日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

夢を解く人

2019-07-28 12:37:22 | メッセージ

礼拝宣教 創世記40章1-23節

 

  「先週のみ言葉から・・・」

先週までの復習ですが。兄たちの妬みと憎しみによって異国の地エジプトに奴隷として買い取られることになったヨセフは、主人である王の侍従長ポティファルの信任を得て、家の管理をゆだね、すべての財産を任されることとなります。ところが、主人の妻のヨセフへの逆恨み、ねたみによってヨセフは陥れられ、監獄に収監されてしまいます。

しかし、聖書にありますように、「主がヨセフと共におられ、恵みを施された」ので、ヨセフはそこでも監獄の監守長の目にかなうように導かれ、囚人はみなヨセフの手に委ねられ、獄中の人のすることはすべてヨセフが取り仕切るようになるのです。

まあ、ジェットコースターのようにヨセフは何度も下がったり上がったりの途を辿るのでありますけれども。聖書は「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られた」と、伝えています。

私どもも様々な出来事に遭遇いたしますが、神さまの采配を常に祈り求める者を、主はそのご計画をもって持ち運ばれるのです。

 

又、先週のもう一つのキーワードは「手」という言葉でした。「手から買い取り」「手に任せ」「手に委ね」「手に残し」など7回も、記されておりますが。聖書において「手」は力や支配、強さを表わす象徴なのです。

奴隷の身であったヨセフに対して、主人ポティファルは王の直近であり、力や権限を所有していました。彼の妻も、奴隷であったヨセフに対して力をもちい、ヘブライ人と見下しおとしめました。

一方のヨセフは、奴隷とされた身分でしたが、主に依り頼む他ないヨセフと共に主がおられたのです。それは世の権力ではなく、神が共におられる神の御手が、彼の上にあったということであります。

私どもも、「主の祝福を担う人」として、すべてを統めておられる主の御手のうちに歩む者とされたいと願うものです。

 

②「夢を解くヨセフ」

さて本日は40章から「夢を解く人」と題し、み言葉に聞いていきます。

先の37章では、ヨセフ自身が特別な夢を見て、その夢を兄たち、両親に打ち明けるのですが。今日のこの箇所では、エジプト王の給仕役と料理長が見た夢を、ヨセフが解くのです。

この給仕役と料理役は、エジプト王、ファラオに過ちを犯した、と記されています。

詳細については分かりませんが、ともかく王ファラオは怒って、侍従長ポティファルの家にある牢獄に彼らを収監します。ここには王の権限や権力が描かれているように思えます。

先週の物語からの続きになりますが、この2人が収監された監獄には、濡れ衣を着せられたヨセフが先に収監されていました。

先週読んだように、その監獄においてヨセフは監守長の目にかなうようになり、囚人は皆その手にゆだねられ、獄中の人のすることはすべてヨセフが取り仕切るようになっていましたが、侍従長のポティファルは、ヨセフにこの2人の身辺の世話をさせます。まあ監守長よりもさらに力のあった侍従長の命令で、監獄の中でもヨセフは奴隷として仕えさせられるのです。

 

先週の誰々から誰々の「手」にわたり、といった「力」「所有」の話が、今日のところでも、こういうかたちで出てきているんですね。

その力や権限の頂点にいたのがエジプト王のファラオであったのです。そのファラオの怒りをかったわけですから、まあ、いくら位の高い側近の給仕役や料理長であっても、

問答無用に監獄に収監されてしまうのです。

しかし、さらにその下には、この2人の囚人に仕えるヨセフ、僕としてのヨセフがいたのです。

現代でもこういった「力の関係」というものがあるわけですけれども。近年ではそれがむしろ大きくなってきたように思えます。学生であっても学校カーストなるものが、存在するそうで、残念に思います。聖書は私たち一人ひとりを「神の作品」として、その一人一人が大切な存在であることを伝えています。

ガラテヤの信徒への手紙には「もはやユダヤ人も、ギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。

「主の霊のあるところには、自由がある。」

キリストの教会は様々な立場の違いを超え、主にあって互いが尊い存在とされることを大切にしていきたいですね。

 

  「神の隠れた支配」

さてその牢獄で幾日かが過ぎた時、「この給仕役と料理役は、2人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた」とあります。

みなさんは、夢を見ますか。私は幼い頃はよく夢を見ることがありました。とくに怖い夢が多かったように思いますが。大人になるとあまり夢をみることがなくなりました。でも、どこか心のうちに抱えている問題や悩みがあるときに、それが夢になって現れるということも私の場合あります。

けれど、中には霊的な夢を見た人や夢で主御自身がお語りになったという方もおられるかも知れません。いずれにしろ、主は夢に限らず、様々なかたちで、私たちに何らかの示しをお与えになることがあります。

この給仕役と料理役の見た夢の内容は、単に意味のないものではなく、それぞれに意味が隠されたものであったということです。二人はこの夢に何か意味があるに違いないと考え、ヨセフに「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」とその心のうちを訴えます。するとヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか」と答えるのです。

古来より夢は、不思議な現象として捉えられ夢占いが盛んに行われてきました。現代は心理学の分野から、心の状態を知るために夢を分析するようですが。まあ、占いについていえば、神は忌むべきこと、と記されています。

では、ヨセフの夢の解き明かしは、それとどう違うのでしょうか。

それは、このヨセフが言うように「解き明かしは天地の主、生と死を司る神がなさる」ことであるということです。

ヨセフのこの「解き明かしは神がなさることではありませんか」との言葉は、王の側近であった2人にどう聞こえたでしょうか?

