日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

心を一つにして

2020-01-26 16:22:46 | メッセージ

礼拝宣教 使徒言行録2章42-47節 

 本日は午後から大切な大阪教会の総会がございます。先週教会員の方々に予めお配りしました総会資料の中に、今年の教会の方針と年間標語及び聖句を記しておりますが。そこから本日の礼拝宣教をさせていただきたいと思います。この年間聖句が与えられたいきさつについてですが。昨年秋に日本人への宣教と弟子訓練のために来日されて京都で現在お働きになっておられるSBC(南部バプテスト教会)の宣教師とお会いする機会がありました。その方は私に「あなたが大阪教会において目指していることは何ですか?」と唐突に尋ねられたのです。大阪教会が設立された教会規約の中に、そのミッションステートメントともいうべきものが書かれてあります。それは「信仰の修養と伝道」、言うなれば信仰の基盤を確かなものとして築き上げてゆく事と、キリストを宣べ伝えることの実践が掲げられています。そこで私はその方にこう答えました。「大阪教会には伝道、教育、礼典、友愛、財務、庶務というそれぞれの委員会の働きがあり、それが円滑になされるところにある」。まあそういった働きが有機的に円滑になされていくところに、主が建てられた教会としての使命があることを申しあげたのです。すると、この方がサッとある聖書のみ言葉を開いて私に示して下さったのが、この使徒言行録2章42-47節の箇所であったのです。
本日はこのところからメッセージを共に聞いていきたいと思います。

この使徒言行録2章は、十字架の救いのみ業を成し遂げられ、死よりよみがえられた復活の主、イエスが天に上げられた後、使徒たち一同に聖霊を送って下さった、ペンテコステの出来事が書かれています。
そして聖霊によって力を与えられた使徒ペトロが、主イエスこそ神から遣わされた救い主であることを、人々の前で大胆に証言するのです。
それを聞いて大いに心を打たれた人々は、ペトロの奨め、すなわち「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい、そうすれば賜物として聖霊を受けます」。この神の招きを受け入れ、その日のうちに三千人もの人々がバプテスマを受けたと記されています。
このように、イエス・キリストによる罪の赦しと聖霊のお導きによって集められたイエス・キリストを信じる人々の共同体こそが、教会です。
教会は、父なる神によって復活なさり、天に上げられた主イエス・キリストが、聖霊を送って下さったことで誕生しました。
それは弟子たちがひとところに集まって一つになって心を合せて祈るところに聖霊が降り、以来聖霊のお働きによって教会は起こされ、守り導かれ続けているのです。

本日の箇所には、バプテスマを受けてキリスト者とされた者が、どのように、何を大切にして生活をしていたかが書かれています。それは神に招かれ、救いの恵みに入れられた者に湧きあふれる感謝と喜びの生活です。
私たち大阪教会において信仰生活をしている人も、この使徒言行録に書かれている同じ主に招かれて、同じ福音を信じ、同じ聖霊を受けています。そのように彼らが一つにされたところに、私たちも加えられたのですから、私たちの教会生活も、同じことを大切にする生活となります。

今回の箇所ではその具体的な姿として、「一つになって」という言葉がたくさん出てきます。44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」46節「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」47節「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」と。
バプテスマを受けるということは、まず主イエス・キリストと一つに結ばれるということです。イエス・キリストの十字架における贖いにより罪の赦しに与り、そのイエス・キリスト復活の命に与かるのです。
しかしそれで終わりません。バプテスマは信仰生活のスタートに過ぎません。教会には自分と共にキリストに結ばれている同胞の信徒たちがいます。皆共に、救いの主、キリストに結ばれた者として、互いも結ばれているのです。キリストに結ばれた者たちは、主にあって一つになります。
イエス・キリストにあって、わたしたちは神を「父」と呼び、神の子どもとなることがゆるされたのですから、キリストに結ばれた者は互いに家族なのです。教会は主にある家族となって、一つにされて、共に生きていく群れとなるのです。

さて、42節には、そのように一つとされた彼ら弟子たちが「熱心であった」四つのことをあげています。それは「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」ことであります。

