日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

天の物差し

2021-09-26 14:47:59 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル40章1-4節.43章1-7節,10-12節

本日はエゼキエル書からの宣教の最後となりますが、先ほどエゼキエル書40章の始めと、43章1-12節が読まれました。今日はここから「天の物差し」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

イスラエルの人々(正確にいえば南ユダ王国のイスラエルの人々)がバビロンの捕囚となってから25年を経た時のことですが。エルサレムの都と神殿はすでにバビロンによって壊滅的に崩壊していたわけでありますが。イスラエルの民は、先週の枯れた骨に神の霊が吹き込まれると生き返り、神を知って1つの民となる幻を示されつつ、異教の地バビロンにあっても主にある共同体としての生活を送っていました。望郷の念を持ちつつも、あきらめと日常の生活で、もはやエルサレムも神殿のことも口にはのぼらなくなっていたのかも知れません。

そういう中で、神は預言者エゼキエルに臨まれ、「新しい神殿の幻」、ビジョンをお示しになられるのです。エゼキエルは幻のうちにイスラエルの地に連れてゆかれ、非常に高い山の上におろされ、そのところから南側に都のように建設された建物を見せられます。神がエゼキエルをそこへ連れていきますと、青銅のように輝いている一人の人が立っており、エゼキエルを伴って神殿の隅々に至るまでその寸法を測り始めるのです。

測るという行動は、単にどれくらいあるのか測るというのと、正しくできているのかを測るというのがあると思うのですが。いずれにしても、計画されたものにふさわしく出来ているのか、あるいは計画にふさわしく作るために測るわけですね。神は、いずれエルサレムへと帰還して神殿を再建する日が来るという幻をお与えになっておられるのですが、ただ「神殿を建てる」というのではなく、「どのように建てるべきか」ということの重要さをここで示されるのです。そのためにエゼキエルは、同伴者なる方と共に神殿のすべての領域まで測るようにと告げられるのです。神殿は神の臨在が顕されるにふさわしいところでなくてはなりません。エルサレムの旧い神殿は偶像礼拝で神の忌み嫌われるところとなり、神は去って行かれました。

いくらよい建材を用い、煌びやかで神々しい立派な建物が建ったとして、神に臨在頂けないものならそれは空しいことです。教会も、又私たち1人ひとりも神への畏れの念と救いの感謝、悔い改め。そして真心からの賛美と祈り。そのような礼拝の心。そこに生きた霊なる神さまにお住まい下さるのです。

ところで、43章1節や2節に「神はエゼキエルを東の方に向いている神殿の門に導いた」「見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった」、4節にも「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った」とありますように、「主の栄光」はいずれも「東」の方から訪れるのであります。どうして東なのでしょうね。近隣にございます四天王寺さんでは、メインは西側の門で多くの人が行き交っていますが。ちょっと調べてみますと、西は極楽浄土に通じる方角で、ちょうど西門から望む夕陽の情景を見てたのだそうですが。

私たちの大阪教会の教会堂を見ますと、東側に門、玄関があります。世界中のキリスト教会の教会堂については、教会の門、入り口が東側に設計・施工されているところも多いということであります。それは、キリスト教の中心的な主の復活が、夜明けであったところから、主の栄光がそこから到来し、全地を、主の教会を照らすというそういう観点から、教会の門は東に造られているということであります。

今日のこの個所においても、東の方から到来した主の栄光で「大地は輝いた」、又主の栄光が「神殿を満たした」とあります。朝の光のように神の栄光が輝く神殿、教会。それはどのようなものなのでしょう。神の義(ただし)さ、その測り縄によって私たちはそれを知ることができるのです。

さて、ここまでは一人の人がエゼキエルを伴い神殿のすべての測量を行いましたが。それが5節において「霊(神)がエゼキエルを引き上げ、神聖な内庭に導いた」というのであります。今や、エゼキエルは1人で神殿の内庭へと向かうことになります。そこでまさに1対1で神のみ前に立つことになるのです。その時、「見よ、主の栄光が神殿を満たした」。すべてが明らかに照らし出される厳粛な瞬間です。

