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神の愛のまなざし

2017-05-28 20:45:29 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ11章1節~32節 

今日はローマの信徒への手紙11章1~32節より「神の救いのまなざし」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
この11章には3つの小見出しがつけられています。
1-10節は「イスラエルの残りの者」。今日のテキストである11―24節は「異邦人の救い」。さらに、25-36節は「イスラエルの再興」です。

そしてその全体は「神の秘められた御計画」として、すべての人が救いに与るという
神の壮大な御計画がここに示されているのです。その完成の日に至るまで「神は、憐れみを絶やそうとなさらない」というメッセージが語られています。

先ほど礼拝の招詞としてガラテヤ3章28節以降の言葉が読まれました。もう一度27節からお読みします。
「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたはキリストにあって一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。

「イスラエルの残りの者」
イスラエル、ユダヤ人について旧約聖書では、神の愛によって選ばれた民であるとされています。しかし、それは何かこの世的にイスラエルに優れたものがあったからとか、力があったから選ばれたということではなく、申命記7・7-8にこう記されています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」と、ただ神の恵みの選びによるものであったのです。

そもそもそのような神の愛が選びの根拠であったのです。この「神の愛」とは「憐れみ」とも訳せます。それは「腸がちぎれるほどの思いをする」という意味です。
神は、ちっぽけで貧弱で神に呼ばわる外ない民を、まさに断腸の思いで憐れまれた。
それがイスラエルを宝の民として選ばれた理由なのです。それは又、キリストにある割私たち一人ひとりも同様ではないでしょうか。

ですから、イスラエルの民は何一つ誇り得るものをもっていなかった。誇るべきはただ恵みの神のみであり、その神に依り頼んで生きるほか無い。それがイスラエルの存在なのであります。
その神の恵みの信仰は、アブラハム、イサク、ヤコブという父祖たちの信仰を土台にイスラエルの民の中にあって継承されてきたものです。
しかし、旧約の歴史においてイスラエルの民はその神の恵みの選びに与ったにもかかわらず、神に背き、異教の神々にひれ伏し、罪を繰り返しその神の恵みを台なしにすることが繰り返されたのです。聖書のお言葉によるなら、神はねたむほどに、その民を愛しておられるがゆえに、彼らが立返るために下された審きは時にすさまじいものでした。

そのことを受けてパウロは、11章1節で「神は御自分の民(ユダヤの民)を退けられたのであろうか」と問います。又11節でも「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか」と疑問を投げかけるのですが。すぐに「決してそうではない」と断言します。悔い改め神に立返って生きる道を選んだ「イスラエルの残りの者」。
この残りの者とは旧約時代に神に忠実に生きたイスラエルの人々、ユダヤ人たちのことを指しますが。同時にパウロは自分自身のようにイエス・キリストと出会い、救われたユダヤ人たちのことであったのです。いずれにしろ、神の恵みの選びは旧約聖書以来絶たれることがなかったし、今もそうだと言うのです。

イスラエルの民の歴史は不思議です。幾度も国を奪われ民も散らされ、もはや民族として存続し得ないような状況にありながら国を再建し、どこに住んでも何千年という歴史を神の民として生きてきた人たちを見るにつけ、イスラエルの民、ユダヤの人びとへの神の選びは、未だ変わっていないというパウロの言葉は非常に説得力があるなと思います。
いつの時代も、神を愛し、信仰をもって主の恵みに留まり続ける人たちがいます。それはたとえ木が切り倒されるような状況に遭遇しようとも、新たな若枝を芽吹かせる切り株のような人びとです。それこそパウロの言う「恵みによって選ばれた者」です。

私たちキリストの救いに生きる一人ひとりも、新約聖書にあるとおり、だれでも聖霊によらなければイエスを救い主だということは出来ないのです。それこそ一方的神の恵みであると言えましょう。

「異邦人の救い」
さて、パウロがイスラエルの民、ユダヤの人々について述べている事について読んでまいりましたが。次に本日の11~24節の個所であります「異邦人の救い」について読んでいきたいと思います。
はじめに申しましたように、この救いは神の恵みによってイスラエルの民にまず与えられたものであることに変わりございません。
 しかしながら、11節「彼ら(ユダヤ人たち)の罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になった」。まあ独特な言い方ですが。決定的神の救いであるイエス・キリストを不信仰であったユダヤ人が十字架につけ、そのことによって全世界の人々に救いがもたらされるようになった、ということを言っているのでしょう。

