日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の霊による新生

2013-07-29 16:53:35 | メッセージ
宣教 エゼキエル37:1~14  

①はじめに
新会堂の建築も、十分な基礎工事がなされた後、鉄骨が着々と組まれ、あっという間に会堂の外形が姿を表すまでとなりました。先回の信徒会で屋根瓦の色、又礼拝堂の床や壁紙等について話し合われましたが、先週建築業者にその旨を伝えました。8月になると新会堂の外観がさらにはっきりとできてくると思いますが、この猛暑であります。建築現場を担われる作業員の方がたの体調が守られ、無事故で進められていくようお祈りください。

7月からエゼキエル書を読み始めまして今回が最後になります。先程今日の箇所が読まれましたが、この「枯れた骨」が非常に多く放置されていたというお話。私は8・15平和祈祷集会が頭にあるせいか、戦争で無残に亡くなられた方がたの御遺骨のことが思い浮かびました。それは兵士さんたちの御遺骨であったり、又戦争の巻き沿いに遭われた一般市民の御遺骨であったりするわけですが。沖縄のガマやアジア諸国のかつての戦地にそういった御遺骨が今もご家族との確認もできないまま放置され状態になっていることは心痛むことであります。又、東日本大震災と津波によって多くの人々の尊い命が奪われてしまいました。未だにご家族の行方が分からない方がたにとって、その骨一本でもいい。帰って来てほしいという痛切な声がたった今も聞こえてまいります。そのお骨一本一本が語る無念に耳を傾け、時代の警告としていかねばなりません。人の骨はその人が生きていた証しと言えるでしょう。

②神の霊による新生
本日は枯れた骨に神の霊の息が吹き込まれて新しい命とされていく物語であります。
そのエゼキエル書37章より「神の霊による新生」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所はエゼキエル書の中心的なメッセージであります。
イスラエルの民は神に信頼することなく、神ならざるものにより頼み、神に背を向け、罪を犯し続ける中、他国と戦争をし、衰退の一途を辿り、遂にエルサレムの神殿は崩壊し、バビロンの捕囚の民とされてしまう、という結末を迎えることとなるのです。

1節~6節で、エゼキエルは主の霊に導かれ、枯れた骨で満ちた谷に行きます。
彼はそこで数えきれないほどの枯れた骨が放置されている有様を目にします。この枯れた骨については、11節で「イスラエルの全家である」と言われています。それはかつてエルサレムの神殿崩壊時に戦争で殺されたイスラエルの人々の放置された骨でありましょう。又、その後捕囚の地に連行されて亡くなったイスラエルの人びとの骨でもあるでしょう。しかしどうもそれだけではないようです。
11節で主は、今捕囚の地バビロンで生きているイスラエルの人々が「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っている言葉を引用され、「枯れた骨」とは、むしろ生きる希望を失くし、生きていても死んだようなあなたたちイスラエルの人々の魂のことだ、とおっしゃっているのであります。
さて、7節~10節、エゼキエルが主の命じられたとおり「枯れた骨」に預言していると、「音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」とあります。
主の言葉が「枯れた骨」を動かして、それらの上に肉や皮膚が覆われ遂に人のかたちとなるのです。創世記の天地創造のくだり主の言葉の力が示されておりますけれども。
「しかし、その中に霊はなかった」(8節)というのであります。どういうことでしょうか。目に見えるうえで骨と筋や肉をもつ体が備わって動くようになったとしても、そこに人を人としていく源の霊がない、というのです。
この霊とは、創世記2章でアダムが創造される時に、主なる神さまがアダムの鼻に命の息を吹き入れられた「霊」のことであります。人間はこの「霊」が吹き入れられて、神との交わりのうちに真に生きる者とされたのであります。けれどもこのアダムは後に神の言葉に反し、罪を犯してしまいます。エバ共々エデンの園を追われ、世において生きるための糧を探し求める苦労、子を産む苦しみ、又塵に帰るべき者となるのであります。我々人間はみなこのアダムやエバの苦労や死を負っている存在なのです。

