日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

11/1宣教題・聖書のことば

2020-10-29 09:28:53 | 教会案内

11/1宣教題・聖書のことば

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神を畏れ敬え

2020-10-25 14:33:58 | メッセージ

礼拝宣教 コヘレト7・15-24 

 

7章冒頭でコヘレトは「死ぬ日は生まれる日にまさる。弔い(葬儀)の家に行くのは/酒宴(婚礼)の家に行くのにまさる。そこには人の終わりがある。命あるものよ、心せよ」とさとします。メメントモリという言葉をご存知の方もおられるでしょう。これはラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」といういましめでありますが。

この7章全体を読みますと、コヘレトは人間にとって避けることの出来ない死と罪の問題に触れていることがわかります。人は世にあってどんな良い人も悪い人も誰もが死ぬべき存在である、だから今をどう生きるかを私たちに問いかけるのです。

 

創世記2章によれば、主なる神は御自分がお造りなられた最初の人(アダム)がエデンの園でご自身とのよき関係性を保ち、平安のうちに永らえるようにと心から願われたのです。そして最初の人アダムに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」と命じられたのです。ところが人アダムはエバと一緒にその神の命じられたことを破り善悪の木の実をとって食べ、その罪のゆえに死ぬべき者となってしまった、ということです。

コヘレトは29節で次のように言います。「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」。引照付聖書には創世記3章6-7節が引照とあります。そこにあるのは誘惑の声に乗じて自分や他者、そして神さまにまで言い訳し、理屈をこねて何とか欲を満たし隠そうと画策しようとする人間の見苦しい姿です。神さまは本来まっすぐに人をお造りになられたのですが、人はその神の意に反して何につけ真っ直ぐではなくややこしいのです。それが神との関係性、人との関係性を損ねていると言えるでしょう。そのことがまさに罪なのであります。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章23節で、「罪が支払う報酬は死です」と記しました。そうした罪の行き着くところは空しさと滅びであり、神との断絶であります。

では、この人間にとって避けて通ることのできない死と罪の問題を念頭におきながら、今日の15~22節のところを丁寧に見ていきたいと思います。

 

コヘレトは言います。「この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人が悪のゆえに長らえることもある」(15節) これはこういった社会の矛盾を目の当りにしていたのでありましょう。そこには社会正義が実行されていないという嘆きと告発が根底にあるように思います。先週の箇所にも「虐げられる人と権力ある者」の話が出てまいりましたが。今日の7節の「賢者さえも、虐げられれば狂い/賄賂をもらえば理性を失う」といった事は、社会構造としても働き人の世の正しさや人としての営みをいつの時代も損なってきたのです。

 

しかし、コヘレトは驚くべきことを次に語ります。

「善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時もこないのに死んでよかろう」。これは何か書籍コーナーに置いてある啓発本や、処世術を教えているような感がありますけど。まあ、悪事をすごすな、愚かすぎるな、ということはわかりますが。それにしてもひっかかりますのは、「善人すぎる、賢すぎる」ことが、どうして「滅びる」ことになるのでしょうか?みなさんはなぜだと思いますか?

それを知るにはまず、20節の「善のみを行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない」という事実を知る必要があります。

使徒パウロもローマの信徒への手紙3章9節で「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。義人はいない、一人もいない」と記しています。

たとえ人はいくら善人、義人、賢い人と称賛されようとも、神の前にはまったく自分を正当化することができない一人の罪人、刑法・犯罪を犯すか否かに関係なく罪人であることに変わりないのです。先に申しましたように、どんなに自分を正当化しようとしてああだこうだと言ってみても、しょせん人間は複雑な考え方、様々な言い訳をしながら自分の欲を満たそうとする者に変わりないのであります。たとえ、自分で善人になろう、正しくなろう、賢くあろうとして努めたとしても、そうであればある程、自分よりも正しくない、努力もしていないと思う人が、良い報いを受けているような姿を見るなら、その報われているように思える人に対する怒りと不公平感の嫉妬が燃え上がるものです。

先日、ちょうどこのメッセージの原稿を準備していた時いらしたある方から、「天国のたとえ」についてイエスさまが話された「ぶどう園の労働者」のお話について藤木正三という牧師(大阪教会の新会堂を建築施工して頂いた藤木工務店創設者の御曹司でもあられた方)が書かれた本をご紹介頂き、パラっと目を通していました。するとそこに、まさに不公平感の嫉妬や怒りに燃える人たちの姿が記されていたのです。

