日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

聖霊の贈りもの

2023-05-28 16:15:09 | メッセージ
聖霊降臨礼拝宣教 ローマ8章14節~30節

本日は聖霊降臨によってキリストの教会が誕生し、世界に福音が伝えられてきたことを記念する特別な礼拝です。それは、復活された主イエスは天に昇って行かれる折、弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」とおっしゃいました。そしてエルサレムにとどまり続けていたところ、遂に聖霊の降臨の約束が実現されます。主イエスは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われました。その出来事は実に今日の時代に至るまで連綿と続いているのです。
 礼拝や祈り会、又讃美を共にささげている時、心の中に感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だかわからないけれど涙が流れたり、主が生きておられることを実感したというような体験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。そこには人間の側からではなく、神さまの側からの介入、聖霊ご自身がお働きになることを望んでおられます。心を開いて聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、新生の命と共に平安を得、主が共におられる確信が与えられていきます。聖霊のお働きを信じ、望み、祈り求めてまいりましょう。

今日は「聖霊の贈りもの」と題し、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
聖霊の贈りものについては14-17節のところで、まず「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」また、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と記されています。聖霊は人を「神の子」とする霊なのです。さらに、「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受ける」と述べられています。
キリストによって神に立ち返り、聖霊に導かれて神の子として生きる者は、神の恵みの相続人とされ、来るべき日にキリストと共に神の国を受け継ぐ相続人となるのです。
この驚くばかりの恵みですが、それは神の子とされた者がキリストと共に苦しむことをとおしてもたらされることが、ここに示されています。そのことは、キリストの愛と忍耐に倣い、キリストの似姿とされて、キリストと共に神の国を受け継ぐ神の子とされていくという事です。

聖霊のお導きによって神の子とされていても、この地上において問題や困難がなくなったかというと、決してそうではありません。むしろ先週お話ししたように、神の光に照らされますと、内在する罪が明らかになります。古い自分と新しくされた自分との闘いが生じていきます。

ローマ12章2節には、「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあります。これが聖書の示す優先順位であろうかと思いますが。
実に、そこで信仰の闘いや心の中に葛藤が生じてまいります。それは神に誠実であろうと思えば思うほど強くそういった闘いがあるわけです。まさにそうした中で忍耐強く神に従っていこうとするとき、「キリストと共に苦しむ」ということが生じます。そうやってキリストの似姿に変えられていくのです。

 さて、18節で「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るにたりない」と、述べられていますが。栄光に至るまでの現在に苦しみは3つのうめきに関連して述べられています。

①「被造物のうめき」
1つ目のうめきは、被造物のうめきであります。これは今日の時代においてもリアルであり、実感されてていることではないでしょうか。地球温暖化が進み、気象変動が様々な国々、地域において災害となっており、生態系や動植物にも影響を及ぼしています。
人の生活圏にクマやサルといった野生の動物が入りこみ、危害を加え、農作物を奪うような事が起こっていますが。原因は境界線ともいえる土地の管理が行き届かなくなり、ずさんになってきたため、動物が人の居住区域に入りこんできている、といることだそうですが。人間が身勝手な利益のために自然の動物を奪ったり、又自然環境を荒らすというような逆のこともいえます。いずれにしろ、大本は、神が造られた世界の被造物を「治めよ」と人間に言われた恵みの言葉に対して、人間だけの欲望や利益、発展のみを追求し、自然や動植物を管理する事を怠ってきたところに原因があるといえます。
一方、そのように地球が痛み、傷ついて叫びをあげている中で、地球に優しいライフワーク、持続可能な社会を作る運動も推奨されております。神がお造りになったすばらしい世界を回復に導く神の子たちが、実際必要とされる昨今です。
パウロは、ここで被造世界の「希望」について次のように述べます。
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」終りのとき、来るべき時に、神の子たちが神の国を相続するとき、被造物もその栄光に共にあずかっていく大きな希望があるということです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。それは産みの苦しみでありますから、待ち望みつつうめいている、ということです。来るべき主の来臨の時に向け、全被造物も共に忍耐しつつ、うめいているのです。

②「霊の初穂をいただいている者のうめき」
2つ目のうめきは、霊の初穂をいただいている者のうめきです。
23節に「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです」とあります。この霊の初穂というのは、十字架と復活のキリストであられます。イエスを主、救い主として信じ受け入れて救われた者は、みなこのキリストにある新しい命を宿しているのです。それは、やがて訪れる終末、主の来臨の時に、キリストと共にその栄光を受ける神の子として、朽ちる肉の体を脱ぎ、「霊の体に復活する」(Ⅰコリント15・44)。「体が贖われる」ことを希望として待ち望む。これが、主イエスによって救われている者の究極の希望であります。
しかし主を信じていても、絶望的思いになったり、挫折したり、さらには神さまを見失ったような思いになったり、又、神さまから見捨てられたような気になったりということが起こることもあるかも知れません。大使徒パウロであっても困難や苦しみの中で、言葉さえ失い、言葉にすることができないうめきを経験したという事が書簡の中に出てまいります。

