日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の愛

2023-07-30 12:55:58 | メッセージ
宣教 イザヤ書49章14-16節a 

今日は「神の愛」について聞いていきたいと思います。
この49章は、主なる神さまによるシオンの回復・シオンへの慰めが記されています。シオンとはエルサレムの神殿があった「丘」のことです。今は嘆きの壁やイスラム教の黄金ドームがあるところですね。
そのシオンの嘆きは真に痛切なものでありました。
「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」。侵略を受け廃墟と化し、子どもたちであるエルサレムの民も散り散りになってしまった。かつては栄光に輝いていたシオンの丘が、そのような境遇に投げ込まれた嘆きのことばとして語られる時、その痛々しい崩壊の様相が伝わってきます。
見捨てられる、あるいは忘れられる、ということほど人間にとってさびしく、つらいことはありません。ユダの人々は、イスラエルの神が生きておられるのならどうしてこのような目に遭わせるのか、どうして我らを救いだしてくれないのか、もはや我々は見捨てられた者であり、忘れられた者でしかないのかと、希望をなくし嘆き悲しんでいたのです。
この嘆きの声は、実に私たちが生きる現代の社会にあっても同様の叫びとして、あるいは声なきうめきとしてあるのではないかと思うのです。
「わたしは見捨てられている、忘れられている」そういう孤立感、孤独。愛情や絆から分断され、切り捨てられていく時、人は心のバランスを崩してしまいます。
親が子を思う愛情は本当に尊いものですが、現代はその親自身が愛情や絆の希薄な中に生きてきたために、わが子とよい関わりを持つことができないということも起こっています。敗戦後の貧しい日本より豊かになった現代は、貧しい時代の方がかえって愛情や絆がしっかりと結ばれていたとはよく語られることであります。しかし比較的経済的に恵まれている日本において、凶悪でまことにいたたまれないような事件や犯罪が毎日のように起こっていますし、残念なことに自ら命を絶たざるを得ない人が毎年3万人以上もいます。
戦場になっているのではないのに、人が生きていけないような状況がある。これはある意味異常な状況でしょう。

へブル語で「平和」をシャロームと呼びますが、ユダヤ人たちは日常においてこのように挨拶を交わし合っているのですが。この平和というのは単に戦争がない状態のことではなく、創造主であられる神に造られた「すべての命が保たれていること」を指しています。
「わたしは見捨てられた、わたしは忘れられた。もう必要ないんだ。生きる価値などない」。
我々を取り巻く社会にも、こういった嘆きやうめきの声があふれています。
今の世の中にあって、それはどんな人、誰であっても、いつ自分が「わたしは見捨てられた、わたしは忘れられた、もう必要ない、生きる意味も価値もない」という嘆きとうめきの当事者になってもおかしくありません。
新聞を見れば小さな子どもでさえその例外でないことを知らされます。夜回りをしていると、野宿せざるを得ず路上で寝ているホームレスの方に、石や空き缶を投げつけてくる青少年たちがいまだにいるのです。けれどもこうした青少年たちもまた心のバランスを崩しているのも確かであります。
聖書には「終わりの時には愛が冷えきっていく」ということが終末のしるしとして記されていますが、あんたんとした思いが致します。
しかし、そのような現実のただ中で、主なる神さまはおっしゃいます。15節「わたしがあなたを忘れることは決してない。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。

