日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

新しい天と地の希望

2018-11-26 09:46:10 | メッセージ

宣教 イザヤ書65章17-25節 バプテスト世界祈祷週間 

 

本日はバプテスト世界祈祷週間を覚えての礼拝を女性会の方々のご奉仕によってともに捧げております。先日は大阪教会でも、ルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんの帰国報告会が行われましたが。その他にもインドネシアでは野口宣教師夫妻、カンボジアでは嶋田宣教師夫妻、シンガポールではアジアミッションコーディネーターとして伊藤先生と、それぞれ主の愛をもって仕える働きをなさっておられます。様々な現地支援活動も尊いですね。私たちも共に主の御心を実現する者として、それらの働きに、祈りとささげものによってつながっていけたらと願っております。

 

さて、本日はイザヤ書65章より「新しい天と地の希望」と題し、御言葉を聞いていきます。

先週申しましたように、捕囚の地バビロニアから約束の地エルサレムの都に帰って来た人々は、解放の喜びとエルサレムの都とその神殿再建の期待を抱いて帰還したのでした。

しかし現実は先にエルサレムに留まっていた同胞からの敵意や妨害に遭い、苦しい思いをすることになったのです。

19節以降に記された、「このような事はなくなる」というのは、逆にいうと今はそういう状況だということです。「泣く声、叫ぶ声が響き」「若死にする者がおり」「他国人らによる家や農作物の略奪があり」「いくら汗水流して働いても報われない徒労の日々」又、「生まれた子が死の恐怖にさらされている」といった状況が、その時代において渦巻いていたということが読み取れます。

しかしこうした現状は、今も世界のいたるところで起こり続けています。戦争や紛争、経済的搾取、人種差別、権力による抑圧や迫害。そして、この日本に住む私たちの日常にも大なり小なりそういった世の力は働いているでしょう。そのような先行きが見えず希望のもてない人々の叫びと訴えを、又とりなしの祈りを、主は聞いておられ、知っておられます。

 

主は、17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起す者はない」。そのように力強く宣言なさるのであります。

この節を岩波訳聖書は「まことに、見よ、わたしを、新しい天と新しい地を創造する者を」と訳されております。それは単に見なさいというような事ではなく、「わたしを見よ」。すべてを新しく創造することができる者、「わたしを見よ」と神さまは言っておられる事がよくわかります。

この天地をお創りになった力あるお方。だからこそ、古い天と地を一新することができる、新たに創ることがおできになる。

神のお言葉である聖書は、望み得ない現実の中で、この天と地をお創りになられ、一切を司っておられる力あるお方を「見よ」というのであります。

又、「初めからのことを思い起す者はない」の「初めからのこと」とは、新しい天と地が創られる前の状態、それは先にも申しましたような、世の力、人の罪による闇の深い混沌とした状況が放置されたままとなっている世界です。それが、全く異なる「新しい天と新しい地の創造」によって、岩波訳聖書では「もはや思い出されず、心にのぼることもない」ということであります。

 

18節を見ますと、「(あなたがたは)代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する」とありますように、約束されます。

ここも岩波訳で読みますと、「あなたたちはいつまでも喜び、歓呼せよ、わたしが創造するものを。見よ、わたしを、エルサレムを創造して歓呼し、その民を喜ぶ者を」と訳しています。

神の新しい創造は、かつてあった、又これまで抱えてきた民の悲しみや苦しみの出来事を忘れさせるほど大きな喜びと楽しみになる。そういういわば「希望の約束」がここに示されているのですね。

それが具体的には19節の、「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことはない」「そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる」「彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない」「彼らは無駄に労苦することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すことはない」という出来事となって表れてくるとうことであります。

 

まあここを読んだだけでは、そのような新しい天と地、新しいエルサレムが、今の私たちにどう関係があるのかとお思いになるかもしれませんが。

神さまはイスラエルの民を選び導き出し、神の民、ご自身の宝の民となさいました。にも拘らず彼らは神さまに背を向け、偶像礼拝、又不正と搾取を行い、主の戒めに背を向け、罪を犯し続けたのであります。65章前半を読みますと、そうした民に対する神の厳しい審判が語られています。ここに「お前たち」と書かれているのがそうでありますが。