エジプトにおいては、あらゆる権力を掌握するファラオは、あたかも神のような存在として崇められていました。が、ヨセフのこの神宣言は、まさにエジプトにおける絶対的権力への挑戦ともとれる発言であったのです。

ファラオの力と支配を遙かに凌駕する権威は、唯主なる神さまのみにあり、いっさいを司っておられることを、ヨセフは宣言しているのです。

世において神さまのご支配は、目には見えません。けれども、ヨセフはその神さまの働きを知っていました。

 

ここで、神はヨセフに夢を解かせて給仕役には救いの知らせを、料理役には死の知らせをお示しになります。それは一見、私たちの目からすれば非情です。

しかし、人の生も死も、エジプト王ファラオの行く末をも、すべてを司っておられるのは天地の造り主であり、この神のうちにすべての決定権があるのだということを、聖書は伝えんとしているのです。

先週より「手」と言う言葉には「所有」や「権力」が象徴されているという話をしていますが。旧約聖書の箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」と記されています。

そのように、神の御手のうちにこそ、わたしたちのすべてがおかれ、この神に信頼して生きる道にこそ、希望と救いがあることを、聖書は伝えているのです。

ところで、ヨセフはそれぞれ2人に、神の隠されたご計画について解き明かしますが。給仕役にはよい知らせであっても、料理役には審きの告知です。

この時のヨセフの心情については、ここには何も触れられておりません。しかし、そこに旧約の預言者たちがイスラエルと南ユダの人々に対して、神の審きと、その罪による滅びについて告知しなければならなかった時と同様の困難や苦悩を想像することができます。

世の人々の心地よさや調子に合わせて「平和」「平安」「心配ない」「大丈夫」と言って偽りの平和を安易に約束する偽預言者たちが、旧約の時代にもおりました。

神は聖なるお方、義なるお方であります。ほんとうに必要なときに「神の裁き」と「悔い改め」が語られることなく、滅びに至ることを、決して主なる神さまは願っておられません。

 

  「神の恵み・ヘセド」

最後に「神の恵み、ヘセドの愛」についてお話ししたいと思います。

先週、ヨセフがポティファルの妻の逆恨みを買って監獄に入れられた折も、「主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(3921節)た、とありましたが。

この主の「恵み」はヘブライ語でヘセド、慈しみ・慈愛を意味する言葉です。

相手の苦しみや悲しみを自らのものとして、腸が千切れんばかりに感受するということです。主イエスさまもまた、飼い主のいない失われた民たちの姿を見て、深く憐れまれた。ヘセドの愛をおぼえられたのであります。

この神の恵み、ヘセドの愛が、今日のところでは自分と同じくファラオの牢獄に収監された2人にヨセフを向かわせるのです。その出会いは隠れた神さまのご計画によるものでありましたが。私の人生においても貴重な出会いが与えられました。それは小学生の時代、悩み多かった私を教会に誘ってくれた友は、やはり神さまのヘセドの愛に生きる人であったし、もし彼との出会いがなかったら、教会の方々との出会い、その温かい執り成しと祈りの支えに与ることも、主イエス・キリストとその御救いに与ることはなかったでしょう。これも又、隠れた神さまのご計画であったのだと思います。

 

大切なことは、ヨセフのうちに臨んでいた神の恵み、神の慈しみ、ヘセドがこの二人へと向かわせ、関わりとなって次週以降に続きます。神の救いのご計画へとつながっています。

神の恵み、神の慈しみ、ヘセドの愛に与っている人たちは、その神の恵みをもって遣わされる人とされるのであります。

 

  「忘れられたヨセフを忘れない神」

まあ、そのように神の恵みをもって夢の解き明かしをしたヨセフは、ファラオの給仕役の方に「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください」と、強く訴えます。

そして3日目のファラオの誕生日に、給仕役の長はヨセフの解き明かしたとおり、王が元の職務に復帰させます。ところが、この給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、なんと忘れてしまったのです。

そのためヨセフはその後も2年間ファラオの監獄に入れられたままになったという何とも切ない状況で、今日の箇所は終っています。

 

人は忘れてしまうのです。おおかた忘れます。なぜなら、自分のことで精いっぱい。その時その時、身近に起って来ることに懸命に生きているのが人間です。

けれども、確かに、自分は誰からも関心が向けられないと想うと寂しく、失望しやすいのも私たちではないでしょうか。

ヨセフは確かに今日の箇所では人に忘れられてしまいます。が、そこでこの物語は終っていない、終らないのです。主なる神さまは人々に忘れられたヨセフをずっとおぼえ続けておられ、2年の後遂に、時は満ちた、とヨセフを牢から救い出すべく立ち上がってくださるのです。「人は忘れても神は忘れない。

