日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

続・自由とされた者

2018-04-29 13:50:36 | 教会案内

礼拝宣教 コリント8:1-13 

 

今日も先週に引き続き「自由とされた者」と題し、お話をさせていただきます。
本日の8章は見出しがつけられているように、「偶像に供えられた肉」をめぐる問題について述べられています。

 

私たちの教会でももう10年前くらい前の事でしたでしょうか。近隣のある宗教施設からご厚意で「お赤飯」を頂いた折に、私たちの教会もその時はイースターエッグを持ってそちらの方へお届けしていたという経緯があったわけですけれど。

しかしそのまあいわば他の神仏にお供えした後の赤飯、ということに対してある教会員から信仰的に抵抗を感じるというご意見があり、その赤飯をどのように扱えばよいか。教会で食べるか食べないかをめぐる論争といえば少々大袈裟ですが、そういったことがありました。

私の記憶では、教会では食べないこととして、感謝して受け取られる方がご自宅に持ち帰って、頂くことになったようです。

 

今日の箇所で、「偶像に供えられた肉」といいますのは、コリントの町に多くある神殿で偶像に対して献げられた犠牲の動物の肉が、市場に卸され売り出されたものであったようです。

そういう背景の中で、クリスチャンであるコリントの信徒たちが、日々の生活において、クリスチャンでない知人からの会食や地域などの食事会に招かれたときに、そのような肉を食べるか食べないかということで、コリントの教会の中で論議が沸き起ったということであります。

 

私たちも又、この日本という文化の中でキリストを信じて生活していくことの困難や悩みが起ってきますが。日常的にも知人の家に行って仏壇のお饅頭を出され食べようか迷った。葬儀に出て数珠はどうするか、お焼香はどうしたらよいか戸惑った。さらに家の仏壇や供養、御祓いはどうしたらよいのか。神社仏閣やお祭に行ってもよいのか、等々ございます。

使徒パウロはそのことに対して白黒をつけて明言いたしません。どこまでも個人の信仰の選択を尊重しているように思えます。

自分と神との関係において何を選び取るかは各々にゆだねられているんですね。

 

コリントの教会には当時、大きく二つの立場の人たちがいました。

一方は、ユダヤ人(ユダヤ教徒)から改宗してクリスチャンになった人たち。もう一方は、ユダヤ人以外で異教社会からクリスチャンになった人たちです。

前者はユダヤの十戒にはじまる、神に従い生きるにふさわしいとされる規定というものをずっと小さい頃から教えられ、叩き込まれてきた人たちです。彼らは偶像礼拝に対しては殊更厳しく戒められていました。

ですから、他の神々を祀る神殿に係る、たとえば供えられた肉を食べることなど、クリスチャンとなっても、偶像礼拝の罪を犯すことになると考え、その肉を一切食べなかったということです。

時に彼らの一部は律法主義的に陥り、自他ともに厳しい態度をもっていたゆえに、律法を守らない自由奔放に過ごす異教的背景をもつクリスチャンたちの態度が受け入れられず、裁いたり、非難したりすることもあったようです。

 

一方、ユダヤ人以外の異邦人、コリントやギリシャ、ローマに生まれ育ち、クリスチャンになった人びとは、主イエスが異教の偶像の縛りからすべて解き放って自由とされたのだから、「何を食べても大丈夫」という信仰的な理解を持っていたのであります。

たとえ、それが偶像の神殿に供えられた肉であったとしても、主が清めて下さるのだから、汚れたり罪を犯すものにはならないということで、彼らはその良心にも責めを負うことなく何でも食べていたのです。

ところが、彼らの中には、その自分たちに与えられた恵みの信仰による自由を、もう何をしたって許されている、許しのなかにあるのだからと考えて、食事に限らず自分たちの欲望や満足を満たすことに、良心を責められることがなくなり放縦な生活に陥ってしまう者もいたのです。

 

パウロ自身はユダヤ人でしたが、4節「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という立場でした。

さらに彼は10章25節以降で、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出される者は、良心の問題としていちいち詮索せず何でも食べなさい」という信仰の理解を語っています。

実に彼は主にあってたいへん自由な考え方をしていたことがわかります。

それはある意味において、こと食事に関して先程の異邦人からクリスチャンとなった人のもつ自由な態度と共通していたということですね。

 

このようにユダヤ人であり熱心に神の律法を守っていた彼が、食べ物自体に清い清くないなどない、何でも自由に食べてよい、という信仰理解を得たのは、主イエスと出会い、自分の罪を徹底的に思い知らされて回心し、キリストにあって自由な者とされたからであります。

熱心に正しくあろうと自分の正しさの基準に合わない者は悪と色分けし、排除し、切り捨てていった若い日に主イエスと出会い、如何に自分という者が、そういった自意識にがんじがらめに縛られていたか。その事でどれ程の人を傷つけてきたのか。それこそ主イエスを十字架にはりつけにして死に追いやったのは自分であり、キリストはそういうどうしようもない自分を罪の性質から解放するために十字架の贖いを成し遂げて下さったのだ、ということを彼は身をもって知るわけです。

ここに彼の自由の原点があるのです。ヨハネ福音書に「真理はあなたがたを自由にする」との御言葉がありますが。キリストという真理と出会うとき、人は真に自由とされるのです。

 

そのパウロは今日の9節以降でこう言っています。

「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識をもっているあなたがたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」(9-11a)

 

すべては清い、何でも自由であり、すべてのことが許されているという信仰理解を知識として誇り高ぶる人が、偶像に献げた食物のことで迷い悩んでいる人に、「何でも清いものだから、食べてよい、すべてが許されている」と如何にも自信たっぷりに言えば、迷い悩んでいる人は、神との関係において確信がもてないまま、ただその人の声に押し流されるように肉を食べて、良心が痛んだり、クリスチャンなんていい加減なもんだと、救いから離れていってしまうかもしれない、とパウロはそのことを憂い、警告しているんですね。

 

その上でパウロはこう言います。

13節「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」

今日の招詞にも読まれましたが、パウロはガラテヤの信徒への手紙5章13節でこのように言っています。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」

 

この今日の個所とパウロの言葉から思いますのは、主イエス・キリストによって罪と滅びとあらゆる囚われから自由とされたその恵みの大きさを知る人は、自我の欲望やむさぼりからも自由である、囚われないということです。そしてその自由とされた者の喜びは感謝、平安、隣人愛となって光を放ちます。

