日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

痛んでいる人と共に

2018-12-30 13:12:35 | メッセージ

歳晩礼拝宣教 マタイ2・13-23

 

今日は2018年の最後の主日礼拝として共に捧げております。気候の変動の大きかった一年でしたが不思議な主の御手によって、礼拝と祈祷会、諸集会が今年も一度も途切れることなく守られ、捧げられることができましたことを、主に心より感謝いたします。又そこには雨の日も風の日も主を慕い求める皆さまの信仰と愛がございましたことを大変うれしく思います。

 

1年のあゆみをとおして」

今年はテサロニケ一516節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」との年間聖句のもと「喜び・祈り・感謝」というテーマを礼拝でも事あるごとに覚え、共々に歩んでまいりました。

 

教会では諸集会ごとに想像を超える素晴らしい主のお働きと祝福を頂く1年となりましたが、そういう中で6月末に敬愛するY姉が天に召されるという、地上にある私どもには寂しい出来事がございました。けれども「私たちの国籍は天にある」という、やがて天の御国でY姉ら先に天に召された兄姉らとの再会の日が訪れる希望を、私たちは確認させて頂くときとなりました。又、うれしい知らせとしてFさんご夫妻に新しい命、第一子が誕生いたしました。教会が子どもたちでにぎやかになってきているのは本当にうれしいですね。近日はTさんご夫妻の結婚式を私たちも共々に喜ぶ時となりました。

又、Sご夫妻が茨木から阿倍野に引っ越して来られ、これまで往復40キロの道のりを毎週自動車を運転されて祈祷会と礼拝に集われていたのですが、今は歩いて来れるようになりました。あの大阪北部地震の時に、もしご夫妻が茨木にまだお住いになっていたら被災されてどうなっていたかと思いますとゾッといたしますが、ご夫妻から「ほんとうにこちらに引っ越していて助かりました」と伺い、主のお守りに感謝でした。

まあおひとりお一人にそれぞれの一年のあゆみがおありでしたでしょう。喜びの出来事、嬉しい出来事、その一方で悲しみの出来事、苦しい出来事もあったことかと存じます。しかし私たち主を信じて生きる者にとって真に幸いなことは、その一年のあゆみを振り返ってみる時、すべての私どものあゆみのすべてを主はご存じである、ということです。なぜ?というような出来事も、人には理解してもらえないことも、現れたことも隠されたことも一切主はご存じであられる。そのことのゆえに私たちは慰めと希望を見出します。同時に畏れも生じます。全き義であられ慈愛にとみたもう主の御意志とその導きをこの一年の最後の礼拝において確認し、感謝と主の御前に向き直ることをもって新たな年に備えたいと願います。

 

「痛んでいる人と共に」

さて、先週は、救い主・御子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝とキャンドルサービスを救いの喜びのうちに捧げることができ、ほんとうに感謝でした。

今日は、そのクリスマス後の聖書記事から、御言葉を聞いていきますが。ここを読みますと、クリスマスの救いの喜びや温かさから一変して、世の力、闇の勢力による恐れ、嘆きと悲しみの出来事が記されています。

ヨハネの黙示録に、「竜は子どもを産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」とあります。そして、「女に大きな鷲の翼が2つ与えられた。荒野にある自分の場所へ飛んで行くためである」とも書かれていますが。

今日の箇所のところで、産まれて間もない幼子イエスと、両親のヨセフとマリアはエジプトに逃れたためにその命は助かりましたが。ペロデ王は「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」と聖書は伝えます。

せっかく神の御子が誕生なさったのになぜこんなことが起こったのでしょう。

 

この事について、聖書教育の青年成人科の筆者が書かれていることが心に留まりました。(聖書教育10/11/12 p.114 そのままお読みしますが。)

「ある方がこんな質問をしていました。『この子どもたちはイエスさまが助かるために犠牲になったのですか?』それに対して、ある牧師がこのように答えました。『むしろ、イエスさまは、この悲しい出来事の中でのSurvivor(生存者、生き残った人々となった)と考えることはできないでしょうか。イエスさまは、その生涯の始まりから、人々の死と嘆きを背負って歩まれたのです』。」

この聖書教育の筆者はかつて2011年福島において東日本大震災・原発事故をご自身体験された被災者のお一人ですが、次のようにも記しておられます。

「被災地では多くの方が亡くなりました。被災された方々の中には、そのことの悲しみから、自分たちが助かったことを喜べない方がいます。

 

まあ、それは被災に限らず、暴力や圧力、戦争や紛争、今日の記事にあるようなジェノサイト、虐殺はその最たるものであります。それは、そういう中での生存者の多くが胸に抱く思いであるでしょう。

 

聖書教育の筆者は続けてこう記しています。

Survivorとしてのイエスさまについて考えながら、イエスさまは、そのような方々の痛みや嘆きさえも知っていてくださるのだと思いました。」

イエスさまは後にこの出来事を聞かれて、自分が殺されるのでなく、他の多くの男の子が死ななければならなかったことを、どのような思いで受けとめられるだろうと思うのであります。

私たちの今も、世の力、闇の勢力は働き、いつ思いがけない状況が起こるかも知れません。その真っ暗闇の事態のただ中に、イエスさまは深い共感をもって共におられるお方となるために生き残る者となられた。神が人と痛みを共にして下さることの究極の現れが十字架のお姿であります。

 

今日は「痛んでいる人と共に」という題でお話をしておりますが。

私たち主イエスの御救いによって生かされている者は、そのような主イエスの痛みと贖いによって救われた存在であります。この神の愛と救いは、個人にとどまらず、そうして主のみ救に生かされた私たちを通して、今、救いを必要としている人にもたらされることが期待されているでしょう。

主イエスは十字架にかけられる前に弟子のペトロに「あなたは、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。

私たちも又、主のみ救いへの感謝から、自発的に自分のできることを考え、だれかの助けになりたいと思うでしょう。それは素晴らしい救いの賜物であります。

ただ、それは気をつけなければならないなと思ったことが先週ありました。それは私自身のことですが。

それは、先日自分がささげたお祈りの中で、「どうか、苦闘している隣人のために留まり、寄り添う優しさを持つ私たちとしてください」と祈ったのですが。その時は気づきませんでしたけど、しかし後になって「苦闘している隣人のために、寄り添う優しさを持つ私たちとしてください」という言い方は、苦しい最中にある人にとってみれば重たいことですし、与える人、受ける人という構図がそこに生じていないだろうか、と考えたのです。

そういったことは、もしかしたら「教会の敷居は高いなあ」と思わせているかもしれないなぁと。「その人のため」というのが、押しつけがましくなると上からの視線ととられることもあるんじゃないでしょうか。又、弱者の側に立つというのも、ではだれが強くてだれが弱いかというのは日常の中での判断は大変難しいものです。

そういう意味からすれば強者、弱者。善と悪の判断は神さまの領域といえるのかも知れません。

私たち人間がそういったことを決めつけ、色分けしたり、片方のかたを持ったり、裁いたり、というのも傲慢なことなのかもしれません。では、心痛む人の真の隣人となるには一体どうすればよいのでしょうか。

 

それは、イエスさまに倣っていくほかないように思います。

イエスさまはきっぱりと「わたしは世をさばくためでなく、世を救うために来た」とおっしゃいました。ヨハネ福音書317節には「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためでなく、御子によって世が救われるためである」とあります。

