日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2022/9/4 主日礼拝式

2022-08-31 15:36:48 | 教会案内

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王の夢を解くダニエル

2022-08-28 17:44:08 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル書2章10~45節 平和月間終日

2章のはじめにあるように、バビロンのネブカドネツァル王はユダヤを支配下においた後、ある夢を見て苦しみ悩みます。あらゆる世の権威と力を掌中に治めた鬨(とき)の王様が夢で悩み苦しんでいたというのですから、彼もまた一人の弱い人間に過ぎなかったということでありましょう。夢というのは深層心理と深い関係があると言われますが。私は子どもの頃によく怖い夢をみたものです。おとなになってからはそういった夢はあまりみなくなりましたが。ただ何か悩み事や苦しい時に夢をみることがありますが。このネブカドネツァル王のみた夢はそういう人の心にあるものの夢ではなく、神から何らかのお示しであることを、王は感じ取ったのであります。

そこで2節「王は命令を出して、占師、祈祷師、まじない師、賢者を呼び出し、自分の夢を説明させようとした」とあります。王は賢者たちに5節「いいか。わたしの命令は絶対だ。もしお前たちがわたしの夢を言い当て、その解釈をしてくれなければ、お前たちの体を八つ裂きにし、お前たちの家も打ち壊す。しかし、もしわたしの夢を言い当て、正しい解釈をしてくれれば、ほうびとして贈り物と大いなる名誉を授けよう。だから、その夢を言い当て、解釈してみよ」と命じます。                         まあそれがどんな夢だったか教えてくれるのなら。「それはこういうことでしょう」と推測で何かいえるかも知れませんが。王は肝心の夢を教えてくれないということですから、それは無茶な命令でした。しかし王としては、その夢までも言い当てる者こそ、本当に神のお告げを語る者と考えたのでしょう。

賢者たちは王に次のように答えます。10節「王様のお求めに応じることのできる者は、この地上にはおりません。大王や支配者の中のだれも、そのようなことを占い師、祈祷師、賢者に求めたことはございません。王様のお求めになることは難しく、これに応じることができるのは、人間と住まいを共になさらぬ神々でございましょう。」

12節「王は激しく怒り、憤慨し、バビロンの知者を皆殺しにするよう命令した。知者を処刑する定めが出されたので、人々はダニエルとその同僚をも殺そうとして探した」というのです。とんだ災難です。
そこで、ダニエルは「バビロンの知者を殺そうと出て来た侍従長アルヨクに思慮深く懸命に応対し」(14節)て、「どうして王様はこのような厳しい命令を出されたのですか(15節)」と尋ねたとあります。剣を帯びている者に対面した時、人はどうするでしょう。ある人は身を守るために応戦するかも知れません。ある人は、大声で助けを呼ぶかも知れません。用心深ければ、剣を買って予め懐に持っている人もいるかも知れません。

けれどダニエルは自分の感情、恐れや不安、怒りにのまれて衝動的言葉や行動に出たりしません。相手が剣を帯びていても、「思慮深く賢明に対応していく」ことを心がけました。それはきっとダニエルがどんな時でも、心の中で常に主なる神と対話をし、神のよしとなさることを尋ね求める人であったからでしょう。「主はなんとおっしゃるか」「主の御心はどうなのか」     
この王の侍従長は、そのようなダニエルの対応に柔軟な姿勢を示し、きちんと事情を説明します。立場は違っても、人間対人間の関係性が生じたということでありましょう。

こうしてダニエルは王へのお目通りがかない、「しばらくの時がいただけますいなら、解釈いたします」と王に願い出ます。それが聞き入れられたのも、何事も神に尋ね求める「思慮深く賢明」なダニエルの誠実な態度があったからでありましょう。

さて、ダニエルは家に帰るとユダヤの同胞のハナンヤ、ミヒャエル、アザルヤに事情を説明します。彼らも又、他のバビロンの賢者ともども殺されるかも知れないのです。
ダニエルは自分の仲間たち、それは同じく神を崇める同胞と共に、「天の神に憐みを願い、その夢の秘密を求めて」祈ったのです。それは正に命懸けの祈りでした。命がけの祈りを共にする信仰の友がいるというのはどんなにか心強いことです。まさにキリストの教会や主の兄弟姉妹の神にある交わりの意義がそこにありますし、そのような関係性をこそ心して築いていきたいものです。

そのようにダニエルら4人が主に請い願って祈りますと、神は夜の幻のうちにその夢の秘密がダニエルに明かされます。
それは、この王の夢というのが紛れもなく神からのものであり、神ご自身が「啓示」として王にお与えになったものでした。
ダニエルはその秘密を明かして下さった「天の神をたたえ」て、こう祈り始めます。
20節「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え/王を退け、王を立て/知者に知恵を、識者に知識を与えられる。奥義と秘儀を現し/闇にひそむものを知り/光は御もとに宿る。わたしの父祖の神よ、感謝と賛美をささげます。知恵と力をわたしに授け/今、願いをかなえ/王の望むことを知らせてくださいました。」
彼は活ける神さまがこの世のすべてのものを治めておられる主であられ、王権や国々の行く末までも司っておられることを深く確信するのです。このダニエルの知恵の源はまさにここにありました。それはバビロンのどんな知者の持てる知識にも勝るものです。旧約聖書の知恵の書と呼ばれる箴言に「主を畏れることは知恵のはじめ/聖なる方を知ることは分別の初め」(1:7)とありますように。何事をなすにしても神を畏れつつ祈り、御言葉によって生きていくところに活ける神の知恵とお働きが体験として与えられるのです。

27節以降で、ダニエルは王に夢の概要とその意味を解き明かすのでありますが、開口一番、王に次のように伝えます。
「王様がお求めになっている秘密の説明(夢とその意味)は、知者、祈祷師、占い師、星占い師にはできません。だが、秘密を明かす天の神がおられ、この神が将来何事を起こるのか、ネブカドネツェル王に知らせてくださったのです。王様の夢、お眠りになっていて頭に浮かんだ幻を申しあげましょう。お休みになって先々のことを思いめぐらしておられた王様に、神は秘密を明かし、将来起こるべきことを知らせようとなさたのです。」
王の見た夢は、バビロンの呪術師たちが信じる偶像の神々とは全く異なる真の神から来たものである、という事です。
ダニエルは王にこうも伝えました。