③「霊のうめき」
しかし、パウロは気づきます。
26~27節「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」それは「霊のうめき」によるとりなしです。
私たちは、ほんとうに苦しいときにどう言うでしょうか。「苦しい」「しんどい」という場合もありますが、度が過ぎたり、理解を超えるような苦悩や苦痛が生じたときに思わず「うーー」とか、言葉にならないような「うめき」になるのではないでしょうか。
そういうときに、「霊もうめきをもって弱い私たちを助けてくださる」(26節)のです。
この「助ける」ということですが、原語では「共に」「代わって」「重荷を負う」という深い意味を持つ言葉なのです。霊は「苦しみを共に担う」ことによって弱い私たちを助けてくださるのです。日本語の「助ける」では、そこまでその深い意味を味わい知ることができませんが。そこには十字架の主イエスが深い苦悩と叫びをもって執りなされたご愛が、この霊の「助け」のなかに同様に働いておられることを知らされます。

この「霊による助け」「言葉に表せないうめき」ということについて思うことがあります。
以前、ホスピスケア・ターミナルケア(これは、その人らしい余命を全うさせ安らかな死を看取るとの視点に立った緩和ケアのことですが)、そのことについて学ぶ牧師研修の折、京都の日本バプテスト病院のチャプレンがこういうことをおっしゃっていました。
「患者さんは、その病状が重度なゆえに、「ノ―」ということが言えない状況にもある。しんどくても我慢して大丈夫と言っている。言いたいことも押し殺している。私たちはそのような患者さんの思いを聞き取り、サポートができたらと願っている。」
このケアは一人の魂に医師や看護師といった専門職だけが関わるのではなく、「その人に愛情をもって接することのできる人なら誰でも可能」だということです。それはその患者さんの話を聞かれるご家族や友人をはじめ、お部屋を毎日来られる掃除婦の方など様々な人との関わりを通して、その一人の魂を多面的に看ていく。そして可能な限りその人の声を聞いていく、そういうことがスピリチュアルケアに大事な面であるということを教えて戴いたのでありますが。私たち一人ひとりも又、神の霊が共におられ、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成されているのですね。
ここで覚えておきたいことは、先の話のように、一人の患者さんの言葉にできない思いは、主にある私たちの間で、共にそのうめきは、とりなされ、覚えられ、祈られていくということが大きな力、喜びとなっていくことに違いないでしょう。
それは、主にある隣人として主が導かれた、共に礼拝に与る方がたの「言葉に表すことのできないようなうめき」を聖霊ご自身がうめいてくださり、私たちも又、主にあって愛をもってとりなし祈り、祈られる者として招かれています。そこに聖霊のゆたかなお働きと交わりがあります。

そこで、祈る側の私としてですが。人のために霊によって祈るということは、感情や感覚に頼ってはなかなかできないことです。あの人のためには祈れるが、この人のために祈れないという場合もあるかも知れません。ここに信仰の闘い、血肉ではない霊の闘いがあります。闘いといっても、それは自分の内側から起こってくるものが大半でありますが。
そもそも霊の初穂をいただいている者は、救われた義人ではありません。どこまでも救われた罪人であります。そのような罪人が、唯、主の憐れみによって罪赦され、神の子とされ、神の国を受け継ぐ者とされているという救いの原点に立ち戻ることが大切です。
そうして主の前にあって自らを低くされ、人を愛し、ゆるし、とりなす者とされてゆきます。神は引き上げてくださる、とイエスさまは仰せになりました。これが神の子としての祝福であり、神の霊が共に働く人の姿です。
私たちは、聖霊のとりなしとお働きを祈るということにうみ疲れてはなりません。自分自身のため、身近な人のため、又主にある同胞のため、主が成し遂げてくださった御救いがすべての人、又全被造物にもたらされていくように祈り続ける。そのために召されています。神は霊の人の祈りに耳を傾けてくださり、万事を益としてくださるのであります。
ここに、「神はわたしたちを御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められた」とあります。
何と畏れ多いことでしょうか。キリストと共に喜ぶことだけでなく、キリストと共に苦しむ。それはキリストの救いに与り霊に導かれて神の子とされる者が、キリストの似姿にされるという神のご計画によるものです。
この聖霊降臨、ペンテコステにおける聖霊のゆたかなお働きと恵みに感謝し、今日の御言葉を受け、さらに祈り求めつつ、キリストと共にその栄光を受けていくものとされてまいりましょう。
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罪の法則からの解放

