日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

柔和なキリスト、ろばの子に乗って

2021-02-28 12:15:14 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ21章1-11節  

宣教音声→https://drive.google.com/file/d/1J_0uoOi_n_QSQoJI-ldJNdqh5JO0cGJI/view?usp=drivesdk

緊急事態宣言が本日迄となり、今週の水曜日の祈祷会から集会を開始します。次週7日は主日礼拝がもたれます。

 

本日は受難節・レントの第二週としてマタイ21章のイエスさまのエルサレム入城の箇所から御言葉に聞いていきたいと思います。

まず、そのエルサレムへの入城に際して、イエスさまは二人の弟子に、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろば、正確には雌ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入りようなのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と言われます。

この2人の弟子たちが誰であったのかわかりませんが。彼らがイエスさまの言われたとおりそこに向かいますと、確かにそこにろばと子ろばがおりましたので、彼らはイエスさまのところにその2頭のろばを引いてきます。彼らが服をろばの背にかけますと、イエスさまはその子ろばにお乗りになって、新しい王が就任する時と同じようにエルサレムの都の門から入城なさるのです。

それは、まさに旧約時代の預言者ゼカリヤを通して語られた、ゼカリヤ書9章9節「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」というその預言が実現するためであったと、言うのであります。

 

そのイエスさまのお姿は勇ましい軍馬に乗り、力を誇示するのではなく、労働や奉仕をするために用いられていたろば、しかもその子ろばに乗られてエルサレムに入城されます。子ろばのかわいらしさとイエスさまの人と同じ高さのまなざしを想像するだけで、ほんわかするような思いがいたします。けれども、来るべき王、メシアは武力や権力を奮って国を奪回なさるというのではなく、「柔和な方」としておいでになる。それは人の思いにもよらない神のご計画でありました。

この「柔和」については、単に穏やかさや優しさを意味しているのではありません。

先週のおさらいになりますが。イエスさまの有名なお言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11章28-29節)の、この「柔和で謙遜な者」とは、低みにおかれ、苦しみを加えられている者というのが元々の意味なのです。イエスさまが柔和なお姿でいらっしゃった。それは、ご自身が神の国到来のために自ら低みにおかれ苦しみを受けて下さるためにおいでになった、ということが表されているのです。

イザヤ書53章の苦難の僕にも記されてあるとおり、イエスさまが担ったのはわたしたちの病、イエスさまが負ったのはわたしたちの痛み、イエスさまが刺しぬかれたのはわたしたちの背きのため、イエスさまが打ち砕かれたのはわたしたちの咎のため、イエスさまの受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、イエスさまの受けた傷によって、わたしたちはいやされた、のです。柔和なキリストによって。

 

9節のシオンの娘とは、エルサレムの都であり、ユダヤの民のことを指しますが。

ローマの支配の中にあったとはいえ、ユダヤの指導者や一部の富裕層は、ある意味その傘下にあって安穏とした生活を送っていたのかも知れません。だからイエスさまの入城に不安を抱きます。一方のイエスさまの後を追って来た群衆は、新しい王が力を行使してローマを打ち破り、かつてのダビデ王のようにユダヤ王国の再建をなす力強い王を切望していました。

しかし、神が油そそがれた王、メシアは、預言者ゼカリヤを通して語られた柔和で謙遜お方。「低みにおかれ、苦しみを与えられている者」と軛を共にしてくださるお方なのです。

イエスさまに大きな期待を持ってガリラヤからついて来た人たちは、ロバの子に乗ったイエスさまの都入城に、自分の服や木の枝を敷いて熱狂します。

そういったある意味エキサイティングな状況の中で、弟子たちはどうだったでしょう。21章の前のところを見ますと、弟子のヤコブとヨハネの母が二人を連れてイエスさまにお願いにあがり、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と、裏口工作を企てるんですね。そのことが他の弟子たちにも知れ渡り、この二人のことで弟子たちは腹を立てていたときにイエスさまが現れなさって、一同にこうおっしゃるのです。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

