日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

予告 聖暦 主の年2020年は元旦礼拝から 

2019-12-30 18:00:23 | お知らせ

   

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まことの光のもとで

2019-12-29 14:40:58 | メッセージ

歳晩主日礼拝式宣教 ヨハネ1章1~18節  

今年も国内外で、また私たちの身近なところでも悲しく辛い出来事が起こった1年でもありました。なぜなんだろうか、どうしてこういうことが起るのかと頭を抱え、苦悩された方、未だに解決の目処も立たず苦悶され、悩みを抱えておられる方もおられるかも知れません。   
今日歳晩の礼拝のメッセージとして与えられましたのはヨハネ福音書1章の暗闇の中で輝く「まことの光」として来られた救い主イエス・キリストのお姿です。神の独り子であるお方が、闇のような暗い世界に、「すべての人を照らすまことの光」として来られた。人となって「わたしたちの間に宿られた」。否、今も共にいてくださる。その希望のメッセージに今日も聞いていきたいと思います。

まず、今日の箇所はヨハネ福音書全体のメッセージが凝縮された大変重要な箇所であるといえます。
それは、旧約聖書の預言者たちを通して示され、語り継がれて来た「神の救いの訪れ」が、「御子イエス・キリスト」によって実現された、その事がここに証しされているからです。
この1節から14節に何度も「言」という文字が出てまいりますが。以前にも申しましたように、その「言」は私たちが日常使う言葉、葉がつくものとは異なる字であります。諸説あるようですが、人の口から出る言葉は元々物事や出来事の端っこ、「事の端」がいつか「ことば」となったといわれているようです。同じように「口の端」というのがあって、それは噂のような軽いものを指すそうです。
一方、今日の聖書にある一文字で表わされた「言」は「神」そのものを示します。
ヘブライ語でダバール、それは創世記で神が「光あれ」と言われた途端、そのように成ったとありますように。神の言はそれが発されると同時に「出来事」となるのです。人間と違い神は有言実行なるお方です。
また、ギリシャ語で言は「ロゴス」と訳されます。これは理性、思想や概念、意味、説明、理論、根拠、秩序、原理などとなどの意味あいをもつものです。
そして今日のヨハネ福音書では、この「言」を「イエス・キリスト」と置き換えて読まれると、随分わかりやすく理解できるかと思います。殊に14節の「言」をイエス・キリストと置き換えて読んでみたいと思います。
「イエス・キリストは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。まさにクリスマスではそのところから聖書のメッセージを聞いたわけですが。そのように、神の言、神のご意志であるイエス・キリストが人間の身をまとわれ、わたしたち人の営みの間に住われることによって、神の恵みと真理が世に現わされた、ということです。
このヨハネを含む4つの福音書は、それぞれの仕方で主イエスの降誕、宣教活動、そして十字架の苦難と死、さらに復活に至るまで、神と共にある「言」が人となった、「言が肉となった」(それを神学的な用語で「受肉」と申しますが)、その事実が証しされているのであります。

キリストは人として生まれ、具体的に人の苦しみ、病、人の弱さ、困窮、無力さを自ら経験されました。そればかりか、神の御心に生きたにも拘わらず、人に憎まれ、疎んじられ、蔑まれ、遂には裏切られて、嘲りの中、神に見捨てられた姿で十字架にかけられ死なれた、とまことに衝撃的な事実を伝えているのであります。

また、先の14節ですが。「イエス・キリストがわたしたちの間に宿られた」の「宿る」という言葉には、幕屋(テント)を張るという意味があります。   
旧約聖書の出エジプト記、イスラエルの民がエジプトを脱出した時、かの民はシナイの荒れ野で険しい旅路の行く先々に、幕屋を張りました。それはただ自分たちの生活のためのテントではなく、主なる神さまの幕屋でした。
主はモーセに「わたしのために聖なる所を造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エジプト25:8)とおっしゃいました。また、その幕屋で礼拝が捧げられる時、「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である」(出エジプト29:45-46)ともおっしゃいます。彼らはそうして自分たちの間に主が共にいて、守ってくださることを祈り礼拝しながら、荒れ野の旅を続けたのです。
大切なことは、「主がわたしたちの間に宿られる」。それは神自ら民の貧しさ、苦悩、痛みを共になさるということでした。
それはイスラエルの民が優れていたとか立派であったからではありません。主御自身がモーセにエジプトからの脱出とカナンへの命を示した折、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った」(出エジプト3:7)という深い憐れみのゆえに、幕屋を張りその民と共に住んでくださったのです。
そして時至り、ヨハネ福音書はその荒れ野を旅する民に伴われた神が、御独り子のイエス・キリストをして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語るのです。

このヨハネ福音書はイエス・キリストのご生涯をして、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と語ります。
「栄光」といいますと、何かきらびやかで華々しいものをイメージいたしますが。
このイエス・キリストの栄光は、どこまでも父の神の御心に適う道を求め、その道を最期まで歩み通されたところにございます。

フィリピの信徒への手紙には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてイエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と、あります。
それが、この福音書を書いたヨハネが目の当たりにした「父の(神)の独り子としての栄光」であったのです。

さて、今日の週報の表拍子に1枚の絵を掲載しています。
 
今日のヨハネの「父の神の独り子の栄光」ということを思い巡らしていたときに、ふと以前、「釜ヶ崎と福音」という本田哲郎さんのご本の中に載っていたこの絵が思い出されたのです。
この絵は画家のF・アイヘンバーグさんが、ニューヨークの炊き出しの風景を公園の片隅で眺めながら描いたとされる「炊き出しに並ぶイエス」という作品です。            
この絵で興味深いのは、キリストは炊き出しをする側(奉仕する側)にではなく、炊き出しに並ぶ人々の中におられるということです。
それは、思いますにイエスさま御自身も厳寒の下で炊き出しに並ぶ人たちの飢え渇き、言葉には言い表せない苦悩を一緒になさったということでありましょう。
イエスさまの背後に輝く光が描かれていますが。その光は苦しみから助けを必要として人々と共にあって、彼らを照らしているのです。今日もイエスさまは苦しみの中にあって、助けを必要としている人々のうちにおり、宿られ、天幕を張り、共に住んで下さるお方なのだと信じます。

本日は「まことの光のもとで」と題し、御言葉を聞いてきました。
今日の箇所の18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる御独り子である神、この方が神を示されたのである」と記されています。
私たちは肉眼で神を見ることはできません。しかし、「すべての人を照らすまことの光として」来てくださったイエス・キリストは、父の神の愛といつくしみに従い続け、神の栄光をあらわされました。