また、主なる神さまは「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」。主は、あなたを忘れないその証に「わたしの手のひらにあなたを刻みつける」と、おっしゃいます。
皆さまも手のひらにものを書いたという経験は恐らくおありだと思いますが。それはどういう時でしょうか。大事な用件や伝言をもらったけど、そばに書く紙もなく、とっさに手のひらにものを書いたというような時ではないでしょうか。
主なる神さまが果たして私たちと同様に忘れやすかったといえばそんなことではないでしょうが、「手のひらに」という表現から、「決して忘れないように」して、覚えていてくださっているというそのお心がよく伝わってきます。
さらによく読みますと、「手のひらに刻みつける」とありますね。これは単に筆やペンで書くということではありません。木板や石板に彫刻刀を当てて彫り込むように記されるのです。それが主なる神さまのみからだの手のひらということですから、自ら決して忘れることのないように、痛みを伴いながら刻みつけるということであります。さらに、刺青のように1度彫ると2度と消す事ができない、それはずっとみからだの一部に残り、覚えられ、「決して忘れ去られるようなことはない」それほどまでに「わたしがあなたを忘れることは決してない」ということです。
私はこの刻みつけるということを考えます時に、神の御子イエスさまが十字架におかかりになったその痛みを思い起こすのです。
「あなたを忘れない、決して見捨てない」とのお約束は、まさに神のみ子イエスさまが十字架のその痛みをとおして、体現なさったことであるのです。
今日、神の言葉は、あなたに、十字架につけられたまいしイエス・キリストの姿をとおして、「あなたを決して忘れない、見捨てることがない」と語りかけておられます。

生ける主が今日み言葉をもって私を愛し、導いておられることを、しっかりと受け取ってまいりましょう。シャローム、シャローム、私たちは愛さるために生まれ、愛するために生かされています
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023/7/30 さんび&あかしの礼拝 おしらせ

2023-07-26 13:16:24 | 教会案内

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

welcome!

2023-07-24 16:14:55 | 教会案内
神は愛なり
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

welcome!

2023-07-24 08:50:20 | 教会案内
welcome!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独りでは生きられない

2023-07-23 19:41:34 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章18~25節

神奈川の津久井やまゆり園でのあの傷ましく悲しい事件から今月の26日で早5年目を迎えます。
この事件を機に地域で高齢者の施設と障がい者のフードのお店が一緒に入ったセンターができ、そこには地域の子ども達も自由に出入りしてお年寄りの方との交流、又障がいをもつ方がたとの交流が持たれている様子がニュースで流れていました。そのほのぼのとした情景が何とも心地よく、思わず見入ってしまいました。ここのセンター長は事件前までやまゆり園で職員として働いていたそうですが。やまゆり園の事件の教訓の一つとして、障がい者施設の閉鎖的なあり方にも問題があり、そうしたところが偏見や差別を生んでいった、ということから、こうした地域の交流の場の大切さや必要性を強く感じられたそうです。
私の子どもの時代は、住んでいた町内にこども会があり、小鳩と名付けられた少年野球のチームに属し、そこで友だちもでき、又大人の方との交流もあり、多くのつながりの中で育ちました。けれども、そうした交流が現代ではほんとうに少なくなってきました。子どもたちは知らない大人から声をかけられたら話してはならないとまで教えられています。昔だったら、知らない方に対しては挨拶をきちんとしなさいと、よく教えられてきたものです。殊にコロナ禍でソーシャルデスタンス・社会的距離を取って人と人の距離が悲しいほど遠のいた時から少しずつ社会の状況も変わってきたように思いますが。こういう中で年代を越え、いろんな方と共に交流していくことってほんとうに意味があることだと思います。本日は創世記2章18-25節から、御言葉に聞いていきます。

人は独りでは生きられません。同じような人、カラーのない人間関係は脆弱です。いろんな木が植えられた雑木林は、植林された同じ木ばかりの山より災害に強いです。いろんな根っこが絡み合って互いを支えているからです。いろいろな実がなり動植物にもゆたかな環境にもなります。
様々な違いをもつ人が神のお造りになられた人、本来の楽しみも悲しみも課題も分かち合える関係性。そんな共に生きる喜びを見出してゆける社会となりますよう祈ります。

