日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

復活の主の養い

2020-04-27 12:41:36 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ21章1-14節 

七日の旅路を守り導いてくださった主に感謝と賛美を捧げます。

今朝の箇所は復活の主イエスが7人の弟子たちに現れる記事ですが、主イエスはすでにエルサレムにいた弟子たちに2度にわたりご自身を現わしておられました。鍵をかけた狭い家の中、絶望的な思いに閉じ込められていた弟子たちの間に、またそこに居合わすことのできなかったトマスと弟子たちに再度ご自身を現わされたのです。そして3度目にご自身を現わされたのは、ティベリアス湖と呼ばれていたガリラヤ湖のほとりでした。
弟子たちは復活の主に出会った後、故郷のガリラヤに戻ってきていたのです。ここで彼らの日常の生活が再開されたのです。
だだ、そうはいっても主イエスの弟子をやめてもとの漁師に戻ったということではありません。主の十字架と復活の出来事を胸に日常の生活の場にいたのです。この時一緒にいたのはペトロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、他の2人の弟子の計7人でした。
はじめにシモン・ペトロが「わたしは漁に行く」と言い出すと、他の6人の弟子たちも「一緒に行こう」と言って、彼らも舟に乗り込んで漁に出ます。
「しかし、その夜は何もとれなかった」のです。
ペトロやゼベタイの兄弟らはイエスさまの弟子になる前は漁師でしたので、夜通し漁をして1匹すらとれなかったことにがっかりし、疲れをおぼえていたことでしょう。
そうして既に夜も明けたころ、舟の中からふと岸辺に目をやると、復活の主イエスが向こう岸に立っておられました。
けれども弟子たちはそれが主イエスだと分からなかった、とあります。
そこには、如何に労しても一匹すら魚がとれないといういわば日常の生活の苦労に、体も心も疲れ果てた時の私たち自身の姿を物語っているかのようです。

そんな弟子たちに主イエスは「子たちよ、何か食べる物があるか」とお尋ねになります。
主は私たちの食べる物のことまで心を配ってくださるお方なのです。主ご自身人として飢え渇きを体験されたからこそ、人のひもじさまで気にかけてくださるのですね。
そのような主のお声かけに弟子たちは、食べる物が「ありません」と率直に答えます。

そこでイエスさまは弟子たちに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と、指示されます。
弟子たちがそのとおりにすると!「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」くらいの大漁になったというのですね。

皆さん、ここに今日の大きなメッセージがあります。
主イエスの言葉に聴きそのとおりにすると、どのような時も神の祝福が伴うということです。
私たちの日常生活には実に様々な出来事が次々と起こってきます。時には自分の力ではどうしようもない大きな越えがたいような壁に直面することもあります。先行きが見えず、どうしたらよいのか分からないような出来事が押し寄せる時。
そのような時こそ、祈りのうちに主の言葉に聴き、御言葉によって何よりも自らの心を守り、主の教えてくださることを実践して行くことが大切です。
祈りと御言葉に生きる。それがひとりで困難な時は、主の弟子たちもそうでしたが、信仰の友を与えてくださっています。私たちはひとりで舟に乗っているのではなく、そこには同じく主を信じ愛する友、仲間が与えられています。
厳しい現実の中にも助け導いて下さる神に信頼し、共に希望を見出していく者とされていきたいものです。

さて、こうして主のお言葉通り網を降ろした彼らは、思いもしなかった、網を引き揚げられないほどの大漁の奇跡を目の当たりにすることになります。

この時ゼベタイの子のヨハネには、ある記憶がよみがえってきました。
それはペトロはじめ、漁師であった彼らがイエスさまに従っていくことになった時のことです。
その時もイエスさまの言われるとおり、網を降ろすと舟が傾くほど大漁になったのです。それは漁師であった彼らが、主イエスの弟子として従っていく決心を与えられる時となりました。その体験がこの時よみがえって彼は向こう岸へ立つお方が、まさにイエスさまだ!といち早く気づいたのです。

そうしてヨハネがペトロにこう言うと、ペトロは何と我を忘れて、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んで、主イエスのところまで泳いで行くのですね。普通は水に飛び込むのに上着は脱ぐでしょう。服で溺れてしまいます。けれど、ペトロはイエスさまの前に出るのにと、急いで上着をまとったんじゃないでしょうか。まあ、どれほどペトロがイエスさまを切に慕い求めていたかということが伝わってくるようですが。

これまでも私はここを読む度にペトロのとった行動は、早く主のもとに向おうという純粋な姿だと思ってきました。けれども今回のレントの受難の記事から順を追って読んできて、このペトロの姿にはイエスさまを3度も否んだ罪を恥じ、主の前に何とか体裁をととのえようと必死になっている様子が表れているように思えるのです。
しかし主イエスはそんなペトロの弱さや心情をすべてご存じであられました。
弟子たちに示された復活の主イエスの顕現はこれで3度目となります。
それは、3度イエスさまを否んだペトロに向けた主イエスの愛とゆるしのメッセージであったように思えます。
その主の愛とゆるしによってこの後ペトロも又主の兄弟たちを力づけ、福音を分かち合うものとされていくのですね。

さて、他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で岸辺へ戻って来ました。
そして、陸に上がってみると、炭火はおこしてあり、その上に魚がのせてあって、パンも備えられていました。

そして、主イエスがさらに、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われたので、シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き揚げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった、とあります。
因みにこの魚はティラピアという体長40センチほどの中型の淡水魚だそうで、私も一度食べたことがあるのですが。素揚げされていたのですが淡泊な味でそれほど美味しいとは思いませんでした。
さらにその数が153匹という意味については、いろんな説があって確かなことはわかりませんが。ただ153という端数まで数えあげられているというところに、引き揚げられた一匹一匹をも数えられているという丹念さを感じます。
それはこの後、主の弟子たちが本当の意味で人をすなどる漁師となり、彼らを通して救われ福音に与っていく人々一人ひとりが神に知られ、覚えられ、数えられてているということを表しているように思います。
私たちも又、その貴重な一人ひとりであることを再確認し、主に感謝を捧げましょう。

