日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2022年8月31日 賛美礼拝

2022-07-29 08:33:56 | 教会案内
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心の底から新たにされて

2022-07-24 13:27:02 | メッセージ
礼拝宣教 エフェソの信徒への手紙 4章17~24節

本日はエフェソ4章より御言葉に聞いていきたいと思います。ちなみに、私共が現在使用している新共同訳聖書が出されてから31年後の2018年、4年前に新しい訳の聖書協会共同訳聖書が発刊されました。週報の表面にはその最新の共同訳聖書から本日の箇所をそのまま載せさせて頂きました。いくつかの翻訳がありますが、それぞれ一長一短ありますので、どれが良いとは言えませんが。特に今日の箇所はこちらの新しい訳の方が原語に沿い且つ、良い訳ではないかと私は思います。

さて、本日の箇所でありますが。ここでパウロがエフェソの教会の信徒たちに向けて強い勧めの言葉を書き記しています。                                 17節には「異邦人と同じように歩んではなりません」とありますが。真の生ける神を知らず、自分勝手に生きようとするいわゆる「異邦人」は、19節以降(共同訳)にあるように、「彼らは感覚が麻痺し、放縦に身を任せ、欲望のままにあらゆる汚れた行いにふけってとどまることを知りません」というような人生を送っています。そういった社会の中でキリストの救いに与り、感謝と喜びで満たされていたはずのクリスチャン。が、しかしいつの間にか救いの恵みも色あせ、もとの異邦人の生き方、神を知らず、神をも畏れない身勝手な生き方に逆戻りしていくという事も起こった。                    このエフェソの教会には、そのように「罪を犯しては主イエスによってゆるされた」と、神の恵みに対して慣れっこなってしまって、主イエスが十字架で大きな代償を支払われていることを忘れ、以前のような罪に囚われた生き方に逆戻りしてしまった人たちがいたのです。
パウロはそのような人たちのことを、18節で「神の命から遠く離れています」と、厳しく忠告しています。                                         

聖書教育にこのようなことが書かれていました。「自分の生きたいように生きる」というメッセージのほうが多くの人に受け入れられるのではないでしょうか。それほどに、私たちを取り囲む今の世界は窮屈で、私が私らしく生きることをゆるしてくれない状況があるのだと思います。ですが、私たちが互いに自分の好きな生き方だけを追い求め、正義や倫理をないがしろにされてしまうなら、その先にはきっと、立場の弱い人たちや声を挙げられない人たちに犠牲を強いてしまう世界が生み出されいくのではないでしょうか。」

実際そうだと思います。旧約聖書で神に愛されたダビデ王は、一国を統治し、もはや自分でいくさに出向くことなく神殿で昼寝をした後に町を眺めていましたが。人の妻を見そめ関係を持ち、それを隠すためにその夫が戦死するように仕向けました。神への礼拝は守っていてもその心は「神の命から遠く離れてしまっていた」のです。その後、ダビデ王は預言者を通して自分の犯した深い罪とその過ちを思い知り、神の御前に悔いて塵をかぶってひれ伏しましたが。
21-22節にあるように、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」と教えさとします。                             私たちが本質的に学ばなければならないのは、宗教的な教理や教義、又教会の規約ではありません。イエス・キリストを学ばなければならないのです。イエス・キリストがこの地上に人の子として生まれ、どのように生きられたか、何を大切になさったのか。なぜ十字架の苦難をお受けになったのか。そこから示される神の愛を知ろうと努め、日頃から聖書、そのイエス・キリストのお姿に触れ続けることから、私たちの日々の生活、生き方は形づくられていくのです。         
パウロはここで「真理がイエスの内にある」と記していますね。ヨハネ福音書14章6節でイエスさまは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。さらにこの「真理」について、ヨハネ福音書8章32節でイエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。 真理はキリストにあり、信じ求める私たちを自由にします。しかしこの「自由」は、自由気まま、自由奔放の自由とは明らかに異なる自由です。それは差別や偏見に囚われない自由であり、自分を守ろうとすることからの自由であり、人を滅びに向かわせる罪からの解放という自由です。キリストは地上においてそのご生涯のすべてを、その自由によって差し出されたのです。それはまさに、罪に滅びるほかない私たちが生きるためです。そのキリストの深い憐み、神の愛こそ真理であり、その真理は私たちを自由にするのです。