さて、今日は先ほど読まれた創世記2章18-25節から、御言葉に聞いていきたいと思いますが。先週お読みしたところでは、主なる神が土の塵からご自分に似せて人を造られたこと。人は肉体においてはやがて土にかえるかえるもろく壊れやすいものであるけれども、創造主は人の鼻に命の息(霊)を吹き入れられて、生きるものとなさった。それは、人が神の息吹、霊を吹き込まれた霊的存在として造られたものである、ということを覚えました。
又、「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせた、東の方のエデンに園を設け、そのようにして自ら形づくられた人をそこに住まわせ、人が耕し、守るようにされた」ということであり
本日はここからです。
確かに楽園、エデンには人が耕して食べるに十分な木の実があり、食べていくのに何不自由なかったのです。食べ、働く。それは生きることです。けれども何かが足りない。神は人の様子をご覧になって次のようにおっしゃいます。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう。」
人が独りでいる姿が神には「これでは良くない」と映った。そこには人と人の関わり、助け合うものとしての関係性がなかった。それは「良くない」ということです。

そこで主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり人のところへ持って来きて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられます。
けれども、人はあらゆる地の動物の中に自分を助けるものを見つけることができなかった、というのであります。
人はみな生まれた後名づけられてやがて名前で呼び合うようになります。そこに互いの関係ということが起こされ、深められていくわけですね。ペットの犬や猫も飼い主が名づけるわけですが、それは飼い主にとって都合のよいように扱われるケースも多く生じ、問題になっていますが。

21節を読んでみましょう。
「主なる神は、そこで人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」
まるで救急の集中治療室で手術がなされているかのような光景が思い浮かんでくるようですが。
ここで注目したいのは、神はその「彼に合う助ける者」を、他の動物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から造られた、ということであります。それは、人を介して助ける者をお造りになられたのであります。 
なぜあばら骨からだったのか?頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思うのでありますが。中近東では古くからあばら骨のある胸には、「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と、信じられていました。今も小さな子どもたちに、心はどこにある?と聞くと大概の子はどこで聞いたのか、「ここ~ぉ」と胸のあたりでハート型に指を合わせて見せるものです。まあ昔からあばら骨はその人の心情や魂を包み、守る役割があるとされていたのですね。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り、彼に合う(ふさわしい)助ける者として出会わされたというのであります。
それは、人の心の楽しみや喜び、又、労苦や悲しみといった心情を分かち合うことのできる存在こそが、人にとっての「助ける者」であったということであります。
ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従する者だというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんて女性蔑視の考え方だとするのも間違いであります。
助ける者といえば、手助け、ヘルパーのように、助ける側と助けられる側といった一方向の構図が思い浮かぶかも知れません。しかしここで主なる神がおっしゃった、「彼に合った助ける者」とは、上下や従属の関係ではなく、共に仕え支え合う、パートナーなのです。

23節、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
この言葉こそ、創造主が造られた「人」が初めて思いを込めて語った言葉としてここに記述されているわけですが。
「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」というこの表現には、「やっと見つけた」「探していたのはこれだった」と、そのような感動が伝わってくるようであります。それは彼と向き合うその人も又、同様であるのでしょう。その感動は人と人が出会い、交流することで起こってくる感動です。人には喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみといった心情を吐露し、共感をもって分かち合う相手が必要だったのです。そうした他者との関係性が人を人たらしめる重要な要素であったのです。

現代社会は如何に便利に快適になるかを追求してきました。人間として生きることを隅に追いやってまで、それを求めてきたのです。その弊害として人と人の関係が損なわれていき、今、人が益々孤独になっている危機感をおぼえます。様々な犯罪や事件が起こっているのもこうした社会の情勢とリンクしているのかも知れません。「私はもう一月近く人と話していません」「誰一人助けを求めることができる人がいません」。そのような人が実際増えて来ているようです。中には孤独を埋めるために万引きを何度も繰り返して投獄される人もいるそうです。どんな形であれ関わりが起きるからだということでした。技術の進歩と共に、いたる所が無人化するのは何か薄気味悪く、殺伐とした世界に思えるのは私だけではないでしょう。
先に、人が造られるに際し、土のちりから造られた。肉体的にも精神的にも弱くもろいものであるということを申しました。それだから、「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、そんな弱さやもろさをもつ人に、共に励まし合い、支え合い、生きる存在を与えられたのであります。