エルサレム入城に軍馬ではなく「荷を負うろば」をお用いになられたイエスさまの使命は、まさに神と人に仕えること。そして、あの十字架で人の罪の身代わりとなってご自分の命をおささげくださる、その主イエスによって神の栄光は顕されるのであります。その事を弟子たちはいつもイエスさまのそばにいながらわかっていませんでした。

 

この「仕える」と訳されているギリシャ語は「ディアコニア」と申します。よく福祉や医療施設などの名前になっているので耳になさった方も多いかもしれません。

主イエスが、罪に滅びることがないように神に執り成し祈られ、飼い主のいない羊のようにさまよう人たち、打ちひしがれている人たちを深く憐れみ、神の国の福音を語り、病人をいやし、悪霊を追い出すために働かれたのは、すべてディアコニア・仕えるためでありました。

イエスさまが、「荷を負うろばの子」を引いて来るように言われた二人の弟子は、イエスさまの右か左かの大臣にという野心を持っていたかどうかわかりませんが。「あなたがたも仕える人になりなさい」ということを、イエスさまは自らお示しになられたように思えるのです。

 

話は変わりますが、先週大阪キリスト教連合会の会合後ある牧師から伺ったお話がとても心に留まりました。それはRodney Stark(ロドニー・スターク)という神学者が社会学的アプローチを加えた著書「The Rise of Christianity」(キリスト教の台頭)といを基に、ある神学者がご講演されたお話をお裾分け頂いたものですが。

初期キリスト教会(古カトリック教会)の少数派キリスト教は紀元後300年間でローマ帝国の国教となり大きく広がっていったわけですが。その大きな理由として、病人や困窮者にキリスト教徒が示した献身的なケアの姿勢、死をも恐れない無私の愛があったというのです。加えて、そうした貧しい人々がたとえ不本意な死を遂げたとしても、丁寧に葬り、その命の尊厳が神のみもとで大切にされていったというのです。 ローマ全土で紀元165年に激しい疫病、天然痘が15年も大流行し猛威をふるうなか、総人口の最大3分の1が亡くなったということです。さらに紀元251年にははしかが全土を襲い1日5000人が死亡し、人びとがばたばた死んでいく状況の中で、もっと恐ろしいことが起こります。それは人間同士をつなぐ絆がずたずたにされ、分断が起り、ゆとりのある人や動ける人はより安全な場所へと逃げ出しますが、病魔に襲われた多くの患者は置き去りにされて死んでいきます。又、病人は家や町から追い出され、路上で死にゆくしかなく、死体は埋葬されずそのまま放置されたと言うのです。       そのような中で、初期のキリスト教徒たちは自分が感染することも恐れず、病人の世話を手厚くしたというのです。しかもそのことは、家族や親せきの枠を超え、またキリスト教徒以外の人々にも行われたということが、当時の文献に記録されているそうです。このためローマ皇帝はじめ地位ある者たちは、家から路上に放り出された患者たちに対して死を恐れず手厚く介抱していくキリスト者たちの姿に衝撃を受けていきます。さらに、その看病によって命が助かった人々の中からキリスト教徒となる人々が多く興されて行くのです。統計によりますと、紀元250年からの100年間に、ローマ帝国内のキリスト者の人口が2%から何と50%と、当時推定されている6000万人の総人口のうち半分の3000万人がキリスト教徒となったということです。

私にこのお話をしてくださった牧師は、私にこうおっしゃいました。

今コロナ禍で人々の持つ恐れや不安が社会を分断し、人と人との関係性を壊し、損ねていることこそ怖い、と。又、初期キリスト教徒の死をも恐れることなく神と人に仕えていったその姿に、当時のローマの皇帝もその神の存在を認める他なかったんですよ、と。

