日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2024/3/3 主日礼拝式・受難節Ⅲ

2024-02-29 11:48:59 | 教会案内

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主イエスの復活を信じて

2024-02-26 11:02:35 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ11章1-44節 
 
本日は、わたしたちの人生は「死で終わるものではない。」この救いの真実を、ラザロの死とよみがえりの記事を通して確認してまいりたいと思います。

今日登場いたしますベタニア村の兄弟たちは両親を早いうちに亡くしたのでしょうか。3人で寄り添うように生活をしていました。そういう中でイエスさまと出会った彼らは、イエスさま一行を家に招いて迎えます。食事でもてなそうととするマルタとイエスさまのお話を真ん前で聞いていたマリアのエピソードはよく知られておりますが。今日の箇所のすぐ後の12章はイエスさまが十字架におかかりになる6日前ですが、その時にもイエスさまはベタニア村に行かれ3人のもてなしをお受けになられています。そのように今日の11章5節にあるとおり、イエスさまはマルタとマリアとラザロを大変いつくしまれ、愛しておられたのであります。

そうした3人のうちのラザロが重い病気にかかり重篤になります。姉妹たちはイエスさまに使いを送り知らせるのでありますが、イエスさまは「なおも二日間同じ所に滞在された」というのです。弟子たちはイエスさまがラザロもその姉妹も愛しておられたことを知っていました。けれどラザロの住むユダヤに行くのは大変危険なことだとわかっていました。なぜならイエスさまは反対する者らから命を狙われていたからです。弟子たちも又、心配や不安の緊張感を持っていました。
そのようにこのラザロの出来事はいよいよイエスさまが十字架の道へ向かわれるその過程にあって起ったのです。イエスさまはこの事を通して、弟子たちにご自身を信じるようになることを強く願っておられたのです。

イエスさまは4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と謎めいたことをおっしゃっています。
これからラザロの上に起こる出来事が、「神の栄光のためであり、神の子が栄光を受けるためのものだ」と言われるのです。ラザロの上に起こる事とはなんでしょう?
それは「死」と「復活」です。
実はこのラザロの死、さらに死からのよみがえりは、迫りくるイエスさまご自身の十字架の死、そして復活を指し示す「しるし」なのです。

弟子たちはこの後イエスさまのむごたらしい死に直面することになります。イエスさまは彼らがどれほどの深い絶望感に襲われることになるかご存じでした。だからこそ、ラザロを通して「それは死で終わるものではない」こと。その出来事が「神の栄光のためであり、神の子が栄光を受けるため」のものだと、いわば宣言しておられるのです。
この出来事の目的は、奇跡現象にあるのではありません。イエスさまご自身の死と復活によって信じる者に与えられる救い、その神の栄光とイエスさまの神の子としての栄光が顕される。そこにイエスさまの目的があったのです。

さて、17節以降のところで、イエスさまがベタ二アに到着されたことを聞いたマルタは、イエスさまをすぐに迎えに行きます。
マルタはイエスさまに会うと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、その心の思いのままを口にします。イエスさまには病人をいやす力があるとマルタは知っていたので、ラザロが生きている間にイエスさまが来られなかったことが残念でならなかったのです。妹のマリアも、イエスさまを見ると足元にひれ伏して、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32)と嘆くのです。

マルタはそれでもしぼり出すようにして、「しかし、あなたが神にお願いなることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」というのです。
それをお聞きになったイエスさまはマルタに、「あなたの兄弟は復活する」(23)と言われました。
するとマルタは、「終りの日に復活することは存じております」と答えます。
それはユダヤの人々の間にある一般的な復活についての言い伝えをおっしゃったのではありません。

イエスさまは言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(26)
イエスさまは、「わたしこそが復活であり、命でさる」と力強く宣言なさいます。それは神の権能による宣言であります。そして、「あなたはこのことを信じるか」と問いかけられるのです。