30節「その秘密がわたしに明かされたのは、命あるものすべてにまさる知恵がわたしにあるからではなく、ただ王様にその解釈を申し上げ、王様が心にある思いをよく理解なさるようにお助けするためだったのです。」
ダニエルは自分に知恵があるからそれが明かされたのではなく、唯、神さまがわたしをお用いになられ、主の御心にある思いをよく理解できるようになさったのだと言うのです。
神さまが示されたのですから、事実そうなのですが。本当に信仰からくる謙遜、神を畏れ敬い生きる人だと、感心するばかりでありますが。

さてこうして、ダニエルは王が見た夢を神のお示しによって解き明かします。
この像は種々の材料によって出来あがっており、頭の部分は純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土で出来ていました。そこへ、一つの人手によらず切り出された石が、その像の足の鉄と陶土の部分を打つと、他の金属で出来ていた腹や腿、胸や腕さら頭もろとも巨像全体を跡形もないまでに砕け散った。そしてその像を打った石は大きな山になって、全地に広がった。
何だかSF映画に出て来そうなかなり迫力のある描写ですが。これを何度も夢に見たなら、さすがのバビロンの王も不安になったというのもうなずけます。
統治下における国と諸国との関係など先々の事を思い巡らしていた王に向けて、活ける神が夢をもって秘密を明かし、将来起こるべきことを知らせようとなさった、とダニエルは言うのです。

次いでダニエルは王が見た夢の意味を明らかにします。
金の頭の部分はバビロン王国(現イラク)で、ダニエルは王に対して「あなたはすべての王で、『天の神はあなたに、国と権威と威力と威光を授け、人間も他の生き物も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、このすべてを治めさせられた」と言います。

そして「後に他の国が興こるが、それはバビロンと王ほどのものではない」と告げます。その銀の胸と腕の部分はメディア王国(現イラン)、後に興る青銅の腹と腿の部分はペルシャ(現トルコ)、鉄のすねや足の部分はマケドニア王国(現ギリシャ)を表しているようですが。それらの国々がバビロン以降の時代に世を統治するということです。しかしギリシャの足指の一部が鉄と陶土でなっていたように、それは一国でありながら争いと分裂があって一つの国となることはできない、ということでありました。

問題はここからです。そういった世の権力争いと分裂の中で、44節「天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく(何だか今の世界の情勢とも重なってくるようですけれども)、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます」とダニエルは明らかにします。
しかしそれが、どういう名前の誰が治める国なのかは語らえません。しかしはっきりと、「この国は永遠に滅びない」。「すべての国というあり様までも打ち滅ぼし、永遠にその主権は続く」というのです。
王は夢で巨大な像をみた後、34節にあるように「山から一つの石が人手によらず(つまり人間の力でない力で)切り出されて、先の巨大な像を打ち砕くのを夢に見ました。巨大な像、つまり一大帝国を築いたあらゆる権力がその石によって砕け、夏の脱穀場のもみ殻のように、風に吹き払われ跡形もなくなったというのですから、まさにおごれる者もひさしからず。地上の国や権力はやがては朽ちていくものだということです。

しかし、その像を打った石は大きな山となり、全地に拡がったというのです。
この石が何を表しているのかダニエルは何も言っていません。唯、それが人による権威ではなく、活ける神によるものであることは明らかです。
私たちはそれが天の神による権威によってお出でになった主の主、王の王メシアなるキリストであると信じる者であります。
ダニエルの夢解きの内容を聞いたバビロンの王は、ひれ伏してダニエルを拝し、献げ物と香を彼に供えさせます。王は次のように宣言します。「あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主。」(47)
ならびもなき鬨(とき)の王ネブカドネツァルにこのように言わせた「神の知恵」。その神の知恵に満たされたダニエル。
「主の祈り」の中にもありますように、「国と力と栄光」は、全世界をすべ治めておられる神さまのものであります。その神さまの御心に従って治めていくことを天の神は王に託されているのです。
また箴言に「主を畏れれば頼るべき砦を得。子らのためには避けどころを得る」(4:26)とあります。夢を見て悩み苦しんでいたバビロンの王は、その真理をさとり、心も落ち着き、安らぎを得たことでしょう。

王はダニエルを高い位につけ・・・バビロンの全州を治めさせ、バビロンの知者すべての上に長官として立てました。ダニエルは王に願って、同じく神を畏れ敬う3人の同僚をバビロン州の行政官に任命してもらいます。
ダニエルはじめ3人の同僚は、バビロンという異教の地においていわば主なる神のスポークスマンとしての役割を負いながら、世の政治的指導者としてその働きを担う者とされたのです。

神ならざるものを神とし、偶像に依り頼んで生きる者の行く末は滅びに向かいますが。
「まことに神々の神、すべての王の主」を畏れ敬って生きる者には、神さまの平安と祝福が伴うのです。王の夢に現れた、いわば神ならざる偶像を打ち砕いた石は大きな山となり、全地に広がっていきます。まことの神、すべての王の主、その威光は今や世界中で告げ広められています。神ならざるものが神のようにおごり高ぶり、様々な金や銀の偶像を神のようにあがめ、すべてに優先させていくようなこの世界この時代にあって、まことの神、すべての王の主を拝し、告げ知らせていく働きは重要であります。それは私たち一人ひとりに与えられた主と共に生きる者の祈りであり、証しであります。

今日は特に、国政に携わり権力と地位のある人たちが、世々に亘って人知を超えた絶対的権威を持つお方の存在を知り、畏れをもってその職務を遂行されるよう、執り成り祈りましょう。神が創られたすべての命と尊厳を知り、それを守るように。そしてダニエルが思慮深く賢明な態度で対等な人間として対話していったように、諸国との良好な関係が築かれるよう務めることができますよう、祈り続けてまいりましょう。
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2022年8月28日 主日礼拝式