このぶどう園の主人は労働者を招きます。その招いた時間帯は労働者によって違い、労働時間も各々異なるのです。そうして、主人は賃金を皆一律に1デナリオンで約束します。そうして賃金の支払いが短い労働時間の者から支払われていきます。もう仕事が終わる前の5時頃雇われた人は1デナリオンをもらいます。ところが3時からの人、お昼からの人と、同様に1デナリオンの賃金をもらいます。そして最初に雇われた人の番が来た時、その人は心ひそかに朝から一日中働いたのだから、もっともらえるに違いないと思います。ところが主人はその人にも同じ1デナリオンを支払うのです。すると1デナリオンをもらったこの人は主人に向かって、「この最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、労苦と暑さを辛抱した私たちと同じ扱いをされました」と、不平不満をもらします。このことについて藤木牧師は、「天国は恵みの論理の支配するところで、報酬の論理の支配するところではないこと」を解説されます。そして「彼らは報酬の論理に心奪われて、これだけ神さまのために一生懸命に働いたのだから天国に行けるなどと考えていた」と指摘されます。私たちクリスチャンにとって主イエス・キリストによる罪の赦しだけが「救いの道」でありますが。それが、自分の奉仕や働き、業を救いの条件のように考えるようになると、神の救いの恵みは異質なものになってしまうでしょう。そこにはおごりと高慢が生じるばかりです。さらに藤木牧師は、「しかし疑問が残るのは、なぜその支払いを最後の者からはじめたのか、最後の者からはじめて順々に最初の者に渡すように順序を逆にしたのであろうか。それは神さまの恵みを比較し、他と比べるということをまさに浮かび上がらせるためにそうした、と考えます」と言っておられます。そうですよね。私たちは人と比べ、人より善くありたい、どう評価されているかということが気になります。正しくあろう、立派であろうと、熱心に努力することは大事なことです。しかし、それが行きすぎますと人と比較し、人をさげすんだり、逆に妬みややっかみといった念が生じていくるのです。

 

ここでコヘレトは、「一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない」と言います。

この一つのことって何を言っているんでしょうか?コヘレとは単に教訓として言っているのではありません。潔癖すぎて他を排除する生き方。一つの事を追い求めるばかりで与えられている恵みや出会いに気づけない人生。「善人すぎて、賢すぎて滅びる」「悪事をすごし、愚かな生き方をして死んでしまう」。そのどちらの滅びの道をも避けるためには何が必要かを、コヘレトは語っているのであります。それこそが「神を畏れ敬う」という生き方だと言うのです。まあ今礼拝で使用している新共同訳(口語訳並びに改定版新共同訳はそこを正しく訳しています)は、ここの「神を畏れる者はどちらも得る」という訳は誤解を生じやすいといえます。正しくは、「神を畏れ敬う者は、そのいずれをも避ける」という意味です。です。すなわち神に打ち砕かれた魂、謙虚な心をもって常に生きるということであります。私たちにとりましてそれは、主イエスの罪の赦し。十字架の贖いによって与えられた恵みこそ、私の恵み、私の救いであるのだといつも確認し続け、その恵みのもと謙虚に日々歩むことに他なりません。コヘレトは、いつもたえずその時々に「神を畏れ敬え」と命じます。コヘレトはそうする時、18節にありますように、「神をかしこむ者は、このすべてから逃れ出るのである」と、口語訳でお読みしましたが、そのように罪と滅びから逃れる道について語っているのです

そしてさらにコヘレトは21節以降でこう語ります。「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても/聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ」。

これは人を無視しなさいということとは違います。人から言われることを過度に心に留めて、それに囚われるあまり自分の心を患わせないようにしなさいということであります。又逆に、あなたも自分の発した言葉によって人の心を患わせていないかどうか、ということを主の前にあって吟味することが時に必要であるということです。

 

先にイエスさまの「ぶどう園の労働者」のたとえのお話をいたしましたが。神さまがお与え下さる「天国」は恵みの論理が支配するところであります。それは神さまが一人ひとりに恵みのギフトとして与えて下さっているものであります。それを人と比較して見たところで何になるでしょう。人の言葉や考え、人の言うことにいちいち影響されてしまうことになりますと、せっかくの恵みを見失うことになりかねません。そんなもったいないことはありません。先ほどのぶどう園の労働者のたとえで、主人は不満を口にする者に対して、「あなたに与えられた分は約束どおりだ。それともわたしの気前よさを妬むのか」と言われました。主の恵みはわたしに十分なのです

 

さて、こうして罪と死を念頭に思いめぐらしてきたコヘレトは23-24節で次のように告白するに至るのです。これも口語訳でお読みします。「わたしの知恵をもってすべての事柄を試みて、『わたしは知者となろう』と言ったが、遠く及ばなかった。物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見出すことができよう」。

コヘレトが見出した人生の知恵は優れたものでありますが。しかし彼は今、そうした人生の知恵を過度に評価しようとはいたしません。彼はその知恵もまた一部分でしかないことを謙虚に認めているのです。                  

それは私たち自身一人ひとりが見出していくべき人生の課題であり、神の御前に与えられています地上のいのちと時間を如何に生きるかという問いでありましょう。

私たちは主イエス・キリストの到来によって、罪の囚われから解放され、神の義による救いの恵みに与っているのです。このことに日々謙虚にされ、主こそ畏れ敬うべきお方として歩んでまいりたいと思います。

今日のコヘレトの言葉7章を締めくくるにあたり、もう一度礼拝の始めに招詞で読まれたローマの信徒への手紙3章21節-24節を読んで宣教を閉じます。 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。