23節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。
この当時として、男性優位の社会にあって、男が父母を離れて結婚する。家や族長を男が離れて、家庭を築くということは、まあ革命的といいますか、考えられないことであったのです。その根底には、家や族長制度の中で行われて来た結婚が、一人ひとりの存在を大切に尊重し、ともに生きていくための結婚感を読み取ることができます。
それは男と女という形で述べられているのですけれども。何も夫婦という形に限られたものではありません。神さまがお造りになられた人、その人はだれもが、その助ける者を必要としているのです。その最も偉大な助けるお方こそ、私たちが人として生きる命を取り戻すために人の姿となってこの世界にお出でくださったイエス・キリストであります。

私たちはたえず他者という存在によって生かされています。日頃の平々凡々とした生活の中でも、意識しようがしまいが実にいろんな人とのつながりによって成り立っているのです。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在でありますけれども、その与えられた時間とその人生を如何に生きるかということが大切であります。
「人が独りでいるのは良くない」とのお言葉のとおり、他者との関係性を見出せなかったり、歪んだ関係性の孤独の中に埋没してしまうことほど辛く苦しいことはありません。人の孤独を真にご存じであられる神さまは、人のあばら骨、人がその思いや心情をもっているところから取り分けて、彼に合う助ける者を造られた。共感し合える存在、愛情を覚え合う存在として互いに生かされている。そこにエデンの園があったのです。
25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。
それは二人の関係性に神が伴われていたからです。
コヘレトの言葉には「ひとりでいるよりはふたりがよい、三つよりの糸は切れにくい」と記されていますが。人の関係性は弱くもろいものです。二本の糸をよってもすぐもつれたり、ほどけたりします。けれどそこに三本目の糸があれば三つ編みにしたりしてなかなかほどけない強い糸になります。そこには、主が私たちと共におられることをおぼえ、その関係性は喜びも悲しみも、悩みや苦しみまでもおぼえ合い、祈り合うことが与えられていくからです。
世の利害関係や社会での緊張からしばし離れ、私たちの存在を受け入れてくださる主が共におられる安息の中で、私たちは心開かれます。二つの糸は人であります。そして三つめの糸、それが主なる神さまご自身を表しているのです。人は弱さやもろさを抱えて生きています。けれども、その間に主なる神さまをおいて生きるとき平安と安らぎが与えられます。今週もこの礼拝から主と共に歩み出してまいりましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023/7/23 主日礼拝式 おしらせ

2023-07-19 13:26:17 | 教会案内

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴスペル音楽会2023 

2023-07-17 07:09:53 | 教会案内
ゴスペル音楽会2023 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東のエデンにて

2023-07-16 13:54:00 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章4節b~17節 

先の創世記1章では、神があらゆる被造物、野の草木などをお造になられた後で、動物などの生き物を従わせ治める者として人をお造りになったという記事を読みました。今日の2章4節以降には、「主なる神が地と天をつくられたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」と、人は土地を管理する存在として記されています。
火星からの探査機によって送られてきた映像など見ますと、草も生えていない荒涼とした赤土の地表に虫一匹も見当たらず、生命が感じられない世界とはこうも殺伐としたものなのか、と思わされますが。そんな火星もかつては水が流れる大きな運河があったのでは、という痕跡が見られるそうです。その地下に何らかの生き物が存在するかも知れないと、現在も探索が続いているということですが。
ところで6節には、「水が地下から湧き出て、土の面すべてを潤した」とあります。
地下から泉が湧き出(いで)ることによって生命体が誕生してゆくのですね。1章1節には「神の霊が水の面を動いていた」とありましたが、神はこの潤された大地の「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」と、創世記は伝えます。
ここで興味深いことは、私たち人は神によってどろんこのような「土くれ」から造られたということです。人は生まれ、この地上での生涯を生き、いずれは生涯の終りを迎えて死に、その体は朽ち果て、大地に帰ります。人の骨も水に還元されます。それだけなら草木のような被造物と何も変わりありません。
しかし、神は息を吹きかけて人を生きるものとしてくださった。そしてやがて生涯を終えた人の息を神は引き取られるのです。人が死ぬ時には、「息を引き取る」と言いますが。これは息が霊とともに神のもとに帰るということです。コヘレトの言葉(伝道の書)12章7節には、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」と大変重要なことが記されています。
私どものいのち、生きる力は、そのいのちの源である主なる神から与えられいる。ですから、人はその主なる神との関係性を大切にしていくことによって、真に生きることができるのです。

