日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の子の叫び

2021-03-28 16:15:28 | メッセージ

 

クリスマスローズ

花言葉:追憶・慰め・わたしを忘れないでー長居公園植物園

 

 

礼拝宣教 マタイ27・45-56 受難週 

宣教音声⇒https://drive.google.com/file/d/14A3j4NvjsHF-xK4d_xBPhiNk5Ue0hDaT/view?usp=dri vesdk

 

今日から受難週に入りました。本日は教会歴で棕櫚(しゅろ)の主日とか、パームサンデーと呼ばれる、主イエスのエルサレム入城を覚える日でもあります。ここから始まる主イエスの十字架の苦難とそこに現される神の愛をこの一週間共に覚えてまいりましょう。

本日は、主イエスが十字架にかかって大声で叫んで息を引き取られた記事から、「神の子の叫び」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

聖書は、主イエスが十字架にかけられてから「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」とあります。お昼というのに全地が暗闇に覆われた。それはユダヤの地だけを指すのではなく、全地、いわば全世界を表す言葉が用いられています。―全世界が暗闇に覆われたー。

今、全世界はコロナ禍や相次ぐ災害、経済の混迷などからくる恐れや不安の中で多くの人が、「昼というのに暗闇に覆われている」、そのような感覚に捕らわれておられるのではないでしょうか。実際生活の困難や生きづらさにうめく人が日増しに増えています。

そのような中、先日ミャンマーにおいて、家まで押し入ってきた軍の銃弾によって父親の膝にのっていた何の罪もない7歳の女の子が亡くなったという痛ましい報道がありました。分断や不当な暴力や搾取といった闇が世界を覆っているような気がいたします。

 

旧約聖書の預言者アモスは「その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」(8章9節)と語り、それはメシア(救世主)の救いの完成に際しての現象と伝えているのです。具体的にそれは、神の子であるイエス・キリストが十字架にかけられ、その苦難と死という闇を通って実現されるということであります。

主イエスは3時ごろ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)、と十字架から大声で叫ばれました。

この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスが絶叫された事を取りあげ、「神の子ならあんな無残な死に方をするはずはない」とか。「十字架で見捨てられ敗北者となったのだからメシアではない」と、この十字架につまづく人たちが古今東西いるわけです。

それはイザヤ書53章4節に「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」あるとおりです。けれども続く5節には「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。まさにこの主イエスの十字架にこそ神の救いのご計画があるのです。

 

ただ、それにしても主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにったのですか」と、絶叫なさったのはなぜでしょう。

まずわかるのは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどに苦しみ痛まれたということです。拷問を受け、茨の冠を押しつけられ、ひきずり回されながら十字架を担ぎ、釘で手足を打ち付けられて磔にされる主イエス。

そこには、私たちの苦しみや痛みを御自身が体験なさるというまさに神のお姿、神共にましますという愛を体現なされているのであります。

 

ここで主イエスの「エリ、エリ」という叫びを聞いた人々は、エリヤを呼んでいると言う者もおり、その一人が「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それは主イエスの痛みを和らげるという同情からではなく、主イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたのです。

けれども主イエスはそれを受け取られなかったのです。その痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、そして遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。しかもそれは、「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。主イエスはとことんまで私たち人間のもっとも深いところで、「なぜですか」という以外ない苦悩をも共に負って十字架におかかりになったのです。

この主イエスの十字架上の叫びは、私たちのなぜなのか、どうしてなのかといった深い苦悩や痛み、又、不条理ともいえるような死までもご自身共にされるのです。まさにインマヌエル、神が共にいたもうここに私たちの救いがあるのですね。

 

主イエスがそのように息を引き取られた後、63節「そのとき(原語では「そして見よ」と感嘆詞)、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とあります。

「神殿の垂れ幕」は、ユダヤ人、ユダヤ教徒にとりましては大変大事な聖所と至聖所とを仕切るもので、一年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、ユダヤの民のために贖罪のとりなしの務めをささげました。神殿は女性、こどもは前庭まで、男性は少し奥まで。たとえ特別な立場の人でも至聖所に入ることはできません。異邦人に至っては神殿の隔ての壁の外までです。垂れ幕は見る事さえできなかったのです。