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10/25礼拝宣教題・聖句

2020-10-22 09:48:36 | 教会案内

10/25礼拝宣教題・聖句

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ひとりよりもふたりが良い

2020-10-18 13:45:45 | メッセージ

礼拝宣教 コヘレト4・1-17

本日はコヘレト4章より「ひとりよりもふたりが良い」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。この言葉は9節の「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば。その報いは良い」から採ったものですが。まあ私もこの9節以降のコヘレトの言葉を、結婚式の折にお読みしたり、お奨めの言葉とさせていただくことがあります。しかし、それは単に男女間や結婚、夫婦といった間だけに限ったものではありません。先日こういうことがありました。この9節以降の聖書の言葉と宣教題「ひとりよりもふたりがよい」と書かれたいた用紙を看板に掲示していましたら、じっと見入っておられた一人のご婦人がおられたので「この聖書のみ言葉素晴らしいでしょう」と、声をおかけしますと、その方曰く「わたしは夫を亡くしてしまったものでもう、、、」と、そう言われたのです。私も先月母を亡くしていますので、その方のお気持ちがよくわかりました。私はその方に「お寂しくなられましたね。でもいろんな方のお支えがきっとおありでしょう」答え、その上で「人は一人では生きていけませんよね。だれかの支えがあってこそ、今、生きることができていますよね」と申しましたら、その方は「そのように考えますと、そうですね」と笑顔で答えられ、天王寺駅の方へと向かっていかれました。私の心も、何かさわやかな気持ちにされた出来事でしたが。

それでは、このコヘレトの言葉4章を少し丁寧に読んでいきましょう。まず冒頭1節に「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を」とあります。その社会を見渡した時、まずコヘレトの眼に映ったのは、虐げられている人間の姿でありました。これは「主イエスが、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた折、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」、主イエスの眼差しと重なってまいります。人の世で起こってくる虐げは古今東西どの時代然り、今私たちが生きるこの時代におきましても、絶えず繰り返されています。そして社会と人の無関心がそれを助長し、孤立する人、苦しみ倦みつかれている人の心を捉えていたのが2節-3節の「既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」との当時流行りの諺であったようです。しかし、コヘレトはこの刹那的な考えを支持しているわけではなく、このなにかと生きづらいような社会に神の義と平和が立てられていくことを強く願っていたのです。コヘレトは確かに裕福な生活者でした。しかし彼は力ある者に虐げられる人たちの涙に目が留まるのです。彼は伝道者である前に、まず神の前に立つ一人の人間でした。虐げられている人も又、自分と同じ人間であるということを創造主であられる神の御前で常に自覚していた。神の作品として造られただれもが、人としての尊厳が損なわれることのない社会、シャローム(平和)の実現を熱望し、神の義と平和が建て上げられていくこと祈り求めるコヘレト。しかしコヘレトと同様裕福な生活状況にあった人たちの中には、このコヘレトの発する言葉、いわば告発が自分たちに苦々しいものと感じ、その地位や立場すら揺るがしかねないものだと考えて彼をあざけり、非難していたようであります。                       

「嫉妬」~まあ、このような力ある人たちのことをも頭に置きながら、コヘレトは4節で次のように語ります。「人間が才知を尽くしても労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということが分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」。口語訳では「わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いに妬みあってなすものである」とあります。強い洞察力だと感心します。人はもう物心ついた子どもの頃から、そういった感情を持っているし、そこから自由になれないのです。ここでまずコヘレトは、人間の奥底に潜む「嫉妬心」を取り上げます。妬みや嫉妬から生まれるエネルギーは非常に強いものです。それは個々人ばかりか集団に働くと党派心や排他的差別となって社会までも悪い方に変えてしまいます。私たちが生きる社会の至る所でそういった力関係が働いていることを見るわけですが。いずれにしろ嫉妬心からは何も生まれません。それどころか他者を傷つけ、自分をもいやしめることになってしまいます。そこから解き放たれる道はコヘレトのように、この社会に神の義と平和が実現されるように切に願い祈り求め、又努めることをおいてほかにありません。                            