2022-08-24 13:04:06 | 教会案内

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ダニエルの選び取りと、神の御計らい

2022-08-21 13:46:09 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル書1章1-21節 

今月は平和月間として「平和」「いのち」の尊さを覚え祈りつつ過ごしていますが。                                先日は関西地方教会連合の8・15平和祈祷集会が行われました。講師のM牧師より軍事クーデターから1年半が経つミャンマーの報告をお聞きしました。ミャンマーの人口は5200万人、135の民族からなるそうです(2014年データ)。そのうちキリスト教徒は9%と日本よりはるかに多く、仏教徒は80%だそうです。ミャンマーにキリスト教が布教されから今年で200年となるそうですが。その始めに聖書の飜訳がされていく過程で何とお坊さんたちの多大な協力があったというお話を聞いて驚きました。現在国軍のクーデター以来、一般市民が拘束されたり、不当な暴力を受けて命が軽んじられる状況がずっと続いているとのことでした。そうした中、ミャンマーのキリスト教会はこの人の命が蔑ろにされている状況に対して「声明文」を出し、逃れてきた人たちを聖なる教会で保護しているそうですが。国軍による教会への武力的な攻撃はじめ、中には殺害された神父、司祭や牧師、信徒の方がたもおられるとの事です。仏教寺院や仏教徒の人たちも同様の迫害を受けているとのことでした。又、多くの市民が犠牲となってていく中で、親、養育者を亡くした子どもたちが増え、廃墟と化した路上で傷つき、血を流して泣いている子どもたちの写真が送られてきていましたが。もはや誰も助けることができず、治療も受けられず、路頭に迷うしかないのかというような様子がいたたまれません。M牧師は日本で牧会されている教会学校の子どもたちに向けて、「今みなさんは家があり、家族がおり、食べることができ、生活することができているけれども、今このような子どもたちがいるよ」とまっすぐに伝えると、教会の子どもたちは真剣な眼差しで話を聞いているとおっしゃっていました。M牧師は「武器を持って国民を守るべき者が、なぜ武器で国民を殺し続けているのだろうか?権力をもって国民への弾圧を続けているのだろうか?私たちには理解できません」と話されました。政治犯支援協会の調査によると8月12日現在、軍事クーデター以降、死者は2185人、連行された人は15091人、拘束中の人は11994人、国際連合難民高等弁館事務所の調査によると7月末現在、国内外には人口の約2割の120万人以上が難民として国軍の弾圧から逃れて避難生活を余儀なくされているとのことです。
ご講演の終りに詩編85編9-10節の「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように、主を畏れる人に救いは近く栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」との御言葉を読まれて、私たちに以下の3つ祈りの課題を提示されました。
  1. 苦しみと恐れの中にいる人々の日常に平和と自由が再び早期に訪れるように。
  2. 痛みと悲しみに覆われている人々の家庭に平安と慰めが与えられますように。
  3. 不当に拘束されている人々の叫びを心に受け留めて、希望と勇気が注がれますように。
に。どうか皆さまのお祈りに加えてください。

今日から6週に亘りダニエル書から御言葉を聞いていきます。本日は1章から「ダニエルの選び取りと、神の御計らい」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。
ダニエル書は、神の選びの民とされたユダヤの民が、背信から生じる罪のためにバビロンによって滅ぼされ、バビロンで捕囚とされた時代のことをあつかっていますが。実際にこの書が編纂されたのは、それから約400年後のシリアがイスラエルを支配し、激しい迫害を加え、ユダヤ人とその文化や宗教をギリシャに同化させていった時でした。その時代のユダヤ人はバビロン捕囚とされた時と同様、その尊厳とアイデンティティーが損なわれるほどの厳しい迫害にさらされてったのです。ダニエル書はそのような主の民、ユダヤの人々に神への信仰と励まし、希望を与えた書物なのです。それは又、この書物が今を生きる私たちにとりましても決して単なる遠い過去のものがたりではないということです。先ほどのマウマウタン牧師からのミャンマーの現状についての報告を紹介させて頂きました。それはミャンマーばかりでなく、先には香港、次いでウクライナ、また少数民族の人たち、まだ私たちの知らない地においても、神さまがお造りになられた人の尊厳が踏みにじられている現状であります。

今日はダニエル書1章より、ダニエルを含めた4人の主の勇者たちの生き方から、私たちも又、今の世界にあって如何に生きていくかという聖書のメッセージを聴いていきたいと思います。
彼らは王ネブカデネザルが捕囚として連行してきたイスラエルの王族と貴族の中から選ばれた、秀でた少年たちでありました。王は優れた少年を選び、3年間バビロンの言語を教えこませ、王が食べる宮廷料理を食べさせて宮廷教育を施し養成させました。これは彼らを高い地位につかせるためでしたが、それは又バビロンの国仕える者として教育された彼らが捕囚であるイスラエルの民をよりよくコントロールできるようにという政策的意図があったようです。彼ら4人はそれぞれバビロン名に改名されますが。改名はその民にイスラエルの民であることをやめさせ、バビロンに同化することを強要するものでした。同化は権力をもつ側によってなされるのであります。日本でもかつて大東和共栄圏を名目に侵略戦争をしました。そこで近隣アジア諸国の人たちを強制連行、強制労働、皇国史観の強要、日本語の強要、神社参拝の強要、さらに、氏名を日本名に改名させるといった、まさにその民族と個人の尊厳とアイデンティティーを奪う同化政策がとられました。同化政策はその人がその人であること、その人らしく生きる権利を奪い踏みにじるものです。それが戦争であり、侵略であります。2度とこのような神の御前に恥ずべき悪行が繰り返されることがないように願い祈ります。