ところが、主イエスが十字架上で絶叫なさって壮絶な死を遂げられた後、この隔ての垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。

それはまさに、新しい時代の幕開けでした。主イエスの十字架の贖いによって、ユダヤ人だけでなく、世界のすべての人、異邦人も男も女も、こどもであっても分け隔てなく、罪のきよめと救いの御座に近づく道が開かれたのです。

 

そのことについてはヘブライ人への手紙に幾つかのことが記されています。

9章11-12節「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。

10章19-20節「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」とあります。

そのように、主イエスの十字架の贖いの死を通して、全世界のすべての人が求めるならば、だれであれ主の深い御憐れみによって神のおられる聖所に入り、罪贖われた人として日毎に新しい人生を歩むことができるのです。

 

さて、今日のところではさらに、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」という不思議な出来事が起こります。

主イエスの十字架刑を実際に執行したローマの百人隊長と兵士たちは、地震やそれらのいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言ったとあります。

この恐れとは、「本当に神の子であった主イエスを十字架にかけて殺害した」という恐れでありましょう。神を恐れず人を人とも思わないローマ兵に神への恐れを起こし、救いに招かれる主イエス。これこそ神の御業なんです。

 

聖書にはまた、「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」とあります。この女性たちはガリラヤからずっと主イエスに従って来て、主イエスと弟子たちの世話をしてきたのです。

彼女たちは至聖所に入ることなど許されていなかったのです。しかし、彼女たちこそ主イエスの苦しみを自らのものとして苦しみ、泣き叫び、後には主イエスの復活の喜びと救いの恵みに与り、主イエスの救いの証言者へと立てられていく、神の前に幸いな人とされていくのです。

 

本日は、主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで最期を遂げられた、「神の子の叫び」を思う大切な時を与えられました。主イエスが十字架上で絶叫されながら最期を遂げられたお姿は、このわたしのためであった。わたしたちのためであった。その神の愛の叫びであった。そのことを深く知らされました。

 

先日ある大阪市内のプロテスタントの教会をお訪ねする機会がありました。礼拝堂の正面にはわたしたちの教会と同様十字架があるのですが。その教会の十字架にはイエス・キリストが磔にされたままの状態でした。それは東方教会の礼拝堂や聖壇を取り入れておられるということでした。キリストの弟子たちの肖像画入りの聖具類もあります。

牧師がおっしゃるには、「神の救いを伝えるのは御言葉の宣教という仕方だけでなく、キリストとその弟子たちのお姿を目で見て、身近に感じられることが大切だなあと思う。

それについては東方教会から学ぶことが多い」ということでした。「特に言葉で理解することの難しい方には、十字架に磔にされたままのイエス・キリスト、又、その弟子たちの肖像をモチーフにした聖具に触れることを通して、ダイレクトに神と出会い、神を拝し、安らぎとなっている」ともおっしゃっていました。

プロテスタントの教会は神の御言の宣教を大切にしてきました。どこかそういった絵や肖像を偶像とならないように排除してきたてらいがあると思うのですが。確かに心疲れ、じっくりと説教を聞くことさえしんどい時、十字架に磔にされたままでいらっしゃる神の子、イエス・キリストを見ると、神が私と共にいてくださる!共に叫んでくださる!そう信仰を呼び覚まされることもあるでしょう。

私たちの礼拝堂の十字架には、目に見えるところでのイエス・キリストは磔にされていませんが。しかし私たちは日々、私たちを救う神が、私たちの罪のため、私を贖われ、ゆるすため、今も十字架につけられ給いしままなるお姿で叫び、とりなしておられることを心に刻みいと願います。