「忙しなさ」~コヘレトはさらに人間が人間性を失う時に陥りやすい「忙(せわ)しなさ」を取り上げます。よく仕事や家事に忙殺されるとか言いますけれど。「忙」は心を亡くすと漢字で書きます。私たちも時に日々の生活でそれを実感しているのではないでしょうか。先の人間の嫉妬心によって競争が生じ、多忙さに心を失ってしまう人の生活。そのことを踏まえたうえでコヘレトは次のように言いました。6節「片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ」。天地創造の神は創世記にありますように、私たち人間が労働によって糧を得るように定められました。けれども休む間もなく働き続けるようにとはおっしゃいません。むしろ週に一度安息するようにお命じになったのです。神は人に労働の報いとして「休み」「憩い」の時をもつように促しておられるのです。神の安息日がそれでありますが。神を信じる私たちにとりまして週に一度、主イエス・キリストの贖いによりゆるしと和解の喜びと真の安息を得るのであります。その神の恵みによって私たちの魂は健全なものされ、新たな週を歩み続けることができるのです。この主の日によって忙しい者も忙殺され自分を見失う事から解放されるのです。今年は新型コロナウイルスによる感染拡大により世界中、この日本も、そして私たちの生活も一変してしまいました。それに伴い確かに厳しい生活を余儀なくされている人が増加しているのは憂うべき事であります。ただ、このコロナ禍によって現代に生きる私たちは「忙しすぎた」ということに気づかされたように思います。この強制的ともいえるようなストップがかからなければ、私たちはそのことに気づきもせず、多忙でいつも苛立ち、両手を満たしてまだ満足できない毎日を繰り返し、果ては人間らしい生き方や生活をも損う事態になっていったのではないでしょうか。私自身このコロナ禍を通して気づかされたことが本当にたくさんありました。教会で礼拝を捧げることが当たり前のように考えていた。それが見事に崩れました。当たり前じゃなかったのです。主なる神さまの前に兄弟姉妹と集いたくても集うことができないというのはどんなに寂しく苦しいことかを思い知らされました。けれどもそこで神さまとの一対一の交わり、お一人お一人との主にあるつながりの尊さにあらためて気づかされました。主なる神を共に礼拝できることは当たり前のことではなく「神が与えてくださったかけがえのない時」、まさに先週のコヘレト3章にあった時、カイロスなんですね。教会ではこれまで行って来た様々な諸集会もストップし、奉仕者もそれが可能な方々でまずは礼拝を捧げてまいりました。私はそれらのことを通して、もう一度、主が私たちにとって何が大切で、何が必要かということを少しずつ気づかせてくださっているように思えるのです。        

「孤立」~コヘレトはさらに人間の心の内に潜在する「孤独」について取り上げます。8節「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限なく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのかと思いもしない。これまた空しく。不幸なことだ」。コヘレトはここで、休む間もなく働き続け、ひたすら富を蓄える人を見ています。ワーカーホリックと言うのでしょうか。いわゆる仕事中毒でしょう。この人は友息子も兄弟もないとありますが。実際にいないというより、いてもいないのと同然に自分の事だけ、仕事で蓄えることだけに執着していたということでしょう。   

「ひとりよりふたりが良い」~そこで、コヘレトがこうした孤独な人間に対して語りますのが9-10節の次の言葉であります。「ひとりよりはふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れてれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のいない人は不幸だ」。        ここでコヘレトは人の交わり、人の関わりの大切さを語っています。神は人間が孤独であることを望まれません。神は最初の人アダムに「人がひとりでいるのは良くない」と言われたとおりです。なぜならそこには「慰める者」がいないから、良くないのです。コヘレトは「ひとりよりもふたりが良い」と言い、又「共に労苦すればその報いは良い」と言います。それは労苦で得た報酬だけではなく、共に労したというお金では計れない人としての喜びが伴うからです。「倒れても起こしてくれる友」。寒風が吹くような寒々しい厳しい状況も互いに励まし合える友がいる幸い。又、思いがけない攻撃を受ける折も友がいる心強さ。「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。しかし、そこでふと気づきます。なぜ二つよりでなく三つよりなんでしょう?ふたりでこれに対するのに、なぜ三つよりの糸なんでしょう?不思議な気がします。この「三つよりの糸(綱)」については古来の諺ではないかとも言われているそうですが。いずれにしてもコヘレトはこのふたりにさらにひとりの友が加わり、縒(よ)り合わされることによって強く切れにくくなると言うのです。ここには見えない、隠れているその3人目の友は、主なる神と考えることができるでしょう。

「真の慰め主(ぬし)」~私たち新約の時代に生きる者にとりましては、まさに神の御独り子であられるイエス・キリストが人の姿となって世にお降りになられ、ひとりでは決して生きられない私たち人間の真の友、3人目の友となってくださった。この心強さ、うれしさであります。それだけではありません。主イエスの御業を通して降られた御聖霊は目には見えませんが慰め主として教会(エクレシア)を誕生させます。そのことによって世界中の誰もが神の家族として招かれるようになるのです。この神の愛とご聖霊を受け、主にある交わりを築いていくなら、罪に滅びゆくばかりの空しい人生が、主と共なる人生、実りある人生へと変えられていきます。又、御聖霊は様々な人との出会いを興され、他者との関り、肉親でもないけれど、とりなし祈り、覚え、ねぎらう主イエスにある交わりを興されます。時にすれ違いや意見の違いがあったとしても、御言葉の奨めに聞き、謙虚にされ、ゆるしゆるされる交わりを興こされます。ここに主を信じる一人ひとり、又その群れの大いなる慰めがございます。