さて、ダニエルら4人の少年たちに王から贅沢な宮廷料理とぶどう酒が出された時のことです。ダニエルは「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」(8節)、王の侍従長に「自分を汚すようなことはさせないでほしい」(8節)と願いでます。
最高権力者の王さまが出されたものを断るのですから、無礼な事とお咎めを受けるかも知れません。ダニエルらは相当な勇気がいったではないでしょうか。しかし彼らは人を、ではなく神を畏れ敬うのです。それにしても、何で食べ物ぐらいのことで、と思われる方もおられるでしょう。けれどもそれは、神から受けた律法に定められた神の祝福に与るためのものであり、イスラエル・ユダヤ民族である彼らにとって「神の民として生きる」ために守るべき重要な事柄であったのです。
今でもユダヤ人(教徒)は血を含んだレアステーキやぶた肉はその規定に従い口にしません。かつてバビロンでは肉を食べる前に偶像にそれを捧げ、その後にそのところからとって食べていましたから、ダニエルらにとってはなおさらのことでした。それは彼らが彼らであるための大事な要素の1つなのです。出された料理をいただくことは礼儀だという考えもあるでしょう。しかしダニエルらは力をもつ者のいいなりになって身を汚して、自分の出世や栄誉を得ることよりも、神の民としての自らの尊厳や存在意義を失うわけにはいかないと踏みとどまることを選ぶのです。目の前のおいしそうな食事を前に食欲にかまけて神の法に反するなら、バビロンのもつ異教的な価値観や習俗慣習に呑みこまれてしまうことになると察知し、それを拒否したのです。そのよう彼らは神の御前で誠実に生きる道を選び取ります。

一方、慌てたのは王の侍従長です。ダニエルの言葉に大変困惑し、「同じ年頃の少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、まあ当然ともいえる言葉が返ってきます。
ダニエルらも侍従長の立場をわかっていたでしょうが、この事に関してはゆずることはできません。
では、どうしたか。そこが今日の聖書の大きな一つのポイントです。ダニエルはここで、侍従長が自分たち4人のために定めたに世話係にある提案をします。
それは「10日の間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせて試してください」「その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考え通りにしてください」というものでした。
ダニエルがこの窮地においても冷静な判断をすることができたのは、彼が「神の御計らい」によって「神からの知識と才能の恵み」を賜っていたからです。それは、人にはできないが、すべての主である神にはおできにはなるという信仰です。

そうして10日間試した結果、「彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった」というのです。この「どの少年よりも」というのは、ただ自分のために飲み食いしていた人たちとも言えます。それは単に肉体的にがっちりとなったというのでなく、魂の健やかさがあった。霊性がゆたかで生気が満ちあふれていた。そのような姿であったように想像します。

17節「この4人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」とございます。
又、20節「王は知恵と理解力を要する事柄があれば彼らに意見を求めたが、彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れていたと」とございます。
まあ古今東西。権力者もその地位にのぼりつめますと、自己保身のためにあの手この手とあやしげな口寄せや占師に求めるということがあるようで、最近の日本でも似たようなことがあるようですが。かの大バビロニア帝国のネブカドネツアル王にも、おかかえの祈祷師や占師がいて、それが国策に大きな影響を及ぼしていたということですね。
箴言には「主(神)を畏れることは知恵の初め」(1章7節)とございますように、心から神を畏れ敬うダニエルたちを神はこのような形でお用いなさるのです。神に信頼して生きる者に世の知恵でなく、神の知恵が備えられるのです。それはあらゆる危機や誘惑から救い出してくださる神さま恵みの賜物であります。

最後に1つ日本の歴史を教訓として学びたいエピソードをご紹介して本日の宣教を閉じます。
かつて沖縄は琉球王国という独立した国でありましたが。日本の支配下となり同化を強いられる中で、かの戦争に至ります。その時代アメリカ軍は鬼畜であり、その捕虜になるぐらいならいさぎよく日本人として死を選ぶべし、とまで軍国教育がなされたのでした。これはあの沖縄戦の時に二つのガマ(洞窟)で起こった対照的な出来事についてでありますが。
読谷村にある一つはチビチリガマとよばれる洞窟。ここはいわゆる「集団自決」が行なわれたガマです。この洞窟には住民約140人が避難していましたが。米軍が上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし、民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、住民たちの指導者の「自決せよ」との言葉に、鎌や包丁、看護師が持っていた劇薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられ、暗闇の洞窟の中で83人が死亡、その6割が18歳以下の子供で、中には乳幼児もいたということです。
もう一つも読谷村のシムクガマとよばれる洞窟です。ここには約1000人が避難していました。米軍が投降を呼びかけたところ、洞窟内は一時パニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの2人の老人が、「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができたのです。その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されたということです。この対照的な二つのガマは1キロも離れていなかったのです。避難住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。
この2つの大きな異なる結果は、日本軍による教宣活動によるものです。琉球のことばを許すなと命じ、日本人(ヤマト)として働くこと戦うことを強い、神ならざるものを崇拝させてお国(ヤマト)への同化政策が巧妙になされていきました。そして鬼畜米軍の捕虜になるくらいならお国のために死ぬことが美徳として洗脳されていった時、沖縄の人が沖縄の人として生きることを否定され、その島の宝である多くの命が失われていったのです。チビチリガマの出来事然りです。片やシムクガマの出来事は、出会いと経験から間違ったデマや教宣に惑わされなかった2人の人、いうならば日本軍の同化政策に流されなかった人たちの真実と信念の言葉と行動によって、ガマの人たちは一命を取り止めました。何か今日のダニエルたち4人の少年たちの姿がそこに重なってくる思いですが。
私が私であることの存在意義を大事に守っていく。それと同時に、誰もがその人らしく生きていける命の尊厳を大切にする社会の実現をキリストの平和のうちに祈り、執り成してまいりましょう。
ダニエル書10書19節の御言葉を読んで本日のメッセージを閉じます。
「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」
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2020年8月21日 主日礼拝 平和月間

2022-08-17 14:50:05 | 教会案内

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幸いだ、平和を実現する人たち

2022-08-14 16:10:07 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ5章9節 平和

 さて、明日は終戦から77年目となる8月15日を迎えます。様々な記念式典が予定されているようですが。私たちのバプテスト関西地方連合では、8・15平和祈祷集会が行われます。講師はミャンマーご出身で鹿児島で20年牧会を続けておられるマウマウタン牧師が、「平和の訪れを望み求める-叫びの声を心に留めて-」という題でお話してくださいます。とりわけ現在のミャンマーの状況についてのご報告があるかと思います。この集会はオンライン形式で行われます。お時間の許す方はご参加ください。