これは先ほど申しましたように、「共にあるもの」;インマヌエルとして、「神にとりなす」ためにおいでになったのです。イエスさまはすべての人と痛みを共にしつつ、十字架の死の間際まで執り成し続けてくださいました。今もそうです。

私たちが「隣人や病んでいる人と共に」あろうとする時、私たちは上から何とかしてあげようではなく、「神に祈りつつ、とりなすもの」であることを主のご生涯から学びたいと思います。

 

さて、今日のところから、もう一つのメッセージを示されました。

それは、神のみ救いを受け入れて従う命の道についてです。

ヘロデ王の神に背を向け、救いを拒む世の力のすさまじい破壊力。それは多くの人の尊い命と生活を奪いました。

そういう厳しい状況の中で、ヨセフは神のお言葉を信じ、受け入れ従っていきます。

エジプトに避難する折、又イスラエルの地に帰国する折、さらにガリラヤ地方に向かう折と、3度とも主の天使に夢で告げられたとおり、ヨセフは主の言葉に忠実に従って行動していくのです。それはあの先々週の118節以降のマリアが子を宿したことを知らされた時からそうでした。実にこのヨセフが神の言葉に聞いて、そのとおりに自分を従わせていったことによって、神の救いのご計画が実現していくのですね。

 

この現代も又、神に背を向け、救いの道を拒む世の力によって、神さまがお造りになった美しい自然も人の尊い命も損なわれています。あらゆる殺戮も、地球温暖化も、放射能や大気汚染も、美しい海が土砂に埋められていくのも、神の愛とみ救いを拒み続ける罪のなせる仕業です。

今年も内外において、多くの愛が冷えほんとうに不安や恐れを感じるようなことも起こっております。ある意味、このヘロデの暴虐の時代と重なって見えるこの社会であります。

しかし、今日のこの個所は、たとえどのような時代にありましょうとも、神さまが旧約から預言者を通してご計画され、約束されたみ救いの成就と神の統治は決して揺るぐことはない。すべての人に開かれた救いの言葉に聞いて歩むなら、それは命に至る道となる。これが聖書のメッセージであります。

今年一年の最後の主日礼拝をこうして、その神さまに栄光を帰すことができる幸いを本当に感謝いたします。

今週は明後日には2019年の幕開けとなる元旦礼拝をもって、1年のあゆみをスタートしていきたいと願います。祈ります。

 

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キャンドルサービス(燭火礼拝) メッセージ

2018-12-25 09:00:05 | メッセージ

「ほんとうのクリスマス」

メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心より讃美いたします。この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスキャロルやゴスペルが流れておりますが。

以前京都の教会のある牧師さんから伺って驚いたのですが。この方の町で一番きらびやかなクリスマスイルミネーションは、どこだと思われますか?

教会でも、又、百貨店でもなく、近くにある、何と神社だそうです。ここまできたのかと思わされましたが。

私たちの教会の2階のテラスからは派手ではない清楚なイルミネーションのライトが暗くなれば自然に点灯するようになっているのですが、この灯りは暗闇が深ければ深いだけ輝きを放っています。神さまの恵みの光もそのようであります。暗闇の中でこそ、深い愛とその救いの輝きを人はさやかに見出すことができるのではないでしょうか。

さて、先ほど、のキャンドルサービスの中で、救い主に関する旧約聖書からの預言が朗読され、又、その成就である救い主イエス・キリスト降誕の記事を、新約聖書のマタイとルカの福音書から聞きました。

この救いは、ユダヤから始まって全世界にもたらされるものであることが、神によってご計画されていたのです。そうして遂に、救い主イエスさまがお生まれになろうとしていた時の状況ついて、聖書は「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」と記しています。  

住民登録のため各地方からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえしていて、どこの宿屋も満室でいっぱいであったのでしょう。

ごったがえして満室といえば、ここ大阪でもホテルを取るのが近年大変難しいほど海外から来日される方が多くなっています。この天王寺の街も、大きなキャリーバックを引いて歩く方が多く見うけられ、様々な言語が飛び交って活気づいていますが。

聖書には、まあ、そのように人々のごったがえす中で「彼らの泊る場所はなかった」というのです。

 しかし、これは単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。

神の救い、主イエス・キリストが世に来てくださったというのに、世の人々に受け入れる余地がなかったということです。それは現代における経済や効率性を第一に優先させていくような社会の中で、大人からこどもまでもが能力主義や競争に追いたてられ、ともすれば我を失うほど忙殺されるほどになっている今の社会の状況と重なるように思えてなりません。

まあ、そのような世の人びとの慌ただしさ、生活のただ中に神の救いである主イエスさまがあえてお出でになったという事実は、まことに感慨深いものがあります。
クリスマスはまさにそのような私たちに向けて贈られた神からのプレゼントであるのです。

ですから、このクリスマスの時に、より多くの方が、慌ただしさの中にも立ち止まり、神の救いを見出すことこそ神さまの御心といえます。

さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられたのが、昨日の礼拝では東方の学者たち、いわば神から選ばれたユダヤの人々ではない異邦人であったということをマタイ福音書から聞きました。

又、ルカ福音書では当時のユダヤの社会から律法を守ることすらできない者、とさげすまされていた羊飼たちであったと伝えます。

定住の家はなく、羊を預り昼夜を問わず野宿生活であった彼らも又、泊るところ、宿るところを持つことのできない人たちでありました。

居場所があるというのは単に立派な建物や家があるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居心地が悪く、居場所がないという人も大勢いらっしゃいます。

 

不思議な事に羊飼いも、異国の学者らも、神の救いが薄暗い家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃんによって実現されることを信じることができました。それは彼らもまた真の居場所を求め、必要とする人であったからです。主イエスはおっしゃいました。「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」。

 

彼らはそれだからこそ、みすぼらしい家畜小屋で、世には小さなマリアとヨセフのもとに生まれた葉桶に寝る赤ん坊に、神の栄光を見出すことができたのです。

「救い主が私たちと共にいる」。ここに人に本物の平安をもたらす真の居場所がございます。

 

さて、私は小さい頃クリスマスの日って、サンタクロースからプレゼントがもらえる日だと思っていました。みなさんの小さい頃はどうでしたか。でも、なぜその日にプレゼントがもらえるのかと考えたことはありませんでした。
私は小学4年生の頃に、学校の友達に誘われて教会学校に通うようになりました。その時代、取り巻く社会や家庭環境から自分の心は結構荒れすさみ、自分の居場所がどこかを探し求めていました。そこで12月に行われたクリスマス聖誕劇(ページェント)で、クリスマスは救い主イエス・キリストがお生まれになられた事を記念する日であることを知ったのです。

しかしそれはまだ自分とは関係のないことのように思えました。それからも教会学校に毎週のように出席するようになり、中学生になると少年少女会に入り、同級の友だけでなく高校生のお兄さんやお姉さんたちとも交流する機会があり、教会のこと、信仰のこと、学校や友達のことなど語り合えたことが、徐々に私にとってほんとう有意義なものとなっていきました。

そうして、遂に私は高校1年のイースターの日にイエス・キリストを自分の救い主として信じる告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けたのです。その時、私は神さまからのクリスマスプレゼントを受けとることができたんですね。

神さまは、暖かく自分を迎え受け入れてくださった教会の方々を通して、私にかけがえのない居場所を与えてくださいました。どんなに高価なプレゼントをもらっても、それはいつか朽ち廃れるものです。

けれども、神さまからのプレゼントは決して朽ち廃れるものではありません。それどころか、世の物では決して得ることのできない「永遠の命」につながる素晴しい喜びを与えて下さいます。

 

聖書が主のご降誕のクリスマスの年月日を正確に記していないのには訳があります。

それは確かに歴史上起こったことですけれども。しかし、わたしにとってそれが「ほんとうのクリスマス」となるのは?

