宣教 イザヤ書49章14-16節a
今日は「神の愛」について聞いていきたいと思います。
この49章は、主なる神さまによるシオンの回復・シオンへの慰めが記されています。シオンとはエルサレムの神殿があった「丘」のことです。今は嘆きの壁やイスラム教の黄金ドームがあるところですね。
そのシオンの嘆きは真に痛切なものでありました。
「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」。侵略を受け廃墟と化し、子どもたちであるエルサレムの民も散り散りになってしまった。かつては栄光に輝いていたシオンの丘が、そのような境遇に投げ込まれた嘆きのことばとして語られる時、その痛々しい崩壊の様相が伝わってきます。
見捨てられる、あるいは忘れられる、ということほど人間にとってさびしく、つらいことはありません。ユダの人々は、イスラエルの神が生きておられるのならどうしてこのような目に遭わせるのか、どうして我らを救いだしてくれないのか、もはや我々は見捨てられた者であり、忘れられた者でしかないのかと、希望をなくし嘆き悲しんでいたのです。
この嘆きの声は、実に私たちが生きる現代の社会にあっても同様の叫びとして、あるいは声なきうめきとしてあるのではないかと思うのです。
「わたしは見捨てられている、忘れられている」そういう孤立感、孤独。愛情や絆から分断され、切り捨てられていく時、人は心のバランスを崩してしまいます。
親が子を思う愛情は本当に尊いものですが、現代はその親自身が愛情や絆の希薄な中に生きてきたために、わが子とよい関わりを持つことができないということも起こっています。敗戦後の貧しい日本より豊かになった現代は、貧しい時代の方がかえって愛情や絆がしっかりと結ばれていたとはよく語られることであります。しかし比較的経済的に恵まれている日本において、凶悪でまことにいたたまれないような事件や犯罪が毎日のように起こっていますし、残念なことに自ら命を絶たざるを得ない人が毎年3万人以上もいます。
戦場になっているのではないのに、人が生きていけないような状況がある。これはある意味異常な状況でしょう。
へブル語で「平和」をシャロームと呼びますが、ユダヤ人たちは日常においてこのように挨拶を交わし合っているのですが。この平和というのは単に戦争がない状態のことではなく、創造主であられる神に造られた「すべての命が保たれていること」を指しています。
「わたしは見捨てられた、わたしは忘れられた。もう必要ないんだ。生きる価値などない」。
我々を取り巻く社会にも、こういった嘆きやうめきの声があふれています。
今の世の中にあって、それはどんな人、誰であっても、いつ自分が「わたしは見捨てられた、わたしは忘れられた、もう必要ない、生きる意味も価値もない」という嘆きとうめきの当事者になってもおかしくありません。
新聞を見れば小さな子どもでさえその例外でないことを知らされます。夜回りをしていると、野宿せざるを得ず路上で寝ているホームレスの方に、石や空き缶を投げつけてくる青少年たちがいまだにいるのです。けれどもこうした青少年たちもまた心のバランスを崩しているのも確かであります。
聖書には「終わりの時には愛が冷えきっていく」ということが終末のしるしとして記されていますが、あんたんとした思いが致します。
しかし、そのような現実のただ中で、主なる神さまはおっしゃいます。15節「わたしがあなたを忘れることは決してない。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。
また、主なる神さまは「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」。主は、あなたを忘れないその証に「わたしの手のひらにあなたを刻みつける」と、おっしゃいます。
皆さまも手のひらにものを書いたという経験は恐らくおありだと思いますが。それはどういう時でしょうか。大事な用件や伝言をもらったけど、そばに書く紙もなく、とっさに手のひらにものを書いたというような時ではないでしょうか。
主なる神さまが果たして私たちと同様に忘れやすかったといえばそんなことではないでしょうが、「手のひらに」という表現から、「決して忘れないように」して、覚えていてくださっているというそのお心がよく伝わってきます。
さらによく読みますと、「手のひらに刻みつける」とありますね。これは単に筆やペンで書くということではありません。木板や石板に彫刻刀を当てて彫り込むように記されるのです。それが主なる神さまのみからだの手のひらということですから、自ら決して忘れることのないように、痛みを伴いながら刻みつけるということであります。さらに、刺青のように1度彫ると2度と消す事ができない、それはずっとみからだの一部に残り、覚えられ、「決して忘れ去られるようなことはない」それほどまでに「わたしがあなたを忘れることは決してない」ということです。
私はこの刻みつけるということを考えます時に、神の御子イエスさまが十字架におかかりになったその痛みを思い起こすのです。
「あなたを忘れない、決して見捨てない」とのお約束は、まさに神のみ子イエスさまが十字架のその痛みをとおして、体現なさったことであるのです。
今日、神の言葉は、あなたに、十字架につけられたまいしイエス・キリストの姿をとおして、「あなたを決して忘れない、見捨てることがない」と語りかけておられます。
生ける主が今日み言葉をもって私を愛し、導いておられることを、しっかりと受け取ってまいりましょう。シャローム、シャローム、私たちは愛さるために生まれ、愛するために生かされています