礼拝宣教 使徒言行録2章42-47節
本日は午後から大切な大阪教会の総会がございます。先週教会員の方々に予めお配りしました総会資料の中に、今年の教会の方針と年間標語及び聖句を記しておりますが。そこから本日の礼拝宣教をさせていただきたいと思います。この年間聖句が与えられたいきさつについてですが。昨年秋に日本人への宣教と弟子訓練のために来日されて京都で現在お働きになっておられるSBC(南部バプテスト教会)の宣教師とお会いする機会がありました。その方は私に「あなたが大阪教会において目指していることは何ですか?」と唐突に尋ねられたのです。大阪教会が設立された教会規約の中に、そのミッションステートメントともいうべきものが書かれてあります。それは「信仰の修養と伝道」、言うなれば信仰の基盤を確かなものとして築き上げてゆく事と、キリストを宣べ伝えることの実践が掲げられています。そこで私はその方にこう答えました。「大阪教会には伝道、教育、礼典、友愛、財務、庶務というそれぞれの委員会の働きがあり、それが円滑になされるところにある」。まあそういった働きが有機的に円滑になされていくところに、主が建てられた教会としての使命があることを申しあげたのです。すると、この方がサッとある聖書のみ言葉を開いて私に示して下さったのが、この使徒言行録2章42-47節の箇所であったのです。
本日はこのところからメッセージを共に聞いていきたいと思います。
この使徒言行録2章は、十字架の救いのみ業を成し遂げられ、死よりよみがえられた復活の主、イエスが天に上げられた後、使徒たち一同に聖霊を送って下さった、ペンテコステの出来事が書かれています。
そして聖霊によって力を与えられた使徒ペトロが、主イエスこそ神から遣わされた救い主であることを、人々の前で大胆に証言するのです。
それを聞いて大いに心を打たれた人々は、ペトロの奨め、すなわち「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい、そうすれば賜物として聖霊を受けます」。この神の招きを受け入れ、その日のうちに三千人もの人々がバプテスマを受けたと記されています。
このように、イエス・キリストによる罪の赦しと聖霊のお導きによって集められたイエス・キリストを信じる人々の共同体こそが、教会です。
教会は、父なる神によって復活なさり、天に上げられた主イエス・キリストが、聖霊を送って下さったことで誕生しました。
それは弟子たちがひとところに集まって一つになって心を合せて祈るところに聖霊が降り、以来聖霊のお働きによって教会は起こされ、守り導かれ続けているのです。
本日の箇所には、バプテスマを受けてキリスト者とされた者が、どのように、何を大切にして生活をしていたかが書かれています。それは神に招かれ、救いの恵みに入れられた者に湧きあふれる感謝と喜びの生活です。
私たち大阪教会において信仰生活をしている人も、この使徒言行録に書かれている同じ主に招かれて、同じ福音を信じ、同じ聖霊を受けています。そのように彼らが一つにされたところに、私たちも加えられたのですから、私たちの教会生活も、同じことを大切にする生活となります。
今回の箇所ではその具体的な姿として、「一つになって」という言葉がたくさん出てきます。44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」46節「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」47節「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」と。
バプテスマを受けるということは、まず主イエス・キリストと一つに結ばれるということです。イエス・キリストの十字架における贖いにより罪の赦しに与り、そのイエス・キリスト復活の命に与かるのです。
しかしそれで終わりません。バプテスマは信仰生活のスタートに過ぎません。教会には自分と共にキリストに結ばれている同胞の信徒たちがいます。皆共に、救いの主、キリストに結ばれた者として、互いも結ばれているのです。キリストに結ばれた者たちは、主にあって一つになります。
イエス・キリストにあって、わたしたちは神を「父」と呼び、神の子どもとなることがゆるされたのですから、キリストに結ばれた者は互いに家族なのです。教会は主にある家族となって、一つにされて、共に生きていく群れとなるのです。
さて、42節には、そのように一つとされた彼ら弟子たちが「熱心であった」四つのことをあげています。それは「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」ことであります。