使徒言行録13章44-46節にはこういう記述があります。
次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうと集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこでパウロとバルナバは勇敢に語った「神の言葉は、まずあなたたちに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに価しない者にしている。見なさい、わたしは異邦人の方へ行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。これはイザヤ書42章6節、49章6節を箇所からの引用として『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』」
この「あなた」とは勿論主イエス・キリストのことです。
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められた人たちは皆、信仰に入った、と記録されています。
まさに異邦人への伝道の皮切りのところですが。このようにして、ユダヤ人たちが拒んだ主のみ救いが全世界に広げられていくようになったということです。こうしてパウロ自身がまずその異邦人伝道のパイオニアとなっていくわけです。

しかし、だからといってパウロのユダヤ人同胞への愛というのは決して無くなったというのではありません。10章1節に「彼ら(ユダヤ同胞)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と述べられているとおりです。

本日の11章25節以降読みますと、パウロはこの全世界に福音が告げ知らされ、主のみ救いが伝えられていくという異邦人への伝道は、究極的にユダヤ人・イスラエルの人々が主の救いに与っていくことにつながるという祈りと確信のうちになされていったのですね。

ところで、この手紙が書き送られた当時のローマの教会の構成は、大半が異邦人クリスチャンで一部がユダヤ人クリスチャンであったようです。ローマの教会の開拓時は少数のユダヤ人クリスチャンたちが中心的働きを担っていましたが。次第に異邦人のクリスチャンたちが多くを占め、その中心メンバーとなっていく中で、異邦人クリスチャンたちの声や力が教会において強くなり、逆にユダヤ人クリスチャンたちの立場は狭くなり、居場所がなくなるということが実際起こったようであります。それだけではありません。ローマの教会で異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンを、先に申しあげたようなことから見下し、自分たちこそ神に選ばれた者であると、おごり高ぶる者たちがいたようですね。まあ、そんなことがあるだろうかとお思いになるかも知れませんが。
この世界の歴史においてキリスト教でありながらユダヤ人を迫害するという蛮行が実際行なわれてきた事実を思う時、人間は罪深い者だなあと思います。

そこでパウロは、異邦人のクリスチャンを戒めて、18節「折り取られた枝に対して誇ってはならない」ということです。
つまり、ユダヤ人に対して誇ったり、見下してはならないという警告であります。
そもそも異邦人クリスチャンは、本来根であり幹であるイスラエルに与えられた恵みに接ぎ木されるかたちで福音に与っているということであります。
何も根が無いところから生えてきたわけじゃない。接ぎ木というのは、強く、水や養分を吸い上げる力が備わった木の枝を切って、そこに別の弱い品種をくっつけることで、それにゆたかに花や実を結ばせる方法です。そのようにして、異邦人クリスチャンは神の祝福に与る者とされた。ですから、ユダヤの人々に対して何も誇ることはできないのです。
異邦人クリスチャンの救いの根幹は、イスラエルに与えられた神の恵み。アブラハム、イサク、ヤコブの父祖たちから継承されてきた信仰であり、ただ神のあわれみによって神の民とされたことにおいて同様なのです。
ただ神のヘセド・憐れみの愛。キリストの十字架による救いの業により神の民とされたことを感謝します。パウロの言葉を借りますなら、「誇る者は主を誇れ」「十字架のキリストを誇れ」ですね。
私たちは神に対して何ができたか、何をしたから救われたのではありません。逆に罪からの解放と救いを必要とする者だからこそ、恵みをいただいている。何よりもそのことを感謝し、喜ぶ者でありたいですね。

20節「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」。この不信仰とは、神の恵みに背を向け、究極のみ救いであるメシア、主イエス・キリストを受け入れなかったことであります。一方、信仰によって立っているとは、異邦人でありながらも、ただ救い主イエス・キリストにより頼んでいるあなた方、ということです。
そのうえで、信仰によって立っている異邦人クリスチャンのあなたがたに対して、パウロは20節「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と進言します。

私たちは「救いのみ恵み」を台なしにすることがないようにしなければなりません。
21節「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたがたも容赦されないでしょう」。

折り取られた枝に表されるユダヤの民の二の舞を私たち異邦人キリスト者が踏むことのないために、この教訓をしっかり心に留めていなければなりません。
同時に、一度折り取られたれ枝であっても、神の恵みといつくしみに真に立ち返るなら、神は再びその枝を接ぎ木してくださる。そういう御業を自由になさることがおできになるということであります。神にできないことは何もありません。