「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
わたしどもの肉体は朽ちても、復活のキリストに結ばれる「命」は、死で、滅びに終わることはないのです。それはキリストを信じる私たちがキリストの十字架のあがないを受け、復活のキリストの命を受けているからです。
「生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」というお言葉も同様です。復活のキリストにつながっているのなら、肉体の死はもはや死ではなく永遠の命にすでに入れられているのです。弟子たちにも、わたしたち一人ひとりにも「このことを信じるか」と問われているのです。
この問いかけは、人や世間がどうかということではなく、あなたはどうなのか。あなたはわたしが復活であり、命であると信じるのかと直接一人ひとりに向けらているです。
マルタはそのイエスさまの問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27)と答えました。

けれども彼女はその後で、そのまさに復活の主であるイエスさまご自身がラザロの墓の「石を取りのけなさい」(39)と仰せになった時、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39)と答えたのです。
彼女はイエスさまに信じますと言いましたが、その後もそのように信仰は揺れ動くのです。

そのマルタに対してイエスさまははっきりと言われます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」(40)
この後、イエスさまによって御父である神さまに願いが聞き入れられたという感謝の祈りがささげられます。それはマルタが言うように。「イエスさまが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」という確信に満ちた祈りでした。そしてそのように祈られたのは、弟子たちをはじめ、周りにいる群衆のためです。「神よ、あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(42)とおっしゃるのです。

イエスさまは「ラザロ、出て来なさい」(43)と大声で叫ばれます。
すると完全に死んでいたラザロが「手と足を布で巻かれたまま出て来た」(44)のです。
死で終らないと仰せになったイエスさまは彼に命を与えられ、神の子としての栄光を顕されるのです。
ラザロのよみがえりはイエスさまご自身の復活であり、命であることの証明となったのです。
主イエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束する良き知らせ、これこそが福音であります。
この福音、キリストによる命の法則が2000年余のときを経た今日も聖霊のお働きを通して私たちの間で生き生きと輝き働いているのです。
このイエスさまを通して行われたラザロのよみがえりに、マルタがどのような反応をしたかは何も書かれていませんが。きっとイエスさまと出会い直しをしたマルタがいたのではないでしょうか。

祈祷会の時、ある姉妹が年の瀬に近しい方を突然亡くし、悲しみと不安で心が渇ききって何もする気が起らなかったそうです。それから数日後にOさんが天に召され気持ちも重たいまま告別式に出席されたとき、なぜか自分自身が信仰によって生かされているという思いと不思議と気持ちが静まり、落ち着いた気持ちにされていく経験をすることができた。ヘブライ人への手紙11章1節にある「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と御言葉を知ることができた。長い信仰生活を送って来たが、自分は一体何をしていたのだろうと思うほど気持ちが新しくされる、まさにイエスさまとの出会い直しのお証しくださいました。
その喜びの賛美は、今日の「もし信じるなら、神の栄光を見る」とおっしゃる主イエスへの確かな応答であるでしょう。
私たちの罪を担い、十字架にかかってあがない、私たちを滅びから救い出して下さる主イエス・キリスト。このお方のよみがえりの命に日々与り、永遠の命の光の中を歩み通してまいりましょう。
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桜人企画 公演 2/23-24 終了

2024-02-24 18:39:35 | 教会案内
桜人企画 公演 2/23-24
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2024/2/25  主日礼拝式

2024-02-24 07:34:01 | 教会案内

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桜人企画公演 2/23-24 演劇「碧緑的詩」台南にダム建設を果たした八田興一を辿る

2024-02-18 18:24:39 | イベント
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2024/2/18 主日礼拝式 受難節(レント)

