日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祝福に至る道

2019-09-29 13:14:53 | メッセージ

礼拝宣教 ルツ記4章1-17節 

 

先週の3章は、ルツがナオミの親族の一人として、家を絶やさないようにする責任を持つボアズに、求婚するという箇所を読みました。それはナオミが計画を立て、ルツに指示したものでした。ナオミは、亡き夫エリメレクが代々神さまからの祝福として受けてきた嗣業の土地、又、神の民としての名が絶やされることがないようにと、それは神への信仰から出たことでした。

又、異邦人であったルツはナオミについてベツレヘムに来る時このように言いました。

「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」。

ルツがナオミの指示通りに、ボアズに求婚したのも、ナオミの信じる神さまの御心として従い得たのです。

しかし、ボアズは感情や思いにながされるのではなく、自分よりも「家を絶やさぬ責任と権利をもつ親戚」がいる。まずその人に確認する必要があるということで、早速今日の4章で、その親戚の人と交渉するのです。

 

ボアズは町の門にいました。そこは通常、人々が集まって商売の取引をしたり、裁判が行われる場所でした。

ボアズはそこで折よく、家をたやさぬ最有力の親戚と出くわし、呼び止めます。そして、このような義務の履行と譲渡に際する交渉には、証人が必要であったため、町の長老十人を選び、その人たちを集めて、証人となってもらうのです。  
ボアズはその親戚にこう話を切り出します。

「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています・・・・もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから」。

 

それに対して最有力な親戚はボアズに、「わたしがその責任を果たします」と答えます。

彼はナオミから亡き夫エリメレクの土地を買い取ろうと思いました。最も近い親戚として、神が与えられた代々の土地を守っていくことは神の律法に適ったことでした。

ところが、ボアズはそれに続けてこう言うのです。

「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです」。

エリメレクの畑を優先的に買い取る権利には、ルツとの結婚の義務も生じる、ということをボアズは示したのです。

これを聞いたその親戚は、「それは自分には負いかねる。そういう義務が伴うなら、わたしはその権利を放棄したい。あながたそれを負ってくれないか」と言い出しました。

 

まあ、土地を買い取り、管理していくことだけでもたいそうなことです。そこに結婚の話まで急に出てきたわけですから、この人があわてふためいたのも無理ない話かも知れません。

しかもルツは異教の地モアブの女です。この人は8節で「「それではわたしの嗣業を損なうことになります」と言っています。それは、ルツと結婚すると、自分の家に、そして子孫に、異邦人の血が混じることになる、彼はそれを忌み嫌い、避けたかったんですね。ユダヤ人は、血統や血筋ということに強くこだわりを持っていました。それは神を信じない者、神ならざるものを神とする異邦人によって、生ける神への信仰が損なわれないように戒められてきたからです。

異邦人であるルツと結婚すること。またその子どもも異邦人の血を引いた者であり、神の選びの民としての純粋性が損なわれてしまう。せっかく代々から受けてきた嗣業の地も異邦人の子孫にわたってしまう。そういう強い危機感を彼はもったのではないでしょうか。

さて、一方、その彼の「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。どうぞあなたがその人をお引き取りください」との言葉を聞いたボアズですが。

彼は土地をうけ負っていくこと、又異邦人のルツを引き受けていくことによって起るであろう様々な問題、リスク、いわば犠牲をも全て引き受けていくのであります。

それも、彼は神の律法、教えに則って、その手続きをきちんと踏んでいくのです。

彼がルツに対して恋愛感情をもって迎えたかどうかは書かれていませんが。いずれにしてもこのボアズにはものすごい決断のいることであり、大きな責任が伴うことでしょう。それにしてもボアズは冷静で理性的といえます。

このボアズの姿は、彼が自分の人生を主なる神の導きに委ねている、ということを表しています。

そもそも彼が異邦人のルツに厚意を示し、安心して落ち穂を拾うことができるようにしたのも、ルツが「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、そう言って

ナオミとモアブの地からベツレヘムへ共に帰り、ナオミを支えて働く、愛によって仕える信仰の姿をボアズが見たからです。又、全てを失った絶望の中にあるナオミの傍らに、その支え手としてルツを置いて下さった神の慈しみを見たからです。

そのナオミの家と自分とは親戚で、自分にもルツと結婚してその責任を負う権利と義務があることに、ボアズは主の導きを感じたのではないでしょうか。

 

しかし自分よりも先ずその権利と義務を負うべき人がいる。その人がその責任を負ってルツと結婚しようと言うなら、それが主なる神のみ心だからそれを受け入れよう、もしもその人がその権利を放棄するなら、その時には、自分がそうすることが主のみ心である、と信じたのですね。

ボアズはそのようにたえず主なる神のみ心を確かめ、その導きに従って歩もうとしているのです。

これから先の将来のことについても同じです。異邦人のルツと結婚することによってベツレヘムの町の共同体からどう見られるか。ルツや子どもたちはのけ者扱いにされたり、いじめられたりしないか。ゆくゆく家や土地の問題もややこしいことになりはしないか。そんな心配までも、ボアズは全てを主なる神のみ心と導きに委ねるのです。

そうして、ボアズは長老と町の人々に向って、「あなたがたは、今日、このことの証人になったのです」と宣言します。

その一つは、「ボアズがエリメレクとその子キルヨンとマフロンの遺産をことごとく寡婦となったナオミの手から買い取った」ということ。それはナオミの経済的困難を扶助するということです。

二つ目は、「ボアズが亡きマフロンの妻であったモアブの婦人ルツを引き取って妻とする。故人の名をその嗣業に地に再び建てるために、又、その名が一族や郷里から絶えてしまわないために」。

ボアズがそのように宣言した時、門のところにいたすべての民と長老たちはまず、異邦人のルツを最上ともいえる表現で祝福します。そしてボアズを祝福し、そのボアズとルツの家庭が恵まれますように」と言うのですね。

