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神の物差しで生きる

2019-08-25 17:05:24 | メッセージ

礼拝宣教 創世記45章1-15節

 

先週はヤコブの子ユダがエジプトの大臣となった弟ヨセフに嘆願する記事から聞きました。ユダはヨセフがエジプトの大臣となっていたことを知りません。がすべてをご存じであり、生きて働かれる神を認め、神に立ち返り、悔い改めへと導かれたのです。彼は神の前に新しく変えられた者としてヨセフに語りました。それは、父を、もう二度と悲しませたくないから、自分が父の愛する弟ベニヤミンの代わりに奴隷となるという、具体的なものでした。

このユダの悔い改めは、単なる後悔ではなく、神さまのお力、お働きによるものであり、ユダはそれを神の前に言い表わした、そのような告白であり、宣言であったことを知りました。
本日の45章は、このユダの言葉を聞いたヨセフの反応が記されております。

1-2節「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ」。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かし、声をあげて泣いた」とございます。

それまでヨセフは兄たちを試していろいろと無理難題を押しつけていたわけですが。ユダの神の御前における悔い改めの言葉がヨセフの心を揺さぶったのでしょう。そしてヨセフにしてみれば、かつて自分を捨て、見殺しにした兄の口から「弟のベニヤミンの身代わりに自分が奴隷になる」など言う言葉が出ること自体考えられなかったので、ものすごくいい衝撃を受けたのだと思います。

ヨセフは、本心から語ったユダが以前とは全く違い、変えられていることを目の当たりにしました。そうして「ヨセフは、兄弟たちに『わたしはヨセフです』」と、遂に自分の身を明すのです。

この言葉に、「兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった」とあります。彼らは驚き怪しみ、そしてうろたえ、恐れたでありましょう。

ヨセフはその兄たちを近くに呼び寄せて、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、重ねて言います。

そしてヨセフは続けてこう言うのです。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」

悔やみ責め合いによっては何も救われません。

ヨセフは兄たちの恐れや不安を察知したのでしょう。しかしそれは単に思いやりから出ただけの言葉ではありません。

ヨセフ自身が傷つき、苦難の日々を経験する中で、すべての出来事が神の御手のうちにあって、救いの目的とその御計画のために自分が生かされてきたということを知ったからです。

 

ここで注目すべきことは、ヨセフが兄たちに対して「あなたたちを許す」とか、「許さない」とか一言も言っていないということです。もちろん、兄たちが自分に対して犯した咎の負い目をずっと引きずって恐れ苦しみ続けることをヨセフは望んではいません。

けれども、その咎を本当に「ゆすし」「さばく」主権はヨセフにではなく、神さまにあるということを、聖書は伝えているのです。

 

「神がすべてを」

そうしてヨセフはこう言います。

5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

7,8節「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」

このように、いっさいが神の壮大なご計画の中にあることを兄たちの前に言い表わすのです。

ヨセフは兄たちの仕業によって異国の地で奴隷として、また囚人としてとうてい言い尽くすことのできない苦しみの年月を送らねばならなかったのでありますが。

その全てを、彼は、神さまのみ業として受け止め、神を主語、また神を主体として語り語り直しているのです。

兄たちが自分を憎み、殺そうとし、奴隷として売ったこと。主人の妻が無実の罪で自分を訴え、囚人としたこと。ファラオが、夢を解き明かした彼を大臣に抜擢したことども、それは人を主語として語ればそういうことになります。

しかし、彼はそれらの全ては神さまのご計画であり、神さまがご自分の民を救うために、私を先にエジプトへと遣わされた、と言うのです。

そして実際にこのことを通して、世界規模の大飢饉の中でも、イスラエルの12部族は救われ、神の祝福の約束が実現されることとなっていくのです。

これが信仰です。すべての物事を神の物差しで見ていくということです。日常の出来事が神との関係の中で、自分の全ての体験、喜びにせよ悲しみ苦しみにせよ、神さまを主語として、神さまを主体として語り直されるとき、私ども一人ひとりの人生には意味があり、そのために生かされている、決して無駄なことはありません。神さまは全てのことを何らかのご計画、目的をもって導いておられると、知る者されるのです。

本日の礼拝の招詞として読まれましたローマ8章28節をもう一度お読みしたいと思います。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 

第2次大戦中、アウシュヴィッツの強制収容所に監禁された、ユダヤ人でオーストリアの精神科医・心理学者のヴィクトール・エミール・フランクルの体験記、「夜と霧」(みすず書房)が邦訳出版されてから58年にもなりますが。未だにこの著書が伝える真理は多くの困難な中におかれている世の人たちに希望を示し続けています。

フランクルはこの著書の中で、「我を汝の心の上に印の如く置けーそは愛は死の如く強ければなり」(雅歌8章6節・文語訳)という真理を(死が差し迫る過酷な日々の中で)知った、というのです。(p,125)

それは、既に強制収容所において惨死していた彼の妻、その時点で彼は妻の死を知りませんでしたが、彼はこう綴ります。

「彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった・・・・すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。そして信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救いーこれである。(中略)収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただ・・・・その苦悩を耐えることだけであるような状態―このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。」(p,123-124

 

ヨセフは自分の身に起ったすべての出来事を、信仰、まさに神の眼差しから、神を主語として語り直すことによって、兄たちとの間に、真の平和な関係、シャロームを築くことができました。すべての出来事に働かれる神からいわばヨセフはその自分の存在の意味を示されていくのですね。それは「神の物差しで生きる」者とされたのです。

私たちも又、神さまがお示しになっている人生の意味、真に貴い価値を見出し、そのために働くものとされたいと願います。

 