2024-02-17 08:37:19 | お知らせ

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「今は見えるということです」

2024-02-11 17:38:55 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ9章1-41節 

本日は「建国記念の日」、国民の祝日となっていますけれども。以前あるコラムに目が留まったのですが。それは昭和天皇の弟で歴史学者でもあった三笠宮さまがかつて、「紀元節についての私の信念」(文藝春秋昭和59年1月号)の中で、以下のようにお語りになった事が記されていました。
 「日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である」「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史、それは華やかではあるがそれを信じた人たちは、また勝算なき戦争、大義名分はりっぱであったがそれを始めた人たちでもあったのである」「もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている。」
ここまでご自身のことを掘り下げ発せられた言葉には重みがあります。又、古代オリエント学会名誉会長もなさり、歴史への造詣はさすがに優れた方でした。
キリスト教会は2月11日を「信教の自由を守る日」としておぼえ大切にしています。それは憲法が保障する思想信条の自由と政教分離は人間としての存在基盤にかかわる重大な事柄だからです。かつては日本のキリスト教界も国家総動員体制、宗教団体法による統合政策によって戦争に組してきた過ちを、神の前に悔い改め、同じ過ちに陥る事がないようにこの事を覚えて祈る祈念の日であります。
今ヨハネの福音書から御言葉を聞いておりますが、その時代は主イエスを信じる者が激しく迫害されていた時代でした。世の権力が信仰を利用したり、宗教が権力に癒着し神の御心が蔑ろにされていく時代でした。昨今の世界においても権力のもとで思想信条の自由が蔑ろにされています。信教(思想信条)の自由と政教分離が守られていくよう祈り、努めつつ、キリストが指示された平和を求めていくものでありたいと、切に願うものです。

本日は、生まれつき目の見えなかった人がイエスさまと出会うエピソードであります。
当時のユダヤ社会において、肉体的な病気は罪の報いであると考えられていました。イエスさまの弟子たちも同様の考えを持っていたのです。弟子たちは「先生、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」とイエスさまに尋ねます。
弟子たちはこの目の見えない人の心の苦悩や痛みに目を向けません。ただ自分たちの宗教的関心でその人を観察し、ラビ(先生)「知りたいので教えてください」と言ったのです。
人はいつも何が原因か、又その理由を知りたがります。納得し安心を得たいという思いがあるからでしょう。そこに、目に見えないことに対する不安や恐れを抱えている人間の弱さが垣間見えます。
頭ではいくら迷信だとわかっていたとしても、「たたり」や「因縁」という言葉によるいわれなき差別や偏見に多くの人が苦しめられています。いわゆる因縁トークによって高額なお払いを強いられたり、因縁を絶ち切るために高額なものを買わされて被害に遭う人が後を絶ちません。
そのように人の生まれつきの特性や病気を当人や家族の罪の結果と決めつけることに対して、イエスさまが語られる言葉は明快です。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」
イエスさまは世に対して、この人も両親も無罪であると宣言されました。このイエスさまのお言葉を、盲人であり物乞いをして生きてきたこの人はいかに聞いたでしょう。当事者、又家族にとってそれはまさに真の解放を告げる主のお言葉です。
イエスさまはさらに驚くべき事を口になさいます。「神の業がこの人に現れるためである」と言われるのです。この「神の業」とは、奇跡やしるしを言っているのではありません。
ヨハネ6章29に次のように記されています。28節から読みます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」しるしや奇跡を欲しがる人びとに対してイエスさまはきっぱりと、「神がお遣わしになった者を信じる事、これが『神の業』なのです。それはヨハネ3章16節に「神がお遣わしになった独り子(御子)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、そのイエスさまを救いと解放の主と信じること、それが「神の業」であるのです。

さて、イエスさまは唾で土をこね、目の見えない人の眼に塗って、言われます。
「シロアムの池に行って洗いなさい。」
彼がイエスさまの言葉を聞いて従い、そのとおりに洗うと、目が見えるようになります。
弟子たちは、この人がなぜ生まれつき目が見えないかということに関心をもちますが、この人の苦悩や救われたいという切なる思いに寄り添うことはありませんでした。無関心でした。
一方イエスさまは、その彼を一人の大切な存在として向き合い、ずっと関わり続けられます。彼の心もそのイエスさまの前に次第に開かれていくのです。
ヨハネ1章9節にあるとおり「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのです。」
イエスさまはこの人の心を覆っていた闇までも、救いと解放の光で照らし出されるのです。