2023-05-21 17:22:10 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ7章7節~8章2節 


今日も私たちは「キリストの救いに与る新しい人」としての人生に招かれています。
先週の6章には「バプテスマ」について記されておりましたが、特にその8節-11節をもう一度味わってみたいと思います。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死はもはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがた自身は罪に対して死んでいるが、キリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」「考えなさい」を原文に近く訳すと「認めよ」という言葉です。ただ「考る」のではなく、存在をかけて「認識する」と言うことです。キリストに結ばれて神に対して生きる、その幸いを認識する毎日でありますよう祝福をお祈りします。

  • 「律法は聖、掟も聖」
さて、本日は7章7節から8章2節のところを共に聞いていきたいと思いますが。
パウロは5節で「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪に誘う情欲が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」と述べます。                      
つまり、戒めを知り、悪いことだと分かっているのに、かえってそれを行ってしまう肉の弱さですね。たとえば、小さなこどもであっても、そんなことしてはいけませんよ、言っちゃダメですよ、と言うと。いけないと分かっているのにかえってそうしたがる、言いたがる。おとなであれば、ルールは破るためにあるなどと嘘ぶってしまう、そのような性質が人間の中に働いています。それは社会全体までもむしばんでおり、死に至らせるような状況を作り出している。そうした罪の法則とも言えるようなものが働いているということです。                      
7節で「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしたちは罪を知らなかったでしょう」と、パウロは述べます。     
12節では「律法は聖なるものであり、掟も聖なるものであり、正しく、そして善いものなのである」とも述べています。
神がイスラエルの民をご自分の宝の民(申命記7:7)となさろうとした時、モーセにシナイ山で授けたとされる「10の戒め」、十戒は完全で聖なるものであるのです。聖であり正しいものなのです。それは「光」のように人の心を照らします。言換えますなら、律法という聖なる「光」に照らされなければ罪の自覚は生じません。
神聖な正しさ、その律法の光の前に、人は自らの罪深さがあらわにされるほかないのです。どんな隠れた罪もすべてが、この律法の光に照らされ明らかになるのです。神の前に罪は無いと言える人などいません。

  • 「罪と善の間で」
使徒パウロは自ら罪人であることを告白します。
15節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。17節では「そういうことを行っているのは、いまだわたしの中に住んでいる古い性質であり、それが罪を犯させる」と自らのことを述べます。
それはキリスト者として歩む私たちの思いをも代弁しているかのようであります。
信仰をもつ前は、又み言葉知る以前は何とも思わず平気でやっていた事が、主を信じて生きるキリスト者となったばかりに罪に気づかされる。だけど善を行えないそんな自分の姿を思い知らされるのであります。しかし、それは真摯に主とそのみ言葉に向き合おうとするからこそ生じる葛藤であり、いわばキリスト者として正常なあるべき姿といえます。
この深い罪の認識は、自分は正しい、間違っていないと自己を正当化し、自分を誇り、自分の義を立てようとする者のうちからは決して発せられるものではありません。罪の認識は、救われる以前の人の口から発せられるものではなく、キリストの十字架の愛と赦しによって真実に救われている人の告白であるのです。

パウロはキリストに出会う前、自分の力で義を立てようとする人でした。自分を誇り、自己を正当化する人でした。キリスト者を神と律法の背信者、敵とみなして排除、迫害しました。けれども、
あのダマスコへ向う路の途中で活けるキリスト、律法の完成者であり、真理の光なる復活のキリストと出会うのです。彼はまさにそこで、自分でも気づくことができなかった深い自分の罪があらわにされたのです。自分が神のために正しいと行ってきたあらゆることさえ、自らの滅びを刈り取っていることに他ならない悲劇に気づかされるのです。15節にあるように、自分が望むようには行えず、かえってこれではいかん、というようなことをしてしまう自分。自らが古い性質に引きずられるような罪人であることを、告白せざるを得なかったのであります。
パウロほど勤勉で道徳的な人間、敬虔で熱心な人であっても自分の力では救われないということを思いさらされたのです。しかし主はその度に十字架を示し、自分の力ではどうしようもない罪を贖い、「ただ恵みによって」滅びから命を救いだし、霊による新生に与って生きる道、神の子としての道を指し示し続けてくださったのであります。
私どもも又、そうではないでしょうか。「正しくあれ」という願望と人の熱心だけであるなら、自分を責め、人を責め、失望する以外ありません。主イエスの十字架の救いに信頼し、感謝のうちに神の救いに与っている者として、自分との和解、他者との和解というキリストの平和の道を歩むものでありたいと願うものです。