最近私は知ったのですが。コロナ禍でSocial distance「ソーシャルディスタンス」

をとるようにと言われるその言葉は、社会学用語で特定の個人やグループを排除するという意味があるそうです。

今日の聖書の後半の10節のところに、イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ、と記されています。岩波訳は「動転した」と訳されています。まあ、エルサレムの都の人たちは、ダビデの王があの片田舎ナザレの者だなんてあり得ない。噂によれば律法違反の罪人や汚れた病人らと関わりをもち、得体の知れない群衆どもをガリラヤから引き連れ、聖なる神殿に来るとはなんと怖ろしい者か、という排除の思いがこのエルサレムの都の人たちのうちに沸き起こっていたのでしょう。これは現代においても、だれのうちにも時に生じ得る思いなのではないでしょうか。人はだれしも自分が安心できる状況や集団をつくり出したいものです。けれどそれが他者の排除につながっていないか。神の御心はどこにあるのかを、いつも私たちは主イエスのお姿に心を留めなければ、エルサレムの都の人たちと何ら変わりないのです。

本日このレントの時期に、イエスさまのエルサレム入城の箇所から聞いてまいりましたが。「主がお入り用なのです」とのお言葉を聞くとき、この引いてこられた「子ろば」は、柔和な王、真の救い主なるお方をお乗せする私たち、キリスト者なのではないでしょうか。子ろばのように神の前には何も誇れるもの一つない未熟な私。けれども主は、それだから私をお用いになられるのです。

「荷を負う子ろば」、柔和な救い主、キリストをお乗せして、今週も神の国のご計画のために用いて頂きましょう。

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主イエスの招きに応えて

2021-02-21 11:30:24 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ16章13-26節

宣教音声データ https://drive.google.com/file/d/1Olu-canEugY7hZhnXZU90crzQH-MhU07/view?usp=drivesdk

          

今日は主イエスの十字架の苦難を覚える時節、レントに入って最初の主の日を迎えましたが、本日の聖書はレントにまさにふさわしい箇所であります。

 

イエスさまと弟子たち一行はフィリポ・カイザリア地方を訪れました。そこはユダヤの宗教家たちから異邦人との境の地とされており、ローマ皇帝をはじめ、バアルの神々、ギリシャ神話の神々などが祀られてきた多神教と偶像に満ちた地でありました。

そこでイエスさまは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」とお尋ねになります。それに対して弟子たちは口々に「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。それは人々が様々な奇跡の業を行うイエスさまの力を、旧約の預言者たちと重ねて見ていたということでした。

けれどもイエスさまを預言者の一人だと言う者はいても、メシア・救い主であると口にする人はいなかったということであります。民衆にとって救世主と呼べるのは、政治的支配による抑圧から解放してくれる勇ましい指導者でした。

柔和で権威的には見えないイエスさまは、民衆の持つメシアのイメージと大きく違っていたのです。

そこでイエスさまは弟子たちにお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」 

それは民衆や人がどういっているとかではなく、「あなたにとってわたしは何者か」という個人的問いであります。

ところで皆さま方の中にご家族がクリスチャンであるという方もおられるでしょう。

しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか別の信仰をもっていて、自分だけが教会に行きキリストを信じるようになった、という方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントにも満たないと言われています。

日本では異教的な環境、文化の中でキリスト教と出会い、信仰を守ってゆかねばなりません。それはある意味大変なことです。

聖書は世界のベストセラーであり、世界中の人々に読み親しまれている書物であります。

けれどキリスト教圏ではない日本の人がやっと聖書のページを開いても一人ではなかなか読めるものではありませんし、「じゃあ、あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という、まさに聖書の中心的な問いかけに対して、答えを持ちあわせている人は実に少ない、極少数というのが現状ではないでしょうか。

世間がどうこう言っているキリスト教、本や参考書に書かれているような一般的な解説ではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか?」というイエスさまと私との個人的な関係性への問いが、異教的な文化の中で暮らす私たちにも同じように投げかけられています。

 

さて、今日のところではイエスさまのこの問いに対してシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。ペトロは「あなたは救い主であり、生きておられる神の御子であられます」と、そう言い表したのです。