神の愛を知る人の悔い改めと砕かれた心は、何にも優る神への捧げものであることを覚えつつ、今週もここから歩み出してまいりましょう。

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2021年3月28日(受難週)主日礼拝のお知らせ

2021-03-25 07:48:55 | 教会案内

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主イエスは共に

2021-03-21 20:17:22 | メッセージ

 ネモフィラ(長居公園植物園より)

礼拝宣教 マタイ26章36-46節 受難節Ⅴ

宣教音声 https://drive.google.com/file/d/1M_ZoeVH0ePuFA1Rx-lGMBzXw531aFjB_/view?usp=drivesdk

 

「主イエスの祈り」

イエスさまは弟子たちと一緒にエルサレムのオリーブ山にあるゲッセマネといわれる所に来られます。そこにはたくさんのオリーブが生い茂っており、ゲッセマネには「油をしぼる所」という意味があるそうです。それは、イエスさまがここで霊と肉のはざまで苦悶し、血の涙と汗をしぼり出すような祈りをなさったという事を象徴的に物語っているように思えます。

 

イエスさまは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。この杯というのはすべての人に罪のあがないを得させるため、御自身が十字架にかけらえて無残な死を遂げられねばならないという父の神からお受けになった定めのことであります。

イエスさまはまず、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、願い求めて祈られます。その直後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とおっしゃるのですが。

けれども、まずご自分の苦悩と願いを率直に言い表され、そうせずにおれなかった一人の人間としてのイエスさまがそこにおられます。

本当に苦しくてつらい時は、それを「取りのけてください」と祈るほかない私たちです。まったき人となられたイエスさまのこの祈りは、うめきつつ祈るほかない私たちと共鳴するようにうめきいてくださる憐みの神のお姿に思えてなりません。

その祈りは、1度ならず2度、3度と繰り返されます。けれど2度目、3度目には「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、最初の「杯をわたしから過ぎ去らせてください」という祈りから明らかに変化が生じています。

罪に滅びるしかない人間に救いがもたらされるため、わたしがその杯を受ける以外ないのでしたら、あなたの御心が行われますように。そのようにゲッセマネでしぼり出すように祈りを重ねていく中で、遂にはご自分を御父に完全におゆだねになるのです。

この祈りの中で父なる神と一層深く向き合われ、御心を受けて行かれたことを知らされます。

「私の願いとしてはこうなのです」「私はこうして頂きたいのです」と私たちは祈ります。イエスさまもそのように祈られました。けれども祈りを重ねながら父なる神との関係性が深まられていく中、初めて「父の神にゆだねる」という事が起こされていきます。

その「ゆだねる」ということを通して、本来人の内にはない神の平安が与えられてくる。神のなさることに信頼する者とされていくのですね。

 

「わたしと共に目をさましていなさい」

さて、イエスさまは弟子たちに、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われます。そしてペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネという愛弟子3人だけを伴い行かれたますが、その時、イエスさまは悲しみもだえ始められます。

他の弟子たちにその姿を見せることを偲びなく思われたのでしょうか、わかりませんが。

そして、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃるのです。

このイエスさまのお言葉は大変衝撃的なものでした。

愛弟子たちはイエスさまを、来るべきユダヤを解放される、いずれは王となられるお方と大いに期待してきたのです。しかし彼らはこのゲッセマネにおいて、「わたしは死ぬばかりに悲しい」というお姿を見ると、イエスさまに対して抱いていた期待と理想があえなくしぼみ、意気消沈してしまったのではないでしょうか。

祈り終えたイエスさまが弟子たちのところに戻ってみると、彼らは眠っていたというのです。

 

以前にもお話しましたが。祈祷会の時にある方が、若い時通っていたある教会の牧師さんが大変大きな問題を抱えておられた時に、数名だけの祈りの場で「わたしは死にそう」とご自分の弱さを吐露されたそうです。その時、その方は「その牧師に対してがっかりした」というのです。「牧師は教会で祈りなさい。信仰、信仰と言っているのに、自分に災難が降りかかるとこんな事を言うなんて」と思ったそうです。けれど、その後この方が今日の箇所を読まれて、イエスさまでさえも「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃられたということを知った時、「牧師であれ、だれであれ、一人の人間として苦悩し、一緒に祈ってほしいと願うのは当たり前だなぁ」と考え直されたそうです。

