日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

赦されて

2014-01-26 18:29:12 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ8・1~11 

今年も1月から釜ヶキリスト教協友会が主催する越冬夜回りが始まり、私も微力ながら毎週金曜夜9時過ぎからキリスト教会、ミッションスクール等の関係者、又ボランティア等の方々と一緒に参加させて戴いています。主に釜ヶ周辺と山王地区を回りますと、シェルターで寝泊まりされている200~300人を除くと、厳寒のもと路上で一夜を過ごしておられる方々が常時100人以上はいらっしゃいます。
「凍死者」を出さない、ということを切に願い合いつつ、この活動に参加していますが。残念なことに、一時期路上で寝泊まりされていた方がたは減少傾向にあったのですが、最近の社会情勢や生活保護法改定によって路上生活をせざるを得ない方々が再び増加しているというのが現状であります。この近辺では天王寺公園ゲート前や動物園ゲート前等で路上に寝泊まりされている方々がおられます、どうぞお祈りに覚えて下さると有難いです。
 イエスさまはそのご生涯において、どんな立場におかれた人も、その命はかけがえなく尊いものであることをお示しになりました。どうぞお祈りにおぼえて頂き、もしもお米やカイロ等ご献品戴けるものがありましたら持ってまいりますので、お声をかけて下さればと思います。

さて、本日はヨハネ8章の箇所から「赦されて」と題し、御言葉を聞いていきます。
始めに、イエスさまはオリーブ山へ行かれたとあります。それは前7章の「ユダヤ人指導者たちの不信仰」を嘆かれ、天の御父に祈るためのものであったようです。
群衆の間にも対立が生じ、イエスを信じようとしない人の中には、イエスを捕えようとする者もでてきました。イエスさまでさえ人から理解されず悩み苦しむことがおありだったのです。
私たちは、人から理解されないように感じる時、怒りや悲しみの感情に振り回され、すべて投げ出したくなるものですが。イエスさまは、そのような中で祈るために退かれ、祈り備えてなすべき業に立ち続けられたお姿は私たちに勇気と励ましを与えるものです。
そのようにオリーブ山で祈られたイエスさまは、翌朝早くエルサレムの神殿に入られます。そうしてご自分のところに集まって来た民衆に向けて、再び教え始めておられました。

するとそこへ、律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えた一人の女性を連れてきます。そしてイエスさまにこう言うのです。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

実はこれは7章のユダヤ人指導者であった律法学者やファリサイ派のイエスに憎悪と反感を持つ人たちが、イエスさまを陥れようとするために企んだ巧妙な策略であったのです。ここでもしイエスさまが、この女性を石打ちにしてはならないと言えば、彼らの主張するモーセの律法を破ることになります。一方、イエスさまが彼らの主張するモーセの律法どおり石打ちで殺すことに同意すれば、たとえモーセの律法に従ったことになるとしても、ローマ当局の支配地域で許可されていない死刑を主張した違反者となるのです。つまりいずれかにどう答えてもイエスさまは逃げることができなかったのでありますね。
しかし、ここで疑問に思えますのは、この場に引き出されてきたのがこの女性一人だけだったということです。相手の男性はどこにいったのでしょうか。 
旧約の申命記に記されているモーセの律法には、姦通した男女二人とも殺すように命じています。男性も同罪であり、その場に連れてこなければならなかったはずなのに、この一人の女性だけが公の場においてさらしものとされたのです。男性優位の社会の中でその命が軽んじられていることが見てとれます。同時にその指導者たちにとっては、この女性にどんな刑を科すかは問題ではなく、ただその彼らの憎悪のためにこの負い目をもった一人の女性がイエスを訴える道具とされ、公にさらしものとされたのであります。
 イエスさまはいつも世にあって小さくされた人を真中に立たせ祝福なさいました。ところが彼らの憎悪のために、その女性を真中に立たせ命をないがしろにするのですね。

週ごとの聖書を教会の掲示板に掲げていますが。今週は「愛を求める人は罪を覆う」という箴言の言葉であります。神さまの愛を知ろうと追い求めようとする人は罪を覆うのであります。神の愛といつくしみを忘れ、軽んじる者は罪をあばきだそうとするのです。