するとイエスさまはペトロに答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

イエスさまはペトロを幸いだと祝福します。しかしこのことを現わしたのはペトロの理解力や知性によるのではなく、天の父によるのだとおっしゃるのです。

ペトロはイエスさまが実際どのような形でメシアとしての御業を成し遂げられるのか、この時点でまだ知るよしもありませんでした。

ペトロもまた、イエスさまがそのうち偉大な力と業でユダヤの民を解放してくださるという期待をもって従っていたのです。

それは次の記述からもわかります。

21節「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることになっていると、弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。

それはあってはならない、メシアであるあなたがそんなことになるなんてありえない、と言うのです。

ところが、イエスさまはそのペテロの方を振り向いて言われます。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず。人間のことを思っている。」

ペトロはこのイエスさまのお言葉にきっと動揺したでしょう。なぜそんなことをおっしゃるのか、わからなかったでしょう。

ペトロはまだイエスさまのお言葉を聞いても、どのようなあり方で御神の救いのご計画が成し遂げられるのか理解できなかったからです。ペテロがそれを知ったのは十字架の後の復活の主イエスと出会ってからです。

ペトロはその時になって初めて、主イエスがメシアとして「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」とお語りになった神のご計画とその御救いを理解できたのです。

今日のところではまだそのことがわからなかったペトロでしたが。しかしイエスさまはペトロの「あなたこそ生ける神の子キリスト」という信仰告白に対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。

あなたは「ペトロ」。それはアラム語で「ケパ」、岩という意味です。

福音書を見ますと、ペトロは岩と呼べるほど不動の人、堂々とした人であったかというと、そうではありませんでした。むしろ、そそっかしく、突飛おしもないような言動もあるいわば人間らしい人でした。そして十字架を前にして、イエスさまを置去りにし、否み、後悔と自責の念にかられ、自分の弱さをさらすほかなかったペトロ。

彼は神の前で如何に自分が不完全なものであるかを思い知らされ、打ち砕かれます。けれど、それだからこそ神の救いの愛と恵みの深さを知り、岩のような信仰、主への愛をもって福音を分かち合う者とされていったのです。

教会はまさしく、神の前に心砕かれた者の群れです。だからこそ、主に救いを見出し、「主イエスこそ生ける神の子、キリスト」と互いに信仰の告白をなすそのような私たちの上に、主は教会を建てられているのです。

私たちの教会堂正面右側の壁面には「定礎 マタイ16章18節」と刻まれてありますが。時は移れども、この主のゆるしと愛を心に刻んでまいりたいものです。

 

さて、本日の箇所には、もう一つ大切なメッセージが語られています。

24節、それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

同じマタイ福音書の10章のところにも、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とのイエスさまのお言葉が記されています。

この「自分の十字架を担う」とは、どういう事でしょうか

イエスさまは、私たちが意識、無意識に拘わらず神と人に対して犯した本来は断罪されなければならない咎や罪を、主イエスが大きな苦しみと痛みを代償にしてゆるし、贖いとってくださった。それが主イエスの十字架です。

この主の十字架によるゆるしと贖いの恵み、その愛を忘れることなく、主イエスに学び、そのお姿に倣って生きる。それが自分の十字架を背負うということではないでしょうか。

 

同じマタイの11章28節以降のお言葉には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。

イエスさまは無条件で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいます。なんとありがたいことでしょう。

しかしイエスさまのくださる休みは、続きをよく読みますと「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。そうするときに与えられるとおっしゃるのです。

軛というのは牛舎を引かせ、畑を耕す際に家畜の首にわたす横木のことですが。2頭いればその首にこの軛をわたして働かせるのです。

何だ軛を負って働くのなら、ちっとも休みにならないと思われるかもしれません。けれども大切なのは、この軛が柔和で謙遜な主イエスとつながれ一緒だということです。

「柔和で謙遜な者」というのは「低みにおかれ、苦しみを与えられている者」という意味です。それは私たちの救いのために咎や罪を負わされ、あざけりと暴力をうけ、十字架にかけられているイエスさまであり、その主イエスが、疲れて、へとへとになって、あるいはどうしようもなく重い問題と状況につぶされそうな私、私たちと軛を共にしていてくださる。生きる労苦を共にしてくださる。