それは、この「わたし」が、「あなた」が、あの名も無き羊飼いたちのように心から救い主イエス・キリストをお迎えする時、実現します。わたしのクリスマスとなるとき、それが「ほんとうのクリスマス」になるのであります。
今日という一生に一度しかないこの日に、心新たに、神さまの素晴しいクリスマスプレゼントを受け取りましょう。

 

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クリスマス メッセージ

2018-12-24 20:36:22 | メッセージ

「救い主の誕生」マタイ2・1-12 

メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。アドヴェントの第一週から2週、3週、主イエス・キリストのご降誕を待ち望むキャンドルに灯がともされ、今日4本目の灯がともされました。そして全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして皆さまと迎えることができましたことを、心より感謝いたします。

マタイ福音書の救い主誕生の記事が読まれましたが。救い主の誕生は意外な人たちに知られ、祝われることになります。それはユダヤから遠い東方の、異国の学者たちでありました。

マタイ福音書は冒頭1,2節で「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」と記します。

この新共同訳聖書でなく口語訳聖書の方では、ここのところをより原典に忠実に「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った。・・・云々」と原語の「見よ」という言葉が記されています。

これは感嘆・驚きを表す言葉ですが、その「見よ」という驚きを表す言葉があることによって、聖書は「救い主がお生まれになったよき知らせを、最初に知り、拝むために捜しているのが、ユダヤの人びとではなく、外国の人びと、異邦人であった、そのことに対する驚きを物語っているのです。

なぜならユダヤの人々は選びの民、神の民です。祈り待ち望んだ民を救う王となる方が生まれたのなら、訪ねて礼拝すべきはユダヤの人々であるはずです。「しかし、『見よ』それは異邦人であった」ということであります。

 

その異邦人である占星術の学者たちは、口語訳聖書では「博士たち」と訳されておりますが。彼らは広く知られた天文研究者であり、この世界のすべての事象は天体の星など動きと深く係わっていると考え、研究していたようです。彼らの住んでいた東方には、バビロンやペルシャという国がございました。

その地は、ユダヤの人々がかつて長い間捕囚の民として暮らした地域でありました。

想像を膨らしますと、ペルシャの国の人々がそこに移住していたユダヤの人々を通して、メシアの預言を知るようになったのかも知れませんね。

いずれにしても、救い主の誕生を知り、拝むために捜していたのは、ユダヤの人々ではなく、意外にも異邦の人々であったというのが、この聖書の示すところであります。

日本人、まあ東南アジアに住むおおよその人たちは、キリスト教が外国、欧米の宗教だというのでありますが。聖書はそうはいっていないんですね。

イエスさまはユダヤ人の王であるだけでなく、異邦人の、世界の救い主、メシア、キリストとしてお生まれになられた」ということであります。

それは聖書の初めから預言者を通して語られ続けてきました。

このマタイによる福音書4章15節には、預言者イザヤを通して「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と言われたこの預言が、まさにイエスさまを通して実現されたとあるとおりです。神さまは、人類すべてが神ご自身に立ち返って生きる祝福に招かれるためにメシア、救いの主・イエス・キリストをお与えになられたのです。

天地万物を創造された神は、人類の最初の「人アダムを土の塵アダマから形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた人はこうして生きる者となった」と創世記2章7節に記されています。

アダムとは人類すべての総称です。人類はすべて「神の命の息」を吹き入れられて生きる霊的存在なのです。

伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に」とございます。

私は、もし私とこの世界とを創造されたこのお方を知らなかったら、どう生きていただろう。もし救い主イエスさまに出会わなかったなら、どんなに虚しくうつろな人生であったか。そして罪と死の絶望におびえ滅びる最後しかなかったのだろうと思います。

人間はすべて、神の命の息を吹き込まれた霊的存在であるということを、本当に知って生きることができるのならば幸いです。

たとえ「悪しき日が来たり、年が寄っても」、その魂、霊が神さまと共にある確信は、世にはない喜びと平安をもたらします。

東方の学者たちの大きな目的は救い主・メシアとしてお生まれになったイエスさまを拝むことにありました。それは単なる表敬訪問といったものではなく、「神の救いの顕れであるこの特別な王に是非とも会って礼拝したい」という期待でした。彼らが抱いていた「主なるお方を礼拝したい」という強い願いは、本来神さまによって造られた全世界の人たちに与えられているものであります。

先ほど申しましたように、それは私たちが神の命の息を吹き入れられた霊的存在だからであります。

人は様々なものを礼拝しようとします。金や銀、才能や知識、地位や名声。けれどもそういうものを神のように拝み、頼みとしても魂は決して満たされません。

いつもどんな時も、すべてのものを生み出し、導かれ、治めておられる創造主である生ける神さまを礼拝して、本ものの平安と喜びにあずかってまいりましょう。

さて、東方の学者たちはそのようにその子が神さまの特別なご計画のもとに生まれたことを知って、礼拝するためにやってきます。

彼らは世界を代表する、良き知らせ、福音の最初の使節団となりました。

 

一方聖書は、救い主、ユダヤの王がお生まれになったとの知らせを聞いた「ヘロデ王はじめ、エルサレムの人々も皆、不安を抱いた」と伝えます。

ヘロデは猜疑心の強い人だったようです。自分の王座を取って代られるかもしれない、と不安になったのでしょう。また、ユダヤの人々はメシヤ、油注がれた王の誕生を待ち望んでいたはずなのに、その知らせを実際に耳にしますと、それを受け入れようとしません。都、エルサレムの人々はローマの統治下にありましたが、比較的自由で特段困ることもなく生活できていたようです。「新しい王としてお生まれになった」との知らせに「この安定した生活が無事に過ごせたらよい。波風経つようなことは怒らないでほしい」と不安を抱いたのではないでしょうか。

 

ヘロデ王は東方の学者たちに「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも拝もう」と言います。しかしそれは、イエスさまを拝むためではなく、殺害するためでした。高慢というのはおそろしいものです。神さまの御心を拒み、なきものにしようとするのです。

エルサレムの住人の多くも、保身のため、自分を守ろうとするためにかえって本当に命を与えて下さる救い主を受け入れようとしないんですね。神の救いと栄光を拝することのできる信仰の柔らかな感性を培われる者となりたいと願います。

 

東方の学者たちに話を戻しますが。

そうして「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されています。

東方の学者たちに与えられたこの喜びは、ギリシャ語で「メガス・カラ」それは英語で「グレート・ジョイ」:驚異の喜び、偉大な喜びを表すものとでも訳せるでしょうか。これと同様の喜びがマタイ28章8節のところにも記されております。それは主イエスが復活された、と天使によって知らされた女性たちが「恐れながらも大いに喜び」のその「喜び」が、この「メガス・カラ:グレート・ジョイ」なのですね。