本日はその8月15日に先立ち、特に平和を願い祈る礼拝を主にお捧げしております。先に、日本バプテスト連盟の総会で採択されました「平和に関する信仰宣言:平和宣言」をご一緒に朗読しました。この平和宣言が採択されてから、このかたもう20年になろうとしています。その間も世界のいたる所で民族と民族の紛争、国と国の戦争が起こっています。時を同じくしてロシアとウクライナ、ミャンマーの軍事政権による抑圧、イスラエルとパレスチナ、台湾への威嚇をはじめ、差別や暴力、へイトが世界のいたる所で絶え間なく繰り返されています。こうした世界情勢について関心を持ち、祈りに覚えていくことは大切なことであります。それは神がお造りになったこの世界と私たちすべての命の問題であるからです。
先に読まれました「平和宣言」は私たちの平和に向けた思いと態度を表しています。私が神の前にどう生きるか。神の恵みと憐みによって罪許された私がどう神と人を愛し、仕えて生きていくかということが、私たちの平和に向けた祈りの根底にあるのです。

今日の礼拝の宣教にあたりマタイ福音書5章9節の御言葉が読まれました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」
この5章~7章まではイエスさまが山に登られて群衆に向けて語られた山上の説教と言われる箇所です。イエスさは、ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、群衆のありとあらゆる病気や患いをいやされました。その評判がシリア中にまで広がり、人々がイエスさまのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、イエスさまは、これらの人々をいやされました。4章25節には「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来てイエスさまに従った、とあります。ただ単に追っかけて来たのではなく、イエスさま従った。それは、イエスさまに従ったのが12弟子たちばかりではなく、数えきれない人たちがイエスさまに従っていったということであります。
この時代はローマ帝国がユダヤを統治していました。ユダヤ人だけでなく、パレスチナ地方の人々も又抑圧され、苦しめられていました。多くの人々が日々の生活の様々な悩みや生きづらさの中で、傷つき、弱り、疲れ果て、心萎えてしまうような情況があったのです。

それは、もはや神に祈り求める以外にない人々であります。イエスさまはまさにこの群衆を見て、山に登られました。
5章1節に「弟子たちが近くに寄って来た」とあります。それはいわゆる12弟子だけのことだけでなく、先ほども申しました、イエスさまに従った老若男女の姿であります。
そのような人々の思いを受けとめつつ、イエスさまは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」、又「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」、さらに「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と語られます。いや、正確にはイエスさまは宣言なさっているのです。それは、この原文の直訳は「幸いだ、平和を実現する人たち」であって、神さまの「幸いだ」という宣言がまず語られているのです。この神さまがなさる宣言は真理であります。

「幸いだ、平和を実現する人たち。」ここに神さまは人が人として幸いなる道を歩んでいくことを決して諦めず、愛し続け、御救いに招き入れようとしてくださる祝福が語られているのです。まず与えられた神の宣言、その真理の道に如何に応えて生きるか。そこが私たちの側にとって肝心なことなのです。

私たちが平和を実現しようと取り組んで行こうとするとき、様々な問題にぶち当たり、それがなかなかたちで成っていかない現実を突きつけられます。自分たちがしていることが無駄で無意味に思えるような時があります。今のロシアとウクライナの戦争も祈れど祈れど事態は長期化し混迷の中、益々平和が遠ざかっているように思えますが。そういう状況だからこそ、神の「幸いだ」との宣言、「平和を実現する人々」との招きに聴き従う者、すなわち「その人たちは、神の子と呼ばれる」者として生きるのです。

8月9日、77年前に本来は私の生まれ故郷でありました旧小倉市(現北九州市)に原子爆弾が落とされる予定でしたが。その日の上空が曇っていたため次の候補地の長崎市内に原爆が投下されました。もし小倉に原爆が投下されていたら私の祖母祖父、母父も、私もこの世に命を授かったどうか分かりません。それだけにこの長崎の原爆投下は毎年特別な思いをもって祈りを合わせてきました。今年も長崎平和記念式典が行われたのをネット配信で観ることができました。その式典で特に印象的だったのは被爆者の方々がご高齢になっていく中、式典の司会進行はじめ合唱、それに会場には中学高校生といった若い世代の姿が多く見られたということです。それは大きな希望でした。前の世代だけでこの恒久平和に向けてたビジョンを終わらせてはならない。平和の旗印を掲げ続けていかなければならないという、被爆を体験された広島、長崎なればこその平和の実現に向けた切なる訴えと祈りを感じました。
「幸いだ、平和を実現する人たち、その人たちは神の子と呼ばれる」との主の御言葉がどこか響いてきた思いでした。

イエスさまは、「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)とお語りになりました。あの十字架の苦難と死、暗闇の勢力を前にして、神の勝利を宣言なさったイエスさまは、実に復活をとおしてすべての世の悪の勢力に勝利され、神の国の実現を先取りなさったのです。
その神の国の完成については、ほど遠く思えるかも知れませんが。イエスさまは既に世の力、悪の勢力に勝利しておられることを信じ、私たちもうみつかれることなく、神の国の完成に向け、平和を実現していく「神の子」とされて、主の御業に参与してまいりたいと思います。

最後に、今日の御言葉であります、神の宣言「幸い」はギリシャ語で「マカリオス」は、至福、最高の幸福を表します。誰も、その1度限りの人生を幸福に満たされて送りたい、と願わない人などいないでしょう。シャローム、平和は、その実現にうみつかれることなく努め続けていく人たちのうちに、すでに至福の幸福を神さまがお与えくだっているのです。主イエスが来臨されるとき、神さまの真の平和、シャロームが完成されることを信じ望み、私たちも地上にある限り、神の子としてその使命を果たしていくことができるように、祈り求めてまいりましょう。