それは当時のイスラエルの社会では考えられないようなことです。ルツはその生き方、信仰と愛の行動で町の人たちの信頼を勝ち取ったんですね。ボアズも又、そのルツを引き受けていく姿が、町の人たちに高く評価されたのだと思います。もっといえば、彼らによって異邦人、外国人に対する偏見から町の人たちも解放されたと言えるでしょう。

こうして彼らは結婚し、そして「が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」とあります。

町の女たちはナオミに、「をたたえよ、はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となる」と、神を賛美します。

夫にも二人の息子にも先立たれ失意のうちに帰って来たナオミ。そのナオミを顧み、祝福してくださる神さま、その慈しみがベツレヘムの女たちは賛美しているのです。

こうして「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた」とあります。

そこには、うつろな者、虚しい者と、つぶやき嘆いていたかつてのナオミの姿はありません。まさに、神さまは、この子をとおしてナオミの魂を生き返らせて下さるのです。

イザヤ書61章3節(口語訳)に「灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて賛美の衣まとわせて下さる」。アーメン。まさに主は素晴しい!

今日の4章には「責任を果たす」「責任を負う」、ヘブライ語で「ゴエル」という言葉が何度も繰り返されています。それは又、「代価を払う」、「贖う」を意味します。

最有力なゴエルの親戚は、「そこまで負うことは、わたしにはできかねます」と言いました。彼はゴエル、代価を払う者、贖い主になることを拒否したのです。

しかし、ボアズは自分が被るかもしれない不利益もろとも引き受け、その責任:ゴエルを果たします。

そこに、私たちの贖い主である主イエス・キリストのお姿が重なってきます

新約聖書Ⅰテモテ1章6節に「この方はすべての人の贖いとして御自分を献げられました」とありますように、世の力と罪の中に滅びるほかないわたし、寄る辺なきわたしを、その存在をあるがまま引き受けて下さったのです。今もそうです。

本来ならわたしが負うべき一切の責任、罪の代償までも、ゴエルを果たし、それも身代わりとなって果たしてくださった。人々にあざけられ、鞭打たれ、苦しめられても、最後まで父の神の御心に委ねきって、私たちのゴエル、贖い主となってくださった。

父の神さまは、このわたしたちの贖い主イエスさまを、わたしたちの救いの初穂として復活させてくださったのです。

わたしたち人間はみな全能者であられる神さまに生かされています。真のゴエル:贖い主イエス・キリストによってこの神さまの愛に目覚めて生きるところにこそ、本当の祝福があります。

神が与えて下さったその子が、ナオミの魂を生き返らせる者となったように、神さまが私たちのためにお与え下さった主イエス・キリストによって、今日も私たちの魂は生かされている。その喜びを賛美しつつ、今週もこの礼拝から、贖い主であられる主を見上げながら、あゆんでまいりましょう。

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互いを思いやって生きる

2019-09-22 19:32:36 | メッセージ

主日礼拝宣教 ルツ記3章1-18節

 

先週よりルツ記を読んでいますが、初めての方もいらっしゃるかと思いますのであらすじを申しますと。イスラエルの民であるナオミは夫と二人の子どもと共に飢饉のために異邦の地モアブに移り住みます。しかし夫を亡くし、女手一つで育てた二人の息子も、それぞれ、それぞれの妻を残して世を去ってしまうのです。失意のうちに故郷のベツレヘムに帰ろうとするナオミに、嫁のルツは「あなたを見捨てて帰れなどと強いないでください。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、そう言って離れようとせず、ナオミと共なるベツレヘムでの生活が始まります。

二人が生きていくため、ルツは人の畑の収穫の際、落ちた麦の穂を拾いに出かけます。

そうしたある日、ルツはボアズという神の戒めといつくしみを知るとても親切な地主と出会い、そこで落ち穂を毎日安心して集めることができるようになるんですね。ここまでが先週の2章の話です。

本日は次の3章よりみ言葉を聞いていきます。

3章1-2節で、ナオミは「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしの親戚です」とルツに言います。

これまでナオミは、自分のために日々汗水流して落ち穂拾いに労する嫁ルツの真心、思いやりの心に感謝してきました。

しかし、もうすぐ収穫の時期が終わります。今はそれで食べていくことはできても、先の生活を保証してくれるものは何もありません。

ナオミはルツのために、彼女が苦労することなく「幸せになる落ち着き先」を探し、その情報を集めていたのです。

そうした中で至ったナオミの結論が、「ルツはボアズと結婚させるのがよい」ということでした。

ボアズは神を畏れ敬う人であり、誠実で偏見をもたず、とても親切な人物でした。又、ルツがおかれた状況とその思いを知って温かい言葉と厚意を示してくれたのです。

しかも彼はナオミの夫エリメレクの家と土地を絶やさないようにする責任ある人物の一人でもあったのです。ユダヤの民にとって神からの嗣業の地を大切に守っていくことは神に果たすべき義務ともいえることでした。

そのように、ナオミはこの二人を一緒にさせるのが最もよいことだ、と考えたのです。

一時しのぎの落ち穂拾いから脱却して、神の前に果たすべきことを果たし、ルツに平安の生活が得られるためにナオミはルツをボアズのもとへ嫁がせる計画を練るのですね。

 

この3章を読むと表だった登場人物はルツとボアズであります。しかしその背後で祈りながら情報を集め、計画を練り、立て、貧しさの中でルツに着せる晴れ着や香油を調達するということどもを実行したしたのはナオミなのです。ここには実に行動的で積極的なナオミの姿が見えてきます。

 

このナオミがベツレヘムに帰って来た時はどうだったのでしょうか。先週お話ししましたように、1章20節以下のところで彼女は「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」と、ひたすら嘆いていたんですね。