「回復の始まり」

さて、本日の箇所の最後の所、45章15節に、「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。

このところは、このヨセフ物語で最も感動的な場面でありましょう。

この20年以上前、37章4節にあるように、父ヤコブがヨセフのことをえこひいきするので、兄たちはヨセフを妬み、それによって「穏やかに話すこともできなかった」のです。

兄たちはヨセフへの妬み、憎しみ、敵意のために、平和に語り合うことができなくなっていたのです。その関係性は全く損なわれていました。そのことから、あの出来事が起ったのです。

しかし今、兄たちとヨセフの間に、語り合いが、交わりが、平和が回復されていくのです。

神の御計画のもと、兄たちは神の御前に悔い改め、立ち返り、ヨセフは人生の苦難とその意味を神への信仰をもって受けとめました。こうして彼らが神の御前で顔と顔とを合わすことができた時、そこに、シャローム、真に平和、麗しい兄弟の関係が回復されていくのです。

この8月は平和月間として過ごしてまいりましたが。今日のこの兄弟である彼らの、神の前における麗しい情景に、人と人、家族、兄弟姉妹、国と国の、本物のシャロームの雛型を思い描くものであります。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

(詩編133編1節)

このシャロームに生かされ、平和を造り出す者とされたいと願います。

 

「仕えるために」

最後になりますが。

ヨセフは兄たちと父、母までが自分にひれ伏す夢を見て、まさに20年後それが現実となるわけですが。

けれども、本日の45章11節でヨセフはこう兄たちに言うのです。

「そこでお世話は、わたしがお引き受けします。まだ5年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。」

ここで、ヨセフは確かに兄たちから伏し拝まれるような立場になりますが。兄、父、家族、そのほかすべての者のために仕え、世話をする者となるのですね。これこそが、父ヤコブが、ヨセフの夢を心に留めたという本質なんですね。

このことについても、ヨセフの夢の解釈をめぐっていたことについて、兄たちは目からウロコが落ちるような思いで、ヨセフと語り合ったのかも知れませんね。

主イエスはおっしゃいました。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章26-28節)

わたしたち罪に滅ぶしかないような者を、滅びから救うために神さまは御独り子、イエス・キリストを世にお遣わしになりました。本来伏し拝まれるべき主は、自ら仕える者となられ、それも十字架の死に至るまで神の御心に従い、自らその私たちの罪を贖い出し、私たちを滅びの穴から救い出してくださいました。今もそうです。

神との平和、人と人の関係性の回復の路は、旧約においてヨセフに示されているように、新約において主イエス・キリストによってまさに明らかにされ、実現されたのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのです。まさに、「時は、満ちた」のです。

このみ救い、福音に生かされ、私たちも神をこそ、主として語り直しつつ、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

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二度と悲しませたくない

2019-08-18 13:48:40 | メッセージ

礼拝宣教 創世記44章18-34節

 

先日、インターネットのある記事に目が留まりました。

戦地に赴く人々に渡す招集令状(赤紙)の作成業務に携わった人がいる。当時17歳だった西尾宣子さん(92歳)=鳥取市。高等女学校を卒業した1945年春、県全域の徴兵事務を取り扱う軍機関で補助にあたった。『たった一枚の紙切れで人の命が引き換えにになった。終戦から74年、今も拭い去ることができないつらい記憶がある。

旧日本軍の鳥取連隊区司令部近くの県立ろうあ学校の一室には、徴兵検査を受けた人の名前などを記した台帳が山積みになっていた。軍の担当者からの指示で、天井に届きそうな資料の山から(赤紙)該当者の台帳を探して渡す。任務に命じられたときは「『お国のため』の仕事にはいろんなもんがあるんだ」と特段気に留めなかった。「○番の△号び□□名前の名簿を取ってこい!」。戦況が悪化するにつれ、自分と同世代の少年たちの名前が呼ばれることが多くなった。自分の手を介した名簿が赤紙に変わった。「事務的な作業だった。人のいのちはこんなにも軽いものだったのか・・・・・」と良心の呵責(かしゃく)に押しつぶれそうになった。上官の口調も次第に激しくなった。「女、子供は邪魔だ!」「男はアメリカ兵と戦え!」。ある日、学校の2階でオルガンを弾いていた視覚障害の男児を怒鳴りつける場面に出くわした。西尾さんは「かわそうに」と思い子供をなだめた。仕事は約2ヶ月で辞めた。

現在は、平和な世を享受する一方、当時のことは一瞬たりとも忘れたことはない。赤紙を渡された若者は今はどうしているか、またどういう最期を迎えたのかー。友人らは次々に鬼籍に入り、戦争の記憶の風化も懸念する。『北方領土、沖縄。残された課題はいっぱいある。私たちの代で解決できなかったが、次世代でなんとかしてほしい』と願っている。」(阿部絢美)

戦争を経験された方々が高齢化していくなか、戦争を知らない世代が増えています。その戦争の愚かさ、悲惨さが風化されず、二度と同じ過ちが繰り返されないために、何が大切か、ほんとうに細心の注意を払いながら、私たち小さい者ですが、まず身近なところからの平和を祈り、その働きに参与していく者とされてまいりたいと願います。

 

さて、本日は創世記44章より御言葉を聞いていますが、先週までのところでは、囚人とされていたヨセフが、神の霊によってエジプトの王・ファラオの夢を解き、さらにその対策を提案したことから大臣に任命され、まさに神が示されたとおりの7年の豊作の間、その後に起る7年の大飢饉に備えました。そして実際に豊作の後7年の大飢饉がエジプトをはじめ、周辺諸国にも起っていくのですが。エジプトの国中の人々はこのヨセフの備えによって、大飢饉の難を逃れることができたというお話しでした。