私たちは決して忘れられていません。このヘセドの愛なる神さまが共におられます。

この主なる神さまへの信頼と感謝とをもって、今週もこの礼拝からそれぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝・主の食卓を囲んで ご案内

2019-07-27 22:51:29 | お知らせ

日 時 7月28日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


お気軽にいらしてください。

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いつも神は共におられる

2019-07-21 12:03:12 | メッセージ

礼拝宣教 創世記39章1-23節 3676 2019/7/21

 

先週先々週と「ヤコブの家族」というテーマのもとで、共に聞いてきました。

本日はエジプトに奴隷として売られたヨセフの物語です。

まず、この39章を読んで気がつきますのは、4回も「主がヨセフ(彼)と共におられた」と繰り返して強調されていることです。

「主が共におられる。」このいわば祝福を担う者への約束は、最初アブラハムに、次にその子イサクに、次いでその子父ヤコブに受け継がれていきました。

ヤコブは神と格闘して祝福を得、後にイスラエル12部族の父となります。

そして、今日のところでは、エジプトで奴隷とされたヤコブの子ヨセフがその祝福の担い手となり、「神は彼と共におられる」のです。

まあ、それはヨセフの曾祖父、祖父、父から受け継がれてきた信仰の継承としての賜物ともいえますが。じゃあ、そうした血筋に生まれたわけではない異邦人の私たちは、神の約束、祝福に与れないのでしょうか。もちろんそうではないことを知っているからこそ、ここで私たちは主なる神さまに礼拝を捧げているのです。

今や新しい契約の時代、全世界の救い主イエス・キリストの到来とその十字架の救いのみ業によって、だれもがその神の祝福に与る道が開かれているのです。

その神の祝福は、私たちの先祖がどうだとか、家系がどうだとかに一切関係なく、いわばこのアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフに与えられた「神は共におられる」との祝福の約束に、私どもは救い主、イエス・キリストをとおして賜っているのです。

 

さて、今日の「神が彼と共におられた」と記されているヨセフですが。この39章のヨセフの姿は私どもの目にどのように映るでしょうか。

先週読みました37章では、ヨセフは兄たちの妬みと憎しみによって荒れ野の穴に突き落とされ、さらに異国の地に売られてしまいました。

今日のところでは奴隷とされ、ヨセフが誠実に生きていたのに濡れ衣を着せられて、遂に監獄に入れられ囚人とされてしまのです。

このように繰り返しヨセフに災難が及ぶのです。人の目に到底祝福とはかけ離れて見えるヨセフがいます。

 

さて、ファラオの宮廷の役人で侍従長あったポティファルに売られたヨセフは奴隷として彼の家に忠実に仕えます。

ポティファルは「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計られるのを見て」、ヨセフに目をかけ、身近に仕えさせ、家の管理やすべての財産を任せるのです。

まあ、ヨセフに人並み優れた能力があったともいえます。

けれども、注目すべきはそのヨセフの能力ではなく、ヨセフが「主の祝福」を担う人であったということです。

5節に「主がヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ」と記されています。

ヨセフがその家に来た日から、そのような変化が生じました。ヨセフは主の祝福を担う人として神がお用いになられるのです。

ところが、そんなヨセフに試練が訪れます。

「顔も美しく、体つきも優れていた。」ヨセフをポティファルの妻が自分の意のままにしようと執拗に誘惑するのです。

ヨセフの母であったラケルについても聖書は「顔も美しく、容姿も優れていた」(創29:17)とも記されていますが。人の容姿や身体的なことについて言及するのは現代では問題があるようにも思えます。

しかし、聖書はその母から生まれた子もイケメンであったと、そのまま記しており、まあ幸か不幸かそのため、ポティファルの妻から目をつけられて誘惑を受けるわけです。それに対して、ヨセフは拒んでこう彼女に答えます。

9節「この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたはご主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」

 

ヨセフにはすべてのことが任され、自由に行使できる力をもっていました。けれどもヨセフはそれを神への畏れをもって誠実に管理しようと努めました。一方のポティファルの妻は、その立場を乱用してヨセフを思い通りにしようとしたのです。今でいうパワハラです。

この39章には「手」という言葉が何と7回(1,4,6,9,12,22,23)も記されています。この「手」は強さや力を表します。

私たちの社会でもパワハラということが様々なかたちで問題となっていますが。殊に、現代社会では、将来の先行きが見えないような閉塞感や、いつ何が起こるかわからなというような不安感が増大しています。又、社会に対する不満のもっていきどころがないような中で、憤りや苛立ちが断絶を生むような残念な事態が様々なところで起こってきています。ことにそうした中で、人はこの「手」に象徴されます「より強く力のあるもの」を求め、それに引き寄せられて迎合していく、あるいは依存していくということが、悲しいかな社会に蔓延しているといえないでしょうか。

 