さて、イエスさまは小さくされた女性を利用しご自分を罪に陥れようとする者たちに対してどのようになさったのでしょうか。
聖書にはイエスさまはかがみ込み、指で地面に何か書き始められたとあります。
しかし彼らがしつこく問い続けるので、イエスさまは身を起こして、言われます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」。
そういってからまた再び指で地面に書き続けられた、というのです。
ここで大きな転換が起こります。イエスさまは訴える彼らの問いに直接お答えにならず、
逆に訴える彼らとそこにいた民衆に対して、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、問われるです。
イエスを訴えようとしていた彼ら。何とお答えになるのだろうと見守っていた民衆が。逆に自分自身を問われることになるのです
イエスさまがかがんで地面に何を書かれていたのかは分かりません。けれども彼らの頑なな心と小さくされた一人の女性の命を軽んじる態度に深く嘆かれ、そのような人間の罪のために受けねばならないご自身の受難の日が近いことを感じ取っておられたのではないでしょうか。
イエスさまはそう一言おっしゃた後、再び身をかがめて地面に書き続けられたとあります。私はそこに深い沈黙の時が流れたのではないかと思うのです。
それはイエスさまの周りにいた人々が、神の前に一人ひとり自分の立ち位置やあり方を根底から問われていく時となったのではないでしょうか。

イエスさまは「罪を犯したことのない者が」と言われましたが。すべての人間が神の御前にあって罪人である事を知っておられたから、このようにおっしゃることのできたのです。
聖書に「義人はいない。一人もいない」と、使徒パウロはその点から主イエスの贖いの必要性を解いていますが。この女性に対して石を投げることのできるとすれば、それは罪のない神の御ひとり子であられる主イエス唯お一人であられるのです。
イエスさまを訴えて断罪しようとした律法学者やファリサイ派の人々は、反対にその罪のゆえに、自ら裁かれることとなったのであります。
そうしてイエスさまのこの言葉を聞いた民衆は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真中にいた女が残った」というのですね。
まず年長者からその場を立ち去ったとあります。年長者は長い人生の歩みにおいて、罪を身に覚え幾度も神に和解を求めて贖罪のささげものをなしてきた人たちです。神の前に人を裁く資格などないことを思い起こしたそれらの人たちからから、その場を立ち去ったというのですね。するとそこにイエスさま一人とその女性が残されました。

イエスさまは彼女におっしゃいます。11節「わたしもあなたを罪に定めない。」イエスさますらも、彼女を「裁かない」とおっしゃるのですね。
罪のないイエスさまのみが罪を裁くことがおできになるにも拘わらず、「罪ある者が裁かれて滅びる」ことをイエスさまは望まれません。
ヨハネ3章17節にはこう記されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
なんという愛、恵みでしょうか。イエスさまはこの女性に対してあなたを裁かない、とおっしゃいました。むろんその罪はそのまま消えてなくなったわけではありません。人間の罪は厳格に裁かれ清算されなければならないのです。神は聖と義であられるからです。
そのためにこそ、罪のない御子イエスさまが十字架にかかり、人間の罪の裁きを引き受けて断罪されるしかなかった、ということを私たちは忘れてはなりません。
このヨハネ福音書は、御子イエスさまが十字架の贖いの業によって神の聖と義を全うし、人間を罪から解放し、救いをもたらしてくださった。そこにメッセージの中心があります。

イエスさまはルカ福音書6章のところで「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」とおっしゃっています。
そして同じルカ11章のところでこう祈るように教えられました。
「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
イエスさまの「わたしはあなたを裁かない」とのゆるしの宣言。これはまさに主の救いに与った私たち一人ひとりに向けてイエスさまが語られているのですね。
続けてイエスさまは、「これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいます。
救いの恵みを受けた者に相応しい応答の歩みをなしていく私たちでありたいと願います。
イエスさまの十字架の贖いによって「救われた罪人」であることをいつも心に留め、主に感謝をもって、御心に聴いて歩んでいくことができるよう、祈り求めてまいりましょう。
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主イエスが与える生きた水

2014-01-19 15:55:00 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ7・1~13、37~39

先週はこの新会堂においてバプテスト連盟の青年ミニストリー協議会が二日間に亘って開催されました、2階のホールでの昼食時は満席状態となり、又二日目の集会のピーク時には40名近い方々が会堂に集われ盛況でした。二日間のプログラムを通して、聖書から聴く学びと、青年たちが如何にそれぞれの教会に繋がってそこで何を考え、問い問われつつ歩んでおられるか。私も参加させて戴きながら、その一端を知る機会ともなりました。教会は教会の運営や働きのために青年たちの行動力や働きを期待いたしますが。しかしまず、青年たち一人ひとりが神さまの前にあって生き生きと活かされていくことが大事で、そのために教会は何ができるのか、祈り、サポートしていくことが必要であるということを改めて思わされました。それは同時に青年期を過ぎた者やこれから育つ子どもたちも同様であります。魂が飢え渇いたままでは恵みを汲み出すことはできません。まずは自分自身が神の御前に魂の渇きを潤されて活き活きと生かされていくことが大切であります。
本日はヨハネ7章のところから「主イエスが与える生きた水」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