当時のイスラエルの人々の現実もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感にさいなまれていたことでしょう。それはもはや未来を思い描くことのできない状態であります。「神さまは自分たち罪人をお見捨てになられた。神は去って行かれたのだ。」そのような喪失感が人々の心を支配していたのでしょう。その姿はあたかもエデンの園から追われた初めの人のようであります。
エゼキエルら預言者がいくら「主を信じて生きよ」と訴えても、萎えた人々の心にそれは届き難いものであったでしょう。
そのようなイスラエルの人々の状態を誰よりもご存じの主は、そこで5節・14節にあるように「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」。新しい命をあなたたちに吹き入れると、主はおっしゃるのです。

この霊については、ヨハネ福音書3章の箇所が思い起されます。
それはイエスを訪問したユダヤの議員でありファリサイ派の人であったニコデモとイエスさまとの問答の記事でありますが。
イエスさまは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われます。それに対しニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることなどできるでしょうか」と質問します。するとイエスさまは次のように言われます。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 
この神の霊による新生こそが何にも勝って大事なのだとおっしゃるのです。「水」によってとは主イエスの贖いを表すバプテスマであり、「霊」よってとは神の霊の注ぎによる新生、聖霊のバプテスマのことであります。そしてこの新たに生まれるとは、単に霊的世界や死後のことではありません。今この時、ご聖霊の息吹によって神との交わりに与り、神に立ち返って生きること。それがすでに永遠の命なのであります。

さて、主ご自身が「おまえたちの中に霊を吹き込む」という出来事が生じた時、10節にあるように「彼らは生き返って自分たちの足で立った」と記されています。
ここには、主の霊によって新生した者の姿が示されています。それはまず「自分の足で立った」とありますように、神さまとの関係が築かれる時、偶像にたとえられる世の頼みとするものらに依存しない、自立した人生を歩みだすということです。人がどうであれ、周りがどうであれ私と神さまとの一対一の霊的な対話によって生きていく人となるのです。今日の御言葉に「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」(6節、14節)とございます。そのように神の霊、新生の命のいぶきを受けて「自分の足で立って」いく時、「主はまことに生きておられる」という証しへとすべては変えられていくのであります。

また、ここには10節「彼らは非常に大きな集団となった」とあります。
先週の水曜日に今日の箇所の学びをしていた時に、この箇所から現在の会堂建築工事のことと重なってきた、とおっしゃった方がいましたが。ほんとうにそうですね。今まさに鉄骨が組み合わされましたが。そのうちに床や屋根、外壁、さらに内装といった建材が肉づけされていきます。それはまさにその基に聖書が据えられたように、神の御言葉によって組み合わされ肉づけされたものです。そうしたら建築物としては完成です。しかしそれが活けるキリストの体となるためには教会を形作る私たち一人ひとりに神の霊、聖霊が吹き込まれ新生の力に与って、活き活きとした証しの教会となる必要があります。「彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」。そこに会堂建築の業の成就を見ることができるのであります。
神の霊は人格をもって私たちに関わり、接してくださいます。私たちは主にあって兄弟姉妹と呼び合い共に生きることを喜びとします。その霊的交流の中でより深く主なるお方を「知るもの」とされていきます。ここに教会の意義があります。

最後になりますが。主は、私たちが罪の力に支配され、滅んでいく事を決して望んでおられません。主はたとえ私たちが枯れた骨のように疲れ弱り果てることがあったとしても決してあきらめない。お見捨てにならない。これが聖書の根底に流れるメッセージであります。その真実をお示しになるためにイエス・キリストは地上においでくださいました。
今も変わることなく、すべての人びとが神の霊によって新しく生れ変わるようにとご聖霊を送り続けていてくださるのです。
ご聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を与えてくださいます。さらにご聖霊は、教会の交わりに主の愛を注ぎ、一人ひとりの違いや特性を豊かに活かし、「主は生きておられる」との証しを立てさせてくださるのです。新会堂の建築と同時に、私たちも又、主の霊によって共に建てあげられ、喜びと感謝をもってキリストの御救いをさらに証ししていくものとされていきましょう。
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群れを養う牧者