先ほど、デットリッヒ・ボンヘッファーの作詞「善き力にわれ囲まれ」を賛美しましたが。師はナチスドイツの政権下のもと、投獄され処刑されたましたが。

「かつてドイツのナチス政権があのおぞましい大量殺戮の大罪を犯しましたが。そこへかりたてていったのは、カリスマ的指導者や権力者だけではありません。一人の人間を権力の座に押し上げていったのは大衆であります。優越性を強調し、差別することで自らの誇りを取り戻そうとする人たち。それを煽り立て、大言壮語して攻撃対象(敵)を作り、大衆の鬱積を晴らすようなパホーマンスでもって、その大衆の心を掴み、膨大な力をもつ権力者がのし上がっていった。そのような仕方で、あのナチス帝国ができていったのです。それがあの悲惨な殺戮と戦争へ突き進ませる事態となってしまったのですね。

 

私どももこうした先行きの見えない不確かな時代であればあるだけ、この「手に」象徴される「パワー」に対して、表面的な言葉や態度に惑わされないよう、過去の多くの教訓から学ぶ者でありたいと願います。今日は折しも国政選挙、参議院議員選挙の日です。日本に住んで税金も払っていながら、参政権が与えられていないかたがた,投票したくても出来ない方々もおられます。日本に住み税金も払いながら、国政に参与する権利が奪われているのです。

こうした中で参政権をもつ者は、どうせ私が一票を投じても何も日本は変わらないと、成り行き任せ、人任せとなると、取り返しのつかない社会になっても、神の前に申し開きできません。先の見えない時代だからこそ、国政についての主権は政治家や官僚にではなく、私たち市民にあることを、投票というかたちで表していきたいですね。もちろん国政、行政、司法に携わる人たちが、この国に住むすべての人たちの平和と平安のために務めを果たすことができるようにと、祈り続けることは大切なことであります。

 

聖書に戻りますが、ここでヨセフがポティファルの妻の強い要求に応えてしまい関係を持っていたら、ヨセフの夢、すなわち「主の祝福を担う人」としての使命は断たれていたでしょう。

しかし、ヨセフは「どうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と、はっきりとポティファルの妻に伝えます。

そこにはヨセフが大変な状況、大きなピンチの中にあっても、彼が神を畏れ敬う者として、誠実に生きようとしたことが伺えます。

 

さて、そのようなヨセフに対して、一方のポティファルの妻はさらに執拗に「ヨセフの着物をつかんで『わたしの床に入りなさい』と言ってきたので、ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」のでした。

主への畏れと、自分を守るためヨセフに残されていたのは、ただ逃げるということです。ヨセフはポティファルの妻の度重なる誘惑とその罪からこうして逃れます。

 

しかし、ポティファルの妻のゆがんだ愛は怨みとなり、彼女は恐ろしい仕打ちをもってヨセフを陥れるのです。

彼女は家の者たち、さらに主人のポティファルに対して、「わたしはあのヘブライ人(あなたの奴隷)からいたずらをされた。わたしが大声で叫んだのを聞いて、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました」と、ヨセフに濡れ衣を着せるのです。

ヘブライ人という言い方は、エジプト人からすれば「流れ者」とか「よそ者」を意味しました。さらに主人には「あなたの奴隷」と、ヨセフを見下すのです。

彼女は隠れたことすべてをご存じの主を知りませんでしたから、まあ自分の思い通りにならなかったら、大胆不敵にも平気でこうしたことができたのです。

主人のポティファルはその妻の言葉を鵜呑みにして、怒り、囚人をつなぐ監獄にヨセフを入れてしまいます。奴隷から、そして今度は囚人として監獄にヨセフはもう奈落の底に転落したかのような状況に投げ込まれてしまうのであります。

 

先週の37章では、父ヤコブの平和と和解の使者として兄たちのもとを、険しい道のりを越えて訪ねますが。兄たちの嫉妬や憎しみによってヨセフは荒れ野の穴に突き落とされ、父ヤコブの愛の象徴である裾の長い衣をはぎ取られて、異国に売られ奴隷にされてしまいました。

今日のところでも、ヨセフは主人から信任を受けて、家のすべての財産をその手にゆだねられますが。主人の妻からの執拗な誘惑に遭い、ヨセフは主を畏れる思いから、それを退けるのであります。

ところが、結果的にヨセフはいわれのない主人からの怒りを買うことになり、監獄にいれられてしまうという災難に遭うのです。

どうして彼が、このような度重なる災難に遭わなければならないのか。これは肉的にみればあまりに理不尽としか思えないのではないでしょうか。

 

けれども、この何度も災難ともいえるような事どもが襲ってくるヨセフ、人の目には祝福とはかけ離れて見えるこのヨセフと「神は共におられた」と聖書は伝えるのです。

この39章のこの場面は、ヨセフの人生の中でおそらく一番苦しかった時だと思うのですが、まさに「その時」、神が彼と共におられ、共に歩んでおられたというのです。

主を信じるクリスチャンとして生きる私たちも、何か立て続けに困りごとやお手上げともいえるようなことが起こってくることもあります。

けれども、その本当にしんどい時にこそ、「神が共におられる」のですね。

そして、そのことを信じる信仰こそが、実は「祝福の源」であります。

 