問題を抱え、そのしんどさの中で「一緒に祈っていてほしい」といえる関係。どんな時もとりなし祈り合える霊の交わり。わたしたちは、この主イエスにある共に足を洗い合う兄弟姉妹として招かれているのです。

 

イエスさまはペトロに言われます。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」

マルコやルカの福音書にも同じように「目を覚ましていなさい」と語られているのでありますが。このマタイの福音書だけは、「わたしと共に目を覚ましていなさい」と記されています。それはイエスさまがご自分の願いや苦しみを「わたしと共にして」祈ってほしいと呼びかけられているように思います。

しかしまた同時に、ここには後に残されていく弟子たちへの愛と配慮がにじみ出ています。イエスさまは3度(みたび)祈られますが、そのつど弟子たちの様子を見に戻って行かれるのですね。

十字架の苦難と死後、残された弟子たちには多くの苦難、試みが襲うことをすでにイエスさまはご存じでした。彼らが苦難と試みの中で、イエスさまご自身血の汗と涙で祈られたことを想い起こしつつ、「わたしと共に」父なる神の御心に生きるようにと、イエスさまは願われたのですね。

 

この時イエスさまのお傍に愛弟子のシモン・ペトロがおりましたが。その同じ26章の中で、ペトロに「はっきり言っておく、あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と、イエスさまはペトロの離反を予告されているんです。ペトロはそれに対して「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言うのです。

ところが実際イエスさまが捕えられると、ペトロは後を追っては行きますが、次々におまえはイエスの弟子ではないのかと尋ねられると。「いいえ、そんな人は知りません」と、三度イエスさまのことを否認してしまうのです。

ペテロは「三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言われたイエスさまの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたとあります。

彼は自分の不甲斐なさと罪責の念に苛まれるのです。又、他の弟子たちも同様でした。

しかし、その後復活なさったイエスさまは再びペトロや他の弟子たちにお姿を現され、彼らは立ち上がり、聖霊の降臨と共に神の救いの福音を証しする者とされていくのです。

激しい迫害と困難の中、「わたしと共に目を覚ましていなさい」とのイエスさまのお言葉に応えつつ、共に祈り合い、励まし合って主の御業に邁進していったのではないでしょうか。

先々週、主の来臨に備える10人のおとめのたとえ話を礼拝で読みましたが。花婿の到着が遅れたことで10人のおとめたち全員が寝入ってしまいました。心は燃えていても、肉体は弱いということです。自分の決心や決意というのはもろいものです。それでも5人のおとめたちには備えの油がありました。今日はゲッセマネ、「油しぼり」の場でのお話ですが。

父なる神の御心に信頼しつつも、人としての苦しみの中で血の汗と涙をしぼり出しながら祈られたイエスさま。私たちも又、困難や問題の中、苦しみや悩みの中で、主イエスのお姿を思い起こし主と共に祈るときに、聖霊の油に満たされ神の御心に歩むように導かれることと信じます。

主イエスの御受難を覚えて歩むレントにあって、「わたしと共に目を覚まして祈っていなさい」とのお言葉に支えられ、応えつつ今週もそれぞれの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。

 

 

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2021/03/21 主日礼拝式のお知らせ

2021-03-17 17:05:39 | 教会案内

 

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キリストはどこに

2021-03-14 16:00:03 | メッセージ

礼拝宣教  マタイ25章31-46節  

宣教音声⇒https://drive.google.com/file/d/130vzu2hZ64Xo9ty1ThecyZSYUv8GnMd6/view?usp=drivesdk

 

本日はマタイ福音書25章31—46節より「キリストはどこに」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

24章から25章の全体は、主イエスが十字架の救いを成し遂げられ天に昇られた後、弟子たちはどのように生きていくべきかが示されています。それは来るべき日、「人の子(キリスト)が来る」という文脈の流れで、先週は、目を覚ましていなさいという「主の来臨に向けた備え」について、「十人のおとめ」のたとえ話から聞いてきました。