「主の顧みを信じて」~最後に13‐16節をお読みします。「貧しくとも利口な少年の方が/老いて愚かななり/忠告を受け入れなくなった王よりも良い。捕らわれの身分に生まれても王となる者があり/王家に生まれながら、卑しくなる者がる。太陽の下、命あるもの皆が/代わって立ったこの少年に見方するのをわたしは見た。民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はいない。これまた空しく、風を追うようなことだ」。ここに一人の少年が登場します。特別な教育を受けたわけでも、何か後楯があったわけでもありませんが、神の知恵と霊に満たされて立ったこの少年を民衆は王として喜び迎えます。おそらくヨセフのことがコヘレトのうちにあったのかも知れません。しかし時代が変わると民衆は気まぐれで、その王について喜び祝う者はいないのです。そしてこのコヘレトの言葉が編纂された時代から200数十年後、神の御独り子が人間の姿となってお生まれになられました。この御独り子は貧しく、虐げられ、捕らわれた者たちと共に歩まれます。神の霊と神のご計画の知恵に満たされ世にご自身を現されます。しかし、その十字架の無残な死はだれからも理解されず、それを喜び祝う者はいません。ところがまさに、その御独り子の十字架こそ全人類すべての罪をゆるし贖う、神との和解をもたらすための主の御業であったのです。貧しき少年であった主イエスは世界の王・メシヤ、救い主(ぬし)・キリストとなられたのです。私たちはこの真の王であり、真の友であられる主イエスの前にただ罪を告白し、その御救いに与って御言葉に生きる時、まさに三つより糸のように切れにくく確かな人の歩みと変えられていくのです。この地上の人生において、私たちの主との交わり、主にある友との交わりを大切に生き、共に祈り、労苦をねぎらい、心温め合う日々はすべて主が顧み、覚えてくださる。それは決して忘れられることはありません。一日一日を主の恵みの日、救いの日として私たちも共に歩んでまいりましょう。

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今週のことば

2020-10-18 07:49:15 | 教会案内

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今この時を、如何に生きるか

2020-10-11 14:19:09 | メッセージ

本日はコヘレト3章の御言葉を聞いていきたいと思います。「神のなさることは皆その時にかなって美しい」。これは3章節11節の口語訳ですが。この聖句は多くの人に愛され、おぼえられてきた御言葉ではないかと思います。はかなく、苦悩多き人生に沁み込んでくるような御言葉の極意には後ほどお話しいたしますこととしまして。

☆「すべてに時がある」まずこの3章14節にこのコヘレトの言葉が書かれた目的についてこう記されています。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」。口語訳聖書では「神がこのようになされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである」。それは最終12章13節でコヘレトが「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、戒めを守れ。』」という命令形で締めくくられています。神を畏れ敬うことこそ人が真に人として生きる知恵のはじまりであり、そこに何者も奪うことのできない本物の幸いがあるのです。

冒頭1節「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とありますが。これは口語訳聖書では「天の下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」と訳されております。「天の下」ですから、すべ統めておられる神のもとですべての業ということですから、その業を成したもう神が時をつくられたということで、その主体は神だということが示されているのです。それは又、17節で「すべての出来事には、定められた時がある」と、口語訳では「神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と、明確に神が時を定められる主体であるということを示しています。ところで今はどうかわかりませんが、クロノスという時計のメーカーがあったかと思いますが。クロノスは時という意味ですが。そのように時といえば時間であり私たちはその時間ともすれば秒刻みで動いているわけですが。けれど聖書には二つ「時」の概念がありまして、一つは時計の針のように流れゆく時間、クロノスですね。そしてもう一つは、その流れゆく時間軸に切り込んでくる「神の時」があるということです。これをギリシャ語で、「カイロス」と申します。今日のところに記されています「時」はみなカイロス、人や時代の時間軸に切り込んで来る神の時を言い表しているのです。                        

2節から8節には、私たちの生の全領域において起こる出来事が記されていますが。人の「生まれる時、死ぬ時」、人生の初めと終わりです。これはすべての人に例外なく臨む人にとって最も大きな出来事といえます。生命の誕生は人間の能力を超越した神秘であり、神の御業としか言い得ません。2019年の統計では地球上に77億人以上存在するという人類の中で、遺伝子や細胞が全く同じ人という人はだれ一人いません。まさに人は神の作品であり、生まれて来る時は神が造られた時なのです。

先週水曜日の祈祷会には昨年末、そして先月の9月に近しい家族を亡くした私含め5人も出席する中、この3章のコヘレトの言葉を読んだのでありますが。ほんとうにこの死の時は人間の力の及ばない領域であるということを思うわけであります。たとい治療が功を奏して少しは生き延びることができたとしても、人には寿命が定められていることに変わりありません。また、いつどうなるか人には分からないのです。「植える時、植えたものを抜く時」とありますが。植えつけと刈り入れの時期は農夫によって定められているように、人の生涯の初めと終わりの時を神がお定めになるのです。3-4節には「殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、躍る時」と記されています。「殺す時」とか「破壊する時」などと聞きますとドキっとしますけれど、残念なことに人の世には争いが絶えません。大なり小なり争いごとで人は泣き、また嘆きます。そういうある意味、悲観的、悲劇といえるような時がある一方で、まるでコインの表と裏のように「癒す時」「建てる時」「笑う時」「踊る時」と、神によって「時」が定められているということであります。5-8節にも「抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」と続きます。人のその折々の心情感情までも神の時によって人に生じるのであり、そうして人は生きていくのです。             