①神の時を待つイエス
さて、本日の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動、6章に詳しくございますが、その活動を終えられて、いよいよユダヤの中心地エルサレムに向かわれるそのようないわばイエスさまのご生涯のターニングポイントともなる箇所であります。
1節に「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとされなかった」とあります。
ここでイエスさまはユダヤ人たちから危害が及ぶことを避け、一時ガリラヤ周辺を巡っておられたということですけれども、それはイエスさまが単に身を守るためにガリラヤに逃れたという事だけではないように思います。エルサレムに上るタイミングを計り、備えて待って、ご自分で決定をくだすのではなく、神さまの時に備えておられたのであります。
イエスさまはどこまでも神さまの御心を祈り求め従われます。

しかしそういう時に、イエスさまの身近な兄弟たちからのいわば試みの声が聞こえてくるのです。3節「イエスの兄弟たちは言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られるようにしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきりと示しなさい』。」
 この時は丁度「ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」頃で、エルサレムに人がたくさん集まってくるので、まあ「今でしょう」というように兄弟たちはイエスをせきたてたのです。
けれどもイエスさまはその兄弟たちの言葉に対して、6節「わたしの時はまだ来ていない」と答え、ガリラヤにとどまられました。

私たちは何をするにも、あれをしよう、これをしよう、と様々な計画を立てます。
しかし箴言3章6節にはこう書かれています。「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」
何につけ、決断や行動する前に、独りよがりでなすのではなく、主と共に行く道を尋ね求め、どこにおいても、どんな時も主を認めて判断してゆくのなら、たとえそれが困難な道、いばらの道であったとしても、後で振り返った時には、まっすぐな道であったと思える日が来る。主がそのように認めてくださるのです。
イエスさまは、エルサレムに上ることが怖かったから行かなかったのではありません。「わたしの時」、すなわち十字架の御業を成し遂げられる時がまだ来ていない。それがエルサレムに上ることを断った理由でした。

②エルサレムへ上る時
ところがです。10節には「しかし、兄弟たちが祭りに上っていったとき、イエス自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」とあるんですね。イエスさまもぶれることがおありだったのでしょうか。
兄弟たちに「エルサレムに上って自分を世に示せ」と言われた時に、まだ時は来ていないとイエスさまは断ったのに、どうしてこの時にイエスさまはエルサレムに上ろうとされたのだろうか? その理由はどこにあったのでしょうか?そのことを黙想しながら何度もこのところを読み返してみました。
すると、一つ思わされたことがあります。それは、イエスさまとこの兄弟たちの思いに大きな違いがあったということです。兄弟たちは4節にあるように、イエスに「自分を世にはっきり示しなさい」と言っています。いわば兄弟たちはイエスを祭り上げようとしたのです。
それに対してイエスさまは、18節で「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」おっしゃっています。つまり、この兄弟らと一緒に都に上ることになれば、イエスさまのことが都中に知れ渡り、結局は神の御心を顕わすことができなくなる、とそうお考えになられたのではないでしょうか。だからイエスさまは兄弟たちと一緒にエルサレムに上られなかったのでしょう。
 すべて同調すること、周りと合わせることがよいとは限りません。肝心なのは、主が何を大事になさっておられるか、その事に心を用いそれに沿って歩むことが大切なのです。

③仮庵祭と水
さて、イエスさまがエルサレムに上られて、仮庵の祭の時が訪れます。
仮庵祭は秋に行われたユダヤの三大祭りの一つでした。三大祭りにはエルサレムから約32キロ圏内に住むユダヤ人成人男子はその祭りに参加する義務があったそうです。仮庵祭は出エジプトしたユダヤ人たちの祖先であるイスラエルの民が荒野を旅していた時に、仮庵で過ごしてきたことを記念し、エルサレムの都周辺に仮庵を建てて、そこで8日間過ごして神に讃美と感謝をささげる祭でした。ユダヤ人たちは、旧約聖書を基に「メシヤが仮庵祭に来られる」と信じてそれを守るのです。又、仮庵祭は今日でいう収穫祭に似た祭りとして神の恵みと祝福を記念する意味をもって行われます。その仮庵の祭りの中で、水を注いでささげられる特別な儀式が7日間に亘って行われます。それは、荒野で渇ききったイスラエルの民たちに、モーセが杖をとって岩を叩いて岩から水を噴き出させて、その渇きを潤したことを憶えるために、祭司がシロアムの池に金の水瓶をもって行き、水を汲み、エルサレムの神殿まで戻って来て祭壇に水を注ぐのです。
旧約聖書・イザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」という御言葉にもありますよに、「神の救いの井戸から水を汲む」ということを象徴しているのです。祭りに集う人々は歓喜の歌声共にそれを迎え、主を賛美したというのですね。
 私どもまた、大川ビルでの仮庵の期間に湧き出た恵みの泉を、今後も証しとして大切に語り継いでいきたいものですね。