神の御前にあって、エゼキエルは何を想ったでしょうか。彼はおそらくこれまで随伴してくれた方と共に、主の神殿の隅々にいたるまで、すべて測ることを通して自分を見つめ直し、自分が何者であるのか、を改めて知らされていったのではないかと思うのです。そしてそれが神御自身との真実な出会いとなっていくんですね。エゼキエルの預言の言葉を受けるイスラエルの民もそうです。神が示された「天の物差し」で自らの人生と、民の歩みを測り直しながら、悔い改めと立ち帰りをもって、自分たちの救いの神とは正にこのお方であった、という生ける神との出会いに与るのです。

そうしてこの時、主はこのように宣言されるのです。7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」。

クリスチャンで精神科医の工藤信夫先生の著書「これからのキリスト教」の中に、ある牧師の、離婚という自らの辛い体験を顧みてお話されたものが紹介されていました。そこには「今、私の心の中に思えることがいくつかあります。それは第一に、これらの出来事を通して与えられた人生の「破れ」は、自分にとってかけがえのない恵みとなっているということです。人生の破れを通して、私は神様にここまで愛されているのかと思わされたのです。神さまは私を見捨ててはおられませんでした。それは、私が破れから這い上がってきた、そうして神さまが私の這い上がるのをお救いくださったということではまったくないのです。むしろ反対です。破れは破れとして今も私の胸の中に痛みとして生き続けています。私に与えられた破れが、もしも後日修復できるものであるなら、それは破れではなく、単に苦しかった「思い出」にすぎません。神様は思い出ではなく、今も破れたままのものを恵みとしてこの私に与えてくださったのです。」

この方は教会の働きと家庭を失われたということですが。こうもおっしゃいます。「しかし失うことによってしか与えられない事実があるのだと気づかされました。今まで自分がいかに自分の世界でしかものを見ていなかったか。もしあのままの私が自分の世界にだけ生きていたとしたら、いったいどうなっていたか。人の訴えに耳を傾けながら、それを『自分の世界』で聞いており、相手の立場でものを考えているつもりで、決して自分の世界から見ることをやめない私」「私は神様に救いを求めながらも、救いを求める者では決してなく、この自分がどうにかしなければならないといつも思っていた者です。おそらく人の何倍も自我の強いこの私を神様は、これでもおまえは気づかないのかと大きな、乗り越えがたい困難をお与えになったのだと思います」と、そういう気づきを与えられたということでした。                                                そして結びとして「私の中にある人生の破れは、今も破れとしてあります。しかしこの破れを大切にしていきたいと思っています。人生には限りがあることを教えてくれますし、また限りがあるから一人一人との出会い、出来事がかけがえのないものであると教えてくれるから」とありました。

人はそれぞれ自分の測り方とその尺度で生きています。けれどもそれが本当に正しいかどうかは神との関係を基軸にした、他者との関係、教会もそうですがその中に示される「天の物差し」で測っていただくのでなければ、自分の姿やその立ち位置に気づくことはできないのです。

10節「人の子よ、あなたはイスラエルの家、それはボロボロの破れを負ったイスラエルの民でしたが、彼らにこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥、神殿のあるべき姿を測るためである」と主はエゼキエルに命じます。

エゼキエルは神の人に伴われながら神殿のすべての領域を隅々まで測りました。それは聖なる天の物差しによって自らとその共同体とが測り直されるということでもありました。人は自分の尺度でもって他者を測ろうといたします。けれど、そもそもその自分の尺度、物差しの基準は自分本意でありますから自分は間違いない、過ちがないという思い込みでもあります。そこから、さげすみや差別、いじめや排除という高慢の罪に陥ってしまうとするなら、なんと残念で恐ろしいことでしょう。

キリスト教の聖典、聖書を「カノン」と申します。それは「規定」を意味するギリシャ語に由来しています。定規の規に定めですね。規は行動や判断の拠所となる基準であり、その定め、カノンが聖書の呼び名なのです。

11節には「もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば、神殿の計画と施設と入口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに示しなさい・・・そのすべての計画と掟に従って施工させなさい」とあります。