パウロはここで、自由に食べることはできるけれども、「だれかをそれでつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とまで言いました。

知識よりも愛によって仕えることを選び取る自由があるということです。まさに他者を大事にするために食べることを断念する自由です。

これもガラテヤの信徒への手紙5章6節で「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と彼がいっているとおりです。

それは、彼がイエス・キリストがこの地上のご生涯でお示しになられた愛を知ったからです。

それは又、はからずも罪を犯し続けるような私たちのために、自ら私たちの身代わりとなって十字架にはりつけになってくださったその最高の愛を、キリスト者はいただいているからです。

その尊い愛によって「自由とされた私たち」です。

主イエスは言われました。「もし子(主イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ8章36節)

 

今週のひと日ひと日も、この尊い主の愛に応えつつ、実りゆたかに歩んでまいりましょう。

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自由とされた者

2018-04-22 15:36:25 | メッセージ

礼拝宣教 コリント7:17-24 

 

私は1年の中で新緑が眩しいこの時期が大好きです。

私たちも主にあって日々新しくされるべく、今日もここから御言葉の糧を頂いてまいりたいと思います。又、先ほどはIさんよりお証を伺うことができました。主は生きておられます。
毎週、教会の看板に宣教題と聖書の言葉を吉田さんの達筆で書いていただいていますが。4日前に貼り出した「自由とされた者」という題と先に招詞として読まれました「真理はあなたたちを自由にする」との御言葉に、何人もの人が足を止めてじっと見入っておられ、中にはそれを写真に撮っておさめている方もおいででした。

それは実に多くの人が、自由にあこがれ、人生を有意義に生きたいと願っているか、という表れのように思えます。逆を言えば、どれほど人は、何かに囚われて人生を送っている、ということでもあるでしょう。

 

今日の週報の巻頭言にも記しておりますので、もう一度そのヨハネ8章31節~36節のところをお読みしたいと思います。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

 

この罪というのは単に何か悪いことをした、ということではなく、原語で「ハマルティア」は的外れという状態であるという意味のように、神とその祝福への招きに背を向け、地上の事どもに思い煩い、奴隷となって囚われている状態ということができます。

この36節の「奴隷はいつまでも家にいるわけがない」というのは、罪に囚われた人間も、やがてはそこを去らねばならない日、地上の生活を終えるその日が来るということです。

しかしそのような私たちの罪の奴隷状態から、神の独り子なる主イエスが十字架の血の贖いをもって私たちを自由にしてくださった。36節「だから、あなたたちは本当に自由になる」ということであります。

その救い主イエスさまによって私たちは「真理を知るものとされ、真理は私たちを自由にする」ということであります。

 

その尊い恵みを感謝しつつ、本日はコリント一7章17節~24節より「自由とされた者」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

まず22節~23節に「主によって召された奴隷は、主によって自由な身分にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」とございます。

「自由とされた者」は同時に「キリストの奴隷」なのです、と何とも独特な表現でありますが。これは奴隷であれ、自由の身であれ主の召し、主にあってすべてが解放され、自由とされているその救いこそ、重要であるということです。

次いで23節に「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」とあるとおり、先ほども申しましたけれども、私たちは神の御独り子主イエスの十字架の贖いという身代金を払っていただいて、罪と滅びの囚われから自由にされたのでありますから、その解放を与えてくださったイエス・キリストこそ主。私のあるじとして仕えて生きていきなさい。再び罪と世の力に囚われてはいけない、と言っているのです。

 

ところで、今日の箇所は「主が定めた生き方」と見出しがついておりますが。なぜかその前後には「結婚について」とか「未婚の人への奨め」ということが出てまいります。

もう23年ほど前になりますが。私どもの結婚式の時に、恩師で司式者の吉田晃児牧師からこの25節以降のところをお奨めの言葉として頂いたのでありますけれども。この7章全体には「結婚しない方がよい」というような意味の言葉が8回も出ているとおっしゃいまして、ドキッとしながら聞いていましたら、心あたりのある人たちがずい分いたようで苦笑いの声があちこちから聞こえてきましたが。まあ、このような個所が語られたのは35節にございますように、結婚するにしてもしないにしても、生活の思い煩いに囚われず、主を前にあっていつも整えられた者として、ひたすら主に仕えるように、というお奨めであったわけです。 

パウロはこの時点で少なくとも独身であったようです。この時点といいますのは、彼がクリスチャンになる前は最も厳格なユダヤ教のファリサイ派に属していましたので、ユダヤ教のラビの義務であった結婚を当然していたとも言われます。パウロがクリスチャンになった時点で、妻の方から離れていったという事も考えられますが、定かでありません。

興味深いのは10節のところでパウロは「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのはわたしではなく、主です」と言いつつも、11節で「-既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。また、夫は妻を離縁してはいけない。その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのです」と述べているのです。

そしてパウロが25節以降で未婚者に対して「結婚しない方がよい」と言っているのですが、その理由は、29節以降に「定められた時は迫っています。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい」という理由からであります。

つまり結婚も、葬儀や、又日常の仕事や商取引と同ように世の生活の一つに過ぎない事だからです。

パウロは多少手厳しくも感じますが、結婚や家庭生活のことだけに、心を使い尽くし、神のことに心が向かなくなるのなら、むしろ独身でいた方がよいという持論を述べます。それは結婚する、しないのどちらにいたしましても、主を主として愛し、主に仕えて生きていく恵みの大きさと対比させて、日常の思い煩い等で心も魂もふさがれてしまうことに対して危惧しているのであります。

この「定められた時」。それはクリスチャンにとりましては希望の日、待望の日であります。各々がこの地上において、主のしもべ(奴隷)としていかに仕え、又この地上のあらゆる捕らわれから解放された自由な人として召され、いかに生き、いかに主に栄光を現して生きてきたか、が明らかになる。その時が訪れるからだというのです。

 

ここから読みとれます事は、パウロの「結婚」に囚われない自由なあり方です。パウロは結婚について指図や命令をし、正しい回答を提示したりはしません。

彼はこの手紙を読んでいる読者に自由な選択の余地を残しながら、本日のテーマにもなっています「主によって召された者にふさわしい生き方」へと導いているのです。

 