そして、本日の箇所は、世の終わりの時に再び主が来られ神の国のご支配が完成されるときに、王である主が「すべての民族を裁く」ということであります。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」

 

中近東の遊牧民族は聖書の時代から羊と山羊を一緒に飼っているのが、一般的でありました。羊は群をなす動物であることに対し、山羊は群に馴染まず孤立性の強い動物です。しかし羊飼いたちはそれらを一緒に飼うのです。

一日を終える夜になると彼らは羊と山羊をより分けるという作業をするのです。これは、山羊が夜になると羊とは別の暖かい場所に連れて行く必要があるからです。羊は羊飼いの声を聞いて集まってくるのですが、孤立性の高い山羊は羊と違い自分から集ろうとしないので、羊飼いにとってこれは大変な作業なのです。

ここでは羊飼いにたとえられる主が人々を右と左に分けられるのでありますが。当時のユダヤの法廷では有罪者と確定された者を左に、無罪が宣告された者は右に立たせる慣習があったそうです。

イエスさまはそれをたとえとしてお用いになり、世の終わりに人の子が来られて行われる裁きがどのようなものかをお示しになられたのです。

 

まず、王なる主は右側にいる人たちに対して「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸でいたときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と、それらの行いをほめ、永遠の命に与る祝福を告げます。

しかし彼らは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と、心当たりがありませんが、と尋ね返します。

自分の気がつかないうちに、というのですから、彼らは行いによって認められようなどと思っていないのです。名誉や徳目のためにしたのでもないということがここで分かります。

すると王なる主はこう答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

飢え渇いている人に食べ物と飲み物をあげ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に服を着せ、病人を見舞い、投獄された人を訪ねたのは、実はわたしにしてくれたことだよ、と主はおっしゃるのです。

 

主がここで言われた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、文脈から言えば、主の弟子や教会の兄弟姉妹、主を信じている者同志を指しているでしょう。

けれど、それだけとは限らず、私たちが日々日常において出会う、今、助けを必要としている様々な人々もまた、主によれば「わたしの兄弟であるこの最も小さい者である」といっておられるのではないでしょうか。

 

トルストイの名作「くつ屋のマルチン」というお話、ご存じの方もおられるでしょうが。妻と一人息子を先に亡くし、寂しく一人でくつ屋を営む孤独なマルチンは聖書を読み始めます。ある日マルチンは夢でイエスさまが「明日行くから待っておいで」とおっしゃる声を聞きます。目を覚ましたマルチンの店の前では、その日様々な弱さや痛み、問題を抱えた人が通りかかり、マルチンは一緒にお茶を飲んだり、食事や服を与えたり、共に悩みながら仲介に入ったりいたします。そして一日を終えたマルチンは聖書を読みながら夢で聞いた主の言葉を思い出すのです。その日に出会った人たちが目に浮かんできます。すると、「マルチン、わからなかったのか。あれはみんなわたしだったのだ」、とのイエスさまの声を聞くのです。そのマルチンが読んでいた箇所は今日のこのところでありました。

いつ、どこに主がおられるのか、私たちにはわかりません。けれども、この靴屋のマルチンのお話は、主が、日々様々な弱さや痛み、問題を抱えた人のうちにおられる。そのことを物語っているのです。

 

さて、王なる主は左側にいる人たちに言われます。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸でいたときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった。」

彼らは右側に分けられた人たちとは異なり、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」と、反論します。

彼らは善行をしてきたという自信と誇りがあったのです。自分たちは神の掟を守り、社会的にも立派に生きているのだから、その行いによって当然よい報酬がもらえるものだ、と高を括っていたのではないでしょうか。

すると王なる主はお答えになります。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」

自分の行為や徳によって神の前に立つことができる。適格者と認められ報酬を受けることができる。そのように考えていたならどうでしょう。そのために慈善的行為をなしたとしても、そこに一人の人への愛と祈りがあるかどうか。これは本当に問われますね。

