日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2023年元旦主日礼拝 

2022-12-28 13:07:32 | 教会案内

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キリストは飼い葉桶の中に

2022-12-25 16:09:48 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ルカ2章1-20節 歳晩礼拝

メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
巷では11月頃からクリスマスソングが流れ、ツリーやきらびやかなイルミネーションで飾られて、クリスマスセールなどと、教会よりも早くからわきかえっていましたが。
私たちの教会では11月27日からアドベントを守りながら本日こうしてクリスマス主日礼拝を迎えました。「神の愛と救い」が肉をとって世に現された。この世界に与えられる大きな喜びの知らせのために用いられた二人の女性、マリアとエリサベトを通して、私たちも神の救いを黙想してまいりましたが。
先週は身重のマリアが、親類のエリサベトを訪ねたところから御言葉を聞きました。
エリサベトが聖霊に満たされ「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言うと、マリアは「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と、主をあがめ、喜びたたえました。
エリサベトも子どもができなかった苦しみから、一転して高齢で子どもを宿すという悩みを通る中で、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留めてくださった」と主を賛美します。
二人はアドベントの期間を通して、世間や世の視線がどうであれ、救い主である主がこの「わたしたちに目を留めてくださっている」ことを共に確信していったのですね。
今日も私たち一人ひとりに目を留めて下さる救いの主を共に覚えつつ、「キリストは飼い葉桶の中に」と題し、クリスマスのメッセージを聞いていきたいと思います。 

「救い主・キリストの誕生」
ヨセフとマリアはベツレヘムで住民登録をするためにガリラヤのナザレを出立します。
距離的にはおよそ100キロ以上の道のりです。その道は小高い丘が幾つも連なっていて、山あり谷ありで道路など整備されておりません。マリアは臨月で子どもがいつ産まれてもおかしくなかったという状態でしたから、彼らにとってそれはもう想像を超えるような険しい道のりであった事でしょう。そうしてようやくベツレヘムの町に入るや、マリアは出産の時を迎えるのであります。
 聖書はそれを、「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と簡潔に記しています。
それは住民登録のために町に来た多くの人々がごったがえす中で、彼らの泊る場所はなかったということです。しかし、これは単に宿泊所が不足していたというのではなく、神の救い、主イエス・キリストが世に来て下さったというのに、世の人々に受け入れる余地がなかったということです。それは現代における経済や効率性を第一に優先させていくような社会の中で、大人から子ども迄が能力主義や競争に追いたてられ、ともすれば我を失う程になっている状況と重なるように思えます。
この神の救いである主イエスさまが、そのような世の人びとの慌ただしさ、生活のただ中に、あえておいでになったという事実は、まことに感慨深いものがあります。
このクリスマスの時に、より多くの方が、慌ただしさの中にも立ち止まり、神の救いを見出す機会を得ますようにと願います。

又、「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」理由がほかにも考えられます。
ベツレヘムは婚約者ヨセフのお里であります。親戚や知り合いも住んでいたはずです。
これは恐らく結婚前のマリアが身重になったということが何らかのかたちで親戚や知人の耳に入り、当時としては大変なゴシップ、親族の恥というような事として、だれも彼らを家に迎え入れる者がいなかったということもありえます。
いずれにしてもマリアとヨセフは世間から顧みられない、もっといえば疎外されたような中、家畜小屋で救い主のイエスさまを産むのです。
一体だれが想像したでしょうか。神の御子、救い主メシアがこういう世間の片隅で、しかも飼い葉桶という動物の食べるほし草をベットにするなどと。

しかし、それが神さまのご計画なのです。主の御業は、世から疎外され、軽んじられ、顧みられないような人のところに自らお降りになられ、そこから救いがはじまっていくのです。そうして十字架に至っては人間のどん底にまでお降りになる。その事によって全ての人に向けられた贖いの業が成し遂げられるのです。

さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられたのが羊飼たちでした。
この当時の羊飼は、家もなく年中羊と共に生活していたため、安息日も守ることができません。町で豊かに暮らす人たちからすれば体裁も汚らしく、悪臭がするということで蔑(さげす)まれ、公の裁判の証人にもなることができませんでした。そのように彼らは社会にあって様々な差別や偏見を受け、社会から孤立した生活をせざるを得なかったのです。