救い主の誕生と復活。それはどちらも「主が共におられる」ということの顕われです。インマヌエル;神さまが私たちと共にいて下さる。ここに救い主を信じ待ち望む者のこの上ない喜びが満ち溢れるのですね。

 

さて、彼らがその「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と記されています。
東方の学者たちが何とかお会いして拝みたいと願っていた救い主メシヤなる王と、彼らは遂に対面することになるのです。

そこは立派な建物ではなく、粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。にも拘らず異邦人の学者たちは主を信じて礼拝するのです。
まあ、ロバや羊や山羊などのいる家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者同士が輪になってこの幼子イエスさまを囲んでいるという、何とも平和な風景、何とも暖かい光景であったように想像いたします。

イエスさまは、福音書の中で「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。

この東方の学者たちはペルシャの国においてはまあ地位もあり、賢者でもあったわけですけれども、彼らは、まさに幼子のように、神とその救いを信じ受け入れ、喜び、拝するのですね。「真理」を探し求めていた学者たちは、学識や能力によってではなく、家畜小屋の中におられる幼子イエスの中に、神の救いを見るのです。
私共もそのような神への渇望と謙遜をもって神の栄光を喜び、拝したいものであります。


この東方の学者たちはこうしてそれぞれに最も高価な宝を主イエスに献げました。

黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。主イエスが世界の王の中の王であることを示しています。

乳香は、アラビア産の芳香のある貴重な樹脂です。礼拝を捧げる折その薫りがたかれます。そこに主イエスこそ真に礼拝すべきお方であるという事が示されています。

没薬は、最高の香料の一種であり薬でもありました。これは人の苦痛と死に際して用いられることから、主イエスの十字架の苦難と死が暗示されている、と解することもできましょう。

彼らがそれほどの貴い高価な宝をささげることができたのは、神の救いの恵みに対して、どんな宝にも代え難い価値を主イエスに見出し、喜びに満ちあふれたからであります。

彼らがそうすることができたのは、まさに最高のプレゼントをほかならぬ神さまご自身が先に差し出されたからです。

礼拝の招詞で読まれたヨハネ手紙一章4章9節。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

私たちを救うために、私たちが新しくされて生きるようになるために、神がその愛をお与え下さった救い主イエス・キリスト。それも神さまは「わたしたちの罪を償ういけにえとして独り子なる主イエスをお遣わしになったのです。こんな偉大な愛のプレゼントが他にあるでしょうか。これこそがクリスマスのこの上ない喜び、恵みなのです。

 

さて、そうして幼子のイエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。

 

彼らの前には2つの道がありました。世の力に戻る道と、神に従っていく道です。

そのどちらを選ぶかを神さまは私たち自身に委ねられています。

最後に、これまで何度もクリスマスの折にお話ししていますように、「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味です。救い主であるキリストがわたしたちのために人間の姿となっておいでくださった。この神さまのすばらしい愛の贈り物主イエス・キリストを喜び祝う。これがクリスマスの原点であります。
さらに、「ミサ」は「礼拝」と「派遣」という意味を持っています。キリストは世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださった。この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者は、「キリストを礼拝し、主の福音の使者と派遣されていく」ということですね。東方の学者たちは、そこで観た神の救いとその栄光をかの地で証しし続けたことでしょう。

その東方の学者たちのように、今日救い主を礼拝した私たちも又、神に従っていく道を通って、生ける主の証し人とされていきたいですね。
この聖書が告げる全世界の「救い主の誕生」の知らせに、私たちも喜びあふれる思いをもって、それぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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クリスマスに贈る物語・パクさんのリアカー朗読ミュージカル2018/12/14.15.16全 4回公演・大盛況に終る

2018-12-17 10:46:37 | イベント

クリスマスに贈る物語・パクさんのリアカー朗読ミュージカル ご報告

原作☆岩鶴恒義「パクさんのリアカー」(amazon kindle版)、元俳優・元関西芸術座、ナレーター・演出家。大阪芸術大講師、DNA計画所属。

演出☆中井敬二(脚色・作詞・作曲・演奏・歌唱指導)、元劇団四季俳優(在団中は「CATS]「ジーザス・クライスト・スパースター」「オペラ座の怪人」などのミュージカル等、3000ステージに出演、現在は歌唱、演技、朗読などの指導及び舞台演出にあたる。大阪芸術大学はじめ、多くの劇団の講師歴任。

制作☆DNA計画

主催☆サンタクロース弁護団

 

2018/12/14-16公演・大盛況に終る

251名のお客様にご来場して戴き、大いに喜んでいただけました。

カルメラ屋のミスミのおばあちゃんが、「カルメラには『喜び』の喜・『希望』の希・『元気』の気と3つのきがある」と話されたことが、

ご鑑賞されたお一人のおひとりの出来事となったことだと確信いたします。

4月にお話を戴いた岩鶴さまはじめ、中井さま、山本さま、稽古を続けてこられた出演者のみなさま、スタッフ・ボランティアのみなさま、この度は大阪教会を会場にしての素敵なクリスマスの朗読ミュージカルをご公演戴き、ありがとうございました。

感謝にかえて

日本バプテスト大阪教会 下川俊也

 

(中井敬二さん、出演者のみなさん、公演後ご挨拶の光景・画像のみ)

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変えられる時

2018-12-16 18:46:27 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ1章18節~25節 待降節Ⅲ 

全世界に与えられた救いの主イエス・キリストの守りを戴き、アドヴェント第三週の礼拝に臨むことができました幸いを感謝します。

今年も早いもので残り半月となりました。世間では恒例の、今年を象徴する一文字が清水寺の御住職さんによって書かれましたが「災」という字でしたが。確かに今年は災害の多い年となりました。

大阪北部地震、西日本豪雨災害、台風21号、北海道地震などが起こり、未だに日常の生活ができないでいる方々がおられます。一日も早い回復がなされていきますようお祈りいたします。東日本はじめ各地に復興のままならない地域が未だにありますが、必要な助けが与えられ、いやしと回復がなされますよう、引き続き祈りつつ、細々とではあっても支援を続けていきたいと思います。

この師走と呼ばれる12月は一年で最も日照時間が短い月で、日が明け、何かバタバタしていてあっという間に日が暮れていくというような感じがいたします。年末の仕事のおいこみ、道路は車の渋滞、街はにぎわって何かとせわしないわけですが。そういう中でアドヴェント、そしてクリスマスが訪れるというのは、慌ただしさに我を失うことなく心静まり、耳を澄まして神さまと対話していくように、というメッセージであるでしょう。

アドヴェントは、「救い主を迎え入れる」という喜びに与っていく時であります。

それはマタイ福音書によれば、ヨセフがマリアと自分には身におぼえのないその子を迎え入れることによって実現しました。

ヨセフが主の御言葉を聞き、受け入れ難い現実を受け入れ、「変えられていった」ように、私たちも又、聖霊のお導きのもとで、神さまの御心に聞き従って、祝福の系図に接ぎ木された人生を送りたいと願います。

 本日の聖書箇所は、「イエス・キリストの誕生」という小見出しがつけられております。

はじめにこのイエスとキリストという名前の意味に触れておきますが。

「イエス」という名前は、もともとは、たとえば日本では太郎、花子のように、イスラエル、ユダヤでは一般的によくつけられていたようです。

その名がポピュラーであった理由は、ヘブライ語の名前の「神は救われる」という意味があるからです。多くのユダヤの人々は様々な苦境の中で「神は私たちを救われる」ということを祈り願いつつその子にイエスと命名したようですね。