「使徒の教え」とは、イエス・キリストがまさに神から遣わされたお方であり、救い主であるという証言を聞くことです。
そして38節にあるように「罪の悔い改めと信仰の告白をなして、キリストの名でバプテスマを受け、罪を赦していただくように」との勧めがなされます。すでに信じている者は救いの確信を新たにします。それは私どもにとりましても同じ聖霊のお働きの中で、この主日礼拝を通して、又聖書の学びの場や証を通して続けられているのです。
さらに聖書は、主イエス・キリストに従う者が、個人個人の思うままに生きるのではないことを示します。一人ひとりが主イエスに救われ尊くされた存在であることを認め合って互いを大切にし共に助け合い、祈り合う。それが、次の「相互の交わり」です。
主イエスは「二、三人わが名によって集まるところにわたしも共にいるのである」とおっしゃいました。又、弟子たちに向けた告別説教において「あなたがたは互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と強くお命じになりました。
イエス・キリストに結ばれた信徒は、共に結ばれた主の霊的な家族なのです。主にあって心を一つに相互の交わりをもつのです。
まあ初めて教会に来た方は、教会の中で「交わりの時を持ちます」とか、「豊かな交わりを感謝します」とかいう言葉を聞いて、普通は使わない言い方ですから何だろうと思われる方もおられるかも知れません。
「交わり」というのは、教会で使われている独特な言葉の一つでしょう。これは、ただ単に交流するとか、仲良くする、という意味ではありません。
「交わり」、ギリシャ語の原語で「コイノニア」というこの言葉には、「共にあずかる」「共有する」という意味があります。
44節には、その「相互の交わり」の具体的な当時の出来事として、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆がそれを分け合った」と書かれています。
複雑化した現代社会の中でそれがそっくりそのままというのは困難なことですが。大切な点は、信徒たちは、まず「皆一つになった」ということです。それは先にも申しましたように、「キリストに結ばれて、そのキリストによって互いに一つとされる」とうことです。それが「相互の交わり」の原点です。
主イエスの救いの恵みと信仰の喜びを共有するがゆえに、それぞれに与えられたものも、分かち合うことができます。この立派な教会堂もそのようにして捧げられ建てられました。それは財産や持ち物に限ったことではなく、与えられた賜物、持っている能力、そして弱さも、困難も、すべてを共有して、互いに与え合い、補い合い、一つになって主に従っていくこと。それが、本来の「相互の交わり」なのです。人間的な考えでは難しいことです。人間の力で出来ることではありません。聖霊のお導きによる聖書理解と信仰。主イエスに倣い神に従う愛と忍耐。そして謙虚さ。相互の交わりはそうしてキリストの栄光を現すにふさわしいゆたかなものとなっていくでしょう。ただ気の合う人、自分によくしてくれる人とだけかたまり、そうでない人にはそっぽを向くのは相互の交わりとはいえません。どこまでも主イエスに倣い、謙虚に従ってゆくものでありたいと願います。

次に、この共有する主イエスの救いの恵みの、目に見えるしるしとして、キリスト者が大切に守り続けてきているが「パンを裂くこと」です。当時は一枚の丸くて薄い煎餅のようなパンをペリっと裂いて分け合ったんですね。
主イエスは十字架につけられる前夜に、最後の晩餐の席で、ご自分の死が、すべての者に命を与えるためのものであること、罪の贖いのための、神との新しい契約である事をお示しになりました。そして、その救いの新しい契約が代々の時代に亘って変わる事ことなくわかち合われていくために、十字架で裂かれた主のみ体を表すパンを裂き、流された血を表すぶどう酒をみなで頂く事を記念として行うようにと、定められたものです。
主イエスの十字架で裂かれたその体によって、流されたその血によって新しい命を与えられた。この主の晩餐によって、私たちの信仰は守られ新たにされます。
そしてその主イエスとの交わりの食卓には、共にあずかる主にある同胞がいます。何という幸い、喜びではないでしょうか。この世のパンは朽ちるものですが、主の霊的なパンは共に分かち合われる事によって、主の愛の深さと救いの恵みが確かなもとされます。

そして4つめですが。キリストのからだである教会につながって生きる者は、祈ることに熱心でありました。
もともとユダヤ人は、よく祈っていました。時間を決めて、一日に何度もお祈りをしました。3章のはじめにも「ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と書かれています。46節には、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあるように、キリストを信じた者たちは一緒になって、週に一度だけではなく、毎日神殿に赴き、祈りを捧げていたのですね。
ところで、主イエスが教えて下さった主の祈りは、自分の願いや訴えの祈りからではなく、全能者である天地創造の神さまに「父よ」と呼びかける祈りです。
主イエスは「御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈るように教えてくださいました。それは神さまこそ神さまとされる。神さまでないものが神さまのようになるとき、人も社会も大変不幸になっていきます。「御名があがめられ」、まず神の国と神の義が求められるとき、必要は満たされると主イエスはおっしゃいました。それらの事こそ、すべてのキリスト者が最も待ち望み、一番に願いとすべきことなのです。
すべての者が、真の神を礼拝しますように。「御国が来ますように」。神の国が完成しますように。「神のみ心が成りますように」。このみ心とは、主イエスの十字架と復活の福音を主が造られたすべての者が信じることです。
教会は、主イエス・キリストが十字架と復活によって、罪と死に勝利され、始めて下さった神のご支配が、完成する日を待ち望んでいます。主にあって一つとされたわたしたちは、この約束を待ち望んで共に祈り、また聖霊の働きを祈り求めながら、主との交わりと、また相互の交わりの中で、福音を宣べ伝えつつ歩んでいくのです。