さて、この「コヘレトの言葉」は口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきましたが。ギリシャ語訳聖書では、エクレシア(教会)に由来する題になっています。英訳聖書にはコヘレトの言葉という表記はございません。「ECCLESIASTES(エクレシアステーツ)」との表記がなされ、それは「神に呼び集められ者の書」とでも言ったらよいのでしょうか。先週触れましたようにこの書が編集されたのは紀元前3世紀末頃といわれており、エルサレム神殿の崩壊、捕囚という辛い経験を経て、さらに捕囚からの解放とエルサレムへの帰還と第二神殿再建、ペルシャ文明の影響、さらにヘレニズム時代のギリシャの繁栄した文化の風習が押し寄せ蔓延していく時代の流れの中で、ユダヤの民ら神の民として如何にこの時代を生きるか。そういう事が問われた時代であったということであります。それはかつてイスラエルの統一王国の王として栄華を極めたソロモンが如何に思いめぐらし、何を見出したか、という事の中に、神の民として生きる知恵と教えを彼らも又見出そうとしたんですね。2節~8節に記されたごとく、壊され散らされ追いやられた時代、そして再び集められ建てられた時を自らに重ねつつ、ユダヤの民は集会においてこのコヘレトの書から、14節にありますとおり、時代や社会は変わろうとも、決して変わることのない真理、神を畏れ敬って生きることの重要性を、このコヘレトの言葉から聞いていったのではないでしょうか。                                   

ユダヤではある一つの慣習があるという話を知りました。それは婚礼のセレモニーで、祝いのワイングラスを床に叩きつけて割る、というものです。それは紀元70年にエルサレム第二神殿が崩壊したその悲痛を決して忘れないということなんですね。婚礼という最も喜ばしい祝福もまた、ユダヤの民の苦難の歴史の上にある。その想起と祈りが婚礼の折も、込められているという事です。いわば一番自分たちが倖せな時、民族として最も不幸であった時の事を心に刻みつける。この慣習の中に、時に流されず、時と向き合って生きるユダヤの人びとの姿を垣間見る思いがいたしますが。そこにはユダヤの人々が、神の時を常におぼえつつ謙虚に、神の民として生きていくようにという強い願いと祈りが込められているように感じます。

聖書に戻りますが、コヘレトは12‐13節で次のように言います。「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」。私たちが人生を労苦によって得たもので楽しんだり、飲み食いして満足することは「神の賜物」だ、と肯定されているのはうれしい気がします。同時に、私たちの日常の飲み食いといった普通に小さく思える事や出来事の中にも、主なる神さまのご意志が働いていることを忘れてはならないと、戒められているようにも思います。                    

続く14節には「すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない。神は人間が神を畏れ敬うように定められた」とありますように、神の存在とその働きを知らない、あるいは知ろうとしない人生の空しさは、「空の空、いっさいは空しい」ものでしかありません。しかし、いっさいが創造主なる神の御手のうちにあり、その神との関係を築いて生きることができるなら、私たちの人生は大きく変わります。

16-17節「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。ここでコヘレトは人間の根源的な罪の問題をとりあげます。この時代が創造主を否定し、不正と不義を働く勢力と偶像礼拝がはびこっていた時代であったことが、読み取れます。コヘレトは真の義であられるお方による裁きの時が必ず来る、正しい者も悪人も、その大いなる主なる神の玉座の前で裁かれることになる、であるから「神を畏れ、敬い生きよ」と、語ります。いわばここまでがコヘレトの教えと戒めなのであります。

☆「神のなさることは皆その時にかなって美しい」しかし、それから約200数十年後。神は全人類に向けた決定的なご介入、「神の時」をもたらされます。神はすべての人に救いが開かれるために御独り子、イエス・キリストをお遣わしになられたのです。まさに神の義と愛による救いと裁きの「時は満ちた」のであります。それは人の姿となってお生まれくださった神の御子イエス・キリストの誕生の「時」であり、神の国の宣教開始の「時」であり、私たち人間の罪の身代わりに十字架におかかりになって罪を贖い死なれた「時」でした。それをイエスさまは「わたしの時」と仰いました。さらに神はその御子イエス・キリストを三日の後に死よりよみがえらせてくださったのです。今日の3章2-8節には「殺し、癒し、破壊し、建て、泣き、笑い、嘆き、踊る」に時とありますが。まさに予期せずしてそれらのコヘレトの言葉、出来事が、主イエス・キリストにおいて全人類の救いの出来事として実現していくのであります。それは私の罪がキリストを十字架につけて「殺し」、その打たれた傷によって私を「癒し」、古き自我は「壊され」、神のもと「建てられ」、「泣く」者が「笑う」者に、「嘆く」者が「踊る」者に変えられていく神の業が顕される時となるのです。

