江戸はながれるか/「和三洋七の奇図」に書きかえて/オリエントとたわむれる建築家
夢ふたたび/あふれるジャポニカ
武田五一
軽く、うすく、たおやかに
茶室語りの世紀末/数寄屋と書院/様式建築に期待されるもの/もうひとつの数寄屋に目をむけて
堀口捨己
メディアの可能性ともむきあって
和辻先生の桂離宮/墓と家/想いは、作品集にたくされて
日本美と脱亜論/出版にかけた建築家/きらめく截金を、どう読むか
前川國男
コルビュジエかラスキンか
戦後の読みかえ/ムンダネウムの日本版/屋根のかたむきをいやがって
建築部材生産の工業化/クラシックやゴシックには、かなわない/ブリュージュに魅せられて
坂倉準三
モダンデザインに日本をにじませて
万国博の日本館/モダンデザインの、その次は/グリル格子とナマコ壁
六角形のテーブルで/ムンダネウムと輝く都市/メディアのなかでは、かがやいて
丹下健三
ローマへ道はつうじるか
国賊的な建築家/戦時と戦後の五重塔/桂離宮か、テラーニか
ミケランジェロへの想い/都市をめざして/空間はけだかく、おごそかに
谷口吉郎
ファシズムかナチズムか
一揆への途/「野蛮ギャルド」へいたるまで/ヒトラーへのプレリュード
ティブルティーナをふりかえり/明治建築への想い
白井晟一
民衆的な、あまりに民衆的な
うまい人、へたな人/精一杯のソシャリズム/王侯や貴族の建築家
佐世保のコミュニティバンク/世界史への伝統拡大とは/天国への階段も
村野藤吾
戦時をくぐり、マルクスを読みぬく
ナチスの建築を意識して/コルビュジエの作品集を、横におき/ベルリンから橿原へ
丹下が、大阪歌舞伎座の前にたつ/一パーセントにかけた建築家
吉田五十八
数寄屋は明るく、艶やかに
数寄屋の自由と、大壁と/関西文化は東漸する/モダンエイジの道楽息子
「吉田流私見」/花柳界の新時代
菊竹清訓
スカイハウスは、こう読める
「狂気を生きのびる道」/かがやく「抜け殻」/ムーブネットにたくしたもの
コア・システムにあらがって/男と女/コールハースへの告白から
黒川紀章
言葉か、建築か
アーキテクチュアへの前史/カプセルと、住まい手の主体性/テクノ表現主義からはしりぞいて
スター・アーキテクト/桂離宮の澱着席
篠原一男
日本の「虚空」に魅せられて
「先生のいいなりになる」施主たち/「虚空」にこだわる建築家/幅木と散り
「批評家を兼ねる」建築家/写真の効用/もういちど、白の家
磯崎新
ユーモアにこそ賭ける
民主主義にことよせて/国家が姿をけしていく/「なまぐさい仕事」
大衆社会の建築観/思わず笑った、その途へ
安藤忠雄
大阪から世界へはばたいて
建築家の学歴を考える/お好み焼きに文房具/コンクリートの肌ざわり
「のらりくらり」の、その極意/空間は、あくまで荘厳に/具体につうじる赤い糸
あとがき
日本の自我を考える/社会科学への橋わたし/連載をふりかえる 』
評・隈研吾(建築家・東京大学教授)@朝日新聞
◇従来の建築史覆す、勇気ある論
「現代の建築家」が、1867年生まれの長野宇平治、伊東忠太から始まるのに驚いた。現代建築家は、第2次大戦後という通常の建築史の書き方を井上はなぜ逸脱したのか。
建築デザインにおいても戦前と戦後とがつながっていることを示したかったのである。戦前を全否定して、戦後は断絶した反転、というのが現代史の大前提であった。しかし、40年体制論をはじめとする「断絶史観」を覆(くつがえ)す論が建築史にもあらわれた。
従来の建築史は、戦前の悪(あ)しき民族主義が、コンクリートに瓦屋根をのせた和風建築を生み、戦後の民主主義が、コルビュジエ派のモダニズム建築を生んだと説いた。
井上は正しいはずのモダニズムのリーダーたちの戦前を分析し、彼らこそが国粋主義によっていて、その国家総動員的発想が、戦時下におけるスピードとコストを重視したシンプルなモダニズム建築に直結したと看破する。
明治以来、日本のエリートは一貫して西洋崇拝であり、それが明治にはギリシャ・ローマ風を生み、西洋の主流が、モダニズムへ転換するのと平行し、日本でもモダニズム建築が主流になったと井上は説く。合理主義と国家総動員の遭遇が転換のバネになったというわけである。西洋崇拝の伝統は、1980年代の磯崎新のつくばセンタービルの、ギリシャ・ローマ風のポストモダニズム表現にしっかりと受け継がれたという指摘は、目からウロコだった。
戦後建築家は、難解な言説を駆使して、「反権力、反国家の自分」を演出し、建築界はその洗脳下にあった。井上は、その構図自身をくつがえし、日本の建築家は、西洋に追いつけという明治以来の大いなる国家意志を、何者にも強制されることなく、自発的に体現していった「いい子」だったと総括する。日本の現代建築史を覆す勇気ある論である。