④祭りの終わりに
さて、37節以降にとびますが、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』とあります。
イエスさまは、すでに祭り半ばを頃から新殿の境内で教え始められていましたが。いよいよ祭りが終わりに近づいたその時に、大声で、このようにおっしゃったというのですから、それは祭りに集っていた人々に強烈なインパクトを与えたのではないでしょうか。
水の注ぎの儀式と祭りはもう終わろうとしている。その高揚感も、何となくうら寂しいような気分に変わってくるものです。そんな感傷的な雰囲気を打ち破るように、大声でイエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と呼びかけられるんですね。
 そこには、やがて終る祭り、やがては渇く水では到底潤すことのできない人々の魂の渇きを前にしたイエスさまの熱い思いがほとばしり出ているように思えます。

人々はユダヤの伝統や宗教に従って祭りや儀式を行っていました。それは敬虔で尊いことであります。が、その一方で、儀式や行事には限界があるものです。さらに、それを守ることが、きよめの条件になっていったり、生活が厳しく参加できない人たちは、その恵みに与れないばかりか、それが差別や偏見にもつながったのです。
ですから、イエスさまがここで、「だれでも」とおっしゃったことの意義は大変大きかったのです。分け隔てなく、どんな人でも、誰であっても、魂の底から飢え渇きを覚えている人は、直接わたしが与える生きた水(命の水)を飲みなさい、と言って主はお招きになるのであります。
都エルサレムとその周辺には比較的豊かな人たちが多くいました。彼らも現代人の殆どの人たちがそうであるように、豊かさ、健康な生活、能力やよき家庭を追い求め、それによって生きる喜びが得られるように努め、働いたことでしょう。
しかし、それらはやがて失せ、亡くなっていくものであります。
どんな楽しみも、願いも、叶ったとたん色あせていくものです。喉が渇けば水を飲む。でもしばらくするとまた喉が渇くのと同じです。どんなものをもってしても、人の根源から生じる魂の渇きを満たし、潤すことはできないのであります。

⑤命の泉と聖霊
38節でイエスさまは言われます。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
ここで「聖書にあるとおり」とおっしゃったのは、先程読みました旧約聖書イザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」というお言葉も含んでいると理解できます。イザヤの預言した「救い」は、「イエス・キリスト」の受肉にはじまり、人類を贖う十字架の苦難と死、さらに復活を通してもたらされた出来事であります。その救い主イエスを信じる者のうちに、決して尽きることのない「生きた命の水が川となって流れ出るようになる」というのであります。

以前に一度お話しましたが。私が大阪の神学校の時代に新約学を教えて下さったある先生からのお話ですが。その先生が、アメリカの西海岸のロッキー山脈を横切る旅をされているときに、ある奇妙な光景に目を奪われたというのですね。姿を見せては過ぎ去っていく湖に水がなく、赤茶けた地肌をさらけ出して干上がる寸前の湖がいくつもあったそうです。その一方で、水を満々とたたえている湖に出会うこともあったというのです。なぜこのように涸れた湖と水をたたえる湖があるのか、その違いについて解ったのは、湖底に泉があるかなかの違いだということであります。
この湖のように、魂の底に、尽きることのないイエスさまの命の泉を戴いているということは、尽きることのない魂を潤す命に与り続けるという大きな祝福であるのです。
39節を読みますと「イエスは、御自身を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」とあります。
この「霊」は、原典(ギリシャ語)に定冠詞がついておりますので、単なるものではなく、神さまご自身であられる聖霊をさしています。ご聖霊は聖霊降臨のペンテコステの時に、主イエスを信じ、あるいは求め集った人々が祈り求める中に降られました。言い方を変えれば、主を信じる者たちのうちに臨み、住んでくださった、その一人ひとりの群れが教会なのであります。
今もご聖霊は、主の御業の継承を信じる者のうちに豊かに働き神の愛と救いを信じる力を与え、主の御業の継承のため私たちを通してお働きになられます。この聖霊の働きを祈り求め、聖書の御言葉に聴き従い、そこから湧き出る汲めども尽きない生きた命の水に日々与ってまいりましょう。