本日は23節の「心の底から新たにされて」という言葉をそのまま宣教題としてつけましたが。原語では「心の底」の「底」という言葉はなく、「プニューマ」となっています。これは神の「霊」を表す言葉です。つまり「神さまの霊によって新たにされて」ということなのです。週報の表紙に載せました新しい共同訳でも「心の霊において新たにされて」とある通りです。                            

創世記で創造主である神さまが人間をお造りになったとき、神さまは人(アダム)の鼻に、ご自身のいのちの息を吹き入れられて人は生きるものとなります。その神の息もヘブライ語で「ルアッハ」、「神の息」、ギリシャ語では「プニューマ」、神の「霊」、「風」(ヨハネ3章)を表わします。この神の息であるプニューマが人のうちに働くことで、人は本来の人として新しく生まれて変って生きることができるのです。

パウロは週報の表面の下ですが、22-23節において、「ですから、以前のような生き方をしていた古い人、すなわち、情欲に惑わされ堕落している人を脱ぎ捨て、心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」と勧めます。新共同訳では、「真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とありますが。それは何か自分の力で、そうしなければならないという意味ではないのです。罪の力に惑わされ滅びに向かうような人生。気づいてもどう生きていいのかもわからず新たな人生が歩めるかどうかと戸惑う者に、「神の霊を受け、キリストを身につけて生きよ」と、強く呼びかけられているのです。     

イエスさまはヨハネの福音書16章で、「聖霊、真理の霊が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」と言われました。神の霊、聖霊はまさに私たちをキリストに結ばせ、キリストの十字架において罪と義と裁き、世の誤りを審(つまび)らかにし、私たちをキリストに倣う新たな人へと造り変えるように導いてくださるのです。この真理の霊、神の霊が私たちの内に臨まれ、キリストの真理に生きる者としてくださいますように。新しい週が、今日のこの御言葉を基にして、キリストにあって歩んでまいりたいいと願います。
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堺大仙祇園神楽由来 花

2022-07-22 06:45:41 | 教会案内
堺大仙祇園神楽由来 花
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2022年7月24日 主日礼拝のお知らせ

2022-07-20 14:34:10 | 教会案内
2022年7月24日 主日礼拝のお知らせ
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キリストの愛に照らされて

2022-07-17 14:38:36 | メッセージ
礼拝宣教 エフェソ3章14~21節
 
先週は大阪教会の教会案内のチラシがご自宅の郵便ポストに入っていたということで、ある方からメールをいただき、お会いしてお話を伺いました。壮年の方かと想像していたのですが、お会いすると青年の方で、とても熱心な仏教徒の方でした。  彼は、ロシアとウクライナの戦争を見て、同じキリスト教を中心とした国なのに、どうしてあのような戦争をするのかという疑問をもっておられました。その事についてはまず、政治と宗教が癒着することの危険性をお伝えしたのでありますが。キリスト教の本質は神との関係であり、そこから人と人への関係へと目が向けられていくわけですが。神を畏れ敬う人はその思想信条を重んじ、心と魂、生活の全領域で正しく生きてゆきたいと努めるものです。ところが、宗教が政治や何がしかの権力に結びついてしまいますと、人びとの信仰心を揺さぶります。神の言葉と信仰理解が歪められ、迫害されていきます。ロシアとウクライナでは、それが国家という大きなレベルで起こったのかも知れません。先の大戦について、世界的に知られた牧師が権力者と結託し、日本人をサタン呼ばわりし、広島・長崎への原爆投下を肯定、正当化しました。人類の歴史を振り返ってみても、こういったことは何もキリスト教に限ったことではなく、香港のキリスト教会とその信徒への迫害が今非常に深刻な状況にあるようですが。そういったことは至る所で何度も繰り返されてきたことです。日本でも憲法に政教分離の原則がしっかりと定められているわけですが。                                         
フィリピの信徒への手紙1章9‐11節には、「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたることができるように」とあります。生ける神の御言葉によってキリストの平和をかかげ続けるキリストの教会であるように、と祈るものです。