そしてパウロは本日の17節のところで「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と奨めます。

特に興味深いのは、パウロはこの7章において「神に召された」という「神の召し」を、やはり「結婚しない方がよい」というようなことと同様、8回も言っているのですね。

そうしたうえで、「すでに割礼を受けている者が神に召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません」と言います。おそらくユダヤ人でクリスチャンとなった人のうちには、そのように考える人がいたのです。

逆に「割礼を受けていない者が神に召されたのなら、割礼を受けようとしてはならない」と言います。こちらは、ユダヤ人でクリスチャンとなった人たちのうちには、異邦人でクリスチャンとなった人たちに、ユダヤの割礼を受けることを強要していたことが読み取れます。

いずれにしろ、パウロは割礼の有無に囚われず「神に召し出されたときの身分のままで歩みなさい」と奨めます。つまり大事なことは、各々がそのときのそのままの状態で「主に召され、主によって自由とされ、主のものとされている」ということであります。

 

パウロは又、奴隷について「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と奨めます。

まあ、ここを読みますと、パウロはとんでもない、奴隷制度を肯定し、助長していると思う方もおられるでしょう。

しかしパウロは23節できっぱりと「人の奴隷になってはいけません」と言い切っています。

ここには、パウロがこの手紙をクロエという女主人の家の人たち(彼らはいわば奴隷であった)からの手紙に返信として書いている、という背景があったのです。

まあ奴隷と申しましてもこの人たちは、今でいえば専属の使用人や家政婦といった立場の人であったわけでありますが。

 

パウロはその奴隷の彼らに対して、「自由の身になることができたとしても、むしろそのままでいなさい」と言います。

パウロがそのようにいった理由についても、先の割礼を受けているか受けていないかの状態で神に召された人に言っていることと同様です。

 

奴隷であろうが、自由の身であろうが、主はその人のあるがままの状態で召し、解放し、自由を得させ、主のものとされているということです。

だから、奴隷であることによって思い煩うこともなく、主に自由とされた者として、地上の女主人クロエに仕えて生きるように、と促しているのです。

 

本日は、「自由とされた者」と題し、御言葉に聞いていきました。私たちは本当に聖書が語りかけているように、自由とされている者でしょうか。

確かに今の現状を思いますと、幸いある程度の自由があるといえます。

自分の思いの向くまま、気の向くまま、好き勝手に生きること、これも許されているわけでありますけれども。しかしほんとうに自由を得た人、何ものにも縛られない人は、自分の欲望や自我をも制し、コントロールできる人であるといえるでしょう。

 

私たちそれぞれが、主の十字架を通して「自由とされた者」として、主イエスの御跡に従い、世にあって神と人に仕えるために主が与えてくださった自由であることを、心に留めつつ、今週も喜びと希望をもってここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

結語

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のご案内!

2018-04-21 09:41:35 | お知らせ

4月22日(日)午後6時ー7時半  

今月はこの会のみとなりましたが、みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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生きる土台

2018-04-15 15:05:31 | メッセージ

礼拝宣教 コリント3:10-17 

本日はコリント一3章より「生きる土台」というテーマで御言葉に聞いていきたいと思います。

皆さんは「生きる土台」というと、どのようなものをイメージなさるでしょうか?家族、健康、仕事等々。老後のことを考えると、年金や資産もリアルといえるかもしれません。今日は何を土台とし、何をどのように築いていくか。そのような聖書のメッセージであります。


先週はコリントの第一の手紙1章から、コリントの信徒たちの教会に分派争が生じて、排除や分裂が起こっていた背景の中で、人の知恵や力にではなく、神の力、神の知恵による救い、すなわち十字架の主キリストこそ、真に依り頼むべきお方である、と言う使徒パウロの勧めでありました。この今も「十字架につけら給いしままなるキリスト」こそが、義と聖と贖いの主であり、唯一つの誇りなのだから、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにして、(その主にあって)固く結びあいなさい」。そのようなメッセージを聖書から私たちもともに聞いていきました。

 

今日のところではさらに問題に切り込んで、コリントの信徒が自分はパウロにつく、わたしはアポロにつく、と互いに争っていたことに対して、パウロは「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」。自分たちはそれぞれの働きを担ったにすぎないと言います。

パウロが「植えた」と言うのは、具体的にコリントにおける福音の種まきと教会としての形をなすために働いたということです。又アポロは「水を注いだ」と言うように、パウロがこの地を離れ後、コリントの信徒たちを教え導くようなリーダー的働きを彼は担っていたのです。

しかし二人は主人ではありません。主とその教会のために仕える主のしもべに過ぎない。大切なのは命のもとなるお方。「成長させてくださるのは神」です。そうパウロは断言します。だから私は誰につく、いや誰々だなどと言った虚しい分派争いで教会が分裂することは、教会の土台であるイエス・キリスト、その福音を文字通り台無しにすることだ、と言うのですね。まあ、ここまで話を聞いてこのコリントのような分派争いなんて私たちには関係ない、問題ない、そうお思いになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。むろんそうであるなら主の守りに感謝でありますが。ただどんな教会も人の集まりには違いありませんから、主の教会を愛するゆえのいろいろな思いが起ってくることもあるでしょう。そこで大切になってくるのが、「キリストの教会とは何か」「私たちはどのような教会像をえがくか」という事です。

 

パウロは9節で、コリントの信徒たちに向け、「あなたがたは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と述べましたが。

私たちはイエス・キリストの十字架を通して罪赦され、救いに与り、確かな道を得て、その喜びと感謝によって、神のために働く者とされた。それも共に力を合わせて神の栄光をあらわすように召し出されているということです。

それは、お一人おひとりがその神のご計画によって呼び集められいるとも言えるわけです。

パウロはそのようなコリントの信徒たち、それは又私たちを「神の畑」さらに「神の建物」にたとえます。「神の畑」は先に申しましたように、「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です」というそのことですね。神によって成長する教会像です。

 

では、「神の建物」とはどのような教会像でしょうか。

パウロは「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と述べます。この土台は11節にあるように「イエス・キリスト」であります。