もうひとつの「キリスト」という名前は、これはイエスさまの任務の名であります。

もとは「油注がれた者」というヘブライ語「メシヤ」から来ており、それがギリシャ語に訳され一般的になってキリストといわれるわけです。「神が任命され油注がれた、私たちを救って下さる王なる方」というのが、その意味であります。

「イエス・キリスト」という名前には、イエスは神から任命された私たちを救う救い主であり、王である神はこのイエスを通して救いを成し遂げられる、という奥義がその名に示されているのですね。 

さて、そのような救い主イエスさまの誕生となれば、華々しく美しいエピソードを期待する、というのが世の人の求めるところでありましょうが。しかしここには救い主の誕生というには何とも理解しがたいことが記されています。

18節「母マリアがヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。

結婚を前に、自分の身におぼえのないマリアの妊娠を知ったヨセフ。

その思いや動揺は如何ともしがたいものであったことでしょう。

このつらい現実を前に、ヨセフは神を畏れ敬う正しい人であったので、思い悩んだ末に、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」いたします。

彼は律法の規定に従いマリアを訴えることがきました。

けれども、そうするとマリアは石打ちの刑で殺され、その胎の子のいのちまで奪うことになりかねません。彼はそれだけは避けたかった。とはいえ、ヨセフはその正しさのゆえに、神の掟に反するようなものとなったと思える身重のマリアを、妻に迎えることもできません。

この板挟みの中で彼は思い悩み、考えに考え、これが賢明だというその結論が、「マリアとひそかに縁を切る」ということでした。

そうすれば、とりあえずマリアと胎の子の生命が守られるし、律法に反しないことになるだろうと考えたのです。

非常に厳しい現実を前に誰にも相談できず、その苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。ほんとうに彼は孤独だったことでしょう。

そうした中で、主の天使が夢に現れてこのように彼に言うのであります。

『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」。

 この主の天使のお告げは、5つのことを伝えているのがわかります。

第一は、「ヨセフがまぎれもなくダビデの子孫である」ということです。それはヨセフがイスラエルにおけるダビデの王位を継承する者であり、彼がイエスの法的父親であるということであります。

第二は、「恐れずマリアを妻に迎えよ」という奨め以上の神さまからの申しつけであります。

第三は、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」。これは、神のご計画のうちに聖霊のお働きによって事がなっているということです。

第四は、「その子にイエスと名付けよ」。先にお話ししたように、それはヘブライ語で「イェシュア」;「神は救われる」という意味です。「神が救われる」ということが実体をもって人となる。すなわち私たちが「イエスの御名」を呼ぶことは、救いの神を呼び求めることなのです。

第五は、「その子(イエス)こそは、自分の民を罪から救う」という約束であります。歴史的にはダビデの子であり、聖霊によって生まれる神の子、人間にして神聖なる主イエスこそ、人を罪の縄目から解放し、救うお方であられる、というそれは宣言であります。

そうしてこの宣言は、実際にイエスさまの「十字架の贖いの御業」をとおして、実現され、私たち異邦人もまた信仰によって、主イエスの救いの民とされている。そのことを私たちは知っています。

そのように主の天使はこれらのお告げによってヨセフに「新しい道」を指し示されます。

それは律法の教えを厳守してマリアを断罪するという道でもなく、又マリアとひそかに縁を切るという人間的な配慮の道でもありません。

それは、主の御心とそのご計画に聞き、それを受け入れ、主に従っていく道であります。

まあ現実に、ヨセフがマリアを妻として迎え入れ、その出来事もろとも引き受けて生きることになれば、マリアもヨセフにもいろいろなリスクや世間の強い風当たりをもろに受けることになるでしょう。

それでも24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。彼は自分の道ではなく神に従う道を選び取りました。

どうしてヨセフはそのような決断ができたのでしょうか。

それは「主が彼と共に、そのどうしようもないような彼の現実と共に、おられることがわかった」からです。

23節「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。

ヨセフは「主なる神さまが共におられ、導いてくださる。インマヌエル、神が共におられる」そのことに目が開かれることによって妻マリアとその子(イエス)を迎え入れることができたのです。

それは人の力でできるものではありません。聖霊の力、信仰によって、彼はその生きるべき道をあゆみ出したのです。

始めに「イエス・キリスト」の名前についてお話をいたしました。それは「神は救われる・救い主」であるということでしたが。その神の救いは「神が共におられる」というあり方で実現されていく!これが今日の聖書のメッセージの中心です。

 

一昨日からこの教会堂を用いて「パクさんのリアカー」という朗読演劇ミュージカルの公演がもたれていますが。その劇のフィナーレの場面で最後の曲「幼い頃からさげすまれた彼の何が悪いの?その悲しみをひとり背負って愛を与えた」という歌を聞いた時、

イエスさまのご生涯と十字架が重なってき、主が共におられるお方として私たちに共鳴していて下さる喜びと感動が押し寄せてまいりました

主は私たちと共におられることを現すため、インマヌエルの主となられるために自ら貧しくなり、さげすまれ、見捨てられ、最後には裏切られて十字架にかかるのです。

神の救いは、相手の罪を数えて責め、裁く仕方ではなく、その苦しみを共になさることによって、成し遂げられる救いです。その究極のあらわれは「イエス・キリストの十字架」、神の義と愛とが刺し貫かれた救いにございます。

クリスマスはまさにこのイエス・キリストが私たちの救い主となって世に来てくださったことに他なりません。

私たちはみなそれぞれに人としての欠けている点や弱さ、悩みや葛藤がございますが。ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフと同様、私たちもいろんな困難な状況になった時、自分の思いや考え方でのみ解決の道を探ろうといたします。

物事を想定して推し量ったり、人の計算や思考によって計ったりと、それをよかれと思ってなすこともあります。

しかしそんな時には、えてして過ちを犯すことがあるものです。又、人間的な心遣いや配慮は大事ですが。それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくすることもあるかも知れません。

ローマ信徒への手紙12章2節以降で使徒パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりまさい」と記しています。

まあ、主の御心を知ってそれに従っていくことがほんとうに大切なことはわかっているけれども、それがなかなか分からない。それが私たちではないでしょうか。ヨセフもはじめはそうでした。

けれどだからこそ、聖霊の力、御霊の導きが必要なのです。

主イエスは「それを求めなさい。願いなさい」と何度もお語りになりました。

私たちはどこまでも、神の国と神の義を、聖霊の導きによって求めていかなければなりません。とことん祈り求めて、聖霊のお働きの中でヨセフは神の御心を示され、そして従いゆく者に変えられました。そこから本物の、希望も、愛も、優しさも配慮も生まれてくるのであります。 

私たちも日々の生活において、課題と思えることがほんとうにいろいろとおありかも知れません。が、主はそのことを通しても、私の、私たちの主への信仰、立ち位置を正され、ゆるぎない祝福を受け継ぐ者へと導いて下さいます。