主の神殿を再建する人たちは、神の前に自分の罪を恥じた人たち、自分たちが行ってきたすべてのことを恥じた人たちであった、ということです。

ルカの福音書5章で主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人でなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と仰せになりました。                                                          自分には救いなど必要ない、自分の物差しでしっかりと生きているから、と思ううちは神と出会うことはできないでしょう。全き義(ただ)しさの天の物差しによっては、だれ一人神の前に自らを正しい人ということは出来ないのです。私は主の救いを必要としているでしょうか。今日、神さまが私たちに顕してくださったビジョンを日々心に描きつつ、天の物差しを頂いて、建て上げられていく私たちとされてまいりましょう。「わたしはとこしえに住む」というインマヌエルの神さまの祝福の約束に生かされて、またそれぞれの日常の場へと遣わされてまいりましょう。

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枯れた骨の新生

2021-09-20 18:03:35 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル37章1~14節

 

本日は、「神の言葉と神の霊が吹き込まれ、枯れた骨が新しくよみがえる」というメッセージであります。

北イスラエルと南ユダの人びとは神の大いなる恵みと祝福を受けていたにも拘わらず、その恵みを軽んじ、数々の偶像にひれ伏すような生活を送ります。神のことばと戒めは実行されず、不正と搾取が横行し、弱い立場に置かれた人たちは顧みられることがありません。北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダもバビロンに征服されますが、それでもなお人びとは自己本位のままに生き、神に逆らい罪を犯し続け、挙句の果てには政治の混迷が強硬派の暴走を招いて、バビロンを刺激し、遂に最後の砦であったエルサレムと神の神殿は壊滅的に滅ぼされてしまいます。

この37章は、バビロンの捕囚となっていた預言者エゼキエルが、「主の霊」の導きによって示されたことが語られています。

彼は「ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった」とあります。彼が見たのは、谷に散乱した、到底数えきれない多くの枯れた人骨でした。それも「甚だしく枯れていた」とありますから、いのちのかけらも見いだせないほど悲惨な有様であったのでしょう。

まあ、普段の生活で人骨をそのまま見るということは特殊な場合を除いて、まずないでしょう。あるとしたら火葬場でしょうか。昨年の9月19日(本日)は母の葬儀と火葬が行われた日でありましたが。まあ、潤いなく乾き切ったかさかさの白い骨を見ますと、そこには「いのち」がないという事をはっきりと見せられているような気がします。

 

エゼキエルが見せられた枯れた骨は、戦いの果てに無残にも亡くなったイスラエルの人びとの骨のようにも思えます。

ところがそれは死者の骨ではなく、11節に「これらはイスラエルの全家である」と主がいわれるように、かろうじて生き残った人、捕囚となったいわばイスラエルの残れる民であったのです。

つまり、それらの枯れた骨は、イスラエルと神の神殿が崩壊してしまい、もはや自分たちの頼るべきもの、帰るべき地は無くなったのだ、と嘆き、絶望する外ない人々の有様であったのです。彼らは「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っているとありますように、神の御眼には、生きたしかばね、枯れた骨のようであったのです。

 

主なる神はその殺伐とした光景を前にしたエゼキエルに対して、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問いかけます。

彼はそこで「はい」とも「いいえ」とも答えません。彼は同胞の人たちの苦しみや絶望の深さをよく知っていましたから、人びとが再び希望を持って立ち上がれるかどうかなど、そんな簡単に「はい」「いいえ」と答えることなどできませんでした。人の力のもはや及ばない時、私たちは「神のみぞ知る」と、すべてを司っておられる神の御前に屈服する外ありません。

 

その答えを受けるように主なる神はエゼキエルに対して、「これらの骨に向かって預言するように」と言われます。預言とは神から預かった「御言葉」を伝えることでありますが。その「神のことば」は聖書の初めの書に記されていますように、天地創造の御業において万物は「神のことば」によって創られたのであります。そのダイナミックで爆発的な神の言葉を、枯れた骨に語れ、と主である神はエゼキエルにお命じになるのです。

 

エゼキエルは神が言われるとおりに、枯れた骨に「主の言葉」を語ります。

すると、「カタカタと音を立て、骨と骨が近づいた・・・骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」というのですね。まさに御言葉による神の万物創造の力が起こされていくことが示されるのです。

けれども、人のカタチはいくらできたとしても、「しかし、その中に霊はなかった」と主は言われます。それは肉のかたまりに過ぎません。「生ける屍」とはよく言ったものです。人は内なる霊が生きて働らいてこそ、本当の意味で「生きている」とは言えないのであります。