ナオミは異国の地で夫と二人の息子を失い、つまり全てを失って帰って来たのです。主なる神が自分をひどい目に遭わせ、全てを奪った。そういう神への恨みつらみを彼女は語っていたのです。

その絶望の淵にいた彼女が、この3章ではこんなにも大胆且つ、前向きで計画的な行動を起こしています。

彼女をそのように変えたのはいったい何だったのでしょうか。それは、根底においては骨の髄まで染みこんだ神への思い、信仰であり、又、彼女の傍らにいて、彼女を思いやる嫁ルツの存在です。

全てを失い、「うつろだ」と、何も残されていないとナオミは思っていました。しかしその彼女の傍らに、ルツがいた。

それは、嫁だから仕方なくいたのではありません。ルツはナオミを慕い、自分の意志でナオミについてきました。先にも言いましたが、彼女はナオミに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言ってついて来たのです。その思いは、主なる神さまが彼女に与えたというほかありません。言うならば、全てを失った絶望の淵にいたナオミの傍らに、主なる神さまが、ルツをおいて下さったのです。そのルツの存在がナオミを支え励まし、彼女は再び顔を上げることができるようになったのではないでしょうか。
そうしてナオミは、ルツが幸せになる落ち着き先を探し見出す中で、神の慈愛・ヘセドの愛をおぼえ、絶望の淵から救われていくのですね。

 

彼女が自分の殻に閉じこもり、神に不平不満を募らせ、背を向け続ける限り彼女の心は決していやされることはなかったでしょう。

彼女にはその暗い絶望の淵から抜け出す助け手が必要でした。それは、ナオミにとってはルツという存在を、まさに主なる神さまが傍らにおいて下さったことで、ナオミの心が解きほぐされ、開かれていったのです。

そうして、ルツの幸せを願い、その行く末を思い大胆な計画と行動を起こすナオミ。

もしナオミが、自分の老後の心配ばかりを考え、愚痴や不満で凝り固まったままでいたなら、いつまでも絶望と苦しみから抜け出すことはできなかったでしょう。     けれども彼女は気づいていったのです。神さまの慈しみと愛があるということに。それはルツを通して示されました。

私たちにも悩みや苦しみがあります。まあ悩み苦しみの心でいっぱいいっぱいの時もあるでしょう。かつてのナオミのように神が私をひどい目に遭わせ、悩ませ、不幸に落としたと、嘆く、そんなことがあるかも知れません。

そういう時も、神さまは私たちに信仰の友、助け手として、主にある兄弟姉妹を必ずおいてくださっているのですね。

私のために背後で祈り支えてくださっている存在がいる。それはどんなに大きな慰め、励ましでしょう。又、それを実感する時、苦しみの中にありながらも、他者のために祈り、働いていく思いが与えられる。そういう中で自分の苦しみや悩みを乗り越えていく力が与えられていった。

ここにいらっしゃる方の中にも、すでにそのような経験をして来られた方がいらっしゃるのではないでしょうか。ルツとナオミの物語は今も主の教会、主にある共同体の中に生きているのです。

 

次に3章の箇所よりルツから聞いていきます。

ナオミは「あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」とルツに言います。

それはルツの方からボアズに求婚するということです。

それを聞いたルツは驚くような素直さで、「言われるとおりにいたします」と言い、ボアズのところに行くのです。ボアズが気づいて「お前は誰だ」と言われると、ルツは「わたしはあなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と願い出るのです。

 

現代の私たちからすれば何と、封建的で個人の人権はどうなっているんだと思われるかも知れません。

まあ当時の社会の中で、ルツはエリメレクの家の嫁でありました。彼女が夫の死後、ナオミと共にイスラエルの地に来たということは、嫁として生きる道を選んだということです。

そしてイスラエルには、子どもがいなくて夫に先立たれた嫁は夫の兄弟もしくは近い親族によって子をもうけ、家を絶やさないようにする。そうして代々からの土地を守っていく「レビラ-ト婚」という規定がありました。実はそうした社会にあって、このイスラエルの律法規定は寡婦のいのちと生活を守るというセーフティネットでもあったのです。

 

さて、第一の候補は夫の兄弟ですが、もう死んでしまっていません。次は一番近い親族が候補となります。しかし幸いなことに、ルツを思いやってくれたボアズはエリメレクの親族の一人でした。

イスラエルの律法規定で、ボアズはルツの結婚の相手となり得る人の一人だったのです。そのボアズがルツを心にかけ、自分の畑でずっと落ち穂を拾えるようにしてくれたことを知ったナオミは、それが実現可能かどうか調べた上で、この二人を結婚させようと計画したのです。

しかしそこには問題もありました。一つは、ボアズとルツの年の差です。おそらく親子ほどの年の差があったのだろうと思います。ボアズはルツを心にかけていたとはいえ、ルツとの結婚は考えていなかったようです。

二つ目は、ボアズよりもっと近い親族がいたことです。その人がルツの結婚相手の第一候補者ということになります。この二つの問題が解決できなければボアズとルツは結婚することはできません。まあそのためにナオミは思い切った行動に打って出たわけです。そうしてルツもそのナオミの指示どおりに従って行動したのです。

しかしまあ、ルツとボアズが結婚するのがよい、というのはナオミの考えであって、ルツの意志はどうだったのかには全く触れられていません。読みようによっては、姑が嫁の再婚相手を勝手に決めて、親子ほども年の差のある男との話をどんどん進めていった、とも取れます。

しかしその、ルツが身を委ねているのはナオミでも、又ボアズではありません。
彼女はモアブの地を出るにあたり、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」との言葉に信念をもって生きていこうと決意したのです。

イスラエルの掟を無視して他の男と結び付くこともできたのかもしれません。その場合には、ルツはもはやナオミの嫁という立場を捨てることになります。ナオミのもとを離れて一人の自由な女として生きて行くという道もあったのです。