さて、8節で「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」とあります。
 この東の方のエデンが地理的にどこにあったのかは定かではありませんが。「東の方」とは、光が射し込んでくる方向、太陽が昇る方向であり、「エデン」とはへブル語で「歓喜」、「楽しみ」や「喜び」の意味があります。ギリシャ語ではパラダイス、「楽園」です。そのように人の喜びや楽しみが「東の方のエデン」には備えられていたという事です。それは前回お話したように、神が「見よ、それは極めて良い」と絶賛された創造世界が東のエデンには満ち溢れ、広がっていたということであります。
9節「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせられた」とあります。
必要な食べ物はただ神の恵みとして備えられ、人はそれらを享受することができたのです。大切な事は、神は人が生きるために、あらゆる恵みを賜物として与えていて下さるということです。主イエスは、空の鳥を見よ、一羽のすずめさえ、天の父が養ってくださるとおっしゃいましたが。今なおこの世界には多くの実りがもたらされているはずなのですが。紛争や貧困、非常時における救済もままならず、飢え苦しむ人が増えている一方で、大量消費から食料が投棄され続けているこの世界の不均衡はエデンの園からほど遠いものです。
さて、10節には、「エデンから1つの川が流れ出て園を潤し、そこから分れて、4つの川となっていた」とあります。
先に、「地下の水が湧き出て、土の面をすべて潤していた」ということに触れましたが。この水は生命の源であり、人が生き、生活していくために欠かすことができない尊い資源であります。         
ちなみに旧約聖書の預言者エゼキエルは、幻を見て、水が神殿の敷居の下から湧き上がり、川となって流れゆくそのところはどこでも、群がる生き物すべてが生き返り、果実は絶えることなく実をつける様子を謳っています。それは霊的な命の水ですが、その川の流れゆくところに、いやしと回復、豊かな命の糧があるというエデンの園を彷彿とさせる幻であります。
15節に「主なる神は人を連れて来て、そのようなエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。
先回の1章の創造の記事では、神は人に「動物や生き物を支配し、治めるようにお命じになりましたが、この2章においても神は、「人をエデンに住まわせて、地を耕し、守るようにされた」のです。神がお造りになったあらゆる種のいのちをはじめ、大地の恵みを私たち人間が正しく管理していくように、神は今も私たちに託しておられます。

以前私が住んでいた九州の教会には畑がありました。ご高齢の方が様々な野菜を作っておられましたが、退かれてからは連れ合いがナスやキュウリ、イチジクの木を植え育てていました。私はもっぱら食べるばかりで、たまに水やりや土に触れる程度でしたが。その季節折々の実りを眺め、驚くばかりでした。土いじりはなんでもいやしの効果があるそうです。そういう時人はエデンの園にいた時のことを思い出すのでしょうか。
大阪教会敷地内にあるびわの木には毎年百以上のびわが実ります。手入れも何もしていないにも拘わらず毎年実るのですね。カラスが早々に実ったびわを咥えていきます。負けじと難コカはもぎ取るのですが、高いところにあるので多くはとれません。昨年より多めでしたが、実が一回り小さくなっていました。来年はあらかじめ枝の選定をしてみようと今から思っています。まあそのように農園や菜園において大事なのは、地を耕して命ある種や苗が育つためのよい土壌を作り、水をやり日光に気をつけて肥料をやり、さらに手入れをしてくことでしょう。「地を耕し、地を守る」ことには心と体を使っていく必要があります。そこにはそれだけの報いがあります。逆にその恵みの大地、自然を乱獲し、管理を怠ってしまいますと、それは人の側に跳ね返ってきます。
神から管理を委託されたこの大地をどのように耕し、守っていくか。それは農業、畜産業、漁業や林業の関係者のみならず、その収穫の生産物を食し、消費している私たちの事柄であります。この「地を耕し、守るように」と、お命じになられる神のお言葉を如何に聴いていくかが問われています。

