日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祈りの賜物

2022-06-26 15:31:57 | メッセージ
主日礼拝宣教(神学校週間) コロサイ4章2-6節

本日から来週7月3日迄、西南学院大神学部をはじめ、九州、東京の各バプテスト神学校とそこで学んでおられる献身者を覚えて、祈り、ささげていく神学校週間を迎えました。
私は22歳の時でしたが、この大阪教会から推薦を戴いて西南の神学校で貴重な学びの機会が与えられました。それは又、自分の信仰を見つめ直す時でもありました。神学部の寮に入って共同生活では、同じ釜の飯を食べ、共に礼拝を捧げ、祈り合い、時には熱い議論になってぶつかり合ったした経験は、今思えば貴重な学びの時でありました。神学生は学びや奉仕を兼ねて教会に通うわけですが、一年目は西南の神学校に行く決心をするきっかけを与えて下さった吉田晃児牧師が当時牧会されていた久留米教会、二年目と三年目は私がバプテスマを受けたシオン山教会、四年目は糟屋教会篠栗伝道所、後に牧師としても招聘して下さった教会ですが。三つの教会でお世話になり、豊かな出会いと交わり、又教会学校の教師、少年少女会や青年会の顧問、礼拝の説教など、教会の実践的な学びをさせて頂きました。
大阪基督教短大神学科での二年を併せると六年間で与えられたた出会い、学び、体験は、その後牧師として立てられていくうえで貴重な時となりました。特に主の働き人とされるようにと祈ってくださった兄弟姉妹の存在にどれほど支えられたことかと、ただ感謝であります。それは牧師とされてからも同様であります。

先ほど、本日の聖書の箇所でありますコロサイの信徒への手紙4章2-6節が読まれましたが。神が御言葉の門を開けてくださり、キリストの福音が語られるように。又、教会の務めが御心にあって有意義なものであるようにといつも祈り、祈られているその関係性を与えられたことに感謝しています。
今現在、神学校で学んでおられる方がた、そして神学校の働きが主の守りの中で祝されますように。それが又、諸教会の未来へとつながって生きますように祈ります。

さて、本日は神さまの「祈りの賜物」と題して御言葉を聞いていきたいと思います。
まず、パウロはコロサイの信徒たちに、2節「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と勧めます。「目を覚まし」とは、偽りの教えや悪い働きから信仰を守って、やがて来るべきキリストを迎えいれる備えをするということであります。ひとたびキリストを信じて救われても、信仰の目が閉じて主の御救いから離れてしまうとしたら、それは心痛むことです。日々主の救いの確信と、そこから湧きあふれる感謝をもって、ひたすら神との対話、願いととりなし、祈り続けなさい、との勧めであります。
以前にも増して困難な時代に思えますが、主イエスが「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と仰せになったその御言葉に信頼して、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈り」続ける私たちでありたいと願います。

さらに、パウロは3節「同時にわたしのためにも祈ってください」とコロサイの信徒たちにとりなしの祈りを頼みます。パウロ一人ではどうすることのできない事もたくさんあったのです。
パウロは、とりなしの祈りによる神の力のお働きを確信していました。
大阪教会の主にある兄弟姉妹方は、私を神学校に送り出し、ずっと祈り支えてくださいました。、そして18年後には不思議なる主の導きによって、大阪教会の牧師に招聘されお用い頂いています。

さて、ここでのパウロのとりなしの祈りの要請は、「神が御言葉のために門を開いてくださり、キリストの秘められた計画を語ることができるように」なるためでありました。
囚われの身であったパウロでしたから、彼が牢から出られるように主にとりなし祈ってください、と普通そう頼むのではないだろうかと思いますが。
けれどもパウロの祈りの要請は、牢の門が開かれて解放されることではなく、御言葉の門が開かれて、福音の奥義を語る機会が与えられることにあったのです。たとえ牢屋にあったとしても、様々な方法や仕方で御言葉の奥義を最大限に語る機会をもつことができることに、パウロはこのうえない喜び、恵み、平安をその状況下で感じとることができたのです。
コロナ危機になった当初私も何だか閉じ込められたようで先が見えず悩みました。そういう中で主にある兄弟姉妹方と主とその福音にあって励まし合い、祈りを共にする時が与えられました。それはどんなにありがたいものであったでしょうか。