しかし、民のすべてがそうした反逆の罪を犯す者ではないということを主はご存じでありました。そういう時代の中でも、真心から主を愛し畏れ敬う者、その教えを喜びとし、守り行いつつ生きる本当の意味での「神の民」が存在したのです。神はここでそのような人々のことを「わが僕」とお呼びになって、「新しい天と新しい地を創造する」というご計画を約束なさるのですね。

それでは、そのご計画はどのように実現されるのでしょうか。

それはこの前の6316節「あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』/これは永遠の昔からあなたの御名です」とありますように、これはまさに、神自ら民の「罪」の贖い主となられる、その全き救いによって実現されるとの預言であります。

本日のイザヤ書65章25節には、その「贖い主」によってもたらされる「和解と平和」の光景が語られています。

「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」。

イザヤ書11章6-9節にも同様の記述がございます。

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」。

 

ここに今年の「バプテスト世界祈祷週間」のポスターをもってきました。その狼ならぬ獅子(ライオン)と羊が仲良く描かれていますね。まあいわば弱肉強食の食うか食われるかの強者と弱者、対立や利害関係にあるものが、何と顔をつき合わせて共生、共存している様がイメージされています。聖書には肉食獣がみな草食になっているのも興味深いことです。それは生きるために他の動物を殺す必要がないことを示唆しているように思えます。又、加害を与えたようなものと被害を受けたものとの和解を象徴しているようにも思えます。それらを思うとき、ルワンダの和解と平和の働きや、かつて日本の侵略により測り知れない苦痛を負わせたことへの悔い改めと和解の架け橋として、近隣アジア諸国に宣教師を送り出していることの意義を思います。

 

聖書に戻りますが、この第三イザヤと言われる預言者に与えられた「神の新しい天と地」のビジョンは、後の時代の人々に受け継がれますが、遂にそれは、神の御独り子主イエス・キリストのご降誕、罪の贖いによる死、そして復活によって実現されました。

その後、主イエスを信じてクリスチャンとなっていった使徒たちによって建てられた初代教会も厳しい迫害に度々直面いたします。が、信徒と教会はその状況の中で「神の新しい天と地の最終的完成」を待望します。

たとえば二ペトロの手紙3章12節以降にこう記されています。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

ヨハネの黙示録にも「新しい天と地、新しいエルサレム」が記されておりますが。

それらは何か現実離れした別次元のこととして見るのではなく、大切なのは、未だ完成途上にある「新しい天と新しい地」の実現を、その完成者であるイエス・キリストと共に私たちは待ち望み、また、それが来るのを早めるように立てられているということです。

これはまさに終末的様相を帯びた今の時代にあって、いよいよ実現されるべき、主から受けたミッションですね。

初代教会は厳しい迫害時代にあっても、この信仰のビジョン、「新しい天と新しい地を神は創造される」という希望をもって、武力に依存することなく、信仰の戦いにおいてキリストの平和の世の実現に務めました。

使徒パウロの映画が公開されましたが。パウロが主と出会い回心して十字架の主イエスから受けた救いは、愛とゆるし、「和解の福音」でした。その和解の福音を生涯自ら証しし続けました。

今日の65章全体を読むと、神の民とされたけれど、12節のように「神さまが呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの喜ばないことを選んだ者」と「わたしの選んだ者」ないしは「わたしに選ばれた者」が出てきます。前者は争いと欠乏のうちに衰える人ですが、後者は主の御救いよって「新しく創造された人」です。

使徒パウロはⅡコリント5章17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と説いていますが。主イエスの十字架の御業によって、主は今日も私たちを愛とゆるし、和解と平和を実現するものとして新しく創造され、今日も新しい天と地を、その完成に向け導いておられると信じるものであります。

 

最後に、世界や日本の情勢、又社会に目を向けると、一体どこに新しい天と地があるのかと思えたり、自分は何もできないというような無力感や逆に焦りから何か社会に働きかけなければならないとの思いも起こるでしょう。確かにそのような具体的働きをなすことは尊いことであります。

しかしながら、やはり新しい天と新しい地を創造されるお方は、唯、主なる神さまであられるということを心に留めたいと思います。

「わたしを見よ」と主は言われます。

私たちの希望は、「天地を造られ、喜びと平和に満ちあふれる新しい世界を創り出されるお方から、生み出されます。

何よりも、わたしたちはキリストによって「新しく創られた者」へと日々新たにされ、主の御言葉と聖霊のお導きに従いゆく者でありたいと願うものです。

それぞれを招き、お立てくださっている主にこそ望みをおき、信頼しつつ、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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どうか、天を裂いて降って下さい!