神はさらに人に命じて言われました。
16節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」
このお言葉を読むとき、すべての木から取って食べなさいと言われながら、善悪の知識の木からは、決して食べてはならならい、というのは矛盾していると思われる方もおられるのではないでしょうか。
まず知っておきたいのは、「命の木」と「善悪を知る木」の本質、その実が神の領域であることを表すシンボルとして園の中央に据えられていたということです。
現代科学の進歩に伴い、人の倫理観が大きな問題になっています。神の領域とその境界線が人に問われています。何を善とし何を悪とするか。そこには神との対話が必要です。
神は人を指示通り従うロボットのようにではなく、神の意志に対して自分で考え、選び取っていく「自由意志」をお与えになりました。初めからロボットのように人を造られたのならそういうようなことを人間に語りかける必要はなかったのです。人は神にかたどられ、畏れ多いことにその似姿として造られましたが、それは人が神との一対一の関係性、汝と我という霊的な関係性をもつ存在であるということです。
神はエデンの園におかれた人が、ご自身のお言葉に応えて「生きる」ことを願われたのです。人が自ら主体的にそのように選び取っていくことを神は願われたのです。
エデンの園は単なるおとぎばなしではありません。
神が与えてくださった恵みの賜物を、神との対話なしに人が身勝手にむさぼり尽くしていく時、地は呪われるものとなるのです。神がそうなさるのではなく、必然的にそうなって
ゆくのです。その殺伐とした現状が、今の私たちの世界において数知れず生じ拡がっています。
では今一度人間がそのあるべき原点に立ち返っていくには、どうしたらよいのでしょうか。
はじめに、神が地を潤され「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」という点に触れました。
人は大地の一部である「土のちり」から造られたのです。人体は29種類の元素からなっていると言われていますが。そのすべての元素は土の中に含まれているそうです。最近火山付近の泥の成分が人の細胞内の環境に非常に似ているという発見がなされたそうですが。
詩編103:14-16には「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」と記されいます。そのように私たち人間が実にもろい土の塵から造られている存在であることを認める必要があるでしょう。それらのちりから、私が神によって作られていることを思い起こすことです。それは又、地上のあらゆる被造物のいのちが一本の木の枝であり、実であるように、私たち人間もこの地球上のすべての神が造られたいのちにつながり、存在しています。あのエデンの園の中央の命の木は私たちに「とってそのシンボルでありましょう。
大切なのは、すべての人が全被造物を創造された主なる神さまに立ち返って生きることです。まさにその損なわれた関係性が取り戻されるべく、天地創造より御父と共におられた御子イエス・キリストが人となり、和解の福音をもたらして下さいました。すべての人、そして全被造物が神の子の出現を待ち望んでいます(ローマ8章)。共に世界に神の福音(よき知らせ)がもたらされ、エデンの祝福に立ち返る日が訪れますよう、共に祈り続けていきましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023/7/18 主日礼拝式 宣教「東のエデンにて」に訂正 ※おしらせ

2023-07-12 13:32:54 | 教会案内

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人の創造と主の安息

2023-07-10 07:53:14 | メッセージ
礼拝宣教 創世記1章26節~2章4節前半 

先週に続き今日は神による「人の創造」と創造が完成をした後に、「神が安息なさった」記事から御言葉に聞いていきます。
 創造主であられる神は、第1の日の光の創造をはじめ、第2、第3,第4、第5、第6の日にご自身が創造されたそれぞれのものを「見て、良しとされた」とあります。さらにそれらのお造りになったすべてをご覧になって「見よ、それは極めて良かった」と絶賛なさるのです。神が創造された世界はなんと美しく「極めて良いものであるかを、見よ」と呼びかけているのです。ちなみに、ギリシャ語訳;70人訳の2章1節、さらに2節の「完成された」の前には、「共に」という前置詞があります。それらは「共に完成された」、つまり、すべての被造物のいのちは個別にあるのではなく、共につながり、共に補い合うことによって天地創造は「極めて良い」、その完成に至るのです。
その神のお造りになった大自然と様々な生き物のいのちの営みを私たちも目にする時、それは時に感動を与えるほど美しく壮大で、神の御手の業への賛美が溢れてくるでしょう。