今年の歳晩主日礼拝にあたり、一年の私たちそれぞれの日々の信仰とあゆみが守られてきたことに感謝いたします。そして主がわたしたちの間に宿られ、私たちの弱さ、苦悩や痛みを共になさってくださった一年であったことを感謝いたします。

来年の初めは元旦礼拝からです。主の平安と祝福を祈り、また、とりなし、新しい年を共々に歩み始めてまいたいと願います。

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予告 2020・2・1ー2 藍色のシャマール~音楽劇 イマジナリーライン 公演

2019-12-28 09:58:16 | イベント

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最大のプレゼント

2019-12-24 21:16:21 | メッセージ

クリスマス・キャンドルライトサービス宣教 コリント二:8・9 

メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
本日このクリスマス・キャンドルライトサービスへにようこそいらっしゃいました。
クリスマスはキリストのマスと書かれるように、キリストの祝祭という意味です。イエス・キリストが神のご計画により、全世界の救い主としてこの地上にお生まれ下さったことを喜び、救い主キリストなる神に礼拝を捧げる、これがクリスマスなのであります。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションに彩られ、様々なところでイベントが行なわれているようですが。本日キリストの教会でほんとうのクリスマスを共に捧げることができますことは、まことに喜びであります。

先にキャンドルライトサービスの中で、クリスマスの賛美歌が歌われ、聖書箇所の朗読がなされました。救い主に関する預言として旧約聖書が朗読され、又、その実現として救い主イエス・キリスト降誕の記事を、新約聖書のマタイとルカの福音書から聞きました。この神の救いは、ユダヤから始まって全世界のもたらされるものであることが、神がご計画されていたのです。そうして遂に、救い主イエスさまがお生まれになられる時の状況ついて、聖書は「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」と記します。  
まあ住民登録のため各地方からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえして、どこの宿屋も満室でいっぱいであったのでしょう。けれども、これは単に宿泊所が不足していたという問題ではありません。救いの主、イエス・キリストが世に来てくださったというのに、世の人々にそれを受け入れる余地がなかったということです。 
けれども「居場所がある」というのは、単に立派な建物や家があるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居心地が悪く、自分の居場所がないという人がいるのではないでしょうか。

さて、聖書は最初にクリスマスの良き知らせが届けられたのが、当時の社会において、またユダヤの町の人々から見下され、住民の数にも数えられていなかった羊飼たちでした。彼らは昼夜羊の群を守り、定住する場所をもたず野宿暮らしをしていた人たちでありました。
又、救い主に尊い贈物を携えて来た東方の学者たちは、ユダヤの民ではない異邦人でした。彼らは神の救いから除外されている者とユダヤの人々から見られていたのです。
しかし不思議な事に羊飼いたちや異国の学者らは、神の救いが薄暗い家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃんによって、実現されることを信じ、受入れることができたのです。思いますに、それを敏感に察知できた彼らこそ、まことの居場所を必要とする人であり、同時にその居場所を飼い葉桶に寝る赤ん坊の中に見出せる人であったということではないでしょうか。
今日この日に特に祈りにおぼえたいことがあります。それは喜び祝いたくともそのおかれた状況があまりに過酷な方がたのことです。
教会の近隣にもこの寒さの厳しい時期に路上で長い夜を過ごさざるをえない方々がおられます。凍てつく厳寒のこの時期には特に「路上で死者を1人も出さない」を合い言葉に、今年も釜ヶ崎キリスト教協友会主催のもと「喜望の家・ディアコニア」の越冬夜回り活動が1月3日から2月末まで毎週金曜日の夜に行われます。野宿を余儀なくされている方々も以前は労働者が多かったのですが、昨今は失業者、若年層、障碍を抱えておられる方、女性とほんとうに様々です。また、こどもたちの貧困や虐待といった問題。ファーストフードやネットカフェで寝泊まりしながら何とか生活をつないでいるという方がたもおられます。

そしてまた、今日このクリスマスのイブ礼拝に足を運ばれた私たち一人ひとりも、それぞれに悩みや痛みを抱えつつこの1年を過ごされたかと思います。ご自身の病気や、また家族の看病で追われた一年になった方。生活のために仕事に追われた方、心の元気をなくしている方と、ほんとうに様々でありましょう。

けれども、先ほどコリント二8章9節の聖書のお言葉が読まれました。
「あなたがたは、わたしたちの主イエスの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
救い主キリストはそのような悩み多き者、寄る辺なき者と共に生きるために自ら貧しい姿、人として最も弱く小さい幼子の姿となってお生まれくださったのです。
これこそ私たちに与えられた「神さまの最大のプレゼント」なのです。
そうして聖書は、「あなたがたが豊かになるため」と言っているその真意を私たちが如何に受け取るかということが重要なことなのです。
それは、私たちのクリスマスの喜びが決して独りよがりの喜びではなく、世界中で主の救いを必要としているすべての人々と喜びを共にし、つながり、分かち合われることで、
「あなたがたが豊かになる」と、聖書は伝えているんですね。

この後、献金の時を持ちます。この献金は対外の支援を必要としているところにすべて贈らせていただくものです。今年も昨年と同じく、日本聖書協会の点字聖書作製のために、また、滋賀県の知的障がいを抱える方々の施設・止揚学園へ、そして越冬夜回り活動をされている釜ヶ崎のルーテル喜望の家・アルコール依存症回復センターへ贈らせて頂きたいと思います。
神さまがその独り子である御子イエス・キリストを、私たちに与えて下さったその大いなる恵みと幸いを私たちも又、ともに分かち合うことができますよう、切に願います。

祈ります。天の父なる神さま。新会堂が与えられて7回目のクリスマス・キャンドルライトサービスをここにお捧げすることができます恵みを感謝いたします。
私たちはこんなに立派な会堂で礼拝をお捧げしていますが。救い主イエスさまは「その貧しさによって私たちが豊かになるため」に家畜小屋の飼い葉桶を居場所としてお生まれくださいました。それが世界の最初のクリスマスであったこと、神さまの最大のプレゼントであったことを、私たちは忘れません。
どうか、この地上の隅々にまで訪れたクリスマスのその喜びと、私たちのクリスマスの喜びをひとつにしてください。又、ここに集われたお一人お一人の課題に御手を添えて、新しい年へと歩み出す力をどうかお与えください。そして、苦闘している隣人のために留まり、寄り添う私たちとしてください。そのために私たちを用いてください。私たちの心も体も時間もお捧げます。
救い主・イエス・キリストのご降誕を心から感謝してお祈り致します。ア―メン。

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2019/12/24 クリスマスイブ・キャンドルライトサービスご案内

2019-12-23 10:21:39 | お知らせ

Merry Christnas!