聖霊が送られたペンテコステの時から、教会はそのような歩みを始めました。
その歩みは、聖霊のお導きによって始められ、キリストを信じ受け入れた者は共に「使徒の教えを聞き」、「相互に交わり」、「パンを裂き」、「祈る」信仰の生活へと導かれます。そして、主イエスを証しする力を与えられて、御国の完成のために神の御業に、伝道に用いられていくのです。
そのような信仰の生活が共になされていく中で47節にあるように、人でなく「『主は』救われる人々を日々仲間に加え、一つにされた」。そういう出来事がさらに起こされていったというのです。
一昨日天に召されたTさんのお連れ合いの徳次さんはYさん宅で持たれた家庭集会に出席なさり、それから水曜の祈祷会、そのうち礼拝にも出席なさって、そこで御言葉の分かち合いと祈り、又愛さんの食事を共にし、遂にバプテスマへと導かれました。兄弟は先に天に召されましたが、お連れ合いのTさんも昨年バプテスマへと導かれ主にある家族とされたことは、皆さま明日、明後日と天の国へお見送りをするのでありますが。思い起こせば、なんと大きな主の愛の中でゆたかで温かな出会いと交わりを与えられたことか、と唯感謝であります。

さて、今日の聖書箇所には、主の福音、主の御救いをまだ知らない人々、又教会に属していない人々が、その様子をどう見ていたかということが書かれています。
43節には、「すべての人に恐れが生じた」とあり、47節には「民衆全体に好意を寄せられた」と記さています。
すべての人が恐れたのは、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたから、とあります。この「恐れ」という言葉は、恐怖の恐れではなくて、神への畏敬の念、敬う気持ちで近づくことが出来ない、そのような畏怖という意味の言葉です。
又、民衆全体から「好意を寄せられた」というのは、聖霊が降り、ペトロの説教で心を打たれた三千人が、バプテスマを受け、皆で使徒の教えを聞き、互いに交わり、共有している生き生きとした姿があった。毎日心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美している生き生きとした姿があったからです。それを見た人たちは素晴らしい、好ましいことと思ったのです。
皆が人を裁いたり、悪口を言い、ギスギスしていたり、派閥をつくっていれば、誰も教会に見向きもしなかったでしょう。
私たちの教会も聖霊の働きを受け、このペンテコステに誕生した教会に連なっています。キリストにあって一つにされて、聖書の教えを共に聞き、相互に交わり、パンを裂き、祈りつつ、主イエスとその救いの素晴らしさに生かされ、世にあって証とされていく信仰の生活を共に送っていきたいと心から願うものです。今も変わることのない福音の喜びに共に生きるとき、主ご自身が、またこの群れに、救われる人々を仲間に加え、一つにして下さるでしょう。
私たちの今年の一日一日の歩みが、「使徒の教え」「相互の交わり」「パン裂くこと」「祈ること」において一つとされ、キリストを迎えるにふさわしい教会、エクレシアとされてまいりましょう。

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主イエスと一緒に

2020-01-19 19:59:44 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ6章16-21節 

先週は工藤信夫先生よりフィレモンへの手紙を通してメッセージを頂きました。福音を伝えたため迫害され捕えられた使徒パウロが、「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と記した言葉から、語られたのですが。この「もうける」とは、単に生理学的な意味で子を産む女性に限った事柄ではない。神の愛と憐みに満たされてその恵みを他者に知ってほしい、次世代に受け継いでいってほしい、そのような願いと執り成しをする人は、うける人、生みだす人だということをお聞きしました。私たちもまた、そのような者でありたいものです。

さて、今日は再びヨハネ福音書に戻り、6章のエピソードから御言葉に聞いていきたいと思います。前々回はイエスさまとファリサイ派で議員のニコデモとのやり取りから「御子イエスにある命」というテーマで御言葉に聞いていきました。それから聖書教育に沿って水曜の聖書の学び会では、ヨハネ福音書4章のイエスさまとサマリアの女性との対話の場面より、「イエスさまこそ、尽きることのないまことの生きた水」であるという箇所を読みました。
今日読んでいます箇所の前には、5つのパンと2匹の魚で男だけで5千人以上の人々が満腹した、という奇跡物語が記されています。それに続く本日の箇所には、イエスさまがガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗る舟に来られたといういわゆる奇跡物語が記されてあります。そうしてこの2つの出来事の後に、「イエスさまは命のパンである」という私どもにとっての大切な聖礼典であります主の晩餐の原点ともいえるお話がでてまいります。
今日はその、命の糧であるイエスさまとはどういう存在であられるのか、ということを念頭におきながら聖書に聞いていきたいと思います。

6章の1節で、「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」とあります。
おそらくこの時は弟子たちと一緒の舟に乗って宣教拠点となったカファルナウムからティベリアス湖の向こう岸に渡って行かれたのでしょう。
続く16-17節には、「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」とあります。おそらく弟子たちはパンの奇跡後相当疲れ果てていたでしょう。もう早く帰りたいとの急ぐ思いがあったのか、イエスさまを残したまま舟に乗り込んで向こう岸のカファルナウムへ戻ろうとします。まあここの前を見ると奇跡を目の当たりにした人々から、イエスさまは王にまつりあげられそうになりますが。しかしイエスさまはそれを拒んで山に退かれたとあります。
イスラエルを当時支配していたローマの抑圧からの解放を実現する王として、ユダヤの人々も、さらに弟子たちも期待していたんですね。ところがイエスさまは雲隠れなさったということで、弟子たちの中にはある種の不信感や失望感が生じたのかも知れません。どちらにしましても、行きの往路はイエスさまと一緒に向こう岸に来た弟子たちでしたが、この帰りの舟には彼らだけでイエスさまは乗り込まれていません。