その一人の人、しかも「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたこと」と、主はこの最も小さい者のひとりと御自身を同一視されています。これは驚くべき事です。そしてそれは、救い主として世に来られた主イエスが地上であゆまれたお姿とまさに重なるのです。主イエスが飼うもののいない羊のように傷つき、弱りはてた人々をご覧になって、ご自分の腸がちぎれんばかりに憐れまれたこと。嘆き悲しむ人を慰め、病人に手をおいて祈り、痛み苦しむ人を執り成し、排除され疎外された人の友となられたこと。最後には罪人と並んで十字架にかかりながら執り成しをなさったそのお姿は、まさに最も小さい者のうちに身をおき、最も小さい者の一人となられたそのご生涯であります。

 

今レント、受難節ですが。「苦難の僕」として知られるイザヤ書53章には、「彼は見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」と、主のお姿が描かれております。5節には「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と記されています。

今、私たちはその主イエスの十字架によって救われ生かされているのです。主イエスは高いところから、何かしてあげようというのではなく、むしろ自らそのような最も小さい者の一人となられた。この救い主、キリストが「私と共におられる」という福音に生きる者でありたいですね。

 

本日のお話で左側に分けられた人々は、「主よ、いつわたしたちがそれをしなかったでしょうか」と、自己正当化します。しかし、どんなに人前で益と思えるような業をなしたとしても、偽善は神の前で明らかなのです。

一方、右側に分けられた人々は、「いつ、あなたに対してそれらのことをしたでしょうか」と答えます。それらは愛によってなされたことなので、そもそも評価や見返りを求めることではないのです。

けれども私たちのどこからそのような愛が生まれ出るでしょうか。自ら小さい者の一人となり、私たち一人ひとりの隣人となってくださった主イエスのお姿にこそ、私たちはそれを見出しているのですね。

「隣人」を表すプレシオンというギリシャ語は、「満たされる」という語源が組み合わされて出来ています。つまり、愛を知らない者にも、キリストの愛に満たされて隣人となる愛が生まれてくるのです。自分の力や業によるのではなく、まず自分のうちにキリストの愛、キリストの憐れみが溢れ、現れてくるものなのです。

まず、この礼拝からキリストの愛をいっぱいに戴き、それぞれの日常、生活の場、キリストがおられる場に遣わされ、神の愛と憐みに生きる者とされてまいりましょう。

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2021年3月14日 主日礼拝ご案内

2021-03-10 12:52:32 | 教会案内

 

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目を覚ましていなさい

2021-03-07 15:44:42 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ25章1-13節 レントⅢ

礼拝音声→https://drive.google.com/file/d/1t5rhbn9RvJ1NI8bECKcoMV0fRrCt2zTS/view?usp=drivesdk

 

先日ある方が新聞の「折々のことば」というコラム欄を紹介してくださったのですが。そこに「仕事にとって重要なのは、仕事を邪魔してくれる要素だということ、との見出しでこんなことが書かれていました。

「近所に住む挿絵画家は、仕事をコンピューターでやるようになってひどく疲れやすくなった。筆を洗い鉛筆を削ることがないので、途中で息つくことも立ち止まることもない。だから友人の電話で仕事を中断させられると嬉しくなると。引き寄せたり遠ざけたり、加減を見たりと調子を変える、そんな隙の時間がないと、仕事自体が酸欠になる。」

なるほどなあと思いました。毎日追われる仕事や生活の手を止める。「あれもこれもやらなければ」という止まらない思考をストップさせる。思い煩うことさえもいったん荷を下ろす。わたしたちにとりましても、自分ではなかなかできないから、安息の日を呼びかけ合い、週に一度神の御前に時間を聖別する。こうして神の前に出て神を愛する兄弟姉妹と共に御言葉に聞き、救いの恵みを確認し、賛美してお互いを祝福する。この主日の礼拝に与ることで人間性、いやそれ以前のいのちの営みが回復されるんですね。今日という日を与えて下さった主を心から賛美します。

