宣教 エゼキエル37:1~14
①はじめに
新会堂の建築も、十分な基礎工事がなされた後、鉄骨が着々と組まれ、あっという間に会堂の外形が姿を表すまでとなりました。先回の信徒会で屋根瓦の色、又礼拝堂の床や壁紙等について話し合われましたが、先週建築業者にその旨を伝えました。8月になると新会堂の外観がさらにはっきりとできてくると思いますが、この猛暑であります。建築現場を担われる作業員の方がたの体調が守られ、無事故で進められていくようお祈りください。
7月からエゼキエル書を読み始めまして今回が最後になります。先程今日の箇所が読まれましたが、この「枯れた骨」が非常に多く放置されていたというお話。私は8・15平和祈祷集会が頭にあるせいか、戦争で無残に亡くなられた方がたの御遺骨のことが思い浮かびました。それは兵士さんたちの御遺骨であったり、又戦争の巻き沿いに遭われた一般市民の御遺骨であったりするわけですが。沖縄のガマやアジア諸国のかつての戦地にそういった御遺骨が今もご家族との確認もできないまま放置され状態になっていることは心痛むことであります。又、東日本大震災と津波によって多くの人々の尊い命が奪われてしまいました。未だにご家族の行方が分からない方がたにとって、その骨一本でもいい。帰って来てほしいという痛切な声がたった今も聞こえてまいります。そのお骨一本一本が語る無念に耳を傾け、時代の警告としていかねばなりません。人の骨はその人が生きていた証しと言えるでしょう。
②神の霊による新生
本日は枯れた骨に神の霊の息が吹き込まれて新しい命とされていく物語であります。
そのエゼキエル書37章より「神の霊による新生」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所はエゼキエル書の中心的なメッセージであります。
イスラエルの民は神に信頼することなく、神ならざるものにより頼み、神に背を向け、罪を犯し続ける中、他国と戦争をし、衰退の一途を辿り、遂にエルサレムの神殿は崩壊し、バビロンの捕囚の民とされてしまう、という結末を迎えることとなるのです。
1節~6節で、エゼキエルは主の霊に導かれ、枯れた骨で満ちた谷に行きます。
彼はそこで数えきれないほどの枯れた骨が放置されている有様を目にします。この枯れた骨については、11節で「イスラエルの全家である」と言われています。それはかつてエルサレムの神殿崩壊時に戦争で殺されたイスラエルの人々の放置された骨でありましょう。又、その後捕囚の地に連行されて亡くなったイスラエルの人びとの骨でもあるでしょう。しかしどうもそれだけではないようです。
11節で主は、今捕囚の地バビロンで生きているイスラエルの人々が「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っている言葉を引用され、「枯れた骨」とは、むしろ生きる希望を失くし、生きていても死んだようなあなたたちイスラエルの人々の魂のことだ、とおっしゃっているのであります。
さて、7節~10節、エゼキエルが主の命じられたとおり「枯れた骨」に預言していると、「音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」とあります。
主の言葉が「枯れた骨」を動かして、それらの上に肉や皮膚が覆われ遂に人のかたちとなるのです。創世記の天地創造のくだり主の言葉の力が示されておりますけれども。
「しかし、その中に霊はなかった」(8節)というのであります。どういうことでしょうか。目に見えるうえで骨と筋や肉をもつ体が備わって動くようになったとしても、そこに人を人としていく源の霊がない、というのです。
この霊とは、創世記2章でアダムが創造される時に、主なる神さまがアダムの鼻に命の息を吹き入れられた「霊」のことであります。人間はこの「霊」が吹き入れられて、神との交わりのうちに真に生きる者とされたのであります。けれどもこのアダムは後に神の言葉に反し、罪を犯してしまいます。エバ共々エデンの園を追われ、世において生きるための糧を探し求める苦労、子を産む苦しみ、又塵に帰るべき者となるのであります。我々人間はみなこのアダムやエバの苦労や死を負っている存在なのです。
当時のイスラエルの人々の現実もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感にさいなまれていたことでしょう。それはもはや未来を思い描くことのできない状態であります。「神さまは自分たち罪人をお見捨てになられた。神は去って行かれたのだ。」そのような喪失感が人々の心を支配していたのでしょう。その姿はあたかもエデンの園から追われた初めの人のようであります。