12月24日(火)午後7時~8時 入場無料(自由献金あり)

クリスマスの賛美歌、聖書朗読、メッセージ等があります。

クリスマスを教会で過ごしてみませんか!

みなさまのご来会を心よりお待ちしております。

 

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世界の王、主を求めて

2019-12-22 20:24:44 | メッセージ

クリスマス礼拝宣教 マタイ2章1節~12節 

「メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。」
今日初めて教会にお出でになられた方もいらっしゃるかと思います。又、久しぶりにお出でくださった方、求道中の方、ようこそいらっしゃいました。全世界に与えられた救いと希望、救い主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマス礼拝を共に捧げられることは喜びです。
一方で2000年前も今も、残念なことに世界中で悲しく無残な戦争やテロが後を絶ちません。それはすべての人に向けられた神の愛を知らないために起ってくる無関心や利己的な人の思いというものが要因となっているでしょう。そのような暗き世界に平和の君である救い主イエス・キリストが世を照らす真の光としてお生まれ下さった、この平和の福音がすべての人にと、切に祈り願います。

本日は先ほど読まれましたマタイ2章1-12節より、「諸国民、全世界の王なる主を求めて旅し、遂に神の御子キリストのもとに導かれ、喜びにあふれて幼子イエスさまに礼拝を捧げた東方の学者たちに焦点をあてながら、聖書のメッセージに聞いていきたいと思います。
さて皆さんは、このクリスマスの礼拝に様々な思いを持っておいでになられたでしょうか。しかしそれは私たちの側の意志や決定以前に、まず「主なる神さまのお導き」があってのことです。主のお導きがあって一人ひとりがこのクリスマス礼拝の場へと招かれた、ということであります。
先程読まれました聖書の東方から来た学者たちは、まずベツレヘムでお生まれになったユダヤの王のしるしと思われる不思議な星に導かれ、ヘロデ王のもとを訪ねます。
さらに彼らがヘロデ王の宮廷から出かけると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」とあります。このようにその随所で星が彼らを救い主・キリストのもとへと導いていったのです。それは神の御心でした。

「星に導かれて」ということで思い浮かびますのは、もう10年も前になりますが、ある方が大阪教会のブログに寄せて下さった文章が目に留まりました。それをちょっと紹介したいと思います。
「先日、教会のクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたとき10月11日に入信したばかりの9歳のT君も一緒に手伝ってくれた。そのうちに彼は大きな星を見つけて「これどこにつけるの?」と聞いてきたので、その星の由来を説明した。東方の博士たちを導いた星のことを!すると、彼は「僕が飾りたい!」その木の天辺に飾りたい!」小さい彼にはとても無理な話であった。人の助けが必要であることは勿論である。「ぼくが」という強い意志が彼を動かした。彼を抱っこしても届かない。それが階段近くにあったので、階段の間から手を伸ばす方法を彼は思いついた。その木の先端に手の届く方向へ下にいる者が曲げてやると苦心惨憺の末ついに届いた。見事にその星は定位置に収まったのである。T君の顔は「やった!」という満足感でみなぎっていた。多くの方々の祈りに導かれ、でっかい星を「ぼくが」飾りたいのだと小躍りをもってしたことが遂に実現につながった。背丈が問題ではなかったのだ。T君の意欲が周辺にいる人たちを巻き込んだ。その星が他の飾りに先駆けてあるべき位置に就いたとき、彼のよろこびようは尋常ではなかった。彼は信徒になってはじめてのクリスマスを迎える準備に大役を果たしたのです。じっとしてはおれなかったあの異国の博士たちは遠く山河をこえてエルサレムにやってきた。途上けわしい道もあったであろうが東方でその方の星を見た彼らを導かないはずはないと固く信じてひたすら進んできたと思う。博士たちの努力や熱心が、救い主を見つけたのではない。救い主の誕生とそのしるしが彼らを動かしたのだ。信仰者があらゆる努力をして救い主を造り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです!云々」。
ほのぼのとしたエピソードでありますが。その彼も先日二十歳となり信徒となって今日で11回目のクリスマスを迎え共に礼拝を捧げています。

さて、東方の学者たちの「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た」という言葉を聞いて、3節「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった、祝われるような出来事ではなかったという事を物語っています。 
巷ではもう11月初め頃からデパートや商店などに華やかなクリスマスの飾付けがなされ、教会より先にクリスマスが来ているようですが。まあ私たちは一年に一度こうしてクリスマスの本来の意義をあらためて見出し、喜び祝うため集っているのであります。それは救い主キリストが私たちのもとにおいでくださったことを心から感謝する喜ばしい日でありますが。しかし世界で最初のクリスマスは決して華やかさもにぎやかさもなく、何か楽しくうきうきするような中で来たのでもなかったのです。むしろ人々の不安と心の闇の中にその日が訪れたのであります。
当時のユダヤはローマの支配下にあったとはいえ、エルサレムの住民は比較的裕福であり、ヘロデもその地位に満足していました。
そこに神の民としての畏れや渇きはありません。何よりも権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するなんぞという知らせは、自分の地位や権力を揺るがしかねないと、都合の悪いものでしかなかったのです。それはエルサレムの住民もまた、自分たちの生活の現状が維持されるならよいが、それを揺るがすようなことは彼らにとってみれば不安の材料に他ならなかったであります。
2週前の礼拝ではヨセフが主の天使から、婚約者のマリアは「救い主・キリスト」を聖霊によって宿した、とのお告げを聞く場面を読みました。
ことの次第を聞かされたヨセフに驚きと「恐れ」が生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデやエルサレムの人々のようにただ「不安を抱く」のではなく、主の言葉に聞き従うあゆみへ方向転換されていくのですね。
先週礼拝で読みましたルカの福音書に登場する羊飼いたちは、ヘロデ王のように地位や権力はありませんでした。又、エルサレムの住民のように安定した暮らしもありませんでした。羊飼いたちは自分を守るもの一切所有していない人々であったのです。その日一日をただ一生懸命に羊飼いとして生きていた。にぎやかな街の喧騒から置き去りにされ、町の人たちからも疎外されていたその羊飼いたちに、真っ先にあの天使の御告げ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせが届けられたのです。彼ら羊飼いたちは主の天使のお告げに、恐れおののくのですが。その羊飼いたちの恐れは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」と全く違ったものでした。羊飼いたちは「自分たちのように小さい者のもとに救い主の誕生の知らせが届けられるとは、一体どういうことか」という驚きと謙遜、それは「神への畏れ」、畏敬の念であったのですね。