この主の愛の中で私たちは、ほんとうの安息を得ることができるのではないでしょうか。

また、イエスさまのご生涯とそのお姿に学びつつ生きる時、ほんとうの平安、安らぎを受ける私たちではないでしょうか。

今日の「自分の十字架を負って」という御言葉は、単に苦しみを負えとか、我慢しろという根拠のない無理強いではありません。主イエスご自身がその生涯をかけた究極的寄り添い、まさに同伴者なるキリストが私と軛を共にし、十字架を担っていてくださるのです。

 

主のご受難を覚えるこのレントの期間、より深く御神の愛と招きの言葉を覚える平安に満ちた歩みとなりますよう、お祈りいたします。

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来たり給うキリスト

2021-02-14 13:48:04 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ11章2-19節

 

おはようございます。昨夜は宮城県、福島県を中心に震度6強という大変強い地震がありました。負傷者も出ているようですが、大きな被害となりませんようにと祈るばかりです。さて、緊急事態宣言解除が3月7日迄延長となりました。途中で解除となった折は礼拝開始のお知らせをいたしますが。今しばらくこのような形での礼拝が継続されていくことを御理解下さい。

 

バプテスマのヨハネは3章に記されているように、ユダヤの荒れ野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。そして彼のもとにぞくぞくと集まって来て、罪を告白する人々に「悔い改めに導くバプテスマ」を施していました。

しかしヨハネは「自分の後に来られるお方こそ、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っていました。

ヨハネはその後、領主ヘロデが行っていたあらゆる悪事について、率直に神の前によろしくないと苦言を呈したため、捕えられ投獄されてしまいます。

ヨハネはそうした獄中で「キリストのなさったことを聞いた」とあります。ここにわざわざイエスでなく「キリスト」と記されています。

それはヨハネの「来るべき方はイエスよ、あなたなのでしょうか」との問いかけに対する「イエスこそキリスト(メシア)」との宣言であります。さらに「イエスのなさったことこそキリストの証しである」と読むことができるでしょう。

ところがヨハネは獄中でそのイエスさまのなさったことを聞くと、自分の抱いていたキリストのイメージと何ともほど遠く、正面切って悪人を成敗するわけでもない。又、民衆を奮い立たせて社会変革を起こされるようなふうでもありません。

ヨハネは先のマタイ3章13節で「キリストは手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるまで火で焼き払われる」と語り、この世の義人と悪人とを選り分け、正しい裁きを行なって世を正される神の権能を帯びた王、それがヨハネのキリスト像だったようです。けれど、そんな勇ましさとはどこかかけ離れた柔和なイエスさまの噂に、ヨハネはじれったさを覚えていたのでしょうか。その真相を確認するために、自分の弟子たちをイエスさまのもとに送るのです。

そうしてイエスさまのもとに着いた弟子たちはヨハネに言われたとおり「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねます。

するとイエスさまは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と、仰せになります。

「行って、見聞きしていることを伝えなさい」というのは、ヨハネの弟子たちが人の噂ではなく、実際にその目で見、その耳で聞いたこと伝えなさい、ということです。あの人はこんな人だよ、と人から聞いたというのは本当の出会いではありません。又、一面だけで評価することもできません。そのように、神の言葉も単に知識や道徳のように読んでいる限り心に響いて来ないでしょう。一対一で生けるキリストと出会うことが大切ですし、そうして初めて御言葉が私の血肉となる。自分が新しくされていくということが起こってくるのですね。私たち自身も日々主と出会い続ける者でありたいと願うものです。

先ほど招きの詞として読まれたイザヤ書29章18—19節には次のように記されています。「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い。貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」。

それは救い主、キリストの到来によってもたらされる回復の預言であります。

「その日」とは、救いの主、キリストの到来の日を指し、その天の国到来の出来事がイエスさまのお働きによって事実となるのです。その光景を目の当たりしたヨハネの弟子たちに対してイエスさまは言われます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。

この混迷の時代にも思える状況の中で、ともすれば強いリーダーシップや財力、ネームバリューなどなどがもてはやされていますが。天の国の到来はどのような姿で表されたかのかを、さらに聖書から聞いていきたいと思います。