最後にもう一つだけお話して宣教を閉じたいと思います。
先日、あの未曾有の阪神淡路大震災から19年目の1月17日、大震災で亡くなられた方々を偲ぶ式典が様々な形でもたれ、全国的にも報道されました。その中のある番組で、被災者対象の集合住宅が取りあげられていたのですが。そこに入居できるのは当時60歳以上と障がい者に限定されていたため今は殆どが80歳以上の方々となり、運営管理について様々な問題が生じているということでした。
その一つとして、孤立化というのが非常に深刻な状況にあるということです。ある方は、大震災で子どもが亡くなったのは自分のせいだと自責の念に責め苛まれ、人生の楽しみをも持つ資格はないのだと、すべての友人との関係を断ち、美食も避け、来る日も来る日もお墓の前に行って詫びる生活を19年間続けてきた、とおっしゃっていました。又、ある方は、唯一人の家族を看取り、まったく人とのつながりを持てない中で孤独に押しつぶされそうなるその心情を吐露しておられました。そんな中、ある高校生たちがそのような状況におかれた方々に「手紙を送る」という取り組みをこの数年続けているようです。その高校生と文通をしている89歳の男性は「生きる力です」と、まるで宝物でも扱うように手紙を手にとっておられました。「忘れられていないんだと感じる」という声もありました。
 番組の対談に参加しておられたNPOの方がこんなことをおっしゃっていました。
「私は目にしたのですが、どんなに孤立した方も毎日、郵便受けをのぞくんですね。たまにそこに入っているのは電気や水道などの使用料の明細ぐらいです。けどそれでも郵便受けをのぞくんですね。私が目にしたのですが、ある方が郵便受けに高校生から来た手紙を見つけた時、それを本当に大切そうに胸に抱きかかえるようにしてお部屋に入っていかれたんですね。」
一通の手紙がその人の魂の拠り所となっている、というその事に感動を覚えました。
 
「生きた命の水」。それは飲む人に「生きる力」を得させます。そればかりか、その命の水がその人の内から川となって溢れ流れるようになるのです。
 私たちも今日、ご聖霊の生きた命の水に与りつつ、世に遣わされてまいりましょう。
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命のパン

2014-01-12 17:33:29 | メッセージ
主日礼拝宣教 ヨハネ6・1~15

先週は主の晩餐がもたれましたが。あるパンの製造会社のパンの袋には「Daily Bread」と印刷されています。クリスチャンでもある初代創立者はそこに霊肉養う「日毎の命のパン」という思いを込め製造したのです。私たちは日曜日毎の礼拝を大切にし、水曜日には特別な祈りの時を持ちます。しかしパンやご飯を毎日戴くように、霊的な糧である命のパンを戴くことで、私たちは本当の意味で養われていくのです。「人はパンだけで生きるものにあらず、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」と主はおっしゃいました。
本日の聖書の箇所として先程ヨハネ福音書6章のところが読まれましたが。この個所は「5千人の給食」としてよく知られ、他の福音書すべてにも記されていますが、今日はここから「命のパン」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

さて、6章の1節冒頭に「その後」という書き出しがありますが、これは4章でイエスさまが「役人の息子をいやされた」事や、5章では「ベッサイダの池で病人をいやされた」事を受けてということであります。続く2節には「大勢の群衆がイエスの後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」とあります。つまり群衆はイエスさまが病人をいやされたしるしを見て、イエスさまを向こう岸まで追ってきたのであります。彼らのうちの多くは恐らくその身に病気を抱えていたり、身近な家族や親族に病人がいて、何とかイエスさまにいやして欲しいと乞い願っていたことがそこから読み取れます。イエスさまは弟子たちと山に登り、そこに腰をおろされますが、目をあげると大勢の群衆がご自分の方に迫って来るのを御覧になります。

しかし、イエスさまはここでは病気のいやしを行われません。群衆が近づくのを御覧になったイエスさまは、病ではなく人の抱える別の問題にお察しになるのです。
そこでイエスさまは、弟子のフィリポにこうお尋ねになります。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
するとフィリポはその質問に対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」とまともに答えます。1デナリオンは当時の1日分の賃金に価するそうで、それが5千円だとしたら、100万円以上ということになります。まあそのようなお金を弟子たちが持っていようはずはありませんし、それだけの分の食糧を販売し調達できるような所などむろんなかったでしょう。何とも答えようがないというのがフィリポの反応であったのですね。
その隣にいたのか、弟子のアンデレがイエスさまに、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役に立つでしょう」と口を挟みます。しかしこのアンデレの答えも、さほどフィリポと変わるものではありませんでした。
弟子たちは自らのパンを持っていなかったのでしょうか。他の福音書の記事では、5つのパンと2匹の魚は、少年がもっていたとは記されていないので、それが弟子たちの携帯品としても読めなくありません。だとしたなら、弟子たちは早く群衆を解散させて自分たちも食事を取りたいという気持ちがあったのかも知れません。まあ弟子たちだけで食べるにしてもそれなりの人数はいたでありましょうから、パン5つと魚2匹では本当に一摘みずつしか口にはできなかったことでしょう、
どちらにしても、この少年が持っている僅かで粗末な食べ物が一体何の役に立つのでしょうか。
けれども、男だけで5千人もの人々に対する食物としての5つのパンと2匹の魚を、イエスさまは少なすぎるとはおっしゃられなかったのです。「足りない」とか「少なすぎます」と言ったのは弟子たちでした。