さて、この東方の学者たちは「マギ」とも言われていました。口語訳や新改訳では「博士たち」と訳されておりますが。それは当時のペルシャで広く知られた天文研究者や自然科学者、占星術者を指していたようです。
彼らは東方から来たとありますから、バビロンやペルシャという国からと考えますとその地は、ユダヤの人々が長い間捕囚の民として暮らした地域でありますから、そこに移住していたユダヤの人々を通して、王なるメシアの預言を知るようになったのかも知れません。
彼らは「東方でユダヤの王となる方の星を見て」、遙々エルサレムのヘロデ王の宮廷を訪れるのです。そうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。ヘロデ王がどう受け取るかなどあまり考えていなかったのかも知れませんね。「神の約束であるユダヤの王、待望された王がお生まれになった。是非とも拝みたい」と、ただその一心で自分たちの見た星を頼りに、遠くから遥々国境を越え、資金、時間、労力を惜しまず、危険な山道を乗越えてエルサレムにまで足を運んで、ヘロデの王宮を訪ねたのです。
イエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちのあり様は、神とその救いを一目拝したいという心のあらわれであったといえます。(今日は小澤愛子さんが何とか礼拝に出席したいとの願いが叶えられ、久しぶりに礼拝を共にできて嬉しい限りですが。)

まあそのような東方の学者たちとは対照的にヘロデ王やエルサレムの人々の心は、日常の様々な事どもに心ふさがれ、神の時が訪れても、それに気づくことも受け入れることもできませんでした。
この東方の学者たちの心は、「神の示されるこの特別な王に是非とも会って礼拝したい」という期待に満ちていました。彼らが抱いていた「礼拝したい」、又「神の救いに与りたい」という強い願いは、本来世界中の人々の魂の飢え渇きを示しているのです。なぜなら、そこに神さまが備えてくださる真の平安と祝福があるからです。
ところが、今日の時代にあっても多くの人びとは日常の事どもや思い煩いに心がふさがれて、あの王やルサレムの住民たちのように神の恵みを受け取ることができなくなっているのではないでしょうか。主を信じている私たちは、どうでしょうか?

本日の箇所で重要な点は、救い主の誕生をはじめに知り、拝むために探していたのが、ユダヤの民や人々でなく、意外も意外、ユダヤ以外の異邦の人々であったということであります。いわゆる神の選びのユダヤの民でなく、ユダヤと国境を隔てた遠い東の国に住む異邦の人たち、ユダヤ、エルサレムの住民からすれば、神の祝福の範疇から除外されている目されていた人々であったのです。
マタイの福音書は神の民であるユダヤ人に向けて書かれていますが、救い主がお生まれになった最初の知らせを聞きとり、主を心から礼拝したのがその異邦の人々であったと、異邦人に向けられた神の祝福がこのようなかたちで物語られているのです。
私たちもまた、異邦の民であり、罪深い者でありますが、主はその私たちのために救い主を送ってくださったのです。東方の学者たちのように救い主に導かれた大いなる畏れと感謝を、私たちは失いたくないものであります。
今日の礼拝の招詞、エレミヤ書10章6-7節をもう一度読んでみましょう。    
「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方/御名には大いなる力があります。諸国の王なる主よ/あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でも/あなたに並ぶものはありません」。
アーメン。これは、すでに旧約の時代から、救い主はユダヤだけでなく諸国民、諸王国つまり世界の王、主としてお生まれになることが預言者エレミヤによって告知されていたのです。そうして、このエレミヤ書の預言が、御子キリストの誕生によって実現したことをマタイの福音書ははっきりと世界の人々に伝えているのであります。

さて、ヘロデ王が「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう」と東方の学者たちを送り出し、彼らも王の言葉を聞いて出かけると、あの「東方で見た星が彼らに先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」というのです。そして、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。
天体物理学で世の中を計算し占うような彼らが、人知を超えた存在、天地万物を創造された神のお働きとお導きに遭遇した感動と喜びが彼らに満ち溢れているんですね。

そうして彼らがそこに入りますと「幼子は母マリアと共におられた」のであります。
東方の学者たちがずっと会いたいと切に願っていた新しいユダヤの王と、彼らはここで初めて対面することになるのです。
そこは王の宮廷でも立派な建物でもなく、岩穴の洞窟を利用した粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、その幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。
またそこには、期せずしてかけつけて来た貧しい羊飼いたちの姿もあったことでしょう。
彼らもまた救い主の誕生の知らせを聞いて、同じく喜びに溢れていました。まあ、薄暗い家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者が訪れて来て、この幼子イエスさまを拝しているという何と平和で暖かい光景でありましょう。東方の学者たちはそういう出会いの中で、この幼子こそ、平和の主にして、世界の王メシヤであるとの確信を与えられたのではないでしょうか。
都を守り治めるのは力や権力であると、それに依存し、しがみつく人たちは、この平和、平安に与ることができなかったのです。

今日の東方の学者たちは、そこで乳飲み子イエスをひれ伏して拝みました。異邦人であった彼らは天文学や自然科学を探求することによって真理を探し求めていましたが、しかしその星や天体や自然界をも統治し、導いて偉大なお方、主なる神を、彼らはこうしてベツレヘムの小さな町の家畜小屋に寝かされた幼子イエスを拝んだ、礼拝したのです。
マタイ4章に預言者イザヤの書の言葉が次のように引用されております。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
まさに主イエスは、世界の救い主としてお生まれくださったのであります。

東方の学者たちは「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。
黄金は王や権威の象徴。乳香は神殿で焚かれるお香ですから神性を表します。没薬は死者を葬るさいに塗られるものですから、死を意味しています。つまり御子キリストは王であり、神であり、救いのために死ぬこと、すなわち罪の身代わりとなって死ぬために来られた。そのようなお方であることがこの3つの宝に預言的に表されているのです。