エゼキエルら預言者がいくら「主を信じて生きよ」と訴えても、萎えた人々の心にそれは届き難いものであったでしょう。
そのようなイスラエルの人々の状態を誰よりもご存じの主は、そこで5節・14節にあるように「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」。新しい命をあなたたちに吹き入れると、主はおっしゃるのです。
この霊については、ヨハネ福音書3章の箇所が思い起されます。
それはイエスを訪問したユダヤの議員でありファリサイ派の人であったニコデモとイエスさまとの問答の記事でありますが。
イエスさまは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われます。それに対しニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることなどできるでしょうか」と質問します。するとイエスさまは次のように言われます。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
この神の霊による新生こそが何にも勝って大事なのだとおっしゃるのです。「水」によってとは主イエスの贖いを表すバプテスマであり、「霊」よってとは神の霊の注ぎによる新生、聖霊のバプテスマのことであります。そしてこの新たに生まれるとは、単に霊的世界や死後のことではありません。今この時、ご聖霊の息吹によって神との交わりに与り、神に立ち返って生きること。それがすでに永遠の命なのであります。
さて、主ご自身が「おまえたちの中に霊を吹き込む」という出来事が生じた時、10節にあるように「彼らは生き返って自分たちの足で立った」と記されています。
ここには、主の霊によって新生した者の姿が示されています。それはまず「自分の足で立った」とありますように、神さまとの関係が築かれる時、偶像にたとえられる世の頼みとするものらに依存しない、自立した人生を歩みだすということです。人がどうであれ、周りがどうであれ私と神さまとの一対一の霊的な対話によって生きていく人となるのです。今日の御言葉に「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(6節、14節)とございます。そのように神の霊、新生の命のいぶきを受けて「自分の足で立って」いく時、「主はまことに生きておられる」という証しへとすべては変えられていくのであります。
また、ここには10節「彼らは非常に大きな集団となった」とあります。
先週の水曜日に今日の箇所の学びをしていた時に、この箇所から現在の会堂建築工事のことと重なってきた、とおっしゃった方がいましたが。ほんとうにそうですね。今まさに鉄骨が組み合わされましたが。そのうちに床や屋根、外壁、さらに内装といった建材が肉づけされていきます。それはまさにその基に聖書が据えられたように、神の御言葉によって組み合わされ肉づけされたものです。そうしたら建築物としては完成です。しかしそれが活けるキリストの体となるためには教会を形作る私たち一人ひとりに神の霊、聖霊が吹き込まれ新生の力に与って、活き活きとした証しの教会となる必要があります。「彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」。そこに会堂建築の業の成就を見ることができるのであります。
神の霊は人格をもって私たちに関わり、接してくださいます。私たちは主にあって兄弟姉妹と呼び合い共に生きることを喜びとします。その霊的交流の中でより深く主なるお方を「知るもの」とされていきます。ここに教会の意義があります。
最後になりますが。主は、私たちが罪の力に支配され、滅んでいく事を決して望んでおられません。主はたとえ私たちが枯れた骨のように疲れ弱り果てることがあったとしても決してあきらめない。お見捨てにならない。これが聖書の根底に流れるメッセージであります。その真実をお示しになるためにイエス・キリストは地上においでくださいました。
今も変わることなく、すべての人びとが神の霊によって新しく生れ変わるようにとご聖霊を送り続けていてくださるのです。
ご聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を与えてくださいます。さらにご聖霊は、教会の交わりに主の愛を注ぎ、一人ひとりの違いや特性を豊かに活かし、「主は生きておられる」との証しを立てさせてくださるのです。新会堂の建築と同時に、私たちも又、主の霊によって共に建てあげられ、喜びと感謝をもってキリストの御救いをさらに証ししていくものとされていきましょう。