話を戻しますが。その来会なさった青年は又、仏教の教え、業(ごう)、因果応報、成仏等についてお話をされました。彼の宗派は「法華経」を重んじ、念仏を唱えることによって、自分の心の中に悟りを経、悪行からの浄化がなされて、成仏へ至る道が拓かれていくということでした。成仏するには修行や供養が必要であるということでした。                                 

キリスト教も神の御言葉に聞き、キリスト(救い主)の御姿に倣って生きて行くことを大事にします。けれども正しい行いをすること、徳を積んだから救われるというのではなく、むしろ自分の業(わざ)の至らなさ、弱さ、罪を知るからこそ、救い主であるキリストを必要とするのです。それがキリスト者です。キリストによって神に赦された喜び、感謝の思いから救いの恵みに応える人生を歩んでいくところに、成仏ではなくすでに天の国はあるのです。
キリスト教の救いの原点は、イエス・キリストがあのゴルゴダの丘で十字架に磔になって、壮絶な死を遂げられたことによって、救いの道が拓かれたことにあります。

先にお話をした仏教徒の青年は、「キリストが十字架で、神よ、なぜお見捨てになったのですか、と絶叫して死んだのは、結局は敗北ではないですか」とおっしゃいました。今問題となっているカルト宗教も、「キリストの十字架は失敗で、自分たちの教祖が救世主」と言っていましたが。
わたしははっきり、「いいえ実はその十字架のイエス・キリストのお姿が、万人を救うことのできる神の愛の現れなのです。それがキリスト、救い主なのです」と申し上げました。キリストが死を前にしたあの絶叫なさったお姿こそが、わたしたち人間の痛みと苦悩、不安や恐れを身に負い。なぜですか、どうしてですかとしか言いようのないどん底にまで一緒にいるという救い主の証しなのです。                                                さらに、そのキリストは死の滅びから復活なさったのです。それは、この地上での生涯が虚しく滅びゆくことなく生も死も超えたお方がどこまでも共にいてくださることの証しです。そこにキリストを信じる者は世では得難い大きな平安を見出すことができるのです。

さて、今日の聖書の箇所はエフェソの教会の信徒たちに向けられた使徒パウロの「願いと祈り」であります。                                                      わたしたちは、キリストの御救いによって、すべての造り主であり、万物を統べ治めておられる全能の神がいつでも、又どこにいようとも幸いな事に祈り求める恵みの賜物が与えられています。

3章12節で、「わたしたちは、主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と、パウロは述べていますが。                           今日のところでパウロはまず、「そういうわけで、御父の前にひざまずいて祈ります」と述べていますが。立って祈ったり、座って祈ったりと、特に祈りの形の決りなどありませんが。唯一人、切なる願いをもって神の御前に祈ろうとする時、自ずとひざまずいて祈る姿勢をとるものです。それほどパウロがエフェソの教会の信徒たちを思い、とりなして祈っていたということでありましょう。それは、先週読みましたように、多種多様なエフェソの信徒たちの間にあった心の壁が、福音の恵みを損なわせていたからです。
そのような信徒たちをパウロはとりなして祈ります。                            