その羊飼いたちのもとに天使が現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と、神の御子・救い主が「あなたがたのためにお生まれになった」。このような「あなたがたのために」という驚くべき知らせが届けられるのですね。
ユダヤの町の人々は思っていたでしょう。「神の救いの祝福は彼らに果たしてあるのだろうか?」
けれども神の救いの知らせが、社会から軽んじられているような羊飼いたちのもとに真っ先に届けられるのです。実に神さまは、この喜びの知らせを全身全霊で受けとめるのはだれかを知っておられるのです。
もし救い主、キリストが王宮や神殿の中でお生まれになったとしたなら、彼らはそのお姿を決して見る事も拝する事もできなかったでしょう。彼らは相変わらず隔ての壁の外におかれたまま、この知らせを聞くこともなかったでありましょう。

しかし神さまの救いのご計画は、救い主がきらびやかな王宮や神殿にではなく、キリストは飼い葉桶の中にお生まれになり、家など持たなかった羊飼いから始まっていくのです。
羊飼いも、ヨセフもマリアも彼らには居場所がありませんでした。しかし、神の救いこそ彼らの真の居場所でした。居場所があるというのは単に立派な建物や家・ハウスがあるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居場所がないという人も現代の社会に多いのではないでしょうか。この飼い葉桶にお生まれになったキリストなる救い主を拠り所にする者に神はご自身を顕されるのです。
羊飼いたちは、神の救いが薄暗い家畜小屋、その飼い葉桶の中に寝かされた乳飲み子によって実現されることを信じることができました。この私たちと共においで下さるという神のメッセージを、そこに見出したからです。真の平和、平安を彼らはそこに見たからです。

今年の恒例の一文字が決まりましたね。「戦(いくさ)」、戦いの「せん」です。戦は国や民族の戦争に限らず、私たちの身近な所や私たちの心の内にも起こります。世の戦いは力や武力をまとわせ従わせようとしますが。そこに起こるのは不安と恐れです。ところが、神の大軍は「平和」を歌い、それを実現なさる神を賛美します。力や武力でなく、生まれたての乳飲み子を取り巻く人々によって「平和」を顕されます。そこに起こされるのは「平安と安らぎ」、そして「喜び」です。
さらに、飼い葉桶に寝ている乳飲み子のキリストの周りには人間だけでなく、家畜の動物たちもいたのではないでしょうか。クリスマスの時節にはイザヤ書11章が必ず読まれるのですが。その「平和の王」の到来とその統治の預言に次のような言葉が出てまいります。
その平和の王の統治下では、「狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」と語られているのです。
現代の弱肉強食の社会とはなんと対照的な平和な光景でしょうか。

先週の火曜日のことですが、ペットとして13年間一緒に暮らした犬の のあくんの息を神さまが引き取られました。私たちは家族3人でその光景をみることが出来ましたが。その時私たちの口から出たのは、「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」という言葉でした。さすがに寂しくもありますが。なんて平和な光景であっただろうかと、今は想えます。我が家に迎え入れて一緒に過ごした時も、ああして最期の息を引き取った時も、今思い出す時にも、いつも主が共におられるからです。
救い主であられるキリストが飼い葉桶の乳飲み子の姿でおいで下さった。その弱々しく見えるけれども、暖かい光に満ちた世界はなんと優しくも確かで、主が共におられる平安に満ちていることでしょうか。

「主の恵みに満たされた羊飼い」
さて、大きな喜びに満ち溢れた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合った後、「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。
一刻も早く救い主にお会いしたいという期待に胸ふくらませた思いが伝わってくるようです。
羊飼いたちは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」しかしそれだけでは終わりません。神の救いをいわば身をもって体験した彼らは、「この幼子(救い主)について天使が話してくれたことを人々に知らせ」て廻るのです。
救いの知らせを先に受取った羊飼たちは、民全体に与えられたこの大きな喜びの知らせを告げ知らせるべきだと、すぐに行動したのです。
彼らは町の人々から日頃は差別や偏見を受け、疎外されてきました。にも拘わらず彼らはその町の中に入り、人々に「大きな喜びの知らせを伝えた」のですね。多少は気が引けたかも知れません。町の人が自分たちの言うことを信じてくれるだろうかという考えが頭をよぎったかも知れません。けれど、神さまの驚くばかりの恵みを体験し、喜びと感謝にあふれていた彼らでしたから、もう伝えずにはいれなかったのでしょう。
「キリストの平和」に生きることができるように、このような新鮮な喜びに私どもも常に与らせていただきたいものです。
ところで、「それを聞いた町の人たちは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。彼らもやがて平和の君が現れて自分たちを救うのだとの預言を知ってはいたのです。その心の感性が鈍くなっていたため、ただの夢物語のようにしか聞こえなかったのでしょう。しかし福音の証しは確かになされたわけです。後は神さまの御業なのです。
大切なことは、神の救いを待ち望む人たちが遂にそれを見出し、大きな喜びに溢れ、神の救いを分かち合う日が訪れていく事であります。
その羊飼いの知らせが2000年という歳月を経て世界の国々に、そして私たち一人ひとりのもとに届けられているという事実に感謝し、主を賛美します。私たちもまた、この大きな喜びを携え、今週もそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。2022年の歩みを感謝して。
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祝 クリスマス! イブ礼拝/クリスマス礼拝 ご案内

2022-12-21 15:48:26 | 教会案内

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2022年 クリスマスのご案内

2022-12-19 12:06:21 | 教会案内
ほんとうのクリスマスをキリスト教会でお過ごしください。
どなたでも、ご参加できます。

おまちしています。


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わかち合い、理解し合える場

2022-12-18 15:47:14 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章39~56節 降誕前1週主日

いよいよアドベントを経てクリスマス前の礼拝を主に捧げておりますが、今週の24日土曜日はクリスマスイブのキャンドルライト礼拝、翌25日はクリスマス礼拝が行われます。祈りつつ、主イエス・キリストご降誕の喜びのクリスマスを心からお迎えしてまいりましょう。

先週は、天使がマリアに現れて救い主イエス・キリスト誕生とそのご計画を告げ、マリアがその御言葉を聴いて、自分の身に受けていくところからメッセージを聞きました。
今日のところでは、親類のエリサベトも子どもを宿しているとの知らせを天使から聴いたマリアがエリサベトに会いに行きます。
エリサベトは主のご計画により、随分高齢になってから子を宿す身になっていました。それは世間の噂の的となり、人々の興味本位の視線にさらされることになります。彼女は心静め神と向き合うべく引きこもっていました。

片やマリアも10代半ばで年若く、婚約者もあずかり知らぬ妊娠です。彼女もまたユダヤ社会の道徳律と人々の視線にさらされねばならなかったのです。
けれどもマリアは、天使から高齢のエリサベトも又神の御心によって子どもを宿したことを知らされ、出かけて、急いで山里に向い、エルサベトの住むユダの町に行くのです。それはざっと100キロ以上もある道のりでした。しかもまだマリアは妊娠初期の状態であったとも考えられます。しかし彼女はエルサベトのことが気になり、いても立ってもいられず、急いで彼女に会いに向うのです。そこには、独りで抱えられない感情を共有したいという思いが強くあるように思えます。
又、このマリアの訪問は、実はマリアだけではなく同様に途方もない状況に身をおく事になったエリサベトにとっても大きな励まし、喜びとなっていくのです。

その場面ですが。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどります。いわゆる胎動ですが。その時、エルサベトは聖霊に満たされ、声高らかにマリアにこう語り出します。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(42-43)
胎内の子が後にバプテスマのヨハネとして世に出るのですが。その子が、主イエス・キリストをその身に宿したマリアの訪問に喜びおどるのです。
一方、エリサベトのこの言葉を聞いたマリアは大変驚いたことでしょう。まだ自分のことを何も話していないのに、マリアが胎内に子どもを宿していること。しかもエリサベトは自分を「わたしの主のお母さま」と呼び、その子がどのような者となるかを知っていたからです。
こうして二人は聖霊のゆたかなお導きによってすぐに打ち解け、共に主を賛美し、祈るのです。
先週の受胎告知の場面で、「お言葉どおり、この身になりますように」と主にすべてをゆだねたマリアでしたが。ここでエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いなことでしょう」と祝福します。マリアは大きな勇気をエリサベトからもらったに違いありません。
この後3ヶ月間マリアはそこに滞在するのですが。その時間はそれぞれ不安や心配を抱えていた二人にとって大切な時だったといえます。

今日のエピソードで興味深いのは、「まあ、あなたも大変ねえ」とか「お互い何とか頑張っていきましょう」といった人間的な励まし合いによるのではなく、そこに神さまのお働き、聖霊が臨んだということです。その聖霊の介在によってマリアとエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現する」という神への信頼を確認し合うのです。

そこに、マリアの主をほめたたえる賛美が生まれます。これはマニフィカートと言われ、世界中の神を敬う人たちに共感と祈りをもって覚えられ続けてきた、そのような賛歌でありますが。
大事なことは、このマリアの賛歌が同様に主を畏れ敬うエリサベトとの主にある交わりのうちにもたらされたということです。そこに臨まれた聖霊のお働きによってこのマリアの賛歌が生まれたのです。
ですから、マリアの賛歌は「わたし」という個人に留まりません。その祈りはマリアだけでなく、エリサベト、そして圧迫を受けるイスラエルの同胞、さらに、世にあって弱い立場に追いやられている人、貧しさを余儀なくされている人、そのように神に依り頼む外ない、「主を畏れる者」の賛歌、祈りであるということができるのです。

マリアが主を「あがめる」とい言ったギリシャ語の大本の意味は、主を「大きくする」ということです。私の魂は主を大きくします。自分を小さくして神さまを主、あるじとします、ということです。それが「主のはしため」とういう意味です。
人間は傲慢になると自分を神よりも大きくしようとします。しかし、神を大きくし、「わたしのあるじ、主」を仰ぐ者は主の前に自分を小さくし、神を畏れ敬います。主なるお方に信頼し、いっそう恵まれるのです。「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ。」この言葉は真理です。唯主を畏れ敬い、本物の平安に与っていきましょう。
ところでマリアは、「ローマ帝国による支配と圧制下であえぐ時代に、ユダヤの地と異邦人の住むその境のガリラヤ、「ガリラヤから何のよいものがでようか」といわれるようなその地の、小さなナザレの町で育ちました。
すでに親は亡くなっていたのか、どういった家の出かも聖書には何も書かれていません。差別や偏見、貧しさも経験したのではないかとも言われています。
加えて、当時の女性の社会的立場は男性に比べて大変低く、マリアはまだ10代半ばということもあって二重三重の卑しめと蔑みに遭い、不当な扱いを受ける人の一人であったのです。だからこそマリアは同じように主を畏れ敬い、解放と救いを待ち望んでいる「わたしたち」を主は受け入れ、憐れみ(これは腸:はらわたがちぎれるほどの思いからくる慈愛という元の意味ですが)、その愛をもって主は、「わたしたちを決してお忘れになりません」と賛美するのです。
ここで語られている、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とある中の6つの動詞、「力を振るう」「打ち散らす」「引き降ろす」「高く上げる」「良い物で満たす」「追い返される」は、ギリシャ語の元の表現を見ますと、「必ずそうなるでしょう」という意味あいをもっています。それは主を畏れ敬う者の強い期待と確信であり、主への信頼の言葉です。これがマリアの賛歌なのです。

その主の救いが現わされる日を待ち望み、互いに祈るマリアとエリサベト。
アドヴベントとはまさにこのように、厳しい現実の問題や苦しみのただ中で、神を畏れ敬う人たちにもたらされた希望であり、その実現を待ち望む時なのです。その恵みは今やこの世界に降られた聖霊によって私たちの賛歌、私たちの祈りとなっているのです。

コロナ感染症の収束が未だに見えない状況下にありますが、マリアとエリサベトが出会う時と場書が聖霊によって導き与えられたように、私たちには、共に主を礼拝し、共に御言葉から聞いて、共に祈り合う場、主の教会が与えられているということはどんなに大きな恵み、支えであるでしょうか。
主は今日もインマヌエル、共におられる方として望みをおくものと共に、御救いを実現しておられます。
私どもも又、主は「憐みをお忘れになりません」(54節)と、救い主である神を喜びたたえつつ、御救いの完成の日を共に待ち望んでまいりましょう。
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2022/12/18 降誕前第1主日礼拝式 ご案内

2022-12-14 17:18:14 | 教会案内

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マリアに臨んだ御言葉

2022-12-11 16:46:27 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章26~38節 アドヴェントⅢ

今朝はマリアに臨んだ救い主、イエス・キリスト誕生の告知の御言葉に聴いていきます。
そこは先週の祭司ザカリア夫妻のいたエルサレムから100キロほど北に向かったガリラヤの地ナザレへ移ります。親戚のザカリアにバプテスマのヨハネ誕生の告知があってから6カ月目のことです。天使ガブリエルはナザレの町に住むダビデ家のヨセフのいいなづけであるマリアに現れて、マリアと以下のような対話を展開していきます。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。もっともです。初対面でいきなり、「おめでとう」と言われても、一体何、どうして、と誰もが驚き考え込んでしまうでしょう。
すると天使は、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終ることがない」と語りかけます。まだ10代半ばのマリアはさぞかし驚き、戸惑ったにちがいありません。

マリアは天使に言います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」マリアには全く身に憶えのない信じ難いことであったからです。加えてマリアは、偉大なダビデの王座に与る方を宿すなど畏れ多いことだと大変戸惑ったのであります。
天使はマリアに答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む、だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
このマリアについてでありますが、聖書は彼女の素性に関して何も語られておりません。先週のザカリアとエリサベト、そしてマリアの婚約者ヨセフについてはユダヤの祭司、アロンの家、ダビデの家の血統であったことが明らかにされているのに対し、マリアについてはダビデ家のヨセフのいいなづけとだけ記されており、彼女自身の素性については何も紹介されていません。又、マリアが住んでいたガリラヤ地方のナザレの町は、ユダヤ人と異邦人の両方が共存する国境沿いに位置した町でありました。
そういうことから、ナザレの出というと、エルサレムの都の人々から、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」「メシアはガリラヤなどから出るだろうか」などと見下され、偏見の目で見られていたのです。マリアはそうした偏見と同時に、当時のローマ帝国の統治下で抑圧にあえいでいた民の1人でもありました。こうした状況でマリアも救い主、メシアの到来、その解放の日を切に待望していたのであります。だからこそ天使ガブリエルから告げられた御言葉を、自分1人のこととしてではなく、神のご計画として聴くことができたのでありましょう。

今日の聖書のお言葉から、私は2つのことについてお話したいと思います。
1つは、「聴く」ということであります。それは単に聞くということではありません。
先週は天使がザカリアに御言葉を告げる箇所でしたが。彼は天使の言葉を単に聞いたにすぎなかったのです。それで彼は天使に対して、「何によって、それを知ることができましょうか」と目に見える証拠や証明を求めます。彼は自分と妻の状況にまず気持ちが向いていくのでありますが。御言葉をほんとうに聴いてはいなかったのです。そのために彼は口がきけなくされてしまいます。それは沈黙の時、黙して主の言葉を思い巡らすために、一時的に「口が利けなく」されるのです。
私自身、相手の言葉を最後まで聴く前に、それを遮って自分の立場や考えを主張して、結局相手の伝えたいことが何であるのかを聴き取ることができず、誤解したかたちで受け取ることが恥ずかしながらございます。人の言葉が聴けてないなぁと反省させられるのですが、、、。

さておき、マリアもザカリアと同じように天使の御言葉に、驚き、戸惑ったのは確かですが。それに対して証明や証拠を求めたりしません。ただ彼女はその御言葉を思い巡らすのです。
29節には、マリアが、天使のお言葉を聞いたとき、「考え込んだ」(29)と訳されていますが。口語訳聖書では、「思い巡らしていた」と訳されています。こちらの方が原語に近く、それは羊や牛などが1度胃袋に入れたものをまた口に戻し嚙み直すことを繰り返して消化する、反芻(はんすう)するという言葉と同じなのです。
マリアは単に考え込んだのではありませんでした。何回も反芻するように思いめぐらしていたのです。つまり「聴く」とは、そういうことなのです。
御言葉を聞いて、ただ聴くだけで終わってはなりません、と聖書に書かれていますように、御言葉に生きるために思いめぐらすこと、反芻するように御言葉を噛みしめることが大切なのですね。

そうして、マリアはすでに神さまが自分に届けてくださっている御言葉を受けとり、真に聴いていくことができたのです。
それが、今日の箇所の最後にマリアが語った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」という言葉だったのです。

2つめは、「マリアに臨んだ救い主イエス誕生の告知」の意味についてです。
今日のエピソードを読むとき、どうしても気にとられてしまうのは、おとめマリアが身ごもるという生理学的には考えられないこと、信じ難いことでありましょう。そのことにどうしても人の関心が向いてしまいがちだと思います。ある人たちは、それを信じなければクリスチャンでないと言います。しかし、そのような現象や奇跡、しるしに気をとられてしまうと本当に大切な聖書が伝えようとしているメッセージを見落すことになりかねません。       
今日のところで重要なのは、神の子の出現が、まさに聖霊といと高き方の力によってもたらされる、という約束であります。「神にできないことは何一つない」というその神の主権をマリアは信じ、受け取ったのです。これを「信仰」というのです。

マリアは自分に語りかけられた御言葉を思いめぐらし受け取っていく中で、聖霊が臨まれ、神の子イエスを迎え入れます。実はそうしてマリア自身が救われ解放されていくのです。次の聖書の個所には有名はマリアの賛歌が記されていますが。ここでのマリアは喜びの賛美にあふれています。又、エリサベトも抑圧に満ちた社会とそのおかれた状況のもとにあっても、なお神の救いに希望を見出しています。この力強い賛美は、まさに聖霊と神の力によってもたらされているのです。
それはしかしマリアだけに起こった事としてではなく、同様に神の御言葉にふれて思いめぐらす総ての人に、聖霊は臨まれるのです。そのようにして信じる者のうちに神の子なるキリストなるイエスがお生まれになり、救いと解放の主となってくださるのです。
聖書の中に、だれでも「聖霊によらなければ、イエスを主(キリスト:救い主)と信じることができないと」あります。
私たちクリスチャンはマリアの受胎告知を信じたからクリスチャンにしていただいたというのではなく、聖霊によってイエスさまが私の救い主として来て下さった事を心から信じ受け入れる者とされた、この聖霊の御業によってクリスチャン、キリスト者とされているのです。その大いなる恵みの出来事をここでしっかりと心に留める事ができるならば、「処女降誕」を信じるか信じないかでクリスチャンであるかないかを論争する必要はなくなるかと思うのです。

最後になりますが。天使ガブリエルがこのマリアのもとに神から遣わされた日、遂に旧約聖書の時代から預言者たちを通して語られてきた神の救いのご計画が動きだすのです。
マリアの時代から溯ること700年以上も前に預言者のミカが、このように預言しました。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。主は彼らを捨ておかれる。産婦が子を産むときまでは。彼らは安らかに住まう。彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」
まさにその預言が、この時、実現するのです。
クリスマスは、このイスラエルを治めるお方が、全世界を治める救い主としてお出でくださったことを喜び祝う日なのです。
今日、私たちが聴き、思いめぐらし受け取った御言葉をもって、ここから今週の歩みを始めてまいりましょう。聖霊のお働きを祈ります。
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2022/12/11 主日礼拝式・アドヴェントⅢ おしらせ

2022-12-07 14:50:27 | 教会案内
クリスマスを待ち望んで祈りつつ備えるアドベント(待降節)も3週目となりました。クリスマスはキリストの教会へ。クリスチャンでなくてもお気軽にいらしてください。
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ザカリアに臨んだ御言葉 