  • 「霊によって完成されたものを肉によって仕上げようとする罠」
本日の箇所を読み重ねていく中で、わたしの心に留まったのは「罪の法則」と「霊の法則」という言葉であります。8章2節に次のように述べられています。「キリスト・イエスによって命をもたらす「霊の法則」が、「罪と死との法則」からあなたを解放した。」
この「あなた」とはキリストの救いを受け入れた「あなた」のことであります。神はあなたという一人の魂に御目を注ぎ、その罪と死の法則から解放してくださるのです。            
キリスト者はキリストの救いに与った罪人であります。神は私たちの罪を完全に贖い、救ってくださいました。神の側の救いは完全であるのです。しかし、わたしたちは救われた「義人」ではなく、救われた「罪人」であります。その罪の誘惑のなかで生きている現実があることを心にとめておく必要があります。救われる以前に逆戻りして自己を正当化したり、行いによって自ら高ぶったり、自らを省みることがないのなら、それはもはやキリストの救いの恵みを締め出している、いや必要としていないのと同じです。
このわたしという一人の魂の罪を完全に贖い、罪から解放し義としてくださるのは、ただ主の恵みにより、霊なる神さまによってであります。そのことを忘れてはなりません。 
ややともすれば、その救われた罪人ということの自覚がなくなり、自分が義人のようになった思いになってしまう。そして自分の業や言葉が義に価するかのように錯覚してしまう。それでは、霊によって始められたことを、再び肉によって仕上げようとすることにほかなりません。
私たちが何か清いから救われたのではなく、キリストの尊い命の代償によって私たちはあがなわれ、解放と救いがもたらされているのです。それは決して人の業や力によるのではなく、ただ神の愛と憐れみによるものです。
それだけではありません。霊なる神さまが、わたしたち罪深い人間を神の子として生まれ変わらせ、新しい命を生きる道を拓いてくださっているのです。この救いの道を歩み通して行くことです。
それは肉によるものにではなく、まさに、「霊によって始められた恵み」であり、霊によって完成されることなのです。自分の熱心、自分の能力、自分の働きによるものではありません。しかし人はまことに罪深いものです。霊によって始められたものを、再び肉(自分の力)によって完成しようとする過ちを犯し得るのです。それはパウロが手厳しく手紙をしたためたガラテヤの信徒の教会だけでなく、ローマの信徒の教会にも存在していた問題でありました。ユダヤのしきたりを強要した人たち、又、どの指導者につくかと、内輪もめしていた人たちがいたのです。
それは又、「神の恵みにのみ救われた罪人である」すべてのキリスト者、私ども一人ひとりにも向けて語られたメッセージでもあります。                   
私たちは日々心新たに、初めて救いに与った者のように、主イエスの十字架を仰ぎ見て、そこから溢れ出る恵みに浸り、自らの罪に死に、新しい命に与って生きる。そのためにいつも自らの信仰の吟味、キリストとつながって生きているかを確認して、聖霊によって信仰の確信を強くいただいて新たにされていくことが大切なのです。

  • 「霊の法則に従って生きる」
この箇所を準備していく中で、もう一つ知らされたことがあります。          
それは「霊の法則に従って生きる」ということであります。私たちはこの地上において現実や限界をもった人間であります。いろいろなことが起こってまいります。信仰の杖を離すことなくにぎって立ち続けてていないと、悪の試みがやって来た時に簡単に罪の罠にはまってしまう弱い者です。又、救いの「喜び」から始まった信仰の恵みがかげり、喜びがなくなり信仰から離れていくようなことも起こりかねません。また、不安や疑いが生じては信仰の確信を失い、落胆と絶望さえ感じるようになることもあります。               
しかし、不断に信仰に立って常に目を覚まして祈っている人、神さまとの関係性を築いている人は、
あらゆる状況の中にあっても、主の恵みとその喜びを失うことはないでしょう。かえってみ言葉によって忍耐強く祈り、困難にもキリストにつながっていく中で、その愛と信頼によって、様々な闘いに立ち向かい、打ち克つことができます。
私たちは確かにこの地上において現実の問題が起こってまいります。生活の問題、家族の問題、老後や病の問題、人間の関係など切りがないほどです。しかし、そういう中にあっても、言い尽くしえない希望を持って生きています。それは、神の言葉によって人の世の基準や判断はすべて移ろいやすく、やがては虚しく無くなってしまうという事を知らされているからです。そういう私たちに聖霊は伴われ、とこしえに変わることのない真理の道に導かれます。
そうして生きる「神の子」としての希望は、世の目に見える基準や判断に左右されるものでは決してありません。イエス・キリストなる神さまが、「お前の一生涯をわたしも共に負って歩く」といってくださり、来るべき時には、この名を呼んで、わたしの子よ、と迎えてくださる。この希望。それは肉の法則ではなく霊の法則であります。今日の箇所の先の8章6節に「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と記されています。この霊の法則に生きるところに、罪の法則からの解放、本物の救い、祝福に与る者ありますよう祈ります。