15節「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」この「家族」というのは、キリストにある神の家族のことです。先週の2章19節以降に「あなたがた(エフェソの信徒たち)はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています・・・キリストにおいて、あなたがたも共に立てられて、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と、ありましたが。その神の家族とされたことの祝福を、パウロは受け取ってほしいと切に願い祈ったのです。ユダヤ人も異邦人もなく、民族や国の違い、地位や立場の違い、男も女もといった性差による区別も超えた神の家族としての祝福。それこそがパウロの願う「キリストの平和」であります。                       

16-17節「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                                「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」とは、キリストがその人の心のうちに住まわれ、キリストの愛に満たされた人のことです。人の精進や努力の結果得られたものではありません。それはややすれば人を高ぶらせ、高慢にさせます。けれど、唯、恵みによって、「御父は豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強める」ことがおできになるのです。

18-19節「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛(奥義)の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」   
キリスト教の祈りの本質をここから読み取ることができます。それは「神の愛」、アガペーです。イエス・キリストが十字架で最期を遂げられたあの死は、この世的に見れば、敗北、それは罪があるからああなったんだ。落ち度があったから失敗したんだ、と因果応報のように映るかも知れません。けれども、先にも触れましたように、キリストのこの十字架の死こそ、罪に滅びるしかない人間、又世の力と損なう力とに虐げられ、死を待つばかりの人間と一緒にいまし、そのどん底から救い出そうとする全き神さまの愛の御業なのです。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」、それは私たちの全存在をまるごと抱え込んでゆく人の思いや知識をはるかに超える神の愛。その愛を知るようになり、その神の満ちあふれるゆたかさのすべてにあずかり、満たされていくようにと、パウロは切に祈ります。

今日の聖書箇所から、「キリストの愛に照らされて」と題をつけさせていただきました。私たちのもとに御子なるキリストを救い主としてお与えくださった神さまに、又、どこまでも共におられるイエス・キリストをほめたたえます。

20-21節「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることがおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」                             この世界とすべての人が、天地創造の時に神さまがお造りになられた神の家族として回復されていくことを願い求めつつ、このパウロの祈り、そのキリストの愛に心を合わせて歩んでまいりましょう。
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2022/7/17 主日礼拝

2022-07-14 08:51:21 | 教会案内
2022/7/17 主日礼拝
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敵意という隔ての壁を壊して

2022-07-10 12:34:25 | メッセージ
礼拝宣教 エフェソ2章14~22節

先週の金曜日は元首相の安倍氏が選挙演説中に銃撃されて亡くなるという衝撃的な事件が起こりました。銃規制のあるこの日本でまさかそれも公衆の面前で起ころうとはと、この国の平和と民主主義が脅かされたいたたまれない思いになられた方も多くおられたのではないかと思います。社会の中に不満や不平があるといっても、こうした非道な行為は許されるものではありませんし、断じてあってはならいことです。                                本日は参議院議員選挙の投票日です。すでに期日前投票をされた方もいらっしゃるかもしれませんけれども。一方で、日本を生活の場として住まわれ、税金を納めていながらも参政権が与えられていない海外からの移住者の方がたがおられます。参政権があればきっと切なる思いをもって一票を投じられるのではないでしょうか。この国で平和に暮らしたいという願いはだれも同じです。
一昨日の新聞の「記者の目」というコラムに、専門編集委員が「ゼレンスキー氏は英雄か」というタイトルのもと、「政治指導者の責任と国民の態度」について書かれた記事に目が留まりました。「ゼレンスキー氏は高校教師が突然大統領になるテレビドラマ「人民のしもべ」で人気を博し、番組と同名の政党を作って一気に大統領選を制した。内戦が続き、反露と親露の両極端に揺れる現実政治に疲れた有権者は、ドラマの続きを見る気分で沸いた。ポプュリズムの典型である。「和平・中立」の選挙公約は大統領就任後、無責任といい、すぐに反露に変った。ロシアの非道に憤るウクライナ人の心情が大統領支持に集まるのは無理もない。米国は戦争を終らせるより、法外な資金と武器を投入して長引かせることに利益があるという冷徹な疑いが根強くある。」まだまだ記事は続きますが、以降は割愛いたします。その続きは掲示版で御覧下さい。              非道で不誠実がなぜ生じていくのでしょうか。大きな戦争の火種が実は人間の心の中に潜んでいるのかも知れません。尊いいのちがこれ以上暴力によって失われることがないように。又、憎しみと敵意の連鎖が一刻も早く絶たれるようにと、切に祈るばかりです。