パウロは「すでに据えられたこの土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」と言います。

どのような建築に際しても、重要なのはまずきちんとした土台を据えるということです。

私たちの大阪教会も三代目の教会堂が2013年11月に完成しましたが。仮の礼拝の場としてお借りしていた道路越しのビルの玄関から、徐々に教会堂が建築されていく有様を見れたのは幸せでした。

それと、私はその現場を目で見てはいないのですが、起工式の前に大変大きな基礎杭を確か13本だったか打ち、地盤がしっかりと固められる丁寧な工事がなされた、ということを現場の建築業者さんから伺い、安心できました。

どんなに外観的に立派で頑丈に見えても、基礎となる土台がしっかりと据えられていないのなら、大きな災害が襲来すれば、どうなるかわかりません。

 

同様に、パウロはここで自ら熟練した建築家のように「イエス・キリスト」という救いの土台をしっかりと据えた。その「土台を誰も、他のものとすり替えることはできない」と言います。

パウロ自身はその救いの土台について、「神からいただいた恵みによって据えました(10節)と言います。この恵みとは、自分の罪のため十字架にはりつけにされ、その贖いの血によって罪のゆるしとして、新しく生まれ変わる体験を与えてくださったイエス・キリストであります。このお方なくして、生きる目的も、教会も宣教も何もないのです。そのキリストが、今も十字架につけられ給いしままなるお姿で共におられる。このキリストこそ私たち一人ひとりの土台なんだ、ということであります。

 

次にパウロは、このイエス・キリストという土台の上に、「おのおの、どのように建てるかについて注意すべきです」と述べます。

 

建物を建てる人は、どんな建材を用いるかを考えるでしょう。なぜなら建材の種類によって建物の質が変わるからです。

ある人は「金、銀、宝石」と、イエス・キリストという尊い土台にふさわしいと思えるもので建てあげてゆこうと努め、又ある人は「木」という一般的な建材を用いるようにその土台の上に築こうとし、それから、ある人は「草」や「わら」で、一時しのぎ的なものでいいと、さっさと建てる。まあこれは信仰者としてその人生を、日々どう生きるかということをたとえているのでありますが。

つまり主イエスが示されたように「隣人を自分のように大切にし、どう仕え、生きるか」という、それは「信仰生活の質」であると言えるでしょう。

 

パウロは言います。そうした「おのおのの仕事は、やがては明るみに出されるかの日が来る。かの日は火とともに現れて、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味する。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」(13-15節)。

 

これは最後の審判の裁きのように響いて怖いようにも思えますが。

もちろん私たちはたとえ火で試されるような日が来たとしても、信仰者としての働きが残る、そんな生き方でありたいと願う者であります。

けれど、弱さを抱える私たちの信仰が燃え尽きてしまうような時も起こり得ますし、教会生活や人につまづいたり、教会や礼拝から足が遠のいてしまうようなスランプに陥ってしまう時もあるかもしれません。まあ世の終わりの日に、それまでの歩んできたすべてが火によって試されようものなら、すべてが焼かれ、残る者が何もなくなってしまうのではないか、と恐れ、不安に駆られるかもしれません。

 

しかし、パウロはそれが燃え尽きてしまえばすべてが滅びる、断罪されるとは言っておらず、その人は「損害」を受けると言うのです。そして注目すべきことに「損害を受けるけれども、ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と言うのですね。救いは、唯神のみの御手にあるのです。神さまの目的は人間を断罪されるためでなく、救うことにあります。

ですから、まあサンデークリスチャンでも、へぼクリスチャンでも何でも、とにかくイエス・キリストを土台としている限り、神さまの御憐れみによって救われる、ということです。

 

イエスさまはマタイによる福音書17章20節以降でこうおっしゃいました。

「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」。この「からし種一粒ほどの信仰」。これが、有るか無いかでは大違いです。イエス・キリストを生きる土台としていく。この信仰が私たちの人生をほんとうに有意義なものとしてゆくのですね。

 

人生を生きている限り、いろんな試練や予想もしなかった出来事を経験するかもしれません。けれども、そういう中で、決して変わることのない「生きる土台」を頂いているのなら、どんなに心強く、幸いなことでしょう。

主イエス・キリスト、その救いの土台の上に人生をどのように建て上げていくか。その土台の尊い価値に気づいた人は、その建て方、生きる質も変わってくることでしょう。それは本当に神さまの恵みであると思います。

 

最後に、パウロはコリントの信徒たちにこう言います。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」

 

先程はイエス・キリストを土台としているなら、たとえ建て方が不十分であったとしも焼かれるようなことがあっても救われる、とあったのに、今度は滅ぼされると反対のことが書かれており、何がどう違うのかと考えて込んでしまいそうですが。

このところで特に強調されていることは、「あなたがたは神の神殿」「神の霊が自分たちのうちに」とありますように、教会とその信徒である「わたしたち」のつながり、関係性についてであります。

つまり、神の御憐れみ、イエス・キリストとその救いの土台そのものを蔑ろにする者や、キリストを土台として建てあげていく教会形成を壊すような者については、神は滅ぼされると、パウロは強く警告しているのです。

どのような指導者もカリスマ的な人物も、知者や有力者であっても、神殿の土台であるキリストにとってかわることはあってはならない。祭り上げることはあってはならない、ということであります。

パウロはコリント書の別の12章で「教会をキリストのからだ」にたとえていますが。主の恵みによって救いに与った一人ひとりがキリストのからだとして教会につながり、共に主の栄光を現すために召されている。そういう教会像です。

からだですから、どの部分も必要です。どこが必要でどこが不要なんてなりません。パウロは「からだ全体の中でほかよりも弱く見える部分、見劣りがするような部分がかえって必要であり、そうして誰もが大切な存在とされることによって、からだに分裂が起こらず、各部分が配慮し合う」と強調しています。そのことによってキリストのからだとしての教会は建て上げられ、神の栄光が現わされていくのです。

 

本日のパウロの「生きる土台」であるイエス・キリストを基とする一つのからだのように、生き生きと愛によって建て上げられていく、これこそ聖なる生ける神殿、キリストの教会なのです。

私たち一人ひとりは神に愛されている大切な存在である。この福音を共に喜び合うために、今日もここから遣わされてまいりましょう。

 