パウロは4節で「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」と言っています。
それは、この「キリストの秘められた計画」、すなわち主の救いに始まり、主の来臨の希望に至る福音がさらに証しされ、宣べ伝えられるように祈ってほしい、と語っているのです。
それは又、コロサイの信徒たちがその思いを共にして、さらに「キリストの救い」「福音の証し」が立てられていくことをパウロは願っていたのです。
私たちの教会も又、閉塞感を覚えるような、又急速に悪い方向に変わっていこうとするような時代にあっても、変わることのない福音の奥義、キリストの救いを語り合い、祈り合う教会でありたいと願います。

そのために5節以降でパウロはまず、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」と勧めます。
ここで言う「時をよく用い」とは、原文では「時を買え」という意味だそうです。この時とは単なる時間ではなく、キリストによってもたらされた神の時、さらには、やがてキリストが来臨される折に完成される神の国の時を意味するのです。キリストがその神の時を買い取ってくださった。正確には贖い取ってくださった。だから、私たちも又そのキリストの来臨と神の国の完成の希望を抱きつつ、時を生かして用いなさいと、勧められているのです。
さらに、興味深いのは、外部の人に向けて「そうしなさい」と言っていることです。
この「外部の人」とは、岩波訳聖書の解説には、コロサイの教会の信徒以外の人、未信者、さらには、キリストの教えと相いれないような「異端者」を指しているとありました。そうした「外部の人」に対して、パウロは6節「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と教えていることです。
異教的なコロサイの地において、悪意をもってコロサイの信徒を迫害してくるような勢力もあったことでしょう。けれどもパウロは、悪の働きに対して同様の力でもって対抗するのではなく、岩波訳には「あなたがたの語る言葉はいつも快く、塩で味付けされたものであるように」と勧めています。その「快い言葉」とは、エフェソ4章29節にあるとおり、「その人を造り上げるのに役立つ言葉」だと言うことであります。
それを塩味で表現しているのはとてもイメージしやすいです。塩は料理にほんの僅か足すと美味しくなるものです。塩は塩だけではしょっぱくて食べられるものではありません。私はぜんざいが大好きなのですが。小豆とお砂糖だけではなんとも物足りません。そこに僅かなお塩を入れますとかえって甘味が引立ちます。塩加減を間違えるとぜんざいは台無しになってしまいます。そのお塩の加減ってほんとうに大事なんですね。
同様に、相手に対してただ非難するようなしょっぱい言葉を投げかけても、かえって相手の神経を逆撫でするようなものです。ほどよい塩加減で気づきが得られるような、その人を造り上げるのに役立つ言葉で語ることが、神の時に与ったキリスト者に期待されているということであります。

さて、ようやくコロナ下も落ち着きを見せているようですが。
キリスト教や教会について、あるいは社会の問題や悩み事と幅広い課題について最近教会に電話をかけて来られる方が少しずつ増えています。教会のHPやブログを御覧になられた方。又、ネットの検索から知った方など、いろいろですが。電話をおかけになるくらいですから、なにがしかの思いを抱えておられる方もおられるでしょう。
そういったお電話、あるいはまたメールをしてくださる方に対して、できるかぎり丁寧に、又誠実にお話を伺うようにしておりますが。すべてに勝る神とその福音に出会って頂きたいと願うものです。
使徒パウロが6節で、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきか分るでしょう」と教えているように、神さまが御言葉の門、救いの門を開いてくださるよう、とりなしのお祈りをお願いいたします。

本日は「祈りの賜物」と題し、御言葉を聞いてきました。
祈りと言えば、主イエスがこのように祈りなさいと弟子たちにお示しになった「主の祈り」を思い起こしますが。私たちはそれを礼拝の中で、又祈祷会の締めくくりに祈るようにしています。
この主の祈りの特徴は「我ら」「私たち」という言葉が繰り返されている祈りにあります。
「神の御名が崇められますように。地上に神の国の訪れが告げ広められますように。御心こそがなりますように」と、神と地上とをつなぐように祈り、さらに「私たち」が生きる上での必要としての日毎の糧、ゆるしと和解、神の御前における正しさを求めてとりなし祈るのです。
このコロサイの信徒への手紙を通して知らされたのは、私たちがキリストの平和を身におびて、いのちの御言葉がさらにすべての人に届き、宿るように祈り、とりなしていくようにと招かれているということであります。
今週も又、福音の門、いのちの御言葉の門が大きく開かれますよう、祈りとりなし続けてまいりましょう。
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キリストを身に着け、日々新たにされて

2022-06-19 15:09:34 | メッセージ
礼拝宣教 コロサイ3章5-15節 

本日は先ほど読まれましたコロサイの信徒への手紙3章より、「キリストを身に着け、日々新たにされて」と題し、御言葉に聞いていきます。
パウロはここで、「地上的なもの」、すなわちあらゆる自己中心的な悪、貪欲を捨て去り、上にあるものを(追い)求めなさいと勧めます。この「上にあるもの」とは天や高いところを指すだけではなく、「真に高価で価値あるもの」という意味であります。

それは1-4節で、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」「あなたがたは(キリストと共に)死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」との、この上ない希望のことです。

異教の地に住むコロサイの信徒たちがキリスト者となる以前は、自己中心的な悪、貪欲を追い求めるような罪に滅びるほかないような生き方をしていたのですが、キリストの福音に出会い、神の愛とゆるしに生きる者とされました。しかし中には悪い力や習慣に引き戻され、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉や互いにうそをつくような事をする人がいたのです。
そのコロサイの信徒たちに対してパウロは、次のように断言します。口語訳聖書でお読みしますが。9節「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである」。
そうではなかったのか、という問いかけでありましょう。

パウロがここで「真の知識」といったのには、理由があります。それは前の2章21節以降で、パウロは「人の作った戒律や規則や教え、あるいは独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行には知恵あるもののように、価値あるものように見えますが、実は肉の欲望を満足させるだけなのです」と、かなり厳しい事を書いていますが。
「宗教」というものが変質していきますと、本来は人を真に生かすはずの教えや戒めが逆に自分を縛り、人を縛る非寛容で閉鎖的なものになっていきます。さらに、自己の願望や教団、組織の欲求が満たされるようになっていきますと排他的となり、魂の平安と救いが損なわれてしまいます。
キリストはまさにそういったあり方を糺し、本来の神との関係性を築き、神の祝福に生きるようにと、すべての人を解放と救いに招かれたのであります。
しかし、一度キリストの救いに与った者でさえも、先に触れましたような過ちに陥ってしまいかねないということです。
そういう「偽りの知識」からキリストの救いに与った者として、「真の知識」を身にまといなさいと、パウロは呼びかけるのです。
それは具体的に、12節「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」というキリスト者の生き方でありますが。
それは戒めというよりも、古い人として罪と貪欲によって滅ぶほかないような者のために、天の神さまが御子イエス・キリストをこの世界に送ってくださり、憐れみと慈愛、謙遜、柔和、寛容によって、滅びから救い出してくださったのです。私たちはただその天来の恵みに与った者として、それらを身に着ける者となりなさいと、奨めているのです。

何事も自我や利己心からではなく、この神のご慈愛と恵みを日々覚え続けることが、キリストを身に着けさせていただくということにつながるのです。
それは一度だけ身に着ければもう終わりというのではなく、私たちの生の全領域においてキリストを身に着けて生きるように努めることが大事なのです。バプテスマを受けて卒業してしまうクリスチャンも残念ながらおられますが。それで大丈夫なのでしょうか。私たちには大いなる希望があります。それは主と顔と顔を会わせるその日が来るという希望です。その日まで、日毎にキリストにある新しい人としての歩みを続けたいと切に願うものです。