私たちを取り巻く神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であると考えます。自分が今生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然。それは空の空、いっさいが空しいばかりの人生です。しかしコヘレトは伝えます。「すべてに神の時があるのだ」と。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であると。そして遂に「時は満ちて」、天地万物を司られる主なる神さまは御独り子、イエス・キリストを人類の救い主としてお遣わしになり、主は空しき滅びより救われるいのち道を切り拓いて下さったのです。3章11節「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」、口語訳「神のなさることは皆その時にかなって美しい」との御言葉がまさに実現されるのです。今日は礼拝の招詞として、主イエスが福音を世に伝えるに最初に発せられたマルコ福音書1章14-15節の御言葉が読まれました。そこをもう一度お読みします。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。悔い改めて神の救いの福音を信じるということは、神の裁きの前に立ち得ない罪の私に、神の側から近づいてくださった今この時、その神の愛と救いを受け入れるということです。すでに主の愛と救いを受け入れ、バプテスマ(洗礼)の恵みに与った人も、その主のゆえに日ごとに主を畏れ敬い、日ごとに生ける神さまとの関係を保つ人の魂に、神さまは心からの賛美と感謝、聖霊の喜びを溢れさせてくださるのです。今日というこの日も決して偶然ではありません。この礼拝に招かれ、導かれましたことも偶然ではありません。偶然ではない神の必然、今日は救いの日、恵みの日です。「あなたは今この時を、如何に生きますか」。今日の御言葉から受け取ってまいりましょう。                 

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10/11教会看板「今週のことば」

2020-10-11 09:34:52 | 教会案内

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教会看板 9月4日 今週の言葉

2020-10-04 19:58:19 | 教会案内

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空の空、いっさいは空しい

2020-10-04 14:38:11 | メッセージ

主日礼拝宣教 コヘレトの言葉1章 

 

本日より約二か月間、コヘレトの言葉より御言葉を聞いていきます。口語訳聖書では、伝道の書となっておりますが。それはコヘレトというヘブライ語には「集める」という意味をもつことから、集会を招集して語る人、伝道の書となったという説があります。又、この書には「知恵」や「格言」がたくさんありますように、それらを「集め」て記録し、編集する人という意味だという説もあります。いずれにしましても、こうした信仰の先人の知恵に与ることができるのは、「人の子らを集め」霊によるさとしを与えて下さる神に感謝して、学びを深め、信仰に生きる道を歩むうえで有意義なことであります。

1節の冒頭「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」、又12節の「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」という記述から、作者は一世を風靡し栄華を極めたソロモン王かと考えることもできますが。聖書学者らの研究によれば、ソロモン王の時代からさらに700年後のギリシャ、ヘレニズム時代の影響下にユダヤ、イスラエルの民がおかれていた中で編集がなされたということであります。

ソロモン王は即位して間もなく神から、「あなたに何を与えようか、願え」と言われ、富や誉ではなく「民を正しく裁くための知恵」を求めました。それは神の御心に適い知恵とともに富も誉も受け、イスラエルの統一王国の時代に栄耀栄華を極めます。

しかしその一方で、自分が得た知恵と知識、経験をもってしても制御することのできないこと、理解も及ばず悟り得ないことがあることを知るに至るのです。いわゆる因果応報律では解決し得えない事ども、殊に不慮の禍や死があり、栄華を極めても自分の命さえどうすることもできず、やがて消え去ってゆく存在にすぎない。彼はそんな人の世のはかなさ、人生の空しさを知るのです。

先ほど申しましたそのソロモン王から700年後のコヘレトの言葉が編纂されたと言われるギリシャ・ヘレニズムの時代は、言語、文化、経済、学問などが新たに栄え、その後の多くの学者、芸術家、哲学者、科学者を輩出する西欧文明の土台となります。特に通商においては世界中の国から貴重な金をはじめ、特産物を輸入して繁栄しました。

ところが、そういった統治や社会から取り残される人も少なくなかったようであります。そして多くの人々は女神や偶像崇拝に傾斜し、自我の欲求や不老不死を求める神無き時代となっていくのです。

そういった今日の世界にも共通する時代背景があったことを踏まえてこのコヘレト1章を読みますと、より一層その言葉の深みを味わうことができるかと思うわけですが。

このコヘレトの言葉1章の中で最もよく知られている言葉は、2節の「なんという空しさ/何という空しさ、すべては空しい」、口語訳聖書では「空の空、空の空、いっさいは空である」というものです。この空とは、文字どおり空虚で、空しいということです。

その空しさむなしについてコヘレトは3節で「太陽の下、人は苦労するが/すべての労苦も何になろう」と語ります。口語訳ではちょっと違いまして「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」となっています。

この当時から社会生活に経済という概念があって、苦労が損得で計られていたというのが商人の街大阪人としては興味をそそるところかも知れませんが。まあ、働いても利益にならないとなれば大変なことです。が、ここで問うていますのは、人が苦労して働いていくら利益を得たとしても、人はいつ何が起こるかわからない。どんなに人に認められても、野の草花が、やがてしぼみ枯れてしまうように、地上を去ればもはや意味なく、その名も忘れ去られてしまう。「空の空、いっさいは空しい」と、コヘレトの言葉は伝えます。

4節以降には、世代は去り、また別の世代がやってくる。太陽は昇り、また沈む。風は南に向かい北へ巡り、再びもとに巡りくる。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、その出て来た所に帰っていく、と。コヘレトは、確かに人間を見る限り、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と言うのです。

あの平家物語には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久からずただ春の世のごとし、猛き者も遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」と、あります。古典の授業で学生の頃、暗唱させられた方もおられるかと思いますが。

「祇園精舍の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。(沙羅双樹の花は、仏教では釈尊が生まれたインドに生息し、5~7月に枝の先端に白やクリーム色の小さな花を咲かせ、ジャスミンのような香りがする)。どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしているそうです」。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。又、勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである」。そのように解説されておりますが。不思議ですよね。聖書の中にも共通した言葉をいくつも見出せますね。現代もコヘレトの言葉のように世代はめぐりつつも、繰り返し物事は起こってくる。新しいものは何ひとつない。コロナ禍の騒動も実は人類がすでに形の違いはありましても、繰り返し経験してきたことではないでしょうか。

さて、聖書に戻りますが。コヘレトは13節のところで、「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ」と言います。

これはコヘレトの言葉を読み解く上で重要な足がかりとなる言葉になるかと思います。ここに、初めて「神」の御名が出てまいります。コヘレト12章の全体に神の御名がざっと数えても35回は出てまいりますが、その最初に登場する「神」の御名です。大事な点は、このコヘレトは神の御名を知る者として、神との関係を日々築いてきたのです。つまり、彼が「空の空、いっさいは空しい」と言ったことも、この地上でおこるすべての不条理又、理不尽とも思えることさえも、天地創造の主であられる生ける神がすべ統め、御手のうちにおかれているとの確信のうえに語られているのです。まさにこれが平家物語のいわゆる無常感と大きく異なるところではないでしょうか。確かにこの地上に生きる限り、私たちは有限的存在であります。世にあって私たちの内外には闘いや苦労、様々な課題は尽きません。又、釈尊が人生には四苦八苦があると説いたように、悩みや苦しみもやってきます。家族や親しい者との地上での別れ、様々な出来事が起こってまいります。

けれども、絶対的御意志をもってお働きになられる生ける神を知るか否かで、全くその人生観、又日々の生き方も異なってくるでしょう。その真の愛と憐れみの神が私と共にいてくださることを確信できるとしたなら、何にも代え難い大きな慰め、大きな支えになるでしょうか。ギリシャ・ヘレニズムの異教の神なき世界において、物質的な繁栄を追い求める人々、又、神ならざる空しいものを神と崇め、そこにより頼もうとしている人々に、真の救いと慈愛の神を証し、伝える務めはある意味、骨折り、徒労のような働きであったといえるのかも知れません。

そして神は「つらいことを人の子らの務めとなさった」とつぶやくこのコヘレトの言葉から約300年後、滅びるばかりの人の世に、遂に神御自身が救いの御業を成し遂げてくださったのです。それは御独り子、イエス・キリストを世の人々の罪を贖う救い主として遣わしてくださることによってであります。まさに、神の御独り子、主イエス・キリストなる神が、人の子らに骨折らせられる苦しい業、自ら人となって知って下さり、神の愛と憐れみをもって救いの道を拓いて下さったのです。でありますから、私たちキリストを信じる者は、困難や苦しみや悲しみの中でさえ、神の救いを仰ぎ見るとき、ただ空しく思えた人生に喜びの歌と希望が生まれるのです。

本日は「空の空、いっさいは空しい」と題し、御言葉を聞いてきました。もし神無き世界であったなら、本当に私たちの生、人生とは何でしょうか。なんと空しく、なんと虚無といえるでしょう。世の中では悲しい残念なニュースが連日のように伝えられています。

先日、大阪キリスト教連合会の会合があった折、ある神父さんがこのようなことを仰っていました。「パンデミックのときを考えつつ、苦しみの人々が多い、人々はでも考えている、何が人生の中で一番大切なのかを。それは礼拝と日常のときをつなぐ神との関係の大切さを、又隣人や他者との関係を大切にもつことを。神にゆだねて主イエスに従う。シンプルに生きることを」と、その言葉が心に留まりました。又、もう一人の牧師の方が「コロナ禍前から教会を休んでおられた方が、コロナ病棟で勤務する中、死と向き合うと信仰を考えざるを得なくなり、礼拝に帰って来た。その方は『教会で祈っている姿や自分のために祈ってくださっている教会の方々の姿が思い出した』と仰っていたのです。礼拝に来れないということで信仰が無くなったということではない」と、そう言っておられました。

まあ、現在も様々なかたちで感染対策の工夫をしつつ、私たちも又この礼拝の場が祈りの家、主の家であり続けていきたいと切に願います。心が折れそうになるとき、無力感に打ちひしがれるとき、失望するとき、空しく思えるときがたとえありましても、神は生きておられ、愛と憐れみの主が共におられることを確認し、私たちも共に祈り続ける主の交わりを保ち、キリストのからだなる教会とされてまいりたいと願います。今週も主の道を共々にしっかりと歩んでまいりましょう。

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