しかしルツは、ナオミの嫁として生きることを選び取っててきたのです。それは又、再婚においてもイスラエルの掟に従い、夫の親族の誰かと結婚し、家を絶やさないようにする義務を自ら負おうと並々ならぬ決意をしていたんですね。

ルツは、1章にあったとおり、自分が選び取った生き方に忠実に歩もうとしているのです。だからナオミの大胆な計画に対しても、イスラエルの律法の教えに適ったものとして、ナオミに「言われるとおりにいたします」と答えたのですね。

このルツの姿をさらに深く見つめるならば、主なる神さまのみ心に従い、その導きに自分の行く末を委ねる信仰がそこにあった、ということです。

先週読みました2章12節でボアズはこう言いました。

「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」。

ルツはイスラエルの神、主の御翼のもとに逃れ、その主のみ心に身を委ねたのです。

その彼女に、来週の4章の最終章で、主が豊かな恵みを与え、祝福を与えて下さることとなっていくのであります。

さて、最後はボアズから聞いていきます。

ルツからの求婚を受けてボアズはこう言いました。

「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい」。

こういってルツを休ませ、夜明けのまだ薄暗いうちにルツに「六杯の大麦」を姑のために持たせて帰らせたのです。

「主は生きておられる」。そういったボアズは情欲に流されません。ボアズの主は生きておられる、つまり「神の御心がどこにあるのか」と主に対して、又ルツに対しても誠実に向き合おうとするのです。

神と姑ナオミに対するルツの「真心」を知ったこのボアズも、主なる神のみ心とルツに対して「真心」をもて応えようとするんですね。

そうしてボアズは「きっと、あなたが言うとおりにします」と約束し、彼はそのことを、神の定めに従ってなそうとします。

彼は「自分よりも近い親族がいる、もしその人がルツを妻にすると言うなら、それを受け入れ、自分は身を引く」と言うのです。ボアズは主なる神のみ心に従い、その導きに身をゆだねるのです。
そしてそれはナオミもまた同じです。彼女がルツの幸せのために立てた計画は、主なる神の掟に基づいているものなのであり「真心」です。

彼女はルツのために、主のみ心に適うあり方で積極的に行動し、結果を主のみ心にゆだねます。

ルツから一部始終を聞き、贈り物を見たナオミは、「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう」。主が必ず善いようにして下さると、信頼をもって主にゆだねたのです。

絶望の淵、「うつろな者」「失われた者」「虚しい者」と自分のことを話していたナオミが、これほどまでにしたたかで、たくましいほどに回復していったことに愕かされますが。これも神さまの慈愛に満ちた配剤とお導きでありましょう。

 

3章に出て来るこの三人は誰もが、まず主なる神のみ心に聞き、そして従い、その導きに信頼してゆだねます。

同時に、互いの存在を思いやって、自分にできる誠意を尽して生きているのです。

そのことのゆえに、それぞれが神さまからのすばらしい恵み、祝福を与えられていくのですね。

ルツには幸せな落ち着き先が、ボアズにはすばらしい妻が、ナオミには新しい家族が、それが来週の4章ですが。そのような主のもとにある未来へとつながっていくのです。

ナオミやルツ、そしてボアズもおそらくそうであったように、人生にはどん底といえるような時、喪失感に襲われ、「神さまなぜですか」という時があるでしょう。

そういう状況の中でも「主は生きておられます」と互いの存在を思いやり、祈り合い、励まし合って歩み続けていくその時、主は必ずや助けと救いの道を備え、導いてくださるお方であると信じます。

私たちも又、主なる神さまのみ心に日々聞き、そして信頼して従い、その導きにゆだねつつ、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のご案内

2019-09-21 10:07:56 | お知らせ

日 時 9月22日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


お気軽にいらしてください。

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落ち穂拾い

2019-09-15 14:58:54 | メッセージ

礼拝宣教 ルツ記1章22節-2章23節 敬老感謝

 

本日は敬老感謝として主に礼拝を捧げております。

人生の先輩、信仰の先輩方、中には今日集うことができない方々もおられますが。共々にその敬愛の思いを表わし、祈りにおぼえていきたいと思います。

「残された人」

さて、今日からルツ記より御言葉を聞いていきます。

まず1章1節に「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ」とあります。

ユダのベツレヘムと聞くと、そこがダビデ王の出身地であり、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストが誕生した町でもあることを思い起こしますが。
モアブの野に移り住んだ人の名前はエリメレク、その妻はナオミ、2人の息子はマフロンとキルヨン。その4人の家族が、飢饉によって故郷での生活が困難になり、外国であるモアブの地へと移住せざるを得なくなったのです。この中には戦時中の疎開、又満州・朝鮮からの帰国などの厳しい体験をなさった方もおられますが。大変なご苦労があったことでしょう。

エリメレクら家族も、何か希望的な計画をもって故郷を離れたのではありません。生活していけなくなってやむを得ず、見知らぬ地に移住したのです。そして移住した異国における苦しい生活の中で、エリメレクは妻と2人の息子を残して亡くなりました。

昨今の相次ぐ災害により避難生活や移住せざるを得ない方々が日毎に増加している今の日本、いや世界の現状ですが。その過酷さというものは如何ばかりであろうかと、このところが重なり、考えさせられます。

残されたナオミは女手一つで息子たちを育て、その息子たちもやがて成長し、それぞれモアブの女性オルパとルツと結婚するのです。過酷な生活の中にあってそれは彼らにとって平穏な日々を与えたことでしょう。

しかしそれは間もなく失われました。2人の息子が相次いで亡くなったのです。

こうしてナオミは故郷を出た時家族4人だったのですが、ひとり残されてしまったのです。ナオミの喪失感、その悲しみはどれほどだったでしょうか。2人の息子の家庭にはどちらにも子どもが与えられませんでした。孫が生まれていたら、その孫のために生きる力も湧いたことでしょう。しかしそれもない。周囲には頼れる親族もおりません。