ヨセフはこの信仰の祝福の源によって、どのような状況におかれても、主を畏れ、世の力に依存せず、自分を見失うことなく主に従うことができたのです。そこにヨセフが世の力のもとにではなく、神の御手、主の御手のもとにあったからです。

私たちもまた、「神が共におられる」祝福の源に与っていることを確認しながら、その主の祝福を伝え、証ししていくために、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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美しく開花する白木槿(しろむくげ)

2019-07-20 16:49:14 | 教会案内

白木槿(しろむくげ) 大阪教会西側・茶臼山公園内「河底池(通称・ちゃぶ池)」周囲に開花する 7月中がみごろ。

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ヤコブの家族②

2019-07-14 14:55:57 | 教会案内

礼拝宣教 創世記37章12-36節 

 

本日は「ヤコブの家族②」というテーマで、創世記37章後半の12節~36節から、共に聞いていきたいと思います。

信仰の父祖、アブラハムの子、イサクの子、そのイサクの子であるヤコブ。先週も触れましたが、そのヤコブには2人の妻がおり、さらにそれぞれの妻の召使いの計4人の女性から生まれた男の子どもが12人いました。他にも女の子、娘たちもいたようですが(3735節)。そういった大家族の中で「ヤコブの愛」をめぐる問題が2人の妻たち、さらに兄弟たちへ移っていきます。

 

ヤコブは年寄り子のヨセフを溺愛します。他のどの息子よりもかわいがり、特別に裾の長い晴れ着をヨセフに作ってやるのです。そのことのゆえに、ヨセフの兄たちは、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなくなります。さらにヨセフが自分の見た夢を、兄たちが自分にひれ伏すようになることを暗示する夢として兄たちに話したことで、ますます兄たちはヨセフを憎むようになるのです。

まあ、この兄たちにしてみれば、「自分たちはお父さんの羊の世話をするためにぼろ着しかつけていないのに、なんでまだ働きもしないこの弟だけはこんな立派な着物なんだ」と不満をいいたくなるのもわかる気がしますが。

その根底には、複雑な家庭環境の中で、兄たちのそれぞれが「もっと自分を認めてほしい。私のこともちゃんと見てほしい」という「父の愛」への飢え渇きがあったのでありましょう。そうした子どもの時からの欲求が激しい嫉妬と憎悪になったのです。

 

さて、今日は12節からの後半、ヨセフが兄たちからあわや亡き者にされそうになる場面からです。

父ヤコブはヨセフに、シケムで羊の群を飼っている兄たちのところへお前を遣わしたいのだが」ともちかけます。

ヤコブは兄息子たちのことを愛していなかったわけではなかったのです。

「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか」の言葉からも、他の兄息子たちのことを心にかけ、大切に思っていた様子が伝わってきます。ちなみにこの「無事かどうかを見届けて」の無事とはシャローム(平和・平安)という言葉が用いられています。

溺愛していたヨセフに独り険しく遠い道のりを行かせたのには目的があったのです。

それは、ヨセフと兄たちとの関係改善、しいてはヤコブの家族の平和、シャロームを願ってのことであったのでしょう。

 

まあヘブロンの谷からシケムまでは北に77キロもあったようです。山や坂、谷などあり険しく危険な道であったようですが。ヨセフは父ヤコブの言葉に、「はい、わかりました」と、快諾します。ヨセフも父の思いをくみ、兄たちとのシャローム(平和・平安)を思い、父の提案に従ったのですね。

 

こうしてヨセフは長く険しい道のりを経て兄たちがいるであろうシケムに辿り着きます。しかし、兄たちがドタンに行こうといっていたことを人から聞くと、自ら進んでさらに北に25キロ先のドタンの地へ向います。

 

さて一方、「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めます。」(18節)

そうして父やヨセフの思いも知らず、彼らは近づいて来るヨセフを「あの夢ともども排除しよう」と相談するのです。

彼らは満たされない思いから嫉妬や憎しみが遂に殺意にまで及び、ヨセフを亡き者にしようとしたのです。

 

しかし長男のルベンだけはヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったようです。そこで彼は「命まで取るのはよそう」(21節)「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」(22節)と訴え、それによって、何とかヨセフは兄たちに殺されることはなく、その命は守られるのです。

 

けれども、ヨセフが着ていた裾の長い晴れ着は兄たちにはぎ取られてしまい、彼は荒れ野の穴に落とし込まれてしまいます。

そういう中で、兄弟のユダが提起したのが、ヨセフをイシュマエル人に売ろうという計画です。口ではユダはヨセフも肉親だとか、手をかけるのよくない、と他の兄弟らに言いますが。結局はヨセフを排除したかったことには変わりなかったのです。

 

ところがそういった最中に、荒れ野を通りかかったミディアン人がヨセフを穴から引き上げて、イシュマエル人に銀20枚で売って、ヨセフはイシュマエル人にエジプトへ連れていかれてしまうのです。

この空の穴の第一発見者は長男のルベンでした。彼は穴からヨセフを助け出して父のもとへ帰そうと考えていましたから、それは相当なショックでした。彼は「自分の衣を引き裂く」ほど嘆いたのです。