それから本日の箇所までだいぶとびましたので、それまでの経過を簡単に要約しますと。その大飢饉がヨセフの家族らが住んでいたカナン地方にまで及ぶと、ヨセフの兄たちは「エジプトには食糧がある」との噂を耳にし、食糧を分けてもらうためにエジプトに向かいます。そして大臣となったヨセフと会うことができ、食糧を分けてもらうようにお願いするのです。

ヨセフはそれが自分の兄たちであることが一目で分かりましたが、兄たちは気づきません。ヨセフは、その時、20年前、父の家で見た夢を思い出しました。それは兄たち、さらに父母までがヨセフにひれ伏すことを象徴的に表わした夢でした。ヨセフは、そのような夢を見たと、無邪気に口にしたために、兄たちにひどく憎まれます。そこには父ヤコブがヨセフを特別扱いしていた妬みもありました。そうした兄たちによってヨセフは、荒れ野のほら穴に投げ落とされ、結局、見捨てられるようにしてエジプトに売られてしまったのです。

ヨセフはその兄たちが夢のとおり自分にひれ伏すのを見て、それらの出来事を思い出したんですね。ヨセフの心は騒ぎました、、、。

そうしてヨセフは兄たちを試し、兄たちに対していろんないいがかかりをつけ、右往左往させ、結局、末弟のベニヤミンをエジプトで奴隷にすると宣告したというのです。

 

そこからが本日の箇所となります。

ところで、ヨセフはなぜこのようなことを兄たちに対してなし、父をも困らせ悲しませるようなことをしたのでしょうか?

兄たちについては、かつての復讐の思いがあったのかと考えられなくもありません。

「兄たちを試した」とありますことから、自分にひどい仕打ちをしたあの兄たちが、今はどのようであるかを知りたかったのかも知れません。

けれどもそれは、父ヤコブに対しては何の恨みもないはずです。

ヨセフは一人を捕えて人質にして他の兄弟を送り帰し、ヤコブが溺愛するベニヤミンを連れて来るように命じるのですが、それは当然父ヤコブを苦しませることになります。それがヨセフにわかっていながらなぜ無理な要求を突きつけたのでしょう。

もっと言えば、ヨセフがエジプトの大臣になった時点で、すぐに父に使いをやり、自分の無事を伝え、エジプトの大臣になっていることを知らせることもできたのでは、、、と考えたりもしますが。そういったヨセフの心の思いや考えについては何も記されておらず、推測の域をでません。

ですから私たちはむしろ、このヨセフ物語全体を通して、聖書が私たちに何を語ろうとしているのかということを聞き取ることが大事だと思います。

そしてそれは、まさに本日の18節以降のユダの言葉の中に示されているのです。

 

これまでヨセフの物語を読んでまいりましたが、その展開のすべては、今日のこのヨセフへの「ユダの嘆願」の言葉が語られるためにあったと言っても過言でないでしょう。

では、その聖書のメッセージにここから聞いていきたいと思いますが。

ユダがここでヨセフの前に進み出て、「僕の申し上げますことに耳を傾けてください」と言っている、「申し上げます」は、口語訳では「言わせてください」とかなり強い言い回しが使われています。

先週の祈祷会の聖書の学びの時に、飯塚教会のT牧師が来会され、この「言う」はヘブライ語で「ダバール」という原語で、「宣言する」という意味をもち、創世記の天地創造の折、神が光あれ、~あれと宣言され、そのとおりになった、出来事となった、ことを示す言葉と同じ言葉だということをおっしゃったのですが。

そのようにいわば、ユダは今から口にしようとしていることのすべては、神さまの力、お働きによるものであるということを、宣言しているのです。

この時点ではヨセフはまだ自分の素性を明かしていないわけですが、ユダはここで神さまの力、お働きによって自分がここに立ち、示されたことを明きらかにしているのです。

ここでユダが置かれている状況は、20年前と全く同じです。ユダと他の兄たちによって当時17歳のヨセフがあの荒れ野のほら穴に投落とされた時、ユダら兄たちによってヨセフの人生はまさに変えられてしまいました。そればかりでなく、ヨセフを溺愛する父ヤコブの人生をも変えてしまいました。

それから20年後の今、今度はヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンの人生がユダら兄たちの手に握られているのです。父ヤコブはヨセフを失ったとの思いから、末息子のベニヤミンを溺愛していました。ユダらはあの時のヨセフ同様、ベニヤミンを見捨てて父のいるカナン地方に帰ることも出来たのです。20年前に自分たちがしたことと同じように、帰って父に、弟はやむを得ない事情で失われました、と言うこともできるのです。このようにユダら兄たちは、20年前と同じ立場に再び立たされるのですね。

 

しかしこの同じ状況においてユダは、以前とは違っていました。

ユダはヨセフにこう言います。30節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子と堅く結ばれていますから、この子のいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのです。」

以前ヨセフがそうだったように、父ヤコブは今、兄弟の中でベニヤミンを溺愛しています。ヨセフに対してそうだったのと同じように扱っているのです。エジプトに食料を買いに行く旅にも、兄たちだけを行かせ、ベニヤミンは手もとに留めておこうとしたことにもそれが現れています。ですからヨセフと同様ベニヤミンも、兄たちの妬みを受けても当然なのです。

しかしユダは今、父のために何とかしてベニヤミンを連れて帰ろうと必死なのです。

二度と父を悲しませない」ためにです。

そのために彼は、自分がベニヤミンの代わりに奴隷になります、とまで申出るのです。

 

あの20年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはこのユダ本人でした。

その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると申出たのです。

このユダに起った変化は何でしょうか?