2013-07-21 17:31:27 | メッセージ
宣教 エゼキエル34:1~16  

先週水曜日の午後から教会員7名でT姉の入所されている高槻のホームを訪問することができました。30分の短い時間でしたが、車椅子に乗られた姉を囲み、なごやかな歓談と、一緒にラジオ体操や賛美をし、お祈りをしてホームを後にしました。帰宅後、T姉の御主人からお礼のお電話がSご夫妻宅にあったということでした。「わたしはあなたが白髪になるまで背負って行こう」(イザヤ書46:4)と主のお言葉がありますように、こうした主にあるよきお交わりのひと時の中に、決して変わることのない羊飼い主イエスが共におられること、又、その養いに与っているということがひしひしと感じられ感謝でした。

本日はエゼキエル書34章より「群れを養う羊飼い」と題し、御言葉を聞いていきます。
今日朗読して頂いたのは1節~16節迄ですが。この34章全体がメッセージとしてエルサレムの陥落という悲報のただ中で語られてゆくのです。少し長くてわかりにくいかも知れませんが、実はこのエゼキエルとほど同時期の預言者エレミヤも、その23章で同じような御言葉を聞いているのです。そこを読むと三つの大事な要素がよりわかりやすく示されています。一つは、「イスラエルの牧者にたとえられる王や指導者の腐敗と審き。二つ目は、神さまご自身がイスラエルを養う牧者となられるという宣言。三つ目は、「主は我らの救い」と呼ばれる王の到来の預言であります。
先週のこの箇所から受け取るべきメッセージを思いめぐらせていた時に丁度、シリアで今起こっている内戦の報道が目に留まりました。何と一月に市民5千人の尊い命が奪われているそうです。又多くの難民が出て、行き場を失っているということであります。それはあのワンダの大量殺戮以来の悲劇的な事態だということですが。ところがそのような凄惨な情況と壁一枚隔てた区域では、富裕層らが厳重な警備体制のもと普段と変わらずショッピングを楽しんでいるという光景があるのです。そこには今日の箇所に示される「群れを養おうとしない牧者」、為政者や指導者の怠慢と腐敗が見え隠れしているようです。一刻も早く、内戦に終止符が打たれ、近隣諸国の受け容れ対応が速やかになされていくよう、祈り願います。

「牧者とは」
さて元々牧者という言葉の動詞は「放牧する」「家畜の番をする」ということであり、文字通り「羊飼い」と訳されるのですが。まあそこから牧者は「世話をする」「治める」という意味合いもあって、象徴的に人間を治める「支配者」「統治者」を指すわけであります。
聖書は究極の「牧者」は神さまご自身であると語っています。創世記49章24節で「イスラエルの岩なる牧者」とあるように、「神さまご自身」が揺るぎなき牧者であるのです。
世の政治的な指導者である「王」や「指導者」たちも又、そのようにたとえられたわけでありますが。詩編の作者であるダビデ王は、まさにイスラエルを統治した王であり、牧者でありました。けれどもそのダビデ王は、まことの牧者は、主なる神さまご自身である、と詩編23編で讃美していますよね。そのようにイスラエルの王や指導者たちは、真の牧者である神さまの意向を受けて、民の群れを世話する役目を託されていたのです。

「牧者である羊飼いの仕事」
羊飼いは乾燥した暑さの厳しいパレスチナにおいて、毎日群れを湧水がある所へ導いて水を与えなければなりませんでした。それがないところでは地に穴を掘り雨水を溜め、羊に与えました。苦労が多いことでした。又、夕方には羊を囲いに入れます。羊飼いは囲いの入り口に立って杖や鞭の下を一頭ずつくぐらせて群れの数を数えて調べました。羊飼いは囲いの入り口の場所に寝泊まりして外敵から守る群れの番をしたということです。それはいつも羊一頭一頭とその群れ全体のことを心に留めていなければ勤まらないことでした。
一般的に人が羊と山羊の群れを放牧し管理する能力は100~150頭が限界だそうですが。それがほんとに大変な仕事であることが知れば知るほど分かります。