そのとき「既に暗くなっていた」とあります。岩波訳の聖書では「既に闇になっていた」と訳されています。こちらの訳の方がその真意をよく伝えています。12月のアドヴェントの時に読みましたヨハネ1章にも「暗闇は光を理解しなかった」とありました。そこでも「闇」という言葉が使われているのです。ですから、それは単に暗かったというのではないのです。
弟子たちは元漁師でしたから暗くてもこれまでの自分たちの経験によって、その暗いなかを自分たちだけで辿り着く自信がありました。だからイエスさまを抜きにして行動した。それが「暗闇」だと聖書は示すのです。光である神さまの愛、救いである主イエスを理解しない、受け入れようとしない。それが暗闇だ、ということですね。

私たちの人生はしばしば舟旅になぞらえられます。人生行路とか、いくつもそんな唄があります。教会もまたしばしば舟にたとえられます。そこには見ず知らずの人たちがたまたま乗り合わせているのではありません。乗っているのは皆、主イエスの弟子たちです。主イエスを信じ従っている者たちが共に乗り込み、目指す地に向かって漕ぎ出し、渡っていく、それが世にある教会の姿です。私たちは神さまのご計画と聖霊の導きによってこの舟に乗り込み、信仰の共同体とされた人たちと共に目指す地に向かって漕ぎ出したのです。
ところで、今日の聖書では弟子たちのこの舟にイエスさまが乗っておられなかった。これは一体どういうことでしょうか。それは弟子たちが自分たちの考えだけで目的地を決めて急いだからです。

すると18節「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」。舟は高波にもまれながら、それでも元漁師でもあった弟子たちは躍起になり、自分たちの実績や経験に頼って25乃至30スタディオン、まあ5000メートル~5500メートルを、高波の中彼らは結構な距離を舟で漕ぎ出し突き進んでいったということです。

今日の聖書の重要なメッセージはここからです。なんと強風に漕ぎ悩んでいた弟子たちの舟に、イエスさまが、湖の上を歩いて近づいて来られたのです。弟子たちは近づいてこられるイエスさまを見て、「恐れ」ます。そこで彼らは何を恐れたのでしょうか。幽霊か化け物が水の上を歩いて近づいて来る、との恐怖心が襲ったのでしょうか。並行記事でありますマタイとマルコ福音書にはそのように語られています。              
けれどもこのヨハネ福音書は違うのです。
「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた」とだけ語っています。それは、イエスさまとは一体どういうお方なのだろうという大きな畏怖の念が湧き上がった、又一同がそういう思いに包まれたのではないでしょうか。

するとイエスさまは恐れている彼らに、「わたしだ。恐れることはない」とお語りになるのです。このお言葉こそ、今日の聖書が一番伝えんとしているメッセージなのです。
この「わたしだ。恐れることはない」というお言葉の「わたしだ」は、原文のギリシャ語の言葉をそのままご紹介すれば、「エゴー エイミ」です。それは英語に当てはめれば、「アイ アム」です。それをこの文脈に即して訳せば「わたしだ」と強調しているわけです。又、文脈によって「わたしはある」と訳すことができます。あのモーセが荒野の燃える柴を前にして神の御声を聞いた時、神自ら「わたしはあるというものだ」と御自身をお示しになられた。この「エゴ- エイミ」と同じなんですね。
今日のところの前のエピソードでは、イエスさまがパンの奇跡でもって5千人以上の人々を満たされましたが。今読んでいる個所の後に「イエスは命のパン」と見出しがついたところの35節「わたしが命のパンである。わたしを信じる者は決して渇くことがない」とおっしゃった、この「わたしが」もエゴ- エイミ。さらに51節「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と語られていますそこもエゴ- エイミですが。このように「エゴー エイミ」は主イエスとはどなたであるかを語ることにおいて用いられる大事なキーワードなのです。
先週礼拝では読めませんでしたが、4章の「サマリアの女」のところでも、サマリアの女性が、私たちはキリストと呼ばれるメシアが来ると聞かされていると言った時に主イエスが、「あなたと話しているわたしがそれである」とお語りになった。これも「エゴー エイミ」です。それは、主イエスがそのように父の神と一つであられることが言い表わされているのです。
先にも申しましたように、主なる神がモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するための使命へとモーセをお召しになったとき、同胞たちに神のお名前を尋ねられたらどう答えたらよいでしょうかというモーセの問いに対して主は、「わたしはある。わたしはあるというものだ」とおっしゃった。それは、まさに生きておられる神さまが力をもって臨んでおられることを示す言葉なのです。湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたイエスさまもまた、このお言葉をもって弟子たちに語りかけられた。
エゴー エイミ。「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃったのです。