2018-11-18 13:21:30 | メッセージ

礼拝宣教 イザヤ書63章7-19節

 

今年も残すとこ1か月半となりました。私たちの教会はこの一年のテーマ・標語を「喜び、祈り、感謝」テサロニケ一5章16-18節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」というみ言葉を基に据え、ここまで歩んでまいりました。

振り返りますとほんとうに様々な出来事がありました。新しい方々との主にある出会い、ともなる礼拝を捧げられる喜び、感謝の出来事。一方で、6月末には私たちの主にある家族であるYさんが天に召されました。悲しく、寂しいことではありますが。私たちは愛する人を天に見送るとき、主の御もとで再び相まみえる希望、「私たちの本国は天にあります」という望みを頂いていることに感謝であります。皆さま方それぞれにおかれても、喜ばしいことも、又一口では言い表せないようなこともおありでしたでしょう。

それらの出来事の中で、私たちは如何に主に祈り、又主に執り成して来たか。私たちが如何に主と相対して生きているか、それは主との祈りの対話があるか無いかによって、その日々の重みといいますか、その中身が違ってまいります。

今年も40日あまり。意義ある一日一日を「喜び・祈り・感謝」のうちに歩んでまいりたいものです。

 

さて、本日のイザヤ63章7-19節の小見出しにもありますように「執り成しと嘆き」の祈りは、次の64章まで続いています。

先ほどこどもメッセージでも読まれましたように、捕囚となったバビロニアから約束の地エルサレムの都に帰って来た人々は、解放の喜び再建の期待を抱いて帰還しますが、しかし復興は一向に進まず、食べ物にも事欠く先の見えないような状況が続きます。神はもはや自分たちをお見捨てになったか、そんな嘆きさえ聞かれる現況の中で、預言者は執り成し祈ります。

 

はじめの7-14節で、預言者は過去のイスラエルの先祖に示された主の救いの御業を回想します。

彼は、主が過去にイスラエルの先祖に与えられた多くの恵み、救いのみ業を心に留め、主を賛美するのですね。「主が憐みと豊かな慈しみによってイスラエルの家は多くの恵みを賜った」と。

ここに語られた主の恵み:へセドは断腸の思いということです。又、主の憐み:レヘムは女性の子宮を意味する言葉で、それは母性的な愛や自己犠牲の愛を示しているといわれます。

9節の「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」というのも、単なる苦難ではありません。これは陣痛による苦難を意味する用語であります。

このように主の、その民に対する憐みと豊かな慈しみは、苦しい陣痛の中でわが子を産み出すような、断腸の痛みを伴うような「愛」であるということです。

生まれてくる子も苦しい。けれども、その生まれて来る愛する我が子、ご自分の民のために神自らその苦しみ痛みを身に負ってくださるということをそれは表しています。

私たちクリスチャン一人ひとりも又、神の民、救いの子として新たに誕生するには、主の大きな苦しみと痛みがあった。そして主は私たちが神の民、救いの個とされるために断腸の痛み、陣痛の痛みを伴う愛、それこそが主イエス・キリストの十字架の贖いの業をもって、私たちを新たに生み出してくださった。それは9節にありますとおり、「愛と憐みをもって彼らを贖い/彼らを負い、彼らを担ってくださった」のです。

 

8節では、そのように生み出した御自分の民を「わたしの民、偽りのない子らである、と」主は言われます。それ程までに主は御自分の民として彼らを愛しておられたのです。

それにも拘わらず10節を見ますと、「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」とあります。

国が繁栄するにつれて民の心は主から離れ、預言者が遣わされても耳を傾けようとはせず、主の愛に背き続け、主の聖なる霊を苦しめたのであります。

そして遂に同じ10節、「主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」。遂に主はイスラエルの民をその愛のゆえに打たれることを決意なさるのです。

そうして、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロニアによる侵略に遭い、遂に都エルサレムは陥落し、神殿は崩壊します。こうして多くの者が異教の地へ捕囚となって連

れて行かれることになるのです。

そのような如何ともしがたいみじめな状況の中で彼らは激しい後悔に苛まれ、再び主に立ち返るべく悔い改めへと導かれていくのです。

11節「そのとき、主の民は思い起こした。昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか。その群れを飼う者を海から導き出された方は云々」とありますように、そのように彼らは主を尋ね求めるのです。