2022-12-04 16:20:49 | 教会案内
主日礼拝 宣教 ルカ1章5~25節  

「主のご計画」
本日はルカによる福音書1章5~25節のバプテスマのヨハネの父となったザカリアと母となったエリサベトのエピソードから、御言葉を受け取っていきたいと思います。
聖書は、「ザカリアが祭司であり、妻のエリサベトもまたアロンの家、つまりモーセの兄祭司アロンの血筋に生まれたということで、二人とも幼い頃から神を愛し敬う者であった」とあります。
それは単に血筋と言うのではなく、神の戒めと律法の精神に学び神を慕い求める人の間で生まれた。
そうして、神を愛し敬う者として育った、ということです。
私どもも聖霊を受けてイエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受け、神の御前に新しく生まれた者とされ、神の御言に学び、神を愛し従う者とされての今があるわけですが。
聖書は又、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」とも伝えます。非の打ちどころないといえば、社会的地位や学歴があり教養豊かな人を指すことが多いのでしょうが。聖書が言わんとしているのは彼らが神さまの前に正しくありたい、偽りのない人でありたいと願い、御心に生きるよう努めていた。神と人に仕える人であったということであります。
先日聞いた話ですが。アメリカの企業の多くで、クリスチャンの採用が意識的になされているということです。それは宗教的にというより、どんなに知識や技術を学習しても、信頼のおける人物でなければ仕事をまかせられないということでした。神を畏れ、偽りなく神と人との関係性を大切にしたいと願う人は神からも人からも信頼されるということでありましょう。

「祈りの力」
ところで、この二人には長年に亘る切なる願いがありました。それは、「子どもが与えられるように」ということでした。しかしそれは、彼らが年老いても実現しません。
当時のユダヤ社会において、子どもがいないのは「神に祝福されていない」とか「神から見放されている」などと考える心ない人たちが少なからずいたのです。二人にはそれがどんなにか辛く、肩身の狭いであったことでしょう。
そのうちに二人とも年をとり、もはや話にもその事はのぼらなくなって久しいある日のこと。ザカリアがくじ引きで聖所に入って香をたく祭司の務めを行うことになります。
この神殿内で香をたくという務めはユダヤに二万人以上いたといわれる祭司にとって一生に一度あるかないか、そういう特別なお役にザカリアが当たった。実はこのことは神さまのご計画のうちになされたことであったのです。
ザカリアは緊張しつつも祈り備え、遂に神殿の聖所で香をたくその時が訪れます。ザカリアは一人で聖所に入り、そこで祈り、香をたきます。彼がそこで何を祈っていたのかについては分かりませんが。おそらくイスラエルとその民の守りと祝福を彼は神にとりなし祈ったのではないでしょうか。
ユダヤの民がローマ帝国の圧政から解放されて、イザヤが預言した救いの日が到来しますようにと、切に祈っていたのではないでしょうか。
その祈りはザカリア一人の祈りではなく、「ザカリアが聖所で香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」とありますように、それは多くのユダヤの民衆、一人ひとりが待望する祈り、願いでもあったのです。
私たちは祈りを一人で捧げていると思いますが、実は気づかないところでその自分のためにとりなし祈ってくださっている方が必ずいらっしゃるものです。それはキリストの教会につながることの一つの大きな恵みです。主イエスが、「互いに愛し合い、足を洗い合いなさい」とおっしゃったように、そうして互いにとりなし合っていくというところに神さまが共にお働きくださる出来事を見させて頂く祝福が伴うのです。

「ザカリアに臨んだ御言葉」
聖書に戻りますが。ザカリアがそうして聖所で香をたいていますと、主の天使が現れ、不安と恐怖の念に襲われた彼にこう告げます。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」
天使ガブリエルは、その子がふたりの、「喜びとなり、楽しみとなる」となる。さらに、その子の誕生は、「多くの人にとっての喜びとなる」というのであります。
言い方を変えると、洗礼者ヨハネはザカリアとエリサベトだけに与えられたのではなく、様々な抑圧からの解放を求めてやまない民の間にも生まれた。神がお与えくださったということです。
具体的には、ヨハネが、「聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ、主イエスが来られるための準備をなさる。」それが民の喜び楽しみとなるのです。
神に立ち帰るとは、原語でメタノイアと言います。一般的に「悔い改め」と言いますと、自分の罪を悔いて、生き方や生活を改めるということです。確かにそれは尊いことであり、人間的成長につながることはあるでしょう。けれど人の正しさと決心は完全でありません。よりよく生きて行こうと思ってもなかなかそうは行かず落ち込んだり、又かえって独善的になるかもしれません。
しかし聖書の言うメタノイアとは、いつくしみ深い神に向き直るということを言い表す事なのです。神に対してずっと背を向けて生きてきた、それにも関わらず神は決してお見捨てにならない。立ち帰って生きることを待っていてくださる神の深いいつくしみ。自分本位な生き方からその神の方へ180度向きを変えて歩み出す、ということであります。それは実に肯定的で本来の祝福を取り戻す生き方、喜び楽しみとなるのです。
天使はザカリアに、「その幼子にヨハネと名付けなさい」と告げます。このヨハネという名前には、「主はいつくしみ深い」という意味がありました。名は体を表すと言われますように、聖霊によって生まれたヨハネは、いつくしみ深い神さまのもとに人びとを立ち帰らせていく使命をもって生まれてくるのです。