神さまはイスラエルの王、政治的指導者を牧者として立て、そのように羊飼いとしての職務を託されたわけですが。イスラエル歴代の王たちの大半は、その職務を果たすことなく、神に逆らい罪を犯し、私腹を肥やし、民たちを路頭に迷わせ、国は滅びを招き、民はちりぢりに散っていくことになってしまったのです。

本日の箇所の冒頭、エゼキエルに臨んだ主の言葉それは、「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たち。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物をほふるが、群れを養おうとはしない」という告発の言葉でした。
「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力づくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼うものがいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。」

神さまが期待されたのは、「弱いものを強め、病めるものをいやし、傷ついたものを包む。」そんな額に汗して群れの一頭一頭を思いやり、労する羊飼いのような王や指導者たちの姿でした。しかし彼らはその期待に反してかえって権力を笠に過酷に群れを支配したのでした。その結果国は周辺諸国に侵略され、遂に民は散らされてしまったのです。
このような為政者の姿と民衆に降りかかる災難は何も遠い昔のイスラエルだけのことではありません。相も変わらず文明が発達したはずの現代社会においても世界の国々でこういった問題が起こっております。グローバル化ということがいわれるようになって、貧富の差が益々加速し、そのひずみが様々な紛争を生み出しています。ブラジル、エジプトでも大規模なデモが起こりましたが。政治は経済一辺倒な施策ばかりが優先され、社会的に弱い立場におかれた人たちが置き去りにされているのが現状といえます。日本でも一つの例として、高齢者の医療費個人負担が益々増えていますけれども、生きるために医療が必要なのに、医療費を払えないお年寄は見捨てられることになりかねない現状です。貧困家庭の子ども医療費は改善してきたようですが、子ども手当ても大事な施策ですけれども、人生経験を持たれたお年寄りを大事にしていくことは、国や社会の宝となり、未来を築いていく精神的財産となっていくものでないでしょうか。

さて、10節で遂に主は次のように宣言されます。
「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる」。主は王・為政者の牧者としての権限を奪われるというのです。

その上で11節以降にあるように、イスラエルの王に代わって主なる神さまご自身が、「群れを探し出し、彼らの世話をする」とおっしゃるのであります。主は12節から16節にあるように「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すようにご自分の民を探し、彼らをそのすべての場所から救い出す」とおっしゃるのです。
そうしてすべての場所から救い出し、諸国から集めて彼らの土地に導いて彼らを養うといわれるのです。それは、イスラエルの王たちが怠った「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」牧者としての働きを、主なる神さまご自身がその身に負われるということであります。
さらに、主なる神さまは16節、「肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」と言われます。主は牧者として群れを養うと共に正しく公平に審かれるお方であられるのです。

打ちひしがれ、さ迷う群れに向けて幾度も、「わたしがそのようになす」と繰り返しお語りになる主。そこには民を打たれてなお変わることのないいつくしみが溢れています。
マタイ福音書9章を見ますと、主イエスさまが町や村を残らず回っておられたとき、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という記事がございますが。今日のエゼキエル書の主なる神さまのお言葉と重なり響いてまいります。
 主が、失われた者のその悲しみを自らのものとしてくださる。主が傷いついた者のその痛みを自らのものとしてくださる。主が弱った者のその弱さを自らのものとしてくださる。この主の深い憐み。主はその御救いを実現されるために23節、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし彼らを牧させる。彼は彼らを養い、その牧者となる」と約束なさいます。その真の牧者は、このエゼキエルの預言から幾歳月もの時を経て、この地上に受肉なさいました。そのお方こそイエス・キリストのことでありますが。30節の「その時彼らはわたしが共にいる主なる神であり、彼らはわが民、イスラエルの家であることを知るようになる」とありますように、私たちはこの預言の成就の恵みに今与っているのです。