その事を知ったイエスさまは、そのパンと魚を受けとられ、男だけで5千人、女性や子どもを加えるとその倍の1万人ぐらいはいたのではないかと言われていますが。その人々を前に、パンを取り、感謝と祈りを唱えてから、分け与えはじめたのであります。        
弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。それは割いて分けけば分けるほど増えていくパンを目の当たりした群衆も同様であったでしょう。主イエスはまた、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられたのです。他の福音書ではこのパンと魚を弟子たちが配給したとされていますが。ヨハネ福音書ではイエスさまご自身があたかも群衆の一人ひとりと向き合うようにパンと魚とを欲しいだけ、そのように分かち与えられたというのですね。   
この福音書の記者であるヨハネには、イエスさまが人々を一かたまりの群衆としてではなく、一人の人として向き合い、その必要に応じられているように感じられたのではないでしょうか。

さて、今日の物語の最も豊なメッセージそれは、このイエスさまご自身が「命のパン」であられるということにあります。主の晩餐の折に、賛美する「マラナタ」に命のパンを戴き、という歌詞がありますね。
イエスさまは、飢え渇き、疲れ果てた多くの群衆を青草の上に座らせ、その一人ひとりにパンを分け与えられました。それは肉の必要を満たすパンでありましたが、同時に多くの人を贖うため十字架上で割かれたイエスさまの御体を表す命のパンでありました。私たちが罪に滅びることのないように、魂の飢え渇きに滅びることのないように、その贖いの御業のために十字架の上で割かれた主イエスの御体。その天からの命のパンによって、今私たちも救われ養われているのです。
12節では、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と言われた、とあります。これはヨハネ福音書だけにあるのですが。ここで初めて、イエスさまは弟子たちに「残りのパン屑を集める」というなすべき働き、務めを指示されるのです。

聖書は、弟子たちがパンの残りを集めると「12の籠いっぱいになった」とあります。
それは常識では考えられないことであります。ちなみにこの12の籠というのは、12弟子たちが旅のために携えていた物入れのようなものであったらしいのですが。そこには物だけでなく彼らがイエスの弟子として経験した主の御業と教えがいっぱい詰められていたんではないでしょうか。また、12はイスラエル12部族の数ですから、それを超えて世界のいたるところにまで、主イエスの福音の御業と恵みは、溢れ出ていくということを示唆しているようにも思えます。
その神の愛・福音の拡がり、いや、ここに出てくるのはパンでありますから、福音の膨らみ、福音の味わいに、いわば異邦人である私たちもこうして与らせて戴いているわけでございます。

最後に、本日のこの聖書のお言葉を読みながら、もし自分がこの場にいたとしたなら、やはりフィリポやアンデレのように常識的に考えそのように受け答えていたのではないかと思うのです。どこか計算をして自分には絶対無理、これだけのもの、これだけの力しかないのだから、と後ずさりしたくなる私です。
けれども、よくよくこの記事を読みますと、イエスさまは私たちに出来ないことを求めているんではないのです。6節を見ますと、フィリポがイエスさまに尋ねられて何と受け答えしようかと考えている間にも、イエスさまは「ご自分が何をしようとしているか知っておられた」とありますよね。つまり主イエスは、私たちが何かを持っている、持っていない。できる、できないということを最重視しておられるのではなく、主ご自身がなさろうとしていることに、私たちがどう応えていくかを見ておられるということです。

私たちにできることは献金やスチュワードシップもそうですが、祈りつつ、心に決めた事を、主に差し出して、主に聖別して戴くとき、主はあたかも、わずかなパンだねでパンが膨らんでいくように私たちの思いを超えるような祝福を起こしてくださるのです。
 この会堂建築はまさにそうでありました。私たちは多少なりとも痛みをもってお献げしてきました。主の御心に何らかの形で応えていきたいと、溢れる感謝を献げてきたのですが。もう早々と連盟や連合からの会場使用の依頼が次々に来ています。まさに私たちの祝福が豊かな広がりをもって分ち合われているんですね。
主は私たちに出来ないようなことは求めておられません。私たちの身近にあってできること、私たちに与えられているその時々の賜物をもって主に捧げて生きる。それを主は喜び祝して下さるのですね。、
私たちの生活の全領域において、主の愛に応え、主の愛を分かち合っていく時、主がどれほど豊かにそれをお用いになるかということを、この5千人の給食は者が物語っているのであります。
朽ちることのない「命のパン」なる主イエス・キリストに与って、日々を本当に豊かに歩みゆく者とされてまいりましょう。