この家はもうおしまい、将来に何の希望もない悲しみのどん底にナオミはあったのです。

「その人の傍らに」
その悲しみの中でナオミは故郷に帰る決心をします。イスラエルの地の飢饉は去り、再び食物がとれるようになっていたのです。もはやモアブの地に留まっている理由はない、悲しい思い出ばかりのこの地を去って故郷に帰ろう。そう考えたのではないでしょうか。そうしてナオミは嫁たちに「それぞれ実家に帰って新しい嫁ぎ先を見つけて幸せになりなさい」と言ったのです。彼女は嫁たちがこれまで息子たちと自分によく尽くしてくれたことを感謝し、主なる神さまに彼女らの祝福を祈ります。

ナオミのこの言葉によって、オルパは、別れを惜しみつつ実家に帰って行きました。 

しかしもう一人の嫁ルツは、ナオミのもとを離れようとせず、こうナオミに言います。

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

こうして、夫と2人の息子を失ったナオミと、やもめとなった嫁のルツは、共にベツレヘムへと向います。
彼女らがベツレヘムに着くや、「町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけ」、故郷の人々からは歓迎されます。

しかしナオミは、故郷の人々と再会を喜び合うような心境ではありません。全てを失った絶望の中、何の希望もなく、ただ帰って来たからです。

彼女は「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」と訴えるのです。

ナオミという名は「快い」(口語訳聖書では「楽しみ」)という意味でした。

ベツレヘムを出た時は、飢饉で食い詰めてはいましたが、それでも夫があり、2人の息子がいて自分はそれなりに満たされていた。この家族のために苦しみを乗り越えようという希望があった。しかし今やそれら全てが失われ、私はただひとり残された

自分はうつろだ、虚しい、希望などない、こんな自分がどうしてナオミだろうか、むしろ私の名はマラ、「苦い」(口語訳では「苦しみ」)であるべきだ。彼女の口からはこういう苦しみの言葉しか出て来てきませんでした。

自分がなぜこのような苦しみ、絶望、虚しさを味わわなければならないのか?ナオミの心には、主なる神に対するこのような不満、抗議の思いが渦巻いていたのです。

けれども、ナオミはこの絶望と喪失感の中で忘れていることが一つありました。

ナオミは「うつろ」な者、「虚しい」者、「失われた」者と言っていますが、彼女がそうであるように若くして夫を亡くし子もおらず故郷を離れ、見知らぬ地へとやって来たルツがこのナオミの傍らにいるのです。

ルツは、「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです」と言っています。

彼女はナオミについて来いと言われたのではありません。嫁としての義務感で仕方なく共にいるのでもありません。ルツは心から、ナオミと共にいたいと、そう願っているのです。

ルツがこのような思いで今ここにいることそれ自体が、主なる神さまのみ業なのです。あらゆるものを失い絶望の底におかれたナオミ。残されたナオミの傍らに、主なる神さまが助け手としてルツを共にいる者として備えて下さったのです。

私たちも自分の苦しさや悲しみに打ちひしがれている時というのは気づくことができないかも知れませんが、その私に寄り添うように心を向け、背後で祈ってくださっている人がきっといます。後で振り返ってみれば、神さまが私のそばにそのような人たちをおいてくださったのだなあと知らされる、そのような経験をお持ちの方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。そこに主の教会、又主にある兄弟姉妹としてのつながりの大きな恵みがあります。

「落ち穂拾い」

さて、ここまでが1章からの大まかな流れですが。ここからが本日の箇所となります。

「二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころ」でした。

しかし彼女たちには収穫するものが何もないのです。
ルツはナオミに言います。「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」

落ち穂拾いとは、どうにも食べるものがなく追い詰められた者がその日の食物を得るために残されていた、最後の手段でした。

律法の書であるレビ記19章9-10節には「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」と明記されています。

収穫後の落ち穂は貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。これが律法の戒めです。この相互扶助の精神の土台には、天地万物の創造主である神さまへの信仰があります。

収穫はその神さまが与えて下さった恵みであるから、自分だけで独占するものではなく、貧しい人、今困っている人、それも寄留者、外国人に対しても分かち合わなければならない。主なる神さまが収穫を与えて下さったのは、そのように貧しい人、今困っている人を助けるためでもあるということが、神を畏れ敬う者にふさわしい態度であることが教えられているのですね。ここには神さまの慈しみと愛とが表わされています。まあ食料品にまで10%税を課そうとしているこの国の現況がうら寂しく思える3000年以上も前からの教えでありますが。

さておき、外国人であったルツはおそらくモアブにいた頃、ナオミからこの神の慈しみと信仰に基づく律法、どんな人であれ弱い立場に立たされた者を保護する掟についての話。いわばその信仰の精神を日々聞かされていたんでしょう。ルツはそれをしっかりと心に留めていたのであります。

ルツはこの掟を頼りに、誰かの畑で落ち穂を拾わせてもらおうと出かけたのです。毎日いろいろな人の畑に行っては、所有者にお願いして落ち穂を拾わせてもらいます。

それは大変つらい日々だったでしょう。あのような掟があるからといって、誰もが快く迎えてくれるわけではないでしょう。ルツは外国人でありましたから、さげすまされたり、邪魔や暴力を振るわれるようなこともきっとあったと思います。そういった不安や恐れの中、彼女は自分と高齢になったしゅうとめが生きるために、その日、その日を祈りながら忍耐強く労働を続けたのです。
「ボアズとの出会い」

そんなある日、ルツは思いもよらずエレメレクの一族、親戚筋に当たるボアズという人の畑で落ち穂を拾わせてもらうことになりました。

ボアズは、自分の畑で働く農夫たちひとり一人に「主が共におられますように」「主が祝福してくださいますように」と日毎声をかけ、覚えていた、そういう信仰の厚い人でした。