それは「悔い改め」です。ユダは、20年前に自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から顧み、悔い改めているのです。

そのことは、42章でユダら兄たちがエジプトの大臣となったヨセフから、「お前たちは回し者(スパイ)だ」といいがかりをつけられ、「兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁する」と命じられた時に、ユダら兄たち互いにこう言っています。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(42:21)

この時すでに、神さまは彼らのうちに働きかけておられたということです。

また、ヨセフがユダたちに言いがかりをつけるため、末弟のベニヤミンの袋に銀の杯を仕込み、それがヨセフの家来に見つけられて責められた時、ユダは「神が僕どもの罪を暴かれたのです」(44:16)と言っていますが。

それはヨセフの杯を盗んだ罪がバレてしまったということではなく、このように無実の罪でベニヤミンを失わなければならなくなったのは、自分たちがヨセフに対して犯した罪を神さまは忘れずに暴き、裁いておられる、と言うことでしょう。

ダはこの一連の出来事を通して、20年前に弟ヨセフに対して犯した罪を見つめ、父を悲しませたことに対して、本当に心から神さまの前で悔いているのです。

ユダは神の前に立ち返り、悔い改めたからこそ「二度と父を悲しませない」「二度と同じ過ちを繰り返すまい」と固く心に決め、自ら奴隷となって差し出すほどに変えられたのでのではないでしょうか。

このユダの変化、これは単なる状況の変化によって自然に起ったことではありません。たとえば年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではありません。

私たち罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間関係を築いていくことができるとするなら、これは人の精進や成長することによってではなく、神の前に立ち返り、罪を悔い改めることによってなのです。

その単なる後悔でない、神の前における本物の悔い改めのみが、私たちが新しく生き始めることができる路なのです。

 

何度も礼拝でお話ししてきましたが。今年の大阪教会の年間標語は「新しく造られた私たち」であります。コリント二5章17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」との御言葉からですが。

私たちはいつも、どこからでも、主イエス・キリストの十字架のあがないのもと神さまに立ち返って新しく生まれ変わり、新しい人生を始めることが出来るのです。その日々新しい人生が開かれていることは本当に感謝なことです。

ここまでヨセフの物語を読んでいく中で、神のご支配とご計画、そしてお導きということを深く思わされます。神さまは目に見えるかたちでは現れなさっておられません。

けれども、確かに、このユダを悔い改めに導かれ、「二度と父を悲しませない」との思いを起こさせているのは、今も生きてお働きなり、すべてを御手のうちに治めておられる活ける霊なる神さまによるのです。

そして、ユダら兄たちが、真に悔い改めて立ち返るのを忍耐をもって待ってくださっておられるのも神さまである、ということですね。

このヨセフ物語を通して語られています一つの大きなメッセージは、神さまのご計画、

お計らいとお導きによって、罪ある人間が悔い改めへと導かれ、それによって新しく生かされていく、そこにございます。

私たちも又、ヨセフ物語からこのことをしっかりと聞き取ってまいりましょう。

 

最後に、本日の礼拝の招詞として、コリント二7章9-11節が読まれました。

もう一度お読みして本日の宣教とさせて頂きます。

「あなたがたはただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」

私たちも又、ヨセフ物語からこのことをこそしっかりと聞き取り、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

 

祈ります。慈愛の神さま、今日は「ユダの嘆願」のところからあなたのメッセージを共に聞きました。「二度と父を悲しませたくない」とユダがヨセフに嘆願することができたのは、あなたのお導きのもとにあって、過去の罪をあなた御自身の前に悔い改め、あなたとの真の和解をユダが得ていたからです。そのためにユダはベニヤミンに代わって、自分が奴隷に引き渡されてもいいと願いました。このユダのように、私たち罪深い者の歩みをも、どうかいつも、あなたのお導きのもとおいて、お守りください。そしてどうか、あなたにあって日々誠実に歩んでいくことができますよう導いてください。

私たちの平和の主、イエス・キリストの御名で祈ります。

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国難に備えて

2019-08-11 14:35:42 | メッセージ

平和礼拝宣教 創世記41章37-57節

 

8月6日の広島原爆投下の日、9日の長崎原爆投下の日、今週15日の敗戦記念日と、平和の祈りを共にしております。

戦後の日本は、あらゆる戦力を保持せず、武力行使や戦力の威嚇を禁じる日本国憲法がブレーキとなり、曲がりなりにも戦争に組みするも、被ることもありませんでした。

しかし、沖縄に関していえば、この憲法9条は蔑ろにされ、沖縄の米軍基地から不条理な戦争のための戦闘機が爆弾を抱えて飛び立ち、多くの尊い命を奪ったことを忘れてはなりません。今は普天間基地の危険を除去する唯一の方法との名目で珊瑚やジュゴンが生息する美しい辺野古の海を埋め立てて新たな基地として移転する工事が多くの沖縄県民の思いを踏みにじるようなかたちで強行されています。

日本はアメリカとの日米安保条約の下、米国の戦力や核兵器の傘に守られて平和が築かれてきた、という方もおられますが。武力で平和を創ることは出来ません。今の世界の多くの人が抱える危機感や不安感がそれを露わにしています。まさにこのような時代だからこそ平和憲法を世界に発信していくことが、世界の平和に寄与することであり、それは神さまが私たち日本に住む者に託されている役割だと信じます。