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こども食堂スタート

2018-04-10 21:57:17 | イベント

こども食堂 

教会の2階ホールへおいでください。

4月11日(水)17:00-19:00  (月に1度)※17:20分までに来て下さい。

   会場:日本バプテスト大阪教会

      20食分用意いたします。

      こども(小・中学生)100円 高校生以上は200円

      付き添いおとな 200円 

 *駐車場はありませんので、公共の交通機関でおこしください。

  なお、夕方7時からの祈祷会はお休みとなります。

 

日本バプテスト大阪教会

   大阪市天王寺区茶臼山町1-17(場所は大阪教会のHPにてご確認ください)

   電話06-6771-3865

   下川

 

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十字架の言葉

2018-04-08 18:30:11 | メッセージ

礼拝宣教 コリント1章15-31節

 

今日から3ヶ月の予定で、コリント信徒への手紙を読んでいきます。本日は1章18-31節より、「十字架の言葉」と題し、み言葉を聞いていきたいと思います。

はじめに少し当時のコリントの教会とその背景について申しますと。コリントは紀元前の古い時代から優れた文化をもっていた都市でした。その後ローマ帝国がギリシャを征服しようとしたとき、コリントがローマに抵抗したため、紀元前146年に滅ぼされ、後にユリウス・カエサルによって再建され、新約聖書の時代には、その南部の海沿いの地形に面したことで諸外国からの船も出入りし、様々な民族が行き交う都市として、工業、文化、商業等の交易が栄え、宗教的にも、多様に繁栄していて、その当時約60万人の人口があったということです。

しかしその繁栄は、一方で道徳的退廃につながっていき、ギリシャ神話の偶像の神殿には1000人の神殿娼婦が常駐し、賭博等も盛んであったようです。

 

そのようなコリントの地に使徒パウロが足を運んだのが第二伝道旅行の途中でした。使徒言行録18章によれば、小アジアのマケドニアからギリシャのアテネを通って、そのコリントで1年半滞在したようです。

そこでパウロは、同じ天幕造りで生計を営んでいたアキラとプリスキラ夫妻の家に住み込み、一緒に仕事をしながら、福音伝道に励むのですが、なかなかその成果があがらなかったようです。

けれども、そういう行き詰まったような中で、今日の14節に出てきます、ユダヤ会堂長のクリスポなどの有力者、資産家が救われ働きに加わって、コリントでの福音伝道は大きな実を結んでいくことになるのです。

しかしその後、パウロがコリントを離れますと、徐々にコリントの信徒たちの間で、様々な問題が生じてまいります。この第一の手紙は、クロエという女性の家で信仰の生活を共にしていた人たちが、そういった問題についてパウロに手紙を書き送るのです。それに対するパウロの返信ということであります。前置きはこれくらいにいたしまして。

本日の箇所は、前の10~17節をご覧になると分かりますように、コリントの教会の中に生じていた「分派争い」についてであります。

パウロはまず、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにして、固く結びあいなさい」と勧告します。

コリントの信徒たちの間で、私はパウロ派、自分はアポロにつく、いやペトロだなど、指導者とその教えを偏って見たり、遂には党派心から分裂までもが生じていきました。

まあ、コリントの教会には様々な国籍や当時の社会背景の中で立場の違いなどもありましたから、そういった意味で、パウロは異邦人の信徒らに、アポロは知識人の信徒らに、ペトロはユダヤ人の信徒らに人気があったと考えることもできるでしょう。

 

問題は、コリントの信徒たちの心が、キリストの福音と教えとに未だ一致を見ず、その思いが割れていたということです。

人が増え次第に制度や組織化されていきますと、派閥や主導権争いが起っていくのは、これはもう人間の性ともうしますか。ただそれが救いの場であるはずの教会でとなりますと、それは非常に残念なことです。けれど、だからといって「教会も人間の組織に過ぎない。わずらわしい。教会など行かなくてもよい」となると、それも独り善がりの、信仰生活も薄っぺらなものになりかねません。

 

パウロはこの手紙の12章において、キリストを信じる群、教会を「キリストのからだ」として示し、その本来のゆたかさについて述べていますが。それは、キリストによって救われ、神の民とされた兄弟姉妹とともに祈り合い、支え合い、励まし合う教会のかたちであります。

自己完結の信仰に陥らないため必要なこと。それは信仰の友、兄弟姉妹との出会いです。教会にはいろんな立場の方、モノの見方や考え方、人生経験を持つ方が様々おられます。それがある意味大事なことなのです。なぜなら、自分と考えや見方の異なる兄弟姉妹との出会いや対話を通してこそ、主にある気づきや発見が与えられ、互いが配慮し合うことを学び、心を通わすことにもなるからです。

又、救いの証し、主の恵みのゆたかさ、奥深さを知ることが出来るからです。主イエスがお教えになった互いに足を洗い合い、ゆるし、ゆるされ、祈り、互いを大切にしていく。そういった信仰の地盤を築いていく場は、やはり教会のつながりにおいてでしょう。教会は単なる建物ではありません。生ける主とその救いを信じる一人ひとりの集まりです。

私たち一人ひとりは同じではなく、それぞれ違いをもち、個性や特徴をもっているものであります。それが主によって神の共同体とされていること自体が奇跡であり、主はそのつながりを通して、福音をさらに分かち合い、証しするという働きを教会に託しておられるのです。そういう意味では「全国のバプテスト連盟諸教会」「関西のバプテストの地方連合諸教会」という連帯と協力関係も感謝なことであります。

そういうことですから、一人ひとりみな違う者であっても、主にあってつながり、心を一つにし、思いを一つにして、人の力でなく、主にあって固く結び合っていくことが大切なのですね。

 

さて、パウロは17節で「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで、告げ知らせるためだ」と述べます。

それは、自身の救いの体験からなる伝道の働きです。一方、アポロという人物は大変雄弁家であったようですが。どちらにせよ、主の救いの御業よりも人が権威ある者のように注目され、生きておられる主、主イエスの十字架の救いがかすんで見えなくなってしまうような事態がコリントの教会に生じていたといえるのでしょう。パウロはそのことを恐れながら、このように警告したのではないでしょうか。

 

18節以降で、パウロは、人の言葉の知恵によらず、「神の力、神の知恵」であるキリストの十字架の救いについて述べます。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