 

さて、本日は先ほど読まれましたマタイ25章1節~13節の「十人のおとめ」のたとえ話から、「目を覚ましていなさい」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この「10人のおとめ」のたとえは、前の24章の人の子が来るという、主イエスの来臨、終末に如何に備えて今を生きるか、というお話の流れの中でキリスト者に語られているのです。

42節「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」44節「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は想いがけない時に来るからである」と記されているとおりです。

ユダヤの結婚式の風習として、夕暮れに花婿が花嫁の家に迎えに行きます。花婿が現れたら、待っていた花嫁の親しい友人たちはともし火を手にして出迎え、二人のために暗くなった道を照らしながら花嫁と一緒に花婿の行き、招かれた人たちと喜びの祝宴に与るのです。

このたとえにおいて婚礼は、キリストである花婿と花嫁である教会との間に交わされるものでありますが。10人のおとめは花嫁なる教会に呼び集められたキリスト者であります。私たちが如何に主の来臨の喜びの日に、花嫁に伴って花婿なるキリストをお迎えすることができるのか、という問いかけであります。

 

花婿と花嫁に伴う役目をもっていたその10人のおとめは、それぞれともし火を持って、花婿を出迎えるため花嫁の家のあたりで待っているのですが。花婿が来るのが遅れ、日も沈んだので10人とも皆、「眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。

おとめたちは緊張感や頑張りだけでは身がもたなくなり、賢いと言われた5人も眠り込んでしまった、というのはどこかほっといたしますけれども。まあそうしてみな寝入ってしまったわけです。

ともし火は10人のおとめたちが寝入っている間にも、その傍らでほのかに燃え続けていたんでありましょう。

ところが真夜中に、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。これは遂に来られた!という歓喜の叫びであるわけですが。その声を聞いた10人のおとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えるのです。

5人のおとめたちは、待っていましたと花婿を出迎え、花嫁と一緒に花婿の家に向かい、婚宴の席に入り祝宴にあずかります。

ところが、一方の5人のおとめたちは、花婿が来たという声で目が覚め、そこで初めてもう灯りをともす油がないということ気づき、慌てて買いに走りますが、時すでに遅し。

 

この違いは何でしょうか?それは実はたった一つだけです。

賢いおとめたちは、いつその時が来るかわからないので、油を絶やさないように準備しておこうと考えた。一方のおとめたちは、花婿は夕方には来るのだから油はこんなもんでいいでしょうと考えた。

すべての条件は同じです。用意しようとすればできた。お店はまだ開いていました。

決定的な違いは、唯、その時に向けて備えをしておこうという意志があったか、なかったかということにあります。

絶やさずにともし火を灯し続け、いざという時にそれをかかげ、花婿キリストを出迎え、花嫁と親戚ら共に喜び祝うために、欠かすことのできないともし火の油を常に切らすことがないように守ることが必要なのですね。

みな同じようにあかりを灯す燭台はもっていて、同じ場所、同じ時そこにいた。それは外から見ただけは分かりません。本人さえ分からなかったのです。遂に花婿が来たという声を聞いて、「あっ、これでは油が足りない」と気づくまでは・・・。

 

では、この油とは何でしょうか? 

聖霊の油とか、あるいは信仰の油だとか。いろんなことが言われていますけれども。

みなさんは何だと思われますか?イエスさまはその答えとなることは何もおっしゃっていません。しかし、ここに一つだけそのヒントとなることが語られています。

それは、この油がその人それぞれのものであり、それは人に分けてあげたりすることはできないものだということです。

8節のところで「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』と言うと、賢いおとめたちは『分けてあげるほどありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』と答えた」とあります。ここを読みますと、賢い5人のおとめたちの答えは一見冷淡にさえ思えます。

「キリスト者ならちょっとくらい分けてあげたらいいのに、それが愛じゃないか」と思う方もおられるでしょう。

 