かつて神がモーセを用いて出エジプトによる解放を導かれた出来事を思い起こし、イスラエルの先祖の民は荒れ野の長い年月を経て、遂に約束のカナンの憩いの地に導かれた。

ここで預言者は翻ってこう主に訴えます。「イスラエルの先祖の民が荒れ野にあろうとも、谷間にあろうとも主が導いて、遂に約束のカナンに地に主の霊が憩わせられた。このように主よ、あなたはわたしたちを御自分の民として導き、国を築かせ輝く名声をお与えになられたではありませんか」と。

預言者は、何とかして主に、わたしたちはあなたの民、神の宝の民であることを思い起していただこうと、訴え祈るのです。これは、自分が神の民、宝の民である、という宣言ということができます。

 

私たちも、神の救いに与った神の民、あなたの宝の民ですと、どんな時も宣言する信仰、神さまが行われた救いの出来事を思い起こして宣言し続けることは大切な事です。現在の苦しみの中であえぐ時、今しか見えません。自分が小さく思え、価値のないように思え、見放された者のように孤独に思える時、「主が贖い出された者、主の民です」と宣言いたしましょう。

 

この預言者のすごいところは、どこまでも主に食い下がっていくように祈っているところです。

「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐みは/抑えられていて、わたしには示されません」。さらに「あなたはわたしたちの父です。だれが認めなくても主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』/これは永遠の昔からあなたの御名です」、そうではありませんか、と預言者は格闘するように祈り訴えているのです。

そしてさらに、「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか」と、民の不信を嘆きながらも、ここでも引き下がらず、主に向かって、「立ち帰って下さい、云々」と、民を主に執り成し祈るのです。いやもう壮絶な祈りであります。

 

この前の宋富子さんも、もうどうにもこうにも事態が動かなくて膠着状態になった時、泣きながら訴える祈る中で、「なにを黙ってんの、神さまあんたちょっとここに降りて来てや」と、もう格闘するように祈ると、神の声を聞かれたというお証を伺いました。

もうどう仕様もなく、二進も三進もいかなくなった時に、あきらめて祈るのやめてしまうことがないでしょうか。この時民が陥ったように心が頑なになって、どうせ祈っても聞かれないと見くびってしまうなら、主の栄光を見ることはできません。

時に、主に訴え格闘するような祈り。食らいついて祈る。主はそういう人を、又そういう執り成し手が起こされていくことを願っておられるのです。

イザヤ書62章のところ、本日の前の章の6節、7節を見ますと、そこにはこのように書かれています。

「エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思いを起こしていただく役目の者よ/決して黙してはならない」。

この見張り人(ウオッチマン)とは、主の証人ともいえるのでありますが。その役目は、主の民のため、かた神の栄光が顕されるために、昼も夜も目を覚まして執り成し祈る人のことです。

今、主イエスの新約の時代にあっては、その役目を担う人は何か特別な人というのではなく、神の愛と恵みによって神の子とされた証をもつ人すべてが、その祈りの執り成し手として立てられているのです。神を愛し、隣人を愛し、執り成し、主に祈り求めること、訴えること、懇願する働き手として。

 

今日の箇所の最後では、預言者が「どうか、天を裂いて降って下さい」と、まさに神の沈黙を破らんばかりの気迫で祈るのでありますが。この預言者の祈りはさらに64章に続いていきます。

主は、その「どうか、天を裂いて降って下さい」と訴える祈る声に遂に沈黙を破られるように大いなる希望の宣言をなさるのです。

それは「新しい点と新しい地を想像する」という救いの約束であります。

このことについては次週さらに詳しく聖書からお話したいと思いますが。

 

このイザヤの預言の言葉の実現として、神さまは御独り子を世界の救い主として地上にお遣わしになられます。こういう形で、預言者のその訴える祈りにお応え下さったのです。

それは御子イエス・キリストが人間の罪の審きをその身に負い、全き罪の贖いを成し遂げ、救いのみ恵みを信じ受け入れるものすべてに、それはユダヤの民のみならず、全世界にお与えになられたのです。