昨今の韓国との関係、又ホルムズ海峡を挟んだ緊張状勢も、排除や分断によらず、寛容と粘り強い対話による平和的な解決に政治的指導者が舵を切っていかれますよう祈ります。

主イエス・キリストの和解の福音をかかげつつ、私たち小さき者ですが、主の平和の器として祈りつつ、歩んでまいりたいと願います。

 

さて、先週の41章の箇所は、エジプトの王ファラオが見た特別な夢について、ヨセフが「今から7年間の大豊作と、その後に7年間の飢饉が続き、それは国を滅ぼしてしまうほどのもの」だと解き明かしたのです。そこでヘブライ人、エジプトでは寄留者・流れ者と見下されていたヨセフはただ夢を解き明かしただけで終らず、その大飢饉に対して具体的に如何に対処すべきかの提案を、ファラオに示すのであります。

それは33節以降にありますとおり、「ファラオが聡明で知恵ある人物を見つけてエジプトの国を治めさせ、国中に監督官を立て、豊作の7年の間、産物の5分の1を徴収し、豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させる」というものでした。

ヨセフは「そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う7年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」と語ったというのが先週迄です。

 

本日の箇所の冒頭で、このヨセフの言葉にファラオの家来たちは皆、「感心した」とあり、ファラオはヨセフを「神の霊が宿っている人」と呼びます。この神の霊とは、天地万物の創造をなさった「神の霊」であります。

今日の39節でエジプトの最高指導者ファラオは、「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう」と言っていますが。

これは実に当時のエジプト人がひっくり返るような発言なんですね。なぜならエジプトは太陽神や月を崇拝しているのですが。ここでファラオが口にした「神」は、聖書の天地万物の創造の神なのです。ファラオはヨセフのうちに働かれる万物を統べおさめたもう神の霊を見たのでありましょう。

 

新約聖書のヨハネ福音書19章で、イエスさまが十字架に磔にされるにあたって、ローマの総督ポンテオピラトから尋問を受けるのでありますが。

そこでピラトは「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言いますと、イエスさまは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と堂々とお答えになられたのです。

ピラトは「自分が権限をもっているのだぞ」と言うわけですけど、イエスさまは「その権限は神がお与えになったものであって、そうじゃなかったなら、このことに対して何の権限もない」ということです。ピラトにせよファラオにせよ、地上の王や統治者は、すべての権威は天地創造の万物を統べ治めたもう主なる神にあるということを知らなければならないのです。主イエスさまのうちに働かれる「神の霊」をピラトもやはり見た思いがしたのでしょうか。

ピラトはイエスさまを釈放しようと努めた、ということであります。

どうか、地上のすべての国々の為政者、指導者がこの天地万物の創造したもう神を知り、神への畏れをもってその職務にあたることができますようにと、祈ります。

 

さて、ファラオはそのヨセフの提案にもとづき、聡明で知恵あるヨセフをエジプト全土を治める指導者として立て、彼に自分の指輪をはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをかけます。そして、自分の第2の車に乗せて、民を彼の前で敬礼させるのです。

ファラオはさらに、ヨセフにツァフェナト・パネアという名(エジプト名)を与え、オンの祭司ポティ・ファラの娘アセナトを妻として与えた、とあります。

この時、ヨセフは30歳であったといいますから、つまりエジプトに売られて来てから13年の歳月が流れていたのですね。彼は13年間、奴隷として、囚人として辛い苦難の時をずっと過ごしてきたのですが、遂にはエジプト全土を治めるいわばエジプト王に次ぐナンバー2、いわば総理大臣という高位に就くのであります。

しかし、その代償としてヨセフはエジプトの名に改名され、異邦人の女性と結婚し、エジプト人として生きていくことになるのです。イスラエルの子であったヨセフの内にはきっと複雑な思いが交差していたことでしょう。

そうしてエジプトの総理大臣の高位に就いたヨセフが最初になしたことは、「エジプト全土の巡回」でした。それにしてもエジプトの全土を回るというのは大変なことであったでしょう。どれだけの時間と労力を要したかことかと思いますが。でも、彼は何よりもエジプト中の町々に足を運んでいくことを大事にしたのです。おそらくその町々の人たちと出会い、知ることで、ネットワークやつながりを作っていったのでしょう。彼は井の中の蛙になることなく、エジプトの全土の状況を把握することができたのでしょう。

むろんそれは、神がファラオに告げた7年の大豊作とその後に起る大飢饉に備えてのことでした。何事についても言えることですが、備えって大事ですね。

 

ヨセフは豊作の7年の間、エジプトの国中の食糧をできるかぎり町々に蓄えさせます。具体的には町の周囲の畑にできた食糧を、その町の中に蓄えさせた、とあります。

それができたのは、ヨセフが時間も惜しむことなくエジプト全土を巡り、その町その町に足を運んで、地元の人たちと会い、備蓄の要請、神からのメッセージを確信をもって丁寧に町々の人たちに説明し、伝えていったからではないでしょうか。お役所仕事のように書面を送りつけるだけでは、そうはいかなかったのだろうと思います。

そのような7年に及ぶ政策と実践によって、49節「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」と記されています。

これはヨセフがファラオに提案したとおりのことを、政策と実践に移した中で、ということでありましょう。

私たちも日常の生活、お仕事において、また信仰の歩みにおいても、神の御心を祈り求めること、ビジョンをいただき、計画をもってたゆまず実践していく中で、神さまの恵みの豊作の時が与えられる、と信じるものです。

 