私たち、又教会は、この世の現実の中で信仰をもって歩んで行こうとする時、時として忙しさや焦りから、イエスさまにより頼んでいくことより、自分の考えや経験値による判断や、この社会の原理原則を優先してしまうことがないでしょうか。イエスさまを抜きに自分が主になって先走りしてしまうことがないでしょうか。人は、何を主として生きるのか、ということによってその生き方も、大きく変わってきます。

ここで、昔?大阪キリスト教短大神学科時代に講義でお世話になった村上久先生がご経験された出来事を綴った手記をご紹介します。
「ある教会の特別聖書講演会に招かれて説教した時のことである。私は一見して新婚と分かる夫婦に出会った。説教が終わると、前の方に席をとっていた2人が話しかけてきた。ご主人はエリートコースを順調に進み、名の知れた大手の会社に就職し、出世コースを驀(ばく)進。身を立て名をあげることが彼の人生の目標だったという。そして能力的にも一応の評価を得て、あるポストに落ち着くことができた時点で結婚に踏み切った。ここまでは順調であった。ところがそれから半年もたたないうちに、彼は鉄槌で頭をなぐられるような挫折感を味わうことになる。視力が急に落ちてきたことを自覚して診察を受けに行った結果、脳腫瘍と診断されたのである。その時彼は目の前が真暗になったという。その診断を死の宣告と受け止めたのだ。
その時彼は初めて分かったそうである。それまで自分が一生をささげても悔いはないと思っていた仕事や、立身出世の目標が、いざという時何の支えにもならないということを。そんなことのために自分は今まで生きてきたのかと思うと情けなかった。これが脳腫瘍の宣告を受けて初めて彼が知った真理であった。
「その時支えとなったのは、私のそばにいて共に戦ってくれた妻でした」と語るご主人の目には涙が浮かんでいた。「先生。それでも私たち夫婦の力だけではやっぱりだめな気がします。もっとしっかりした確かな支えが欲しいのです。聖書やキリスト教の中に本当に頼れる確かなものがあるかも知れないと思って、きょう生まれて初めて教会を訪ねました」。脳腫瘍の手術を終えて退院間もないご主人と奥さんはこのように私に語ってくれた。お二人を前にして、唯一安全なイエスにある人生に移ることの必要をしみじみ感じさせられた次第である。

21節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。
興味深いのは、イエスさまを迎え入れた、イエスさまが乗り込まれたから嵐が止み、舟が目指す地に着いたというのではなく、「迎え入れようとした。すると間もなく目指す地に着いた」ということです。それは「イエスさまを迎え入れようとする」ことが大事だといっているのです。
「わたしだ。恐れることはない」と言われる生きておられる神さま、大いなる御業をされる方、主イエスを、自分たちの舟に「迎え入れようとする」。主イエスと一緒に歩もうとすることに、私たち教会という舟に乗船している者のあるべき姿が示されているのではないでしょうか。
人間の力の限界を強く思い知らされ、すぐに恐れと不安と諦めに陥ってしまう私たちにできること、なすべきことは、まことの神さまとしてお出でくださった主イエスを自分の人生に、又共同体にお迎えしようとする、私たちの姿勢が大切なのです。
「主よ、来て下さい。主よ、栄光を現わして下さい」。それを求めて生きるならば、その先の事は主イエスご自身がして下さるのです。私たちはそれを求めているでしょうか。
それによって弟子たちの舟は、ほんとうに主が備えてくださる目指す地に着いたのです。彼らの舟は確かにカファルナウムに着いたのですが、そのように具体的に限定されて書かれておらず、ただ「目指す地」と書かれています。そこがミソなんです。その地こそ、主に信頼し求めて生きる者に主が備えてくださる「目指す地」だからです。

「エゴ- エイミ」。今日も主は私たちに「わたしだ、恐れるな」と、御自身を現わしておられます。この主に堅く信頼し、主と共に一緒に目指す地に向って漕ぎ出してまいりましょう。

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音楽劇&うた&トーク

2020-01-10 11:15:33 | イベント

藍色のシャマール(それは砂漠に吹く熱い風) 過去~今と未来へ

【プログラム】

第一章:音楽劇「イマジナリーライン」

紛争地域の子どもたちや市民の生活を取材し続けた、フリージャーナリストの後藤健二さんの体験をもとに桜人企画の馬場さくらさんが書き下ろしたオリジナル作品。イマジナリーライン;音楽劇

第二章:トークライブ+音楽ライブ

トークライブゲスト:上田崇順さん(毎日放送アナウンサー)

音楽ゲスト:矢田トモヨシさん、IYCOさん、ゆかり☆ゴスペルさん

【日時】

 2月1日(土)10:30 ※公開ゲネ(未就学児連れ親子優先)/13:00/17:00

  2日(日)15:00   〔会場は30分前〕

【料金】

 前売り:一般2000円/U22(22歳以下):1500円/U15(15歳以下)1000円/小学生無料

 《当日》すべて500円UPとなります。

【会場】

 日本バプテスト連盟・日本バプテスト大阪教会 大阪市天王寺区茶臼山町1-17 TEL:06-6771-3865

 JR・大阪メトロ各天王寺駅から徒歩6分。

 ※駐車場はありません。最寄りの交通機関でお越しください。

 ※車椅子の方もそのままお入りいただけます。

 