そうして途方に暮れたルベンが他の兄弟たちにこのことを伝えるのですが、他の兄弟らの反応はルベンとは違いました。彼らはヨセフが自分たちの目の前からもはやいなくなり、父からも切り離されてしまえばよいと思ったのです。そうして父の愛が自分たちに向けられていくことを意識しようとするまいと、そのように願っていたのだと思います。

 

人はだれしも自分の存在を肯定してくれる人を必要としています。その始まりは親であるでしょう。

私は少年期に両親の離婚を経験し、母親の手によって育てられました。少年期の頃の自分の心はどこか空洞のようになり荒れ果てていました。近所の悪い子のグループに入り万引きを繰り返したりもしました。そんな時、ひょんなことから一人の同級生の誘いによって、近所の教会の日曜学校に行くようになったのです。その後中高生時代は少年少女会に参加するようになり教会の友だちができました。又、教会の方々が私を温かく迎えてくださいました。いつの間にか教会が自分の空洞となっていた心を満たしてくれる居場所、家族とされていったのです。もし私がこの少年時代に教会と出会っていなかったなら、ほんとどうなっていたんだろうと思いますね。

 

さて、聖書に戻りますが。

31節「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これをみつけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた。」

 

彼らはグルになって父をだますのです。

せめて、長男のルベンだけでもこの他の兄弟たちの行為を思いとどまらせることができなかったのか。正直に父のヤコブにヨセフが売られていったことを話すことができなかったのか。そうしたらキャラバンを追跡していって取り戻す事もできたかも知れません。

まあ、そのためにはルベンは自分を含む兄弟としてヨセフになしたことを洗いざらい父に明らかにしなければいけません。それは他の9人の手前もあることから恐れが先立ってしまったのでしょう。

長男として自分の立場を他の9人にはっきり示さねばなりませんでしたが、他の9人の兄弟たちの行為を黙認するしかなかったのです。

結局、父ヤコブのもとに雄山羊の血で浸されたヨセフの晴れ着を届けさせた偽りの責めを、ルベンは長男として、それからずっと負っていくことになるのです。

 

こうして33節、「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」

息子ヨセフを亡くしたことへの大きな落胆と嘆きは、誰の慰めも寄せつけません。

当初兄息子たちは、ヨセフを排除することによって父の愛を自分たちに引き寄せようと結託したのです。「ヨセフは野獣に殺された。もういないんだ。」そのように見せかけたのもまた、父の愛をヨセフから自分たちに向けさせるためであったのです。

そうして、彼らは今こそ悲しみ心痛める父ヤコブを自分たちが慰めて、父から愛を得ようとしたのではないでしょうか。が、しかし、兄息子たちの父への慰めは、それが偽りの慰めであったため、何ら父を慰めることはできなかったのですね。

兄息子たちのもくろみはみごとに失敗し、ただ父ヤコブを絶望と悲しみのどん底へ突き落とす結果としかならなかったのです。

 

ヨセフの兄たちは確かにヨセフに直接手をかけて殺害したわけではありませんでした。

けれど、それは見殺しにしたも同然です。父に対しても正直に、「ヨセフがどこかのキャラバンに連れていかれた」と打ち明けていたのなら、確かに父が悲しむことはあっても、まだ父は希望がもてたはずです。

しかし、兄息子たちは嘘を上塗りしたことによって、「あの子は死んだ」と思いこませ、父の心までも死ぬほどに苦しめたのです。

 

始めに申しましたように、父ヤコブがヨセフを兄たちのもとに送ったのは、シャローム、平和、そして和解のためでした。

ヨセフもまた、その父の思いを受けて兄たちのもとを訪ねて行ったのです。けれど兄たちはそれを理解せず、反ってヨセフを憎しみ、亡き者にしようとしたのです。

 

今日のはじめの13節には、父ヤコブの名が、かつて神から受けた「イスラエル」の名で記されていますが。それは父ヤコブの兄弟間におけるシャローム、平和、平安、和解を願う思いと、父なる神さまのイスラエル12部族におけるシャロームへの期待が重ね合わされているのでありましょう。

しかしさらに新約聖書の時代に生きる私どもにとりましては、この遣わされたヨセフの姿がイエス・キリストのお姿と重なっているように思えるのであります。父なる神さまがその御心によって真のシャローム・神の国の福音を告げ知らせるために、私ども全人類にお遣わし下さったイエス・キリスト。

しかし、キリストは、父の愛を理解しようとせず、罪を認めようとせず、うそ偽りで塗り固めているようなそんな私ども人間の罪によって十字架に磔にされ、殺されてしまうのです。

けれども、まさにそのことによって人の罪はあがなわれ、全世界に救いの道、そしてシャロームがもたらされることとなっていくのですね。

このヨセフの物語はその神さまの偉大なご計画を指し示すように、ヤコブの家族全員がこのヨセフの受難を通して救済にあずかることになっていくのですね。

礼拝の招詞として読まれました使徒言行録2章36節をもう一度お読みしたいと思います。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスは、神の主として、またメシアとなさったのです。」

 