話を戻しますが。
その大漁を目の当たりにした7人の弟子たちは思い知ったのではないでしょうか。
「ああ私は、主イエスがいなければ魚一匹すら捕ることもできない。」
それはこの後、彼らが主イエスの救いと祝福を伝え証しする中で何度も直面する弱さと無力さです。
人が人を救うなんてできることではありません。身近な人でさえその心を変えることはできません。主に頼り、祈るほかありません。
そんな時こそ、主のおっしゃる言葉に望みをおき、従っていく。そこに私たちは主の栄光を拝することが起こされていくのです。

弟子たちは自分の力、経験によって頑張ったけれども思い通りにいきませんでした。
一匹も獲れなかった。
お腹をすかせ、体も心もくたくたになっていたその弟子たちのために主イエスは食事を用意してくださっていたのです。すでに食卓を整えていて下さる。それは収穫に先立つ主の御業です。
私たちが気づこうが気づくまいが、主はすでに主の食卓を整えて待っていて下さるのです。それは何か特別なこととしてではなく、私たちの日常の中で食事の場を持つように、主は私たちの思いを越えて、すでに食卓を整えて待っていて下さるのです。

主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と弟子たちを招かれます。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
弟子たちはそのお方が主イエスであることに気づいていましたが、日常の中に確かに復活の主が共にいてくださることに畏れを抱き、敢えてそれを口に出して、尋ねようとしなかったのです。

そのような弟子たちに、「イエスは来て、パンを取って与えられた。魚も同じようにされた」とあります。
この光景はかつてイエスさまが5つのパンと2匹の魚を5千人にお与えになったヨハネ6章のエピソードを思い起こさせます。
その時、イエスさまはパンと魚を受けとられ、男だけで5千人、女性や子どもを加えるとその倍の1万人ぐらいはいたのではないかと考えられますが。その人々を前に、パンと魚を取り、感謝と祈りを唱えてから、分け与え始めたのであります。
飢え渇き、疲れ果てた多くの群衆を青草の上に座らせ、そのだれもが満腹するほどイエスさまはパンと魚とを分け与えられました。
弟子たちはその出来事を体験してどんなに驚いたことでしょう。裂いて分けるほど増えていったからです。
注目するのは、他の福音書ではこのパンと魚を弟子たちが配給したとされていますが。
ヨハネ福音書ではイエスさまご自身があたかも群衆の一人ひとりにパンと魚を与えられたように記されています。  
そこには、イエスさまご自身が私たち一人ひとりの命のパンであることが表されているのですね。
ヨハネ6章51節で、イエスさまは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われました。
苦難と死によって裂かれた主イエスのみ体と流された御血潮。その尊い代価によって私たちは罪ゆるされ神に立ち返る者として生かされています。主イエスこそ全世界に開かれた救い主、命のパンなのです。
最後になりますが。
主イエスがここで弟子たちを食卓に招かれたことは、弟子たちにとってどんな意味があったのでしょう。
主イエス自ら食卓を整えて弟子たちをもてなし、仕えることの模範を示されたのです。
主イエスと共に王座について自分は右にあなたは左に、誰が1番偉いか、と議論していた弟子たちに対して、主イエスは弟子たちの足を自ら洗われ、互いに足を洗い合いなさいと命じられました。さらに復活の主イエスは、自ら弟子たちの食卓を整えられることを通して弟子たちに主の食卓を整え、互いに仕え合うことを教えておられるのです。

私たちも又、主の弟子としての生き方、人生をそれぞれのあり方で務め励んでいきたいと願います。人に誉められ認められなくても、人に知られなくても、具体的に誰かのために祈り、神の国と神の義を求め、私たちの日常の中に主の食卓を整える者。それが主イエスの弟子なのです。

夜通し働いても何の収穫もなく、気落ちして疲れ切っていた弟子たちに、復活の主イエスは、いのちと平安と喜びとなってくださいました。
主の食卓に招かれ、食事に与った弟子たちは、主の愛をいっぱいに受けてどんなに元気づけられたことでしょうか。
今日は主の言葉に従うことの重要性と、すべてに先だって主が恵みを与えてくださることを確認いたしました。
私たちも命のパンであられる主イエスの養いがなければ、何一つできないような者です。
そんな私たちのことをいつも心にかけ、主自ら私たちの食卓を整えていて下さる。
今週も霊肉ともに守られ、健やかでいられるよう、互いに祈り、とりなしつつ、日々主と共に歩んでまいりましょう。
復活の主イエスの愛の招きに応えてまいりましょう。

祈ります。
主よ、今私たちは大阪教会の会堂に集って共に礼拝を捧げることができませんが、どうか私たち一人ひとりがあなたにしっかりとつながって歩むことができますように守り導いてください。又、あなたにある兄弟姉妹がこの現況下においてこそ、あなたに執り成し、祈り合って共につながり続けてこの難局を乗越えていくことができますようにお支え下さい。さらに、現況下において教会員お一人おひとり、とりわけ医療従事者として勤務されている方、又働かざるを得ない方のいのちと健康とが主にあって守られ支えられますようお導きください。主よ、わたしたちはあなたがすべてを治めておられるお方であることを信じています。どうか一日も早くあなたの教会に集い共に礼拝を捧げる日が訪れますよう、どうか導いてください。主の尊い御名によって祈ります。

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あなたがたに平和

2020-04-19 12:59:51 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ20・19-29 

先週は主イエスの復活を記念するイースターでありましたが、現状では教会堂には集うことができませんので、礼拝プログラム(週報)と礼拝宣教をメールやFAXで送信させて頂きました。主にあるつながりと励ましを感じるということで、うれしい応答メールも頂いております。メールアドレスのある方には礼拝の音声配信が何とかできるようになりましたので、そちらも必要に応じてご利用下さり、一緒に心を合わせて礼拝を守っていただければと願っております。
この現況下においてすべての教会の方々が礼拝堂に集うことができなくなっている今こそ、この大阪教会のエクレシア、神の家族として共におぼえ合い、祈り合ってまいりましょう。そのように信仰による励まし合いを継続していく中で、心も魂も守られ、より深い福音の恵みの体験が与えられます。