共におられるインマヌエルの主にかたく信頼しつつ、今日の御言葉をもってそれぞれの場へと、ここから遣わされてまいりましょう。

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クリスマス礼拝&クリスマスイブ礼拝のご案内

2018-12-13 10:57:07 | 教会案内

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救い主イエスの系図

2018-12-09 17:34:41 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ1章1-17節 アドヴェントⅡ                            

今年はマタイ福音書からクリスマスの御言葉をともに聞いていきます。今日はその1章の前半に記されています「キリストの系図」の箇所であります。キリストは救い主の意味ですから、救い主イエスの系図という題にいたしました。

この系図は17節にありますように、アブラハムからダビデまでの14代、ダビデからバビロンへの移住までの14代、バビロン移住からキリストまでの14代と、3つの時代に区分されています。

最初の区分は、イスラエルの民族の起こりから、ダビデ王による王国の確立までの時代です。

さらに2つめの区分は、イスラエル王国の絶頂期を形作ったソロモンの時代から、ユダヤの国がバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニアの捕囚とされた苦難の時代です。そして3つめの区分に至ると、「ゼルバベル」以外は、旧約聖書に登場しない名前ばかりです。バビロン捕囚以後、幾多の試練の中で第二神殿再建を果しはしますが、その後も周辺諸国の支配と脅威にさらされ続けユダヤの人々は翻弄され続ける時代に呑み込まれていく暗い時代を示しています。

このように、イスラエルが生まれ、発展し、絶頂期を迎え、そして転落し、一時の平穏と暗い時代に至るそれらの歴史を貫くようにしてキリスト(救い主:メシアの意味)がいましたもうと、この系図は語りかけています。

又、「系図」と訳された原語は、ギリシャ語でビブロス ゲネセオースという言葉で「創造の経緯」と直訳できます。私どもキリスト者にありましては、先週お話しましたイエス・キリストにある「新しい創造の御業」を彷彿とさせます。

 

当時ユダヤの祭司たちは自分の誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。その系図への強い思い入れというものは、イスラエル、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになったからです。

今日のキリストの系図も、アブラハムの子であり、ダビデの子であるイエス・キリスト」とはじめられていますが。その系図はイスラエルの「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらにイスラエル建国の王、ダビデにつながっています。そこにユダヤの人々は自分が神から選ばれた「神の民」であるという存在意義を見いだすことができるからです。
しかし、今日の主イエスの系図はそんな彼らの誇り高き系図とは異なる一面が露わにされています。

先に言いましたようにユダヤでは父系の系図のみ覚えられるのですが、この主イエスの系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリア、と何と5人の女性が登場します。

その記載の特徴は、男性の方は「誰は誰を」もうけと記されていますが、女性の方は「その女性は誰によってだれをもうけた」というふうに記されています。
夫を亡くして寡婦となったタマルは、義父ユダの冷淡な態度に苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。彼女をそういった行動に向かわせたのは男性中心の社会構造にありました。

又、ラハブは、エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でしたが、エリコの城壁を偵察に来たヨシュアの遣いの者たちが守られるように、ヤコブ書によるなら「その信仰によって彼らを助け」、後にサルモンとの間にボアズが生まれたということです。

そしてそのボアズがルツを迎え入れることとなるのですが。この女性ルツはユダの家系でない異邦人で、寡婦となってユダの地に住んでいましたが、異邦人で寡婦のルツには大変厳しいものでした。先のボアズが彼女を引き受け、二人の間にオベドが生まれたということです。次のウリヤの妻はバテシュバのことですが。ダビデ王の横恋慕うによって、夫ウリヤは殺され、バテシュバは召しかかえられます。その心痛は如何に大きかったことでしょうか。ダビデは偉大な王であり、多くの詩編の詩を残した信仰者であります。だからこそ系図の節目として記されているのですが、その失態が隠されないまま赤裸々に記されているのです。
4人の女性たちはそれぞれに悲しみや重荷を背負って生きていました。時に力をもつ男性たちの罪をも背負わせられながら、彼女たちは必死で生き、子どもを産み育てたのです。

人の世の間では、恥となるようなことは隠したい。立派な父方の系図の方がはくがつくということで、仮にそのような女性たちが自分の先祖にいたとしても、極力それを秘めたまま公表しないようにするでしょう。

ところがこの系図では、いわば人間のドロドロとした部分や問題が露わになるようなことが、これはもう敢えて記したとしか思えないような書き方がされているのです。

 

この当時のユダヤの宗教家や律法主義者はじめ、多くのユダヤ人たちは、この系図を見たらどう思ったでしょう。自分たちは「選ばれた民族の血筋」からお生まれになられるメシア「救いの王」なるお方ということでありますから、この系図を見た途端、きっと度肝を抜かれるくらい驚き、忌み嫌ったのではなかろうかと想像します。

救い主、メシヤの生まれるその家系に泥を塗るようなことをしたということで、もうこの時点で石が飛んできそうですが・・・。

しかし、マタイ福音書は、これを意図的に記した。そういった人々にこそ、この「系図」を示す必要があることを聖霊に導かれたからです。

 

彼らは自分たちは神から選ばれた者、律法に忠実で戒めを守り行い教え諭す優れたものであることを自負していたのではないでしょうか。問題は、その自分たちの内にある凝り固まったプライドや優越性が神の救いを受けることの妨げとなったことです。

彼らは、この系図に出て来るような罪深い人たちとは関係がないと思いたかったし、尊敬してやまない自分たちの父祖を辱めることは冒涜である、と思ったのではないでしょうか。けれども事実女性たちを追い込み、重荷を負わせたのは誰でしょうか?

 

立派な父、栄えある先祖と自慢したくなるような力と知識、地位や富をもつ男たちであるのです。それは先祖から自分たちのうちにも働いている力であり社会構造にあります。そして、そういった力や構造は今も私たちのうちにも働いているのでありますから、私たちも又、彼らと同様、神の前にあってその罪性をもった存在であるといえるでしょう。

キリストはそのどうしようない罪の、究極の救いとしてお生まれになったのです。又、この系図が示す希望は、そういった辛酸をなめなければならなかった弱い立場におかれた一人ひとり。又、バビロニア捕囚後の暗黒の時代をどう生きたか定かでないこの人たちもそうです。彼らが忘れ去られることなく覚えられ、しかもキリストとの系図に連なっていることにあります。

それはキリストが、こうした世にあって弱い立場におかれ心痛んでいる人びと、忘れ去られたような人々と連帯されるお方であるということです。

「連帯」というのは、同じ立場になることとは違います。

たとえば、借金をする際の連帯保証人は借金する人と文字どおり連帯化して責任を負いますが。その場合、連帯保証人は債務者と同じ立場であるなら、連帯保証人にはなれないのです。たとえば、夫が借金をするとき、妻は連帯保証人にはなれません。連帯保証人となれるのは債務者とは別の信頼できる立場の人です。

イエス・キリストが人の罪を返済しようにも返済しようのないどうしようもない私の罪を連帯保証人が身代わりになって返済するように、罪の贖いとして御自分を差し出された。そうして今の私たちはこのキリストによって新しく生かされているのです。もし、イエス・キリストが人間と同じように罪深いのならそれは不可能でした。

この系図の16節をもう一度よく見て下さい。

「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシヤと呼ばれるイエスがお生まれになった」。キリストは18節以降にある、ヨセフが迎え入れる前に神のご計画によって主イエスを身ごもったマリアから生まれたということであります。この聖霊の力により生まれたお方、神によって来られたお方であるからこそ、主イエスは罪と咎を抱える私ども人間と連帯され、その十字架を通して私たちの罪の贖いを成し遂げることがおできになったのです。