お問合せ Email:info@sakura-presents.com TEL:080-5763-3900(制作部)

お申込み http://my.formman.com/form/pc/6TLSLf76uiPbzsmn/

主催 桜人企画(さくらきかく) Hp:http://sakura-presents.com/

 

 

 

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御子イエスにある命

2020-01-05 14:01:02 | メッセージ

新年礼拝宣教 ヨハネ3章16-18節

主イエス・キリストのご生誕の聖歴2020年を心よりお慶び申しあげます。
今年も変わることなく主の愛と救いを確認する週の初めの礼拝、また週の真ん中の聖書の学びと祈り会を守り、喜びに満たされた歩みとなりますよう祈願いたします。

昨年度は、コリント二5章17節の「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」との年間の聖句でありました。「新しく造られた私たち」という標語をメッセージの中にもしばしば折込みつつ語らせて頂きましたが。この聖句は口語訳聖書では、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と訳されています。ここには「見よ、すべてが新しくなった」という感動が強調されているのですね。
古いもの新しいものというと、時代や時の流れをイメージいたします。本日も新年の初めての主の日の礼拝がもたれているわけですが。しかし聖書のいうところの「すべてが新しくなった」というのは、万物の一切が新しく創造されたということです。付け足しとかリフォームしたとかじゃなくて、全く新しく創造されたと言うのです。そしてその驚くべき創造のみ業は、キリストによってもたらされました。イエスさまの十字架の贖いにより古き自分が罪赦され、バプテスマの水に死に、霊によって新しい人とされるのであります。
この「古いもの」というのは、キリストを知らなかったために囚われていたこの世の価値基準、自我の欲するままの生き方です。それは神の愛と救いを拒絶する生き方です。しかし、キリストがその古い自分の罪のために死んでくださったという信仰、聖霊の導きによる確信と確認を怠らず、その愛にとどまり続ける人は、すべてが日毎に新しくされ続けるのです。それは恵みの体験に他なりません。

さて、先ほど新年礼拝の箇所としてヨハネ3章16-18節が読まれました。
この個所の前段において、ユダヤの議員でファリサイ派に属するニコデモという人が登場します。ファリサイ派は罪や不浄と自分を分離してきよく正しい行いをもって生きてゆこうとする派閥の人たちでした。ニコデモは高齢者となるまで律法を熱心に守り通してきたのですが、その魂の奥深いところで神への強い飢え渇きをもっていたのです。
行いによっては、それを完全になし得ない罪の自覚が生じます
彼はある夜イエスさまを訪ねて来ました。そのニコデモに対してイエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とお告げになりました。これは「人は自分の力や行いで自分を救うことは出来ない。神によって、聖霊の働きによって新しい人に生まれ変わらせていただかなければ、誰も救われない」と言われたわけです。