「使徒の教え」とは、イエス・キリストがまさに神から遣わされたお方であり、救い主であるという証言を聞くことです。
そして38節にあるように「罪の悔い改めと信仰の告白をなして、キリストの名でバプテスマを受け、罪を赦していただくように」との勧めがなされます。すでに信じている者は救いの確信を新たにします。それは私どもにとりましても同じ聖霊のお働きの中で、この主日礼拝を通して、又聖書の学びの場や証を通して続けられているのです。
さらに聖書は、主イエス・キリストに従う者が、個人個人の思うままに生きるのではないことを示します。一人ひとりが主イエスに救われ尊くされた存在であることを認め合って互いを大切にし共に助け合い、祈り合う。それが、次の「相互の交わり」です。
主イエスは「二、三人わが名によって集まるところにわたしも共にいるのである」とおっしゃいました。又、弟子たちに向けた告別説教において「あなたがたは互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と強くお命じになりました。
イエス・キリストに結ばれた信徒は、共に結ばれた主の霊的な家族なのです。主にあって心を一つに相互の交わりをもつのです。
まあ初めて教会に来た方は、教会の中で「交わりの時を持ちます」とか、「豊かな交わりを感謝します」とかいう言葉を聞いて、普通は使わない言い方ですから何だろうと思われる方もおられるかも知れません。
「交わり」というのは、教会で使われている独特な言葉の一つでしょう。これは、ただ単に交流するとか、仲良くする、という意味ではありません。
「交わり」、ギリシャ語の原語で「コイノニア」というこの言葉には、「共にあずかる」「共有する」という意味があります。
44節には、その「相互の交わり」の具体的な当時の出来事として、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆がそれを分け合った」と書かれています。
複雑化した現代社会の中でそれがそっくりそのままというのは困難なことですが。大切な点は、信徒たちは、まず「皆一つになった」ということです。それは先にも申しましたように、「キリストに結ばれて、そのキリストによって互いに一つとされる」とうことです。それが「相互の交わり」の原点です。
主イエスの救いの恵みと信仰の喜びを共有するがゆえに、それぞれに与えられたものも、分かち合うことができます。この立派な教会堂もそのようにして捧げられ建てられました。それは財産や持ち物に限ったことではなく、与えられた賜物、持っている能力、そして弱さも、困難も、すべてを共有して、互いに与え合い、補い合い、一つになって主に従っていくこと。それが、本来の「相互の交わり」なのです。人間的な考えでは難しいことです。人間の力で出来ることではありません。聖霊のお導きによる聖書理解と信仰。主イエスに倣い神に従う愛と忍耐。そして謙虚さ。相互の交わりはそうしてキリストの栄光を現すにふさわしいゆたかなものとなっていくでしょう。ただ気の合う人、自分によくしてくれる人とだけかたまり、そうでない人にはそっぽを向くのは相互の交わりとはいえません。どこまでも主イエスに倣い、謙虚に従ってゆくものでありたいと願います。
次に、この共有する主イエスの救いの恵みの、目に見えるしるしとして、キリスト者が大切に守り続けてきているが「パンを裂くこと」です。当時は一枚の丸くて薄い煎餅のようなパンをペリっと裂いて分け合ったんですね。
主イエスは十字架につけられる前夜に、最後の晩餐の席で、ご自分の死が、すべての者に命を与えるためのものであること、罪の贖いのための、神との新しい契約である事をお示しになりました。そして、その救いの新しい契約が代々の時代に亘って変わる事ことなくわかち合われていくために、十字架で裂かれた主のみ体を表すパンを裂き、流された血を表すぶどう酒をみなで頂く事を記念として行うようにと、定められたものです。
主イエスの十字架で裂かれたその体によって、流されたその血によって新しい命を与えられた。この主の晩餐によって、私たちの信仰は守られ新たにされます。
そしてその主イエスとの交わりの食卓には、共にあずかる主にある同胞がいます。何という幸い、喜びではないでしょうか。この世のパンは朽ちるものですが、主の霊的なパンは共に分かち合われる事によって、主の愛の深さと救いの恵みが確かなもとされます。
そして4つめですが。キリストのからだである教会につながって生きる者は、祈ることに熱心でありました。