6月8日お昼の祈祷会後、ずっと祈りに覚えておりましたOさんが入院されている療養型の病院に移られることになり、訪問して久方ぶりにお会いすることができました。体調を崩されてご入院されたのがコロナ下の前からでしたから3年以上はお会いできなかったかと思います。
その日は、Sご夫妻もご一緒してくださるということになりました。
Oさんは一時脳梗塞で重篤になられ、集中治療室での治療が長らく続きましたが、Iさんの祈りと看病もあって、神さまのお守りのうちに現在療養型の病院に移られています。御自分で食事を摂ることができなくなったため人工的に栄養を摂取されておられます。
お訪ねした折、Iさんからは「母は私たち家族が行っても目をつぶっているか、寝ていることが多いので、せっかく来てくださったのに、先生やSご夫妻が行かれも、目をつぶったままの状態かも知れません」と、入室前にご説明を受けました。
面会時間は15分。入室には原則2名までということで、先にIさんと私が入室しました。確かに「こんにちはOさん」とお声をおかけしましたが、寝ておられたご様子でした。まず、詩編23編の「主は私の羊飼い」をゆっくりとOさんのお耳もとで読み、その後「お祈りをしますね」と伝え、お会いすることができたことを感謝し、いつもOさんと共におられる命の神さまに賛美と感謝をおささげしました。そうして私がもう一度「Oさん、今日はお会いできて本当にうれしかったです」と言いますと。ゆっくりと目を開けて「下川先生、どうもありがとうございました」と、はっきりしたお話しくださったのです。
傍にいらしたIさんが、そのお母様のご様子に大変驚かれ「母が、こんなにもはっきりと下川先生と言うなんて、、、家族にもそこまで答えて話すなんてことはありませんでした」と、おっしゃったんですね。私も神さまがOさんのうちに確かに生きておられるということを目の当たりにし、ただ驚きでした。
その後には、Sご夫妻が入室されたのですが、うれしいやり取りがあったそうです。Sさんが「Oさんまた来ますね」と話しかけられると、Oさんが「まあ、お忙しいのに」と気遣いの言葉を返してこられたそうです。Sさんは「普段から相手の人を思いやるOさんの言葉だ」とおっしゃっていましたが。その通りだと思います。教会に通われていた折にも、いつもお一人おひとりに丁寧な心遣いをなさっておられたOさんの人となりそれがなんら変っておられないのです。それはきっと90歳を過ぎてもなお神さまを慕って毎週遠方から電車に乗って礼拝に通い続け、祈りと御言葉の日々を送り続けて来られたからこそ、床に臥し眠ることが多くなった今も、主にある平安とその生き方までも証しでいらっしゃるのだと思います。
97歳のOさん、ご面会くださったSご夫妻も90歳以上と、こういうかたちで主にあるお交わりの場が与えられたこと、本当に私には忘れられない日となりました。
聖書の中にある次のような御言葉がございます。
「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4:16節)

本日の聖書でパウロはこう言います。「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。
この愛はアガペーの愛。神の愛を表す言葉です。人の愛は気まぐれです。思いのまま愛したり愛さなかったりします。だからこそ神の愛を上から着るように身に着けるのです。それはキリスト御自身の愛であるといっても過言でないでしょう。私たちはキリストによってこの神の愛を身に着けることができるのです。
キリストが私に何をして下さったか。十字架にかかり、身代わりになり、忍耐強く、育み、導き、救いに入る日まで共においで下さるその愛。キリスト。その愛を私たちはこの身に着けるのです。
14節ですが、口語訳聖書には「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」と訳されています。
私などはこの訳の方が馴染み深いのですが。確かに着物を身に着ける時、帯がなければ着物を着たことになりません。帯がなければ着物はほどけてしまいます。そこには日毎にキリストを着て、その愛の帯を締めるという信仰の生活のあり方が大切であるかと思います。
ただ、今回読んだ新共同訳聖書は帯ではなく「きずな」と訳しています。
そこには「愛」というものが単に個人的なものではなく、神と人、人と人とをつないでいく「きずな」であることが示されています。それは自己完結しない、拡がりをもった愛なのです。
「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。
神の愛、アガペーの愛は個人にとどまらず、様々な人との関係をつなぎ、和解と平和の完成へと向かわせる力があります。聖書はその愛を身に着けるように、私たちを招いているのです。