そのような中で殊に27節において、「神が御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と、3度に亘って「人の創造」について語られています。
 人は何と畏れ多いことか、神の似姿として創造されたというのです。
この神にかたどった神の似姿とは、外形が神に似ているという意味ではなく、その霊性においてであるのです。人は神との霊的交わり、交流をもつ存在であるということが、その本質として備えられているということです。
神は又、人を男と女に創造されたとあります。古今東西、社会における男性優位の権威主義が存在してきたわけですが。聖書は女性も男性と同じように神にかたどって創造されたのだと語ります。人はみな神にかたどって造られた尊厳があり、性差の違いによる特性はあっても決して優劣をつけられるものではないということです。男であれ、女であれ、その一人ひとりをかけがえのない存在、オンリーワンの存在として創造されているのです。どんなに似ていたとしても、どんなに近い血縁関係であっても「私」と同じ人はどこにもいません。世界中どこを探しても私という存在は唯一人なのです。だれも、一人ひとりが神の似姿として造られているという事を思う時、私たちは自分の、そして他者の存在と尊さ覚えることができるでしょう。

 さらに、神はご自身の似姿に創造された人間を祝福してこう言われます。
28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地に従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」
 神は人のほかにはこのようにお語りになりませんでした。唯、人の創造に際し初めて、28節でその男も女も祝福して語りかけておられるのです。
神はそのお造りになった自然界の生き物、動物を、「すべて支配せよ」とお命じになられます。しかし、この「支配せよ」という意味は、権力を自分たちに都合のよいように使い、思い通りにしてよいという意味ではありません。創造主のご意思に沿った統治であり、管理者として務めでありましょう。
ところが、如何に人間はその神の言葉を取り違えて乱用し、むさぼりと無責任によって神の祝福をないがしろにし、損なってきたことでしょう。
神が「極めて良かった」とされたこの世界に不正と搾取と暴力が起こり、自然環境に至っては壊滅的ともいえる現況を頻繁に目にするようになりました。戦争や核の問題もそうです。
神は極めて良い、とお造りになったこの世界を人が正しく守り治めていくようにと、その働きを託しておられる。そのことが今日、私たちはじめ、すべての人に思い起こされていくように祈り続けてまいりましょう。
さらに、神は人に向けて次のように呼びかけます。
 29節「『見よ、全地に生える、種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物になる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべていのちあるものはあらゆる青草を食べさせよう。』そのようになった。」
全世界で食糧危機は深刻な問題です。いろんな要因はありますが、日本国内でも食材が日増しに高くなっていますが。今や長い網や虫籠をもって追っかけていたセミやコオロギなどの昆虫も加工し、一般的食料になろうとしています。
それらも戦争やグローバル化などから食材に係わる生産者に負担を強いるような事が起き続けてきた結果といえるかも知れません。又、動物のいのちも脅かされ、これまで地球上に生息してきた鳥、魚、動物、昆虫がだんだん減り、絶滅危惧種も増え、神の作品が次第に地球から消えています。

先にも触れましたが、神の似姿として創造された人間は、同じく神によって造られ、生かされている自然界の植物、動物、あらゆる生きものと共に生き、そのいのちとつながりながら存在している、そのところに、神の祝福が与えられます。あらゆるいのちと共生していくために私たちそれぞれに身近なところから何ができるか、祈り求めてまいりましょう。