もともとユダヤ人は、よく祈っていました。時間を決めて、一日に何度もお祈りをしました。3章のはじめにも「ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と書かれています。46節には、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあるように、キリストを信じた者たちは一緒になって、週に一度だけではなく、毎日神殿に赴き、祈りを捧げていたのですね。
ところで、主イエスが教えて下さった主の祈りは、自分の願いや訴えの祈りからではなく、全能者である天地創造の神さまに「父よ」と呼びかける祈りです。
主イエスは「御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈るように教えてくださいました。それは神さまこそ神さまとされる。神さまでないものが神さまのようになるとき、人も社会も大変不幸になっていきます。「御名があがめられ」、まず神の国と神の義が求められるとき、必要は満たされると主イエスはおっしゃいました。それらの事こそ、すべてのキリスト者が最も待ち望み、一番に願いとすべきことなのです。
すべての者が、真の神を礼拝しますように。「御国が来ますように」。神の国が完成しますように。「神のみ心が成りますように」。このみ心とは、主イエスの十字架と復活の福音を主が造られたすべての者が信じることです。
教会は、主イエス・キリストが十字架と復活によって、罪と死に勝利され、始めて下さった神のご支配が、完成する日を待ち望んでいます。主にあって一つとされたわたしたちは、この約束を待ち望んで共に祈り、また聖霊の働きを祈り求めながら、主との交わりと、また相互の交わりの中で、福音を宣べ伝えつつ歩んでいくのです。
聖霊が送られたペンテコステの時から、教会はそのような歩みを始めました。
その歩みは、聖霊のお導きによって始められ、キリストを信じ受け入れた者は共に「使徒の教えを聞き」、「相互に交わり」、「パンを裂き」、「祈る」信仰の生活へと導かれます。そして、主イエスを証しする力を与えられて、御国の完成のために神の御業に、伝道に用いられていくのです。
そのような信仰の生活が共になされていく中で47節にあるように、人でなく「『主は』救われる人々を日々仲間に加え、一つにされた」。そういう出来事がさらに起こされていったというのです。
一昨日天に召されたTさんのお連れ合いの徳次さんはYさん宅で持たれた家庭集会に出席なさり、それから水曜の祈祷会、そのうち礼拝にも出席なさって、そこで御言葉の分かち合いと祈り、又愛さんの食事を共にし、遂にバプテスマへと導かれました。兄弟は先に天に召されましたが、お連れ合いのTさんも昨年バプテスマへと導かれ主にある家族とされたことは、皆さま明日、明後日と天の国へお見送りをするのでありますが。思い起こせば、なんと大きな主の愛の中でゆたかで温かな出会いと交わりを与えられたことか、と唯感謝であります。
さて、今日の聖書箇所には、主の福音、主の御救いをまだ知らない人々、又教会に属していない人々が、その様子をどう見ていたかということが書かれています。
43節には、「すべての人に恐れが生じた」とあり、47節には「民衆全体に好意を寄せられた」と記さています。
すべての人が恐れたのは、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたから、とあります。この「恐れ」という言葉は、恐怖の恐れではなくて、神への畏敬の念、敬う気持ちで近づくことが出来ない、そのような畏怖という意味の言葉です。
又、民衆全体から「好意を寄せられた」というのは、聖霊が降り、ペトロの説教で心を打たれた三千人が、バプテスマを受け、皆で使徒の教えを聞き、互いに交わり、共有している生き生きとした姿があった。毎日心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美している生き生きとした姿があったからです。それを見た人たちは素晴らしい、好ましいことと思ったのです。
皆が人を裁いたり、悪口を言い、ギスギスしていたり、派閥をつくっていれば、誰も教会に見向きもしなかったでしょう。
私たちの教会も聖霊の働きを受け、このペンテコステに誕生した教会に連なっています。キリストにあって一つにされて、聖書の教えを共に聞き、相互に交わり、パンを裂き、祈りつつ、主イエスとその救いの素晴らしさに生かされ、世にあって証とされていく信仰の生活を共に送っていきたいと心から願うものです。今も変わることのない福音の喜びに共に生きるとき、主ご自身が、またこの群れに、救われる人々を仲間に加え、一つにして下さるでしょう。
私たちの今年の一日一日の歩みが、「使徒の教え」「相互の交わり」「パン裂くこと」「祈ること」において一つとされ、キリストを迎えるにふさわしい教会、エクレシアとされてまいりましょう。