このキリスト・救い主の系図が示すように、苦しみや痛みを抱える人々、世の力によっておとしめられ、見捨てられ、忘れ去られている人びとに、神さまは連帯してくださる救い主をお与えくださったのです。

来週以降またお読みしますが、マタイはその救い主の名を、「インマヌエル」と呼びます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。

私たちはこのアブラハムからなる神の民の実質的血筋とはいえません。しかし聖書は、そのアブラハムの祝福によって地上のすべての民族が祝福に入ること、さらにローマ書13章は「共におられる主、イエス・キリストによって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木された」といいます。私たちがどんなに小さくても、到底神の前に立ち得ない罪人であったとしても、救い主イエスによって神に立ち返る信仰に立つ時、この神の民の系図に接ぎ木され、アブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐ者とされているのです。

ローマ4章13節以降にこう記されています。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります・・・信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。」

 

最後に、先々週、大阪キリスト教連合会主催の講演会が聖公会大阪聖パウロ教会で「カトリック教会の諸宗教対話」と題し、講師のロッコ・ヴィヴィアーノ神父からお話を伺いました。その中で興味深かったのは、第二バチカン公会議よりカトリック教会の諸宗教との対話思想が発展していったということ。もちろんそこには自らの信仰の立ちどころと証しをもって臨むことが前提であるということすが、その他宗教を信仰する人を尊重することが大事だと教えられました。天地万物の創造主は、世界の人類の創造主であられるということをキリスト者は知っているからです

私たちがそこで他宗教の方のうちにもキリストがおられ、神が光を放っておられるのを見出していくこと、それこそが大事なことではないでしょうか、とおっしゃっていた言葉がとっても心に響きました。

ヨハネ福音書1章9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのです」との御言葉を想起するご講演でした。

今日は「救い主イエスの系図」から、その奥義といいますか。主なる神さまの深い救いのご計画について御言葉から聞いてきました。

 

今日のメッセージを閉じるにあたり、ローマ10章12-13節の御言葉をお読みしたいと思います。

「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」

 

救い主イエスさまの御降誕を待ち望むアドヴェントにおいて、まずこの驚くべき神の新しい救い、新しい創造の業が全世界にもたらされた、その福音の意義を覚えたいと思います。

又、私たちも主の祝福に接ぎ木された者として、神の救いのご計画のために用いていただけますよう、祈りつつ務めてまいりましょう。

今週も、今日の御言葉をもって、ここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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おいでや!こども食堂&クリスマスパーティー

2018-12-08 16:40:15 | イベント

本家本元のクリスマスを教会であじわいます!

海外からのゲストもくるよ。

みんなおいでや!

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神の恵みの約束

2018-12-05 08:21:11 | メッセージ

礼拝宣教 イザヤ書61章1-11節 アドヴェント 

今年は1223日がクリスマス主日礼拝となりますが、主イエスのご降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)最初の主日礼拝をこうして迎え、1本目のクリスマスキャンドルに灯がともされました。

先週の火曜日ここで台湾から福音歌手、又牧師としてお働きをなさっておられる祝先生をゲストに、そのワーシップチームによる特別集会が、台湾中華教会関西福音連合主催、大阪教会協力というかたちで開かれました。会堂には日本在住の台湾・中国、韓国の方々、又大阪教会の方々、新来者求道者と、1階ロビーも収まり切れず、2階まで人があふれんばかりでした。集会ではワーシップチームの導きのもと、共々に世界の主を賛美し、祝先生のメッセージ、祈りの時がもたれましたが。聖霊に満ちた主の恵みを覚える時となりました。

2013年に新会堂が建ったばかりの頃から、近隣にお住いの大阪中華長老教会のメンバーである姉妹が水曜祈祷会に来られるようになり、昨年には、台湾の歴史に関する演劇が当教会で行われたことから、この姉妹を通して台北を訪問することとなりました。そこでは台北の主にある方々との新たな出会いが与えられました。そのようないわば華僑の方々とのつながりと並行して、韓国はじめ様々な国々の方々や宣教師との礼拝や祈りの場がこの教会で起こされ続けています。それは私たちの側からではなく、主がご計画くださり、目的をもってお導きになっていることだと信じるものです。使徒言行録に記載されるアンティオケアの教会のように、国籍や立場を超えた主の御業をこれからも賛美し、拝していきたいと願うものです。

 

さて、今日はイザヤ書61章より「主の恵みの約束」と題し、御言葉に聞いていきます。

先週はイザヤ書65章を読みましたが。バビロニアの捕囚から解放されたユダの人々はまあ半世紀以上の時を経て、ようやくエルサレムに帰還します。しかし現実は彼らの期待とは裏腹に大変厳しいものでした。

彼らは神殿の再建という喜ぶべき事業を希望をもって始めますが、生活は苦しかったのです。バビロンに連れていかれずに残っていたエルサレムの住民とはうまくゆかず、又当時エルサレムを支配していたサマリア人たちの妨害にもあいます。そのような夢破れて、失望の中にあった人々に、この第三イザヤは、神の恵みと希望の言葉を語り続けるのでありますが、、、。

しかし、そういう生活していくのに手いっぱいの日々の中で心がなえて、預言者の声も彼らにはなかなか響きません。当初の目的であった神殿再建はとうとうストップして頓挫しそうになり

ます。

その時この第三イザヤと同時代に生きた預言者の一人ハガイは、ハガイ書1章でそのユダの人々に対してこう告げています。「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでよいのか」「お前たちは多くの収穫を期待したが/それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ帰るとき/わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃墟のままであるのに/お前たちが、それぞれ自分の家のために走り回っているからだ。」

 

彼らは捕囚からの解放の喜びとともに、主に思いを向け、神殿の再建をなんとか主にお献げしたい。それこそ私たち主の民としての望みと。又、神の民としての復興は。まず主の宮の再建によって成し遂げられていくに違いないとの、信仰によって神殿の再建にとりかかったのですが。その心の思いが自分の生活のことばかりに向くようになっていったのですね。

まあ、私たちだって日々の生活や仕事のことがなかなか大変でしんどかったり、又体調が悪かったり、歳を重ね、そこにまたトラブルや家族の問題など加わって来るのなら、それはやかり生身の人間でありますから、心身ともに疲弊したり、思いもなにもいっぱいになるということがあるのではないでしょうか。

そういう状況の中で「私は何を生きる力の源としていくか」と、時に立ち止まって自問自答することは大切です。そうでなければただ労苦と悩み、日々の欲求の虚しい人生にもなりかねません。

イザヤ書55章にはこのような預言の言葉があります。

「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って魂に命を得よ」。

主の御言葉は、まず聞いて、次に信仰を持って実践する中に、実体験として与えられていく生ける言葉です。

主は、ユダの人々にそのような「恵みと祝福の約束」を語り続けておられるように、私たちにも同様に「恵みと祝福の約束」を語りかけておられます。

主イエスは「まず、神の国と神の義を求めよ。そうすればすべて添えて与えられる」とおっしゃっています。

忙しい毎日、悩み多き日々、弱さをおぼえる時、どのような中にありましても、救いの神、生ける主を愛し、主の言葉に従って生きる者に、主は必要を満たし、魂に命を得させて下さると、約束しておられます。