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2022/8/14 主日礼拝式

2022-08-10 10:16:51 | 教会案内

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神の武具を身に着けなさい

2022-08-07 17:45:12 | メッセージ
礼拝宣教 エフェソ6章10~20節

今日は8月最初の礼拝ですが、8月は平和を覚えて祈る平和月間として過ごしてまいります。昨日は人類史上初めて広島に原子爆弾が投下されてから77年目となる平和記念式典が行われました。広島市長は平和宣言の中で、「ロシアによるウクライナ侵攻は、罪のない市民の命や日常を奪っています。世界中で核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増しています。1945年8月6日の地獄絵図の再現を許さないよう、一刻も早く全ての核のボタンを無用なものにしなくてはなりません。ロシアの文豪トルストイの『他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない』という言葉をかみしめるべきです」と訴えられました。何とその同日、ロシアが支配するウクライナ最大のザボロジエ原発が砲撃されるという恐るべき事態が起こりました。ロシアとウクライナは双方を非難しているとのことですが。放射能漏れはないのか非常に心配です。ロシアとウクライナの戦争が長期化しています。この間、国連はじめどこも戦争を止められないことに無力さを覚えます。ウクライナの難民数は500万人を超えて900万人とも伝える報道もあります。戦争がすでに長期化し消耗戦となり、世界規模で平和が脅かされるような情況もあります。経済危機もさらに高まってきています。それは温暖化の加速と並行して世界的な食糧難と価格上昇を作り、一日の食事さえままならない今まさに命の危機に直面している人がいたるところにおられます。それは決して人ごとではありません。神がお造りになった世界はすべてつながっています。このような「百害あって一利もない」戦争が一刻も早く終息するようにと願うばかりです。また、ウクライナの難民支援のための第二次募金を募っております。日本バプテスト連盟が集約し世界バプテスト連盟(BWA)に送金され、用いられています。私たちも共に覚え、祈り続けてまいりましょう。
                                          さて、7月から礼拝で「エフェソの信徒への手紙」を読んできましたが、本日は最後の6章から御言葉を聞いていきます。祈祷会の聖書の学びの時に、エフェソ1章の書き出しのところの2節に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにありますように」とあり、そして最後の6章の終わりのところにも23節にも「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから。兄弟たちにあるように」とあり、そのどちらにも「平和」という言葉が書き記されていることに気がつきました、とある方が言われました。初めと終わりに共通した「平和」の挨拶に始まり「平和」への祈りで閉じられるこのエフェソの信徒への手紙の中心的なテーマは、この語りかけられている「平和」にあるということができるでしょう。                                 

平和といえば地上で戦争が行われていない状態がまず思い浮かびますが。以前にもお話したように、平和はギリシャ語でエイレネー、ヘブル語でシャロームですが。それは神との壊れた関係性、人と人との平和の回復を意味します。地上の平和と祝福は全てそこから回復されるのです。創造主である神がご自分にかたどってお造りになったのが本来の人であり、神の似姿として人は造られたのです。神は人とともにおられ、人は平和・平安、シャロームのうちに生きていました。ところが、創世記3章にありますように、最初の人アダムとエバは神の前から身を隠しました。これを聖書では罪、神に対して的外れの状態を表すのです。それは、神が「それをしてはならない。すれば死ぬことになるから」とおっしゃたことをしてしまったからです。神の愛と信頼の関係をアダムとエバは損なったのです。罪を犯すと人は神の前に出ることができなくなるのです。神との関係性が壊れていますので、アダムとエバのうちには平安がなく、たえず神の前から隠れ、自分の都合の悪いことは誤魔化したり人のせいにしました。しかしそれは人、誰もが抱えている性質なのであります。「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられる神。その愛に背き続けて神の前から身を隠し、自分の都合の悪いことは誤魔化そうとする。その心には絶えず不安や恐れがつきまとい平安がありません。平和が損なわれているのです。この神さまとの信頼回復こそが真の平安をもたらすのです。神さまが自分の何もかもをご存じであるということが、呪いではなく、希望の喜びとなるのです。それはどんなに幸いなことでしょうか。                   
                                                            さて、今日の箇所の小見出しに「悪と戦え」とつけられていますが。悪と戦うことによって神さまとの平和、平安をいただくことができるというその意味をご一緒に読み取っていきたいと思います。

まずパウロは11-12節で次のように書き記しています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」            
この「悪と戦え」とは、悪いものに対して力によって戦い挑めとか、正義を振りかざし力づくで屈服させるということではありません。敵対心、憎悪、恨みといった血肉の戦いは暴力や暴言となります。それを受けた人は恨みや憎しみの感情をもち悪循環の連鎖が起こっていきます。戦争や民族紛争はそうして血肉の連鎖による分裂と分断を生じさせているのです。悪魔の作略とはまさに人間同士を血肉の争いによって分裂させ、破壊することにあります。

パウロは「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではない」と言い、13節で「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と勧めます。                         悪魔の策略に対抗して神の前に生きるための秘策、その神の武具とは「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音を告げる準備の履物」「信仰の盾」「救いの兜」、そして「霊の剣・神の言葉」です。       

「真理」とは、人となり世に現れて下さった神の子キリスト、キリストによって現された神の愛と救いの福音です。それをしっかりと腰に巻く。どんな時も帯のように身に結びつけていることが肝心なのです。                 

次の「胸当て」ですが。命と直結する心臓や内臓を守るための護身用の装具のことです。そして正義はキリストが十字架の贖いによって現わされた神さまの正しさ、義を示します。この正義の胸当てで覆い保護すれば、どんな悪の策略による攻撃にあっても身を守ることができます。神の義、正しさこそ人を守り生かし得る命の武具なのです。

次いで「平和の福音を告げる準備の履物」ですが。「平和の福音」は十字架を通して拓かれた神との和解、人と人との和解の道です。それが平和の福音です。神の前から身を隠すほかないような罪深い人間、滅ぶほかないような人間の罪の裁きを神の御子が身代わりになって完全に贖い、神と私たちの分裂し壊れた関係性を修復してくださったそのキリストの平和の福音です。この和解は人と人との和解をもたらします。人間関係の敵対や憎悪をもしずめ、ともに神の平和の道を歩む履物として、内に外に起こる悪との戦いに臨むのです。

そして「信仰の盾」ですが。ローマ兵は長方形の大きな盾を使いました。信仰は神の愛と救いの力に頼り切ることです。それを盾として手に取るなら、たとえ悪魔的な火のついた矢が飛んできたとしてもそれを消すことができます。      