さて、聖書は「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」ことを記します。長男の名はマナセで、ヘブライ語で「忘れさせる」という意味をもつ名です。「神がわたしの苦労と父の家でのことをすべて忘れさせてくださった」ということを表わす名です。これはヨセフが兄たちの恨みと憎しみを買い苦しんだこと、それが元となりエジプトに売られて奴隷の身となったこと。さらに、ぬれ衣を着せられ囚人の身とされたその13年に及ぶこれらすべての苦しみや痛みを、神は忘れ去らせてくださった、と万感の思いを込めて「マナセ」と名付けたのですね。

 

来たる8月15日は、1945年8月の敗戦の日から今年で74年目を迎えますが。

戦争をご経験された方々にはその痛みや苦しみ、無念さや無残さが忘れがたい記憶として残っておられることでしょう。

以前、Sさんが東京大空襲のほんとうにおつらい体験を礼拝の中でお証しくださいましたが。焼夷弾によって燃えあがる町々の中炎をくぐり抜けて必死に逃げたこと。道に目を向けると、いたるところに焼き焦げた人の遺体が転っていたという生々しいお話しを伺いました。又、Yさんからは朝鮮半島から戦後引揚者としての壮絶な命がけの体験のお話しを伺ったこともあります。OさんとNさんは満州からの引揚者として大変なご経験をなさいました。その他にも大阪空襲に遭われた方もおいでです。教会の書庫から広島の原爆に遭われた教会員の方の証言が出てきたこともありました。そのみなさまそれぞれにも、そのような忘れたくても忘れることのできない心の傷を、どうか神さまが癒やしてくださるように祈るものです。

 

ヨセフは又、次男の名をエフライム、ヘブライ語で「増やす」という意味を持つ名をつけます。神はこの異教の地、苦しみの地において子孫を増し加えてくださった、とヨセフは言っているのです。

ここで注目すべきことは、ヨセフが二人の息子の名前をエジプト名でなく、ヘブライ語名にした点にあります。それは、信仰の父祖アブラハム、そしてイサク、さらに父であるヤコブ、すなわちイスラエルの、神の祝福を受け継ぐ者としての信仰が強くあったからでしょう。

それは決して忘れるわけにはいかないヨセフのアイデンティティー、存在意義ともいえるものだからです。辛い過去を忘れさせてくれる新しい人生。しかしその一方で、決して忘れてはいけない主なる神さまと、その祝福を受けている者としてのアイデンティティーを読み取ることができましょう。そしてこのヨセフのこの二人の子、マナセとエフライムはイスラエルの12部族のうちの2つの部族となっていくのです。

先週の祈祷会の聖書の学びから出されたことですが。興味深いのは、そのマナセとエフライムの母親はエジプト人であり、それもエジプトの太陽神の祭司オンの家系であったということですね。異邦の国の神々は、天地万物の創造の神の支配の下にあります。又、異教の国と民も又、この神のものであり、神の御手のうちにおかれているのです。

 

さて、ヨセフが解き明かした通り、7年の豊作が終ると、7年の飢饉が始まりました。それはエジプトの国はもとより、周辺のすべての国にまで及ぶ非常に大規模で深刻なものでした。次週出てきますが、ヨセフの故郷であるヤコブの家族たちが住むカナンの地にまで、その飢饉は及んだということであります

そうして時至って、豊作時に蓄えていた食糧でもってエジプトの人々がひどい飢饉から救われる時がやって来ました。それは又、当時の世界各地の人々、中近東の国々やアフリカの国々の人々までも、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった、つまりひどい飢饉から救われることとなったということです。

神さまからの夢による啓示と解き明かし。又、聡明さと知恵による働きによって、豊作の7年の間に計画的に食糧を豊かに備蓄していたことが、こうした大規模な災害といえる飢饉の時に、活かされていくことになるのです。

しかしこれらすべては、ファラオが冒頭で語っているように「神の霊」のなせる業です。

ひるがえって、わが国の穀物自給率について発表された最新のデータによりますと、過去最低の37%ということでした。残りの63%は輸入に依存することでまかなうことができているということであります。

まさに集中豪雨、巨大台風など災害の多い日本において、今計画的に農業を保護していかなければ、農産物を育てる土壌もやせ細り、後継者も育たず、日本の食糧の生産量もその倉もやがて朽ちていき、貿易さえできなくなるような事態が生じたら、これは私たちの食生活に大きな支障をきたし、ひいては死活問題となりかねません。これは漁業や畜産業においても同様でありましょう。自然災害が頻繁に起っている今日の時代において、神がお造りになった自然、いのち、人としての営みが、平安で、平和であり続けるために必要な対策と計画的実行が、急務であると思います。「神の霊」なるお方の計らいと働きを祈るばかりです。

 

本日はヨセフがエジプトの「国難に備えて」いった箇所からみ言葉を聞いていきましたが。確かにヨセフには政治的指導者としてたけていたことが読み取れます。しかしヨセフがそのように行動できたのは、その彼のうちに「神の霊」が宿っていたからです。

それは彼がいつもどのような時も、神への畏れ、信頼と望みをもって神さまとのシャローム、平安、幸いを得ていたからであります。その個人的な神と自分との平和と幸いの絆、関係が、世の人々との平安、幸いの絆、関係へと拡がっていくのです。

すでに主イエスの御救いに与り、聖霊によって日々の歩みが導かれている私どもクリスチャンは、その主の御救い、主の平安と幸いを、まだ主のことを知らない方々との出会いを通して、日々主の福音にを証しする存在とされてまいりましょう。ただ主からの力と聖霊のお働きを祈り求めながら。

今週もここから、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

 

祈ります。

主なる神さま。今日は特に平和をおぼえての礼拝を捧げ、あなたの御言葉を頂きました。感謝します。私たちは小さく弱い者でありますが、今日のヨセフの記事から、この地上にあって私たちが主に救われ、活かされている者としてなし得る務めに、どうか感謝を忘れることなく、あなたへの誠実とをもって励むことが出来ますよう、お導きください。