  • 「キリストに結ばれて生きる」
最後に、今日の8章1節の言葉をお読みします。
「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」
ある逸話をご紹介します。スコットランドのある村に、一匹の犬がいました。その犬は汚れていたためだれも犬に近づこうとしませんでした。犬は、村や森の中をさまよい、飢えと疲れからひどく衰弱していました。ある時、村の少年が、その犬の首に名前が刻まれたメダルを見つけたのです。そこには「パップス」という犬の名前とともに、「国王所有の犬」という小さな文字が刻まれていました。このことを少年から聞いて驚いた村の人々は王室に知らせ、飼い主がわかった犬は王宮に連れ戻されました。パップスは、王が休暇でエジンバラ城の近くに来た時、迷い子になったのです。見つけ出されてからのパップスは、森の中をさまよっていた頃とは一転して、飼い主である王の愛と保護を受け、安らかに過ごしました。王とパップスをつないだのは、飼い主のことが刻まれたメダルでした。
如何でしょうか。私たちキリスト者は、どのような事があっても、どのような状況でも、主人がだれであり、自分がどんな存在であるか認識しているでしょうか。わたしは「主のもの」「キリスト・イエスに結ばれている」存在であることを忘れてはなりません。そこに真の希望と平安があるからです。キリストに結ばれて生きるキリスト者は何と幸いでしょう。今や、神の栄光のために私どもは生かされています。7章4節にもこう記されています。「あなたがたが死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
アーメン。「霊の法則」に従って生きる者とされてまいりましょう。主と共に感謝と喜びをもって。祈ります。
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2023年5月21日(日)主日礼拝式

2023-05-17 17:24:01 | 教会案内

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TOT コンサート

2023-05-16 10:00:30 | イベント
TOT コンサート
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罪に死に、キリストに生きる

2023-05-14 13:18:44 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ6章1~11節 

 主イエスを信じ信仰告白をされてバプテスマを受けられた方は、ご自分の信仰告白やバプテスマの時の事を憶えておられますでしょうか。
私は高校1年生のイースター礼拝の時に、主イエスを信じる信仰告白し、バプテスマを受けました。今、その時に言い表した内容についてはほとんど覚えてはいませんが。その文章はある意味未熟なものであったと思います。とは言え、その時の高校生としてわかっただけのイエスさまの愛と救いを受けとり、主を信じて生きる信仰告白を表してバプテスマを受けたことに後悔していません。なぜなら、その時に主イエスを信じて、バプテスマを受けていなかったら、恐らく教会から離れ、神に背負向けた生活に戻っていたでしょう。ましてやこうしてキリスト者として生きることもなかっただろうと思うからです。その時神様を信じたありのままの状態で、バプテスマを受けてよかったと本心からそう思います。バプテスマを受けた時は、人間でいえば赤ちゃんのような状態で、実はそこからがキリスト者としてのほんとうのスタートです。これからキリスト者として生きて行こうという決意とともに、様々な試みとも言える出来事が起こってまいります。さて、そこでどう生きるか。いわば聖書の言葉との格闘が始まります。人は出会いや体験によって人生が大きく変わっていく事があります。バプテスマを受けたという体験は、深く脳裏に刻まれその後の人生での様々な苦難や困難の出来事の最中にも啓示を与えます。

 さて、本日の6章のはじめでパウロは、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と記していますが。それは、キリスト者になった人の中には、ユダヤの律法主義や割礼をはじめとした儀礼を守ることに縛られ、自分の誤った正しさを基準にして人を裁き非難していた人たちがいたのです。そればかりユダヤ人以外のキリスト者たちに割礼や儀礼を強要していたのです。彼らは神の恵みによる救いを信仰によって受け取る事ができていなかったのです。                                                        
 その一方で、救いの主を信じ受け入れてバプテスマに与った異邦人たちの中には、自分たちはもう自由なんだから何をしてもよいのだと身勝手で放縦な生活をしたり、勧めたりする人たちもいたのです。                                                                パウロはこの両者に対して、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお罪の中に生きることができるでしょう」(1-2)と忠告しているのです。                                             それは人ごとではありません。バプテスマを受けながらも、「このようにあらねばならない」とか。「このようにすべき」いう考えに捕らわれていくとするなら、そこには平安や解放ではなく、怒りや裁きの感情が起こってくるでしょう。                                           
 一方、バプテスマを受けたのだからもう自分は解放された、自由だと、教会も礼拝も主の交わりなど必要ない。わずらわしい。関係がないと、自分好みの説教者のメッセージにチャンネルを合せて視聴する人もおられます。それが悪いとはいいませんが、もったいないです。バプテスマを受けた真の幸いは、キリストの体なる教会につながること、又、同信の友との主にある交わり、祈り支え合い、とりなしをとおして恵みがゆたかに与えられるからです。