主イエスは死と復活を経て、天に昇られ、主を信じて生きる者に聖霊をお与えになり、日々神に栄光が帰されるためにお働き下さっています。

今この主が私たちに求めておられることは、まさに主のみ救いの証人として、「昼も夜も決して黙することなく祈り、主に執り成し続けること」であります。祈りの声をたゆまずあげ続けていくことが私たちの大切な務めなのです。

 

今週末は関西地方連合の協力伝道会議、これは私たち関西地方の諸教会が厳しい時代の中にあって、今後どうようなかたちで主の働きを担い合っていけるかを2日間、語り合い祈り合います。来週の27日は台湾から元歌手で献身された祝牧師をはじめ賛美伝道隊が来阪され、「天を開くワーシップ集会」が主によって導かれました。又25日は世界祈祷週間礼拝を迎えます。

ますます祈りの霊によって教会が開かれていき、主のゆたかな御業がおこされていくことを期待しつつ、共に祈りを合わせてまいりましょう。

今週もここから、それぞれ祈り仕える生活の場へと遣わされてまいりましょう。

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天を開くワーシップ・賛美の集い

2018-11-13 08:00:26 | 教会案内

天を開くワーシップ・賛美の集い

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天を開くワーシップ(賛美)集会

2018-11-13 07:39:21 | イベント

台湾の元歌手で牧師となられた祝瑞蓮(JOSIE CHU)先生、又台湾からワーシップ隊を迎えての集会が関西で初めて開かれます。

日時 11月27日(火)午後7時(会場6時半) 

会場 日本バプテスト大阪教会

入場無料(自由献金有)、日本語の通訳もあります。

台湾との交流のときとして素敵な集いとなるよう、みなさまのご来会をお待ちいたしております。

主催:日本関西福音連合(KGU) お問い合わせ:中谷・エンレイ牧師 080-4233-5122

協力:日本バプテスト大阪教会

 

公共の交通機関でお越しください。

駐車場は近隣のパーキングを利用ください。

 

 

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開かれた神の民

2018-11-11 17:41:47 | メッセージ

礼拝宣教 イザヤ書56章1-8節

本日は、バプテスト福祉デイをおぼえての礼拝を捧げています。私たちバプテスト連盟につらなる福祉施設として現在、重症心身障碍者施設久山療育園、身体障がい者作業所大牟田敬愛園、特別養護老人施設バプテストホーム、しんもり平和の子保育園等ございます。誰しも何らかの福祉を必要とする時が来るでしょう。しかしどんな状況におかれても「人の尊厳が守られる大切さ」を、主イエスはその歩みにおいて私たちに示されました。その主の愛と私たちバプテストの先人の祈りによって始められた良い業が、キリスト教精神、その信仰と聖書のみ言葉に立ってこれからも守られ、祝福されていきますようどうかお祈りに覚えてください。

先週は宋富子(ソン・プジャ)さんから「神は私を愛する者」としてお造りになられたという、人間にとって最も大切な「いのちの尊厳」を見出され、人の狭い了見や差別によって歪められ損なわれていた自分を取り戻し、現在神にある平和、差別のない社会を実現すべく「アリラン図書館を全国」にとの祈りと活動をなさっておられるその力強い活動とメッセージを伺いました。又、本日、チラシをお渡ししているかと存じますが。今月は27日に台湾からワーシップの伝道隊、その中には元台湾の有名な女性歌手の方で主イエスと出会い献身された祝牧師らチームが来阪され、ワーシップ賛美とメッセージの集会があります。

少し早いおしらせとして、121315日の3日間、朗読演劇「パクさんのリアカー」が元劇団四季俳優中井敬二さんの演出で公演が予定されております。こちらは直接的に聖書が語られる訳ではありませんが。福音のメッセージと相通じる、私共にとっては主のお姿が浮かび上がってくるような内容となっております。ユーチューブでダイジェスト版が見れます。これらも201311月に大阪教会新会堂が建てられて以来、ほんとうに私たちの思いを遥かに超えたかたちで、神さまが教会をお用いになられておられることを感謝しております。

さて本日はイザヤ書56章から御言葉を聞いていきます。ここには「神さまの偉大な愛によってイスラエルの民のみならず、宦官や異邦人もともに神の民として招かれている」というメッセージが預言者を通して語られています。

イスラエルの民のよりどころとしていたエルサレムの神殿が崩壊し、バビロニアに捕囚として連れていかれた人々は、半世紀にもわたる囚われの身から解放され、やがて待望のエルサレムに帰還するのであります。