本日はヨハネ20章の記事から「あなたがたに平和」と題し、御言葉を聞いていきます。
先週は主イエスの復活を祝うイースターでした。救いの御業、それは十字架の苦難と死からよみがえられた主イエス・キリスト。
今日のこの箇所は、その主イエスが復活された日から8日目に主イエスが弟子たちにそのお姿を顕わされた場面であります。
19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。

そこへ、復活の主イエスが姿を現わされ彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。
今私たちは週の初めの日曜日に礼拝を守っていますが、主イエスは死さえも打ち破られ復活なさったのがこの週の日の初めである日曜日であったことから、それ以降キリストの教会は世々に亘って、この週の初めの日曜日を「主の日」として復活の主イエスを記念する礼拝を捧げています。
しかし、世界で初めての主の日、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、一つの家に潜み戸には鍵をかけていました。狭い部屋の中にいつも付き従っていた人たちを含むイエスの弟子たちが、いわばすし詰め状態で息を潜めていたのです。
「イエスさまがあんな無残な死を遂げてしまった。なぜこんなことになったのか。これから一体何を信じ、頼りにしていったらいいのか」と、おそらくそこに居た人々の頭の中はぐちゃぐちゃであったことでしょう。
 彼らは「イエスの仲間だ」ということで捕えられてしまうという不安と恐れがありました。それは、主イエスとその教えに敵対する勢力に対する外的な恐れであります。                                又、彼らは、イエスさまを見捨てて逃げた事への後悔や自責の念という内的な恐れにも責め苛まれていました。彼らの心も又、内から鍵をかけ、心閉ざされている状態であったのです。
この主イエスの弟子であるがゆえに襲ってくる恐れ。それは何もこの弟子たちだけに限ったことではありません。
このヨハネ福音書が主イエス・キリストの証言として編纂された時代、ヨハネがつながっていた教会の信徒らも又、熱狂的なユダヤ教徒からの厳しい迫害の中で同様の恐れを抱いていたのであります。
ヨハネはそのような信徒らを励ますように、「主イエスがおびえる弟子たちの真ん中に立たれた」という復活の日の出来事を思い起こしつつ書き記すのです。

「恐れと平和」
先に弟子たちは「恐れ」を抱いて生きざるを得ないような状態であった、ということを申しました。この「恐れ」の対照語は「平和」なのです。イエスさまはおそらくヘブライ語で「シャローム」とおっしゃったのだろうと言われていますが。
それは「平和」という意味とともに、「平安」という意味があるのです。
ユダヤでは一般的なあいさつとして交わされているのですが。彼らにとってシャローム・平和とは、「神が共におられる時のこと」を意味しており、それが人と社会の平和・平安なのです。
イエスさまはここで、不安や恐れ、自責の念にかられる弟子たちに、「なお神はあなたがたと共にいてくださる」と、宣言なさったのです。

「恐れ」ということで思い浮かびますのは、救い主イエスさまご降誕の知らせを聞いたヘロデ王やエルサレムの人々が「不安を抱いた」というくだりです。ヘロデ王は自分の地位や立場が危うくなるという強い恐れをもちました。又、エルサレムの町に住み、世の力の支配にあまんじる人たちは、その安定が揺るがされるのではないかと不安を抱いたのです。
それは、神が共にいてくださる平和、平安を知らない、否、受け入れようとしない、そこから来る恐れであったと言えましょう。
ヘロデ王はそこで無慈悲にも、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、皆殺しにさせた」というのです。恐れは時に自分を守ろうとするあまり攻撃的になり人を殺め傷つけます。

昨今の状況の中で、ヘイトや家庭内暴力(DV)が増加しているという残念なニュースも流れています。その根底には恐れがあり、神不在の恐れや不安があるといえるのではないでしょうか。
私ども自身もその神にいつも立ち返りつつ、隣人や地域社会、そして世界に向けた執り成しの祈りを捧げ続けていきましょう。

さて、主イエスがおっしゃったシャローム、「平和」ですが。今度はギリシャ語で読みますと、「エイレネー」、それは「建てあげる」という意味があります。
これは使徒パウロの手紙Ⅰコリント14章33節でも使われており、そこにはこのように述べられています。
「神は無秩序の神ではなく、『平和』の神である。」神は無秩序の神でなく「建てあげる」神であるというのです。ここには教会の秩序が損なわれていた初代教会の現状があったようです。せっかく福音によって主の教会が誕生したのに、福音本来の神の平安と愛が損なわれている現状。そういう中で使徒パウロは、「神は無秩序の神ではなく、秩序の神である」とはいわないで、「神は無秩序の神ではなく、建てあげる神である」と言っているのです。
大切なのは、「平和の神にあって、違いをもった一人ひとりが大切にされ、互いが神の愛と恵みによって組み合わされ、建てあげられていく」。そこに真の平和、平安という神の御業が実現されていくのです。

「平和の使者として」
さらに、復活のイエスさまは重ねて弟子たちに言われます。
21節「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
主イエスは十字架と復活の御業によって神との和解と真の平和を建てあげられました。その主イエスが今度は弟子たちに対して、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と命じられるのです。
その使命とは、罪のゆるしを得させる神との和解の使者としての務めなのです。
使徒パウロはⅡコリント5章17節~18節で次のように記しています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者です。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(中略)神は、キリストによって世をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をお授けになりました。」

この「和解のために奉仕する任務」と今日の23節の「罪を赦す権能」とは、ともに神の国の平和が実現されていくための大切な働きです。
本来罪を赦すことができるのは、唯神のみです。しかしここで主イエスは御自分の弟子となった者、そして主の教会にその任務をお授けになるのです。
さらにキリスト者とされた私どもすべて、私たち一人ひとりが、キリストにある和解と平和の使者としての務めを主イエスから託されているのです。
そしてここで重要な点は、復活の主イエスがそれに先駆けて、彼ら(弟子たち)に息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われていることです。この「聖霊」は、ギリシャ語原語で「パラクレイトス」、助け主です。それは又、弁護者とも訳せます。
この聖霊は復活の主イエスが天に昇られた後、その約束されたとおり主イエスを信じる一人ひとりの信徒とキリストの教会に降臨された聖霊であり、今も私たちの教会をキリストのみ体となすべく神の力とそのお働きをなしておられるお方です。
ヨハネは14章25節以降で、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
今も変わることなく聖霊は私たちのうちにも臨まれ、お働きくださっています。
今こうして教会の礼拝堂に集まることは出来ませんが、聖霊のお力とお働きによって私たちは神のエクレシア、主に呼び集められた共同体として守られ、恵みに与っているのです。引き続き聖霊の導きを祈り求めてまいりましょう。

