日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

まことの幸いと希望

2023-12-31 12:45:24 | メッセージ
歳晩礼拝宣教 イザヤ61章1-3節,9-11節 

「主の恵みを数え」
本日は2023年12月31日と1年最後の日が主の日と重なり、正に歳晩主日の礼拝を捧げております。この1年間主の御前に生きる私たちの歩みがありました。
教会は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」との聖句を掲げてきました。今、与えられている恵みを感謝できる信仰。それは言うまでもなくキリストのあがないと御言葉の確かさへの確信。それは日々の祈りとその確認によりもたらされるものです。
この事を基盤に今年は、「今、キリストと共にどう生きるか」を問いかけてきました。
4月のイースターと12月のクリスマスには信仰告白をされ、バプテスマを受けられ方もおられました。そこで共に主の救いのみ業をたたえ、自らの救いの原点を思い起こして心正されつつ喜びを共にすることができました。さらに、ブラジルの方が主イエスを救い主として信じ、バプテスマを受ける信仰決心をもたれました。
又、12月24日にクリスマス礼拝とキャンドルライトサービスと一日中クリスマスの恵みを覚える幸いな日となりました。キャンドルサービスは青年たちが進行役の準備をし、祈りをもって当日の司会、奏楽、朗読、奉献、点火の奉仕を担ってくださいました。又、コロナ下にずっとできなかったクリスマスの祝会が久しぶりに行われ、会食・特別演奏、ゲーム等、主にある楽しい時を過ごすことができました。
教会員の中には現在様々な事情で長い間この所に集う事ができない方々もおられます。又、コロナ以降疎遠になっておられる方々もおられます。そのような方々にとってもいつか帰る場所があるということは教会の役割と言えるでしょう。
主が建てられた教会を通して福音が伝えられ、救いが起こされ、救いを確認し、祈り合い、主の恵みが分かち合われていきますよう祈り続けてまいりましょう。

ところで、みなさまそれぞれも今年の初めに願った事や実現できた事がおありでしょうか。あるとすればそれは幸いなことでありましょう。
一方で、生きる限り人生に悩みは尽きません。けれど私たちは、すべてを御手におさめ、愛をもって導き続けて下さるお方がおられることを知っているか、いないかでは大きく人生が変わってきます。
「まことの幸いと希望」
今日はイザヤ書61章より、「まことの幸いと希望」と題し、苦難と忍耐の時代を生きた民の歩みと預言者をとおして語られた御言葉から聞いていきます。

まずこの箇所は、いわゆる第三イザヤと言われる預言者が語ったメッセージです。
それは、バビロニアの捕囚から解放されたユダの人々に向けられたものでありました。
半世紀以上異国の地で捕囚とされた彼らは、エルサレムへの帰還が許されます。
しかし彼らが期待した復興は困難を極めました。当初は神殿の再建という喜ぶべき事業に希望をもって取りかかりますが、それは大変厳しいものでした。
彼らはバビロンに連れていかれずにエルサレムに残っていた人々と対立したり、エルサレムを支配していたサマリア人たちの妨害にも遭います。実現にはほど遠い状況が長引くにつれ期待や情熱も薄れ、失望の中におかれていたのです。
預言者はその彼らに向け、希望の言葉を語るべく神に遣わされるのです。

預言者は1節にあるように、「貧しい人に良い知らせを伝えるために」主が遣わされたのだと語ります。
この貧しさは単なる経済的な貧しさというより、社会的に抑圧され苦しみ、又そこで起こってくる魂の飢え渇きという、全人的な貧しさを表します。
エルサレムに帰還したユダの人々はまさにそのような状態でした。その魂が霊的に貧しい状態であったのです。現実の状況に翻弄され、疲れ果て、御言葉への信頼さえも喪失してしまいそうな日々を送っていたのです。

しかし、主はそういう霊的に貧しい人々に対して、油注がれ、主なる神の霊が臨んだ「神の人」を遣わして、「良い知らせ」:口語訳では「福音」を語られるのです。
その福音とは、主が「打ち砕かれた心を包み」「捕われた人には自由を」「つながれている人には解放を告知される」。この良き知らせであります。

さらに詳しく2-3節で、「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」、神の人は遣わされるのです。

ここには主が、敗北といえる状況を勝利へと逆転させてくださるその恵みの御業が示されています。この「主が恵みをお与えになる時とは、当面はエルサレムの神殿の再建と神への信仰回復の時を指したものと考えられます。
その神殿再建と信仰復興への道のりについては、当時祭司であったエズラが書き残したエズラ記や総督であったネヘミヤの回顧録であったネヘミヤ記にも記載されておりまう。
神殿再建が遂に果たされていく時には、律法の朗読と神への賛美と喜びの祝いがもたれていくのです。
「主が嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる」と語られた御言葉がこうして実現するのです。

しかしこの知らせは、後世においてはユダの民だけではなく諸国に知れ渡ることになるのです。
9節にあるように、「彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人々はすべて認めるであろう。これこそ、主の祝福を受けた一族である、と」。
それは実に、主なる神さまがすべての民、全世界の人に自らの栄光を顕される時であり、主の救いのみ業が御独り子、インマヌエルの主、イエス・キリストを通して全世界に告げ広められることとなってゆくのです。

本日の箇所の1節は、イエスさまが会堂で教えておられた時に読まれた箇所です。
ルカ福音書4章のところにありますが。イエスさまはこの時渡されたイザヤ書から「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わしたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められたのです。
エルサレムから離れたガリラヤの地、ユダヤの人から見れば異教の地に等しいとされるようなそのところには、イザヤの時代同様、抑圧されて痛みと苦しみにあえぐ人たちがおり、自分たちを解放し、救い出してくださるメシア、救い主を切に待ち望んでいたのです。

先週はクリスマスを祝いました。神の御独り子のイエスさまがすべての人、全世界の救い主としてお生まれ下さった。私たちのところにまで来てくださった。その大いなる神の恵みを喜び祝いました。
この福音、よき知らせはイエス・キリストの御降誕から始まり、主イエスの地上における福音宣教、それに伴ういやしと解放の業を通して告げ広められました。
そして遂には、主イエスご自身の計り知れない愛によって十字架の苦難と死によるあがないが遂げられます。
そしてさらには、死より復活されるという完全なる勝利をもってこの「良い知らせ」、神の救いが、ユダヤから全世界の人々に知らされ、島々にまで、今日の私どものところにまでも至っているのであります。
それまであざける国や勢力のもとにあった人たちまでもが、イエス・キリストを世界の主と認め、主の御救いを受け取って、真の神さまに立ち返り、救いと解放の恵みに与って生きる人たちが起こされていくのです。
本日の第三イザヤの預言で語られている御言葉は、こうして今日も日々確かに実現されているのです。

10節にはこう記されています。「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる」。
今や、人となりし神の言、イエス・キリストにより、主に依り頼む私たちのまさに福音であるのです。ここに私たちの「まことに幸いな希望」がございます。このまことの幸いと希望は主御自身にあります。
私たちがこの主に依り頼み、御心を求めて行くとき、私たちの歩みは確かに御言葉によって確かなる幸いと喜びで満たされていくでしょう。
今日は今年最後の歳晩主日礼拝となりました。今年一年の主の恵みを数え、感謝をもって新しい年の歩みのために祈り、備えてまいりましょう。
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教会案内(地図)

2023-12-28 12:07:25 | 教会案内
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2023年12月31日 歳晩主日礼拝

2023-12-28 11:56:15 | 教会案内

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お知らせ

2023-12-27 06:47:57 | お知らせ

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新しく生まれる

2023-12-25 11:36:11 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ヨハネ3章16-18節 

Merry Christmas! 救い主、イエス・キリストのご降誕を心より慶び、主の御名を賛美します。
この記念すべき日に、信仰告白とバプテスマが主のゆたかな恵みのもと行われました。感謝です。
バプテスマの準備をしている時に、Kさんは、「友人を教会に送り迎えしていた私がまさか教会の礼拝にも集い、バプテスマを受けるようになるとは思ってもいませんでした。私はまことの神と出会うことができて本当にラッキー、幸せです」と、満面の笑みでそうおっしゃっておられました。そしてさらに、「私はこうしてまことの神と出会えましたが、世の中には多くの人たちが私のようにまことの神を求めているのに、気づかずにいる人が沢山います。真理を求めているのに、出会うチャンス、機会がほんとうに少ないと思います。これって不公平にも思えます。だからそのチャンスができるだけ等しく与えられるようになっていけるといいですね」ともおっしゃっていました。これはKさんのこれからの祈りになっていくでしょう。同様に救いの喜びに満たされる人は、だれもが素晴らしいその喜びをわかち合いたいと願い、祈りや言葉、態度になって表われてくるでしょう。そうして新しくされている自分に気づくのです。

本日は「新しく生まれる」と題して、み言葉に聞いてまいります。
先ほどヨハネ3章16-21節が読まれました。
この個所の前段では、ユダヤの議員でファリサイ派に属するニコデモという人が登場します。ファリサイ派は罪や不浄と自分を分離してきよく正しい行いをもって生きてゆこうとするグループの人たちでした。
ニコデモは熱心にたくさんの本を読んで、立派な教師につき、律法を暗唱して、自分の力で律法を守り、良い人間、正しい人間になるように精進し、自分の行いによって神に認められ、救われると信じて生きていたのです。
そうして彼は高齢者になるまで律法を熱心に守り通してきたのですが。なぜかその魂の奥深いところで神への強い飢え渇きを覚え、真理を追い求めるようになっていったのです。

ある夜、彼は一目をはばかるように、イエスさまのもとを訪ねます。
ローマの信徒への手紙3章20節には、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」とありますが。
それは、人がどんなに清く正しくありたいと思い頑張っても、それを生きることが出来ていない自分に気づく。そこに罪の自覚、又魂の飢え渇きを覚えるからです。
ニコデモは議員でありましたから、当時のユダヤの指導者としても神のまえに至らなさや欠けたるものゆえの責めを感じていたのかも知れません。彼は救いを求めていました。
そのニコデモに対して、イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになります。
ニコデモとイエスさまの救いについての根本的な理解が異なっていたのです。それは、自分の力や行いで救いを得ようとする道と、神が人を救うために備えられた道の違いでした。
私は高校1年生の時にイエスさまを救い主と信じ、バプテスマを受けましたが。バプテスマを受ける前から聖霊の働きについてはわかっていたとは言えません。父なる神や子なるキリストは分かるけれ、「聖霊」がよく分からなかったのです。
それからバプテスマを受けて5年後くらいの時でしたが。
ふとローマ書6章の「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」というバプテスマについてのみ言葉を改めて読んでいた時でありました。その時に「古き人である私は完全にキリストと共に十字架につけられた」という何とも言葉では言い表すことのできない感謝と感動が強く心にこみ上げる経験をしたのです。聖霊の働きとしか言いようのない体験でした。
さらに同じ時期にローマ3章の「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して無償で義とされているのです」この「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して無償で義とされているのです」という言葉に改めて信仰の確信と平安を戴く経験をしました。
バプテスマを受けてからも、聖霊がずっと私に伴なってゆたかにお働き続けておられたことがよくわかりました。

話をもどしますが、イエスさまはニコデモに旧約聖書のエピソードを例にあげて「救い」の道を説明されます。
それは、モーセが民を伴ってエジプトを脱出した荒野において、不平を言う民に燃える蛇が下され、多くの人が噛まれて死ぬのであります。その時、人々を救うために神が与えてくださった方法は、青銅の蛇を作って旗竿の上につけ、それを仰ぎ見ることでした。それを仰ぎ見た人は蛇に噛まれても生きたのです。
イエスさまは「モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子もあげられなければならない」とおっしゃるのですが。それはご自身もイエスさまも木にあげられなければならなかったということ。又、このイエスさまによって、永遠の生命を得る救いの道を説かれているということです。

ニコデモはこのイエスさまがお話になったことに対して、どのような反応をしたのか、聖書には何も記してありませんので分かりませんが。
この後、このニコデモという人物は7章と19章に2回登場します。
7章では、イエスさまが祭司長たちに捕らえられそうになった時、彼はイエスさまが何も捕えられるような事はしていない、と堂々とイエスさま弁護しました。
さらに19章では、イエスさまが十字架にかかって死を遂げた後に、彼は没薬を持って来て、イエスさまの遺体を手厚く葬りました。
ニコデモはこのイエスさまとの対話を起点に、イエスさまの地上での歩みと十字架にかけられて死を遂げられたお姿を通して、彼はイエスさまのみ言葉が真理だとの思いに導かれたのです。聖霊がニコデモに伴い続けておられたのです。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエスさまに語りかけられた時は、その意味が分かっていなかったニコデモでしたが。彼は霊によって新たに生まれ変わる経験をしたのです。

今日の3章からのイエスさまのみ言葉は、そのニコデモ自身によって証しされたものだと考えることもできます。なぜかというと、ニコデモは夜こっそりとイエスさまを訪ねことを他の人は誰も知らなかったはずだからです。
ニコデモはこのイエスさまのお言葉を、十字架かけられた神の救いを見た、目撃した。それは神の霊が救いを求める彼を導き続け、この方こそ救いの主と信じ、神の救いと新たに生まれる経験をしたのでしょう。その喜び、幸いを彼は人々と分かち合っていったのです。そうして、それを聞いたヨハネはじめ使徒たちによってこのエピソードは聖書に記されたのでしょう。

今日のエピソードの中で特に心に留まりますのは、ニコデモがイエスさまのもとを訪ねた時、何も分かっていなかったニコデモにイエスさまは正面から向き合い、懇切丁寧に救いの道を説いて下さったということです。
主は、「だれでも、求める者は受け、探す者はつけ、門をたたく者は開かれる」と、おっしゃったとおり、その求めに答えられ、自らを顕されたのです。

私たちも真理を求め、救いの道を求めていく時、聖霊の働きにあずかり、キリストの福音に出会う機会が、チャンスが与えられているのです。人は意識、無意識のうちにこの真理への、救いへの飢え渇きをもっています。
今日バプテスマにあずかったKさんも友人や大阪教会、そしてハワイの教会の祈りととりなしの中で主と出会われました。すべての開かれている真理、救いの道をより多くの方に知っていただきたいと願い、祈ります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この短いみ言葉には聖書の中心メッセージが凝縮されているということで、宗教改革者のマルティン・ルターは「小聖書」と申しました。ちなみに私が小学生の時に憶えた最初の聖句でしたが。

 
ここで「世を愛された」と言われている「世」とは、全世界、全人類を指します。世を愛された神さまの愛からこぼれ落ちている人は一人もいないのです。ですから、この「世」というところに、私たちは自分の名前を入れて読むことが出来ます。17節の「世」のところも、皆さまのご自分の名前を入れて読んでみられるとよいかと思います。「神が御子を(   )に遣わされたのは、(   )を裁くためではなく、御子によって(   )が救われるためである」。
自分の名前、自分の名前だけではありません。自分の大切な、あの人、この人の名前を入れて読んだらよいでしょう。しかしもっとゆたかに読んでいくのなら、「世」のところに自分がどうしても愛せないようなあの人、この人の名前を入れて読んでいくと、さらに神さまの寛大な愛を知ることができるでしょう。

 18節に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とあります。
ニコデモはファリサイ派として物心ついた時からずっと自分と人を比べ、分け隔てしながら生きていたのです。神さまの深い愛を、頑なに拒み、それを受け入れず、信じない者は、すでに裁かれているというのです。
神の大いなるこの愛と受け入れずに生きること。それは神との関係性、人と人との関係性の断絶という裁きとなるのです。、それでも神は独り子、イエス・キリストを通しその神と人と分断の壁を取り除いて、関係の回復の道、救いを成し遂げてくださいました。

クリスマスは、神がこの暗い世にあって真理を見出したいと願い、さまようすべての人に御独り子をお与えくださったという神の大いなる救いの時です。
イエス・キリストに顕された神の愛と救いが、今も、そして永久(とこしえ)に与えられていることを信じます。
Merry Christmas!この喜びの知らせが、一人でも多くの人に届けられますように。
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12/24(日) クリスマス礼拝&キャンドルライト・サービス

2023-12-20 17:40:31 | 教会案内

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待ち望んで生きる

2023-12-17 15:17:14 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ25章1-9節 待降節Ⅲ 

私たちの日常において、まぁこの慌ただしい師走もそうでしょうが、私たちはなかなか待つということが苦手ではないでしょうか。車の運転も急いでいるときに、渋滞に出くわすと、もうイライラしてしまいます。車線をたびたび変更して前に進もうとすることもあります。パソコンを開こうとオンにしてもなかなか画面が開いてくれない、操作中にも反応が遅い時、苛立つこともあります。買い物のレジや銀行のATMに長蛇の列ができて、なかなか前に進まない。少しでも流れの良い列が他にはないか右往左往する。「待つ」と言うことにはまことに忍耐が要りますね。
先週、知り合いの方からある機関誌の「祈りの絆」の原稿依頼が思いがけず届きました。せっかくでしたが、当面の事情を考慮させていただいた上でお断りしました。すると、その方から「数年後スケジュールにゆとりの出た頃、改めて執筆をお願いいたしますね」と言う丁寧でありがたいお返事をいただきました。慌ただしい中にも自分を押し通そうとするのでなく、そういう「待っていますね」「次に期待しますね」と言うような心遣いは嬉しいものです。自分もそのようでありたいなと思いました。

今日のイザヤ書25章には、この世が移り、変わろうとも、決して変わることのない約束があること、また、それはどんなに時間がかかったとしても必ず実現することが語られています。本日はこの希望を「待ち望んで生きる」と題してお話をさせていただきます。

詩篇39編7節から8節にはこうあります。「ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。主よ、それなら何に望みをかけたらよいでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」。
私たちが食べるのにも着るにも生活するためには、紙幣や貨幣を通して決済がなされています。それを銀行にも預けています。たとえわずかでも利子がつくところに預けたりもします。でも紙幣は万が一の事態になると紙切れ同然のものとなってしまいます。
近年は現金ではなく、クレジットカードやスマホアプリから決済したりもしていますが。これも万が一データバンクに大きな不具合が生じるとどうなるのか見当もつきません。
私たちはそれらを利用することも多いのですが、それは私たちが社会のルールとその取り決めを一応は「信頼している」からです。そうでなければ、社会の営みや私たちの生活はなり立ちません。しかし、そういった社会や人に対する「信頼」が揺るがされることの多い昨今であります。
先の詩篇には「ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るかも知らずに積み上げる」。その人は「主よ、それなら何に望みをかけたら良いでしょう」と問いかけます。
そして、「わたしは、主よ、あなたを待ち望みます」と宣言するのです。
 それは、この世の限りある保証などではない永久に変わることのない確かさを主ご自身に見出したから、そう言い得たのです。

今日のイザヤ書25章1節にもこのように信仰告白がなされています。
「主よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からのゆるぎない真実をもって」。
ここで、イザヤは主にこそ望みをおくのです。この「あなたは驚くべき計画を成就された」は英語で言えばit has been。
いわば成就されていると言う状態がずっと続けられている、ということです。
もう少し詳しく言いますと、この「驚くべき計画」は、神の御前において既に成就されていましたが、それを人が目の当たりにするのはイザヤの時代から700年後に人となりし神の言(ことば)イエス・キリストを、神がこの地上に生み出してくださったその時であります。
それは、その時代だけに終わってしまったのではなく、今なお、キリストは生きられ、私たちと共におられるお方である、ということなのです。
ヨハネ3章16節から17節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と、そのようにございます。
イザヤは神なきお暗き世にあって、主の言葉に聞き従い、神の救いと神の国の到来を確信し、日々確認しつつ生きたのです。
それが信仰であります。
 その根拠は事実で確かなる神の言葉です。ヘブライ人への手紙11章1節、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
先程の詩篇の作者も移りゆく世の中にあって、「私はあなたに望みをかけます」と語った。
ここでイザヤも「あなたはわたしの神」と、その確証によってまだ肉の目では見ていないにもかかわらず、主をあがめ感謝をささげます。ここに礼拝の原点があります。
それはこの教会堂で捧げられる礼拝に限らず、どこにいてもまたいつでも、何をしていても、「わたしはあなたに望みをかけます」「あなたはわたしの神」と、主と向き合って、まだ見ずとも希望を見出し、平安や喜びをいただく。そのように主と主の助け、救いを待ち望みつつ生きる。それが礼拝であります。
この日曜の礼拝も、水曜の学びや祈り会も、そのように信仰の確信をいただき、それが日常において継続され、救いを生き続けるためには必要なのです。
集うことが困難な方もいらっしゃいますので、礼拝をzoomや音声の配信の他、今後も工夫をして行かなければと願っております。
今年は12月24日が日曜日となり、私たちの教会では午前のクリスマス礼拝と、夕方にも燭火礼拝(クリスマスキャンドルサービス)が行われます。久しぶりに、また初めて一昨日になる方もとともに、感謝と喜びに満たされるクリスマスとなりますよう願っております。

さて、イザヤは6節で次のように語ります。「万軍の主は、この山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉と選り抜きの酒」。
「この山」と言うのは、何を表しているのでしょうか。
 それは神の言葉によって告知されているように、聖書の終末の日、主の来臨によって神のご計画が完成される時。全き裁きがなされ、主こそが王となられて、神の栄光が表される、その「山」であります。
その日は大いなる祝宴の日であり、その主の祝宴にはすべての民が招かれると言うのです。
4節には、「まことに、あなたは弱い者の砦。苦難に遭う貧しい者の砦」と語られているように、この主の祝宴は、世にあって、弱い立場に置かれている人、苦しみと困窮の中に置かれている人たちが覚えられ、招かれていることを知ることができます。

私たちの教会では「主の晩餐」を礼拝の中で行っていますが。
これは、主が成し遂げてくださり、今もそして永久に変わることのない救いの約束を確認し、この神の国の完成を待ち望みつつ、今既にそれをすでに受けているという確信をもって生きるためのものであります。
その始めに読まれる招きの言葉には、「私たちは、この主の晩餐において、主イエスの尊い恵みを思い起ます。主イエスが、人の世で小さくされている者を受け入れ、食卓を共にしてくださったこと。すべての者に仕え、すべての者のために苦しみ、十字架に至るまで愛し通してくださったこと。主なる神が、このイエスを死よりよみがえらせ、永遠の命への希望を開いてくださったこと。それらすべてのことを私たちは思い起ます」と、ございます。単に思い起こすのではなく、私たちは今それを受け取って生きていることを確認するのです。

この地上においては、国や民族、生まれた地によって命の選別が行われています。また命に優劣をつける優生思想がはびこっています。
しかしここに語られてますように、主はだれの命もみんな尊い存在とされます。又、主に倣い、だれもが互いの命を大切にすることを主は願っておられます。主の祝宴の真ん中には弱く小さくされている人、またそう見なされている人、困窮する人たちが招かれ、彼らは主を大いにほめたたえて、主は栄光をお受けになります。
さらに、主の慈しみを知った暴虐な者らは主の前にひれ伏し、静まります。こうしてすべての民は大なる主の豊かな恵みをふるまわれる事となるのです。

 その終末のとき、7節から8節のところには、「主はその山で、すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」と語られています。
その布は、主なる神と私たちの間を遮るものとして覆っていた罪であります。それが取り除かれるということです。主イエス・キリストによる罪のあがないにあずかっている私たちではありまが。聖書には、「罪が支払う報酬は死である」(ロ-マ6:23)とございます。この死が主によって拭い去られたことで、永久に死が滅ぼされる、主の勝利に呑み込まれるというのであります。
そして顔と顔とを合わせて直接、主とお会いする祝福の時が訪れるのです。

さらに、「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」と語られます。
この世界には不条理なことどもに涙し、嘆き、泣き叫んでいる人が数え切れないほどいます。
しかしそれも終りが来ます。神御自身が嘆き、泣き叫んでいる人たちの涙をぬぐいとってくださるのです。その日、神は悲しみを喜びに変えてくださるのです。
ヨハネの黙示録21章3節から4節には次のようにございます。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
そのとき、不条理の中でねじ伏せられ、屈服させられた人たちの恥辱が取り除かれていくというのです。

それは、遠い将来のことでしょうか。その時はいつ来るでしょうか。このすべての世の罪からの解放と救いによる回復は、すでに主イエス・キリストの十字架と苦難と死、復活をもって成就されているのであります。それが完成される日、そのときをひたすら待ち望んで生きているのです。

9節「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」。
そうです。「主よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からの揺るぎない真実をもって」。
イザヤが今から2700年前に語った主の言葉を、この私たちは今ここで確認いたしました。
イザヤの時代にこの主の言葉を聞いた人たちはきっと何のことか理解できないまま多くの人は神に立ち帰ることなく、その社会は崩壊していったのでありましょう。
しかし、イザヤの預言は後に生きる人びとの悔い改めとともに読み返され、主の救いと解放の出来事を待ち望む希望の光となっていったのですね。主の約束の言葉に望みをおいて生きた人たちがそこにいたのです。事実彼らの中には捕囚から解放されてエルサレムに帰還をはたし主の栄光を仰いだ人たちもいましたが。それは地上におけるつかの間の喜びであって、永遠にいたる救いの喜びには至りませんでした。
私たちも、すでに主イエス・キリストを信じ、救いにあずかる者とされているとはいえ、その主の救いの完成の日を待ち望みつつ苦闘する毎日です。
しかし、私たちは信仰の眼によって今、すでにその日に生かされている。ここに待ち望む者の確かな歩みがあります。

最後に、ヘブライ人への手紙10章23節をお読みします。
「約束して下さったのは真実な方なのですから、公に言い表わした希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」。
私たちも、主が再び来られるその折に持たれる主の祝宴を待ち望んで日々を生きてまいりましょう。
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クリスマスコンサート~BETBOX&歌 出演:ゆかり☆ゴスペル&ZaChoo 楽しかった!

2023-12-16 20:48:22 | イベント
コンサートとワークショップ、みなさんとても
喜んでくださいました。

はじめて、教会でパフォーマンスをされて、とても新鮮だったという感想をZaChoo (アーティスト名 ザチョーさん)おっしゃっていました。
音楽活動の仲間として、私は自然体なのですが、神様がいつもアイデアをくださっています。
教会でのコンサートも、このタイミングでさせていただけたことも、導きに感謝いたします。

豊かな祝福を祈ります。

ゆかり☆ゴスペル、萱原有香理




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2023/12/17 主日礼拝式(アドベントⅢ)

2023-12-13 15:44:20 | 教会案内

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闇の中に輝く光

2023-12-10 13:28:55 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ9章1-6節 待降節Ⅱ

本日は「闇の中に輝く光」と題し、御言葉に聞いていきます。
ヨハネ福音書1章9節(口語訳)には、「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と、救い主、イエス・キリストがまことの光であることが記されています。
そのお方が世に来られました。
光は私たちが生活するうえで必要なものです。街灯の光は夜の闇路を照らし安心して歩けます。何より神がお造りになった太陽は言うまでもありません。今の冬場の寒い時期に陽の光は心も体も温かくしてくれます。又、その光には私たちの糧となる食物を成長させる力があります。そして植物も海藻も光を受け大気を再生してくれています。そのように光は私たちの生活にかかせないものでありますが。
しかしイエス・キリストはただの光でなく、「まことの光」としてお生まれくださいました。
それは私たちの暗い心を明るくし、冷たい心を温かくし、つかれ、なえた心を命の力をよみがえらせる光、私たちの救い主としてこの私たちのもとにお生まれ下さったのです。

先ほど読みましたイザヤ書でありますが、これは「まことの光」としておいでくださった救い主、イエス・キリストの誕生に関する預言であります。
私たちは自分の誕生について誕生した後で知る以外ありませんが。この救い主、イエス・キリストの場合は、生まれてからではなく、お生まれになるずっとずっと前に預言されていたのです。
イエスさまはただ何の前触れもなく、突然生まれたのではなく、その性別、お生まれになる場所、その救い主としてのご性質についてはあらかじめ預言者たちを通して知らされていました。

さて、その預言者の一人であったイザヤの時代ですが。イスラエルは北王国と南ユダ王国とに分かれました。その北王国でも南王国でも王と民は金や銀、木や石で人が造った像にひれ伏し拝み、その心はまことの神から遠く離れていたのです。
北王国も南大国も決して大きな国ではありませんでした。自らの国を守るために周りの大国、大きな軍事力をもつ国と同盟を結び、生き残ろうとします。
しかし、それは自分たちの祖父たちが依り頼み、救いと祝福を受けてきたまことの神に対する不信にほかなりませんでした。
そこで神の預言者たちが王と民に遣わされます。
「まことの神に立ち帰って、神の御心を知り、それを守り行うように。大国の王や軍事力によりすがるのではなく、自分たちの救いの神こそ、依り頼むように」と、預言者たちは伝えるのです。
そうして、「神を畏れ敬い、従うのでなければ神の裁きの前に、もはや立つことが出来ない、国が滅ぶ」ということを繰り返し警告したのです。
しかし、王や民は預言者の言葉に耳をかすことなく世の力に依存し、結局北王国イスラエルはアッシリア帝国に占領されて滅んでしまいます。
南ユダ王国の民も、これを見て、いつ敵が攻めてくるかわからず、おびえながら暮らしていたのです。

本日の箇所の前の8章21-23節のところに次のように書かれています。
「彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩。暗闇と追放。そのような神無き世界で、今,苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」。
それは、将来の希望を見出すことが困難だから闇、暗黒と言うのではなく、神でないものを神としてよりすがり、まことの神を拒み、見出せない。それが闇、暗黒だ、というのです。

そのような中、イザヤを通して語られたのが、今日の聖書の言葉です。
9章1節に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。
神無き世界、神の御心を知ろうともしない世界、社会は真っ暗なトンネルの中を行くようなもの、進んでも進んでも先が見えません。
しかし、その真っ暗な闇であったところに、「光が輝いた」。なおその光は、神の権威によって立てられる、そのお方によってもたらされます。
5節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。
彼によって人びとは、神に背を向けた虚しい暗闇の人生から、「神が共におられる」という希望の光の中を歩む者とされるのです。
この救い主の誕生の預言は、遠いイスラエルの当時の人々だけに与えられたのではありません。後の時代に生きるすべての国々、すべての人びとに与えられているのです。
そのお方は、9章1節の前に記されているように、ガリラヤからその活動を始められます。そして12章4-6節にはこのように記されています。
「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ」。
それは言うまでもありません。私たちの救い主、イエス・キリストであり、私たちも現に、このお方によって大いなる光を見出しているのです。

今、世界各地において、又私たちを取りまく社会は、大変な困難な時代を迎えていると言えます。イザヤの時代と同様、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と離散の中で、どんなに多くの人が助けを求めておられることでしょうか。
大切なのことは5節以降で、死の陰の地に住む者を暗闇より救い出して下さるそのお方がどのような方であるが、記されています。
まず、「権威が彼の肩にある」とありますが。この権威とは、すべてを司り、統治することのできる権限のことです。これは地上のものからではなく、神に由来するものです。
私たちが主によって救われ神のものとされたのは、この方の権限によるものであります。

そして、このお方には4つ称号が与えられています。
まず、「驚くべき指導者」。これは英語訳聖書では「Wonderful counselor」、驚くべきカウンセラー・助言者とも訳されます。
神の御心を知り、神の言葉の知恵と知識をもって私たち一人ひとりに適宜適切なアドバイスをしてくださるお方であるのです。しかし、自分の力で生きていくことが出来る。自分の考えで十分だと思ううちは、それを素直に受け取ることがなかなかできません。
むしろ、自分自身の力の無さや弱さ、限界を知らされた時に、耳が開かれて神の知恵と知識をもっておられるお方の愛といつくしみに満ちた、そのアドバイスを聞くことが出来るのです。主は常に私たちに語りかけて下さり、私たちが心の扉を開くのを待っておられます。
また、そのお方は、「力ある神」と呼ばれます。
これは先に「権威が彼の肩にある」とありましたように、この世のことどもすべてを司り、統治することのできる権限をもつ神と一つであられる、一体であられるということです。それは又、この世の力とは全く異なる天の力です。創世記の、無から有をつくり、絶望を希望へ、闇を光に変えるダイナミックな力であります。
さらに、その名は「永遠の父」と呼ばれます。
それは親が子を守るように、いや、それどころか「たとえ父母があなたを忘れようとも、わたしは決して忘れることはない。わたしはあなたを手のひらに刻みつけるように愛する」と主が仰せになるように、どこまでも保護し、弁護し、守られるお方であるという事です。
四つ目の名は、「平和の君」と呼ばれるとあります。
平和はヘブライ語で「シャローム」ですが。それは、日常で私たちが言葉や文章で挨拶を交す、「お元気ですか」「お元気でね」と同様の意味もあります。同時にそれは、神の平安、平和があるようにという祈り、とりなしであります。神の主権のもとで互いの平安を祈り合う関係の中に平和の君は共におられます。
又、平和の王ではなく平和の君となっているのも、世の権力や武力とは異なる神の子としての権威を物語っているように思え、うれしくされます。

御子イエス・キリストは、「ひとりのみどりご」として私たちと同じ肉をとってお生まれくださいました。地上において神の国を伝え、病人や困難を抱える人、差別され抑圧されている人、さらには罪人とされる人と食卓を共にして神の国の到来を告げ、その平和を共になさいました。最期は十字架の苦難と死をもって、暗闇に住む者であった私たちの救いのあがないを遂げられました。
さらに私たちが信じ、主と共に永久のいのちに至るように、三日目に復活をとおして救いが確かなことを現わして下さったのです。
私たちの真の平和、平安は、このイエス・キリストがわたしの救いをすでに成し遂げて下さったという事を認め、いつも共にいて下さる主の言葉に聞き、祈り、主に倣い従うところに臨みます。

最後に6節、ここのところを改訂版の新共同訳でお読みいたします。
「その主権は増し、平和には終りがない。ダビデの王座と王国は公正と正義によって立てられ、支えられる。今より、とこしえに」。
国連本部の入り口には、イザヤ書2章4節の「彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」との言葉が刻まれていることをご存じの方もいらっしゃるでしょう。でも、絵に描かれた餅のように今の世界に目に見える形で効果がないように思えるかもしれませんが。
その2章4節の国連本部に刻まれていない前の部分にはこうあります。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」。
実はこの言葉が重要なのです。人や国々の思惑や利権が絡んだ都合のよい裁きではない、まことの神、主の「裁き」、その「戒め」によって世界に平和が造り出されていくのです。そのためには人間的な良心だけに頼るのは十分でなく、平和の君である主の教えと戒めに聞き従うことが大切であり、それこそ人の本分なのです。

本日はまことの光として来られた、救い主、イエス・キリストに関する預言の言葉から聞いてきました。まさに、まことの光としてお生まれになられた主、救いのみ業を成し遂げて下さった主の4つの称号から、すべての人にとりましてこれほどまでにゆたかなご性質についてひもといてまいりました。
最後に本日の救い主の預言と救いの実現は、6節の最後に書かれた「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」という言葉に、その確かさが証明されているということをお伝えして本日の宣教をとじさせていただきます。
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