今日私たちはこのヤコブの深い嘆きの中に、父なる神さまの深い愛を思い起こしながら、その救いに心新たにされ、神さまの愛に立ち返って生きる者とされたいと願います。

 

最後に、今日はそのような聖書からの語りかけを受け取る中で「父の涙」というワーシップソングが思い起こされました。この歌詞にそのメッセージがこめられていると思いますので、それを賛美させて頂いて宣教を閉じたいと思います。

 

祈ります。

主なる神さま。主にあって、私たちが神の家族として父なる神の愛を更に深く知り、主イエスのみ救いのもと心を一つにすることができますように。そして、すべての人を招きたもう主の愛を知り、共に生きるシャロームが実現されますよう祈り、努めていく者とならせてください。今日もこの礼拝からそれぞれの持ち場へお遣わしください。主の御名によって祈ります。アーメン。

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夕べの礼拝「主の食卓を囲んで」

2019-07-11 09:02:12 | 教会案内

日 時 8月11日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。


お気軽にいらしてください。

 

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天王寺 こども食堂 おいでやからのおしらせ! 

2019-07-09 09:36:54 | イベント

 8月14日(水)は、おやすみとなります。


☆次回日時:9月11日(水)午後3時30分~7時

 

☆ばしょ:大阪教会の2階ホールへおいでください。


☆こんだて 


☆さんかひ 小学生50円 中学・高校生100円 

      親・おとな200円


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題ももっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。


ボランティアさん、ほぼ10人おります。

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ヤコブの家族

2019-07-07 13:32:23 | メッセージ

礼拝宣教 創世記37章1-11節 

 

今日からは一気に旧約聖書の創世記の時代にまで遡り、戸惑いをおぼえておられる方もいらっしゃるかも知れませんが、8月末迄は2ヶ月間に亘ってこのヨセフ物語を丁寧に読んでいく予定です。

このヨセフ物語は創世記のなかでも、37章から50章までを占めております。

その内容は、読まれている方はすでにお感じになられているかと思いますが。大変文学的にも優れておりまして、私が子どもの頃は、テレビのトンデラハウスの大冒険という番組で、エステル記のエステル王妃物語やこのヨセフ物語を観て感動したことを憶えています。

直接に神の顕現の描写はないですが、といって単なる文学作品かといえばそうでもない。

 

今日の37章3節に、「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので云々」とありますが。ここで聖書が、ヤコブの名ではなく敢えて「イスラエル」と記しているところに実は意味があるのです。

イスラエルとは民族や国家の総称としてのイスラエル、そういうことだけではありません。

それは、ヤコブが「神さま、私を祝福してくださるまでは離れません」といって神と格闘したことから、遂に神さまがヤコブを祝福して、与えられた神の前における新しい名前なのです。

今日のこの3節の箇所に敢えてヤコブでなく、イスラエルと書かれているのは、神さまの祝福に基づいたご計画が、確かにもうこのヨセフ物語の最初の時点から始まっているということが描かれているのですね。

イスラエルの民は永きに亘る試練や苦難の歴史の中で、このヨセフ物語に、隠された神さまの祝福のご計画を自分たちのこととして読み取り、それを自分たちの信仰の支え、力にしてきたのだとろうと思います。

 

旧約聖書を新約聖書と等しく神の言葉として信じている私どもにとりましても、きっとここに天地万物の主である神さまの私どもに向けたメッセージがある。そのことに期待をし、祈りつつ、読みとっていきたいと思います。

さて、本日はそのヨセフ物語の序章・プロローグともいえる箇所です。

今日のキーワードは2節の「ヤコブの家族」です。

詳しくは創世記29章以降の記事を読みますとわかりますが。

ヤコブにはレアとラケルの2人の妻がいました。この2人はヤコブの叔父にあたるラバンの娘で姉と妹でした。

聖書には「レアは優しい眼をしていた、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。ヤコブはラケルを愛した」なんてことが書かれていますが。ヤコブは2人の父ラバンからだまされてまず姉のレアと結婚することとなります。その後ヤコブは義父ラバンと約束し、念願どおりラケルと結婚するのです。こんなことまで書いていいのか?と思ってしまうんですが。聖書はありのまま包み隠さず記しているんですね。

 

ヤコブはレアとの間に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンの5人の男の子が与えられました。一方のラケルは子どもができなくて召使いであったジルバをヤコブに与えて、ガドとナフタリの2人の男の子を得ます。

レアも負けん気が強かったのか、召使いのビルハをヤコブに与えて、ダンとナフタリをさらに得ます。そして、子どもができなかったラケルはヤコブの間に待望の男の子ヨセフが生まれ、さらに高齢になったラケルはベニヤミンを産むのですが。難産で死んでしまいます。

まあ、このくだりを読んでおりますと、ヤコブの愛とその子孫を求めてのすさまじいまでの、愛の争奪戦ともいうべき2人の姉妹の姿があるわけですが。

 