さて、今日の箇所のもう一つのメッセージは、24節以降で復活の主イエスがトマスに現れなさる場面であります。
トマスは何らかの理由で初めに他の弟子たちに主イエスが立たれた場面に居合わせることができませんでした。他の弟子たちが興奮気味にその時の様子を報告するのを複雑な思いで聞いていたことでしょう。彼だってイエスさまにもう一度、お会いすることができれば、どんなにうれしいことかと思っていたでしょう。
しかしトマスは、そんなことが本当にあるのだろうかという疑いの心、自分だけがそこに居合わせなかったもどかしさから、こう言います。
26節「あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
トマスは懐疑主義的で実証されないと信じない人物だと言われますが、しかしこういった状況の中で彼の心は、内側から鍵がかかっていたような閉ざされた状態であったのではないでしょうか。
まあ、トマス自身はそういった状態でありましたが、主イエスはそんなトマスを愛し、慈しんでおられます。                             復活されて8日目、第二の週の初めに、主イエスはトマスにも、その復活のお姿を顕わされなさったのです。
それは、神さまが与えて下さった者をひとりも失わないことが、御心であるからです。

主イエスはトマスに言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者にではなく、信じる者になりなさい。」
その愛と赦しに触れたトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と、その閉ざされた心の扉が開かれ、神との和解とその愛にどっぷりと浸されるような体験をするのですね。
「このお方こそ、私の主、私の神だ」と。実は弟子たちの中で、このようにイエスさまが「わたしの主であり、わたしの神」と、明快にその個人的信仰を初めて表明したのはこのトマスであったのですね。

すると主イエスはトマスに言われます。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
弟子たちは、ずっとイエスさまのおそばについて、普段からイエスさまのお姿を見ていたにも拘わらず、彼らはイエスさまが神の子、救い主であることがわからなかった。言ってみれば人間的弱さと痛みを負ったイエスさまに躓いてしまい、恐れのなかで逃げ出してしまったのです。
イエスさまを間近に見ていたから信じられたのではなく、逆に間近に見ていたがゆえに信じられなかったということであります。
イエスさまはここで弟子たちに何をお見せになったかというと、ご自身の受難予告どおり、「十字架の受難と死を通って復活したのだ」ということを明示された、証明されたのですね。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」とありますが。その喜びはとても一言では言い表せるものではなかったでしょう。主イエスのゆるしを得、なおその愛の中に招かれていることを知った平安がそこに満ち溢れていた。
閉ざされた心が解放を得、絶望が希望に変えられたのです。それはまさしく復活の主と共に死から命へと移された瞬間であったことでしょう。私たちも又、少なからず主イエスとの出会いと解放によって死から命に移されるような体験を与えられて来たのではないでしょうか。                               主イエスのこの復活の顕現の後も、主は約束の聖霊を遣わしてくださり、パラクレイトス;助け主、慰め主、弁護者として主を信じる私たちの真ん中に立たれ、お働きくださっているのです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
主イエスにある平和を与り頂いている確信と喜びをもって、今日のこの状況の中だからこそ、主に委ねられ託されている祈りと執り成しの務めへと遣わされてまいりましょう。
最後に、ヴィヴィアン・R・リーチさんとおっしゃる方の手紙形態の詩を先週知人を介して知り、読んでみますとハッとさせられたので、翻訳されたH.Kさんのものを読ませていただきます。

Coronavirus Letter To Humanity

The earth whispered but you did not hear.
The earth spoke but you did not listen
The earth screamed but you turned her off.
And so, I was born…
I was not born to punish you …
I was born to awaken you …
The earth cried out for help…
Massive flooding. But you didn’t listen.
Burning fires. But you didn’t listen.
Strong hurricanes. But you didn’t listen.
Terrifying Tornadoes. But you didn’t listen.
You still don’t listen to the earth when.
Ocean animals are dying due to pollutants in the waters.
Glaciers melting at an alarming rate.
Severe drought.
You didn’t listen to how much negativity the earth is receiving.
Non-stop wars.
Non-stop greed.
You just kept going on with your life …
No matter how much hate there was …
No matter how many killings daily …
It was more important to get that latest iPhone 
than worry about what the earth was trying to tell you …
But now I am here.
And Ive made the world stop on its tracks.
I’ve made YOU finally listen.
I’ve made you take refuge.
I’ve made you stop thinking about materialistic things …
Now you are like the earth…
You are only worried about YOUR survival.
How does that feel?
I give you fever … as the fires burn on earth.
I give you respiratory issues … as pollution fill the earth air.
I give you weakness as the earth weakens every day.
I took away your comforts …
Your outings.
The things you would use to forget about the planet and its pain.
And I made the world stop…
And now…
China has better air quality …
 Skies are clear blue because factories are not spewing pollution unto the earth’s air.
The water in Venice is clean and dolphins are being seen.
 Because the gondola boats that pollute the water are not being used.
YOU are having to take time to reflect on what is important in your life.
Again, I am not here to punish you … I am here to Awaken you…
When all this is over and I am gone… Please remember these moments …
Listen to the earth.
Listen to your soul.
Stop Polluting the earth.
Stop Fighting among each other.
Stop caring about materialistic things.
And start loving your neighbors.
Start caring about the earth and all its creatures.
Start believing in a Creator.
Because next time I may come back even stronger….