私どもにとりまして、主イエスさまの十字架の苦難と死は、失われたものを慰め、傷ついたものいやし、弱ったものを強める力の源であります。
飼うもののない羊のようなものであった私たちは、この主の尊い救いの恵みを戴いて生かされていることにいくら感謝しても足りない者です。このいよき羊飼いであられる「主の深い憐れみ」に与りながら、私たちもまた一人ひとり生かされている場所において、主のお姿とそのお言葉に養われ、導きに従いつつ、歩んでいまいりましょう。そこに主の真の憩いの牧場である教会が築かれていくことを主は誰よりも願っておられます。

最後に本日は折しも国政選挙・参議院議員選挙の投票日であります。既に投票を済まされた方もいらっしゃるかと思いますが。今日のこの個所は、私たちが一票を投じていくためにも参考になります。どうせ投票しても何も変わらないという思いが死に票になってしまいます。しかし投票しなければ何も変わりません。尊い一票を投じ権利を行使いたしましょう。

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いのちの主に立ち帰る希望

2013-07-14 15:34:25 | メッセージ
宣教 エゼキエル18:1~4,30-32 

「因果応報律」
18章冒頭で、主の言葉がエゼキエルに臨みます。
「イスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。」

南ユダの国の崩壊とバビロニア捕囚後、南ユダに残った人々、又捕囚とされた人々の間には如何ともし難い絶望感が漂っていました。「もう自分たちはどうすることもできない」「自分たちがこうなったのは先祖が犯した罪のせいだ」「自分たちは先祖が犯した罪の罰を受けているのだ」と口にする者もいたのです。けれどそれは裏をかえせば、「このようになったのは自分のせいでない」という思いでもあったのです。

『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』ということわざについてもう少し説明が必要かも知れませんが。それを大まかにいえば、たとえば出エジプト記20章に、「父祖の罪を子孫に三代、四代まで問う」、哀歌5章に「父祖は罪を犯したが、、、その咎をわたしたちが負わされている」などの御言葉にあるように、先祖が犯した罪を子孫がかぶるという因果応報律が古来よりあったわけです。今日の世界においてもそのような考え方は根強く残っていますが。日本でも「たたり信仰」というものがあり、「あなたが病気になったのは先祖が悪いことをしたせい」とか、「あなたが不幸なのは先祖のたたり」とか、説得されてお祓いや除霊料を払わされたり、印鑑や壺などを買わされるような事件が数多く起こっています。又、先祖というものは子孫の幸いや繁栄を願いこそすれ、供養の仕方がよろしくないとたたったりするでしょか?まあそういった人の弱みにつけこんでいく宗教カルトは社会問題でありますが。そこでさらには、その被害者が今度は加害者になっていく負の連鎖が後を絶たないことはまことに不幸なことであります。

「罪とは」
話を聖書に戻しますが。ではそもそも罪とは何でしょうか。
聖書は、原罪というものを説いています。それは創世記のアダムとエバが神さまの愛と戒めに背いて食べてはならない果実をとって食べた物語に象徴されますように、人が神さまとその教えに反して生きようとする、その性質を罪というのであります。
使徒パウロは、「義人はいない一人もいない」と言っていますが。そのように聖書は、アダムとエバが犯した罪の性質を人類はみな例外なくもつ存在であるというのです。それはしかし、「アダムとエバが罪を犯した罰をわたしたちが負わされた」という人ごとではなく、私たち人間一人ひとりの中に神さまとその御心、戒めに反して生きようとする性質、すなわちアダムとエバが犯した「罪」があるということなのです。
18章5節~20節にかけて罪とされる事柄が具体的に示されていますが。これらの罪の根底にあるのは、やはり「神への背信」であると聖書は語ります。
本日の箇所に「罪を犯した者、その人が死ぬ」とありますが。これは先祖の犯した罪の罰が子や孫に及ぶものではないということです。確かに物事には、こうしたからこうなったというような因果関係というのは働くでしょう。けれども先祖の罪を子や孫が受けて罰せられるといった因果応報を神さまは否定されているのですね。先祖や父祖の罪が問題なのではなく、聖書はまさに「神の前にあって、あなたはどう生きるのか」ということを問うているのです。
4節に「すべての命はわたしのもの。父の命も子の命も、同様にわたしのものである」とあるように、創造主である神さまはそのご支配のもとにあって、「人間一人ひとりの命」が御前にかけがえのない存在であり、そういう神さまと私との一対一の関係の中で、「あなたはどう生きて行くのか」と問い、「あなたは立ち帰って、まことに生きよ」と招いておられるのであります。