最後に、今週の6月23日は週報にも記しましたように「沖縄命(ぬち)どぅ宝の日」を覚える日であります。
沖縄に於ける日本軍の組織的な戦闘が終結した日から77年目を迎えます。沖縄戦で亡くなった20万人の方がたを覚え、二度と過ちを繰り返すことがないよう不戦の祈りを捧げます。
今もこの時、ウクライナとロシアの間で戦争が起こっています。一方的に仕掛けられた戦争に思えますが、ウクライナの人たちだけでなく、ロシアの人たちも戦争の犠牲者なのです。武器を製造する人たちも、武器を売り、戦地に送る人たちも、戦争に加担することにおいて戦争の加害者にも被害者にもなるのです。日本の国土において殆どの米軍基地がある沖縄は、有事の事態になると真っ先に戦争の拠点となるのです。先日、ルワンダのジェノサイド後に和解といやしのお働きをなさっておられる国際ミッションボランティアの佐々木和之さんから現地の報告を聞く機会がありました。ルワンダでもその周辺諸国との緊張関係の中で、武力に頼らない「平和構築」と「安全保障」を訴える声が、紛争の絶えないその地にあって少数者であり、実現に様々な困難が伴うということでした。
旧約聖書のミカ書に次のような御言葉がある。
「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず。もはや戦うことを学ばない。」

今日の15節にも、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」と書き記されています。
神の愛こそ、すべてを完成させる全世界のきずな、となり得ることを信じ、キリストの平和を掲げ、祈り努めてまいりましょう。
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撮れたて庭の風景 ★琉球あさがお☆びわ

2022-06-18 08:57:13 | 教会案内
庭の風景
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長居公園・植物園風景

2022-06-13 13:06:20 | 教会案内
長居公園・植物園風景
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聖霊によって生きる

2022-06-05 13:41:55 | メッセージ
聖霊降臨礼拝宣教 使徒28章17節~31節

十字架の救いの御業を成し遂げ、3日後に復活なさった主イエスは40日間弟子たちに現れ、その後天に昇られて、かねてより約束してくださった聖霊がお降りになりました。今日はその記念すべき聖霊降臨(ペンテコステ)の礼拝をお捧げしています。
「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受け、地の果てまで福音を宣べ伝えるであろう」と、主イエスが仰せになった言葉どおり、聖霊の降臨によってキリスト教会が誕生し、福音はユダヤとサマリアの全土へ、さらに小アジアからヨーロッパへと拡がっていくという、そのダイナミックな主のご計画とお働きがなされていきます。
しかしそこで終わることなく、初代教会に臨んだ聖霊はその後の2000年という年月と全世界に臨まれ、時間、空間、時代を超えて今も生き、働き続けておられるのです。
今、私たちも又そのお働きの中で、こうして礼拝に与り、賛美を捧げることができているのです。
初代教会の人びとが心を一つにして祈り求めていく中で、主の霊がゆたかに働かれたように、今を生きる私たちも主の教会に集い、共に主の栄光が顕わされることを切に祈り求め続ける中に、聖霊は豊かにお働きくださるのです

これまで読んできました使徒言行録は本日の28章をもって最後となりますが、この28章に至る迄に実に様々な出来事がパウロの身に起こりました。少しおさらいになりますが。
まず、パウロがエルサレムに上ると、アジアから後を追って来たユダヤ人らの陰謀により民衆を巻きこむ大騒動が起こります。彼は事態の鎮圧のため駆けつけたローマの千人隊長とユダヤの民衆の前でひるむことなく弁明し、「自分は正統なユダヤ人であるが、ダマスコ途上の道で復活された主イエスと出会い、クリスチャンとなり、福音を伝えている」と、証しするのです。
さらにパウロは、ユダヤの最高法院の議員たちの前でも、自分はキリストにあって死者が復活するという望みを抱いている、と大胆に証しました。そこにはユダヤの議員たちをその議論に持ち込んでいくという算段があったわけですが、議場は非常に混乱し、パウロは牢に拘束されてしまいました。その夜、パウロはそばに立ってこう言われる主の言葉を聞くのです。「勇気を出せ。このエルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない。」(23:11)
その後、大祭司アナニアらによってパウロはローマのフェリックス総督に訴えられてしまうのですが、主の言葉に勇気づけられたパウロはそこでも、自分が律法と預言者の書に書いてある事をことごとく信じ、その復活の希望を主に対して抱いていることを大胆に証しします。(24章) 
パウロはカイサリアで2年間監禁されながらも、ある程度自由が与えられ、友人たちの世話を受けたとされています。その後、フェストゥス総督の下、ユダヤ人たちがパウロをエルサレムへ引き渡すようにと圧力をかけると、ローマの市民権を持っていたパウロはローマ皇帝に上訴することを宣言します。そしてローマ行きが決まると、パウロのもとにある珍客がやってくるのです。
それはユダヤのアグリッパ王でした。パウロは王の面前でも自分の回心の出来事を大胆に証しし、王に福音を伝えました。パウロの心は王の前であっても自由でした。コリントの第二の手紙3章に、「主の霊のおられるところに自由がある」との彼自身が書いていますが。どのような境遇におかれても主の霊により平安と勇気を得て、何ものにも縛られることなく主の福音を語らずにはおれなかったのです。