Signed,

Coronavirus

(Written by: Vivienne R Reich)

コロナウイルスから人類への手紙

地球は囁いたけれど、あなたには聞こえなかった。
地球は話したけれど、あなたは聞かなかった。
地球は叫んだけれど、あなたは聞くことを拒んだ。
それで、私は生まれた・・・
私はあなたを罰するために生まれたのではない・・・
私はあなたの目を覚ますために生まれた・・・
地球は助けを求めて叫んだ・・・
大規模な洪水。でもあなたは聞かなかった。
厳酷な火災。でもあなたは聞かなかった。
猛烈なハリケーン。でもあなたは聞かなかった。
恐ろしい竜巻。でもあなたは聞かなかった。
海の生き物が、水中の汚染物質によって死んでいっている。
異常な速さで溶けていっている氷河。
厳しい干ばつ。
それでもまだ、あなたは地球の声を聞こうとしない。
どれだけ地球がひどい扱いを受けているのか、あなたは聞こうとしなかった。
次々と続く戦争。
次々と続く貪欲。
あなたはただ自分の生活を続けるだけだった・・・
どれだけ憎しみがあろうが・・・
毎日どれだけ殺害があろうが・・・
地球があなたに伝えようとしていることを心配するより、
最新のiPhoneを手に入れることのほうがもっと大事だった。
だけど今ここに、私がいる。
そして、私は世界を一気にストップさせた。
やっと私はあなたに耳を傾けさせた。
私はあなたに庇護を求めさせた。
私はあなたが物質本位に考えるのをやめさせた・・・
今、あなたは地球のようになっている・・・
あなたはただ自分が生き残れるか心配しているだけだ。
どう感じますか?
私はあなたに熱を与える。地球で起きる火災のように・・・
私はあなたに呼吸器障害を与える。地球の大気汚染のように・・・
私はあなたに衰弱を与える、地球が日に日に衰弱していっているように。
私はあなたの安楽を奪った・・・
あなたの外出。
あなたが使う、地球のことや、地球が感じている痛みのことを忘れさせるような物。
そして私は世界をストップさせた・・・
そして今・・・
中国の大気質が改善した・・・工場が地球の大気に汚染を吐き出さなくなったことにより、空が澄んだ青色だ。 
ベニスの水が澄んでイルカが見られる。水を汚染するゴンドラを使っていないからだ。
あなたは時間をとって自分の人生で何か大切なのか深く考えなければならなくなっている。
もう一度言う。私はあなたを罰しているのではない・・・私はあなたの目を覚まさせるために来たのだ・・・
これが全て終わり私がいなくなったら・・・どうかこれらの時を忘れないように・・・
地球の声を聞きなさい。
あなたの魂の声を聞きなさい。
地球を汚染するのをやめなさい。
鬩ぎ合いをやめなさい。 
物質的なものに関心を持つのをやめなさい。
そして、あなたの隣人を愛し始めなさい。
地球と、その全ての生き物を大切にし始めなさい。
創造神を信じ始めなさい。
なぜなら、次の時には、私はもっと強力になって帰ってくるかもしれないから・・・

コロナウイルスより(作者:ヴィヴィアン・R・リーチ)

祈ります。
天地万物を創造し、今もすべ治めておられる主なる神さま、今日のあなたの命の言葉をありがとうございます。
今の現況ににあって、私たちに与えられている恵みと平和をおぼえつつ、主が私たちに
託されているあなたとの和解、平和のために祈り、執り成し続け、主の御心に適う歩みがどうかできますよう導き、又その体と心と魂とが健やかであるように守ってください。
あなたの御心を求め、救い主イエスの御名で祈ります。

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主イエスの復活のメッセージ

2020-04-12 09:12:02 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ20章1-18節 2020・4/12 イースター

先週の7日、コロナウイルス感染症拡大に伴い緊急事態宣言がこの大阪にも出されましたが。大阪教会としては臨時信徒会で5月10日まで主日礼拝を休会(集まるのを止める)とする苦渋の決断をいたしました。悩ましいことですが、このコロナウイルスの蔓延をくい止めるには「人と人との接触を避ける」ことに尽きるということです。
5月5日に予定されていました関西地方教会連合の定期総会、大阪教会が会場になっていましたが、それも集まらないで議題承認の可否を文書で諮るかたちとなりました。
連合会長からは「このような時こそ連合内のつながりを強め、祈り合い支え合いたいと願います」との連絡がありました。今、私たちは教会に集まることはできなくとも、共に主に向って礼拝を捧げ、互いのために祈り支え合って、信仰の守りを頂いてまいりたいと思います。
さて、本日はイースターです。従来ならば教会堂に集い、多くの方々と共に声高らかに主を賛美し、イースターエッグが配られ、皆で主イエスの復活を祝うのでありますが。ある教会では礼拝を再開した時に、イースター礼拝を改めて行うという話を聞きました。それもいいアイデアかと思いましたが。でも、今日はやはりイースターをおぼえる日でありますので、私たちは教会堂に集まることはできませんが、主イエスの復活をこの日心から讃美し、感謝を捧げる時としたいと思います。

本日はヨハネ福音書20章1-18節より「主イエスの復活のメッセージ」と題し、御言葉を聞いていきます。
マグダラのマリアは、イエスさまが十字架刑で死を遂げられた3日目の早朝、まだ薄暗いうちにイエスさまが葬られた墓に行きました。
最初にイエスさまの墓に行ったのはイエスさまの弟子たちではなく、かつてイエスさまから7つの悪霊を追いだしてもらったこのマグダラのマリアでした。
弟子たちはゲッセマネの園で散り散りになってしまったのです。
このマグダラのマリアは、十字架にかけられたイエスさまの傍らで、イエスさまの苦しみと死を嘆き悲しみました。イエスさまが十字架から降ろされても側を離れず、埋葬の場にも付いて行きました。そしてこの安息日明けの早朝に彼女は、せめてイエスさまの体に香油を塗ってさしあげたいと墓を訪れたのです。
彼女は自分をいやし、神の愛のもとにある新しい人生を与えてくださった、イエスさまの恵みを忘れませんでした。ところがマリアが墓に着くと、石が取りのけてあり、墓にイエスさまの体が見当たりません。
そこで彼女は「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と、シモン・ペトロともう一人の弟子(このヨハネ福音書を記録したヨハネ)のところに走って行き、そう告げます。