この「霊」はヘブライ語でルアッハと言います。これは創世記2章の天地創造の箇所で、人であるアダムが造られるときに、主なる神がアダムの鼻に命の「息」を吹き入れられたとありますが。この「息」は「霊」と同じルアッハです。

人間はこの神の息が吹き入れられて初めて、神との交わりのうちに真に生きる者とされるのであります。聖書は、人が神の息づかいを感じ、神との深い関係をもって生きる時、本当の意味で生きる者となる、と伝えているのです。

けれどもこのアダムはその後、神のお言葉に反して罪を犯してしまいます。エバと共にエデンの園を追われ、この世界において生きるための糧を探し求める苦労、子を産む苦しみ、又塵に帰るべき者となるのであります。我々人間はみなこのアダムやエバの苦労や死を負っている存在なのであります。

 

当時のイスラエルの人々の現実もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感にさいなまれていたのであります。それはもはや未来を思い描くことのできないいのちを失ったような状態でありました。

「神さまは我々を罪のためお見捨てになられた。神は去って行かれたのだ」。

その喪失感はあたかもエデンの園を追われた始めの人のようであったといえます。

このエゼキエルの時代から半世紀後、イスラエルの人々は、自分たちの力や働きによるのではなく、言わば奇跡ともいえる救いの出来事を経験いたします。考えてもいなかった捕囚からの解放、いくら願っても叶えられないと思っていたイスラエルの地への帰還が叶うのであります。

 

エゼキエルは主の預言の言葉をイスラエルの人々に12節以降にこう語っていました。

「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く」。

墓というのはバビロンの捕囚となり、枯れた骨のような彼ら有様です。

さらにこうも語っていました。「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

彼らがイスラエルの約束の地に再び足を踏み入れた時、主なる神こそが、これを実現されたのだ、と知るだろうということですね。

また、こうも語っていました。「霊を吹き込むと、お前たちは生き返る。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき(それが実現した時)、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」。

 

まさにこの預言が語られてからおよそ50年の時を経て、それは現実のものとなるのですね。

その約束の地に足を踏み入れたイスラエルの人びとは、そこで今一度エゼキエルの預言の言葉を聞いて思い起こした時、神の息がまさに彼らに入り彼らは新しくされるのです。そこから彼ら神の民としての復興の道が拓かれていくのであります。

 

彼らは心から悔い改め、真に神に立ち返ったでしょう。

先週の礼拝で藤木正三牧師の断想の言葉より「礼拝は自分の悲惨を認めしめられることを抜きにしては、ゆるされない。内を見つめて自分の悲惨から目をそらさないことなのです」とおっしゃった言葉を紹介しました。これを私的に言い換えますと、「神の前に到底立つに値しないという自覚」申しあげました。

そうして、イスラエルの民は「この救いの出来事は単なる偶然とは違う。唯主なる神の配剤と導きにであった」と、知るようになるのですね。

そうしてさらに10節にありますように、「彼らは生き返って自分の足で立つものとなり、彼らは非常に大きな集団(主の民)となっていく」のであります。

神の霊によって新しく生きる者とされた彼らは、まさに神の息づかいを感じつつ、そこから救い神への信仰復興と礼拝の回復、神殿再建の希望へ向かって歩み出すのですね。

 

私共にありましても、救いの神は聖書の御言葉を通して、たえず語りかけておられます。礼拝において、教会の兄弟姉妹との交わりにおいて、あるいは日毎において、聖書を読む中私たちに、主は語りかけて下さっています。それは、後になって振り返ってみると、人知では計り知れない、神のご計画があったことを知らされる時があります。

 

主イエスは「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。又「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われます。 

「水」によってとは、罪の贖いのために成し遂げられた主イエスの十字架の死と復活に与るバプテスマであります。又、「霊」よってとは、神の霊、聖霊の注ぎによる新しいいのち、新生であります。その主イエスの死と復活に与り、聖霊の息吹によって神との交わりに生きる。そこにすでに神の国につながる永遠の命がございます。