現代では十字架は、信仰とは関係ないところでも飾り物になっていたりしますが。

元はといえば、とてもそんなものではありません。それはローマ帝国が奴隷の反乱を防ぐために長時間十字架に架け、苦しみながら衰弱死するのを見せしめにする、そんな残酷な刑具であったのです。

ですから、ユダヤ人はもとより、それを知る者にとっては、十字架刑による無残な死を遂げた者が神の子だというのは到底ありえないことであり、その事をして「神の救い」とするなど実に愚かとしか思われないことでした。

律法や行いによる救いを守ってきたユダヤ人にとっては、旧約聖書の「木に架けられた者は呪われる」という言葉そのもののイエスの十字架の死は、躓き以外の何ものでもありませんでした。

しかし、そのイエスの十字架の死は、私たちの罪とその代償としての呪いをその身に負われた、神の救いの御業であるのです。

パウロは「十字架の言葉は・・・・わたしたち救われる者には神の力です」と言うのですね。まさに2000年を経た私共も、その十字架の事実に救われているわけでありますが。

まあ、使徒パウロは何かアポロのように雄弁に色々なことを語るわけでなく、ひたすらこの「十字架につけられたキリスト」の救いについてとつとつと語り続けておられたのではないか、と想像いたします。

そのパウロは21節で「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言うのです。

普通それを「愚かな手段」などとは言わないと思うのですが。それは、この十字架そのものが、知恵を探す異邦人には愚か、しるしを求めるユダヤ人にはつまずき以外の何ものでもなかったからです。

それにしても彼はどうしてそこまで「十字架のイエス」の宣教にこだわったのでしょうか。

 

パウロ自身キリストと出会う前はユダヤ人のエリートとしての人生をひたすら走り抜いていました。彼は宗教的にも学問的にもエリートであり、又熱心さもありました。そして選民としての自意識とともに、神に従っているという誇りと自負を強く持っていたのです。

しかしその自分の知恵や能力、誇りというものが、キリスト教徒とその信徒を目の敵のようにして排除し、激しい迫害行為へ至らせたのです。そういう中彼はダマスコの途上で、あの神の子、復活の主イエスの「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしはあなたが迫害している主である」というみ声を聞くのですね。

それは、パウロが神のため、神のためにと、その熱心さと強い誇りと使命感によってキリスト教徒たちを激しく迫害してきたことが、実は彼の信じ従っていた主、神の子を迫害していたのだということを知る事になるのですね。これがパウロの回心です。

 

この出来事を通してパウロは、この自分こそが神の子イエス・キリストを十字架につけ、殺害したのだと自らの罪をほんとうに思い知らされるのですね。こうして彼も自分の深く重たい罪の身に代わって、十字架で贖いの業を遂げられたイエス・キリストを救い主と信じてキリスト者となり、異邦世界に福音を告げ広めていくというまさに神の証人として、貴い働きをなしていくことになるのですが。

実にこのパウロの罪と救いの経験が、彼の信仰のベースになっているのです。

ですから彼がコリントの信徒たちに「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言った言葉は、自らの体験による証言であるのです。

 

本日の聖書の「分派争い」の問題について、パウロは自らの体験から、人の誇りや自負、又それが高じて人を裁き、見下すことの愚かさを語ります。

21節「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教(これは十字架のメッセージということでありますが)そういう愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのです。」

神さまはそのように人の目に愚かとしか見えないような手段によって信じる者をお救いになられるお方なのです。

 

どんな立派な話、ためになる話が聞けるかと思って教会に来てみたら、十字架にかけられた人を救い主と信じ、毎回そんな話ばっかりしている。それは世には愚かに見えるでしょう。けれどまさにそこに、神のみ恵みと救いの業が示されているのですね。

 

23節でパウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っていますが。

ここは、何度か礼拝でもお話しましたが。正確に原語に則して訳せば、「わたしたちは、十字架につけられ給いしままなるキリストを宣べ伝えています」となります。

すなわち、キリストは十字架につけられたという単なる過去の出来事ではなく、今も十字架につけられ給いしままなるお方として、私たち人間の弱さと罪をあがない執り成し続けていて下さる。共におられる神の救いなのです。

 

今日は26節以降も読まれましたが。

ここで私が改めて気づかされましたのは、神の御救いのご計画が、旧約聖書の時代も新約聖書の今も全く同様であるという発見です。

主がイスラエルの民を神の宝の民として選ばれたのは、申命記7章にあるように「イスラエルの民が他のどの民より数が多かったからではなく、他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに彼らは選ばれた」というわけですね。

イスラエルの民が立派だとか優れていたとかではなく、ただ主の深い御憐み以外の何ものでもないと主は言われるのです。

そして今日のここでも、その救いに到底与ることができないような罪深い私たちを、神は十字架のあがないの業によって救い出し給うのです。もはや、どのような知識人も権力者も血筋の者も、そのことによって救われ得ないし、誇ることはできません。ユダヤ人も、私たち主の御救いに与っている者も、誰一神の前で誇ることはできません。パウロがここで「誇る者は、主を誇れ」と言っているとおりです。

エレミヤ9章22-23節にはこう記されています。

「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」。ハレルヤ。

 

キリストのからだなる教会は、世の知恵、能力や才能を基準にするのではなく、「十字架の言葉」、神の知恵をもって呼び集められた群れであるということを、私たちはもう一度確認しつつ、今日もここから遣わされてまいりましょう。

 

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「こども食堂」スタート

2018-04-06 09:41:07 | 教会案内

4月からの新しいプログラム!