しかしここで語られていることは人情や親切といった次元ものではないのです。

それは、神と私、汝と我という確かな関係性なのです。この油は、他の人は代用できないんです。神と私という一対一の関係性によって得る油ですから、ほかの人に分けてあげることはできないのです。いや、そもそも分けようがないのです。

 

さて、このたとえ話の中で、花婿が遅れて到着した。しかしそれは真夜中であったというのは考えさせられます。10人のおとめたちにとっては、今か今かという期待がやがて、もうおいで下さってもいいのではという焦りに変わり、夜の冷え込みとともに闇が深まっていく中で不安や疲れが増し、ついには寝入ってしまうのです。

 

主を待ち望む教会の私たち信徒ひとり一人もまた、その時代その時代に起って来るさまざまな苦難や困難を覚える時、期待をもって祈るけれども未だ答えられず、というような闇が深まり行く現状の中で、もう祈りの言葉さえ見つからなくなることがあるかも知れません。

しかし、そういう状態の中にあっても、賢いおとめたちにはそれまで蓄えられてきた油が壺の中に満ちていた花婿を迎え花嫁と婚礼の場に向かう分があったのです。

一方、ともし火は持っていたものの、壺に油を常備していなかったおとめたちは慌てて油を買いに行き、花婿の家に向かいますが、すでに戸が閉められていたんですね。

「ご主人様、開けてください」とおとめたちは言いますが、主人は「わたしはおまえたちのことを知らない」と言われてしまいます。

これはあまりに衝撃的で悲しい結末のように思えます。ハッピーエンドで「さあ、いいからお入りなさい」ではないんですね。しかもただ「だめ」というのでなく、「あなたたちを知らない」。私と関係がないというのです。

そこは確かに厳しいですが、主なる神さまとの関係性を日々覚え、如何に今を歩んでいるかがこの時、問われることになるんですね。

このお話はもちろん、そのたとえを聞いて来るべき時に備えているように、ということでイエスさまはお話になられたのです。ですから、このお話を受けた私たち自身が「目を覚ま」して生きてゆくとよいのです。主はそのことを願っておられます。

キリストの到来の日の約束に備え、油を絶やすことのないように新たに生きるようにと、主は願われ、日々私たちを招いておられるのです。

 

今日は「目を覚ましていなさい」という題でお話をしてきました。肉体が疲れて寝り込むようなことがあっても、ともし火の油が十分に備えられていた賢いおとめたち。闇も濃くなり、疲れてきて眠りに落ちてもそこには安らぎがあるのです。

コロナ禍によって1月中旬から1か月半再び教会に集っての礼拝と祈祷会が休止となりました。教会の門もいつも、いつまでも開かれるわけではなく、主(あるじ)なる神が時を数えておられること。今招かれていることがどれほど価値ある時間であるかということ。そのことを身をもって知らされています。

その間、油を絶やすことなくそれぞれで、又各家庭で礼拝が守られたことに感謝します。今日このように、天の国の婚礼の祝いの映(うつ)しともいえる礼拝の場が開かれることになりました。花婿なるキリストと花嫁なる主の教会の祝宴に与った油を絶やさなかったおとめたちのように、今週もここからそれぞれの備えを整えてまいりましょう。

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2021/3/7主日礼拝ご案内

2021-03-04 09:29:54 | 教会案内

2021/3/7主日礼拝ご案内

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礼拝・祈祷会再開のおしらせ

2021-03-02 08:25:38 | お知らせ

みなさまへ

関西2府・1県に発出されていました緊急事態宣言が解除されました。

日本バプテスト大阪教会では3月3日の祈祷会、7日の主日礼拝を再開いたします。

礼拝は引き続き感染対策をとり、礼拝席は間隔をとり、短縮したかたちで行われます。

諸事情や体調に不安を抱えておられる方の出席については、どうぞ無理のないよう、

祈りつつご判断ください。

尚、礼拝・祈祷会以外の諸集会や昼食会は当面休止となります。

神の平安

 

 

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