ある日彼は、見知らぬ若い女性が落ち穂を拾っているのに気づき、農夫の監督に「そこの若い女は誰の娘か」と聞きます。それは彼女がまだ若いのに、朝から今までずっと立ち通しで落ち穂拾いをして労していたからです。

そして、彼女が先頃モアブの地から戻って来た親戚筋にあたるエリメレクの妻ナオミの息子嫁であったことを知るのです。

ボアズは、ルツに声をかけます。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」

これは並々ならぬ親切です。

ルツはボアズのこの思いがけない厚意に驚き、感謝しながら尋ねます。

「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは、厚意を示してくださるのは、なぜですか。」

ボアズは答えます。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

これが、ボアズの厚意の理由です。

このルツに対して示したボアズの厚意は、主なる神さまがルツにお示しになった御慈しみに他ならないということです。

ルツは、モアブという外国の出身でありながら、イスラエルの神である主の御翼のもとに逃れて来たそのルツを、主なる神が温かく迎え入れ、育み養って下さる、そういう主なる神の恵みのみ心を、ボアズは自分の厚意によって示そうとしているのですね。
ルツはこのボアズの言葉にこう答えます。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」

ルツはどんなに心いやされたでしょう。

おそらくルツはイスラエルの地に来て、自分がよそ者であること、外国人であることによる疎外感を感じていたのではないでしょうか。夫が死んでもしゅうとめに従ってきた立派な嫁だと褒める人々もいたでしょうが。中には「あの人はモアブ人だから、私たちとは違う、よそ者だ」と言う人もいたのではないでしょうか。ルツもそれをひしひしと感じていたと思うのです。

イスラエルの中に、自分たちは神に選ばれた民だという選民意識、同族意識を強く抱き、外国人を異邦人と呼んでさげすんでいた人々がいました。

そういう中で、モアブ出身のルツが落ち穂を拾い生きていくのは大変なことだったはずです。疎外感、孤独の中で彼女の心は折れそうになり、疲れていったことでしょう。そんな彼女にボアズの信仰から溢れた言葉がどんなにか染み入ったと思うのですね。このボアズのように神への愛と隣人愛という信仰の塩に味付けされた言葉を、いつも口にしたいものだとつくづく思うものでありますが。
「主の厚意」

この2章には「厚意を示してくださる」という言葉が3度も繰り返されています。

ルツは、自分とナオミに「厚意を示してくださる方」を求めて落ち穂拾いに出ます。  そして「厚意を示してくださる」ボアズと出会い、慰めを得ます。

ボアズは、けれどもこれは自分の厚意というより、主なる神さまの厚意だ、主なる神さまが、その御翼のもとに逃れて来たあなたに豊かな厚意を示し、迎え入れて下さっているのだ、といっているのですね。

このようにルツはボアズを通して厚意を示してくださる主なる神さまと出会い、救いを見出し、慰められたのです。

「御翼のもとで」

主なる神さまが、その御翼のもとに逃れて来た異邦人の女性ルツを迎え入れ、厚意を示して下さった、それこそが本日のメッセージの中心であります。

主なる神さまの厚意、慈しみは、イスラエルの民だけに向けられているのではありません。主はみもとに身を寄せて来る全ての者に厚意を示し、温かく養って下さるのです。
苦しみの中で御翼のもとに逃れて来た異邦人の女性ルツを、主なる神さまがボアズを通して、その厚意をもって迎え入れ、養って下さるのです。

23節に「ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終るまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った」とあります。

私たちはここから、主なる神の恵みの豊かさ、深さを知らされます。

主はこのような慈しみによって、私たちをも御翼のもとに迎え入れて下さり、神の民として育み、養って下さるお方なのです。ルツは、主なる神さまの御翼のもとに逃れて来ましたが。それを本当に実感できたのは「神の厚意を知る人」ボアズの言葉と態度に触れた時でした。

今も主なる神さまは、救いを求める人、主の教会に身を寄せて来られるすべての人に深い慈しみをもって厚意を示され、その主の厚意が、信仰者を通して表わされることを期待しておられます。

大事なことは、主なる神さまの御翼のもとにだれもが例外なく迎え入れられ、その厚意をお互いがおぼえ合い、主の慈しみによって養われていることです。

主なる神さまは、ご自分の御翼のもとに新たに逃れて来た人たちをも、恵みをもって迎え入れ、厚意を示し、守り養おうとしておられるのです。

その主の慈しみのもとにある福音のゆたかな拡がりを喜び合いつつ、恵みに行かされていることに感謝して、この礼拝から今週もそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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天王寺 こども食堂「おいでや!」開店

2019-09-09 13:21:01 | 教会案内

9月11日(水)午後3時半~7時

 

☆ばしょ:大阪教会の2階ホールへおいでください。


☆こんだて 親子丼(おやこどん)


☆さんかひ 小学生50円 中学・高校生100円 

      親・おとな200円


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題ももっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。


ボランティアさん、ほぼ10人おります。

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神の御前を歩んだ人生

2019-09-01 16:50:47 | メッセージ

礼拝宣教 創世記48章1-22節(召天者記念)

                          

先週まではヨセフの物語を読んで御言葉を聞いてきましたが、本日の48章は、信仰の父祖アブラハムの孫でありヨセフの父である「ヤコブの人生の終わり」を語っています。

ヤコブが死に臨んで何を語り、何を遺したか。

                                                                                                                                                 以前ヤコブが、神さまによってイスラエルという新しい名を与えられたことを私たちは読みました。本日のところでも、ヤコブと言われていたりイスラエルと言われていたりしますが。そのヤコブに与えられたスラエルという名が、この民の名となっていったわけです。そして、このヤコブの息子たちから、イスラエルの12の部族が興った、ということでございます。
49章には12部族のリストが語られていますが、そこにおいてはヨセフが一つの部族となっています。しかし長い年月を経て彼らの子孫が増え拡がり、エジプトの奴隷状態から解放されて、神の約束の地カナンに入り、土地の分配が行われ時、その嗣業の土地を与えられたのはヨセフ族というのではなく、マナセ族とエフライム族であったことがヨシュア記16章に記されています。