そうして本日の箇所において、パウロは遂にローマへ到着いたします。
そこで彼を何よりも喜ばせたのは主にある兄弟姉妹、同信の存在でした。今日の箇所の前の15節にあるように、「ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、出迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」と記されています。
この兄弟たちは結構大人数だったようですが、みんな初対面だったようです。おそらくかつてローマの教会にいたアクラやプリスキラ夫妻をはじめ、いろんな信仰の同志たちからパウロのことを伝え聞いていたのでしょう。キリスト者、クリスチャンのつながりって不思議だと思いませんか。
私もそうですが、初対面でも同じ主を信じる方と話しをしていて、とても初めて会ったとは思えないような不思議な感覚を持つことがありますが。そんな時、聖霊が私たちの間に働いて下さっているのだと思います。
又、ローマへの護送という折に、こうした場面を演出してくれたローマの百人隊長らの好意も見落すことができません。主は彼らをもお用いになり、福音の恵みの中へとゆたかにお招きにお招きになられていることが分かります。主は、必ずしもクリスチャンだけをお用いになるわけではないのです。主のお働きは実に広く、ゆたかなのです。

さて、軟禁状態であったパウロは番兵が一人つけられますが、30節以降にありますように、「自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」と記されています。
パウロがローマに着くやすぐになしたことは、意外にもローマに住む主だったユダヤ人たちを招き、それも2度に亘って粘り強く福音を伝え、証ししたということです。
しかも、2回目の折は、23節、「パウロの宿営にやって来た大勢のユダヤ人たちに、パウロは、朝から晩まで説明を続け、神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとした」とあります。

パウロが最初におもだったユダヤ人たちを軟禁されていた家に招いた時に、彼はこう言います。
20節「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです。」
主イエスの福音を頑なに拒否するユダヤ人の人々に対して、「わたしは異邦人の方に行く」と言ったパウロでしたが。しかし彼は創造主なる神、イスラエルを救い導きだして下さったユダヤの同胞たちが、主イエスの福音を知って信じてほしいと、切なる願いを持ち続けていました。それほどまでになぜ彼はこだわっていたのでしょうか。
それは、彼が熱心なユダヤ教徒であった時、ダマスコの途上で、復活の主イエスと出会う経験をしたからです。彼は主なる神のためだと信じ、熱心にイエスの教会と信徒たちを激しく迫害していたのですが、そこでそのことが、実は主なる神ご自身に対する迫害であったことを知ったのです。
そこで、パウロはイエスが自分の罪のために十字架につけられて死なれたことを思い知るのです。しかし、主はそのパウロを断罪せずに受け入れてくださった、イエスは自分の罪のために死なれたが、それは又、その自分の罪を赦し、贖うために十字架にかかって死んでくださったことを悟るのです。その主の愛と救いに与って彼は劇的な回心をし、主イエスを信じて救われるのです。パウロは聖霊によって、主イエスにある真の解放、自由を得るのです。それは何ものにもかえ難い救いの体験でした。だから、彼はまず同胞のユダヤの人たちにこの主イエスとその福音に出会って、悔い改めて真の救いと解放に与って欲しいと強く願い、福音を伝えずにはいられなかったのです。
パウロは先の使徒言行録13章で、アンテオキアのユダヤ人に向けて次のように語っていました。
「神がイエスを復活させて、わたしたちの子孫のために約束を果たしてくださった・・・この神が復活させたこの方(イエス)は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされたのです。」(33-39節)
彼はここでもおもだったユダヤ人たちに向けて、イスラエルの望みは、主イエスの復活と、イエスがキリスト、救い主であることにかかっており、その救いは実現されている、と福音を伝えたのです。
しかし、このパウロが伝えた福音に対して、ある者は受け入れたが、他の者は信じようとしなかった、とあります。多くのユダヤ人たちは、「互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」とあります。
ユダヤの同胞に主の福音を受け入れる人が現れたことは喜ばしいことでしたが。一方、頑なに律法の遵守や行いによる義人になることで、神に認められ、救われると誇り高ぶる者は、逆に神の愛と恵みの賜物、すなわち主イエスの贖いと救いを遠ざけてしまうことになっていくのです。彼らは議論に終始して福音を受け取らず帰っていったのです。