こうして主イエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。
彼らが当初来た道は、政治的使節団としての意味あいをもっていました。彼らは平和的な関係を築くためにユダヤの王子の誕生を祝いに来たのです。しかし救い主の幼子イエスに出会った彼らは、ヘロデの王宮にはもう向かわないで、神の言葉、御告げに従う道を通って自分たちの国へ帰っていくのですね。それは、彼らのこれからの人生が、世の力や権力に依り頼む道ではなく、生ける主なるお方を拝しながら生きる、ほんとうの平和・平安、シャロームの道を選びとっていったのですね。私たちはどの道を通っていくのでしょうか。それを選ぶのは私たち自身に委ねられているのです。
今日は「世界の王、主を求めて」というテーマでお話をしました。メリークリスマス、全世界のすべての人たちのために救い主イエス・キリストがお生まれくださったこの大いなる恵みを感謝して、主の御名をほめたたえます。

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恐れるな

2019-12-15 13:10:53 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ2章8-20節 アドヴェントⅢ

 

礼拝ではアドヴェントに読んでまいりましたマリアへの受胎告知から、又、夫ヨセフの、家族となる決意、そしてこの2章で2人は住民登録のためベツレヘムへと向います。6-7節には「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所はなかった」と、何と家畜小屋の中で出産なさるんですね。               

今回注目したいのは羊飼いたちです。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。ベツレヘムの町からちょっと外れた牧草地のある場所で羊飼いたちは夜の間もずっと羊の群れを守っていました。その羊飼いたちに突然主の天使が近づいてきたというのです。今も各国で羊牧は行われていますので、羊飼いを実際にご覧になられた方もおられるでしょうが。私も以前シナイ山のふもとを移動するバスから、羊の群れを遊牧する羊飼いを見ました。そこでは2000年を経た現代でもほとんど当時と変わらない出で立ちで生活を送っていらっしゃるように見えました。羊飼いといえばまあ温厚で柔和な人たちというイメージをもたれるかも知れませんが。旧約の出エジプトの指導者のモーセ、そしてイスラエルの王ダビデ、さらに預言者のアモスも羊飼いでした。聖書の時代の羊飼たちは家も持たず、有っても羊と移動しながら野宿をするような生活です。いつ獣や羊を奪う盗人が現れるかわかりませんから、夜通し番をしていた、いわば危険な警備員のような仕事ですね。羊飼いという何かソフトなイメージとは異なる大変な仕事であるということです。そういうある意味24時間勤務でありますから、まあ当時としては当然彼らは安息日を守ることができなかったのです。さら彼らのいわゆる人権や尊厳はおきざりにされていました。法廷での証言者としては立つことが許されていませんでしたし、ユダヤ人としての住民登録などもなく、ユダヤの町の人たちは彼らを蔑んだ目で見ていたのです。ところが、主の天使はそのような羊飼いたちに、救い主イエス降誕の知らせを真っ先に告げ知らせるのです。それは本当に意外なことでありました。メシア、民を救う王となる方がお生まれになられるのです。皇帝や王に真っ先にその知らせが届けられてしかるべきというのが世の常識でしょう。あるいは町には祭司もいたし律法の専門家もいました。けれども、主の天使は世の考えや常識とは異なり、意外も意外この羊飼いたちに現れるのです。

9節「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」彼らを襲ったのは喜びではなく「恐れ」でした。「彼らは非常に恐れた」のです。

この「恐れ」は、夜の暗闇の中にいた羊飼いたちが突然主の栄光に照らされ明るくなって天使が現れたからびっくりして怖くなった。恐れた。そういうことも考えられますが。この「大きな恐れ」はもっと人間の根本的な恐れです。それは、罪人である人間が全きお方、一点も曇りなく義であられるゆえに聖なるお方、人知を超えた力あるお方を知ったことへの「大きな恐れ」です。あの十戒のシナイ山でイスラエルの民は「これ以上神の御声を聞くならばわたしたちは死んでしまいます」とモーセに訴えました。また、主イエスに神の子としての栄光を見たとき、シモン・ペトロは飛び退いてひれ伏しました。私たちは主の栄光に照らされるとき、自分の罪がすべてあらわにされるのです。暗かったのが明るくなって良かったなどと言ってはいられないのです。隠しておきたかった罪。忘れてしまっていた罪。そのような罪のすべてが私たちに突きつけられるのです。神さまに出会うとき、私たちは自分の罪の重さにとても耐えられません。一点の曇りもない全きお方を前にして、私たちは自ら消え入る以外ないような者だからです。彼ら羊飼いはその境遇から神への恐れを知っている人たちであったと言えるでしょう。ある意味神への恐れを知らない人は、神の救いの恵みの深さ、広さに気づきにくいといえるかも知れません。

さて、そのような「大きな恐れ」を抱いている羊飼いたちに天使は命じます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

ルカのクリスマス物語において繰り返し「恐れるな」と語られてきました。ある時にはザカリアに「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と告げられましたし、また別の時にはマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と告げられました。ここでも、天使は羊飼いたちに「恐れるな」と命じます。             

そして主の天使は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言っていますが。この「民全体」とはユダヤの民のことを指していると考えられます。しかしこのルカ福音書を読み進めていけばいくほど、この大いなる喜びの知らせが、ユダヤ人から異邦人へ、さらにすべての民、全世界へと広がっていくことがわかります。この後神殿でシメオンが幼子イエスさまを抱き上げて「これは万民のための救い、異邦人を照らす光」と言っています。また、ルカの福音書の最後でも復活の主イエスが「罪の救いを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられる」とおっしゃいます。ルカ自身も異邦人であり、この喜びのエピソードを丁寧に書物に書き残したのでありましょう。さらに時代を越えて今を生きる私たちにも、この喜びが告げられているのですね。神さまの栄光に照らされるなら、自ら絶え得るほかなかったこの私たちにも、この「大きな喜び」が与えられている事は何と幸いなことでしょう。

続けて天使は告げます。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。私はこのお言葉に、羊飼いたちがどんなに驚いたかを想像するんですね。当時の社会にあって人々から蔑まれていた「あなたがたのために、救い主がお生まれくださった。」  この「あなたがたのため」ということを知らされた時の、その驚きと喜びはいかばかりであったでしょう。先にも申しましたように羊飼いは民の数には入れてもらえない人たちであったのです。主の天使は、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げます。これも羊飼いたちにはどのように聞こえたでしょうか。この乳飲み子の飼い葉桶のある家畜小屋は通常洞窟を使って造られていたようです。よくある立派な小屋ではないんですね。実は羊飼いたちが通常寝泊まりするのもそういった洞窟であったのです。意外にも夏は涼しく冬は暖かかったからです。それはもうそのまま救い主が自分たちのもとにおいで下さった、という素晴しいしるしにほかならなかったでしょう。