「死とは」
さて、聖書の罪という問題について触れましたが、もう一つ対になっているのが、「死」という事柄についてであります。私たち人間はそれぞれこの地上でのあゆみを終える時がやってまいりますし、脳や心肺の機能が止まる時が誰しも必ず訪れます。病気や事故等もありましょうが、それが生物学的にいえば寿命というものです。が、聖書はそれと異なる「死」を語ります。それは先程も罪の問題について触れましたように、神との関係における「死」であります。つまり「死」とは神との関係が断たれる、そのことを表しているのです。
人は生理学的に生きてはいても、神との関係が断たれているような状態を「死」だと、聖書は語るのです。

「いのちの主に立ち帰る希望」
今日の5節以降を読みますと、イスラエルの人々が犯してきた神への背きは具体的に偶像礼拝、むさぼり、抑圧と略奪、貧しい者への搾取、不正などなど神の戒めである律法に相反して目に余るような事どもが彼らの間に行われていたことが指摘されています。まさに聖書のいうところの「死」、神との関係が断絶した状態であったのです。それは神さまの前から失われた状態、つまり聖書でいうところの「死」であります。
その上で14節以降では次のように語られています。
「ところで、その人に子が生まれ、彼が父の行ったすべての過ちを省み、このような事を行わないのなら、、、、(中略)彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。」

父祖の罪の罰は、子や孫に負わされるものではありません。主は、一人ひとりをその道に従って裁かれます。ですから、子や孫は父祖の犯した罪を省み、同じ過ちを犯さいように生きる。そこに神との関係の断絶は解かれ、「いのち」の回復が与えられるということであります。この事は実質的に言えることですが、もし人類が過去の咎や過ちを教訓として、それを繰り返さない努力を続けてきたのなら、平和が確立されより良い社会が築かれていったでしょう。しかし残念ながら、人は神への背信ともいえる罪によってそれらを生かすことが出来ず、幾度も悲劇的な事態を繰り返し招いています。神さまはそのような人間すべてに向けて、32節「わたしはだれの死(神との断絶した滅び)をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と、今も呼びかけておられるのです。

「わたしはだれの死をも喜ばない」。先程申しましたように、この死は生理学的死、肉体の死というより、生ける者死せる者すべてを支配されている神との交わりが断たれた霊的な滅び、死といえます。同様に「生きよ」と主がいわれる時、それはまことの霊的いのちを指しています。主はそのように誰であっても、それがたとえ悪人と言われるような人であったとしても。「わたしはその人の死を喜ばない。あなたは立ち帰って、生きよ」と招いておられるのです。主との交わりの回復に生きる。そこにまさに聖書の希望のメッセージが語られているのです。

私たちはこの地上にある限られた人生、与えられた時を唯一なる愛なる神さまとのいのち交わりを刻みながら日々あゆみゆくものでありたいものと願います。同様にこのメッセージがすべての人に向けられたものであることを心に留めたいと思います。
今日は、「罪」と「死」の問題から、「いのちの主に立ち帰る希望」について、主の御言葉を戴きました。如何に因果応報律と罪から解放されて生きるか、というのがテーマです。

ヨハネ福音書3章16節にこう記されています。「神はそのひとり子を賜うほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである。」
いのちの主に立ち帰る希望がここにあります。このすべての人に向けて語られる招きの御言葉を信じ、祈り努めてまいりましょう。
「わたしはだれの死をも喜ばないお前たちは立ち帰って、生きよ」。この主の熱いメッセージに、私たち一人ひとりも希望をもって応えていきましょう。
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巻物を食べたエゼキエル