 

こども食堂 教会の2階ホールへおいでください。

4月11日(水)17:00-19:00  (月に1度)※17:20分までに来て下さい。

      20食分用意いたします。

      こども(小・中学生)100円 高校生以上は200円

      付き添いおとな 200円 

 *駐車場はありませんので、公共の交通機関でおこしください。

日本バプテスト大阪教会

   大阪市天王寺区茶臼山町1-17(場所は大阪教会のHPにてご確認ください)

   電話06-6771-3865

   下川

      

     

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主イエスは生きておられる

2018-04-01 14:28:15 | メッセージ

イースター礼拝宣教  マルコ16章1~8節

                                                                

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』(6-7節)

「イースターおめでとうございます」。

 

聖書によれば、主イエスの復活は「イエスが埋葬された墓」を舞台に記されており、そこで主イエスの復活の知らせを最初に聞いたのは、先週の受難の場面にも登場した女性たちでした。

イエスさまが十字架に架けられ、苦しみの末に息を引き取られていくのを最後まで見守り続けたその女性たちが、主イエスの復活の知らせを最初に聞くのであります。

しかし、良い知らせであるはずの知らせを聞いた女性たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と意外なかたちで、主イエスの復活についての記事は終っています。

その後にも「」付けでエピソードが追記されておりますが。この本文そのものはこういう形で唐突に終っているんですね。

 

この女性たちについては、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」の3人であり、「週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」と記されています。

パレスチナ地方では人が死ぬと目を閉じてから、身体をきれいな水で洗った後、腐敗するときに出る死臭を防ぐために香料を塗って、葬るという慣習がありました。

イエスさまが息を引き取られたのは、安息日が始まる日没前の午後でありましたので、安息日の間の金曜日没から土曜日没までは規定により出歩くことができなかったのです。そのため安息日が明けた土曜日夜から香油を買い求め、週の初めの日曜日の明け方早くに、この女性たちはその香油をもって墓に向かうという行動をとったのであります。

 

彼女たちの心のうちは、イエスさまのその無残で極まりない死からまだ3日しか経っていませんでしたから、心神喪失ともいえるほどの状態であり、心痛んで悲しみと寂しさでいっぱいだったことでしょう。

 

しかし、そんな彼女らの心にさらにダメージを与える出来事が起るのです。

彼女たちは墓に近づいていく途上、「だれが墓の入り口をふさいでいる大きな石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたとありますが。その墓の入り口は女性3人の力では到底動かせないほど大きな石で塞がされていたのであります。

当時のお墓は岩を掘った横穴式で、その入り口に大きな円盤状の石を立て掛けるようにし塞いでいたのです。

マタイの福音書にはイエスさまが埋葬された墓の石にはその上にさらに封印がされ、番兵がおかれていた、と記されています。そのように厳重な警備と封印がされた墓。

ところがです。彼女たちが墓の前に着くと、すでに墓の蓋は開かれ、蓋の石がわきに転がしてあったというのです。

そうして「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、

女性たちはひどく驚いた」というのですね。

 

すると、この白い長い衣を着た若者は女性たちにこう言います。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

いくら「驚くことはない」と言われても、そりゃあ動転するでしょうね。

 

女性たちは、以前イエスさまが「苦難を受け、死んで、三日目によみがえる」と言われたことを聞いていました。しかしそれはただ不気味で不吉な言葉、謎のような言葉としてしか響いていなかったのであります。

多くの人は悪い事と良い事を一緒に聞くと、不安感からたいがい悪いように思えることの方にばかり気持ちがいってしまうものではないでしょうか。イエスさまの復活の予告も、十字架の出来事を目撃したショックもあって完全に吹っ飛んでいたと思えます。

 

イエスさまのことを敬愛し、慕い続けてきたこの女性たちにとって、せめて墓に納めたイエスさまに香料を塗り、最後のお別れができたらと、それが彼女たちの精いっぱいの願いであったことでしょう。

 

ところが、墓に入ってみると、「イエスさまのご遺体が無い」。しかも素性の知れない若者が「ナザレのイエスは復活なさって、ここにはおられない」と言うもので、そりゃあもうある意味パニック状態のようになったのかも知れません。

 

実は私もこの女性たちとまでいきませんが、もう2年半近く前になりますが、この場面を読んで思い起こされる出来事がありました。

まあ、以前にも礼拝で何度かお話しましたが。新会堂が建つ前の仮会堂としてビルの一室を借り礼拝と祈祷会を守っていた頃のこと。一人の男性からお電話がありました。

彼はプロのカメラマンでしたが、病のために家庭も仕事も財産も何もかも失い、孤独の中で心の病にもかかり、私に「死にたい」と電話をかけてこられたのです。

私が「一度教会にいらっしゃい。お話を聞きますから」と言うと、祈祷会に来られ、話をされると心が落ち着かれたようで、その後は日曜の礼拝にも来られるようになり、一緒に聖書を読み、祈る中で、主イエスの福音に触れ、主イエスを信じる決心を表されたのです。

そうして彼は新しく建った会堂の第1号のバプテスマ者となり、毎週日曜の礼拝と、その夕方に当時さんびの夕べというのをやっていましたが、それらに出席なさってパワーポイントのご奉仕などもして下さって、信仰の生活を励みとしておられました。そんあ生活も2年目になる頃には、随分笑顔ももどって一安心していたところでした。

その頃、90歳の求道中であった男性が昏睡状態から意識を取りもどされ、病院のベットで主イエスを救い主と信じ、信仰告白してクリスチャンとなられ、その後10日間ご自宅でご家族との時間をもたれた後に天に召されたのでありますが。まあ、その方のお葬儀が終わりもう日も暮れていましたけれども、火葬場から帰宅したばかりのホッとしてゴロンと横になっていたその時でした。ベルがなってインターフォンごしに立っていた見知らぬ男性が、先程のカメラマンであったその彼が「亡くなった」と言うのです。

病で急死なさったということです。もう私たち家族は気が動転しパニックのようになってしまったわけです。

私たちがその現実を受けとめられなかったのは、彼が水曜日の祈祷会と朝夕の礼拝には欠かさずに出席をされ、又家に来て息子の家庭教師をしてくださり、一緒に食事をして、週に3度も4度も会っていた彼が急に取り去られたこと。

そしてもう一つは、彼の死を伝えに私のところに来て下さったのは彼の訪問ヘルパーさんであったのですが。その方のお話によれば、彼のご遺体がどこにあるかが分らない状態であるということを伺い、どうしてこんなことになってしまったのか、という大きな戸惑いが私どものうちに生じたのです。

まあ、知らせてくれたこの彼の訪問ヘルパーさんは、彼から「自分はクリスチャンで大阪教会に通っている」ということを聞かされていたそうなのですが。その人が知らせてくださらなかったなら、彼の死を知ることもできなったし、一体彼の身に何が起ったのか、もはや知るよしもなかったということを考えますと、このことからして、もう神さまがお働き下さっていたとも思えるのでありますが。

私どもも、生前から自分がキリスト者であることを機会あるごとに明らかにしておくことは大事なことだと思います。

 