 

さて、ヨハネの弟子たちが帰った後、イエスさまは群衆にバプテスマのヨハネについて次のように話し始められます。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・(そして強調して)はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」。

現代風に言えば、時代や風潮に移り変わるヒーローや裕福な人や権力者や宗教的指導者たちを見るために荒れ野に行ったのかと、、、。

「いや、そうではないだろう。時は移っても決して変わらず、おもねることも、飾りたてることもなく、権力者や指導者に対してもまっすぐに『悔い改めよ。天の国は近づいた』と訴えるバプテスマのヨハネのもとに行ったのではないか」と、おっしゃるのですね。

ところが、イエスさまはその一方でこう言われます。

「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」。

「天の国で最も小さい者」というのは、天使のような存在を指しているのではありません。それはキリストによって天の国が到来したことを信じて生きる人のことを指しているのです。天の国はそういう人たちの交わりです。別の箇所でイエスさまが言われた「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章21節)というその天の国です。

それは何も、信じる人が優れているとか偉大だという事ではなく、主イエスによってもたらされた救いの恵みこそが偉大な神の賜物なのであります。イエスさまは世の力が支配する中で、小さくされた人、弱くされた人、病を抱えた人、罪人とみなされた人と関わりを持たれ、神の愛と祝福を宣言なさいました。それは何か上から目線で、してあげようということではなく、人の弱さ、痛み、苦しみに共感をもって手をおき、祈り、涙する。来たり給うキリスト。救いの主は、世の中にあるだれもが救いと解放を願ってやまないことをご存じであられるお方なのです。この救いの恵みを知る者は、その喜びと感謝をもって生きるでしょう。神の恵みの中で立ち上がって歩みだすでしょう。さらには他者とその幸いを分かち合うまでになるでしょう。

イエスさまはそのような神の国の交わりに生きる人は、ヨハネの時までの律法を守る努力や清めにさえ優る義に生きていると、おっしゃっているのです。

私たちはどうでしょうか。救いの喜び、神の福音が、他者との具体的な分かち合いや行いとなって滲み出てくるような信仰の確信に日々与り続けたいものです。

ここの下りの、「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今(牢獄中)に至るまで、天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうしている」という言葉に思わずギョッとしてしまいますが。

地上における天の国の実現に向けた働きに逆らう力があって、凄まじい迫害があったのです。ヨハネはこの後処刑されます。イエスさまは十字架におかかりになります。教会も今日に至るまで世の力による弾圧が繰り返されてきました。しかしキリストによって到来した天の国は今や世界の至るところに実現され続けています。それは、世の力の何をもってしても奪われることはないのであります。

 

最後に、イエスさまは群衆に向けて「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」と仰せになるのですが。それは、天の国の訪れ、福音の良き知らせに耳をかそうともせず、共に喜ぼうともしない人々の姿を、子供たちが結婚式ごっこや葬儀ごっこといった遊びに誘うわらべ唄にたとえたのです。

「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。一緒にごっこ遊びをやろうと呼びかけたのに、誰ものってこないねえ。一緒に楽しもうという呼びかけの声です。それは、天の国の喜びの時代がキリストの到来、イエスさまがお出で下さったことで実現しているのに、一緒に喜べず無関心で、ただ傍観している人たち。何をやっているんだ、と反目し、力づくでやめさせようとする人たちを、イエスさまはきっと大変残念なお気持ちで見つめていらったのですね。

 

「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(主イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。律法の義にまっすぐに生きた「ヨハネ」にも、天の国の福音をもたらされた「主イエス」にも、又その言葉と御業にいやされ、救われ、回復された人が喜び、神に立ち返っても、それを見ても聞いても、冷めた心で見下している人たち。そういった世相。

 

それにも拘わらず、イエスさまは希望を語られます。

「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。

ヨハネの弟子たちはイエスさまに、「来たるべきお方は、あなたですか」と尋ねましたが。イエスさまはわたしがそれだよと、直接答えられず、何が起こっているのか自分の目で見て体験してみなさい、と言われます。御言葉の力によるいやし。神の愛の招きによる全人的回復。それがイエスさまの答えなのです。