「神の救いのまなざし」
最後に、本日の箇所は「異邦人の救い」が語られていましたが、25節以降で今度は「
イスラエルの再興」という見出しで、全世界に向けられた神の救いの御計画について述べられています。
キリストの救いを信じることで救われる。それは行いによる義を厳守するユダヤの民にとってはあり得ないことであり、ねたみを起こさせるものです。

あのルカ15章の放蕩息子のたとえ話が思い起こされますね。
父の財産を使い果たして放蕩三昧をして帰って来た弟息子を父は叱りつけるどころか、喜び、受入れ、最上のもてなしをして迎えます。
兄息子はこんな待遇を私には一度もしてくれなかったと弟を非難し、そんな父親を強く
責めるのです。けれど、父は兄にこう諭すんですね。「子よ、お前はいつも一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」。父は弟と兄に憐れみを絶やすことはなかった。

このたとえは、父の神と息子の和解だけでなく、父の神の憐れみのもとにある兄と弟の和解への招きがとして語られているのですね。罪のゆえにゆるしと和解に与った弟。又そのはじめから父の神のもとにあるがゆえに、神の寛大な救いの計画を受入れることができない兄。

本日のローマ11章は始めに申しましたように「神はユダヤ人も異邦人も、すなわち全世界とご自身とが和解して、すべての人が救いに与る完成」のために、憐れみと恵みの御業を成し遂げようとしておられます。
この神の御計画に思いを馳せ、ただ主の憐れみによって御救に与っている者にふさわしく、感謝と畏れつつ、主の和解の福音を携えて、今週もこの礼拝からそれぞれの証の場へと遣わされてまいりましょう。

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苦しみで終らない希望

2017-05-21 19:19:21 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ8章18~30節 

この8章はローマの信徒への手紙の頂点となる重要な章と言われています。心して読んで力ある信仰に生きる者とされたいと願っております。

その8章の中の特に今日読みました箇所は、大きく2つのことが語られております。
一つは「信仰者がこの地上において受ける苦しみ」についてであります。
もう一つは、これとは逆に「信仰者が将来受ける栄光」についてであります。
これら二つのことは個別にあるのではなく、「神が栄光に満ちたご計画を神の子たちの未来のために完全に満たしてくださる」事と固く結びついているのです。

そういうことを踏まえて18節で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と使徒パウロは述べます。
パウロはそれと同様のことを二コリント4章17節でも言っています。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。

主を信じる者にとっては、世にある苦しみと、将来への栄光は対立関係としてあるのではなく、かえって今の苦しみは、将来の受けるべき栄光の証しとなるものなのです。

さて、パウロは22節で、「被造物(自然界)がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしは知っている」と述べます。
まあ私たち人間もそういった被造物、生態系の一部とも言えるわけですが。こうして文明が発展したように思われる現代にあっても被造物のうめきがやわらいだかといえば、むしろ逆です。海も山も空までも自然破壊が繰り返され、生態系が乱れて、異常気象による災害が多発している現状があります。又、それは人と共存する動植物にも異変をもたらし、自然の山に食べ物がなくなった熊や猿などが民家や畑に入り人を襲うということも起こっております。大意汚染や放射能汚は人体や自然に異変を及ぼし、身体を蝕んでいる現状があります。
しかし、こういった「被造物が虚無に服すしかない」という実状は、自然界自体や被造物自体に何か問題があるからではありません。むしろ聖書には「服従させた方、つまり神のご意志による」と言っています。
創世記2章を読みますと、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と神が「すべて良し」と絶賛されたこの世界であります。人が自然の中に神を思うのは、そのような神のすばらしい御手の業を感じるからでしょう。
神は人に、「神がお造りなった被造物をすべて支配せよ」(創世記2章28節)とお命じになりました。その管理を人に託されたのです。
しかし人は、その神のお言葉に背を向け、反して自らの欲するままに生態系を壊してまでも、又あらゆる種の命を脅かしてまでも、むさぼるものとなっているのです。

ともあれ「被造物は虚無に服す」だけなら、それはもう絶望や闇で終る以外ないのですが。パウロは、すべてを治めておられる神のご意志のもとにおいて、「同時に、希望を持っています」と驚くべきことを述べます。

それは21節、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との希望であります。
もし人が本来の神の子としての命、生き方、神に託された地上の良き管理者としての存在とされていくとき、むさぼりは止み、共生共存の生態系となり、環境は守られ、損なわれた自然も取り戻されていくのではないでしょうか。

ですから、被造物がすべて今日まで受けている苦しみは、単に失望に終るものではなく、「神の子たちの現れるのを待ち望む産みの苦しみとしてのうめき」だということですね。
男性である私は妊婦さんの痛みと苦痛を体験していないので、産みの苦しみといったことはあまり想像がつかないのですが。母親がとんでもない苦痛に耐えることができるのは、その苦痛が苦痛だけのためにあるのではなく、それだけで終るのではなく、新しい命を生み出すという目的と希望があるから苦痛にも耐えられるのですよね。まさに「全被造物、この世界の命あるものは皆、神の子たちの現れを産みの苦しみのようなうめきを耐え忍んで待ち望んでいる」ということであります。

そして、23節ではこのように述べられています。
「被造物だけでなく、霊の初穂(イエス・キリストの救いですね)をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです」。

主を信じて生きる私たち信仰者も、この地上にあっては様々な苦しみを免れることはできません。身体的弱さ、欠乏、人の悪意、信仰者自身の罪の性質による苦しみや試練が、その時々にあるでしょう。

しかし、信仰者は14節にあるように「神の霊によって導かれる者」であり、「皆、神の子なのです」。又、15節にあるように「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語られているとおりです。
神が栄光に満ちたご計画を、キリストにより神の子とされた私たちのために完全に満たしてくださる。アーメン。ここに確かな希望があります。

イエスさまを信じていても、世にあって苦しみ、悲しみは尽きません。問題や難題も待ったなしで起こってきます。落ち込んだり、挫折したり、だれもわかってくれない、と人をうらめしく思い、挙げ句の果てには、神さまを見失うようなとき、苦しくて神さまから見捨てられたように思えるとき。この手紙を書いた使徒パウロでさえも困難に何度も遭い、苦悩や心の痛みの中でもはや祈る言葉さえ失ってしまうような経験をしたのです

しかしそのパウロは次のように語ります。
26節「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。

私たちは、ほんとうに苦しいときにどう言うでしょうか。「きつい」「しんどい」「もういやだ」。けど、その苦しさの度が過ぎたりしたとき、理解を超えるような事態が起こってきたときは、もうどう祈っていいのかさえわからなくなりますね。祈りが、もう「うーー」とか、言葉にならない「うめき」になるのではないでしょうか。

そういう私たちに対して、パウロは「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成し」「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」と語ります。

祈祷会である方が、「最近うめくような祈りをしていたら、どう祈っていいかさえわからない中にも、主が共におられることを感じることができて、ああ主が共におられるのならもういい、と底が抜けたというか、突き抜けたような平安と賛美が与えられた」ということをおっしゃっていたのですが。

この霊が「助ける」ということですが、原語では霊が「共に・代わって・重荷を負う」(シュン・アンテ・ラムバノゥ)という深い意味を持つ合成語・言葉なのです。
日本語の「助ける」という言葉では、そこまでの深い意味を味わい知ることができませんが。神の霊、御霊は「苦しみを共に代わって担う」ことによって、弱い私たちを助けてくださるのです。何と心強く、幸いなことでしょう。
そして、それはまさに主イエスの救いのお姿と重なって見えてまいります。
人となられた神の十字架の深い苦悩、叫び、身代わりとなって執り成す愛が、私たちと共にある。アーメンです。
祈りは労働であると言われるほどですけれど、私たちの祈りのうちに、こうした神の霊の深い深いうめき、苦しみを共に代わって担われる助けがあるということを今一度覚えましょう。そして私たちは苦難にあってもなお、主の深い御救いの恵みを、味わい知っていく者とされたいと願います。

そのことを受けて、この「霊による助け」「言葉に表せないうめき」ということについて思うことがあります。
以前、牧師研修会が京都にある日本バプテスト病院であり、ホスピスケア・ターミナルケア(これは、その人らしい余命を全うさせ安らかな死を看取るとの視点に立った緩和ケアのことですが)、について学ぶ機会がありました。
その時に当時チャプレンの方がおっしゃっていた事が今も心に残っています。
「患者さんは、その病状が重度なゆえに、「ノ―」ということが言えない状況にもある。しんどくても我慢して大丈夫と言っている。言いたいことも押し殺している。私たちはそのような患者さんの思いを聞き取り、サポートができたらと願っている」。
今日のところで言えば「言葉で言い表せないうめき」を聞き取っていくということでしょうか。
さらに、チャプレンは「このケアは一人の魂に医師や看護師といった専門職だけが関わるのではなく、「その人に愛情をもって接することのできる人なら誰でも可能です。それはその患者さんの話を聞いてくれるご家族や友人。又、お部屋を毎日来られる掃除婦の方などであったり、様々な人との関わりを通して、その一人の魂を多面的に看る」。「可能な限り患者さんの声を聞いていく」。そういうことがスピリチュアルケアにとって大事な面であるということを教えて戴いたのであります。

今日の8章ですが。その全体が「わたし」ではなく「わたしたち」と記されていることに注目していただきたいのです。特に28節には「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。

うめきをもって私たちを執り成してくださる神の霊。それは「私という個人」だけに留まることなく、「私たちの間」にあって共にお働きになられるということであります。
そこにキリストにある兄弟姉妹、キリストの共同体、さらに言えば神の御計画に従って召された教会の本質がございます。

霊の助けと執り成しを受けて、共に祈り合い、執り成し合い、仕え合う者たちには、万事が益となるように共に働く。パウロは礼拝や集会を大切にするように勧めをなしていますが。それが私、又私たちにとって大事なのは、万事を益となしたもう神御計画が私たちの間でとどこおることのなくお働きになるためなのですね。

最後に、その御計画の私たちに対する大きな意義を29節-30節から受け、共に祈りたいと思います。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」。

主イエスを信じて義とされた者は、この「御子の姿に似たもの、イエス・キリストに似た者とされていく」という神のご計画のもとにございます。
そのご計画に従って召されてあゆむクリスチャンにとっては、万事が益(神の良しの意味)となるように神が共に働いてくださるのです。
それはまさに、30節にありますように「主を信じて生きる者が神の子供となり、キリストと共なる栄光に与る者とされる」ためです。ここに「苦しみで終らない真の希望」がございます。
私たちはこの世にあっては、キリストと共に苦しむことをも賜っていることを知り、やがてキリストと共なる栄光を受けていくものとされる希望を、御霊の執り成しに支えられ、強められる中、歩み通してまいりましょう。今週もここから遣わされて!
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キリストと共なる死といのち

2017-05-14 14:54:00 | メッセージ
礼拝宣教 ローマ6章1~14節 


はじめに、このローマの教会には、バプテスマに与った異邦人と共に、クリスチャンとなったユダヤ人たちがいましたが。異邦人のクリスチャンの中には「もはや、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい、ゆるされるのだ」という誤った教えを主張、そんなローマ人やギリシャ人がいたのです。その一方で、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなった人の中で、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法にまだ縛られ、自分の義を立てることを重んじるばかりか、異邦人のクリスチャンに律法を強要するという人たちもいたようであります。

先週の5章で使徒パウロは、律法を守って救いを得ようとすればするだけ自分の罪を思い知る経験をするなかで、主イエスがその自分の身代わりとなって、罪を贖ってくださった事実を知り、主イエスを信じて救われたのです。パウロはその体験によって、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言っています。

クリスチャンとなりバプテスマを受けるとき、みなさまも又、それぞれに神から罪を赦され、新生の恵みに与った喜びを体験なさったのではないでしょうか。

今日の6章の冒頭で使徒パウロは、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちがどうして、なお罪の中に生きることができるでしょう」と述べます。

異邦人のクリスチャンのある人たちのように、「何をしてもキリストの十字架の業でゆるされる」と主張する人々、逆にユダヤ人クリスチャンの中の「これをしなければ救われない」と主張し強要する人々に対して、使徒パウロはこの6章で、「キリストと共に罪に死に、キリストと共に生きる」ことの内実について説いた、それが今日の箇所であります。

さて、ここには主イエスを信じる信仰告白をされ、バプテスマを受けられた方がおられると思いますが。ご自分の信仰告白やバプテスマの時の事を覚えておられますか?
何度も礼拝宣教でお話しましたが、私は高校1年のイースター礼拝の時に、主イエスを告白し、バプテスマを受けました。今、その時に言い表した信仰告白の内容についてはほとんど覚えてはいませんが。それはある意味未熟な私の信仰告白であったと思います。
けれども私はそのことを後悔していません。その内容はともかく、あのときの決心とバプテスマの事実があるからこそ、今日があるのだと信じています。もしあのとき、バプテスマを受けていなかったなら、恐らく教会から離れていたかも知れませんし、ましてやこうしてキリスト者として生きることはなかったかも知れません。たとえつたなくとも、そのとき主を信じたありのままでバプテスマを受けたときは、いわば生まれたての赤ちゃんのような状態で、実にそこからがクリスチャンとしてのスタートなのです。
人はある出会いや体験によって人生が大きく変わっていくという事がありますが。バプテスマを受けたという体験のある人は、その後の人生で様々な出来事が起こったとしても、神さまと共に生きているという確信と支えを戴くことで、人生の質が全く違ってまいります。私は最終的に神のみ手のうちにあり、その神の御もとにこそ私の帰る場所がある。その信頼と平安はどんなものにも代えがたいものですね。バプテスマはその原点とも言えるものです。

まあ、そのようにクリスチャンの人生における決定的瞬間、それがバプテスマでありますが。使徒パウロはそのことを6節のところで、「わたしたちの古い自分(先週お話したアダム以来の罪の性質)がキリストと共に十字架につけられた」と、こう述べています。さっと素通りして読んでしまうかも知れませんが、これは実は大変なことを言っているのですね。

私にとってはあの高校一年生のイースターの礼拝で、主イエスを救い主と信じる告白をし、バプテスマを受けたそのとき、この罪ある私は4節にあるとおり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」のです。それは単にキリストだけが十字架にかかって私のために死なれた葬られた」ということではなく、そのとき私が十字架のキリストと共に葬られ、その死にあずかるものなった」。「罪に対して死んだ」者となったということであります。
この事実を私が改めて知ったのはバプテスマを受けて4年後の20歳のときでした。
そしてそのときこのローマ6章の中でも5節、6節の言葉が私の胸の深いところに響いてきたのです。
「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

ここに「わたしたちがキリストと一体となって」とある、一体というのは「結ばれる」とか、「継ぎ合わされる」という意味です。キリストのうちに私がいる。又わたしのうちにキリストがおられる。ちょっとわかりにくいなあとお感じになる方もおられるでしょう。神学者であり伝道者であった中国のウオッチマン・ニーという方が、その著書の中で次のような体験を話しておられます。
彼が一人の兄弟のバプテスマに際して、今日のこの「キリストに結ばれて」ということを強調したいと思った時、ちょうど彼の前におかれていた紅茶に角砂糖をおとし、それをかきまぜて、2~3分経ってから「紅茶と砂糖の区別ができますか?」と尋ねたそうです。バプテスマを控えていた兄弟は「いいえ、あなたが一緒になさったので、溶け合ってしまいました。ですから区別がつきません」と答え、そうして「私たちがキリストに結ばれて、その死の様に等しくなる」「キリストと決定的に、しかも密接に結合されている」ということを理解した、ということです。
「キリストと一体」というのはそういうことで、わたしたちはキリストと共なる死にバプテスマされ、そのキリストと共に新しい生命にあやかるものとされているのですね。

それはまあ、あのゴルゴダの丘で、キリストが十字架につけられた時から2000年の時を経、地理的、文化的隔たりがあるわけですから、その方と自分が一体とされたというのは、世の常識からすれば考え難いことでしょう。しかし確かに、キリストは歴史において唯一度の決定的なとき、神の救いのご計画によって全人類の罪に対して死なれたのであります。
それは、その神の救い業を信じ受入れるすべての者に与えられている恵みです。
神は永久に全世界を統べおさめたもうお方です。2000年経っていようが、国は違おうが、文化や風習が異なっていようが、この神が全世界の救いを成し遂げてくださったのですから、この私も、みなさま方お一人おひとりもそれぞれに、バプテスマを通してこの十字架のキリストに結ばれた者、ウオッチマン・ニーの言葉によれば「キリストと密接に結合さえて、罪に死んだのです」。私は高校一年生のときでありましたが。罪ある一人ひとりが主イエスの御救いに与ったそのときについては、みな同じではないということなのです。そしてその、私がキリストと共に十字架につけられ、罪に死んだという決定的な出来事を知ることが如何に大事であるかということですね。

そのバプテスマですが。ある方から聖書事典でバプテスマの項を引くと、「ユダヤ教徒となるために割礼があったように、クリスチャンになるためにバプテスマがある」というような解説がなされていたと伺いました。確かにそのようにもいえるのかも知れません。しかし、割礼はユダヤ教徒となるための儀式であり、どこまでも人間の業によるものです。
けれども、イエス・キリストのみ名によるバプテスマは単なる儀礼、又教会員になるために行なわれるものではありません。それはまさに、人の力や業によってではなく、神の先立つ「愛による恵みの御業」なのです。
バプテスマ(バプティゾー)はもともと「沈める」「浸す」という意味があります。
私どもの日本バプテスト大阪教会は、その名のとおり「沈め」「浸す」のバプテスマを大事にしてきた群といえます。
何度かお話しましたが。釜ケ﨑の三角公園の前に建つふるさとの家という施設で日雇い労働者や野宿生活者の支援をしておられるカトリックの本田哲郎神父とある集会でお会いした時、神父は私に「バプテストは上流から下流に流れるヨルダン川の一番底に全身を沈めるバプテスマを大事にしてきた。いわば最も低くみに全身を沈めて見直していくことを実践してきた教派ですね」とおっしゃたんですね。
私はその言葉に、こそばゆいような気持ちになった事を思い起こします。こそばゆいというのは、私どもバプテストの教派を「ほめられたのか」「皮肉におっしゃられたのか」は定かではありませんが。私自身、果たしてそんなに立派だろうかと思えたからです。名実ともに全身全霊「キリストと共に」罪に死に、「キリストと共に」新しい生命に生きる、そういう実践を伴う人生を歩んでいきたいと願うものです。

聖書に戻りますが、はじめに当時のローマの教会の問題について触れましたが。
バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神の生命の木ではなく、自我を選び、押し通してゆく罪の性質に引きずられ続けたり、反対に、こうあるべきという自分の決めつけで、自分ばかりか人を裁き、神の恵みを損なっているそんな状態から抜け切れずに、真に救いの喜びと感謝をおぼえる事がないなら、それは誠に残念なことです。
キリストと共に罪に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいない。主と共に生きる新しい生命に生きていない。そこには真の解放はありません。それは信仰の年月や知識とは関係ありません。奉仕の数や出席率で計れるものでもありません。何人救いに導かれたかということさえ、救いに与る基準とは言えないのです。

唯11節にあるように、「罪に死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていく」。その感謝と喜びの実体こそが、日常の生活に反映されることを主は期待しておられるのではないでしょうか。

この最後の「考えなさい」は命令形です。それは単に考えたる思ったりという意味ではありません。立ち止まって自分がキリストに結ばれている者としての「自己吟味して生きなさい」「キリストと共なるバプテスマに与った原点に立返って生きなさい」。そのような強い促しを伴う恵みの言葉として受け取っていきたいと思います。今日がその新たな日となりますよう共に祈りましょう。



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夕べの礼拝へのご案内

2017-05-13 10:35:58 | お知らせ

5月28日(日)夕方午後6時ー7時半


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-67771-3865
メール obcs@nifty.com


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恵みの賜物によって生きる

2017-05-07 22:31:25 | メッセージ
宣 教 ローマ5・12-21 

今日の箇所には「アダムとキリスト」という小見出しがついているので、まずアダムの罪性について創世記2章の箇所から開いてみます。

2章7節~9節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」。
2章16節~17節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

このように様々な木々とともに、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」の二つの木が生えていたということです。ここで注目すべきは、神は園の中央のもう一つの「命の木」については何もおっしゃらず、ただ、「善悪の知識の木」から取って食べてはならない、と命じておられるということです。アダムは当初罪を知らぬ者として創造されました。彼には善悪の知識がありませんでした。それは罪についても無知であったということです。アダムの前には二本の木が植えられていました。それは特別な園の中央にある聖なる木です。どちらを選ぶかが彼自身に委ねられていました。それは「神に信頼していく命の木」の実か。あるいは「神への信頼関係を蔑ろにしていく木」の実か。アダムは別の道を選び、自我を増幅させていく「善悪の知識の木」から実を食べた。その結果、人アダムは、神なしに生きれるかのような者になり、神のまなざしを避ける者となり、すべての判断の基準を神にではなく、自我におく者となります。

アダムはその結果、エデンの園を出て行かざるを得なくなり、神の生命に接近することができなくなり、死ぬべき存在として地にあってさまよう者となるのです。これは人アダムの自ら選んだ道、それは何かその実に毒のようなものが入っていてそうなったのではなく、彼自身が何を選択したかということによって自ら招いた結果なのです。
した。それは現代人にも同様の人類の原罪であります

どうでしょう。神は本来人に永遠の生命、神の生命に与る神のこどもとなることを願われたのです。しかし、アダムはサタンの誘惑にのって、神の愛に逆らい、その神のご計画を無にした。それが罪なのです。

聖書でまた礼拝の説教の中で、よく罪、罪ということが言われるのが、好かん、嫌やという方もおられると思います。それはある意味自然な反応ともいえるでしょう。それはたとえば刑法や民法に触れるような犯罪を犯してもいないのに。道徳的な意味で何も悪いことをしていないのに、そんなに罪罪罪といわれても。。。という思いからだと思います。

このローマの信徒への手紙には罪ということが多く記されているわけですが。聖書でいう罪というのは「ハマルティア」と申します。
それは刑法民法に反する行為、犯罪の数々だけでなく、刑法民法に反していなくても、内面に抱く憎しみや恨みの数々も罪なんです。ということは罪なき人となるためにはそれら内面の数知れぬ複数の罪をも治めなければなりません。誰がいったいそのような罪を治めることができるでしょうか。しかしそれらの複数の罪は、実はアダム以来の単数形の罪は、すべての複数形の罪の根本にある人アダムの罪性から来ているのです。ですから聖書の罪ハマルティアの原意は、神に対して的外れの状態を意味するのです。
このローマの信徒への手紙を通して、パウロはその罪の問題が解決される必要があることを指摘しているのです。
パウロは「義人は一人もいない」「律法を実行することによってはだれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです」とそのように言っています。
パウロ自身何とか義人として生きていこうと律法を忠実に守り行なう人でしたが。復活の主イエスと出会うことによって、自分の原罪、根本的な罪。単数の罪を思い知るのですね。
パウロは熱心なユダヤ教の信奉者として神のために正しくあること、律法の教えを忠実に守ることが神のため自分の救いになると確信して、律法を守り行なうことができない異邦人を見下し、キリストの信徒を取り押さえ、迫害しました。
ところが復活の主イエスと出会ったとき、「神の前に正しく生きている」と誇っていた自分が、実は神さまの敵となっていた。彼ははじめの人アダム以来自我の内にあるぬぐってもぬぐってもぬぐいきれない罪の性質、根本的な罪を自覚するのです。そうして、主イエスの十字架こそ、このような人の罪の贖いのためであることをさとるのですね。

使徒パウロは今日の15節以降「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって(アダムのことです)多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人にゆたかに注がれるのです」と述べています。」
自分の底知れぬ罪深さを思い知れば知るだけ、主イエスの十字架の贖いによるキリストの死と救い、その大きな大きな計り知れない恵みであることを思い知る。
私たちもそうではないでしょうか。ああ自分は罪深い者、正しく立派にあろうと度量しても、熱心に生きようと思えば思うほど空回りし、罪に気づかされ意気消沈するような者ではないでしょうか。
 しかし、主イエスは6節「わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。8節「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。さらに10節「わたしたちが敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。
まさにそのような神の救い、神に背き、自我に迷い出て神に敵対して生きてきたような私を、救いに招き入れてくださった。その計り知れない恵み、それらの恵みを総じて、パウロは9節に「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と述べているんです。これぞパウロのいう「神の恵みの賜物」なんですね。

今日は、創世記2章の箇所を始めに読みましたが、私たちの創造主は元々人間が神の生命に与り、神のこどもとされて永遠に生きることを願ってやまないお方であるのです。
私たち一人ひとりがどんなに不従順で、不信心で、神に敵対するような罪深い者であったとしてもです。再び園の中央に植えられた二本の木の前に立ち、もはや滅びに至る木ではなく、神の生命の木、それは私たちの罪を贖う神の小羊として血を流してくださった十字架の御子イエス・キリストの前に立ち帰って生きるようにと、主は今日もそんな私たちを招いておられます。そこに神との和解による平安、神の命に与る幸いがございます。

20節「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。
この御言葉の恵みに与って、またここからこの5月の一日一日の歩みへとそれぞれ遣わされてまいりましょう。
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