先週9日木曜日の夜、O兄が心筋梗塞のため天に召されました。35歳という若さでした。妹さんからこの訃報を知らされ、大変驚き、残念に思いました。唯、彼が昨年、丁度新会堂の建築の真っただ中の時期に、仮会堂で守られていた礼拝に何度か出席をされ、「神のもとに帰って来ることができてうれしい、父もよろこんでいると思います」と言って、一緒に礼拝を捧げることができたのは、ほんとうにこれは主の導きであったのだと、改めて思わされました。その後、体調を崩されていたご様子で、もう少し関わっておればという心残りも私にはありますが。
もう一つ不思議なことは、O兄が教会に来られた同じ夏の時期に、妹さんもお近くのキリスト教会の集会のチラシがポストに入っていたのを御覧になり、それからその教会に月に一度ぐらいのペースで行き始められたということを、昨日妹さんから伺ったのですね。主は生きておられます。今は、残されたご家族のうえに、主の御慰めを、どうか皆様もお祈りに覚えて頂ければと存じます。
イエスさまは弟子たちに「少しも無駄にならないように残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。小さな私たちの証しかも知れません。しかし主の御業は少しの無駄もありません。主は豊かに祝して下さるお方であることに信頼しつつ、命のパンを戴き、分かち合ってまいりましょう。祈ります。
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主イエスの宣教活動開始

2014-01-05 17:19:10 | メッセージ
新年礼拝宣教  ヨハネ2章1~11節

本日は新年主日礼拝に相応しい箇所ともいいますか、ヨハネ福音書2章1節~11節より「主イエスの宣教開始」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。イエスさまはこの2章から公での宣教活動が始まっていく、その最初に行ったいわば仕事初めが、カナでの婚礼で「水をぶどう酒に変えた」しるしであったのです。

ガリラヤのカナは、ナザレから北に12、3キロ離れたところにある村で、そこで結婚式が行われたということですけれど。ユダヤの結婚式の時期は大体、収穫が終わった秋に行われていたそうです。それは、食べ物や飲み物が結婚式に必要だったからで、その宴には祝い客に沢山の料理やぶどう酒が振る舞われ、まるで正月のような時が一週間、あるいはそれ以上続いたそうです。

このカナでの婚礼は、イエスの母マリアの親族か親戚か身近な関係者のものであったのかも知れません。婚礼の宴のお世話かその指揮をマリアはしていたのでしょう。そこへイエスと、その弟子たちも招かれていたのです。
 ところがであります。こともあろうに婚礼の宴のぶどう酒が足りなくなってしまったのです。まあ一生に一度の大事な宴席であったのに、途中でぶどう酒が足りなくなったとあれば、新郎の顔はまるつぶれ、宴の指揮をとっていた親族や母マリアも非難されたことでしょう。この婚礼の行われた家庭は、決して裕福とはいえなかったのかも知れません。そういう事態の中でイエスの母は、イエスなら何とかできるのではないかと思い、「ぶどう酒がなくなりました」と、援助を求めたのであります。

しかしそれに対するイエスの答えはどうだったでしょう。それは4節「婦人(女の方)よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」という、ある意味そっけなくマリヤの期待を退ける厳しいものであったのです。
イエスの言葉使いについて、「これが親に対するものか」と思われる方もおられるでしょう。しかし、この婦人(女の方)よ、との呼びかけ自体は、当時、神殿内で位のある王女を呼ぶ時に使われたもので、非難中傷や叱責の意味合いはなく、むしろ尊敬と礼儀を表すものであったのです。
それにしましても、このイエスの「わたしとどんなかかわりがあるのです」との言葉は、確かにその関係との断絶を示す厳しいものです。
イエスさまは一体どうしてこんな言い方をなさったのでしょうか?
それは、イエスさまが次に口になさる言葉と密接につながっています。
「わたしの時はまだ来ていません」。ここでイエスさまのおっしゃる「わたしの時」というのは、
十字架の苦難と死をその身に負われる時であります。1章29節で、バプテスマのヨハネがイエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しているように、イエスさまはまさに、そのためにこの世界においでくださったのであります。つまり、その時からすれば、ぶどう酒が足りなくなる出来事など本当に些細でちっぽけな問題であり、日常の断片的風景の一つに過ぎないことであります。イエスさまは奇跡としるしを要求する人々に対して、「ヨナのしるしの他は与えられない」ともおっしゃいました。それは、十字架の苦難と死、その死からよみがえられることこそ最大で唯一のしるしなのです。十字架の救いに勝るしるしはありません。それは、信じる者にいのちを得させる神の大いなる恵みの御業であります。
しかし、それでは主イエスは私たちの小さな願いや、ありふれた日常の必要など気にかけて下さらないのかというと、決してそうではありません。