「救いの兜」とは、ローマ兵は戦いの折に青銅製の「兜」被って、頭部を保護したのですが。信仰者がキリストによって実現された神の救いを確信し続けることの大切さが言い表されているように思えます。
 
以上「神の武具」の5点はすべて身を守る護身用のものでありますが、最後の「霊の剣」は武器であります。武器と言っても武力や暴力ではありません。ローマ兵は戦いの折に鋭利な両刃の短刀を用いたようですが。パウロは悪の諸霊、悪魔との戦いにおいては「霊の剣」、すなわち「神の言葉」を武器として取りなさいと言っているのです。それは何か神の言葉を自分の都合のいいように利用したり、又神の言葉で相手をやり込めることとは違います。私たちの日常においても様々な戦いともいえる出来事が起こってまいりますが。その中で、私たちは御言葉をもって語りかけて下さる主の御心に生き、悪の力とその策略に抵抗するようにとの勧めです。                      信仰者の霊的戦いに必要な「神の武具を身に着けなさい」というパウロの勧めでありますが、それで話は終わっていません。                                        

霊的な戦いは祈りの戦いでもあることが次に語られています。18節「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とあります。祈りは自分の霊性、信仰の灯をともし続けていくうえで重要なのです。祈り求める者に聖霊は霊の油を注いでくださいます。それはまた、隣人や同胞、あるいは今助けを必要としている人、又人間関係性が損なわれているその回復のために覚えて祈る、とりなしの祈りでもあります。         

19節で、「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのために祈ってください」と、パウロ自らとりなしの祈りをエフェソの信徒たちにリクエストしていますが。私たちは、自分のために神に祈ってくださいとお願いし合えるような関係があるでしょうか。どこか遠慮しているような面がないでしょうか。主に期待している信仰者同士、互いに祈り合い、とりなしあえることは恵みであり、幸いなことです。さらに私たちそれぞれが開かれ、そのような関係性を築いていけるよう願い祈ります。 
                                                             最後に、パウロは自分の使命が「福音の神秘を大胆に示す」ことであり、そのために自分は鎖につながれていると言っています。パウロはたとえ獄中にあっても、自分に与えられた福音の使命をしっかり持っていたのです。自由が制限された環境の中でも、パウロはキリストに捕えられた僕として福音を伝えずにはおれなかったのです。その魂は決して暗闇の力に支配されることはなかったのでしょう。エフェソの信徒への手紙で語られている「キリストの平和の福音」、それはパウロが書いたエフェソの信徒たちへの手紙の結びの挨拶の言葉に、集約、結実されています。                           

23節「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」私たちも又、この地上、世にあって様々な戦いの日々はありますが、神の武具を身に着けて、キリストの勝利に与り、神の愛に生きてまいりましょう。        

主イエスはおっしゃいました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは、世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
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神の武具を身に着けなさい

2022-08-07 17:42:12 | 教会案内
礼拝宣教 エフェソ6章10~20節

今日は8月最初の礼拝ですが、8月は平和を覚えて祈る平和月間として過ごしてまいります。昨日は人類史上初めて広島に原子爆弾が投下されてから77年目となる平和記念式典が行われました。広島市長は平和宣言の中で、「ロシアによるウクライナ侵攻は、罪のない市民の命や日常を奪っています。世界中で核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増しています。1945年8月6日の地獄絵図の再現を許さないよう、一刻も早く全ての核のボタンを無用なものにしなくてはなりません。ロシアの文豪トルストイの『他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない』という言葉をかみしめるべきです」と訴えられました。何とその同日、ロシアが支配するウクライナ最大のザボロジエ原発が砲撃されるという恐るべき事態が起こりました。ロシアとウクライナは双方を非難しているとのことですが。放射能漏れはないのか非常に心配です。ロシアとウクライナの戦争が長期化しています。この間、国連はじめどこも戦争を止められないことに無力さを覚えます。ウクライナの難民数は500万人を超えて900万人とも伝える報道もあります。戦争がすでに長期化し消耗戦となり、世界規模で平和が脅かされるような情況もあります。経済危機もさらに高まってきています。それは温暖化の加速と並行して世界的な食糧難と価格上昇を作り、一日の食事さえままならない今まさに命の危機に直面している人がいたるところにおられます。それは決して人ごとではありません。神がお造りになった世界はすべてつながっています。このような「百害あって一利もない」戦争が一刻も早く終息するようにと願うばかりです。また、ウクライナの難民支援のための第二次募金を募っております。日本バプテスト連盟が集約し世界バプテスト連盟(BWA)に送金され、用いられています。私たちも共に覚え、祈り続けてまいりましょう。
                                          さて、7月から礼拝で「エフェソの信徒への手紙」を読んできましたが、本日は最後の6章から御言葉を聞いていきます。祈祷会の聖書の学びの時に、エフェソ1章の書き出しのところの2節に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにありますように」とあり、そして最後の6章の終わりのところにも23節にも「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから。兄弟たちにあるように」とあり、そのどちらにも「平和」という言葉が書き記されていることに気がつきました、とある方が言われました。初めと終わりに共通した「平和」の挨拶に始まり「平和」への祈りで閉じられるこのエフェソの信徒への手紙の中心的なテーマは、この語りかけられている「平和」にあるということができるでしょう。                                 
平和といえば地上で戦争が行われていない状態がまず思い浮かびますが。以前にもお話したように、平和はギリシャ語でエイレネー、ヘブル語でシャロームですが。それは神との壊れた関係性、人と人との平和の回復を意味します。地上の平和と祝福は全てそこから回復されるのです。創造主である神がご自分にかたどってお造りになったのが本来の人であり、神の似姿として人は造られたのです。神は人とともにおられ、人は平和・平安、シャロームのうちに生きていました。ところが、創世記3章にありますように、最初の人アダムとエバは神の前から身を隠しました。これを聖書では罪、神に対して的外れの状態を表すのです。それは、神が「それをしてはならない。すれば死ぬことになるから」とおっしゃたことをしてしまったからです。神の愛と信頼の関係をアダムとエバは損なったのです。罪を犯すと人は神の前に出ることができなくなるのです。神との関係性が壊れていますので、アダムとエバのうちには平安がなく、たえず神の前から隠れ、自分の都合の悪いことは誤魔化したり人のせいにしました。しかしそれは人、誰もが抱えている性質なのであります。「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられる神。その愛に背き続けて神の前から身を隠し、自分の都合の悪いことは誤魔化そうとする。その心には絶えず不安や恐れがつきまとい平安がありません。平和が損なわれているのです。この神さまとの信頼回復こそが真の平安をもたらすのです。神さまが自分の何もかもをご存じであるということが、呪いではなく、希望の喜びとなるのです。それはどんなに幸いなことでしょうか。                   
                                                            さて、今日の箇所の小見出しに「悪と戦え」とつけられていますが。悪と戦うことによって神さまとの平和、平安をいただくことができるというその意味をご一緒に読み取っていきたいと思います。
まずパウロは11-12節で次のように書き記しています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」            
 この「悪と戦え」とは、悪いものに対して力によって戦い挑めとか、正義を振りかざし力づくで屈服させるということではありません。敵対心、憎悪、恨みといった血肉の戦いは暴力や暴言となります。それを受けた人は恨みや憎しみの感情をもち悪循環の連鎖が起こっていきます。戦争や民族紛争はそうして血肉の連鎖による分裂と分断を生じさせているのです。悪魔の作略とはまさに人間同士を血肉の争いによって分裂させ、破壊することにあります。
パウロは「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではない」と言い、13節で「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と勧めます。                         悪魔の策略に対抗して神の前に生きるための秘策、その神の武具とは「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音を告げる準備の履物」「信仰の盾」「救いの兜」、そして「霊の剣・神の言葉」です。       