また、ヤコブはヤコブで、年寄り子でラケルの初めての子ヨセフを溺愛するんですね。

上の兄たちとヨセフとの年齢はずいぶん離れていたことが想像できますが。

ヤコブはそのヨセフにだけは「袖の長い晴れ着を作ってやった」というのです。

これはダビデ王の王女タマルが着たとされる「袖の長い晴れ着」と同様のもので、身分や地位のあるものに着せる晴れ着であったようです。

まあ、ヤコブがこのようにヨセフを溺愛し、他の10人の子どもとは異なる特別扱いをしたことが、他の10人の兄たちに強い不満を引き起こしたのです。

その上、ヤコブはレアとラケルの召使いとの間に得た子どもたちをあまり信用していなかったのか。彼らの悪い噂がないかをヨセフに報告させていたようです。

この兄たちは普段からもヨセフが自分たちのことを父親に告げ口していることに対しても不満や憎しみを持ち、その関係は穏やかではなかったのです。

 

ここを読みますと、ヨセフに対して特別扱いするヤコブに不満を持ち苦悩する兄たちの気持ちもわかるような気がします。それはそういった父が、自分たちのことを愛してはいないんだ、と思い、素直になれなかったり、兄弟をねたんだりとですね。まあ、そういう確執というのは現代の私たちの日常にもまま起こり得ることかも知れません。

 

こうしていわばヤコブの家族は崩壊に向かっていました。信仰の祖である家族でさえそうだったのです。

私たちも人間ですから、人の好き嫌いもあるでしょう。又、力関係が働くこともあるかも知れません。ただそういう時、感情のおもむくまま悪く言ったり、相手にどういう影響を与えるかお構いなしの言動をしたりしてしまうと、人間の関係は崩れてしまいます。

やはりそこには相手の気持ちを思いやる想像力ってほんとうに大切です。

何より、主のみ声と、そのお姿に学びつつ、家庭であれ職場であれ、教会でありましても互いのことを思いやり、互いの足を洗い合う気持ちで、問題を感じる事やその人のために執り成し祈るよう私たちは召されているのです。私たちはイエスさまから「平和を造り出す人は幸い」と、招かれていることを覚えたいと思います。

 

聖書に戻りますが。

兄たちは不満を直接父に向けるのではなく、ヨセフを憎みました。まあ父に直接訴える勇気がなかったのかも知れませんが。

 

さらに、そういった兄たちのもやもやとした気持ちを炎上させたのは、ヨセフ自身でした。それは兄たちに天真爛漫に語った2つの夢でした。

7節「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

それを聞いた兄たちはヨセフに対して、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するのか」と言って、夢とその言葉のためにヨセフを益々憎んだとあります。

兄たちのヨセフへのねたみは、遂に次週の箇所でヨセフに対する殺意にまでエスカレートしてしまう事態に至ります。

「ねたみ」は、人をうらやむ、うらやましく思うことから生じますが、それがエスカレートすると殺意にまで及ぶということです。

あの人なんかいなければいいのにとか、もう黙って静かにしていればいいのにというものも同様ですね。ねたみの感情で一番傷つくのは実はその人自身なのです。

 

ヨセフは又、別の夢を見ます。それは「太陽と月と11の星がわたしにひれ伏した」と言うのです。

それは誰が聞いてもわかる、ヨセフの父ヤコブと母ラケルと11人の兄弟がヨセフを拝むというものでした。

これに対しては父ヤコブも、「一体どういうことだ、お前が見た夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」と、はっきりヨセフを叱ります。

これは、いくら溺愛の息子であっても、自分を拝まれる対象とするなど許されないことだとはっきり叱ったのです。

 

その上で、このヨセフの夢のことで「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた」と聖書は伝えます。

神が何かをお示しになられているのかも知れない、というヤコブ(イスラエル)のしなやかな感性ですね。

同じようなことが、新約聖書にも出てまいります。あのクリスマスの救い主誕生の折に、天使のお告げを受けた羊飼いたちがベツレヘムの家畜小屋を訪れたとき(聖書:ルカ2章18節)ですが。天使から聞いたことを羊飼いたちは人々に知らせたのですが。

「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されているのです。

 

この「心に納めて、思い巡らす」と「心に留める」とは同じことです。

それは今はすべてそのまま受けとめることができなくても、理解できなくてもですね、

何度も繰り返し思う。あたかも牛が一度口に入れた牧草を胃袋に入れてはまた口に戻して、それを何度も繰り返すように反芻(はんすう)するように、そうやって体に摂り入れていくように、今日の父のヤコブもまたマリア同様、ヨセフの夢について語られたことを心に留め続けていた、ということであります。

 

それは私たちの信仰にも通じることであります。

聖書のみ言葉を何度も何度も反芻するように心に留め、思い巡らしていく。

それは、その時にはわからなくとも、やがてそのみ言葉を体験することにつながっていきます。

ヘブライ書11章1節にはこう記されています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 

ヨセフ物語を読み進めていく中で、この憎しみやねたみが交差するバラバラのヤコブの家族が、やがてこの夢の実現と共に、一つに結ばれていくのであります。

今はその実現を見ることができないような状態、この実現は隠されていますが。

神さまのご計画は災いをもたらすものではなく、真の祝福の実現に向けられたものであることを信じ、望み、今週もこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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