先ほど本日の聖書の箇所が読まれました。ここから「隔ての壁を取り壊して」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
14―16節をもう一度お読みします。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
ここに平和ということが語られていますが。この平和は、「キリストの平和」によりうち立てられたのであります。                                    人の思いは「目には目を、歯には歯を」、敵意には敵意を、暴力には暴力を、となるのかも知れません。しかしそれでは延々とその連鎖が絶たれることはなく、恐れと不安、萎縮が人間を覆うことになっていくでしょう。
聖書が指し示す平和は、キリストが十字架において敵意という隔ての壁を取り壊して、対立するものを一つとしていく和解であります。                           ここにある二つのものを一つにの「二つのもの」とは、前の11-13節を見ますと具体的には、自分たちこそ選ばれた神の民だと自任するユダヤ人と、キリストに出会うまで神を知らなかった異邦人(小アジアに住んでいたエフェソの人)を指しております。
ユダヤ人は神から選ばれた民というプライドがあり、異邦人を律法の掟を知らず守れないものとして排除し、見下していました。そこに敵意という隔ての壁が生じていったのです。        
「律法」そのものは旧約聖書の時代から神と人、人と人の関係性が大切にされ、民が祝福を受け継いでいくための神の掟、戒めでありました。それ自体は民を生かすもの、良いものなのです。しかしユダヤの主にファリサイ派の律法学者たちは、その律法を自分たちの所有物のように扱い、自ら誇り高ぶっていたのです。彼らは律法を占有し、自分たちの優越性を確証する手段としていたのです。「律法」を身勝手に捉え、それが守りづらい立場にある人々を見下し、敵意という隔ての壁を作っていたのです。
ここに、キリストは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊された」とあります。    
福音書の中には、主イエスが異邦人、又律法を守ることができない罪人とみなされていた人と一緒に食事や交流を持たれたことが記されています。一方、律法に厳格なファリサイ派の人とも食事を共にされました。彼らは主イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をし、交流されることがどうしても許せず、「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マルコ2:16)と問い質すような場面も記されています。                                主イエスはそういったファリサイ派の律法学者の批判をよそに、徴税人や罪人と食卓を共にされます。さらに異邦人との交流も持たれます。それが、イエス・キリストが体現なさった平和でした。
そのイエス・キリストの平和は文字通り、すべての人を罪の滅びから贖い解放された、その神の救いによって打ち立てられたのです。キリストによってもはや男も女もなく、奴隷も主人もなく、異邦人とは呼ばれない。神は分け隔てなさらない。このキリストの平和が訪れたのです。しかし、それは未だ完成されてはいません。
ここを読む時、ユダヤのファリサイ派の律法学者が持っていた「敵意という隔ての壁」は、彼らだけではなく、私たちの中にもそうした壁を作ってしまうものではないでしょうか。だれが「敵意という隔て」など1つもないといえるでしょうか。ファリサイ派の律法学者が徴税人や罪人、異邦人を拒絶し、排除しようとしたように、私の思いや態度が壁を作るようなことをしていないだろうか。そういうことを今日の聖書の言葉はわたしたちに向けて問いかけているようにも思います。   
パウロはこう言います。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」「実に、キリストがわたしたちの平和である」のです。                 
「平和」とはギリシャ語ではエイレネー、ヘブライ語ではシャロームです。どちらも戦争のない状態だけを意味するのではありません。シャロームはユダヤでは日常の挨拶として交されている言葉ですが、それは「あなたに平安がありますように」という神との関係性における平和を覚えることなのであります。又、このシャロームには、単に波風を立っていないということを意味していません。以前、中高校生たちのスマホのSNSが同調圧力となっていじめや仲間はずれの要因になっているというお話を精神科医の専門家の先生から伺いました。そういった同調圧力に沈黙し、口を閉ざすことがさらにいじめを助長し増殖させてしまうことになっていきます。そういったことは小さなグループだけでなく、あらゆる組織や団体、国においても言えることでしょう。周りの風潮に流されず、間違っていることには「間違っている」と言うことが出来る社会、違いを尊重しつつ対話できる関係性が築かれていくことが、平和を築いていくことにつながっていくのです。
