宣教 イザヤ書65章17-25節 バプテスト世界祈祷週間
本日はバプテスト世界祈祷週間を覚えての礼拝を女性会の方々のご奉仕によってともに捧げております。先日は大阪教会でも、ルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんの帰国報告会が行われましたが。その他にもインドネシアでは野口宣教師夫妻、カンボジアでは嶋田宣教師夫妻、シンガポールではアジアミッションコーディネーターとして伊藤先生と、それぞれ主の愛をもって仕える働きをなさっておられます。様々な現地支援活動も尊いですね。私たちも共に主の御心を実現する者として、それらの働きに、祈りとささげものによってつながっていけたらと願っております。
さて、本日はイザヤ書65章より「新しい天と地の希望」と題し、御言葉を聞いていきます。
先週申しましたように、捕囚の地バビロニアから約束の地エルサレムの都に帰って来た人々は、解放の喜びとエルサレムの都とその神殿再建の期待を抱いて帰還したのでした。
しかし現実は先にエルサレムに留まっていた同胞からの敵意や妨害に遭い、苦しい思いをすることになったのです。
19節以降に記された、「このような事はなくなる」というのは、逆にいうと今はそういう状況だということです。「泣く声、叫ぶ声が響き」「若死にする者がおり」「他国人らによる家や農作物の略奪があり」「いくら汗水流して働いても報われない徒労の日々」又、「生まれた子が死の恐怖にさらされている」といった状況が、その時代において渦巻いていたということが読み取れます。
しかしこうした現状は、今も世界のいたるところで起こり続けています。戦争や紛争、経済的搾取、人種差別、権力による抑圧や迫害。そして、この日本に住む私たちの日常にも大なり小なりそういった世の力は働いているでしょう。そのような先行きが見えず希望のもてない人々の叫びと訴えを、又とりなしの祈りを、主は聞いておられ、知っておられます。
主は、17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起す者はない」。そのように力強く宣言なさるのであります。
この節を岩波訳聖書は「まことに、見よ、わたしを、新しい天と新しい地を創造する者を」と訳されております。それは単に見なさいというような事ではなく、「わたしを見よ」。すべてを新しく創造することができる者、「わたしを見よ」と神さまは言っておられる事がよくわかります。
この天地をお創りになった力あるお方。だからこそ、古い天と地を一新することができる、新たに創ることがおできになる。
神のお言葉である聖書は、望み得ない現実の中で、この天と地をお創りになられ、一切を司っておられる力あるお方を「見よ」というのであります。
又、「初めからのことを思い起す者はない」の「初めからのこと」とは、新しい天と地が創られる前の状態、それは先にも申しましたような、世の力、人の罪による闇の深い混沌とした状況が放置されたままとなっている世界です。それが、全く異なる「新しい天と新しい地の創造」によって、岩波訳聖書では「もはや思い出されず、心にのぼることもない」ということであります。
18節を見ますと、「(あなたがたは)代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する」とありますように、約束されます。
ここも岩波訳で読みますと、「あなたたちはいつまでも喜び、歓呼せよ、わたしが創造するものを。見よ、わたしを、エルサレムを創造して歓呼し、その民を喜ぶ者を」と訳しています。
神の新しい創造は、かつてあった、又これまで抱えてきた民の悲しみや苦しみの出来事を忘れさせるほど大きな喜びと楽しみになる。そういういわば「希望の約束」がここに示されているのですね。
それが具体的には19節の、「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことはない」「そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる」「彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない」「彼らは無駄に労苦することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すことはない」という出来事となって表れてくるとうことであります。
まあここを読んだだけでは、そのような新しい天と地、新しいエルサレムが、今の私たちにどう関係があるのかとお思いになるかもしれませんが。
神さまはイスラエルの民を選び導き出し、神の民、ご自身の宝の民となさいました。にも拘らず彼らは神さまに背を向け、偶像礼拝、又不正と搾取を行い、主の戒めに背を向け、罪を犯し続けたのであります。65章前半を読みますと、そうした民に対する神の厳しい審判が語られています。ここに「お前たち」と書かれているのがそうでありますが。
しかし、民のすべてがそうした反逆の罪を犯す者ではないということを主はご存じでありました。そういう時代の中でも、真心から主を愛し畏れ敬う者、その教えを喜びとし、守り行いつつ生きる本当の意味での「神の民」が存在したのです。神はここでそのような人々のことを「わが僕」とお呼びになって、「新しい天と新しい地を創造する」というご計画を約束なさるのですね。