 さて、主の天使が語り終えると、13節「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」。どんなに素晴しい光景であったかと思いますが、この天の軍勢の賛美は羊飼いたちのみならず、私たちへの応援歌のようにも思え希望を感じます。そうして主の天使たちが天に去ると羊飼いたちは互いに言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。              

それは実は彼らにとって決して容易なことではありませんでした。彼らは町の中に入るというはまあ通常は考えてもみなかったこと思うのです。か。」あの自分たちのことを蔑視し、蔑んでいる町の人たちが居るところに行くこと自体、これは彼らにとってまぎれもなく「恐れ」以外の何ものでもなかったからです。けれども、ここで彼ら羊飼いは互いに、このことについて「話し合った」んですね。そうして「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事をみようではないか」と決断するんですね。

そして「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て」それを目の当りにした時、彼らは確信するんです。「この子こそメシアだ、私たちの救い主だ」。喜びにあふれた彼らは17節、「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使いが話したことを人々に知らせた」と。もううれしくてうれしくて証しして廻るのです。自分たちにもたらされた恵みの大きさに気づいて、そうせずにいられないんですね。まあ、普通であれば羊飼いたちが町の人々と向き合い、話をすること自体、まず無いことですし、羊飼いにとっては恐怖であり、恐れ以外の何ものでもなかったのです。しかし、そんな彼らの恐れをもはや忘れさせるような「喜び」がその時湧き上がってきたんですね。ここが今日のメッセージの大きなポイントだと思います。羊飼いたちはそれまで町の人たちに対して疎外感を持っていましたし、どうせ相手にされないと思っていたでしょう。正直目も合わせたくないなあという思いがあったのかも知れません。しかし、「民全体に与えられる大きな喜びの知らせ」を目の当たりにした時、神さまの愛と恵みに圧倒された羊飼いたちは、人間的な恐れ、隔てを超えて、人々にこの大きな喜びを伝えずにいられない思いに変えられたのです。これがまさに福音の力です。

しかし、羊飼いたちが主から告げられたことを町の人々に知らせたとき、彼らはどうだったでしょう。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。なぜ聞いた人たちは皆、不思議に思ったのでしょうか。「飼い葉桶なんかに寝かせてある乳飲み子」が珍しいから不思議に思ったのではありません。町の外にいるはずの羊飼いたちが町に現れて、大胆にしかも彼らの顔が喜び輝きながら告げ知らせていたことが、町の人たちは不思議に思えたのです。                      

それは、11節で主の天使が羊飼いたちに告げた「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とのことでした。ところが「聞いた者は皆」、この「大きな喜び」、福音が分からなかったのです。私たちは12月にクリスマスを迎えると、主イエスの誕生を「大きな喜び」として祝います。しかしルカは、救い主がお生まれになったと聞いた者たちが皆、喜ぶのではなく不思議に思った、、いや不思議に思っただけだったと語るのです。町の人々の心は救い主がお生まれになったことを受け入れることができなかったのです。彼らは日常の生活に追われ、心捕われてせわしなかったかも知れません。町の中はあまりにもやらなくてはならいように思えることでいっぱいです。実際そうでしょう。社会全体がそれを期待しているようにも思えます。いつも思える物を探している。いつもあれもこれもやらなければと思っている。自分を高めたい、人より上に行きたい。少なくとも下になりたくない。私はその思いを否定するつもりはありません。ただこの羊飼いたちの生活はとてもシンプルだったんだろうなと思います。また、いつも自然と接しながらその恵みと厳しさをも肌で感じて過ごしていたと思うんですね。先般天に召されたペシャワールの会の中村医師がご講演で、「人は持てば持つほど重くなる」とおっしゃっていたことを思い出すのでありますが。

クリスマスシーズンになると街はイルミネーションで溢れ、そこにはうきうきわくわくとした喜びとお祝いのムードが漂っているように思えます。しかしそこに、本当の「大きな喜び」があるわけではありません。その場限りの単なる楽しみがあるだけです。気が合う人だけが集まって食べて飲んでショッピングをする。それが悪いとは思いません。けれどもそれはその場限りの楽しみであって、魂に喜びをもたらすものではありません。その証拠にクリスマス、正月が終った後の寒々しさ、また忙しさに吞まれていくという虚しさ。それは本当に人を生かす希望を知らないからです。クリスマスが救い主がお生まれになった日であることを知らないからです。だからこそキリスト教会は、御子がお生まれになったことこそクリスマスの本当の喜びであると、告げ知らせるのです。羊飼いたちと同じように。今日、神さまが私たちに知らせてくださったこの「大きな喜び」を、こうして私たちはこの地に建てられたれた教会を基に変わらず分かち合い続け、この喜びを人々に知らせるのです。


最後に、聞いた者が皆、羊飼いたちの話を不思議に思う中で、マリアだけは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と語られています。彼女について語られているのはこの19節だけです。しかしここで描かれているマリアからも、信じるとはどういうことかを私たちは知らされるのです。            

マリアは羊飼いたちが告げた言葉を心に納めました。「心に納めた」とは、羊飼いたちが知らせたことを聞いて、そのことを自分の胸の内に留めほかの人には話さなかった、ということではありません。「納めた」と訳された言葉は、もともと「保護する」とか「守る」ことを意味します。つまりマリアは羊飼いたちが知らせた言葉を心の中で保護したのです。それは一時的な保護ではありません。彼女は告げ知らされた「大きな喜び」を、思い巡らしつつ心の中で守り続けたのです。また、「思い巡らす」とは瞑想するという意味ではなく、牛が牧草をはんだ後、一度胃の中に入れてまた口の中に戻すのを何度か繰り返して、しっかり消化することを反芻と申しますが。そのようにマリアはこれらの出来事をすべて反芻するのです。「すべて心に納めて、思い巡らした」。マリアの生涯にとってそれは決して楽なことではありませんでした。少年となった我が子の言動が分かりませんでした。我が子の十字架上の死は、まさに心を剣で刺し貫かれることに違いありません。それでもマリアは告げ知らされたこと、「生まれてきた御子が救い主であること」を心の内に固く守り続け、思い巡らしたのです。主イエス・キリストが私たちの救い主であると信じることは、私たちがそのことを固く守り続けることであるのです。私たちは時に心が揺れ動き、左右されるようなことがあります。しかしどれほど揺らいだとしても、マリアのように主イエス・キリストが私たちの救い主であることを決して忘れることなく守り続ける信仰、そして羊飼いたちがそうであったように、福音の新鮮な喜びを日々保ちつつ、喜びと平安を頂いて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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クリスマス・チャペルコンサートのご案内 入場無料

2019-12-13 11:37:43 | イベント

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親子ひろばへ集まれ!