平和を表わすヘブライ語のシャロームには、「元の完全な姿への回復、帰還」という意味があるそうですが。それは、創世記の1章の「神がよし」と言われた、まさに祝福された世界が取り戻され回復されていくこと。又人も又、御自分の似姿として造られたその姿に回復されていくことを意味します。慈愛の神のもとに立ち帰っていくところに、真の平和、シャロームが表れてくるのです。
さて、そういった真の平和、シャロームの雛型となって然るべきキリストの共同体ですが。古い習慣や敵意という隔ての壁がシャロームの表われを妨げます。                 
パウロは18節で、「そこで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に結ばれることができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と和解を求めます。                   
世には様々な人種や民族、立場などの区別がありますが、主なる神と出会い、神の愛に生かされていることを知り、主に繋がっている者は、聖なる民に属する者であり、神の家族なのであります。
この地上において家族といえば肉親や血縁からなる関係といえましょう。しかし主イエスは「わたしの父の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、又姉妹なのだ」と言われました。聖書が告げる神の家族とは、属性や血縁によらず、神の救いと愛に生かされている者の共同体なのです。       
主イエスはこの地上で素晴らしい関係性のお手本を示されました。すべての源である主なる神との関係性はもとより、国や民族の違い、性差、社会的地位や物質的貧富で偏り見ることなく、分け隔てなさいませんでした。                                 とはいえ私ども信仰者といえども、隔ての壁を取り除くことは容易ではないでしょう。そこに十字架の和解の福音から目を離すことなく、御言葉を聞き続ける必要があります。          
これからの時代の先行きについては見通しがつきにくく、混迷を深めていくかも知れません。しかしキリストの教会には終わりの時まで決して変わらないもの、動かないものがあります。     
主イエスは「天地は滅びても、わたしの言葉は決して滅びることはない」と仰せになりました。その御言葉とは、神と人、人と人の和解のため十字架にあげられた主イエス・キリストです。
12節に「そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とあります。              
「要」というのは、扇子の骨の根もとを貫いて束ねる金具の部分のことを指します。それが物事を束ねるのに欠かすことができないものということを言い表すようになったわけですが。ここでは、「かなめ石」ということですけど。それは当時の世界の建物の土台が石を組み合わせて作ってあったように、そのかなめ石をまず置くことによって、そのかなめ石に様々な形の石が組み合わせていったのです。するとかなめ石によって倒れにくい建物が出来ることになったのです。                             
確かに見た目というもの建物の大切な要素でありましょう。けれどもさらに大切なことがあります。それは、目に見えていない基礎の部分にあります。なぜならこの基礎の土台がいい加減で脆弱なら、いくら立派で高級なものに見えても、災害など何か起きれば、もろくも崩れ去ってしまうからです。
教会の土台のかなめ石はイエス・キリスト。「かなめ石、イエス・キリストにおいて、建物全体はしっかりと組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住いとなるのです」とあります。           
平和と和解の主であるキリストをわたしたちの生きる土台として、共に建て上げられ、ゆたかな聖霊のお働きとお導きを戴いて、神の住まいとされることを志してまいりましょう。
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天王寺・茶臼山風景(ハルカス・通天閣)