2013-07-08 08:05:29 | メッセージ
宣教 エゼキエル2章1節~3章3節 

今年も半分が過ぎ、はや7月を迎えました。11月末新会堂完成迄あと5ヶ月となりました。先程は小櫻兄より恵みのお証しを戴きました。この仮会堂に移ってから4カ月が経ちましたが、主は私たち大阪教会に様々な出来事を起こし、御恵みを示してくださっていることを知らされます。
申命記8章にこのようにあります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。(中略)この40年の間あなたの着物は古びず足がはれることもなかった。あなたは人が自分の子を訓練するようにあなたの神主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り主の道を歩み彼を畏れなさい。あなたの神主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。」
残る20週、新会堂完成迄の私たちの歩みが御言葉に聞き従う中で、その栄光を拝する感謝と喜びに満ちたものでありたいと願っています。

今日は「巻物を食べたエゼキエル」と題し、御言葉を聞いていきます。
南ユダ王国は紀元前598年に、大国バビロニアの圧政によりその支配下となります。南ユダの王をはじめ、祭司、預言者、資産や財産のある富豪者、知識人や優れた技術者などはみなバビロニアに連行されました。その一方で、一般の民衆や貧しい人、弱い立場の人たちはユダの地に残されたのです。まだこの当時はエルサレムの神殿も破壊されずに残っていました。これがいわゆる第1回目のバビロニア捕囚といわれるものでした。実はその
12 年後の紀元前586年、再びバビロ二アの侵攻によってエルサレムの神殿は崩壊し、南ユダは完全に陥落してしまうのであります。
さて、ユダの捕囚とされた者たちは、必ずしも牢獄に入れられたり、強制労働を強いられたわけではありませんでした。ある程度限られた自由と彼らの信仰に基づいた生活習慣、又共同生活を営む最低限のことは許され、中には家を与えられたケースもあったということです。しかし異教的な習俗や偶像礼拝の影響を受けやすい環境であったことは確かでした。その捕囚とされた人々の中に、祭司の子であったエゼキエルもいたのです。
彼は1章の冒頭に記されていますように、バビロニアに連行されて5年が経った4月5日、バビロ二アの運河ケバルの湖畔で、神の顕現に触れ、幻を通して預言者の召命を受けます。彼は南ユダの祭司の家に育ちましたので、普通なら神に仕え、礼拝を司る仕事を継ぐことも考えられたと思うのですが、主は捕囚の地においてエゼキエルを主の言葉を「告げる」預言者としてお立てになったのであります。
その預言の大要が本日読まれました2章3節~7節までの御言葉であります。少し長いですが大事な箇所なのでもう一度お読みいたします。
「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らはその先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。」
このように、エゼキエルに託された使命は、主とその御心に逆らい続けるイスラエルの家に向けて、主の言葉を語ることにあったのです。

そもそも南ユダがバビロニアの侵攻と捕囚、さらにエルサレムの神殿の崩壊に至ったのは、ユダの家が主に逆らい続け、神ならざるものを崇拝し、虚しいものに依り頼んできたこと、反逆の歩みを続けてきたことがそもそもの原因でありました。
南ユダが侵略され捕囚とされる前、国内において偽預言者が現れ、偽りの安心や偽りの救いが説かれ、ユダの人々はそれに流されていったのであります。又、ユダの政治の指導者たちは、真実の預言者らの警告に耳をかすことなく、滅びに向かう危機的な国の情勢の中でなお、目先の利益だけを追い求め、中身のない平安・軍事同盟等の政策に安住していたのであります。
そう言う中で、先月迄読みましたエレミヤは預言者として国を憂い、不義と御神への反逆という世相にあって主の審きと救いの御言葉を語り続けたのでした。彼は真実な預言者であるがゆえに迫害され、その耐え難い孤独の中で主に祈り、訴えるのでありますが。そのような時エレミヤの脳裏によみがえってきたのは主の語られた御言葉でありました。
エレミヤは次のように述べています。エレミヤ15章16節、「主よ、あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉はわたしのものとなり、わたしのその心は喜び踊りました。」