主イエスによって、罪の滅びの枯骨が墓穴から救い出されて、日ごとに主の霊で満たして頂く新生の喜び。それは、どれほど大きな支えとなる貴い恵みでしょうか。

主はたとえ私たちが枯れた骨のような状態になったとしても私たちを決してお見捨てになられるお方ではありません。これが聖書の根底に流れるメッセージであります。その真実をお示しになるためにイエス・キリストは地上においでくださいました。

今も変わることなく、すべての人びとが神の霊によって新しく生れ変わるようにと、聖霊を送り続けていてくださっておられるのです。

聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を与えてくださいます。さらに聖霊は、教会の交わりに主の愛を注ぎ、一人ひとりの違いを豊かに活かし、「主が生きておられる」「主が共におられる」その体験の証しを立てさせてくださるのです。

今日の招きの御言葉のもと、主の霊によって共に建てあげられ、喜びと感謝をもってキリストの御救いがさらに証しされていくことを祈り、求めて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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内側からの清め

2021-09-12 14:24:09 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル書36章22―32節 

 

パラリンピックも閉幕しましたが。体操の内村航平選手がオリンピックの鉄棒競技を終 えた1か月後のインタービューで、難易度の高い業を見事に成功した後、これまで競技でほぼクリアーしていたところで落下し、予選落ちとなったことを振り返り、「何が起きたのかわからなかった。気付いたらバーが手になくて、落ちたんだと気付いた」「ここまでものすごい練習を積んできたので、あとはやるだけ、と過信しすぎていたところはあったのかもしれない。柔道の大野将平選手が“自分を最後まで疑いたい”と言っていたが、僕にはその気持ちが足りなかったのかもしれない」と言葉を残されていました。アスリートに限らず、私自身本当の意味でキリスト者としてどう生きているのか。如何に神のみ前に立っているのか問われる思いがしました。

 

本日の宣教に際してエゼキエル書36章が読まれました。かつてイスラエルの人たちは、神の民とされ約束の土地に導き入れられて、その土地を託されるのですが。しかしそこで無益な争いによって「血を流し、神でない偶像を拝み、より頼むこと によって、その土地を汚し」たのです(18節)。「わたしに立ち返って生きよ」とのみ声に背を向け続け、遂に「神は彼らをその土 地から散らし、諸国に追いやり」(20節)、捕囚とされます。それはまさに彼らイスラエルの人たちのおごりに対する神の裁きでありました。

失望し、神に見捨てられたと嘆く彼らに、主なる神は22-33節「イスラエルの家よ、お前たちのため」でなく、お前たちが汚した「わが大いなる名を聖なるものとする」と宣言なさいます。

イスラエルの人々は神の民にふさわしくない行いをなし、そのあげくの果てに追い散らされた先々の国で「これは神の民ではなかったのか」と、神ご自身のみ名が傷つけられた。汚されてしまうのです。「聖なる神」の「聖なるみ名」は回復されねばなりません。それは神の裁きによって、散らされたイスラエルの人々が、28節「再び神の嗣業の土地に呼び集められ、その地に住むようにさせ」、かつてのように神の民とされることによって実現されるのです。

ところで、22節で主なる神が「わたしはお前たちのためでなく、わが聖なる名のた めにその業を行う」とおっしゃっていますが。新約聖書に馴染んだ者がここを読みますと、「神さまは、愛する私たちのために救の業をなしてくださるのでは」と思うかも知れません。確かに神は愛なるお方であります。けれども全き聖なるお方であられるのです。だからこそキリストは十字架で私たちの裁きをその身に負われたのです。それは神が聖なるお方であることが示されるためです。神の厳粛な裁きを知り、もう滅びるばかり、神に愛される資格などもうないと、救いの望みを見出すことができない者にとっては、まさに神ご自身が唯一方的にわが聖なるみ名のためにと、救いの出来事を起こしてくださることが、救いの確かさとなるのです。

25節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちをすべての汚れとすべての偶像から清める。」それは人の力や業による清めではありません。主なる神御自身による清めであります。