それはヨハネが当初期待した世の力による統治や社会革命ではありません。

旧約時代の預言者ゼカリヤによって示されたとおり、「武力によらず、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって」(4章6節)、神の霊、その御救いによって天の国は打ち立てられるものなのです。

「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。すでに来り給うキリストによって天の国の招きに与った私たちも又、このキリストの正しさの証し人として、感謝と喜びを共に分かち合っていく者とされてまいりましょう。

 

2021/2/14宣教音声→https://drive.google.com/file/d/16sEDWQzdRmaFNDtAK0VxE5eM_NICgLxG/view?usp=drivesdk

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恐れることはない

2021-02-07 10:47:09 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ10章26節~31節 

宣教音声データ→https://drive.google.com/file/d/1J8LB0vNJKJyA9LSV0PrAs8aMGYdrBO1L/view?usp=drivesdk

 

本日は「恐れることはない」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

先週読みましたようにイエスさまは、12人の弟子たちを選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子たちを派遣するにあたり行くべきところ、なすべきことなどをお示しになります。それを聞いていた彼らは、選ばれ遣わされていく高揚感とともに、「よし、イエスさまの弟子としてここはひとつ頑張ろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。

けれどイエスさまは本日の箇所の前のところで、「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と、迫害と苦難の予告をなさいます。

そしてさらに「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方議員に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出され、彼らや異邦人に証しすることになる」と仰せになります。。

しかしここをよく読みますと、イエスさまは弟子たちに対して単に迫害や苦難があるというのではなく、そこで「証しすることになる」とおっしゃっているのです。

皆さんはどうでしょう。主イエスを信じてクリスチャンとなったはいいが、思いがけず身近な人から心無い中傷に遭ったり、非難されたりと、そういう経験をされた方もいらっしゃるかも知れません。私たちがこの世の中で主イエスに聞き従っていこうとする時、そこには多かれ少なかれ摩擦や私たちを信仰から引き離そうとする力が働きます。時にはただイエスさまを信じているだけなのに、そんな理不尽な、と思うようなこともあるかも知れません。けれどもイエスさまは、まっすぐに主なる神に聴き従って生きようとする者にある意味必然的にそういったことが起る、ともおっしゃっているのです。

町内会で、職場で、学校で、そして家族、親族、友人にも、キリストを信じて生きる者であることを意志表明するのは、時に恐れを伴うことがあるかも知れません。又、昨今の状況下において、違った意味で人と接することの不安や恐れもあるかも知れません。

先日、「コロナ禍の教会」というテーマで、牧師会が開かれました。

ある牧師は、「この状況下、人と会話する中で人が見えてきた。その根底にあるのは恐れではないのか。信仰の厚い人が意外にもこういうことを言われるのか。人のことがわかったつもりでいたけれどもわかっていなかった。コロナ禍を通して相互理解を深めていくことの大切さを知らされた」等と、おっしゃっていました。

信仰をもっているとはいえ、人間である以上恐れや不安が湧き上がってくることもある私たちです。

そこでイエスさまは26節「人々を恐れてはならない」と言われます。しかしそこでただ恐れるなというのではなく、一つの大きな希望として「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と、おっしゃいます。

この覆われているもの、隠されているものとは、「神の福音」、「よき知らせ」のことであります。

ヨハネ黙示録はギリシャ語の「アポクリファ」ですが。それは「覆いを取り除く」ということです。イエス・キリストが救いの御業を成し遂げられたことで、覆い隠されていた神の真理とその救いのご計画が明らかにされたということです。イエスさまは、どんなに世の力が働き、封じ込めようとしても、やがて必ず明らかにされ、すべての人に知られるようになる、と希望を語られるのです。

黙示録も非常に厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で主を信じ従っていった信徒たちは、キリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望み、苦難の中でなお福音の証しを立てていったのです。