2022-07-09 09:27:06 | 教会案内
天王寺・茶臼山風景
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救いの神をほめたたえる生

2022-07-03 14:45:27 | メッセージ
礼拝宣教(神学校週間終日)  エフェソ1章3-14節 

今年も半分が過ぎましたが。戦争、物価高、コロナ不安はじめ、様々な問題が社会全体に渦巻いています。私たちの生活も変化が伴い身近な問題も絶えることがありませんが。
そういう中で私たちはすべての創造主であり、いのちであられる主なる神の御前に集い静まります。すべてを司っておられ、いつくしみ深い救いの神をほめたたえる礼拝をささげることは、私たちの生きる力の源です。

本日の箇所の3節で、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と記されています。
この世界では富や金銭、名誉、権力、成功、欲求が満たされる事などが祝福された人生のように映りますが。しかし、そういったものを得ることが必ずしも幸福度の値になるわけではあいません。
神に背を向ける人生は不安、恐れ、妬みや不満は尽きず、一体この虚しさはどこから来るのかと、得体の知れない思いに取りつかれる人もいるでしょう。本来人間は、神が与えられる「霊的な祝福」によってのみ満たされる存在なのです。

では、その「霊的な祝福」とは何でしょうか。
第1にそれは4節を読みますと、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになられました」とあります。
主イエスご自身もおっしゃったように、私たちが神を知る前から、神が私たちを愛し、神が私たちをお選びになられた、という驚くばかりの「祝福」であります。
水曜日の聖書の学び会の折に、ある方が「天地創造の前からと、私はこのような聖書の言葉があることを初めて知り、ほんとうに感激しました」と、おっしゃいましたが。まさにそうですね。
ここでいう「選び」とは、私たちが認識している人間的な選びとは全く異なるものです。
人間の選びは、その時その時によって変わります。1度選んだのを別の都合が生じるとそれを捨てたり手放したりして、また違うものを選び直したりする。そういった変わりゆくものです。
しかし、神さまの選びは、一度選んだものを何があっても決して捨てたり、手放したりはなさいません。人が離れるとするなら、人の側が離れるのであって、神さまはその選びを最後まで引き受けてくださる。それが神さまの愛とゆるしによる選びなのです。
「天地創造の前に」、神さまのご計画によって私たちは神さまに愛されて、この世に生を受けるものとされたのです。
私たちのいのちの源、そのルーツが、この「神さまの選び」にあるということを思う時、世では得られない平安、拠り所となる「霊的な祝福」によって確かに私たちは満たされます。

「霊的な祝福」の第2は、7節にありますように、神が「御子イエス・キリストの血によって罪人を贖われ、罪を赦された」ということであります。罪には死という代価が伴います。しかし、神は深く憐れんで御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされました。神はたとえ選ばれた者であっても、罪にからめとられて生きるなら、もう関係ないと捨て去られてもおかしくないのです。しかし神はゆるしの道を開いてくださり、選びを全うされます。その神の愛とゆるしを知って、立ち帰って生きる者を「霊的な祝福」が満たすのです。

先日ある「宣教のニュース」の記事に目が留まりました。
ドイツ国際ギデオン協会では、ウクライナ避難民のために70万冊のウクライナ語聖書が発注印刷されたそうです。「戦争勃発以来、ウクライナ語の聖書を求める声が教会や聖徒たちから非常に高まっている。それはウクライナ避難民に届けたいからである」ということであります。
以下そのままお読みしますが。「南東欧宣教会の所長は、次のように語っています。「このような聖書需要の高まりは、ウクライナ戦争によって始った。しかしそれは、現代のクリスチャンへの呼びかけでもある。ウクライナの戦争は現代のクリスチャンが霊的に目覚めるよう、神からの呼びかけでもある。誰も苦難や痛みを望む者はいないが、神は痛みや苦難を通して開眼するよう願っておられる。なぜなら最近のキリスト教会は、豊かさと繁栄ばかりを求める傾向にあるからだ。」
この記事は今日の教会、私たちに向けられたメッセージです。
戦争、貧困、飢餓などが人間を悲惨な状況に追い込んでいくことは確かですが、しかしそのように人間を惨めにさせる抜本的な原因は、創造主、いのちの源であられる神さま抜きに、世の富、繁栄を追求し、真理といのちの尊厳を蔑ろにする的外れな人間の生き方にあります。それが結果として人間を闇の支配下のもとにおき、滅びに至らせるのです。