         
しかし、先に申しましたようにニコデモはファリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒ですから、たくさんの本を読んで、立派な教師につき、律法を暗唱して、自分の力で、自分が律法を守って、良い人間、正しい人間になる。そのことによって神に認められ、救われると思っていたわけです。
ニコデモとイエスさまの二人の対話は、この救いについての根本的な理解の違いから、どうしても食い違ってしまいます。イエスさまが「霊から生まれる」ということを語りますと、ニコデモは「どうやってもう一度生まれなおすことが出来るでしょう、そんなことはありえない」と言うのです。
ニコデモは、神によって、聖霊の働きによって、人が全く新しい人に生まれ変わるということが信じられなかった、受け入れることが出来なかったのです。
しかし、誰もニコデモを責めることは出来ないでしょう。
イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受け、神の子、神の僕とされる中で、新しい人に生まれ変わるということを、私たちも、少しも分かっていなかったと思うのです。私は高校1年生の時にイエスさまを救い主と信じて、バプテスマを受けましたが、バプテスマを受ける前から聖霊の働きについては理解していたとは言えません。父なる神や子なるキリストは何となく分かるけれど、聖霊がよく分からないということがあったと思います。
私がちょうど20歳の頃でしたか。ローマ書6章「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」というバプテスマについてのみ言葉を読んでいた時でありました、その時に「古き人である私は完全にキリストと共に十字架につけられた」という何とも言葉では言い表すことのできないような平安と喜びの感動がこみ上げてきたのです。それは聖霊の臨在と恵みに圧倒された経験であったと思います。
そうして、私自身、聖霊が分かる、正確には聖霊の満たしとお働きを知らされる時というのは、日々御言葉に与り、祈る中で主の恵みを確認し、同時に主の日の礼拝や水曜の聖書を共に読んで分かち合い祈り合う祈祷会、さらに主にある兄弟姉妹とのさまざまなつながりにおいてであります。
この時のニコデモは古きに留まり、神が新しいことを興されたことを理解することができません。
そこで、イエスさまはニコデモに、旧約聖書の例をあげて救いの道を明確に説明されました。モーセの導きでエジプトを脱出し、荒野で不平を言う人々に燃える蛇が下され、多くの人が噛まれて死ぬのですが。その時、人々を救うために神が与えてくださった方法は、青銅の蛇を作って旗竿の上につけ、それを仰ぎ見ることでした。それを仰ぎ見た人は蛇に噛まれても生きたのです。つまり、モーセが荒野で蛇を挙げたように、イエスさまご自身も神に備えられた民の救いのため十字架の木に挙げられなければならない、と言われたのですね。
それは信仰、霊の目によって十字架につけられたイエスさまを仰ぎ見る人は、御子イエスの命、永遠の命をもつ、ということを伝えているのです。
人々が永遠の命を得る、神の国に入る、そのためにイエスさまは十字架の上にあげられる、と言われているのです。間違ってはいけないのは、十字架の像を見たら救われます、こうすれば永遠の命を得ることが出来ます、神の国に入れます、その方法を教えましょう、と言っているのではないということです。こうしたら救われるというなら、律法を守ったら救われるというのと何ら変わりません。もし、そのようなことを教えるだけなら、それは単なる教師です。
しかし、イエスさまはその道をただ教えるだけの方ではなかった。自ら十字架の上にあげられることによって救いの道を切り拓かれたのです。ニコデモはラビ、先生と言ってイエスさまを訪ねてきたわけですが。そうではなく、イエスさまはまさに救い主、キリストなのです。
ここには、ニコデモがイエスさまのお話になったことに対して、どのような反応をしたのかは聖書に何も記してありませんので分かりませんが。ニコデモという人は、このヨハネによる福音書には後に7章と19章と2回登場いたします。
7章では、イエスさまが祭司長たちに捕らえられそうになった時、ニコデモはイエスさまを弁護します。そして、19章では、イエスさまが十字架の上で死んだ後、アリマタヤのヨセフによって遺体が引き取られ墓に入れられる時に、ニコデモは没薬を持って来て、イエスさまの遺体を葬ったのです。このような形で出て来るという事は、ニコデモはイエスさまの十字架と復活の後にキリスト者となったと考えてよいのだと思います。
 さらに言えば、3章16節の有名なこの御言葉は、そのニコデモ自身によって証しされたのだと思うのですね。なぜかというと、ニコデモは夜こっそりとイエスさまを訪ねたので他の人は誰も知らなかったはずだからです。
ニコデモはこのイエスさまの言葉を、あの時は分からなかったけれど、本当に本当のことだと分かった。私は、イエスを信じて、霊によって新しく生まれ変わらせていただいた。そういう思いの中で、この話を他のイエスさまを救い主と信じる使徒たちに証ししていったのでははないでしょうか。ちなみに、それを聞いた使徒たちによっておそらくこのヨハネの福音書は編集されていったのでありましょう。
このニコデモとイエスさまの対話は、後にイエスさまを信じ、イエスさまの救いに与ったニコデモが、イエスさまに初めて出会ってお話しした時、自分は何も分かっていなかった。しかし、そんな自分に対して、イエスさまは正面から向き合ってくださって、福音の真理を説いてくださった。だから、この福音をみんなに知ってもらいたい。そういう強い願い、思いをもって証ししていた。そんな姿を想像するんですね。
ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 
ちなみに私が小学生の時に憶えたのが、この聖句でした。暗唱聖句の中ではこの聖句が私の中で一番馴染み深いものとなっています。
ここで「世を愛された」と言われている「世」とは、全世界、全人類を指しています。世を愛された神さまの愛からこぼれ落ちている人は一人もいないのです。ですから、この「世」というところに、私たちは自分の名前を入れて読むことが出来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、(   )を愛された。独り子を信じる(   )が滅びないで、永遠の命を得るためである」。今度はみなさんとご一緒に声を出して読んでみましょうか・・・。
次の17節の「世」のところも、皆さまのご自分の名前を入れて読んでみられるとよいかと思います。ここもご一緒に読んでみましょう。「神が御子を(   )に遣わされたのは、(   )を裁くためではなく、御子によって(   )が救われるためである」。
この神さまの素晴しい救いを「水と霊」、すなわち、キリストの救いによる「水のバプテスマと聖霊」によってキリスト者とされたのであり、実にニコデモは後に、そのようにこの言葉を受け取ったのだと思うのです。
皆さんも、自分の名前、自分の名前だけではありません。自分の大切な、あの人、この人の名前を入れて読んだらよいのです。が、しかしもっと深くゆたかに読んでいくのなら、「世」のところに自分がどうしても愛せないような、あの人、この人の名前を入れて読んでいくと、さらに神さまの御独り子の愛を深く感じとれるのではないでしょうか。
 神さまの愛は、まことに度外れた愛なのです。ご自身に敵対する罪人である私たちのために、罪に滅ぶほかない私たちのために、身代わりとして御独り子イエスさまを十字架にお架けになった。又、イエスさま自ら私たちの罪のために裁きを受けて下さったほどの深い深い愛なのです。それほどの価値があるといえないような私のために。しかし、神さまはそうなさった。どうしてなのかは分かりません。それが神さまの愛だからとしか言いようがない。そして、それによって私たちが罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受けることになった。それは確かなことです。
 愛というものは言葉に表そうとしても、なかなかうまく伝えることは出来ません。神さまの愛にしても言い表し得ません。しかし、神さまの愛は見えるかたちで、私の罪の裁きを受けて、十字架に磔にされるというお姿で現わされたのです。このイエスさまのあがないの死という出来事によって、神さまの愛は私たちに示されたのです。何万回「愛している」と言われても、その愛は分かりません。しかし、この愛する独り子を十字架に磔にしていった人々、敵対していたすべての人をも、神の子とし、永遠の命を与え、救い続けていてくださった、ここに神さまの愛があるのです。