①はじめに
新会堂の建築も、十分な基礎工事がなされた後、鉄骨が着々と組まれ、あっという間に会堂の外形が姿を表すまでとなりました。先回の信徒会で屋根瓦の色、又礼拝堂の床や壁紙等について話し合われましたが、先週建築業者にその旨を伝えました。8月になると新会堂の外観がさらにはっきりとできてくると思いますが、この猛暑であります。建築現場を担われる作業員の方がたの体調が守られ、無事故で進められていくようお祈りください。
7月からエゼキエル書を読み始めまして今回が最後になります。先程今日の箇所が読まれましたが、この「枯れた骨」が非常に多く放置されていたというお話。私は8・15平和祈祷集会が頭にあるせいか、戦争で無残に亡くなられた方がたの御遺骨のことが思い浮かびました。それは兵士さんたちの御遺骨であったり、又戦争の巻き沿いに遭われた一般市民の御遺骨であったりするわけですが。沖縄のガマやアジア諸国のかつての戦地にそういった御遺骨が今もご家族との確認もできないまま放置され状態になっていることは心痛むことであります。又、東日本大震災と津波によって多くの人々の尊い命が奪われてしまいました。未だにご家族の行方が分からない方がたにとって、その骨一本でもいい。帰って来てほしいという痛切な声がたった今も聞こえてまいります。そのお骨一本一本が語る無念に耳を傾け、時代の警告としていかねばなりません。人の骨はその人が生きていた証しと言えるでしょう。
②神の霊による新生
本日は枯れた骨に神の霊の息が吹き込まれて新しい命とされていく物語であります。
そのエゼキエル書37章より「神の霊による新生」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所はエゼキエル書の中心的なメッセージであります。
イスラエルの民は神に信頼することなく、神ならざるものにより頼み、神に背を向け、罪を犯し続ける中、他国と戦争をし、衰退の一途を辿り、遂にエルサレムの神殿は崩壊し、バビロンの捕囚の民とされてしまう、という結末を迎えることとなるのです。
1節~6節で、エゼキエルは主の霊に導かれ、枯れた骨で満ちた谷に行きます。
彼はそこで数えきれないほどの枯れた骨が放置されている有様を目にします。この枯れた骨については、11節で「イスラエルの全家である」と言われています。それはかつてエルサレムの神殿崩壊時に戦争で殺されたイスラエルの人々の放置された骨でありましょう。又、その後捕囚の地に連行されて亡くなったイスラエルの人びとの骨でもあるでしょう。しかしどうもそれだけではないようです。
11節で主は、今捕囚の地バビロンで生きているイスラエルの人々が「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っている言葉を引用され、「枯れた骨」とは、むしろ生きる希望を失くし、生きていても死んだようなあなたたちイスラエルの人々の魂のことだ、とおっしゃっているのであります。
さて、7節~10節、エゼキエルが主の命じられたとおり「枯れた骨」に預言していると、「音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」とあります。
主の言葉が「枯れた骨」を動かして、それらの上に肉や皮膚が覆われ遂に人のかたちとなるのです。創世記の天地創造のくだり主の言葉の力が示されておりますけれども。
「しかし、その中に霊はなかった」(8節)というのであります。どういうことでしょうか。目に見えるうえで骨と筋や肉をもつ体が備わって動くようになったとしても、そこに人を人としていく源の霊がない、というのです。
この霊とは、創世記2章でアダムが創造される時に、主なる神さまがアダムの鼻に命の息を吹き入れられた「霊」のことであります。人間はこの「霊」が吹き入れられて、神との交わりのうちに真に生きる者とされたのであります。けれどもこのアダムは後に神の言葉に反し、罪を犯してしまいます。エバ共々エデンの園を追われ、世において生きるための糧を探し求める苦労、子を産む苦しみ、又塵に帰るべき者となるのであります。我々人間はみなこのアダムやエバの苦労や死を負っている存在なのです。
当時のイスラエルの人々の現実もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感にさいなまれていたことでしょう。それはもはや未来を思い描くことのできない状態であります。「神さまは自分たち罪人をお見捨てになられた。神は去って行かれたのだ。」そのような喪失感が人々の心を支配していたのでしょう。その姿はあたかもエデンの園から追われた初めの人のようであります。