私たちの平和の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

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夕べの礼拝・主の食卓を囲んでのご案内

2019-08-11 07:53:45 | 教会案内

どなたでも気軽にでれます。

日時 8月25日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


みなさまをお待ちしています

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夢を解く人②

2019-08-04 17:11:16 | メッセージ

礼拝宣教 創世記41章1-36節

 

先週の箇所では、牢獄に投げ入れられたヨセフがエジプト王の給仕役と料理役の見た夢を神によって解き明かし、その夢の示したとおり給仕役は元の職務に復帰したわけですが。ヨセフはその給仕役と約束をしており、それは「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、ここから出られるように取りはからってください」と言っていたのです。

「ところが、この給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった」ということでした。

 

「ファラオの夢」

今日のところですが。始めに、ここにある夢、英語ではドリームと訳されていますが。夢という時2つの意味合があります。「寝て見る夢」と「将来への願望を表わす夢」ということであります。

たとえば私の場合、小学校の卒業式で、卒業生の一人ひとり将来の夢を書いた言葉が講堂の正面の壁に映しだされたりしました。ちなみそのときの私の将来の夢は、「画家になってパリに行くこと」だったかと記憶しています。まあ、そのようにドリームと訳される夢にはこの2つの違った意味合いがあります。

前回の給仕役や料理役の夢、そして今日のファラオの夢は、確かに寝ているときに見た夢のことでありますが。

しかしその夢は単に意味不明のものではなく「神のご意志」「神のご計画」が隠されているというものです。マーティン・ルーサー・キング牧師はアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者として活動さrたことで知られていますが。彼の「さまざまな違いをもった人たちが同じテーブルにつく日」を夢見て語り、多くの人の共感を呼びました。「わたしには夢がある」と語った夢には、確かに将来への願望、もしくは志を夢ということで表わしましたが。それは彼の個人的な夢と言うよりも、神さまの幸いなご計画を告げる、そのような夢であったのだろうと思います。

 

さて、本日の箇所は先週の給仕役の長がヨセフを忘れてから2年間という歳月が経ちました。ヨセフの望みも虚しく、忘れられたこの2年間はどんなにか長く感じられる苦しみの日々であったことでしょう。

しかしそうした後、聖書は41章1節「2年の後、ファラオは夢を見た」と記します。

このエジプトの王、ファラオは2つの夢を見るのです。

1つは、「ナイル川から、つややかな、よく肥えた7頭の雌牛が上がって来て、芦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った7頭の雌牛が川から上がって来て、よく肥えた7頭の雌牛を食い尽くした」というものです。

ファラオ再び夢を見ます。

今度は「1本の茎から太って、よく実った7つの穂が出たが、その後から、東風で干からびた実の入っていない7つの穂が出てきて、太ってよく実った7つの穂をのみ込んでしまった」というものです。

 

ファラオはこの夢のことでひどく心が騒ぎました。

そこで、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて、自分の見た夢のことを話すのですが、だれもファラオに解き明かすことができなかったのです。

これは、エジプトの魔術師や賢者がどんなに優れていても、神を知らない者に神が見せた夢を正しく解き明かすことはできないということであります。

 

「神のとき」

さて、このファラオの夢をだれも解き明かせないということを先週のあの給仕役の長が知ったそのとき、彼は2年間すっかり忘れていたヨセフのことを思い出すのです。

そこで彼はファラオに、「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出ました」と申し出ます。

彼の言った過ちとは、自分が見た夢を解き明かしててくれた、恩人ヨセフと約束したことをすっかり忘れてしまっていたということです。しょう。

そこで、この給仕役の長は自分がもとの給仕役に戻る前に起きたことをファラオに説明しながら、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを話します。

この給仕役がヨセフのことを思い出せたのは、彼が思い出したということもありますが。

一番大きなきっかけは、ファラオが夢を見たということです。しかしそれは「神のご計画」によるものであったのです。

神さまのなさったその導き、業によって、給仕役はヨセフのことを思い出すことができたのです。

牢獄の中で2年間忘れられていたヨセフが遂に思い出されるのです。

ヨセフは切望していたこととは裏腹に2年間も牢獄で忘れられた人として耐え難い苦しい日々を過ごしました。いや、正しくは濡れ衣を着せられて投獄された時からですからもう何年か分かりません。

詩編105編18節には、ファラオの牢獄に入れられた時のヨセフの状態について次のように記されています。口語訳聖書で読みます。

「彼の足は足枷をもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ」た、と。

まあこういう苦痛の日々が何年間も続いたというのですから、きっと、そこで身も心も折れるような思いにさいなまれ、それこそまだ若いゆえに将来の夢も希望も描けなかったことでしょう。

けれども、そういう厳しい苦痛の中でヨセフは唯神さまだけに依り頼み、あらゆる苦難を耐え忍んだのです。そのヨセフを神さまはお忘れになることはなかったのです。

 

コへレトの言葉3章1節以降に「何事にも時があり」とのみ言葉がありますが。この「時」には神さまのご支配のもとに何事にも時があるということです。続けて「神はすべてを時宜にかなうように造り」ともあるとおり、すべては神の御手のうちにあって、すべてをお導きになられる神のみ業があるということです。神を畏れ敬う者は、たとえそのソ来はそう思えなくとも、後になってみれば、やはり神のなさる業は何事も時に適って美しいと、そのご計画の確かさを確認するのであります。

 

さて、2年の時を経て14節、「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやり、ヨセフは直ちに獄屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た」のです。