ところがそのエルサムの都は荒れ果てていました。ここに住んでいたいわば同胞から、帰還した人々は邪魔者扱いされることにもなるのです。

バビロニアから帰還した人たちの中にはイスラエルの民ではないけれども、主なる神さまを知り、信じるようになった外国人やバビロニアやペルシャの王宮に仕えていた宦官たちも含まれていました。彼らは住み慣れた土地を離れ、あるいは王宮での高い地位をも捨て、イスラエルの民とともに希望を抱いてエルサレムに到着するのです。

そうして次第に神殿が建てられていきますと、先住のイスラエルの人々から「あなたたちは律法によれば神の民ではない。神殿にはいることはできない」と彼らは排除されていくようになるのです。

宦官や外国人たちはそういった差別的な扱いの中で、深く傷つき、苦しみ嘆いていたことでしょう。住み慣れた土地も高い地位も捨て、主を救いの神と信じ従って来たからです。

宦官は宮仕えのため断種された人たちですが。断種と聞きますと今年報道でも大きく取りあげられた、かつての障がい者に対する強制不妊手術や優生保護法を思い出しますが。これも又権力によって命の尊厳を傷つけられ、損なわれた出来事であったわけですけれども。

聖書はそのような状況におかれた人たちの嘆き祈る声を神は聞いておられ、このようにお語りになったと記しています。

「主のもとに集って来た・・・宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」。

主は彼らを疎外し、排除すようとするような人びとの声や態度に屈して自分を卑下したりしてはならない。そんな必要など全くないと、おっしゃるんですね。この一見強い語調の中に、すべての人の造り主であられる神さまの愛があふれているんですね。

 

主は宦官に対して4節以降でこう言われます。「宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を守るなら/わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」。こう仰せになります。

「主の会衆」に加わることもできないとされていた彼らに、そのような名誉なこと、この上ない約束を主はお与えになる。正確にいえば祝福の契約を結ばれるのです。

宦官には次世代に引き継ぐ子孫や家系を残すといった希望はありません。しかし主は、その彼のために「決して消し去られることがない、子孫などによらないとこしえの名をわたしの家、わたしの神殿の城壁に刻む」と仰せになられるのです。

ここを読む時、主は何ていつくしみ深いお方なのかと思うものでありますが。

 

さらにまた、主は外国人に対して3節で、「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される」と、仰せになります。

主は、ここでも、主を慕い求めて生きることを第一とする外国人たちに自分たちを異邦人として蔑み見下す声に振り廻されることはない、あなたはわたしの民なのだから、とおっしゃっているんですね。

現代もまた残念なことに、移民や国籍の異なる在住の人たちを排除していく非寛容な政策が先進国といわれてきた国々でなされていることに心が痛みます。自分たちの税金がこうした移民のために使われるのはおかしいという怒りが集団的攻撃となって弱く小さくされた人たちに向かっていき、それがルワンダではジェノサイト・大虐殺に、日本ではヘーとスピーチとになって憎しみの分断を生じさせる事態になっています。先週宋富子さんの声に耳を傾けましたが、この世界は歴史から学ばなくてはならないと思います。

 

6節以降でも、「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と仰せになられます。

「主に仕え」とは祭儀に参加するという意味で、安息日を聖として、創造の主を礼拝するために集うということを示しています。又、主の名を愛するとは、神を神としていくことです。

神ならざるもの、偶像や己の私利私欲に囚われてきた生き方を捨て、この天地万物の創造主に仕えて生きることを表明し、主の名を賛美して生きる。そのように生きる人は、どの国のものであろうとも主に属する神の民だという祝福の約束です。

私たちも主イエスの御救いによって神に属する者、神の民とされています。冒頭申しましたように諸国の方々と共々に主の民としての喜びを分かち合う機会が多く与えられていることも幸いなことではないでしょうか。

初代キリスト教会のアンティオケ教会は様々な国の異邦人のクリスチャンが出会い、主の救いに与り、各地に伝道者を派遣した教会でありました。そのような主の御業が起こされてまいりますようにと祈るものです。

 