パウロはそれを憂いながら預言者イザヤの書を引用します。
「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』

彼らには神の選びの民だとの自負があったのでしょう。異邦人とは違い、自分たちは神の言葉をよく聞き、よく見、よく理解していると、自認する過信、誇り、おごり。
それはかつてイザヤの時代にはバビロンによる都の陥落と神殿の崩壊によって徹底的に打ち砕かれました。彼らユダの人々はそこで人の力が尽き、自我に頼ることを断念した時に、神の一方的な御力と御業が彼らのうちに臨むのです。
預言者イザヤは、頑なな彼らへの警告とともに、悔い改めにおける回復を預言したのでした。主イエスの福音が「よき知らせ」であるのは、まさに義人として生きることの困難と、人の弱さを知らされた時、その無力さの中に神が救いの道を備えてくださる、そのところにあります。
使徒パウロは、自らの弱さと無力さを覚えた時、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』との、主の御声を聞きました。

私たちの日々の生活においても、自分の力に限界を感じ、何もできないというジレンマに陥るようなことがあります。そうした時に、自分の力や業を断念せざるを得なくなり、打ち砕かれる経験をしますが、しかし、その時にこそ、神は大きな力を発揮されるのです。そこに主を信じる者の大きな望みがあります。

さて、本日の箇所でパウロは最後に、「神の救いは異邦人に向けられました」と、神の救いのご計画を語ります。それは、すべての人が神の招きにあずかることを許されたということです。
こうしてパウロは、その家で2年間「訪問する者はだれかれとなく歓迎し」た、とあります。そこにはローマ人を始め、様々な国の人たちが訪れたことでしょう。その中にはユダヤ人も含まれていました。神は分け隔てなく、求める者に祝福を与えてくださるのです。

パウロは又、「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とあります。
見張りの番兵がついていたとあるように、囚われの身であった。それにも拘わらず、パウロは実に大胆に多くの人を迎え入れ、多くの人と出会い、何の妨げもなく、神の国の福音を語り続けることができたのです。これはほんとうにすごいことだと思います。それは、まさにパウロの信じていた主の福音がそうさせたと言っていいでしょう。

獄中でパウロが書いたフィリピの信徒への手紙の1章12節にこう記されています。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」
イエス・キリストによって捕えられた神の僕パウロは、たとえ牢獄の中であれ、それがどこであっても、復活の主との交わり、永遠のいのちの希望の確信のもと、福音を大胆に伝え、証しし続けたのです。
本物の自由とはこういうものではないでしょうか。パウロは「主の霊のおられるところに自由がある」と、コリント第二の手紙3章で語っているとおりです。又、主イエスは、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由する」(ヨハネ8章32節)と、仰せになりました。
今も、主イエス・キリストによる全世界に向けられた救いのご計画は、ペンテコステに臨んだ聖霊の御力をもってゆたかに働かれています。

エフェソ1章13-14節には、主を信じる者に与えられた朽ち果てることのない約束についてこう書かれています。最後にそこをお読みして本日の宣教を閉じます。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
今日は特に聖霊降臨の恵みを覚え、感謝しつつ礼拝を捧げておりますが。この主のお約束にしっかりと立ち、揺り動かされることなく、聖霊のお働きを信じ、求めつつ、ひと日ひと日を歩んでまいりましょう。
(花博記念公園鶴見緑地 のキツツキ)
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