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ向いました。
恐らく彼らも勇気がいったことでしょう。犯罪人として十字架刑にされたイエスの弟子だということがわかると彼らの命もどうなるかわかりません。それでもイエスさまの体がどこかへ消えてしまったと聞いてじっとしていることなど出来なかったのでしょう。
その墓へと二人は走って行くのです。
まあ、そのような緊迫した場面でありますが。「もう一人の弟子の方が、ペトロより先に走って、先に墓に着いた」とありまして、ペトロよりも随分若かったヨハネが先に墓に着いたというのはなるほどです。
そうして先に墓についたヨハネは身をかがめて墓の中をのぞくのですが、墓の中に入ろうとしません。ちょっと怖い気がしたのでしょうかね。
一方のシモン・ペトロは墓に着くと、中に入って、イエスさまの頭を包んでいた覆いが、
横たわっておられたところから離れたところに丸めてあるのを確認しますが、手がかりもありません。やっぱり世間の目も怖かったのでしょう。他に確認するでもなく、結局この二人は家に帰っていきました。彼らのうちにはもはや失望と恐れしかなかったことでしょう。イエスさまが以前から御自分の苦難と死、そして3日目の後のよみがえりについて何度も教えられていながら、それを信じることができなかったのです。

私たちはどうでしょうか。全世界の状況が一変してしまったかのようにも思える毎日です。このような時だからこそ、思い起こすべき主のメッセージがあるということを今日おぼえたいと思います。

さて、ペトロとヨハネの弟子たちが家に帰った後、マグダラのマリアは墓に残りました。
少なくともその時のペトロやヨハネの2人の弟子とは違い、彼女には世間の目を恐れるという思いはなかったのでしょう。
それよりも何よりも一番彼女の心を占めていたのは、「わたしの主が取り去られてしまった、どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。この絶望感でした。それはいわばイエスさま不在の人生であります。目の前にイエスさまがおられない。その虚しさ、せつなさ。
愛する人を亡くされてこういう辛い経験をされた方もおられるのではないでしょうか。
疫病で死に目にも会えず、葬儀もできない方々が多くおられると、お聞きしています。その喪失感、その悲しみは如何ばかりでありましょう。ほんとうに一日も早い収束を願うばかりです。

さて、そのようなマグダラのマリアは墓の外で泣きながら立ち尽くしておりましたが。やがて泣きながら、ペトロやもう一人の弟子たちがしたように、イエスさまの遺体の置いてあった墓の中をのぞくと、白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えます。マリアはそれが天使だと気づいたかどうかはわかりませんが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません』と言って何か人の気配がしたのでしょうか。後を振り向くと、イエスさまが立っておられるのが見えた。しかし、それがマリアにはイエスさまだとはわからなかった、と記されています。
なぜ彼女は、それ程までに慕い求める主イエスがおられるのに、わからなかったのでしょうか。
ここで重要なのは、マリアは生きておられる主イエスではなく、イエスさまの遺体を捜していたということであります。
そうしますと、「婦人よ、なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのか」と、復活の主イエス自らマリアに語りかけられます。
悲しみ、苦しみに囚われると神が見えません。神が共におられることも分からなくなり、ただ苦しいだけになってしまいます。しかしそれが生身の人間というものでもあります。悲しい時はほんとうに悲しい。苦しいときはほんとうに苦しいのです。マグダラのマリアもそうでした。
はじめ、マリアは復活のイエスさまを目の前にして言葉を交しても、それがイエスさまということがわかりませんでした。先に申しましたように彼女が捜していたのは生ける主イエスではなく、イエスさまの亡骸だったからです。が、その主イエスが「マリア」と呼びかけた瞬間、マリアは「ラボニ」と、答えました。

このラボニとはアラム語で「敬愛の師」いう意味です。
マリアは、その「マリア」というイエスさまのお声を日々日常の中でどんなにか聞いてきたことでしょう。
だからこそその時、それが生けるイエスさまだのお声だということが分かったというのです。
同じヨハネ福音書10章には「羊は羊飼いの声を知っているのでついて行く」とありますが。毎日聖書の御言葉、神の言に親しむことはほんとうに大切です。そうすることで、あ、これは主の御声だ、御心だ。いや、これは主の御声、御心ではない、と聴きわけることができるのです。
マグダラのマリアは、その生きておられる主イエスのお声だとわかった時、どんなに喜んだことでしょうか。
こうして歓喜に溢れたマリアは思わずイエスさまにハグしようとしたのでしょうか、主イエスに近づきます。
ところが、主イエスはそんなマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。
せっかくイエスさまだということに気づいたマリアに、何か冷たいようにも思えますが。
でも、主イエスは何も彼女を突き放されたわけでは決してありません。そうではなく、今までのようなラボニ、敬愛する師としての関係性ではなく、メシア、救い主なるイエス・キリストとして、彼女はイエスさまと向き合うことが必要だったからです。
私たちもそうです。聖書は人生のためになると、よく学ぶことは大事です。イエスさまは素晴しい先生です。しかしほんとうに大切なのはメシア、救い主なるイエス・キリストとの決定的な出会いそれこそが最も重要なのです。

主イエスはマリアに言われます。
「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
そうです。主イエス・キリストは十字架の上ですべての人に救いの道が開かれるという大いなる御業を成し遂げられました。もはやイエスさまの父なる神は、主の救いに与った者すべての父であられ、神であられるのです。
だから、イエスさまはマリアに「弟子たちにこのことを伝えよ」と言わず、「わたしの兄弟たちのところに行って伝えなさい」と言われるのです。

主イエスがマリアに出逢われたのは、マリアだけのためではなく、この喜びの知らせを、「わたしの兄弟」すなわち主の救いによって神の家族となる人たちにも告げ知らせるためでもあったのです。
イエスさまを見捨てて逃げた弟子たちも後悔や自責の念にさいなまれていたのではないでしょうか。けれども復活の主イエスは彼らをわたしの兄弟、と呼んで下さる。十字架までも、墓までもついて行ったマグダラのマリアと同様に、神の家族として招いて下さるのです。
私がどんなに失敗が多くても、弱く、浮き沈みがあるような者であったとしても、神の愛と憐みは私を超えて大きいのです。