それでは、そのご計画はどのように実現されるのでしょうか。
それはこの前の63章16節「あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』/これは永遠の昔からあなたの御名です」とありますように、これはまさに、神自ら民の「罪」の贖い主となられる、その全き救いによって実現されるとの預言であります。
本日のイザヤ書65章25節には、その「贖い主」によってもたらされる「和解と平和」の光景が語られています。
「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」。
イザヤ書11章6-9節にも同様の記述がございます。
「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」。
ここに今年の「バプテスト世界祈祷週間」のポスターをもってきました。その狼ならぬ獅子(ライオン)と羊が仲良く描かれていますね。まあいわば弱肉強食の食うか食われるかの強者と弱者、対立や利害関係にあるものが、何と顔をつき合わせて共生、共存している様がイメージされています。聖書には肉食獣がみな草食になっているのも興味深いことです。それは生きるために他の動物を殺す必要がないことを示唆しているように思えます。又、加害を与えたようなものと被害を受けたものとの和解を象徴しているようにも思えます。それらを思うとき、ルワンダの和解と平和の働きや、かつて日本の侵略により測り知れない苦痛を負わせたことへの悔い改めと和解の架け橋として、近隣アジア諸国に宣教師を送り出していることの意義を思います。
聖書に戻りますが、この第三イザヤと言われる預言者に与えられた「神の新しい天と地」のビジョンは、後の時代の人々に受け継がれますが、遂にそれは、神の御独り子主イエス・キリストのご降誕、罪の贖いによる死、そして復活によって実現されました。
その後、主イエスを信じてクリスチャンとなっていった使徒たちによって建てられた初代教会も厳しい迫害に度々直面いたします。が、信徒と教会はその状況の中で「神の新しい天と地の最終的完成」を待望します。
たとえば二ペトロの手紙3章12節以降にこう記されています。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。
ヨハネの黙示録にも「新しい天と地、新しいエルサレム」が記されておりますが。
それらは何か現実離れした別次元のこととして見るのではなく、大切なのは、未だ完成途上にある「新しい天と新しい地」の実現を、その完成者であるイエス・キリストと共に私たちは待ち望み、また、それが来るのを早めるように立てられているということです。
これはまさに終末的様相を帯びた今の時代にあって、いよいよ実現されるべき、主から受けたミッションですね。
初代教会は厳しい迫害時代にあっても、この信仰のビジョン、「新しい天と新しい地を神は創造される」という希望をもって、武力に依存することなく、信仰の戦いにおいてキリストの平和の世の実現に務めました。
使徒パウロの映画が公開されましたが。パウロが主と出会い回心して十字架の主イエスから受けた救いは、愛とゆるし、「和解の福音」でした。その和解の福音を生涯自ら証しし続けました。
今日の65章全体を読むと、神の民とされたけれど、12節のように「神さまが呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの喜ばないことを選んだ者」と「わたしの選んだ者」ないしは「わたしに選ばれた者」が出てきます。前者は争いと欠乏のうちに衰える人ですが、後者は主の御救いよって「新しく創造された人」です。
使徒パウロはⅡコリント5章17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と説いていますが。主イエスの十字架の御業によって、主は今日も私たちを愛とゆるし、和解と平和を実現するものとして新しく創造され、今日も新しい天と地を、その完成に向け導いておられると信じるものであります。
最後に、世界や日本の情勢、又社会に目を向けると、一体どこに新しい天と地があるのかと思えたり、自分は何もできないというような無力感や逆に焦りから何か社会に働きかけなければならないとの思いも起こるでしょう。確かにそのような具体的働きをなすことは尊いことであります。
しかしながら、やはり新しい天と新しい地を創造されるお方は、唯、主なる神さまであられるということを心に留めたいと思います。
「わたしを見よ」と主は言われます。
私たちの希望は、「天地を造られ、喜びと平和に満ちあふれる新しい世界を創り出されるお方から、生み出されます。
何よりも、わたしたちはキリストによって「新しく創られた者」へと日々新たにされ、主の御言葉と聖霊のお導きに従いゆく者でありたいと願うものです。
それぞれを招き、お立てくださっている主にこそ望みをおき、信頼しつつ、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。