以前の祈祷会でのことですが。イエスさまが十字架にかけられた時に、同じように十字架にかけられた犯罪人がいて、イエスさまがその人の言葉を聞かれて「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたという記事を読んでいた時でした。ある方が、「その人は死の直前だったけれど楽園にいると言われてラッキーな人だね。けれども、天国に行ってみると周りは知らない人ばかりだったかも。それだったら、やっぱりバプテスマもできれば早い時期に受け入れるのであればそっちの方がいいでしょう。早ければ早いだけ天国で逢える仲間と地上で出会う機会が増え、その人が天国に行った時、地上の教会でいっぱい信仰を共にした人たちがそこにいるかもしれないから」とおっしゃっていました。なるほどなぁと思いましたが。そのように、バプテスマはキリストと私との一対一の関係ではありますが。そこにはキリストの体なる教会をとおして同信の友ともつながっているゆたかさがあります。人間です。時に様々な感情が働くこともあるでしょう。けれども、礼拝を共に捧げ、賛美を共にするだけであったとしても、そこに主が共におられ、聖霊がお働きくださっています。主にあって共に交流しつながっていく中で、キリストと共に生きる信仰が練られ立てあげられてゆくのです。
 ヨハネ15章に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と記されたそのゆたかさにあずかっていきたい者です。
 バプテスマを受けたから救われるのではありません。神の恵みによって主イエスを救い主と信じ、救に与り続けながら生きる。救いに与った互いの証の中に生きておられるキリストと共に生きる。そのことを繰り返し繰り返し確認しつつ、来るべき日を共に待ち望むのです。
 さて、パウロは先の2節で「罪に対して死んだわたしたち」と述べています。一般的に罪と申しますと、この社会には日々新聞テレビのニュースで悲しい事件が報じられ、法に触れる犯罪があふれています。では、そういった表に出る事だけが罪深いかと言いますと、たとえ法に触れなくても、表に出なくても高慢や妬む思いや、又自分を守ろうと排他的になって人をも傷つけ悲しませてしまうのも私たち人間であります。それも罪ということができます。それらはみな複数形の罪であります。が、この6章で記されている罪は、実は単数形の罪なのです。それは神と人との関係性が損なわれている根本的な罪だということです。実にそのところから様々な罪が生じているのです。                                                      

人類の初めの人、アダムが人として創造された当初は、「それは極めてよかった」と創造主が感嘆の言葉で表現されたように、神と人との関係性は最善であり、人は罪を知らない存在でありました。けれども、「決して食べてはならない。食べると死んでしまう」とおっしゃられた神の忠告と、その関係性をないがしろにし、その実を食べてしまいます。これによってアダムは神と共に住むエデンの園にもはや居られず、様々な罪と、死とにおびえる存在となるのです。
 けれども、神は愛なるお方です。その人の罪の問題、その大本である神と人との破たんした関係性が回復することを願われた神は、遂に御独り子、イエス・キリストをこの世界にお遣わしになられます。このイエス・キリストが十字架におかかりになり、成し遂げられた罪の贖いによって、すべての人は救いに与る道が拓かれているのです。その門をくぐり歩む人生に、神は和解の平安と喜びの日々を与えて下さるのです。
 
今日の個所で肝心なことは、一人の人アダムによって全人類の「罪」が明らかになったように、一人の神の御子、イエス・キリストによって全人類の「救い」が実現した、という事です。それはイエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、大本の罪の問題を解決してくださったということです。言い換えますなら、イエス・キリストをとおしてなされた神との和解の福音に生きる人の人生において、罪がもはや支配することはできない、ということです。キリストの救いを信じてバプテスマを受けた人は、「罪に対して死んだ」と言っているのです。そのわたしたちが罪に対して死んだというのは、イエス・キリストが十字架につけられた、歴史上の唯一度限りの決定的なときであるのです。ここでキリストが、人のもつ根本的な罪(単数の罪)に対して、すべての人間の罪の解決のために死なれたということです。