26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

ここには、主なる神の一方的な清めについて書かれていますけれども、それは神が「新しい心、新しい霊を与えて、石の心を肉の心」にされることによってです。

主イエスもおっしゃいました。「人は水と霊によって新しく生まれなければ、決して神の国に入ることができない」と。

神の語りかけを謙虚に聞くことを拒むかたくなな石の心は、唯神の一方的な愛と憐みによってのみ打ち砕かれます。私の内にこうした神の語りかけを謙虚に聞くことのできない「石の心」がゴロゴロと転がっていないだろうか。「どうか取り除いてください」と願うばかりの者ですが。

 

先日、クリスチャン精神科医の工藤信夫先生がご著書の中から藤木正三牧師の「礼拝」について触れられた断想の言葉を私にファックスで送ってくださったのですが。その一部にこのように記されていました。「礼拝は神の前でおののく、つまり、自分の悲惨を認めしめられることを抜きにしては、ゆるされないことなのです。悲惨を内に見出すことなしに礼拝するなど、あり得ないとなのです。礼拝とは、上を仰いで神を拝むというよりは、内を見つめて 自分の悲惨から目をそらさないことなのです。」藤木牧師は「内を見つめて自分の悲惨から目をそらさない」と、研ぎ澄まされた感性で言葉になさっておられますが。それは言葉を換えれば、神の前に到底立つに値しないという自覚ともいえるでしょう。

31節、「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と 忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。」

これは実に、神の内側からの清めによって、石の心が取り除かれ、肉の心が与えられ、自分の罪の悲惨に気づいた人のあり様を語っているのです。私たちが、イエス・キリストの十字架の苦難と死によって救いの道が与えられましたのも、私たち自身に何か救われるようなもの、資格があったからでしょうか。決してそうではありません。それとは逆に、神の前に自分は如何に救いようのない者、自分の悲惨さに滅ぶほかない者であるかを知らされたからこそ今日こうしてみ前にひれ伏し礼拝するのであります。

その救いを得させ給う代償の大きさは、イエス・キリストが十字架で流された血と割かれた体を覚えるこの礼拝で、自分の罪の深さに今日も気づかされるものであります。

私たちの救いの確かさは、まさに主イエスの十字架を前に自分の悲惨さ、自我の罪深さに気づかされることから生じるのであります。救われるに価しない者、救われる資格のない者が唯神の大いなる愛と憐みによって救われ、生かされている。それがキリスト者であります。

肝心なのは、この救いと清めを日毎、又礼拝の度毎に確認していくことです。その確認を怠ると、人はまた高慢になってしまうからです。

ルカ福音書5章で、ファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」とつぶやいた時、主イエスはその彼らに対して「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔 い改めさせるためである」とお答えになったとあります。 しかし、この正しいとは神の前に自分は正しいといえる人のことですから、そんな人は一人もいないわけです。それを律法学者やファリサイ派の宗教家たちは、自分たちこそ正しい者、神に選ばれた資格ある者だと自負し、人々を見下していたのです。徴税人や罪人と言われていた人たちには、その己を正しいとして人たちとは異なり、自分の心のうちに、神の前に立ち得ない負い目、藤木牧師の言葉でいえば「悲惨」を抱えていました。主イエスはそれをよくご存じでした。

その彼らのもとに来られ「新しい心」を与え、「新しい霊」を置かれたのです。そうして彼らは主イエスを迎え入れ、やわらかな肉の心が与えられるという福音の出来事がそこに起こされていくことが物語られているのです。律法学者や宗教家は、自分は正しいと石のようにかたくなな心であったために、主イエスを受け入れることもできず、罪の解放と救いの福音が届くことはなかったのです。信仰告白しバプテスマ(洗礼)を受けたのだからもう救いは保証されているのだからと、あたかも救いの恵みを当然のように思い、自分の罪に鈍感になっていくとしたならば、救い主との関係性は薄らいでいき、再び罪にさまよう世界に身をさらすことになりかねません。

冒頭、偉大なアスリート内村選手の「過信し過ぎていたところがあった かも知れない」「自分を最後まで疑いたいという気持ちが足りなかったかも知れない」という言葉に触れましたが。その内村選手の自分を見つめる謙虚さ、自分を疑い、問い続けようとするその態度について、これは何もアスリートに限ったことではなく、人が人として生きていくための大切な姿勢と相通じるように思えます。神に愛され、生かされていることを喜びと知る私どもにとりましても、神の前、十字架のキリストの前で、どのような時も謙虚に自分を見つめ直し、主につながり続けて生きる者とされてまいりましょう。