18節、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」。
主は肉の目には見えませんが、生きておられ、信じる者といつも共におられる。
今、私たちは教会堂に集まって礼拝を行うことはできませんが、
このことは寂しくもありますけれども、私たちは確かに生ける復活の主のもとにあって神の家族とされている事を信仰によって確認することができるのです。
十字架の上で御救いを成し遂げられ、復活された主に心から感謝と讃美を捧げましょう。
今日のイースターから始まりましたお一人のあゆみが、主にどうか守られ祝されますように。

祈ります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
主なる神さま、今日、主イエス・キリストのご復活をおぼえる主の日を迎えることができ感謝いたします。復活の信仰が与えられていることは何よりも大きな希望です。
今、世界において、この日本にも大きな疫病が猛威を奮う中、教会に集まって礼拝をささげることができません。国の内外でこの疫病によって多くの尊い命が失われています。深い悲しみと嘆きのうちにあるすべての人々のうえに、あなたの御慰めと平安とを与えてください。
主よ、今私たちも日々の生活の中において、又職場においても、この疫病の脅威にさらされています。私たちにできうる感染対策に努めていきます。どうか主よ、これ以上悲しみ嘆く人たちが増えないように、あなたが守り、支えてください。私たちはすべてを創造し御手に治めておられるあなたの力に依り頼みます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アァメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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緊急のおしらせ

2020-04-06 18:26:20 | お知らせ

新型コロナウイルス感染症拡大に伴い、礼拝をはじめすべての集会を休会いたします。

 主日礼拝(毎週日曜日午前10時半)教会学校成人・幼小クラス (毎週日曜 午前9:30-10:25)
 祈祷会(毎週水曜 午前10:30-12:00  午後7:00-8:00)

再開予定日は5月17日(日)

ただし状況次第によっては休会を延長いたします。

以上

日本バプテスト大阪教会

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十字架を背負うキリスト

2020-04-05 13:46:58 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ19章17-30節 受難週

いよいよ主イエスのご受難を覚えて過ごす受難週を迎えました。
少し前の話ですが、新聞の声の欄にある方が妻を亡くした後、その妻の記した詩を見つけ投稿されていました。それは人生最後の1週間がこのように過ごせたらという願いを込めた詩でありました。そこには、厳しい病状の中で最後の1週間を有意義に過ごしたいという切実な願いが記されていました。
その詩は多くの人に感動と共感を与え、随分と話題になったようですが。私たちの命も生活も限りあるものです。詩編90編の神の人モーセの詩、祈りのところには「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」とあります。一日一日を二度と繰り返されることのない尊い日として、主の前に正しく数えることができますよう願うものです。
レント(受難節)の1ヶ月あまりイエスさまの人生の最期の1週間の記事をともに読んでまいりました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった出来事から聖書に聞いてまいります。

「ユダヤの王」
17節で「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所へ向かわれた」とあります。それは処刑場でした。
たくさんの奇跡や不思議な業をあらわされた神の子イエスさまです。ユダの裏切りも初めからご存じだったのですから、そこから逃れることも十分できたはずです。
何とかして十字架刑の苦難と死を切り抜けることもできたはずです。けれどもイエスさまは敢えてそうはなさいませんでした。それは一重に、父の神の御心に聴き従い御神の救いの業を成し遂げるためでした。
前夜ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエスさま。そこで十字架の道こそ、すべての人に救いが開かれるため成し遂げられねばならない唯一の道であり、それを父なる神は望んでおられることを確信なさり、その御心を受けとって自ら十字架を背負われたのです。
神のご計画とはいっても、それは一人の人間として、恐れや様々な葛藤や悩みの果てに、選び取られた道であったに違いありません。このお受けになるであろう苦しみと死もさることながら、イエスさまが弟子たちをこの上なく愛され、飼う者のいない羊のようにさまよう民衆をどれほどか深く憐れんでおられたことでしょうか。

さて、ローマの総督ピラトは、イエスさまの十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤの王」と、その罪状書きを掛けた。それは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれてあった」とあります。ヘブライ語はユダヤ人の言葉で、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシャ語は当時の地中海世界で広く使われていた共通語であったそうです。いわば当時のだれもが理解できるその「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」との罪状書きは、いわば全世界に向けられた、「主こそ王、神の救い」という、変わることのない真理を示すメッセージであったのです。
ユダヤの民は旧約時代からずっと来たるべきメシア、王の到来を待ち望んでいました。
この罪状書きを見たユダヤの指導者たちの心は動揺します。なぜならいくら罪状書きであろうと「ナザレのイエスがユダヤの王」などと公になることは、許されないことであったのです。そこで彼らは、ピラトに「この男はユダヤの王と自称した」と書いて下さいと嘆願するのです。しかしピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えたとあります。
無意識、無自覚であったでしょうが、ローマの総督ピラトはここで、ナザレのイエスがユダヤの王であるばかりか、世界の王、救い主、キリストであることを、世界に布告しているのです。実にここに神の摂理が示されているのです。

「神のご計画の実現」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された、来るべきメシア(救世主)がイエスさまであられることを証しています。
その1つは、18節、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが実際に起こったことを示しています。
2つ目は、23節以降、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることが実現したことを伝えているのです。
3つ目はイエスさまの死の場面の28節で、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。
ここで重要なことはイエスさまが「今や成し遂げられたことを知り」と言うのは、神のご計画の実現をご確認されたということです。その上で「渇く」と叫ばれたのです。
この「渇く」というのも詩編22編16節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という御言が実現したことを伝えているのです。が、その渇きは、イエスさまが父の神に「絶え入るばかりにあなたを慕い求める」そのお姿を描いているのです。
マタイとマルコの福音書には、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と、イエスさまが父なる神に叫ばれたと記されていますが。このヨハネの福音書はイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神さまの摂理と救いのご計画の実現であったことを伝えているのです。
 