パウロはまた6節で、「わたしたちの古い自分(アダムの罪性)がキリストと共に十字架につけられた」とも述べています。さっと素通りしてしまいそうですが。これは大変なことを言っているのです。 私にとってはあの高校一年生のイースター礼拝で、主イエスを救い主と信じる告白をし、バプテスマを受けたそのとき、この罪ある私は4節にあるとおり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」。しかしそれは単にキリストだけが十字架にかかって「私のために死なれ葬られた」ということではなく、そのとき私が十字架のキリストと共に葬られ、死にあずかるものなった。「罪に対して死んだ」者とされたということであります。                            
 この真実を私が改めてわきまえ知るようになったのは、聖霊の導きとしか言えませんが、バプテスマを受けてから4年後の時でした。その時、本日の5-6節の言葉が私の深いところに響いてきたのです。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」ここに「わたしたちがキリストと一体となって」とあります一体というのは、「結ばれる」とか、「継ぎ合わされる」という意味です。それは、キリストのうちに私がいる。又私のうちにキリストがおられる、ということです。わたしたちは「キリストと共に罪に死に、復活の命にあやかるものとされる」というのです。あやかるを辞書で引くと、「感化されて似る。特に幸せな人に似て自分も幸福を得る」とあります。キリストに結ばれた人は慕ってやまないキリストに似るものとされていく、ということでありましょう。
 世の常識で考えれば、あのゴルゴダの丘で、唯一度限りキリストが十字架につけられた時から2000年の時を経、地理的、文化的に大きな隔たりがあるこの私たちであります。しかし、「キリストが私たちと共に罪に死に、そのキリストと一体とされて生きる」という出来事は、この2000年間ずっと起こり続けている事実なのであります。その証拠に、このキリストについて書かれた聖書は世界のベストセラーとして今日まで世界中の言語に翻訳され、そこに救いの事実があるからです。
8-9節「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。」何という力強い言葉でしょうか。
この手紙を書いているパウロにも、苦難や死が身近なものとして迫っていました。にもかかわらず、パウロにはキリストがいつも共におられるという確信があったのです。そのキリストと共に生きる希望によって、福音の使者として生き、書簡を通して教会と信徒たちを愛し、祈り、励まし続けたのです。
最後に11節のパウロの言葉を原文に近い訳でお読みします。                     「このように、あなたがたも自分は罪に対して歴史上唯一度限りの決定的なときにおいて死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」水と霊によって新たにされて、「罪に死に、キリストと共に生きる」。
 神の御前に取り戻された私たちの日々の歩みが、キリストに倣う者とされていきますよう祈り、求めてまいりましょう。
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2023/5/14 主日礼拝式

2023-05-10 12:58:49 | 教会案内

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キリストをとおして救いを喜ぶ

2023-05-07 16:44:13 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ5章1~11節

本日の5章1-11節には、「主イエス・キリストによって」、あるいは「キリストによって」、「キリストをとおして」という表現が5度も出てきますが。それは主イエス・キリストでなければ成し得なかった神と人との和解の仲介者としての務めであります。神との和解・平和が築かれるために、神の御子イエス・キリストが「仲介者」となられた。その事が強調されているのです。この「(救い主)主イエス・キリスト」を抜きにして神との和解・平和はなし得なかったのです。
造り主である神との良き関係性を築いていくことは人にとって最も幸いなことです。それは、いくら有り余るほどの物を持っていたいたとしても得られるものではありません。神は主イエス・キリストをとおして、人を罪の縄目から解き放ち、滅びから救われた者として神との平和・平安を与えて下さいました。キリストが十字架で裂かれた御体、流された血によって私たちのおぞましく醜い罪は贖われ、その唯恵みによって神と和解し、神の平和の道が拓かれている事をしっかり覚えて生きることがほんとうに大切です。

ちなみに、ローマ書を読むとき「義」という言葉がいっぱい出てまいりますが。その漢字をよく見ますと、羊という字の下に我という字から成っていることにハッとさせられます。
9節の「わたしたちは御子イエス・キリストの血によって義とされたのですから」という言葉を読みますと、十字架の御子イエス・キリストは贖いのための神の小羊。そしてその下には罪贖われた我(私)がいるというように見えてきます。そのように私たちは神の小羊なるキリスの救いによって義とされたのです。

 本日読まれた5章の箇所には、その信仰によって義とされた者に与えられた「祝福」について記されています。
使徒パウロはまず、1節で「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」と述べます。
その祝福は第一に、「神との平和」であります。この事があらゆる祝福につながるのです。神がキリストをとおして人間にもたらしてくださった最も根源的な祝福は「神との平和」、別の言い方をすれば「神との和解」であります。どのような人間にとりましても、死への恐怖や不安、世にあって様々な問題や出来事がありますが。聖書はその一番大本の問題は、神との断絶であり、それが滅びであると説いています。
神と和解し神との平和が回復されることが必要なのであります。その関係性が取り戻されていくとき、人知を超えた平安が与えられます。主イエス・キリストをとおしてすべての罪は贖われ、神の怒りと滅びは過ぎ去った。この神との平和、神との和解の関係に与らせていただいているということが、何にも替え難い「祝福」なのです。