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神の業は永遠に不変

2021-09-05 17:56:48 | メッセージ
礼拝宣教 コヘレトの言葉3章1-15節 

コロナ危機が長引く中ですが、本日はこうして先に天に召された会員、会友を偲びつつ、ご遺族、関係者と共に召天者記念礼拝を主にお捧げできます幸いを感謝いたします。私たちはここに信仰の先達を偲びつつ、その魂にとこしえの平安を与え給う主なる神を賛美します。そして、ご遺族のうえに神のお守りとお導きがこれからも豊かにありますようお祈り申しあげます。
先ほど、先に天に召された教会員、又会友のお名前が呼ばれました。
私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべてを治め、生ける命も、又召された命もすべてを司っておられます。人は罪のゆえに滅びるばかりでありましょうとも、神は深いご慈愛によって御ひとり子のイエス・キリストを世にお遣わしになられ、十字架の贖いの死によって罪の赦しを与え、さらにご復活を通して、主を信じる者を体のよみがえり、永遠の命に与らせて下さる全能の神を讃えます。ここに信仰の先達を偲びつつ、その大いなる望みを私たちも主なる神から戴いていることを確認したいと願います。

私事ですが、昨年9月17日母が83歳の生涯を終え、逝去しました。入所先の特養から母の容態が悪くなり病院に緊急搬送されたのですが、コロナ下のため面会は家族であっても許されません。結局亡くなる1時間前に北九州の病院から面会の許可がやっと出て、私は新大阪駅から新幹線に飛び乗るも、その十数分後に妹から電話があり、すでに母は亡くなっていました。妹も私も母の看取りは叶いませんでした。母はクリスチャンではありませんでしたが、ただ、生前母と万が一亡くなった時の葬儀について、キリスト教式で葬儀を行って送り出すことについて母と話しができ、妹の了解も得ていましたので、家族だけで母の葬儀を行い、昨年11月に納骨迄終えることができました。
クリスチャンではないのにキリスト教式ということに疑問を持たれる方もおられるかも知れませんが。大阪教会では主イエスを信じて天に召されました教会員とともに、そのご家族を会友として迎え、ご要望が生じた時には、全天全地を造られ、すべての命の源である天の神のもとに送り出しております。

この長引くコロナ下において、私と同じように家族の看取りさえも叶わない方々は大変多くおられるかと思います。感染対策ではあるのでしょうが、人と人のつながりが絶たれてしまうことも又、命に関わるほど深刻な問題であります。一日も早いコロナ危機の収束を願うとともに、今、この「時」をも司っておられる神とそのご慈愛を覚えつつ、人が人として生きるために大切な生ける神との霊的交わりが保たれますよう切に祈ります。

先に本日はコヘレト3章1~15節が読まれました。
このコヘレトの言葉は口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきましたが。70人訳ギリシャ語聖書では「呼び集める者の言葉」との意味をもった題となっています。それは主なる神を信じるユダヤの集会の中で読まれてきた書物であるということです。
主イエスがお生まれになるおよそ400年前、神に背き続けたユダヤの民は、大国によって南ユダとエルサレム神殿の崩壊、バビロンへの捕囚という辛い経験をいたします。その後、捕囚からの解放によりエルサレムへ帰還が叶った人たちは神殿の再建をいたします。他方、エルサレムに帰還できずに方々に離散した人々もおり、彼らはペルシャやその後のギリシャの文化や慣習の影響を受けていきます。ユダヤの民はそうした激動の時代の中で、それでも神の契約に与った「神の民」としての信仰を確認し、堅く保っていくのです。
このコヘレトはそうした中で1つの書物として編纂され、今日に至りますまで、「神に呼び集められた人々の集会」において読まれてきたのであります。私たちキリスト者も、キリストによって「神の民」とされた者として、その集会に連なり御言葉に耳を傾けている、ということであります。

ここの2~8節に書かれている様々な「時」については、その民が移りゆく時代の中で経験してきた「誕生と死、悲しみと喜び、嘆きと歓喜、愛と憎しみ、戦争と平和」といった人生の節目、節目の時であったのでしょう。これは又、私たちの人生、生涯、又日常の生活の出来事に当てはめて読む事もできるかと思います。私たちも又より幸せになりたい、よい生活をしていきたいと願うものであります。そのために労苦も努力もいたします。