しかし、そこで彼のご遺体がどこにあるのか分らないということで、場合によっては見つからないうちに荼毘にふされてしまうかもしれません。むろん彼の魂はすでに主の御もとにあるわけですが。せめて彼の信仰の生きた証としてきちんとキリストの式で主のもとにお見送りをしたい、と。とにかく一晩主に祈り求めまして、翌朝一番に警察署に連絡をとりますと、親族ではありませんから、よい応答ではなかったのですが、とにもかくにも警察署に足を運んでみまして、私たちや教会とのつながりについて署員の方にお話していくうちに、徐々にこちらを信用して下さいまして、ご家族の連絡先や彼のご遺体の状況についても教えてくださったんですね。

そこで分ったことは彼のご遺体はまだ一時保管されているということ。お母様の希望もあり葬儀は簡易仏式で行なわれる予定であるとのことでした。そこで、お母様にお電話したのですが、お気持ちは変わらず、それで又祈らされまして、翌日連絡して直接私と連れ合いで彼のお母さまのところに向かい、生前彼が信じていたキリストの式で葬儀をしてお送りさせていただけないかとお話しました。

けれどお部屋に通されるや、開口一番、「お話はありがたいことですけど、福祉の方にお葬儀は全部お願いしていますので、お断りします」とダメ出しされまして、その意志は固く、3度も「せっかくですがお断りします」といわれました。

実は私たちが来る前に既にお友達と二人で申し合わせて堅く決めておられたようです。それでも彼のことを思うと私たちはやりきれない思いであきらめきれない中、「お母さん。息子さんはクリスチャンとなって教会の礼拝や祈祷会に毎週欠かさずにこられて奉仕されていました。そこでいつもお母さんのご病気がいやされるようにと、教会で祈っておられましたよ。その信じるところに沿うかたちのキリスト教のお葬儀で送ってあげることを、息子さんご本人もきっと望んでおられるのではないでしょうか」と、そういう言葉が私の口から自然に出たのです。

するとお母さまの側にいたお友達の方が、お母さまに向かって、「私の思いを言っていいかなあ。私だったら息子が一番願っていることをしてあげたいと思う。お話を聞いて初めて、息子さんが教会によく通い、奉仕をされているその様子が私にも分かった。どうかね」といわれたのですね。

そうすると、あれほど拒否されていたお母さまが、「そうやね、それならぜひ息子のお葬儀をお願いします」と私におっしゃったんですね。そうしてその後日、ささやかな葬儀を行うこととなり、お母さまとそのご友人をはじめ、訪問ヘルパーさんや教会の方々に見送られ主イエスの御救いにあって彼は御神のもとに帰っていかれました。

私たち家族はこの彼のご遺体も見つからず、又それが分ってからも悶々とする中、「どうか主よ、あなたのお導きがありますように」と、祈り続けるほかありませんでした。そうした中で、神さまの御手が動いていることを畏れとともに強く感じました。「主は生きてお働きになられる」。それを体験できた私どもにとりましても貴重な時となりました。

 

今日の3人の女性たちが、イエスさまの無残なその死の後に、そのご遺体が無いというなんとも理解しがたく、一体どう祈ったらよいのかさえわからなくなるような出来事。

それが人の側の現実であります。

しかしその無力さの中で、私たちはあの天の使いの声を聞くのではないでしょうか。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」

ここでわざわざ「ナザレのイエス」という生活感を覚える言い方がされているのは、私たちと何ら変わることのない人としての苦しみ、そして死をイエスさまはその身に受けられた、ということを表しています。

ナザレという村に生まれ、人として生き、人として苦しみ死なれたイエスさま。

それこそ、インマヌエル、神共にいますという事の具体的お姿であります。

 

イエスさまが十字架上において最期に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫され息を引き取られた。それは見るものにとっては惨めで無残な敗北の死としか映りません。

しかし、その壮絶な苦悩と絶叫は、実は私たち人間の内に誰しもおこってくるものでもありましょう。イエスさまが、「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と絶叫して死なれたのは、ほかでもない私たち人間の最も深いその低くみに立たれて、それらのすべての叫びを共にしてくださる、その体現であります。

 

先週読みました、イエスさまの十字架刑の指揮をとるため、そばにいたローマの百人隊長はそのイエスさまの最期を見て、「本当に、この人は神の子であった」と言いました。

彼もまた、何か鮮やかな奇跡の中にではなく、暗闇の只中で神に絶叫するイエスさまの姿に、人の苦しみ、死の悲しみに共鳴する神を見たのではないでしょうか。

 

墓の中にいた天使とおぼしき若者は、その十字架の受難と死を経験されたナザレのイエスはもはや死人の墓にはおられない、復活されて、「あなたがたに先だってガリラヤに行かれる、そこでお会いできる」と伝えます。

女性たちは、このことをすぐに理解することはできなかったのはある意味当然といえば当然であったと思います。

しかし確かに、向こう側から語りかけてくるあの天の使いの語りかけるその御言葉が、この女性たちのこれからの行く手を導くことになるのです。

 

私たちが主イエスを救い主として信じたのは、この時の女性たちと同様、イエスさまを肉眼で見たからではありません。何かハッキリとした啓示を受けたから信じたという人もまれでしょう。ではなぜ信じて生きてゆく道に一歩踏み出し得たのでしょうか。

それは、神の言葉である聖書、聖霊の導き、あるいは教会の主にある兄弟姉妹の支えや祈りによって、神の子イエス・キリストの福音の確かさを経験したからではないでしょうか。

今私たちは、肉眼で復活のイエスさまを見ているわけではありませんが、主イエスは確かに生きておられる、共にお働きくださる、ということを日常の生活、私たちのガリラヤで日々体験しています。

それこそが主イエスが復活されて、今も生きておられるという証明なのです。実にそのこと自体が奇跡であります。

 

「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」というお言葉のとおりです。Ⅱコリント518

 

本日の聖書は、「主イエスは墓におられない。あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。

私たちのガリラヤ、日常のいとなみの中に復活の主はすでに先立ち、私たちと共に生きてお働きくだっています。

このイースターが、主イエスの命に生かされるという約束の記念日であることを、今日心から感謝しつつ、また新たにここからそれぞれの持ち場へ遣わされてまいりましょう。イースターおめでとうございます。

 

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