今日のエゼキエルも又、その後捕囚の身となった南ユダの人々に向け、主の御言葉を語る使命が与えられます。彼の使命は、「主の教えを聞かない者、主に逆らい続ける者に、主の御言葉を語り続ける。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうとも、『主なる神はこう言われる』と語り続ける」ことにあったのです。なぜなら2章5節にあるように、彼らはいつの日か自分たちの間に預言者がいたこと、その言葉が真実であったことを知る時が来るからです。具体的にそれは「神の審判の告知」であったのですが。苦い言葉を語らねばならないこのエゼキエルの務は、想像を絶する苦悩や戦いがあったのではないでしょうか。

主はそのエゼキエルに向けて次のように言われます。
「人の子よ、わたしがあなたに語る言葉を聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

「わたしが与えるもの」とは、羊皮紙の巻物であり、表にも裏にも「哀歌・呻き・嘆き」の言葉が書き記されていました。羊皮紙の巻物を食べることなど出来るのか?そう思われるでしょうが。主はその御意志を視覚化することによって伝えようとなさったのです。
主はエゼキエルに「これを食べて、イスラエルの家に語りなさい」と言われます。たとえばどうでしょう、「恵み・平安・祝福」などと書かれていたのなら戸惑いなく口に入れることは出来たかも知れません。しかしこれらの苦難の言葉を食べることは、エゼキエルには非常に難しく、しんどいことであったことでしょう。
エゼキエルはこれから「反逆の家」と呼ばれている人々に主の言葉を語らなければなりませんでした。エゼキエルの語る主の言葉が素直に受け入れられるとは考えられません。主が言われるように「あざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされる」痛みや苦難が伴う事の方が多いに違いありません。
それでもエゼキエルは主のお命じになることに従い口を開けます。主はこの「哀歌・呻き・嘆き」と表裏に記された巻物をエゼキエルの口に入れて食べさせた、というのですね。

この「哀歌・呻き・嘆き」は、イスラエルの家に降りかかるであろう災いを表すと同時に、エゼキエルが「悔改めと審判」を語るうえで伴う、預言者としての悲しみや痛み、孤独と苦難を示しています。
エゼキエルは、「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と言っていますが。どうして「哀歌・呻き・嘆き」が口に入れると蜜のように甘いのでしょう。「哀歌」というのは心がひどく痛むとか、情けなく残念な思いを詠んだ詩のことです。それが苦いとかしょっぱい、辛いのならわかるのですが。それがなぜ甘いのでしょうか。いろんな解釈や解説はありましょうが、たとえ審判の時、審きの中にあっても変わることなく貫かれる「神さまの愛」を示しているように思えるのです。
遥か以前、出エジプトに際しこう言われました。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出3章7節)。そうしてイスラエルの家は神の民として召し出されたのです。そしてその愛と召しは再びイスラエルの家に臨む苦難の時・審きの日にも決して変わることがない。その神さまの愛を「口に甘い」というように言い表しているのではないでしょうか。それを味わったエゼキエルは厳粛な主の審きの言葉の中に、神さまの民を愛するがゆえの苦悩を思い知らされ、それを身に負ったのです。それがその後のエゼキエルの預言者として活動する原動力となったのではないでしょうか。

この後、主の晩餐がございますが。エゼキエルが口を開けて主の御手からみ言葉を戴き、食べて世に遣わされたように、私たちも又、この主の晩餐において命の言葉なる主イエスのパンと杯を戴きます。
それは、私の罪を「悲しみ・呻き・嘆いて」ご自身に負われ、十字架上で裂かれた主イエスの御体であり、流された血潮であります。この神の御言葉を戴いた私たちも又、世に遣わされるのです。私たちも各々遣わされるそのところで証しを立てる者、伝道と奉仕の務めを担ってまいりましょう。
今日は預言者エゼキエルの召命の記事から御言葉を聞きました。詩編119:103に「あなたの仰せを味わえば わたしの口に蜜よりも甘い」とあります。日々命の御言葉に与りつつ導きを信じて。
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