「神との対話」
ザカリアに話を戻しますが。彼は天使を通して、「あなたの願い(祈り)は聞き入れられた」という言葉を聞くのでありますが。それは彼にとって必ずしもよい知らせとはならなかったでしょう。
そこで彼は天使に、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言うのです。
ザカリアは年老いて、もはや子どもを欲していたことが過去の事となっていました。子を育てる年齢としても二人には年を取りすぎているように感じたからです。これがまだ成人の頃ならどんなによかったか...。「あなたの願いは聞き入れられた」と唐突に言われても、ザカリアの心は戸惑うばかりだったに違いありません。

そんなザカリアに天使は次のように語ります。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
復活の主イエスは、「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃいましたが。ザカリアは直接神が語りかけておられるにも拘わらず、それを自分に実現することとして聞き、受け入れることが難しかったのです。                      
このような状況は特殊でしょうか。人の計画と神の計画はしばしば異なります。私たちはどうでしょうか。前々回の礼拝宣教において、今や救いの日、恵みの時というその今とは、それを耳にした時、実現したのだというイエスさまのお言葉を聞きましたが。、その「今」を、私たち人の側はうまく受け取れません。
「あなたの罪はイエス・キリストによってすべて赦されました。あなたは救われ神の子とされました。永遠のいのちの中に入れられました」との福音を受け入れる人は、どんな人、どんな状況下にあろうとも神が祝福を無償で与えてくださる。これが聖書の福音であります。しかし残念なことに多くの人が受け取ろうとはしないのです。それは心の中に様々な考えや思いがひしめき合っているからです。

「信じる者へ変えられる時」
ところで聖書は、「ザカリアは聖所からやっと出てきたけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった」と伝えます。
ザカリアは沈黙せざるを得ない状況の中で、7日の務めの間様々なことを思い巡らしたのではないでしょうか。旧約の預言の言葉。神のあわれみと約束。天使の知らせ。民の救い。そして妻エリサベトへの思い。それらのことどもを沈黙の中で心を澄ませて神の御心に聴き、それを確かに受けとっていったのであります。
この「ザカリア」という名前ですけれども、それは「神は忘れない」「神は覚えている」との意味があるそうです。ザカリアはその願いがどんなに祈っても叶わないということで本当に悩み苦しみ、もはやその現実を受け入れるほかないと思う中で、彼はどこか心のうちに、「自分は神に忘れられている」「神は私のことを覚えておられない」という思いにさいなまれ続けてきたのではないでしょうか。けれども、人の思いの何たるかを知っておられる神さまは、その心の願いを実に私たちの祈る前からご存じなのであります。
ザカリアは天使ガブリエルの告知、さらに神が与えられた沈黙の中で、「神は私を忘れられてはおられない」「神は私を覚えておられる」と、神の「今」というこの時を受け入れる者へと変えられていくのです。このことをしてザカリアはその名が示すとおりの出来事を体験し、「わたしの神はわたしの支え」という名を持つエリサベトと共に、神への信頼をさらに強くされていくのです。

今日のこの箇所の根幹は、祈ってもかなえられず落胆するような時、あるいは又、思うようなあり方と異なっているように思える時も、主である神は決して見放しておられるのではない。神の愛にとどまって御前に生きようとする者に御目を注ぎ、「あなたを忘れない」「あなたを見捨てない」、それは「わたしの目にあなたは価高い」(イザヤ書43章)との預言者イザヤに与えられたお言葉どおり、最善をもって導き続けてくださるお方であるということです。                   
今日、主がザカリアにお示しになられたように、心新たに私たちも宣言いたしましょう。「神はわたしを忘れてはおられません。」アドヴェントのこの時期、今日の御言葉を杖に、主のいつくしみ深いご計画に信頼し、歩み出してまいりましょう。
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