エゼキエルら預言者がいくら「主を信じて生きよ」と訴えても、萎えた人々の心にそれは届き難いものであったでしょう。
そのようなイスラエルの人々の状態を誰よりもご存じの主は、そこで5節・14節にあるように「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」。新しい命をあなたたちに吹き入れると、主はおっしゃるのです。
この霊については、ヨハネ福音書3章の箇所が思い起されます。
それはイエスを訪問したユダヤの議員でありファリサイ派の人であったニコデモとイエスさまとの問答の記事でありますが。
イエスさまは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われます。それに対しニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることなどできるでしょうか」と質問します。するとイエスさまは次のように言われます。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
この神の霊による新生こそが何にも勝って大事なのだとおっしゃるのです。「水」によってとは主イエスの贖いを表すバプテスマであり、「霊」よってとは神の霊の注ぎによる新生、聖霊のバプテスマのことであります。そしてこの新たに生まれるとは、単に霊的世界や死後のことではありません。今この時、ご聖霊の息吹によって神との交わりに与り、神に立ち返って生きること。それがすでに永遠の命なのであります。
さて、主ご自身が「おまえたちの中に霊を吹き込む」という出来事が生じた時、10節にあるように「彼らは生き返って自分たちの足で立った」と記されています。
ここには、主の霊によって新生した者の姿が示されています。それはまず「自分の足で立った」とありますように、神さまとの関係が築かれる時、偶像にたとえられる世の頼みとするものらに依存しない、自立した人生を歩みだすということです。人がどうであれ、周りがどうであれ私と神さまとの一対一の霊的な対話によって生きていく人となるのです。今日の御言葉に「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(6節、14節)とございます。そのように神の霊、新生の命のいぶきを受けて「自分の足で立って」いく時、「主はまことに生きておられる」という証しへとすべては変えられていくのであります。
また、ここには10節「彼らは非常に大きな集団となった」とあります。
先週の水曜日に今日の箇所の学びをしていた時に、この箇所から現在の会堂建築工事のことと重なってきた、とおっしゃった方がいましたが。ほんとうにそうですね。今まさに鉄骨が組み合わされましたが。そのうちに床や屋根、外壁、さらに内装といった建材が肉づけされていきます。それはまさにその基に聖書が据えられたように、神の御言葉によって組み合わされ肉づけされたものです。そうしたら建築物としては完成です。しかしそれが活けるキリストの体となるためには教会を形作る私たち一人ひとりに神の霊、聖霊が吹き込まれ新生の力に与って、活き活きとした証しの教会となる必要があります。「彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」。そこに会堂建築の業の成就を見ることができるのであります。
神の霊は人格をもって私たちに関わり、接してくださいます。私たちは主にあって兄弟姉妹と呼び合い共に生きることを喜びとします。その霊的交流の中でより深く主なるお方を「知るもの」とされていきます。ここに教会の意義があります。
最後になりますが。主は、私たちが罪の力に支配され、滅んでいく事を決して望んでおられません。主はたとえ私たちが枯れた骨のように疲れ弱り果てることがあったとしても決してあきらめない。お見捨てにならない。これが聖書の根底に流れるメッセージであります。その真実をお示しになるためにイエス・キリストは地上においでくださいました。
今も変わることなく、すべての人びとが神の霊によって新しく生れ変わるようにとご聖霊を送り続けていてくださるのです。
ご聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を与えてくださいます。さらにご聖霊は、教会の交わりに主の愛を注ぎ、一人ひとりの違いや特性を豊かに活かし、「主は生きておられる」との証しを立てさせてくださるのです。新会堂の建築と同時に、私たちも又、主の霊によって共に建てあげられ、喜びと感謝をもってキリストの御救いをさらに証ししていくものとされていきましょう。