 

今日の61章は、第三イザヤと言われる預言者が「神の恵みの約束」について語ったメッセージであります。

最初におさえておきたいのは、この預言者の言葉が神を信じる者たちに向けて語られているということです。

1節の「貧しい人に良い知らせを」というのは、単に経済的に貧しさというより、むしろ信仰者の霊的飢え乾き、そういう「貧しさ」を指しています。神の愛を忘れ背き、自ら滅びを招いてバビロンの捕囚となったユダの人々。そういう「打ち砕かれた心」「捕らわれた人」「つながれている人」と。

先ほど、捕囚からエルサレムに帰還したユダの人々の厳しい生活の現状について見ましたが。帰還をはたしてもなお、エルサレムの、神殿の復興がままならず意気消沈している人たちの、それは魂の霊的に貧しい状態。その霊的貧しい彼らに対して、主は「良い知らせ」、口語訳では「福音」を語るため預言者をお遣わしになるのです。

 

預言者は、2節で「嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と主の希望の言葉を取り次ぎます。

ユダの人々は嘆きをもって神の前にへりくだる象徴的行為として灰をかぶったのですが、その灰に代えて、栄光を象徴する冠を主はかぶらせて下さる。又、香油は聖霊の油注ぎを連想します。又、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせて下さると。これは先にも申しましたが、私たちは信仰をもっていても生身の人間であります。あまりに生活に追われる中で、又、あまりに厳しい状況の中で、表情までも重く暗くなる時もあるかも知れません。けれども主は、そういう状況にある私たちに「賛美の衣をまとわせ」てくださる。主が与えて下さる「良い知らせ」、福音が臨むとき、信仰の復興、まさにリバイブされる出来事が起こされていくのです。

 

みなさんの中にもそういった体験、日々の生活の暗い心が、賛美によって慰めと喜びの力にかえられたり、礼拝で共に主を賛美しているときに不思議と魂のうちから熱くなり、感動と喜びが湧き出る何だかわからないけれど涙がとめどなく流れるというようなご経験があるのではないでしょうか。それは聖霊の神の満たしによるもの、お働きによるものです。

固く、冷たくなった心を開き、霊的に飢え乾いた自分のありのままを主に明け渡すとき、主はその人の魂の奥底にまでお入りになり、霊的枯渇、その魂の飢え乾きを霊的充満に満たしてくださるのです。

それは主の教会、エクレシア・主に呼び集められた者のともなる祈り、賛美、礼拝の中に、ゆたかにお働きくださるのです。

主なる神さまは、私たちが霊的枯渇の滅びから救われ、霊的充満となって、あらゆる面でゆたかになるために、何度も繰り返し、希望の言葉を語り続け、招いておられます。私たちは、まずそのような神さまの愛と恵みを魂いっぱいにいただくことが他の何よりも勝って大切なのです。奉仕にしましても霊性がまず満たされるのでなければ、単なる義務感からの喜びのない虚しいものになってしまうでしょう。主の招きに心開き、霊的飢え乾きを満たして頂きましょう。

本日のところで、もう一つ心に留まりますのは、6節以降の御言葉、主の恵みの約束です。

そこを読みますと、「あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ云々」とございます。

ここで注目すべきは、主が「あなたたち」つまりは「主の共同体」が、「祭司」と呼ばれる、と語りかけられておられることであります。それは個人レベルではありません。

主の共同体、これを私たちのことに引きつけて読むならば、教会:エクレシア「主に呼び集められた共同体」、キリストの教会を指しているといえます。

その「わたしたちが主の祭司」であるということ。まあ旧約で祭司といえば、神と民との間を取り持ち、祭儀を取り仕切り、司る特別な働きを託された者をいいますが。ここではそういう特別な人や個人ではなく、「主の共同体であるあなたがたが祭司だ」というのですね。まあバプテストでは「万民(全信徒)祭司」ということを言うわけですが。

大切なのは、祭司の働きがこのように主の共同体としてつながっている一人ひとりによって共に担われていくことを、主は願っておられるのですね。それは具体的には、礼拝を共に与り、互いに祈り、とりなし支え合い、主の御心を実現していくということでしょう。

 

私たちの教会では「語り祈り合う会」が916日に行われました。ここで私たちの抱えている課題について共に語り祈り合うときをもちました。そこには私たちの思いや願いということをまず自由に出し合うということをいたしました。そこから出された課題について、まず主の御心がどこにあり、何であるのかを共に祈り求めていくことが大切であることを私は再認識させられています。またその課題は個人レベルでなく、主にあって共に分かち合われていくことによって、その主の御体である教会もゆたかにされていくのです。そのためには私たちは互いを覚え、主に心を合わせて共に祈っていくことがもっともっと必要ではないでしょうか。

そのようにして、主が恵みと喜びの業として私たちの群れを導き祝して下さることになると信じております。これからも主に呼び集められた「あなたがたは祭司」という御言葉にあって、共に歩んでいきたいと願います。

 

最後に、9節をお読みしたいと思います。

「彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族」。

 

ここには、神さまの救いのお働きが、全世界に広がっていくことが示されます。

7節にあるように、ユダの人々を嘲り、恥ずかしめていた異教の国民が、ユダとイスラエルの復興、リバイブされることを通して、又その子孫によって「救いの神」を、認める時が訪れるというのです。

それは新約の時代に生きる私たちは言うまでもなく、その民の末にお生まれになった神の御子イエス・キリストによって、まさにクリスマスにより始められたのであります。

この主イエスの十字架と復活を通して、「良い知らせ」、神の救いの働きが、ユダヤ人だけでなく、全世界の人々に知られ、主を認める人々が起こされてきました。この第三イザヤの預言は確かに実現していくことになるのです。

今日は、「神の恵みの約束」と題し、御言葉を聞いていきました。

人の思いや考えというものは、たとえ信仰者であっても状況によって弱ってしまったり、萎えたりするものであることを知らされます。捕囚からエルサレムに帰還した民は、神の都エルサレム再建を願いながらも、荒廃した都と生活の苦しい現実の日々に、魂までも暗く沈みこんでいました。「霊的に貧しくなっていた人々の魂」。それは神の愛と恵みによる以外何をもってしても満たし得ないものでした。彼らの魂を本当に満たし、生かし得る力は、主ご自身から来るのであり、それに先立つ預言の言葉であります。

主が、御救いの良き知らせを忍耐強く預言者を通して語り続けられた。そのことは今も変わることがありません。

人は多くの財産や力、地位や権力といったものを土台とし、人生を築こうといたしますが。しかしそれらは移り変わりゆくもの、やがては衰え朽ち果てるものです。それらを得るために労苦するだけの人生は何と虚しいことでしょう。私たちが真の幸いと希望のある人生を築いていくためには、どんな土台を据えればよいのでしょう。それは「神の恵みの約束」、すでに主イエス・キリストによってもたらされ、今も完成の日に向かって成し遂げられ続けているその約束であります。

 

10節にこう記されています。「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる」。

真の幸いと希望は主にあり、主から来ることに信頼し、主のみ体なる教会、エクレシアのつながりのうちに、私たちも又祭司とされて、主に仕えてまいりましょう。

「賛美の衣」「救いの衣」を主からまとわせていただいて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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