しかしパウロは、福音のために自らそのような世の力の囚われの身とされながらも、「御子イエス・キリストの血による贖いのゆたかな恵みと希望を次のように説き明かします。
10節「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
ここにはキリストにおいて、全被造物が神の和解へと招かれ、遂に救いの完成に至るという驚くべき神さまのご計画の奥義が語られているのです。それは私たちの想像を超えるような事柄ですが。全被造物がキリストにあって、創造主なる神との関係性の全き回復に与り、一つとされるまさに全宇宙規模の和解、福音であります。

「霊的な祝福」の第3は、11節「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
この「約束されたものの相続者」とは、神の御救いを信じて生きる者が、神の御国を受け継ぐ者とされているということです。肝心なのはそのことが神さまの御心として、「前もって定められている」という点です。
それは先にも申しましたように、主イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)とおっしゃったその選びであり、さらに「それはあなたがたが出かけて行って豊かな実を結ぶようになるためである」という、そのような恵みの相続人であるようにということです。
13節には「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして、信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」とあります。
この「聖霊」は、神の御国を受け継ぐための証印、神さまからの太鼓判であるということであります。その聖霊の証印を受けている者の証しは、日々キリストが共におられる生きた信仰の確信のもと祈りと御言葉に生かされ、この地上にあって神の御国に与っていく人生を歩んでいく者とされているということです。

最後に、本日の箇所には4度も繰り返し強調されている言葉があります。
それは、3節「神は、ほめたたえられますように」、6節「神の恵みを、わたしたちがたたえるためです」、12節と14節「神の栄光をたたえるためです」と、ありますように、「救いの神をほめたたえる」ということであります。
そこに、私たち人間が、神によって造られ、生かされている目的とその証しがあります。
その根底には、4節の「天地創造の前に、神が私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」という御言葉がございます。

先の、ウクライナからの避難民の方がたに、聖書を印刷してお配りする働きが盛んになり、聖書需要が高まっているという報告は、まさに、人として極限とも言える状況下で身も心も傷つき、痛み、多くのものを失なうという実に厳しく、辛いその時に、いやそのような時だからこそ、聖書は必要とされ、まさにそこに救いを見出そうとなさる方が多くおられることを知らされます。
それは、すべてのいのちの源なる神に揺るぎない和解と平安を求め、立ち帰っていこうとする人間の根源的な欲求を表わしているように思えます。

大阪教会の玄関先には教会案内やトラクト等を入れるボックスがありまして、そこに最近小型の新約聖書を数冊ずつ入れおきしているのですが。それが毎日減っていきます。手渡しするよりも今必要を覚える方が御自分で取っていかれるので、いいです。
長いコロナ危機、戦争、さらに物価高による生活苦、孤独の問題など様々なことが起こっていますが。そこで本当に人間とは何者か。人間はどこへ向っているのだろうかと、その問いの中で真摯に救いの神と出会われ、この地上のものでは決して埋めることのできない神の祝福で満たされてく方がおこされていくようにと、願うものです。
今日は神学校週間の最終日の礼拝として、「救いの神をほめたたえる生」と題し、御言葉から聞いてきました。いのちの御言葉が与えられていることは何よりも、大きな力、支え手であります。
今週も主イエス・キリストにおいて満ち溢れる救いの神をほめ讃えつつ、歩んでまいりましょう。
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晴天と若木・若葉#長居公園のエナジー

2022-07-02 08:51:53 | 教会案内
晴天と若木・若葉(長居公園のエナジー)
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