ヤコブの息子の兄弟からなる12部族で、なぜヨセフだけはその子らが嗣業の地を受け継ぐこととなったのでしょう。それは、本日の48章にありますように、イスラエル、すなわちヤコブがこの2人の孫たちを祝福したからに他なりません。年老いたヤコブは、自分の死を意識しつつ、この孫たちに祝福を与えたのです。                                             子供や孫を祝福し、その健康や繁栄を願うことは、その立場になれば誰しもそういう思いを持つでしょう。けれどもこのヤコブの祝福は、そういった私たちの思いとは違うものです。なぜならこの祝福はヤコブ個人の願いではなく、神さまから受けたものだからです。そのことをヤコブは3、4節でこう語っています。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう』。」

ヤコブはこの祝福をヨセフの子である孫たちに与えようとしているのです。       

私たちが子や孫を祝福する時、それは祝福と言うよりも願望と言った方がよいものです。理想的姿を思い描き、無事を願う。しかしそれは人生がままならないことを知っているからこそ、そう願わないではおられない思いでしょう。けれどもヤコブの祝福は、神さまからすでに受けた祝福であって、力を持ち、具体的な表われとして実現するのです。この祝福を受けたヨセフの息子たち、マナセとエフライムの両氏族は、やがてイスラエル12部族の一員として嗣業の土地を受けつぐものとなっていくのです。

ヤコブが受け、与えたこの祝福は又、父イサクから受け継いだものでした。そしてそのイサクも、この祝福を父アブラハムから受け継いだのです。              そのように、神さまの祝福がまるでバトンを渡されるように、父から息子たちへと継承されていくのです。                                その「祝福の源」(創世記12章)と、神さまが仰せになったアブラハムは、神さまへ信仰によって義と認められ「神さまの祝福」に与るものとされました。ヤコブも又、神と格闘するように相対した、その信仰にあって祝福を確かなものとされたのです。このように聖書が伝える祝福は「神の御前を生きる者」としての祝福であり、そういう意味では世の中が期待する幸いとは同じものではありません。                                                           新約聖書の時代に生きる私たちは、主イエス・キリストにある救いの信仰によって神の祝福を受けつぐ者とされています。                         それは血筋によらず、能力によらず、ただ信仰によって祝福の恵みに与っているのです。欠けがなく立派だったからというのではなく、むしろ神の前に罪と欠けある者であるがゆえに、神の救いと祝福を信仰をもって受ける者とされているのであります。                                                                                                                                        今や神さまの祝福は、罪と欠けのあるこのような者を通して継承されるというまさに奇跡を私たちは自分自身において体験しているのです。自分に起った信仰の継承という奇跡が、今度は自分を通して他の人に起こされていく。まさに、神さまのそれが救いの御業、祝福のご計画であります。
 
さて、ヤコブは今、年老いて、死を目前にしています。この地上の歩みを終えようとする時に私たちは、家族に、自分の子供に、あるいは次の世代の人々に、何を遺すことができるか、ということを考えるのではないでしょうか。                                                         ヤコブがその時を目前にして、子孫に遺そうとしているものは何でしょうか。彼は父イサクから神さまの祝福を受け継ぎ、それを担って歩んできました。           その祝福の内容は先程読みました4節にあるとおり、「あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう」という、これは神さまの約束のみ言葉です。

彼はこの約束を信じて、その実現を求めつつ人生を歩んできたのです。この約束の御言葉の中で、彼の人生において実現し、今彼が持っているものは何でしょうか。彼は12人の息子を与えられましたが。しかし肝心の「この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう」と神さまが約束して下さった土地を、彼はただの1㎡も所有していないのです。所有していないどころか、そこに住んですらいません。彼は今いるのは異教の地エジプトであったのです。

この約束を神さまから与えられた時、彼はその約束の土地にいました。その土地を所有してはいませんでしたが、寄留者としてそこに住んでいたのです。ところがその後彼は、飢饉によって飢え死にするのを避けるためにその土地を離れてエジプトに下らなければならなくなりました。そこに、ヨセフの物語に語られていた神さまの不思議な導き、ご計画があったわけですね。ヤコブは最愛の息子ヨセフを失う悲しみを味わいますが、後になってそのヨセフが生きており、エジプトの大臣になっていることを知らされ、そのヨセフのおかげで家族全員が飢饉から救われるという恵みを体験します。そういう意味では彼はエジプトで喜びの内に老後を過ごすことができたのかもしれません。しかし神さまの祝福の約束の実現ということに関しては、目に見えるしるし、成果を得てはいません。そして、今や死が目前に迫っていたのです。そのような中で、彼が子孫に遺すことができるものはただ一つです。それは、彼自身が神さまからいただいた祝福です。ヤコブは神さまの祝福、もっと正確に言えば祝福の約束しか持っていません。彼が死に臨んで彼が子孫に遺すことができるのはただそれだけなのです。

15節、ヤコブはヨセフを祝福して言います。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名と、わたしの先祖アブラハム、イサクの名が、彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」