今日のもう一つのメッセージは、「主の安息」についてです。
 2章2節で、「第7日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」とあります。
神が「御自分の仕事を離れ安息なさった。」そのように「安息日」とは、読んで字のごとく「安心して一息つく日」のことでありますが。ところで、お休みの日はどのように過ごされますか?なかには日頃できない選択や片付け、その他諸々で休んだ気がしないという人もおられるかと思います。が、ただ休むといっても、体を休めるだけで真の休息を得ることができるでしょうか。レジャーやショッピングを楽しむだけで真の安らぎは得られるでしょうか。そういう自由な選び取りの中で、この場にお出でになった皆さまは時を聖別し、神を礼拝できる期待と喜びをもって集っておられるでしょう。
それは、私どもにとりましてこの日が、イエス・キリストの死と復活を記念する日曜日としてずっと礼拝が守られてきたわけであります。そしてその根底には、あの出エジプトによって救われ神の民に与えられた十戒の1つであった「安息日」に関する戒めがあるのです。
エジプトの地で奴隷とされ、苦役の労働を強いられたイスラエルの民の姿です。不当に働かされ、どれだけ仕事をしても終わりなく、肉体も精神もぼろぼろになって苦痛を経験したイスラエルの民。
出エジプト3章で、神はモーセに言われます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。」そうして神はモーセを指導者として立て、出エジプトという奴隷からの解放を遂行なさるのです。
そうして神はイスラエルと契約を交わし、シナイ山で十戒をお授けになられます。その序文には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と述べられ、その十戒の中に、「安息日に関する」戒めが収められます。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
申命記5章12節以降には、「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守り行うように命じられたのである」と、記されています。
このように安息日は、まず仕事の手を止めて、神の民として導きたもう「「主を礼拝する」日であるということです。それは同時に、あなたが仕事を止めることによって身近な隣人や家畜までも休ませ、安息させることになる、ということです。

以前ニュースで、残業を無くしオーバーワークを防ぐため終業時間が近づくとパソコンが警報音を鳴らし、3回警告しても切らない場合、強制的にシャットダウンされてしまうという方策をとるようになったある役所の様子が映っていましたけども。まあそんなことまでしなければならないほど、意識して、体も心も休まなければつい働いてしまい、又、働かせてしまうものなのだなぁと思います。人が人らしく生きていくための休息はやはり必要であります。けれど先にも申しましたが、それが一時的には気分転換や一休みになっても、本来の生きる力を取り戻すものになるかはわかりません。実に多くの現代人が日曜夕方から月曜にかけて憂鬱な気分と不調を訴えるのはよく知られていることですが。
単なる休日ではなく本物の安息に与るためには、「すべての創造主、いのちの源であられるお方に立ち返る」。そこに人間本来の安らぎ、憩いが得られるのです。
まさにそのために、救いの主、イエス・キリストが来てくださったのです。主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)この方こそ「安息の主」であります。それが始めに申しましたように、7日目の安息日があって完成ということの中に込められている重要なメッセージなのかという思いがいたします。

主イエスは罪の世の奴隷であった私たちに救いと解放をもたらすため、自ら十字架にかかり死なれました。しかし、いのちをお与えになることのできる天地創造の神が死より復活させられたのです。、それは又、キリストによって神との和解、平和を与えられた私たちが、キリストによって死の滅びから復活のいのち、新生の喜びと希望につながっています。このような救いに与っている感謝をもって神に礼拝を捧げているこの時、そして日々の礼拝なのです。
出エジプトの時代、さらにバビロン捕囚時代とその解放を経験したイスラエルの民がそうであったように、天地創造の神が遣わして下さったイエス・キリストの十字架と復活のみ業によって神の御前における安息、天地創造の初めにあった安息に与らせて頂いているのです。

今日は、人の創造について御言葉を読んできましたが。この「創造」は新約聖書に照らして読めば、「人が新しく生まれ変る」ということでありましょう。神の御前に日々新しくされる。安息の礼拝を通して新たにされる。そこが聖書の中心のメッセージであり、その原点こそ、創世記の2章3節の「第7の日を神は祝福し、聖別された」といういのちの御言葉にございます。この御言葉に促されて魂の真の安息、新生の創造が完成されたこの主の日からの祝福の歩みを感謝をもって、始めていきたいと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする