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神の愛とキリストの忍耐に倣って

2020-07-26 13:44:02 | メッセージ

主日礼拝 テサロニケ二3章 

                                           

2か月間このテサロニケの信徒への手紙を読んできましたが、今日の箇所がその最終章となります。本日は「神の愛とキリストの忍耐に倣って」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

①「祈りの要請」

ここでまずパウロはテサロニケの信徒たちに対して、「わたしたちのために祈ってください」と、祈りの要請をいたします。

それは、「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」という目的のため、主の御心が実現されていくためでした。

パウロはこの手紙をコリントに滞在中に書いたといわれていますが。そこでは、主の御言葉を宣べ伝えることの困難にぶちあたっていたようであります。

テサロニケでパウロらが主の福音を宣べ伝えたのはわずか3週間でした。しかし、そこではパウロが絶賛するほどの信仰の実りがもたらされました。

異教的な風土や偶像に満ちた町において伝道の困難がありましたし、又、ユダヤ主義者ら反対勢力の妨害にも遭ったのですが、テサロニケでは主イエスの福音を信じて救われる人たちが起こされ、しかも「彼らの信仰は困難の中でも愛と忍耐をもって証明されていった」のです。

ですから、パウロはそのようなテサロニケの信徒たちに、コリントにおいても福音宣教が守られ、神の救いに与る人たちが起こされて、主の御名があがめられるよう祈ってください、と要請したのです。

主の救い、福音に与ったクリスチャンは、さらに福音が広められ、主の御救いに与る人が起こされて主の御名があがめられるように、祈り、努めていくように招かれています。そこに私たちが先に主に召し出された意義がございます。

 

今日のこのパウロの祈りの要請には、「わたしたち(シルワノやテモテ)が道に外れた悪人どもから逃れられるようにと、祈ってください」とも記されています。

悪人とは神の御心に敵対する者であり、神の救いの福音を伝える人々に激しい妨害や迫害を加えていたのです。

だから、福音の前進のために、伝道者たちがこのような悪い者から守られるように、祈ってほしいと強く訴えたのです。

大使徒であったパウロが、自らの課題や困難をあえてさらして、「私たちのために祈って下さい」とテサロニケの信徒たちに訴えることができたのは、そこに主にあって共に結ばれているという信頼関係があったからでしょう。

牧師として、教会の信徒の方から祈ってくださいというリクエストを受けて主に執り成し祈ることはあっても、「わたしのために祈ってください」と訴えることはほとんどしてこなかったなあ、私のために祈ってくださいなんていうことに何か遠慮があったなあ、と振り返って思いました。

けれどもそれは、私自身のためというより、主の御業と栄光が顕されるために必要なことであるんですね。

 

②「祈られる側から祈る側へ」

さて、自分たちのために祈ってほしいと頼んだパウロでしたが、今度は手紙の結びで、テサロニケの信徒たちのために心から神に執りなし、祈ります。

パウロは自身が悪い者の妨害によって苦しめられている中で、テサロニケの信徒たちが異教的な勢力、又様々な試みる勢力による信仰の闘いの状況下におかれていることに思いを馳せ、励まし祈るのです。自分のことよりもテサロニケの信徒の事が心配なのです。

3節「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」

パウロにはその強い確信がありました。

この「主は真実な方」の真実とは、第一テサロニケ5章にも記されていますものと同様、原語はピストス、「真に信頼に値する」という意味で、それは人の真実や誠実ではない、神さまの確固とした真実を表します。神さまは人や世界は変わろうとも変わることなく、真実(信実)なお方です。

私たちも又、主を信じて従う者を主は必ず強め、悪い者から守ってくださる。その主に信頼していくところに信仰の力がゆたかに働きます。

 

次の4節でパウロは、「わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています」と述べます。

「わたしたちが命ずること」とは、第一テサロニケ4章にありますように、「聖なる生活に励む」「互いに愛し合うように」「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」ということです。テサロニケの信徒たちの多くはその教えを実践していたのです。

すでにその報告を受けていたパウロは、テサロニケの信徒たちがこれらのことに今後も励み、信仰の道を進み続けていくであろうと確信したのですね。

 

③「神の愛とキリストの忍耐」

そしてその信仰の生活が日々保たれるようにと、パウロはこう祈ります。

「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」

このパウロの祈りの言葉から、今日の宣教題を「神の愛とキリストの忍耐に倣って」とつけさせていただきましたが。

私たちの信仰生活にも様々な問題や出来事が起こってきます。そんな時、信仰が守られるために最も大切な事。それが、「神の愛とキリストの忍耐」のもとにあって、私たちがこの主に連ならせていただく、ということであります。

 

さて、先週の2章で「主の日が既に来てしまったかのように言う者」の影響を受けて動揺する信徒たちがいたということをお話しましたが。

その事に関して、テサロニケの信徒たちの一部に、6節「怠惰な生活をして、わたしから受けた教えに従わないでいる兄弟」や11節「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者」がいたということです。

パウロは主の来臨と、そのときが迫っていることは述べていますが、未だそのことは起こっておらず、来るべき世の終わり、主の来臨に備えて如何に生きるかについて述べてきたのです。

ところが、パウロの教えの言葉を曲解し、主の日はすでに来た、主はすでに来臨されたとう誤った宣伝をする人たちが現れ、惑わされる信徒たちも出てきたのです。

 

ところで当時、ギリシャやローマ世界の人たちにとって、労働は奴隷のすることだとみなされていました。クリスチャンとなってもそういった社会風土がしみついている信徒たちの中から、「主の日はすでに来ている。もはや労働や仕事から我々は解放され自由だ。労働は奴隷に任せて思いのまま生きよう」という人たちが現れてきたのですね。それが教会の中で悪いパン種のように広がっていったのであります。

パウロはそういった無責任で主の教えを曲げるような人たちに向けて、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じたのであります。

働くといっても、それぞれ違います。家事労働の人もいれば、教会での奉仕や働きもあります。祈りも労働だという話も祈祷会のときに出ましたが。まあいろいろな働きがありますが。ここでの問題は、主の日はもう来た、世の終わりが来たといって、日常の生活や社会活動、仕事も家庭も投げ出している人たちのことです。

このことに対して、パウロは「わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けた。そのように身をもって模範を示した」と述べます。そうして、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じてきたとも述べます。

実際、パウロは使徒職でありましたが、彼自身は天幕作りの仕事をしながら生計を立て、

伝道をしていました。

 

先日、恵泉バプテスト教会のHPのQ&Aで、「イギリスから生まれたバプテスト教会の初期の伝道者たち」について解説されているところに目が留まりました。

「バプテストの指導者たちは手工業の職人や小売商人で、毛皮職人、ボタン製造工、仕立て屋、靴下製造工などの信徒たちでした。バプテストの指導者が世俗の職業に従事する信徒であったことには、二つの理由が考えられます。一つは、教会が小さく貧しく、教会の働きに専任する牧師を招くことができなかった事。もう一つは、「聖職者と呼ばれる人たちはギリシャ語やラテン語の知識によって聖書を解釈しているにすぎず、神の救いにとって一番大切な『聖霊』をないがしろにしている」と主張していた事です。彼らは、他教派の人々からは「職人説教師」とか桶を講壇代わりにしていたので「桶説教師」と呼ばれ軽蔑されていましたが、その一人、サミュエル・ハウは、「聖霊の教えをもっているなら、無学なものこそ牧師にふさわしいし、救われるのだ」と言っています。
 最初の頃のバプテスト説教者の一人、サミュエル・ハウが説教した場所は、居酒屋でした。当時の版画をご覧になれば一目瞭然ですが、ハウは桶(ビヤ樽)を講壇代わりにしています。当時居酒屋は、ビールの販売以外に、食べ物、取引場所、宿泊施設を提供し、旅行者や移住者はもちろん、庶民にとって職の斡旋や融資など、情報交換や生活の拠点でした。もちろん教会での礼拝も大切に守られていましたが、居酒屋で説教するという姿には、初期のバプテストの人たちの、どんなところでもイエスの福音を伝えたいとの熱い思いを伺うことができます。」(恵泉バプテスト教会HP Q&Aから引用)

初期のバプテスト教会の指導者たちは信徒伝道者として仕事をもって生計を立てながら、日常を生きる人たちに御言葉を宣べ伝えることに熱い思いをもって日々尽力を注いでいたということです。

今もバプテスト連盟の教会の中で、教会が事業体をもっていたり、牧師自ら副業をもっていたりというところもあります。もちろん牧師に専念することもよいことですが。いろいろな事情がございますが、大切なことは私たちが生きる全領域で、主の御言葉と福音が語られ、証しされていくことです。

 

④「たゆまず善いことをしなさい」

聖書に戻りますが。

パウロはそのうえでテサロニケの信徒たちに向けて次のように命じます。

13節「兄弟たち、あなたがたはたゆまず善いことをしなさい。」

それは、主の日がいつ訪れてもいいように備えた生き方です。それは又、その日その日を主の教えと言葉に忠実に従いゆく生き方です。

パウロはガラテヤの信徒への手紙6章7-10節で次のように記しています。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

「今、時のある間に」。4月、5月は私も皆さんも初めての経験であったかと思いますが。教会の門が閉ざされて、思うように礼拝やさまざまな働きができなくなるということを痛感しました。しかし、いつその日が訪れるかわからない。わからないからこそ、この今、たゆまず善いことに励んでいくことが大切なのです。

この善いとは、元々は神さまが天地創造をすべてなされた後に、「すべて善い」と絶賛なさったその善いという意味なのです。それは私たちが神さまに造られた者として、神さまの作品として、神さまが喜ばれる生き方を行うということなのです。

 

14節「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」

ここには、主の福音の真理に反する者に対する毅然とした態度と、同じ主にある者としての兄弟愛、すなわちキリストの愛による忍耐が示されています。

敵と見なして関係性に見切りをつけたり、排除したり切り捨てることによって問題を解消しようとすることは、世の中でしばしば見られます。しかしそのようなあり方は教会でなすべきことではなく、同じ主にある兄弟姉妹として、忍耐強く関り、対話し、戒めていくことが大切だと言うのです。

 

5節でパウロが、「神の愛とキリストの忍耐を深く悟らせてくださるように」と主に祈っているように、人の思いではなかなかそうはいきませんから、神の愛と、主イエスが罪に向かう私たちを救うために表してくださった十字架という主の忍耐を仰ぎ見つつ、その信仰の力を神さまから頂いていく必要があるのです。

私たちの主にある教会も、いつもそこに、共に立たされてまいりたいと願います。

 

最後にパウロは「どうか、平和の主御自身が、いつもいかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられますように」と、祝福の祈りをもってこの手紙をしめくくります。

私たちもまた、主の福音、御救いに与る者として「神の愛とキリストの忍耐」に倣いつつ、互いに祝福の祈りをもって、神の平和のうちに建て上げられる日々をともに過ごしてまいりましょう。

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救いに選ばれた人々

2020-07-19 18:31:19 | メッセージ

主日礼拝 テサロニケ二2・1-17 

                                           

今年はまだ梅雨明け宣言が出されていません。温暖化による気候変動や自然界の厳しい状況を見せられるとき、聖書の「全被造物のうめきの中にあって、神の子の出現を待ち望んでいる」(ローマ8章)とのお言葉が胸に迫ってまいります。水害で被災された方々がおられます。又、このコロナ禍の状況がございます。引き続き祈りつつ、どうか主が日々を守り、導いて下さいますよう願います。

 

本日はテサロニケ二2章から御言葉を聞いていきたいと思います。

本日の箇所も先週に引き続き「終末における主の来臨」に対して、クリスチャンは如何に生きるかという事を説いていますが。

 

パウロはまずテサロニケの信徒たちに対して、次のように述べます。

「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。」

それは、パウロが先のテサロニケ一4章13節以降において「主が来られる」ことについて述べているように、主イエスが来られる時、既に眠りについたクリスチャンたちと、又地上に残された主を信じて生きるクリスチャンたちは、主の御前に集められ、共に引き上げられるという希望であります。

けれどもパウロは、そのことについてテサロニケの信徒たちに念を押してお願いします。

「霊や言葉によって、あるいは、わたしから書き送られたという手紙によって、主の日が既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」と。

テサロニケの教会の信徒の一部には、「主の日がすでに来てしまったかのように」言いふらす者がおり、それを聞いた人の中には「では今現在の信仰の目的は何なのか?」「どこに希望をおいて信仰生活をなしていったらよいのか?」と、思い悩む人々が出てきたのでしょう。

パウロはそのことで、あなたがたは「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」と訴えます。

マタイ福音書24章で、イエスさまは「その日。その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父(の神)だけがご存じである」(36節)と言われ、更に「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ(救世主だ)』と言って、多くの人を惑わすだろう」と、おっしゃっておられます。

まあ、近年においてもキリスト教と称する教団で、主の再臨は何年何月何日だと熱狂的に訴えるが、結局「主の再臨」は起こらず、世間を騒がせて批判をあびるといったことが幾度もありました。まあ、私たちもそのような偽りの教えや言葉にだまされないようにしなければなりません。

 

パウロは「主の日」「主の来臨」の前兆として、「神に対する反逆」が起こり、「不法の者」、つまり、「滅びの子」が出現すると述べます。

世の中が終末的様相を呈してきますと、その不安や恐れを悪用して神の愛とキリストの救いの福音から引き離そうとする反キリスト的勢力の働きがより活発になってくるということです。

そうして主を信じて生きる信徒たちをたくみにだまし、再び罪と滅びへ誘うというのです。ですから、パウロは「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません」と、強く訴えます。それだけ主の日、主の来臨については多くの人がだまされやすいからです。大切なのは、神の愛にとどまりつつ、主の日に向けた私たちの生き方そのものです。

今一度、「主イエスが来られる時、既に眠りについたクリスチャンたちと、又地上に残された主を信じて生きるクリスチャンたちは、主の御前に集められ、共に引き上げられるという希望」をしっかり保ちつつ、どのようなときも主イエス・キリストにあって霊的に目を覚まし、日々主と向き合って生きる信仰の歩みを大切にしてまいりましょう。

 

ところで、4節に「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、遂には神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです」とありますが。ダニエル書11章には「あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、怒りの時が終わるまで栄え続ける」と、預言されています。

まあ、この王は紀元前2世紀にエルサレム神殿を踏み荒らしたシリアの王アンティオコス・エピファネスのことだろうとか。あるいはパウロの時代のローマ帝国の皇帝カリグラだとも言われていますが。

ただ、ここでの神に対する反逆(アポスタシア)という用語は、元々は軍隊の司令官が国を捨てて相手側につく行為から生まれたものだそうです。

 

4節のこの「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗し」とは、もともと神に仕えていた者が神を裏切り、神に反抗する勢力、反キリストとなって人々を惑わし、神の愛から引き離そうとする力として働いているということです。

パウロはそれを「暗闇の世界の支配者」とエフェソ6章12節で述べていますが。聖書の記述によれば、サタンは元来天使の頭でしたが、神の栄光を奪って自分が神になろうとしたため神の怒りを招いて、天から地に落とされたのです。

しかしそんな高慢も悪も全能なる神の前では打ち砕かれてしまいます。

イエスさまは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(ルカ10章18節)と言われました。

サタンの働きはやがて訪れる終わりのときまで今なお人を神から引き離そうとそそのかし続けています。

こうした反キリストの勢力、神に仕えていた者が神に反逆し、神に反抗して神のように君臨するような反キリストの働きは一時代に限ることではなく、どの時代にあっても日常的に起こり続けています。

しかし、パウロは確信をもって語ります。主が来られる時、8節「その時が来ると。不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。」

主イエスの口から吐く息、これは神の御言葉を示しています。神の全き御言葉の前に悪は立ちえません。主イエスは神の生ける言、真理そのものであり、地上におられた時には御言葉によって病人をいやし、嵐を沈め、死人をよみがえらせ、サタンを退けられました。主の御言葉には圧倒的な力があります。その力はギリシャ語でデュナミス、ダイナマイトの語源となった言葉なのです。ですから、私たちは聖書の言葉、主イエスの福音の言葉を正しい手引きのもとによく読み、世を惑わす暗闇の世界の支配者の企てに対して、御言葉の武具をつけ、主の信仰を歩み続けることが大切です。

 

9-10節に、「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業を行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅ぼしていく人々を欺くのです。彼らが滅ぼされるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです」

とあります。

主を信じてクリスチャンとなった者にとって、その信仰生活や祈りの日々を通して、主の導きや支え、守りを幾度も経験させて頂けること、これは本当に恵みであります。

主は生きてお働きくださるのですから、しるしも与えてくださるし、いやしなどの体験も与えてくださることもございます。しかし一方で、どんなに祈っても叶えられないこともあります。よかれと思ったのに自分の願い通りに行かないこともあるでしょう。

しかし、確かに主は祈りを聞いておられ、すべてを知っておられます。困難の中でなお主と向き合い、祈り、信頼していく神との生きた関係。そこに神の恵みと平安が確かにあります。

一方、不法の者、サタンの企ては、私たち信仰者が主に信頼して従うことよりも、目先の利益や奇跡やしるし、願望を叶える不思議な業が表されることを巧みに強調して、真の救いの神から引き離そうとしていくのです。

信仰も生活もどうもうまくいかなくなり、落ち込むようなときに、しるしや不思議な力や奇跡のことを吹き込まれ、神との祈りや御言葉による対話よりも、目に見える現象に心奪われますと大変危険です。

キリストにある信仰は、技や力そのものにより頼むのではなく、天地万物の創造主である神を信じ、全人類の罪を贖われた御子イエス・キリストに信頼する信仰です。そこに私たちもたち続けてまいりましょう。

 

さて、本日の箇所は13節以降、そのような信仰者に向けた大きな希望のメッセージとなっています。

それは、主イエス・キリストを信じる者に与えられる救いの恵みとキリストの栄光

についてであります。

 

まず、救いの恵みについてでありますが。

13節を口語訳聖書の方、主語がはっきりしているのでそちらでお読みします。

神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救いを得させようとされた」ということであります。

つまり、わたしたちが救われ、クリスチャンとなり、信仰の闘いと証しを立てているのは、なんと実に初めから神さまの選びによるものであったということです。

それはヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と、あるとおりです。

パウロはエフェソ1章4節で、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」といっています。正に神の御計画、救いの摂理の底知れない恵みを感じるわけですが。

この彼らテサロニケの信徒たちの御救いは、「聖霊のきよめと真理に対する信仰」に証明されたものでした。

この福音は、神さまによる福音であって人が作り出したものではありません。

聖書の神について、所詮人間の知識や能力によって作られた神にすぎないという方が世にはおられかも知れませんが。天地万物の創造し、人に命を与え、生かしたもう神さまなのです。「人が作った神」と「人を造られた神」との違いは天と地の違いです。

その神さまの御救い、福音も又、まず神さま救いの選びが先にある。決して人が作ったものではありません。そこのところをはき違えると、全然神の福音やその救いと異なる道へ迷い込んでしまいかねません。

 

さらにパウロはキリストの栄光について14節、これも口語訳でお読みします。

「(神は)福音により、あなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるのである」と語ります。

まさに主の御救いに与ったクリスチャンは、主イエス・キリストの栄光に与る者とされているのです。それは先週申し上げましたように、私たちの人生の目的は、神の偉大な作品として造られた私たちが生涯を通して神の栄光を現すことにあります。

そうしてパウロは15節で「兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」と語ります。

先ほどから申していますように、この当時から偽使徒やその手紙が横行して、教会内がかき乱されるようなことがあった。

こうした事態を知ったうえで、真の神とその主イエス・キリストの救いの福音を正しく受け取り、固く守っていくことの大切さをパウロは教えているのです。

人が勝手にその福音を曲げてしまうことがあってはいけません。ですから、礼拝で共に御言葉に聴いていくとき、又、祈祷会で共に聖書を開いて学び合い、祈り合うときというのは私どもにとりましてほんとうに大切なのです。

 

16-17節、これはわたしたちにもパウロが祈っている言葉としてお聞きください。

「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも良い働きをし、良い言葉を語る者としてくださるように。」

先月より、テサロニケの教会の信徒たちに対するパウロの感謝と励まし、そして主の来臨に向けた信仰者の生き方に聴いてきました。

主の日が近づくしるしとして、多くの人の愛は冷めると、イエスさまはおっしゃいました。

ヨハネ福音書15章16節以降のイエスさまのお言葉を読んで、本日の宣教を閉じます。

祈ります。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

この終末の時代において、本日のお奨めの御言葉に聴き、神の栄光を現すものとされてまいりましょう。

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信仰の闘いと証し

2020-07-12 13:39:30 | メッセージ

主日礼拝宣教 テサロニケ二1・1-12

                                        

本日はテサロニケ二1章から「信仰の闘いと証し」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

このテサロニケ第二の手紙は先週の第一の手紙と同じように、「終末における主の来臨」に対してクリスチャンは如何に生きるか、という事を説いています。

 

「3つの感謝」

今日の所で、パウロはまず、心から神に感謝を捧げます。

それは、テサロニケの信徒たちの「信仰が大いに成長していた」からです。このことにパウロは主に感謝しました。

信仰は成長するものなのか、とお思いになる方もおられるかもしれませんが。信じて救われたら、もうそれで信仰じゃないか、と。確かに信仰の始まりです。けれども信仰は生涯を通して継続し、深められ、豊かにされてくのです。

パウロは彼らの信仰の成長を、「お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたの間で豊かになっている」ということの中に見出すことが出来ましたと、主に感謝し、しかもそれは「ありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰をもって示されていた」と、主にさらに感謝し、テサロニケの信徒たちを絶賛するのです。

 

まあ、このコロナ禍において、不安や恐れから排他的になり、以前にも増して差別や排除が起こっています。感染者への差別、又大変な思いをして働いて下さる医療従事者とその家族までも心ない差別があるのは残念なことです。お隣の国でもカルトの教団から感染者が拡がったこともあってか、キリスト教会に対するバッシングやネット上での誹謗中傷が増加しているそうです。

テサロニケの信徒たちはまさに迫害と患難の中、主イエス・キリストの救いの確信に立ち、主の来臨と主の正しい審(さば)きを待ち望んでいました。そうして、互いに主にある愛をもって祈り、励まし合い続けたのです。しかも困難の中、他の小アジアの諸教会までも祈りに覚え、支援していたのです。

これら彼らの信仰の行いを知ったパウロは、「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」ことを諸教会の間で誇りに思うと絶賛します。

テサロニケの信徒たちは迫害と苦難の中で、信仰を放棄することもできたわけです。そうすれば信仰の闘いなど生じることはなかったでしょう。けれども、彼らはその信仰の闘いを、愛と忍耐をもって闘い続けたのです。それはまさに、彼らの神への信仰を証しするものとなりました。

イエスさまは信仰について「種まきのたとえ」をなさいました。岩地に落ちた種はすぐに枯れてしまいます。「御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れるが。しかし、自分のうちに根がないため、御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(マタイ13章20-21節)と、語られました。

クリスチャンの中にも、福音を聞いてはじめは喜んで受け入れるが、何か困難や不快と思えることに出会うとすぐにつまずいてしまう人は多いのです。

日本のクリスチャンを評して、ある人が、1年目は熱心に働き、2年目には悩み、3年経つといなくなると言ったそうですが。

このテサロニケの信徒たちの信仰はそのようなものではなかったのです。彼らは困難に対して、忍耐をもって信仰を堅持したのです。それはまさに使徒パウロがローマ5章で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを、わたしたちは知っているのです」と、記している信仰です。自分の都合の良い時だけの薄っぺらな考えに終わるか否か。私たちのうちに信仰の闘いが証しとなっていくかどうか。

ヘブライ書に「主は愛する者を鍛え、訓練される」とありますように、主はその私たちの信仰を試し、訓練することを通してその信仰が成長していくことを願っておられます。

 

「神の国にふさわしい者」

パウロがフィリピの信徒たちに向けてこう記しました。「あなたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」また、イエスさまご自身も「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と言われました。

キリストを信じる者には悩みや苦しみがないのではなく、大事なのはキリストの救いに与って信仰の闘いを忍耐強く歩み通していくことです。そこに主の勝利に与っていくことができるのです。

そのようにテサロニケの信徒たちは、「ありとあらゆる迫害と苦難の中で、その忍耐と信仰を示してきた」のです。これは「あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しかったことの証拠です」とパウロは言い、それだから「あなたがたも、神の国のための苦しみを受けているのです」と、パウロは確信をもって述べます。

私たちも信仰の闘いを通して、さらに祈り、聖書に聞き従う信仰の道を歩み続けていきましょう。

 

「主の報い」

さて、パウロは「テサロニケの信徒たちを苦しめている者には、苦しみをもって報い、

また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださる」と述べます。

この「休息」とは神の国に入ることであり、主と共にいることです。「安息」ですね。安息日には、天地創造の神がすべての活動を終えて休まれたように、人もすべての活動や仕事を一度ストップして神との交わりの時間を聖別しもつのでありますが。それは私たちにとって、主イエスが復活された日、週の初めのこの日曜日を主の日として記念し、礼拝を捧げます。ここにキリストにある真の安息がございます。

また、主イエスは「安息日の主」として、日々共におられるお方であります。その一日一日の主との歩みの継続の集大成が、世の終わり、主の来臨に際して訪れる安息、究極の「休息」であるのですね。

 

7節「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られる時、神はこの報いを実現なさいます」。

テサロニケ第一の手紙にありましたように、主は、ギリシャ語で:ピストスなるお方、私たちに対していつまでも誠実で信頼に価するお方なのです。

主が完成なさる「休息」の日を待ち望み、主に信頼しつつ歩み通していきたいと願います。

さらに、ここでパウロは「神を認めない者」又「主イエスの福音に聞き従わない者」への主の報いについてこう述べます。

「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」。

旧約聖書で、燃え盛る火は神の顕現を表します。又、火は悪を滅ぼし清める裁きを示します。先に申しましたように私たちの安息はとこしえまでも主と共にあることです。

それと反対に、「主の面前から退けられる」ことこそ、永遠の破滅という最も恐ろしい刑罰であるのです。

この神を認めない者、福音に聞き従わない者とは、主イエスを罪の赦しを得させる神の救い、キリスト(救世主・メシア)と認めない者。又、神の愛と義を否定し、自己中心に生きる人すべてに向けられているのです。

聖書で人間が「罪人」であると書かれているのが気に入らない。そのように自分は言われる筋合いはないと考える方も多くおられるでしょう。しかしその罪の定義がそもそも違うのです。まあ一般的に「罪」を殺人や盗みという犯罪などと考えるかと思います。しかしそれは刑法上の罪でありまして、聖書のいう罪は、創造主であり、いのちの源で義と愛なる神さまを無視し、否定して神との関係をもたない状態、これを聖書は「罪」と言っているのです。そもそもの神との関係が断たれてしまうこと以上の不幸なことはありません。

神さまは、その罪人である人間が神と和解して救われるために御子イエスをキリストなる救い主としてお遣わし下さったのです。主の十字架の御業によって真の神との関係回復がなされることこそが「救い」であり、それこそがよき訪れ、福音なのです。

 

「人生の目的」

最後に今日の宣教題を「信仰の闘いと証し」という題をつけましたが、この個所は天地万物の創造主が、神の作品として造られた人間の、最も幸いな「人生の目的」について説いていると言っても過言ではなでしょう。

10節「かの日、主が来られるとき、主はご自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです」、さらに12節「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があがめられ、あなたがたも主によって誉を受けるようになるためです」。

それは主イエスによって救われた私たちには「神の栄光を現すという人生の目的がある」ということであります。

自分は何のために生まれてきたのかわからないまま、当座を生きているという方も多いのではないでしょうか。

その答えは実に、わたしをお造り下さった創造主なる神さまがすべてをご存じです。

罪に滅びるほかない私たちを主は救われ、神さまとの和解と恵みのもと「新しい目的ある人生」が始まりました。

それは5節で読んだように、「神の国にふさわしい者とされる」人生です。

 

あの塩狩峠、道ありき、氷点など多くの作品をお書きになられたクリスチャン作家の三浦綾子さんは、第二次大戦中、軍国教育のもとで熱心な小学校の教師でした。当時三浦さんはお国のために生き、死ぬことこそが本望であるという強い目的意識を持っておられたのです。

しかし日本が敗戦し、焼け野原を目の当たりにして、今まで教え込まれ、又子供たちに教えてきたことが大きな間違いであったことを知らされた時、生きる目標を失ってしまいます。そしてその後、長い闘病生活を送ることになるのです。

その闘病中、幼馴染を通して主イエス・キリストと出会い、主の救いに与り、真の「人生の目的」、神と神の国の栄光を現す喜びを見出されたのです。三浦綾子さんが生涯をかけて世に出された数々の小説や証集はまさに、その珠玉と言えます。

生きる目的をどこにもつかということは非常に大事なことであります。

確かに仕事に生き甲斐をもつ。より良い家庭を築くことに生き甲斐をもつ。人それぞれの目標はあるでしょう。これらは目先の目的であって、「人生の目的」ではありません。

生涯もつべき「人生の目的」は、たとえ年をとろうが、仕事がなくなろうが、病になろうとも、変わることのないもの。いわば「存在の意義」ともいえるものです。

神の救いに与り、再び新しく創造された私たちが、神の作品として「神の栄光を現す人生を生きる」、そこに今日の聖書も示す「人生の目的」があります。

11-12節「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉を受けるようになるためです」。

 

主の福音に与っている私たちの歩みを、本日の御言葉から再点検して新たに歩み出してまいりましょう。

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喜び・祈り・感謝

2020-07-05 14:49:12 | メッセージ

主日礼拝宣教 

テサロニケ一5章12-28節                                  

先週は「主の来臨とその希望」について御言葉から聞きました。今日の箇所はその主の来臨に備えて、キリスト者が如何に信仰をもって生きるか。その具体的なあり方を御言葉から聞いていきたいと思います。

① 「喜び・祈り・感謝」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
この御言葉は、聖書の中でもよく親しまれているかと思います。愛唱聖句とされている方も多いかと存じます。
それは、「喜び・祈り・感謝」は、主イエス・キリストを通して与えられた神の救いに生きるキリスト者の行動や働きの原動力となっているからです。
実際の私たちの生活は、順風満帆な時は、喜びや感謝することができるでしょう。
けれども、逆境や苦難の時には、不満や愚痴が心のうちにふつふつと出て来て、感情的な喜びや感謝はなくなっていきます。
この喜びと感謝は、実はその間をつないでいます「祈り」と深く関わっているのです。
どんな状況下でも心のチャンネルを、神の救いである主イエスに意識的に合わせていくことです。
それを忘れてしまうと、喜びや感謝を見出すことができないのです。
ここに「絶えず(主に)祈りなさい」という御言葉の重要性があります。

詩編には、イスラエルの民の喜びと感謝の賛美が多くありますが。旧約の時代に生きた神の民の歩みは、苦難の歴史といって過言でないでしょう。けれどもその苦難の中でなお救いの神を呼び求め祈る時、嘆きは賛美へ変えられます。
神の民のしるしは、苦難の中でなお神が共におられる希望を見出し、その喜びと感謝に生きることにありました。
同様に、主イエスを通して神の救いに与っているキリスト者もまた、絶えず主に祈り続けることを通して、たとえ苦難や逆境の中でも、喜びと感謝が尽きない者、主への賛美の歌が絶えず溢れ出る者へと変えられるのです。
平安に満ちた人生とは、苦難や困難がない人生ではなく、神への信頼からくる喜びと祈りと感謝に満たされた人生であるのです。

ヨハネ福音書に、イエスさまが天に昇られるに際して弟子たちに「祈り」についてさとされたお言葉がございます。
「今までは、あなたがたはわたしの名によって何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16章24節)
主イエスは私たちの罪の赦しであります。祈りは、その主イエスの御名によって創造主なる神との和解をいただき、「父なる神よ」と、願い求めることができるのです。
イエスさまは「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」とおっしゃいます。
そのようにその後弟子たちは主イエスの御名によって祈り求め、遂に聖霊はお降りになりました。今も主イエスの御名によって絶えず捧げ続ける祈りのうちに聖霊がお働きになられ、喜びと感謝へと私たちを導いてくださるのです。

ですから、使徒パウロはまず、「霊の火を消してはならない」と記します。
はじめに申しましたように、今日のところは主イエスの来臨に備える信徒としての日々の生き方、そのありようが書かれていますが。その主の来臨に備える信徒の生き方、その姿勢についてイエスさまは、花婿を待つ「10人のおとめ」のたとえ話をなさいました。花嫁の家で開かれる婚礼にいつ花婿がやって来るかわからない。花嫁のおそらく友人であった10人のおとめたちはともし火を灯して花婿を待ちます。そして遂に花婿が訪れようとした時、5人はともし火の油を備えていたので無事に迎え出ることができましたが、他の5人は油を備えていなかったので買いに行っている間に花婿は到着し、婚礼の場から締め出されてしまうのです。備えの油を持っている否かは大違いです。備えの油、それは、日々絶え間ない祈りのうちにお働きくださる聖霊です。その霊の灯は「私と主との救いのしるし、人のものと代用ができない」のです。教会にいるときだけでなく、日常の生活において霊的、信仰的に目覚めておくことの大切さが物語られています。

② 「愛をもっていつも善を行うよう努めなさい」
次に、パウロは「預言を軽んじてはならない」と記しています。
預言とは何でしょうか。それは将来起きることを言い当てるようなことではありません。
神より預かった言葉が預言です。聖書教育ではそれを「共同体を建て上げる言葉の業」と言い表していますが。
コリント一14章1節で、パウロは「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と記していますように、預言も又、神さまから受けた「愛」によって建て上げられていくための信仰の賜物であるのです。
先の21節には「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」とありますが。
これはパウロがフィリピ1章9節以降で、「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」と言っているように、やはり主を信じて生きる私たちが、「愛によって建て上げられていく」勧めなのです。
この「良いものを大事にしなさい」ということについては、12節~15節に具体的な勧めがなされていますので、もう一度お読みしたいと思います。(朗読)
ここでのキーワードは、「主に結ばれた者として」「愛をもって」すべてを行うということです。
それは、共同体の間、教会の信徒間だけでなく「すべての人にも、いつも善を行うよう努めなさい」と、勧めがなされています。

先週の祈祷会の聖書の学びの時に、新聞のコラム「窓」~机の上「どうぞ」の輪~コピーしたもののお裾分け頂きましたので、ご紹介します。
南小倉教会の牧師さんが、「旧知のパン屋さんの店主からの贈り物として届けられた菓子パンや調理パンが食べきれず、折り畳みのテーブルを教会の玄関先に出して、「ご自由にお持ち帰りください」と張り紙をした。その次の日のお昼には、友人一家が今度は新鮮なタケノコを持ってきてくれたので、テーブルに数本おいた。その夕方には、新鮮な玉ねぎがどっさりとおかれていた。差出人不明のお裾分けに驚き、喜んだ牧師さんは写真入りでフェイスブックに投稿した。「まるで『どうぞのいす』だ」という反応がいくつも寄せられた。有名な絵本のタイトルなのだという。(中略)ちまたではマスクの買い占めが起き、トイレットペーパーの品薄状態が続く。なのに、このテーブルの上ではささやかな品薄が増えたり減ったり。コロナ禍で人間同士は触れ合えなくても、モノを介してつながれる。そう確信した牧師さんは絵本をヒントに「どうぞのつくえ」と名付けて、教会の活動として続けようと提案して呼びかけた。「誰かが助かりそうなものや喜びそうなものを一つか二つ、持ってきてください。そして、欲しいものや要るものがある人は、どうぞ自由にお持ち帰りを」。すると日持ちする食品が続々と寄せられた。手作りマスクや洗剤などの日用品も加わり、折り紙のアマエビも数日後に消えた。「バラバラで小さな善意と感謝の交換が、なんとも人間らしくてうれしくて」というこの牧師さんが、一番幸せなのかもしれない。」(一部割愛)
読んでいて、ほっこりとさせられました。

このコロナ禍の状況において、人は不安や恐れの感情に振りまわされると時に攻撃的になり、心ない差別や排除、暴力へとエスカレートしています。又、マスクやトイレットペーパーの買い占めなども起こりました。その一方で人を思いやる祈り、励まし、行動が日ごとのニュースになりました。
使徒パウロの「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間、教会の信徒間でも、同様に「すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」との奨めの言葉を心に留めてまいりましょう。合言葉は「喜び・祈り・感謝」です。

③ 「祈りの力と神の信実」
さて、この手紙を結ぶにあたり、パウロはテサロニケの信徒たちのために神にとりなし、祈ります。
「どうか、平和の神御自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように。」
パウロが書いた書簡には「平和の神」という表現を多く見つけることができます。
それは、血気盛んな若かりし頃、クリスチャンに対して流血の迫害をなしたことが、実は神を迫害するおぞましい罪であったことにパウロは気づかされ、この滅ぶほかない自分が救われるには神の御子、主イエス・キリストの十字架の贖いによる以外ないことをさとり、キリストによる罪の赦しに与りました。
それはまさに、神との和解の道、平和、シャロームが与えられキリストにある平和をパウロ自身が経験したからです。
さらにパウロは「平和の神御自身が、また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように」と祈ります。これは、キリストによって神との和解に与ったクリスチャンが「互いに平和に過ごし、すべての人に対してもいつも善を行うように努める」という、主イエスの来臨に向けた生き方に直結した祈りなのです。

さらに、パウロは24節で「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」とテサロニケの信徒たちを励まし祈っています。
この「お招きになった」は、過去形ではなく、「今も招き続けておられる」と訳す方が適切ですから、私たちも又、その招きに応え続けることが大切です。
又、真実は、原語でピストスとなっていますから、信実や誠実と訳す方が適切ですから、
今も招き続けておられる神は信実なお方ですから、その信実のゆえ確かに主の来臨の完成を果たしてくださる、と確信をもって祈り、励ましているのですね。
どんなにかこのパウロのとりなしの祈りが、テサロニケの信徒たちを力づけたことでしょう。この祈りと確信は私たちにも向けられているのです。

さらに25節では、パウロはテサロニケの信徒たちに「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」というのですが。
このように、私たちキリスト者は、一方通行ではなく相互の祈りによってさらに豊かなものとなり、力を増すのです。なぜなら主体は祈りではなく、それを聞いて私たちの間にお働きくださる神にあるからです。
最後に、パウロは締めくくりの言葉として、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶しなさい。この手紙はすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。」
主の日の礼拝はまさに、この主にある交わりと御言葉を共に聞く大切な場なのです。
今、コロナ禍で握手さえできず、時間も短くして、ソーシャルディスタンスをとらざるを得ない状況ですが。教会はそもそも、信徒の交わりを通して主にある恵みを分かち合っていくからこそ教会なんですね。
パウロはこのテサロニケの信徒たちに宛てた手紙を、一部の指導者やリーダーだけでなく、すべての信徒たちに「読んで聞かせるように」強く命じました。例外なくすべての人たちに読み聞かせて、信仰の共有、喜び・祈り・感謝を共にしてほしい、とパウロは強く願ったのです。
主の日の礼拝はまさに、この主にある交わりと、パウロが強く命じていますように、御言葉をすべての兄弟姉妹と共に聞く大切な場なのです。それが疎かになってしまうと信仰の土台が揺らぎ、生活のリズムまで崩れてしまいかねません。
確かに、現在安全や感染予防として難しくなっています。けれども、それでも、主にあって「喜び、祈り、感謝」できることが私たちには有り余るほどあります。こうして集まり、主と共に、又皆さんと一緒に礼拝を捧げることができる喜びは何よりも代えがたい恵みであります。
コロナ禍において、2か月間教会に集うことができませんでしたが、礼拝プログラムと週報、宣教原稿をメールやファックス、又、初めての試みでしたが、礼拝の音声も配信することができるようになったことは、今後も教会の礼拝に集いたくとも集うことが困難な方と、恵みを共に分かち合える機会になったように思えます。

本日は神学校週間の最終日です。将来牧師として主の御言葉のご用のために立てられていく神学生と、その信仰と学びの訓練の場である神学校をおぼえて、神にとりなし、祈ってまいりましょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」との、お言葉をもって主が再び来られる日に向け一日一日を、主イエスの愛と平和に互いに生かされつつ、私たちも又ここからそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。

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