 18節「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」。
「裁かれない、裁かれる」。ここを読むときに神さまははっきりとされているお方であると思うのです。しかし16節から読みますとわかるように、ここは「世」を、ひとり一人をかけがえのない存在として愛される神の愛が語られているのです。その神の愛を信じるか、信じないか。
先ほど「世」のとこに名前を入れて読みましたが。私や私の大切な人の名前を入れることは容易いことですが。自分に敵対する人、自分に対してよく思わない人の名を入れて読み、祈っていくことこそ、愛なる神さまとつながって生きるってことなんですね。
ニコデモはファリサイ派として物心ついた時からずっと自分と人を分け隔てしながら生きてきました。しかしその神さまの深い愛を、頑なに拒み、それを受け入れず、信じない者は、既に裁かれている。
私たちはクリスマスを共に喜びの中で迎えましたが。神の御子イエスさまが世を救うために人となって来てくださったその目的は、すべての人、その誰も、この神さまの愛と救いを信じ、受入れて神と和解すること。そうして人が誰一人として罪に滅びることなく、神の救いと命に与ることにあります。

本日は「御子イエスにある命」と題して、ニコデモとイエスさまとの対話を背景に、御言葉に聞いていますが。
永遠の命とは、神が世にお遣わしになった「御子イエスのうちにある」こと、その御子イエスによる水と霊によって今も信じる私たちに与えられている、というメッセージでありました。
ニコデモの「神の国」「真理」「救い」への求道心はいつになっても途絶えることはありませんでした。最初は闇夜の中で人の目を気にしながらイエスさまを訪ねた彼が、先にも申しましたように、イエスさまが訴えられそうになると、公の場でイエスさまを弁護します。イエスさまに対する自分の立場を明らかにするのです。それは勇気のあることでした。
さらにイエスさまが犯罪人として十字架刑で死なれ、墓に入れられる時も、あの「人の子も青銅の蛇のように木にあげられなければならない」という言葉を思い起こしていたのでしょうか、没薬をもってきてイエスさまの遺体を葬ったのです。このようにニコデモはイエスさまとずっと関り続け、イエスさまを救い主、キリストと信じ、新しい人とされたのですね。
キリスト共に日々罪に死に、キリストと共によみがえる。毎日が新しい命に生かされている喜びの今年の私たちの歩みとなることを祈りつつ、この礼拝から遣わされてまいりましょう。

祈ります。
主よ、こうして新しい年、2020年を喜びをもって迎え、まずあなたを礼拝することから歩み出すことができます幸いを感謝します。
主よ、新しい年も、いつも、どんなときも、救いと命の希望であるあなたの内にとどまり続ける者であらせて下さい。そうして日々あなたによって新たにされる私たちが、あなたの栄光を表すものであるようにしてください。
主よ、今年もあなたのみ救いである福音の証し人として生きる私たちを、病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
どうか、今年も私たち一人ひとりのすべての必要を満たしてください。
私たちの家族や家庭のうえに、又仕事や生活の上に平安と豊かな祝福をお与えください。
また、私たちが生きるこの世界と社会全体にあなたの平和をお与えください。世の権力、人の欲望、金や銀のあらゆる偶像礼拝が生み出す戦争、紛争や搾取、格差や虐げ、切り捨てや無関心があります。どうか生ける神であるあなたこそが神としてあがめられますように。
世界のだれもがあなたのご愛と救いを知って立ち返り、すべての人に与えられた命の
道を見出すことができますように。
全世界の諸教会と信徒に、私たちのうえに守りと平安、お用いがありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

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1月12日 特別礼拝の御案内

2020-01-04 09:56:20 | お知らせ

講師 工藤信夫先生(精神科医・平安女学院大学名誉教授・元淀川キリスト教病院チャ

                                      プレン)

テーマ 「人生の秋を生きる~再び~」 聖書 フィレモン人への手紙 入場無料(自

                 由献金あり)

ご興味のある方はお気軽にご来会ください。

       

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主の年2020年を迎えて

2020-01-01 14:32:59 | 巻頭言

 

昨年は、このブログにご訪問くださり、ありがとうございました。
今年も礼拝の宣教や楽しみなイベントのおしらせ等、随時発信していきます。
どうぞよろしくお願いいたします。 平安

 

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