この眼が開かれた人がシロアムの池から帰ってきました。
彼を見た近所の人びとや彼が物乞いであったのを前に見ていた人びとが、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と聞くと、彼は「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われたので、そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と答えます。彼はイエスさまが自分にしてくださったことをあかししました。
すると、人びとは彼をユダヤの指導者であったファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。
そこでも、ユダヤ指導者たちから「どうして、見えるようになったのか」と彼に尋ねます。
ここでも彼は、前に近所の人びとに答えたように「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」と、イエスさまがなしてくださったことをあかしします。

13節以降には、イエスさまがいやされたのが安息日であったという事を知ったユダヤのファリサイ派指導者たちが出てまいります。彼らはイエスさまの行為が労働や働きであり、安息日には何の仕事もしてはならないという律法に違反する行為にあたると判断し、彼を尋問し始めるのです。
そして、「一体、おまえはあの人をどう思うのか」と問うのです。
その問いかけに対して彼は、「あの方は預言者です」と答えます。
ユダヤの指導者たちは、それでも彼が盲人であったのに見えるようになったことを信じません。
とうとう彼の両親まで呼び出して尋問するのです。
両親は息子を前にして、生まれつき目が見えなかったことを証言しますが、「どうして今見えるようになったかわたしどもにはわかりません」と答えました。両親はおそらくイエスさまがおいやしになったことを本人から聞いていたのでしょう。しかしそれを話そうとはしません。「息子は大人ですから本人に直接聞いてください」と答えます。それは、イエスを神から遣わされたお方である、と認めれば厳しく咎められると知っていたからです。
21節に「ユダヤ指導者たちは既に、イエスをメシア(救い主)であると公に言い表わす者がいれば、会堂から閉め出すと決めていたのである」とあるように、主イエスを信じる者に対する激しい迫害はユダヤの社会で暮らしていくことができなくなり、そのコミュニティを失うことを意味していたのです。

ユダヤの指導者たちは再び彼を呼び出して尋問します。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
ユダヤ指導者たちの狙いは、彼から主イエスへの信仰を奪い取ることでした。
すると彼ははっきりと答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
彼は自分が実際に経験した事実を事実として述べたのです。彼は、かつては見えなかったが、今は見えている、ということを真っ直ぐに証言したのです。
にもかかわらず、ユダヤの指導者たちは「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と同じ事を問い続けるのです。
彼はさすがにここで「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と、痛烈な言葉を彼らに返します。
この言葉を聞いたユダヤの指導者たちはイエスに対する妬みの念をこめて、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語ったことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と、自己正当化し面目を保とうとします。

それに対して彼は答えます。「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」
いつもはユダヤの指導者たちが人びとに教えていた言葉を、彼は何とも皮肉たっぷりに彼らに投げ返すのです。
彼はさらに「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と正々堂々と証言します。
彼の見えなかった心の目が開かれ、まことの世の光であるイエス・キリストを彼はまさに見出したのです。彼は目が見えるようになって待望のユダヤ会堂に入ることができました。そしてその時、多くのユダヤ人たちの前で、「わたしの目を開かれたのは、神のもとから来られたお方です」と、自分の信じているところに立ち恐れず、はっきりと言い表したのです。これこそ信仰の告白であり、あかしであります。

それらの事を見聞きしていたユダヤの指導者たちは、「お前はまったく罪の報いとして生まれたのに、我々にあつかましくも教えようというのか」と、ののしってユダヤの会堂から追い出しました。
イエスさまは、その彼を再び訪ね、出会われるのです。
そして彼に、「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。
「主よ、信じます」と、彼はイエスさまを救い主として受け入れました。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

イエスさまはおっしゃいました。
39節「わたしが世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
イエスさまはすべてを照らす光として世に来られました。暗闇も真理である主の前では闇とは言えず、すべてが明るみにされるのです。それでもなお自己正当化し続け、主の救いと解放の業を拒むなら「罪は残る」(41節)。主のみ業を信じ、喜びと感謝に満たされ、主の救いに与っている者として光りのうちを歩んでまいりましょう。
最後に、イギリスのジョン ニュートン牧師が作った詩がもとになったAmazing Graceの原訳に沿った邦訳の詩を読んで、「Amazing Grace」をもって主を賛美したいと思います。
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2024/2/11 主日礼拝式