2019-12-08 21:18:37 | お知らせ

少し早めのクリスマスをします。


☆日時 12月11日(水)

 

☆時間 午後3時~7時

 

☆場所 大阪教会の2階ホール


☆メニュー すき焼き丼、スープ


☆参加費  こども 50円

      親・おとな 200円


今回はとくべつなクリスマススペシャル!

みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

赤ちゃん連れのママ・パパも、歓迎いたします。


ボランティアさん、ほぼ10人おります。


おいでや!

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一緒に生きる

2019-12-08 14:57:04 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ1章18~24節 2019/12/8 アドヴェントⅡ

すでにニュース・報道で大きく伝えられておりますが。先週、ペシャワール会代表の中村哲先生が襲撃に遭いお亡になったという大変ショッキングな情報が伝わってきました。先生は青年時代は香住ヶ丘バプテスト教会で過ごされ、その後海外医療の働きをパキスタンでしばらく始められたということですが。その内多くの難民の人たちが飢餓や貧しさで病気になり亡くなっていくその現実を目の当たりにされる中、先生は「医療では人は救えない」ことを痛感され、まず人が生きていくためには「きれいな水」が必要だということで、ご自身医師でありながら自ら乾ききった大地に井戸を掘るというプロジェクト(ペシャワール会)を立ち上げられ、貧しく小さくされた方々の傍らにあって、現地の人々と今日まで「一緒に生きる」道、信頼の絆をひたすら紡いでゆくことを貫き通してこられました。私も礼拝で「井戸を掘り続ける男」と題して先生のことを重ねながら話をさせて頂いたこともありましたが。その井戸がいくつも掘られて通り、そしてやがて先生自ら作業車を動かさしたりされるなか、農業用水が引かれ、現在は旱魃で乾ききっていた大地が緑の麦畑によみがえって、多くの現地の人々のいのちと生活を守るためにそれが豊かに用いられるようになってきたのです。最近では大きなNGO団体の協力も得られるようになっておられたようですが。私も18年くらい前に西南学院中のクリスマスの特別講演会だったか、中村哲先生のお話をお聞きする機会があり、大変感銘を受けました。その前後でした、テロ撲滅の名のもと解体されたアフガニスタンに、日本の自衛隊を派遣することに関して、国会の参考人として先生が証言なさった事の中で、「それは百害あって一利なし」とおっしゃったことが今も脳裏に焼きついております。武力によって平和は築けない。現地の人たちとの信頼関係こそ平和貢献だという信念を貫いてこられました。が、こうした形での最期となられたことについては、残念な思いでいっぱいになりますが。そのお働きはこれからも必ず実を結び続けると期待し祈ります。深いご心痛の中にあるご家族のうえに神さまの深い慰めとお支えをお祈りいたします。

本日は、先ほど読まれましたマタイ1章18-25節より、御言葉に聞いていきたいと思います。                                      イエスさまの降誕物語はマタイ福音書とルカ福音書だけに出て来ます。ルカ福音書には先週礼拝で読みましたとおり、天使ガブリエルによる「マリアへの受胎告知」が書かれていますが、このマタイ福音書では夢の中で現れた天使による「ヨセフへのイエス・キリスト誕生の告知」として書かれているという特長があります。今日はそのエピソードを丁寧に読んでいきながら、聖書のメッセージに聞いていきたいと思います。

18節 「イエス・キリスト」の誕生の次第は次のようであった。」「イエス・キリスト」という名称を使うのはマタイ福音書の中では、この1節と18節だけです。キリストとはメシアのギリシャ語訳であって「救い主」という意味です。マタイはメシア、民を救う王を待ち望んでいたまあユダヤ人に向けて記された書物です。それで、イエスこそキリストである、救い主であるという信仰の宣言をイエス・キリストという名称で言い表わしているんですね。マタイ1章はキリストがマリアから生まれ、その夫ヨセフは遡ればダビデ王の子孫、信仰の父祖であるアブラハムである。まさしくキリストの父として選ばれるに価する人物であると、血筋を重んじるユダヤ人に訴えているように思えます。そのヨセフは正しい人であったとあります。聖書で「正しい人」というのは神を畏れ敬い、ユダヤ人として律法を忠実に守っていた人であったということです。

18-19節「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

ここでは夫ヨセフと書いていますが、二人はまだ婚約中でした。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていました。この当時のユダヤ社会では、たいてい12、13歳の少女と18歳~24歳くらいの青年が婚約していたそうです。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったともいわれています。又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経れば、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったということです。ヨセフとマリアの二人はその婚約期間にあったのです。                   

ところがヨセフは、婚約者であるマリアが一緒に暮らす前に、妊娠したことを知ります。自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、神の前に正しい人であろうとするヨセフをどんなに失望させ苦しめたことでしょう。

聖霊によって赤ちゃんが出来たと言われても、そんな事が起るなんてというにわかに信じがたい。まあこの時点ですべてを放りだしたとしても当時の常識からすればおかしくはなかったかもしれません。ただ、結婚する前に赤ちゃんができたと知れたら、マリアは罰を受けます。姦淫の罪は死罪です。マリアがおなかの子と共に石打に遭うなど可哀想で忍びない。一方で、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いた女性を迎え入れることなど出来ない、ともうそれは考えに考え、悩み抜いたことでしょう。裏切られたことの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとする思い。そして、自分の情や良心の板挟みの中で、さんざん悩んだあげく彼が出した答えは、「表ざたにしないで、ひそかに縁を切る」というものでした。それがマリアとおなかの子を守るために下した、ヨセフの正しい人としての結論だったのです。私たちも又、神を畏れ敬うがゆえの思い、情や立場などの狭間でなかなかこれといった答を見出せず悶々とすることがあるのではないでしょうか。クリスチャンとなった、信仰をもったから明確な答があるかということではないのです。まあ律法、戒めははっきりとしています。「これはすべき」「これはしてはならない」。しかしそこには裁きが伴います。だからヨセフは悩んだのです。

けれども、そうやってヨセフがマリアと密かに縁を切ったとしても、世間の目は時に残酷です。マリアと生まれてくる子の社会的立場は大変厳しいものとなるに違いありません。ここに人間ヨセフの正しさの限界がありました。いったい人をほんとうに生かす正しさとは何でしょうか。離縁の決心をしたヨセフに、その夜、天使が夢に現れてこう告げます。