まさにここから、ヨセフは神のご計画のための公生涯の場へ連れ出されるのです。

 

ファラオはヨセフに会うなり、「わたしは夢を見たが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と、訴えます。

このファラオの言葉には、エジプト全土を掌握する権力を有していた王でさえ解決することのできないこの夢の問題を前に、大きな不安の中におびえる彼の、ヨセフへの強い期待が読み取れます。

 

そのファラオの訴えに対してヨセフは、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えます。

投獄された奴隷の身分のヨセフがエジプトにおいては、絶対的的権力を持つファラオに

「神が」とさらなる絶対的権威あるお方である神について言い表わすのです。すごいことだと思いますが。

ここで、新共同訳で「幸い」と訳されている原語はヘブライ語で「シャローム」であるという点は1つの大きなポイントです。

前の口語訳聖書ではシャロームは「平安」と訳されていますが。ここでの「ファラオのシャローム」いう場合、まずファラオ自身が抱えていた大きな不安、魂の激しい苦痛に対する心の、又魂の「平安」ということがあります。

ファラオはエジプトを治める者としての苦悩を抱えていたのです。

 

それにしても、ヨセフはこのように堂々と臆することなく王ファラオの前で「神がお告げになられるのです」と言うことができたのでしょうか。

ヨセフ自身、牢獄で足枷、首輪をはめられて心身ともに日々激しい痛みと苦しみを抱えていた中、なおもそこで神にのみ依り頼んで堪え忍んでいくのです。

先週読まれましたように「神が共におられる」、唯そのことだけがヨセフのシャローム、平安であったのです。神が共におられるからこそ、シャローム、平安である、幸いである。ヨセフはそれを体験していたからこそ、王であるファラオに臆することなく、神がファラオの幸い、シャロームについて告げておられるのだと、伝えることが出来たのではないでしょうか。

そこで、ヨセフは確信をもってファラオに、「あなたの心と魂にシャローム、平安を与えることができるのは如何なる世の権力や世の能力ではなく、主なる神さまにある」と、いうことができたのです。

私たちもまた、すべてを統めたもう神にこそ、シャローム、平安、揺るぎない幸いを見出すものでありたいと願います。

 

さて、ファラオはヨセフに自分の見た夢について話します。

そのファラオの見た二つの夢の話を聞いたヨセフは、25節「夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、お告げになったのです」と、ファラオに答えます。

2つの夢は同じことを意味するもので、これが2度繰り返され強調されているのは、夢で予告された出来事が神によって定められ、間もなく神が実行されようとしておられる、ということであります。

 

ヨセフは、ファラオの見た夢から、「7頭のよく育った雌牛と7つのよく実った穂は、7年の大豊作を意味し、7頭のやせた、醜い雌牛と東風で干からびた7つの穂は、7年間の飢饉を意味します。その後の7年続くその飢饉はひどいものであるため、最初の7年の大豊作のことを思い出せないほど、全く忘れてしまうものだ」と、解き明かします。

ちなみに、エジプト南部で発見された文献には、紀元前2600年頃に数年間の豊作があった後、7年間の飢饉が訪れたという記録が残っているとのことです。まあいずれにしろ、

こういった長い期間に及ぶ大規模な飢饉がエジプトでは起り得たということです。

 

「幸いなものに変える夢解き」

先週は給仕役と料理長の見た夢の解き明かしだけで終っていましたが。

今日のヨセフの夢解きは、単にファラオの解き明かしただけでは終っていません。

ここでヨセフは、ファラオに「神がこれからなさろうとされる」ことと、実に3度に亘って告げました。それはつまり、必ずなさるのだから、ファラオもなすべきことをなさなければならない、ということを言わんとしているのです。

それは具体的に、34節以降にあるとおり「豊作の7年の間、エジプトの国の産物の5分の1の備収、穀物の備蓄と保管」です。それがやがて訪れる7年の飢饉から国が滅びることがない手立てになるというのです。

ヨセフは王さまの夢を神に示されたまま解き明かしました。しかしその事だけで終らず、危機的な状況を前にして、不安や恐ればかりが生じる悪夢のような将来にシャローム:幸いを与える夢を語ったのです。

この7年の大豊作と、その後に起る先の7年の大豊作を忘れ去るほどの7年の大飢饉はもう神が決定なさったことであります。

しかし、たとえそういった大飢饉が訪れたとしても、それに対応した生き方、備えや術によって、エジプトを国難から救うことができる道が用意されている、そのような幸いの道、シャロームの道がヨセフを通して提示されていくのです。

それだけではありません。このことがひいてはエジプト周辺の国々の人たちにとってエジプトが食糧の備蓄拠点となって、周辺諸国とその地域に住んでおられる人々を飢餓から救うことができ、ファラオの、そしてエジプト全土のシャローム、幸いにつながる道になるということです。

ファラオの夢は、神がファラオにシャローム。平安・幸いを告げるものだと、ヨセフが語ったことはこうして実現へと向かうのです。

 

今日の私たちの世界を取り巻く状況も、このファラオが夢を見た時と同じように不安や危機感を感じ、心騒がすようなことがあるのではないでしょうか、

しかし、今日の聖書は私たちがそのような状況の中にあっても、確かに共におられる主にあって平安と幸い、シャロームを見出す者となるようにと、、主が私たちを招いておられるのです。その幸いと平安の御心、シャロームの実現に向けたご計画を主と共に担う者とされていくことを主は願っておられるのではないでしょうか。

主の御心に耳を傾けつつ、平安と幸いを実現したもう主にあって、今週も今日のみ言葉をもってそれぞれの持ち場へ遣わされてまいりましょう。

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