2024-02-07 14:51:22 | 教会案内

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主イエスこそ、良き羊飼い

2024-02-04 15:50:16 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ10章7-18節 

旧約聖書のエゼキエル書34章には、羊を養わなかった羊飼いの話が出てまいります。
それは、かつてのイスラエルの指導者たちに対する神の告発でした。
主は預言者エゼキエルを通して次のように語られます。
「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」(1-5節)
ここを読むと、これは今日も世界や国内において起こっていることのように思えるのであります。
いつの世にあっても、至るところで同様の告発がなされていることを覚えるのであります。社会的指導者であれ、宗教的指導者であれ、又様々な分野で指導的立場にある者はみな、その立ちどころを神さまからいつも問われているのです。
本日は「主イエスこそ、良き羊飼い」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

さて、羊という動物は日本に住む私たちにはまあ動物園以外あまりなじみがないという人が多いのではないでしょうか。家畜として飼われているところを目にする機会はそうないでしょう。ましてや野生の羊など見たことも聞いたこともありませんが。
羊というのは弱い動物です。狼などに襲われたら自分で自分を守ることが出来ません。羊は弱視のため気づきにくく、気づいたところで牙も角も無いので逃げるにしてもすぐに追いつかれてしまいます。又、他の動物に比べて自ら生きていく術を知りませんから、羊飼いが群れを養い守ることが不可欠であったのです。
まあ私たち人間もそうですが。ある意味私はひとりで生きられる、と言ったって、たとえばポツンと一軒家に住んでいたって、何がしかの助やお世話を頂いているものです。
私たちも羊のように全くの孤立した中では生きてはいけません。

そういう中でこのヨハネ福音書は、イエスさまが「わたしは良い羊飼いである」と仰せになったことを伝えます。
今日の箇所で言われた、「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」の「わたしは~である」という言葉は何回も出てまいります。原語で「わたしこそは」と非常に強調された意味合いをもつ言葉です。いわばそこに主イエスとしての権限を表わしているのです。
イエスさまが「わたしこは~である」と言われたとき、それは神の権能をもっているということです。それをイエスさまはここで言い表されたのです。

それでは、その真意について見ていきたいと思います。
まず、「わたしは、羊の門である」とおっしゃったことについてでありますが。
羊飼いは羊を外敵から守るために、羊が飛び越えられない高さに石垣などを積み上げて囲いを造ります。夜になるとその囲いに羊を入れます。
その囲いの門のところには門番がいて、羊の世話をしに入って来る羊飼いだけにその羊の門を開いたそうです。ですから、門から入らずに囲いを乗り越えて入ろうとする者は盗人や強盗でした。
朝になると羊飼いは羊の名を一匹ずつ呼びながら囲いの外へ連れ出したのです。
羊たちは羊飼いの声をよく知っているので羊飼いについて行きます。しかし自分の羊飼い以外のものには決してついていかないのです。
この「羊の門」は羊飼いと羊のために開かれているのですから、そこを通らずに入るものは羊を奪って食い物にする盗人、強盗ということです。
イエスさまはここで、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。それは、イエスさまが来られる前から力をふるい民を支配下においてきた指導者たちのことを言い、最初にエゼキエル書の預言者の言葉を読みましたが、人々の生きる力と生活を損なっていました。
自分たちは律法を厳守する特権階級であることを誇り、高慢になって人々を見下して裁き、裁いていたのです。表面的に羊たちを養っているようで、実際には自分自身を養うことにしか関心がないのです。
人々の救いを願っていたのではなく、自分が人々からいかによく思われ、尊敬されるかということばかりを考えている、神のお心を思わず自分の地位が守られ、満たすことばかりを考えている指導者たちが多くいたのです。
イエスさまはそんな指導者たちの魂胆を見抜いて、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(1.10節)と、厳しく指摘されるのです。