20節『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

 ここで主の天使が告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」ということです。それは実に明快です。神のご計画はもうはっきりしていました。ところで、夢というのは「神のお告げ」の手段であるわけですが。ここでなぜマリアには天使が姿を現したのに、ヨセフには夢の中なのだろうかと思ったりもいたしますが。まあ夢と聞くと、創世記の中に出てくる「夢を解くヨセフ物語」を思い出します。礼拝でも以前読みましたが。エジプトのヨセフは神から与えられた夢を兄たちに話したためにエジプトに売られて牢獄にいましたが。王の夢を解き、大臣となってエジプトを飢饉から救い、父ヤコブ、その名「イスラエル」を呼び寄せて、彼らが飢饉で滅びることから救ったという物語です。自ら苦難を受けながらも、民、同胞を滅びから救ったということで、ヨセフは旧約聖書における救いの王、キリストの雛型といわれています。イエス・キリストは弟子や自分の民から裏切られて苦難を受け、殺されてよみにまで下られましたが、そのことによってイエス・キリストを救い主と信じるすべての民の罪を贖い、滅びから解放を与えてくださったのです。又、その復活によって死を打ち破り、私たちを絶望から救い出してくださいます。先にも申しましたように、マタイ福音書はユダヤ人に向けて書かれていますが、ユダヤ人はこれを読んだ時、エジプトのヨセフを思い出したはずです。夢を解いたヨセフのように、神のお告げを信じ行動したヨセフに倣って、あなたも神の言葉を信じない者にではなく、信じる者になりなさいと勧めているのだと思うのです。                                               

さて、21-22節「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

マタイによる福音書はこの出来事が、預言者イザヤの書7章14節に書かれている「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる」の実現である、と伝えます。その昔、イスラエルが南北に分かれていた時、北イスラエル同盟軍がエルサレムの町を攻めてきました。動揺するアハズ王に「神が必ずエルサレムを守るから安心していなさい。何かしるしを求めなさい」と預言者を通して言われたのに対し、アハズは「わたしは求めない」といって、神のしるしを求めませんでした。このアハズ言葉には、目前に迫る現実の恐れと神の言葉に対する不信が感じられます。そんなアハズ王にもどかしさを覚えられた神さま自らアハズ王に「しるし」を与えたのです。それが「おとめが身ごもって男の子を産む」というものでした。その名はインマヌル「神が我々と共におられる」という意味です。そのしるしをしてエルサレムの民は守られる。同じようにマリアが身ごもってインマヌエルである男の子を産むことは、神が信じるすべての人と共におられ、必ず救ってくださるというしるしだと、今日の聖書は告げているのです。           

人間が神を信じなくても、神は一方的にイエスさまをこの世に救い主として送って下さり、必ず御自分の民を罪の滅びから解放し、守られる。その神のご計画の始まりがイエスさまの誕生に関するインマヌエルの預言なのです。「聖霊によって宿る」ということも、イエスさまの誕生は、人間の力ではなくて神の力による出来事であることを示しています。初めの18節にも、同様にマリアが「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とありますが。これも神のご計画の中で聖霊がマリアに臨んだということです。    先週はルカの福音書から「マリアの受胎告知」の記事を読みましたが。その中でも主の天使がおとめマリアに「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられます」と語りかけていました。今日のマタイの「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」という神さまのお約束。それはルカで「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられる」と、マリアに個人的に呼びかけられ、お語りになられたものとは違い、「神が我々と共におられる」、神さまは私たちと一緒にいてくださる」という、私たちに向けられた呼びかけ、語りかけなんですね。それは、神の救いが単に個人の枠にだけでなく、神の救いと解放を願い、待ち望む「わたしたちと共に」ということなのであります。アーメンであります。私たちも今日こうして神の救いを仰ぎ見ながら、神さまが私個人だけでなく、私たちと一緒にいて下さることを覚える中で、アドヴェントを過ごしているわけです。今日のこのヨセフにとっても身近な「私たち」とは、誰でしょうか。マリアとその胎内に宿した新しい命(イエス)でありました。ヨセフはマリアとイエスと「一緒に生きる」。まさにそこに、主が共におられるのです。

24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」

「眠りから覚める」。「眠る」というのはよく不信仰の代名詞として聖書では使われます。一方、「目を覚ましていなさい」というのは神の言葉を信じなさいという意味でヨセフは自分の正しさにおいて自分は目覚めている者だと、もしかして思っていたのかも知れません。そうだとすれば、実は自分がそう思っているに過ぎなかったのです。しかしヨセフは神の言葉を受入れることによって、本当の意味で「目覚めた」のです。それは神の言葉によってヨセフの正しさは覆されました。彼は砕かれたのです。それはまさに聖霊のお導きによって与えられた決心でした。

私たちの人生は決断の連続です。信仰も、バプテスマも一つの大きな決断ですね。決めなければ前に進むことは出来ません。とはいっても、何が正しいのか。何を選んだらよいのか。悩んでも考えて答が出ないということもあります。そういうことって意外と多いのかも知れません。ただ、私たちはヨセフがそうであったように、世の中や社会が期待するような「こうあらなければならない」「こうあるべきだ」という既成の概念や自分自身の考えに縛られるのではなく、神の言葉に聞きなさいと言われているのです。もちろんヨセフも「はいそうですか」と、簡単にその言葉を受け取ったわけではないと思います。厳しい現実の中で、それでも、主の言葉に立ってゆこう、イエスの父親になろうと決心したのです。その決心はヨセフの心に神が本当の平安をもたらしたと思うのです。クリスマスの物語は、ヨセフの人間的な正しさを越えた出来事です。ヨセフのもつ正しさとその決心を覆される神の義(ただ)しさが現される出来事だったということです。私たちはこの神の義しさに敏感でありたいものです。神は御言葉の招きをヨセフに与え、ヨセフはそれを受け取りました。この先どうなるか創造もつかないけれど、マリアと、おなかのイエスと一緒に生きてゆこう。そうして歩み出した時から、聖霊がヨセフをゆたかにお用いになり、神のご計画が実現されていくのです。どのような形であれ、神に用いられることほどゆたかな人生はありません。クリスマス。キリストの御降誕と全世界に向けた救いのご計画は、神の御言葉のお告げを受け取ったヨセフの決断、そして神の家族として「一緒に生きる」一歩を踏み出した時から、聖霊の力によって創められました。神の栄光の力、聖霊に満たされて、その救いのご計画に信頼をもって応える人生へと変えられる時、クリスマス。今日の聖書のお言葉を心に納めつつ、この礼拝から今週も遣わされてまいりましょう。

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