ヤコブは自分の生涯を振り返って、「牧者なる神さまが私の生涯を今日まで導いて下さった、御使いが私をあらゆる苦しみから贖って下さった」と語り、神さまを讃美し、感謝しているのです。                                                                         その神さまをして、「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神」と言っています。信仰の父祖アブラハムも、父イサクも、主なる神さまの御前を歩んだのです。「御前に」とは、「み顔の前に」という意味です。アブラハムもイサクも、主なる神さまのみ顔の前に歩んだ。生ききった。それは又、主なる神さまに見守られながらの人生でした。それこそが、彼らに与えられた祝福でした。ヤコブもまた、神さまの御前を歩んできたのです。                                   ヤコブは47章で「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」とエジプトのファラオに言っていますが。たとえ人間的な目に見える何の成果も上げることができなかったとしても、主なる神さまのみ顔を見つめながら歩むことができたがゆえに、彼の人生は神さまの祝福の中にあったのであります。ヤコブは終わりの時を迎えようとしている今、この祝福を讃美と感謝をもって子孫たちに遺そうとしているのです。
この神さまの祝福は、信仰と言うことができます。信仰とは、成果をあげることではありません。神さまの御前を歩むことです。                      自分の人生の歩みの全てが神さまの御前での歩みとなる。これこそが信仰に生きることであり、そこに神さまの祝福があるのです。

私たちは、信仰の先輩たちから、この神さまの祝福、信仰を受け継いできました。信仰に生きるところには確かに、様々なよい実りが与えられます。そういう意味で目に見える成果も伴います。しかし、信仰を受け継ぐとは、その実りや成果を受け継ぐことではありません。本日の箇所のヤコブの姿から私たちはそのことをはっきりと知ることができます。                                       人生において目に見える成果を何も得ることができなかったヤコブが、自分の人生は神さまの御前を歩んだ人生だったと、喜びと讃美と感謝をもって振り返り、その祝福を子孫に継承することができたのです。神さまの祝福は、信仰は、このようにして継承されていくのです。


本日は召天者記念礼拝として主に捧げておりますが。先ほど当教会の召天会員会友名簿に沿って、故人のお名前が呼ばれました。それぞれにご事情は異なりますが、みなさまが神の御前を歩まれた人生であられたことでしょう。                                                          先週の水曜日の聖書の学びは聖書教育のカリキュラムに基づいて、ルツ記1章の箇所を読み合い、御言葉を分かち合ったのですが。そこに登場するナオミという女性は、夫に先立たれ、さらに2人息子にも先立たれしまうのであります。彼女はまさに「残された人」として描かれています。人間的にみれば、これほど辛く、悲しいことがあるでしょうか。しかしそんな虚しさを背負ったナオミの隣人、大きな支え手、協力者となったのは、亡き息子の連れ合いのルツであったのですね。二人は貧しさの中、畑で落ち穂を拾って生活をつないでいくのです。その光景は、あのフランスの著名な画家ミレーの「落ち穂拾い」のモチーフとなっていますが。ミレーは人生のどん底ともいえる状況の折に、この作品を描いたとされています。                                                                       マタイによる福音書の1章を見ますと、「イエス・キリストの系図」の中に、何とこの異邦人であったルツの名前が記されているんですね。夫を亡くした彼女は姑のナオミと、その主なる神からわたしは離れません、とその信仰を受け継いでいく道を選ぶのです。そういう中で神さまの不思議なお導き、ご計画によってボアズと再婚し、オベドを産み、そのオベドからエッサイ、エッサイからダビデ、そうして救い主イエス・キリストへと、その信仰の系図がつながっていくのです。まさに信仰の継承がこういうかたちでなされていくのであります。


さて、今日の箇所の中で、ちょっと気になるところが皆さまにもおありではないでしょうか。それは、ヤコブの祝福の継承の場面で起こります。                                    ヨセフは長男であるマナセがヤコブの右側に、次男エフライムが左側に来るように立たせます。それは、右手による祝福が左手による祝福より上位であり、その最上の祝福を長男が受けるべきものと考えて、そのように二人の息子をヤコブの前においたのです。ヨセフは年老いて目がかすんでいるヤコブが間違えないように、という配慮からそうしたようです。ところが、いざ祝福を与える時に、ヤコブは(ここではイスラエルと12部族の総称としての名が用いられていますが)、14節にあるように「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである」と記されています。なぜヤコブ、イスラエルはそのように祝福の手を交差させたのでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。

それを見たヨセフは不満に思い、「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてくださ」(18)と言って、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭に移そうとします。(17) しかしヤコブはそれを拒んで、「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」(19)と言いました。                                 ここに示されているように、この祝福の手の交差は、その後のイスラエルの民の歴史において、この祝福のとおり、マナセ族よりもエフライム族の方が数も増え、力を持つ部族となるのです。まあ人間的に見て、ここにヤコブ自身の個人的な思いを読み込むことができるかもしれません。ヤコブ自身双子の兄弟の次男だったのですが、長男エサウをおしのけて父イサクから祝福を受けたのです。ヤコブが末息子のヨセフやベニヤミンを溺愛したこともそうですが、そういう長男よりも次男への思い入れ、贔屓(ひいき)の思いを持っていたのではないかと、まあいろんな解釈をすることもできますが、その真意は分かりません。
ただ思いますのは、主イエスさまがマタイ福音書19章30節のところでおっしゃった、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とのお言葉です。

これは、信仰の歩みにおいて、目に見える立派さ、実り、成果をたくさん生み出すことができたからといって、その人がそれらのことを誇り高ぶるのなら、その人はもう報いを受けてしまっているのであり、もはや神の祝福、信仰の恵みは必要とされてい逆に、そのような目に見える成果は何一つあげることができなくても、否それどころかかえって、苦労の人生の連続であったヤコブやヨセフ、又先ほどの残された人、ナオミではありませんが。困難の中であらゆるものを失い、亡くしていくような中にあっても、なお神さまがその身も心も魂も、生活も、その生の全領域を守り、支え、養っていてくださるお方であると、信じ続け、従って生きる、すなわち「神さまの御前を歩み続ける人生」であるのなら、まさにそれは、神さまの祝福に満ちた人生となるのであります。

本日は先に天に召されました私たちの信仰の先達をしのびつつ、御言葉を聞いてまいりました。私たちそれぞれに神さまの祝福を受けとっていく者であり、またそれを継承していく者として今を、生かされていることを心に留め、今週もこの礼拝から、それぞれおかれています場へと、遣わされてまいりましょう。

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