闇のような時代の中でも、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と、イエスさまが命じられたように、今日に至るまで確かに神の福音は伝えられ続けているのです。

28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、力強いお言葉が語られます。

むろん体が傷つけられたり、ましてや殺されたりなどと考えたくもないことですので、ここを読むと怖い気がいたします。しかしイエスさまがおっしゃるのは「人ではなく、神こそ恐るべきお方である」ということです。むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。

この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実は東エルサレム郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場があったんですね。まあ、そこですべてが灰になるまで焼き尽くされるように、体ばかりでなく魂までも地獄で滅ぼすことのできるものすごい権威ある神こそ恐れよと、イエスさまはおっしゃるのです。

その恐るべき神についてイエスさまはまたおっしゃいます。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本でいえは1円に価するでしょう。雀二羽で1円ですから。一羽の雀の価値といえばその1円の半分というということになり、もはや貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないものを意味しているのです。

しかし、ここが肝心なのですが。「あなたがたの父」はそのように価値の無いように思える存在をご存じでおられ、それどころかその生き死にまでも司っておられる、と言われるのですね。

さらに、あなたがたの天の父は子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっているではないか」と、イエスさまはおっしゃるのであります。

私は今回この箇所を準備しながら大変な驚きと感銘を受けました。

それは聖書教育誌にも書かれていましたが。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」というのは、元の原文では「そのうちの一羽すらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」。「父なし」が元の言葉なんですね。岩波訳聖書ではここを大胆に解釈し、「地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」と脚注がつけられています。そこには父なる神の愛とともに神の独り子イエス・キリスト御自身が十字架の死を通して顕わされた、「主はどこまでも共にいてくださる」というメッセージが要約されています。そこに私は大変感動し、励まされたのです。

「小さい一羽の雀さえそのように取り扱われる。あなたがたはたくさんの雀よりはるかにまさっているではないか。だから恐れるな」。

そのようにイエスさまは弟子たちに、そして今日の時代にあって主に聴き従い、福音に生きる私たち一人ひとりを力強く励まされるのです。

今週は2月11日を迎え、私たちは「思想信条・信教の自由を守る日」として覚えておりますが。このコロナ禍にあっても世界中の国々においてそれが脅かされるような事態が相次いでいます。ものの言いにくい時代になって来たとはいえ、まがりなりにも思想信条の自由、信教の自由は守られていますが。それはこれからも守られ続けねばなりません。

この日本でもキリスト者に対する弾圧や迫害の時代がありました。近いところでは大戦の最中。鎖国の時代にもそれ以前にもずっと迫害は繰り返されたのです。

遠藤周作さんの小説「沈黙」はよく知られていますが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害は、映画化もされ私も観ましたが。何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。

大先輩の司祭が迫害のため棄教した・信仰を棄てたと聞いたロドリゴ(仮名)神父は、その後を追って長崎に向い、村落に隠れていたキリスト者たちから典礼を求められ、それに応えていきます。ところが彼は信仰を貫き務めることで信仰の同胞が過酷な弾圧と処刑に遭うことにこれ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていきます。

その時、踏み絵の銅板のキリストがこうお語りになる声を彼は聞くのです。

「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。彼は踏み絵を踏みます。その後棄教したとされるロドリゴ神父は日本名を名乗りキリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのです。

けれども、最後に映し出された映画のシーンでは、その棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのです。そこにはローマの信徒への手紙9章38-39節に記されていますように、「どんなものも、キリストによって示された神の愛から、引き離すことはできない」ということが、証しされているのですね。「神は共におられた」と、そこに大きな希望を見た思いがいたしました。

神が沈黙しているように思われる時代を経て今、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りを受けて、この地においてもキリストの真理と福音は確かに息づいています。

現在の状況下に生きる私たちも特有な困難があり、時に不安や恐れに萎縮しそうになることもあるかも知れません。けれど主は共にあって、神の福音の確かさと信頼へと招いておられます。

私たちもいのちの言葉に日々養われ、神の福音をたずさえ、それぞれの場において福音を証しするものとされてまいりましょう。

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