そういう現状にあって、イエスさまは「わたしは、羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。
この牧草とは神のいのちのみ言葉であります。人はそれを頂くことによって生かされ、ゆたかに神の養いを受けるのです。イエスさまこそ救いの門なのです。

さらに、イエスさまは「わたしこそ、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。
命を棄ててまでも羊を救い守る羊飼い。それがイエスさまなのです。
イエスさまは羊飼いではない自分の羊を持たない雇い人と、ご自身との違いについて明らかにされます。羊を持たない雇い人は自分の羊ではないと思っているので、羊のことを心にかけていません。お金をもらえるからそうしているだけで、自分の羊じゃありませんから愛情もなく、羊をいわば物のように扱い数字で数えて、自分たちの利益や業績につながる物としてしか捉えていないのです。
けれどもイエスさまは良い羊飼いであって、14節でおっしゃるようにご自分の羊を知っておられます。その一匹一匹の名を呼び出すように知っていてくださるのです。
その羊も又、羊飼いであるわたしを知っている、とイエスさまは言われるのです。
父なる神がイエスさまを深く愛しておられるように、イエスさまと私たちとの関係も強い信頼によって結ばれているということです。その愛と信頼の関係が「知る」という言葉に言い表されているのです。
この世の中で、まるで弱く、さまよいやすい羊のように生きざるを得ない私たち人間にとって最も厄介なのは、イエスさまの愛と救いから私たちを引き離そうとする力であります。それはこの地上にある限り私たちの内にも外にもたえず働きかけてきます。
だからこそ、私たちは毎日羊飼いであられる主に呼ばれているみ声に耳を澄まして聞いていき、羊の門を出入りする羊のようにイエスさまのいのちのみ言葉を日毎に頂き、その信頼を育んでいくことが大切なのです。
イエスさまは、「わたしは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる」と言われたとおり、父なる神に従われていのちまでおささげになって、私たち人間を罪の力から解き放ち、救い出してくださいました。私たちはこのイエスさまの愛によって生かされていることに日々思いを馳せていきたいと思います。
この後持たれます主の晩餐の中で、イエスさまを通して顕された神さまの愛と救いを心に刻んでいきたいと思います。
世の巷には偽物の救いが溢れています。目先の安心や楽しみを提供する偽りの雇い人がそこかしこにもいっぱいです。本ものの救い、本ものの平安、本ものの命を示され、与え、導いてくださる良き羊飼いイエスさまのみ声に聞き、信じ、従ってまいりましょう。

さて、イエスさまはさらに「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)と言われます。
ほかの羊とは、特権をユダヤ人たちから、いわば罪人や異邦人と呼ばれたていた人たちを指していました。
「良い羊飼い」に出会えず、信頼も安心も得られないような不安と恐れの中で、命の危機にさらされ続けていた羊たち。
しかし神の愛、イエスさまのいつくしみの眼差しが囲いの外にいる羊に向けられているのです。
イエスさまは危険をかえりみず、囲いの外に捨て置かれて飼い主のいない羊のように打ちひしがれる人、暗闇の中をさまよっている人のもとに出かけて、探し出し、出会われるのです。
そして最期には、父なる神の御心、すなわち御子イエスを信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るために、その愛によって尊いいのちを差し出されるのです。
しかし神の御業はそれで終わりません。イエスさまは再びいのちをお受けになり、復活なさって神の栄光を顕されるのです。すべての人は神の救いであるこの良き羊飼いに導かれつつ、天の門に入る救いと祝福へと日々招かれているのであります。

最後に聖書教育「毎日のみことば」のコラムに次のようなコトバが綴られていましたので、お読みして本日の宣教を閉じます。
「宣教とは、そこで既に働いておられる神に出会い、福音を知っている者が知らない者に教える関係でなく、福音の恵みに共に与る豊かな生き方なのです。」
この世界と人と人の間に、すでに神さまがなしてくださっておられる恵みの御業に共にあずかり、分かち合っていく者とされてまいりましょう。
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2024/2/4 主日礼拝式

2024-02-03 09:26:01 | 教会案内


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