「世の罪を取り除く神の小羊」
そして、今日の「十字架を背負われるキリスト」の中心メッセージは以下にあります。
さて、ここで兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した」とありますが、これも詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします」と記す、それはメシア、キリストの苦難によって実現されていますが。
注目したいのは、この酸いぶどう酒をイエスさまに差し出すために使われたヒソプの枝です。それは過越しの祭で用いられるものであります。
かつてイスラエルの民が囚われのエジプトから神さまによって導き出される折に、それぞれの家の鴨居に「ほふられた小羊の血」を塗ることで、滅ぼすものから守られ、災いを過ぎ越すことができたのですが。そのほふられた小羊の血はヒソプの枝に浸してから鴨居に塗られたのです。
ここでイエスさまは「ヒソプの枝に付けた海綿状のぶどう酒」を受けとられると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた、と伝えます。

このヨハネの福音書においてバプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。まさにそのとおりイエスさまは世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神さまのご計画の実現の証しであります。
十字架を背負うキリスト(救い主)こそ、世の罪を取り除く神の小羊であられます。この福音の力強いメッセージが、このヒソプの枝に表わされているのです。

今まさに、聖書の諸々の預言書をはじめ、主イエスが告知なさった出来事が現実のものとして私たちに迫ってくるようにも思えますが。このような全世界の人々が震撼する状況は、私どもにとりまして、いや全世界におきましても、過越のような時ということができるかと思います。
旧約聖書の出エジプトの災いの出来事をあたかも再びなぞるかのような事態が世界中で、この疫病に限らず様々なかたちで起っています。そういう中で、私たちはそれぞれ如何に歩んでいったらよいのかを、聖書の御言葉、殊に主イエスの言葉と行いから聞き取っていくことが必要かと思います。

先月8日の礼拝後に新型コロナウイルス蔓延の対応について教会員で意見交換をし、当面は礼拝だけは継続していくことを確認いたしました。それから1ヶ月がほぼ経ちますけれども、事態は収束するどころか益々拡大していることを憂慮します。そして皆さんもこれまでに経験したことのないような事態の中で、戦々恐々と日々の歩みをなさっておられるのではないでしょうか。
そして今、これは大阪教会のことですが。この事態の中、果たして礼拝を継続することが主の御前に正しいことかを、尋ね求め、祈ってきました。

その中で示されましたのは、シンプルに「今、イエスさまだったらどのようになさるのか」という事です。
本日のヨハネの福音書の「十字架を背負われるキリスト」のお姿はどうでしょうか。
イエスさまは自ら弟子たちをはじめ、世の人々を最後まで愛し抜かれました。
確かにここに集まって礼拝を守り続けるということは大事なことです。七日の旅路を守られ支えられた恵みと感謝をおぼえ、礼拝から新しい週が始められることは幸いなことです。けれどもそれは私たちのために神さまが信仰の励ましの場、拡がりと分かち合いの場として与えてくださったものです。礼拝堂もそうです。が、建物のため人があるのではなく、人のために建物も集会も与えられてきたのですね。
今、この緊急の事態の中でここに集まって礼拝継続することに、囚われる必要があるのだろうか?牧師としてはとても悩ましいことですが、イエス・キリストこそが、その愛における安息日の主であられる。私はそのような思いへと導かれています。

「十字架のもとで始まる新しい関係」
さて、本日のイエスさまの十字架の場面の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまとそのもとに留まり続けた女性たちのことであります。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」。
この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らは表舞台にではなくイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたのであります。
ところが、イエスさまが捕えられて主だった弟子たちは散り散りに逃げて行くのです。そのような中で、なおイエスさまの十字架のもとに留まり続け、その死の最期を見届けた女性たちの姿はひときわ存在感があります。 

苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
愛弟子とは、その時随分と年齢の若かったヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。
彼はそれ以降、イエスさまが言われたとおりに、イエスさまの母マリアを引きとって世話をした、とあります。
死の直前に自分の母親を家族や親族に託すということは一般的な事であったのでしょう。イエスさまの母マリアにもイエスさまのほかに、子どもたちもいましたから、肉親や親族に母のことをお願いすることができたはずです。
しかしイエスさまは、愛するこの弟子に母を託したのです。
聖書には、イエスさまの「兄弟がやってきてイエスのなさっていることをやめさせようとした」という記述もあります。又、イエスさまが、御自分の母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人のことである」(マタイ16章)とお答えになったともあります。
ここでイエスさまが母にその弟子をして、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われた時、この十字架のもとでキリストにある新しい人間関係が生まれたのです。それは血肉の関係、肉親の関係ではなく、十字架のキリストのもとで、この新しい関係が結び合わされるのです。
ここにキリストの教会の本質がございます。あらゆる違いを超えた神の家族としての共同体。私たち一人ひとりも又、この主イエスの十字架のもとにあって神の家族として互いを大切にし合って生きるよう招かれているということを、今日改めて思い起こしたいと思います。

最後になりますが、十字架につけられたイエスさまの身体は鞭で皮膚は裂けぼろ布のように傷だらけでした。迫る死を前にされ、苦悩と痛みをただひたすら耐え忍ばれたのです。その姿は人の目に敗北者と映ったことでしょう。しかしそれはイザヤ書53章5節に、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と預言されたとおりのことが主イエスによって成し遂げられるためであったのです。
イエスさまはキリストとして完全に勝利されました。
私たちも人生において苦しみや悩み、痛み、悲しみの時が訪れます。そのような中で、この十字架のイエスさまのお姿、その愛を知る時、深い慰めと希望を見出すことができます。なぜなら主イエス・キリストの愛は苦難と死をも超えた勝利だからです。
このキリストのうちにとどまり続け、その愛の実をぶどうの房のように結んでいくことが、今わたしたちに託されている務めなのです。
主によって贖いとられた一人ひとりが、かけがえの無い存在として大切におぼえられ、神の家族としてつながっていることに感謝しつつ、希望のイースターを共に迎えてまいりましょう。

祈ります。主よ、受難週にあって主が十字架の苦難と死を通して、この世を愛し抜かれた救いのメッセージを頂き、感謝します。今まさに、過越しといえるような出来事が起り、世界が、、又、私たちも恐れと不安の中にあります。が、どうか、主よ、あなたの愛につながって、すべての悪と災いにも打ち勝つことができるように、お守りください。
私たちの主イエスの御名によって祈ります。アァメン

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