さて、エルサレムに先住していた人たちがバビロニアから帰還した同胞はじめ、外国人や宦官に寛容になれなかったのはなぜでしょう。

バビロンから来た者だからその素性も知れない、何をしでかすかわからない。スパイかも知れない。周囲の敵国がまたいつ攻め上っていくかわからない。

また、現状として敵の攻撃から自分たちを守るために一致団結して結束をしなければ自分たちも滅ぼされてしまうかわからないという危機感や不安が彼らをそのようにさせたのかも知れません。そうしたいわば先入観や排他的な結束が次第に強くなっていくにしたがい、排除されていく人々もだんだん出て来たのであります。

自分たちファースト、非寛容の社会。壁を作り「私たち」でない他者を異質なものとして見なし排除する。されは殺伐とした世界です。

そのような人間の社会に切り込むように今日のイザヤの預言の言葉は語られていくのです。

1節「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い」。

主は確かに、イスラエルの民をお選びになりました。しかしそれは神さまがお造りになったすべての人びとが救いに救いに入るためであります。一部の人々だけに凝り固まった救いを願われたのではありません。

「主は正義を守り、恵みの業を行うように」お命じになります。それは主の大いなる愛によって立ち返って生きる人すべてを、神の民とされるためであります。

主の御計画は人の思いを遙かに超える偉大な愛によって成し遂げられるものであって、人間の側がそれを狭いものにしてはならないのです。

 

今日の箇所で、宦官、外国人、そしてイスラエルの人々に主が共通しておっしゃっていることがあります。

それは「安息日を守りなさい」ということです。旧約聖書における安息日とは金曜夕暮れから土曜日夕暮れまでです。

それは天地万創造に際して、神さまが全被造物をお造りになって祝福し、その聖なる安息を思い起こす日として定められました。すべての被造物がともに造り主によって命あるものとされ、その主にあってつながりながら生かされていることを覚える日。

それが安息日です。

今や主イエスの救いと復活のみ言葉によって、主イエス御自身が安息の主となって、主を信じる者といつも共におられる日々を送ることができる恵みを受けています。

ですから、もはやこの創造主なる神の愛と救いのうちに生きるものはみな、神の民であり、この恵みは、民族、国境、出自などの制限をまったく受けません。

すべてのものを生かしたもう神に立ち返り、正義を守り、恵みの業を行って生きる人が起こされることを、主ご自身何よりも強く願われておられるのです。

 

主はイスラエルの人々だけではなく、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と仰せになりました。「祈りの家」は、というイメージはキリスト教会にも当てはまるかと思いますが。この祈りの家は、561節の「主の正義と恵みの業を行う」という神の愛と正義に従うことがその祈りの家の土台にあります。

先週の宋富子さんのメッセージにも「祈りは行動だと」いう言葉が聞かれましたが。正義と恵みの業を行う。その反対は無関心であります。

主の日の礼拝は主の命のみ言葉に自分が取り戻され、満たされることはもちろん大切でありますが。それはただ自己満足に浸るためのものではなく、神の言葉を与った私が、それをもって神の愛に生きるべく正義と恵みの御業を行っていくものとされていく。主の日の礼拝は、そうした神の民となって歩んでいくそのための霊的エネルギーの給油場なのです。

最後に、イザヤのこの時代のイスラエルの人々の姿は私たち自身のあり方と決して無関係といいきれないでしょう。

私たちも閉塞感や先の見えない状況に、余裕もなく、その不安や恐れの解消に敵を作ったり、壁を作ったり、又自分の理解者だけの狭いグループに閉じこもり、自分と違う立場の人を疎外したり排除したりしてしまうような危険性が潜んでいなと言い切れるでしょうか。それだけ人の思いは変わりやすく、流されやすいものです。

 

今日は「開かれた神の民」という題をつけましたが。救いの恵みを開いてくださったのは神さま御自身であります、

私たちはそこに招き入れられた主の民として、如何に神の愛と義によって寛容に、その主の愛に生きているのかが問われています。

一致や結束は大事なことですが、それが主のみ心に沿ったものであるかどうかを絶えず吟味しなければなりません。

「開かれた神の民」として「正義を守り、恵みの業を行え」という主の御言葉を心に刻んで今日もここから遣わされてまいりましょう。

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こども食堂「おいでや」のご案内

2018-11-08 09:44:47 | お知らせ

日時11月14日(水)午後4時~7時

 

会場:大阪教会2階ホールへおいでください。

メニュー:台湾風おこわごはん、他。

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円


みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフ常駐)


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