「真理」とは、人となり世に現れて下さった神の子キリスト、キリストによって現された神の愛と救いの福音です。それをしっかりと腰に巻く。どんな時も帯のように身に結びつけていることが肝心なのです。                 
 次の「胸当て」ですが。命と直結する心臓や内臓を守るための護身用の装具のことです。そして正義はキリストが十字架の贖いによって現わされた神さまの正しさ、義を示します。この正義の胸当てで覆い保護すれば、どんな悪の策略による攻撃にあっても身を守ることができます。神の義、正しさこそ人を守り生かし得る命の武具なのです。
 次いで「平和の福音を告げる準備の履物」ですが。「平和の福音」は十字架を通して拓かれた神との和解、人と人との和解の道です。それが平和の福音です。神の前から身を隠すほかないような罪深い人間、滅ぶほかないような人間の罪の裁きを神の御子が身代わりになって完全に贖い、神と私たちの分裂し壊れた関係性を修復してくださったそのキリストの平和の福音です。この和解は人と人との和解をもたらします。人間関係の敵対や憎悪をもしずめ、ともに神の平和の道を歩む履物として、内に外に起こる悪との戦いに臨むのです。
 そして「信仰の盾」ですが。ローマ兵は長方形の大きな盾を使いました。信仰は神の愛と救いの力に頼り切ることです。それを盾として手に取るなら、たとえ悪魔的な火のついた矢が飛んできたとしてもそれを消すことができます。      
 「救いの兜」とは、ローマ兵は戦いの折に青銅製の「兜」被って、頭部を保護したのですが。信仰者がキリストによって実現された神の救いを確信し続けることの大切さが言い表されているように思えます。
  以上「神の武具」の5点はすべて身を守る護身用のものでありますが、最後の「霊の剣」は武器であります。武器と言っても武力や暴力ではありません。ローマ兵は戦いの折に鋭利な両刃の短刀を用いたようですが。パウロは悪の諸霊、悪魔との戦いにおいては「霊の剣」、すなわち「神の言葉」を武器として取りなさいと言っているのです。それは何か神の言葉を自分の都合のいいように利用したり、又神の言葉で相手をやり込めることとは違います。私たちの日常においても様々な戦いともいえる出来事が起こってまいりますが。その中で、私たちは御言葉をもって語りかけて下さる主の御心に生き、悪の力とその策略に抵抗するようにとの勧めです。                       
以上が、信仰者の霊的戦いに必要な「神の武具を身に着けなさい」というパウロの勧めでありますが、それで話は終わっていません。                                        

霊的な戦いは祈りの戦いでもあることが次に語られています。          18節「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とあります。祈りは自分の霊性、信仰の灯をともし続けていくうえで重要なのです。祈り求める者に聖霊は霊の油を注いでくださいます。それはまた、隣人や同胞、あるいは今助けを必要としている人、又人間関係性が損なわれているその回復のために覚えて祈る、とりなしの祈りでもあります。         

19節で、「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのために祈ってください」と、パウロ自らとりなしの祈りをエフェソの信徒たちにリクエストしていますが。私たちは、自分のために神に祈ってくださいとお願いし合えるような関係があるでしょうか。どこか遠慮しているような面がないでしょうか。主に期待している信仰者同士、互いに祈り合い、とりなしあえることは恵みであり、幸いなことです。さらに私たちそれぞれが開かれ、そのような関係性を築いていけるよう願い祈ります。 
                                                             最後に、パウロは自分の使命が「福音の神秘を大胆に示す」ことであり、そのために自分は鎖につながれていると言っています。                  パウロはたとえ獄中にあっても、自分に与えられた福音の使命をしっかり持っていたのです。自由が制限された環境の中でも、パウロはキリストに捕らえられた僕として福音を伝えずにはおれなかったのです。その魂は決して暗闇の力に支配されることはなかったのでしょう。エフェソの信徒への手紙で語られている「キリストの平和の福音」、それはパウロが書いたエフェソの信徒たちへの手紙の結びの挨拶の言葉に、集約、結実されています。                           23節「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」                        

私たちも又、この地上、世にあって様々な戦いの日々はありますが、神の武具を身に着けて、キリストの勝利に与り、神の愛に生きてまいりましょう。        主イエスはおっしゃいました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは、世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
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2022/8/7 主日礼拝式 おしらせ

2022-08-03 13:51:18 | 教会案内

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