また、パウロは2節のところで「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます。「神の栄光にあずかる希望」が与えられている。これが第2の祝福であります。
それは、やがて訪れる終末のとき、主の再臨のときに完成されるのでありますが。今この時からすでに私たちは信仰によってそれを「希望」としていただいているのです。しかもこの「希望」は、手に入るかもしれない、というような不確実な見通しではありません。それは既に神により保証されているのです。
ヘブライ書11章で、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです」と記されているとおりです。今日も私たちはその事実を確認するため、こうして集まっているわけですが。ここで言う「神の栄光にあずかる希望。」それは神の怒りと滅びから解放され、救われているという信仰による恵みなのであります。

さらに、ここで述べられている「神の栄光にあずかる希望を誇りとしてる」、この誇りは、原語で「喜び」と同じ意味です。人が自らを誇るというものではなく、日々神の栄光にあずかる希望を「喜んでいる」ということです。如何でしょうか。神の栄光にあずかる希望が「喜び」となってしているでしょうか?
それはどこか遠くの先にあるものではなく、実にこの地上の日々の営みのうちにすでに始まり、起こされているのです。
キリストの福音に出会う以前の人は、その誇るべきは自分、喜ばすのは自分であるのです。しかし、キリストの福音を信じた人は、その信仰によって神さまを誇り、喜ぶのです。

パウロはまた、「神の栄光にあずかる希望を誇り(喜び)とする」者は「苦難をも誇り(喜び)としています」と述べます。
「苦難を喜ぶ」ことなど人にできるでしょうか。生身の私たち人間は苦難に遭うなんて、と常識では喜ぶことなどできません。けれどそれらが決して朽ちることのない「希望」。死を前にしてさえ失われることのない「希望」を生むというならどうでしょう。

パウロは次のように述べています。「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。」
その忍耐は単なる我慢ではありません。苦難の中でも愛なる神さまは私のことを知っていてくださる。この信仰にあって救のときを待ち望む、その忍耐です。
 それはまさに神ご自身、罪に滅びゆく人間を決してあきらめることなく、御子なるイエス・キリストを仲介者として和解の道を拓き、すべての人が福音を信じ、立ち返るのを待っていて下さる、その神のご忍耐なのであります。神さまの愛は底知れない偉大なものであり、そのご愛が私にも確かに向けられている。そのことのゆえに私共も又、苦難や患難の中で救いのときを待ち望むのです。
 パウロは、その忍耐が練達を生む、と言っています。
練達とは熟練されていくということでしょう。確かに苦難の時にも耐え忍ぶ中で人は練達された心や精神を身に着けていくこともあるでしょう。しかし興味深いことに、「忍耐は練達を」の「練達」が岩波訳聖書では「確証」と訳されています。「確証」というのは、「確かな証拠を得る」「ある事実を確実なものとする証拠を得る」ということですね。私共にとってある事実とは、まさに「キリストによる救いの事実」であります。
神の救いを忍耐して待ち望むときが、キリストによる救いの事実の確証を生んでゆくというのです。キリスト者とは「私には救いの事実がある」と、苦難をもその救いにあって誇りとされていくということです。
だから、私の、私たちの苦難は失望に終わらない。「神の栄光にあずかる希望」は断たれることはない。希望は私たちを欺くことはないのです。失望に終わらないということです。
御子イエス・キリストの苦難と死は、そこで終わりませんでした。愛なる神はキリストを死から復活させられ、いつも共におられることを顕されるために聖霊を私たちのもとにお送りくださいました。

 使徒言行録には、この手紙を書いたパウロが福音を伝えるために迫害に遭い牢屋に閉じ込められた時のことが記されています。同労者のシラスと共に鞭打たれ投獄されるというその苦難の中で、二人は聖霊によって神の愛に満たされ、神に祈り賛美を捧げました。その時大きく地が揺らぎ牢屋の戸が開いて解放されるのであります。それと共に、牢屋の番人である看守とその家族までも神の救いに与る、という喜びと希望の出来事が起こるのです。
 それはパウロの頑張りや力によるものではなく、聖霊によって注がれた神の愛によるものでした。その神の愛こそ、キリストが、実に「不信心な者」「罪人」「神の敵対者」のためにまでも身代わりとなって死んで下さった、その救いによって明らかにされたのです。この仲介者なるキリストの和解の福音によって、私たちは苦難の中でさえ、他者とその喜びを共に分かち合う希望へと導かれているのです。主イエスがこの地上に来られたのは、私たちにこの喜びを与えるためであります。

11節「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇り(喜び)としています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
今週もキリストをとおして与えられた救い、その喜びに与りつつ、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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2023/5/7 主日礼拝式 

2023-05-03 13:02:16 | 教会案内

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今年のアンジェラ(天使)

2023-05-02 09:47:37 | 教会案内
今年のアンジェラ(天使)
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