コヘレトはそれに対して9節「人が労苦してみたところで何になろう」と問いかけます。
それは「いくら努力しても無駄だ」ということを言っているのではなく、この3章の終わりにありますように、すべては塵からなり、塵に帰るのだから自分の業によって楽しみを得よ、それが人間にふさわしい分であるというのです。もっとわかりやすいのは続く12-13節で「わたしは知った人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」コヘレトは言うのです。
けれどもその満足感はその時良ければよいという刹那的な考えで得られることではありません。すべては神の賜物であり、与え給う神を知ることなくして人は本当の満足感を得ることはできないのです。

戻りますが、10-11節「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」

人の世にあって時は移ろい、如何に時代は変りましても、天地万物を創造し、治めておられる主なる神が、そのすべてを時宜、神の時:カイロスにかなうように造り、被造物である人間に永遠を思う心を与えておられるのです。とこしえまでも統べ治め賜う神を仰ぎ見つつ、歩むものでありたいものですね。

コへレトは「人生を喜び楽しんで生涯を送ること」を肯定します。禁欲主義や道徳主義を説いていません。ただ大切なのは、その飲み食いや、自分の労苦によって満足することは神からの賜物であるとわきまえ知ることです。それを忘れて自分本位に生きるなら、それは虚しく、やがては枯れてしぼみ、朽ちてゆく草花のような人生となるでしょう。

さて、コヘレトは11節の人が「永遠」を思う心に続いて、14節でも「わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり付け加えることも除くことも許されない、と。」今度は「神の業の永遠とその不変性」を説きます。
時代や人の思いや考えは変わりゆくことがありましても、永遠に変わりなきこと、それは「神の業」なのであります。

コヘレトが人に訴えていますのは、すべてをお造りになり司っておられる神の存在と、その神を思わずして生きていこうとする人の生涯の虚しさであります。
14節「神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
私たち人間がいつ如何なる時にも、光を見出し、自分の生涯を真に価値あるものと認め得るには、「神を畏れ敬う」そこに尽きるのです。
コヘレト12章1節に「お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びがない』と言う年齢にならないうちに」とも記されています。

神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であると考え、片づけようとします。自分が今生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然です。その偶然には意味はありません。偶然には目的もないのです。意味のない人生、目的のない労苦……だからそれは空しいのです。
そこでコヘレトは伝えます。「すべてに時があるのだ」と。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であります。神が意図をもって定めた「時」、神が目的をもって定めた「時」がある。そこで神とその永遠を思い、どう生きうるか。だからこそ神を畏れ敬う人は祈り、務めるのです。
今日というこの日、私たちがこの礼拝に集いましたのも、こうしてコヘレトの言葉を聞いていますことも決して偶然ではなく、神の時、神の業であるのです。

最後の15節に「追いやられるものを、神は尋ね求められる」とあります。
今、世界はけんそうと混乱の渦中にありますが。ともすれば世の力に追いやられるような弱き存在である私たち人間を、初めであり終わりであられる主なる神は時空を超え、今も一人ひとりの魂を絶えず尋ね求めておられるのです。
このコヘレトの時代から永きを経て、神は全人類に向けた決定的な介入、カイロス、「神の時」をもたらされます。神はすべての人に救いが開かれるために御独り子イエス・キリストをお遣わしになられたのです。まさに神の義と愛による救いと裁きの「時は満ちた」のであります。それは人の姿となってお生まれくださった神の御子イエス・キリストの誕生の「時」であり、この地上における神の国の訪れの「時」でありました。イエス・キリストが十字架におかかりになって私たちの罪を贖い死なれた「時」。罪による死の滅びからの解放と神との和解という驚くばかりの祝福の道が拓かれました。さらに、神はその御子イエス・キリストを三日の後に死よりよみがえらせてくださることを通して、私たちにも神の永遠の命に生きる道を拓いてくださったのです。ここに信仰の先達を偲びつつ集いました私たちは、その大いなる復活の希望を戴いていることに心から、主に感謝いたします。
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