母マリアは毅然たるイエスの言葉を聞き、ただごとならぬ気配に驚きながらも、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言うのです。マリアはイエスを信頼していました。そしてイエスさまはその必要のために「水をぶどう酒に変える」という形でお答え下さるのであります。

私はこれまで、この「カナでの婚礼」の記事を読む時、イエスの母マリアが「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」とイエスに言われながらも、イエスを信頼し、又、召し使いたちもイエスの言葉に忠実に聞き従った、そこに神の御業が顕わされた、という視点で読むことがよくあったのですが。今回、イエスさまはどのようなお気持ちでこの場に御業を顕わされたのかということを考えた時、新たに気づかされたことがあったのです。
それは、イエスさまが「わたしの時」という大きなご自身の使命を前途に抱えておられたにも拘わらず、人々の喜びや悲しみ、心配や必要といった日常のいわば悲喜こもごもにさえ、ご自分の大きな使命をもちながらも関わりをもってくださるということを、新鮮な気持ちでおぼえることができたのですね。それが何ともうれしく新年早々大変励まされるわけであります。

私たちの日常には大小様々な問題や気がかりな事が山積しています。自分の事、家族の事、隣人の事、ほんとうにキリがないほどです。どうしたらいいかも分からず手をこまぬいているそのような時、主は、私どもの訴え、助けの声を、決して素通りなさるお方ではありません。私たちの些細でありふれたそんな祈りをもお聞きになり、最善を示してくだるお方なのであります。

さて、今日のお話しの中でもう一つ心に留まりましたのは、身を清めるために家においていた水がめを、イエスさまがぶどう酒に変えたということです。
律法の規定のもとで生活していたユダヤ教徒たちは、食物、衣服、器物、住居をはじめ、身にけがれを受けた場合には直ちに清めの儀式をおこなって、けがれを洗いきよめなければならなかたのです。ですから、それに要した水がめも水もまあ大量であったのです。ここに6つの水がめといいますから、私たちが入る一般的な家庭のお風呂の水の3回分はあったでしょう。まあ汚れを清めるという事にいつも追い立てられ、その度に水で洗っていたのです。しかしそのような律法的なあり方は、一方で人の心を萎縮させ、水も貴重でしたから水も得られない人たちは、汚れた者と見なされ、見下されます。この清めの水も本質的に人を罪から清めるものではなかったのであります。
しかし、イエスさまはカナの婚礼でその不完全な清めの水をぶどう酒に変えられました。
そのぶどう酒が象徴するものとは何でしょうか?私どもは主の晩餐の折に、小羊として人の罪の贖いのために主イエスが十字架で血潮を流されたことを想起し、ぶどう酒(杯)を戴くのであります。これこそが、全き清めとその救いのしるしなのであります。今や私たちは、その全き主の清めの恵みに与っていることを今日も主の晩餐において味わい、心からキリストの御からだに連ならせて戴いていることに感謝をおささげしたいと思います。

さて、水がめの水がぶどう酒に変わったことを何も知らない料理長(世話役)は、花婿を読んで言います。10節「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
料理長(世話役)が感心したのは、世で行われることとは正反対のことがなされたのを知ったからです。ぶどう酒もかめに入れればやがて酸化し、味も悪くなります。それが世の常識であります。けれども主の御業は常に新たにし、最上のものに造り変えられるのです。信仰に生きる私たちはこの希望を戴いているのですね。
今日の新年礼拝において、私たちはイエスさまの仕事初めの箇所を読みました。
「祝宴のぶどう酒がなくなるようなことがってはならない」と執り成したイエスの母マリア。
私たちも水をぶどう酒に変えてくださるお方に、常に新たに最上のものに造り変えられるお方に期待と願い求め、香ばしいぶどう酒の香りが常に放たれる霊的祝宴の年と変えて戴きましょう。
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キリストの香りを放つ教会

2014-01-02 13:48:04 | メッセージ
元旦礼拝 Ⅱコリント2章14節 

主の年2014年、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申しあげます。

昨年は世界中で天変地異が続き、聖書が終末の際に起こるであろうと記されている事どもが次々に起こった一年でありました。国内の情勢に目を向けますと、政権交代がありまして景気回復が伝えられる一方、貧富の差は益々拡大しています。4月からの消費税増税も決まり、社会の格差は拡がるばかりです。東日本大震災と原発事故の被災地の救済と復興は置き去りにされたまま3年にもなろうとしていますが、高濃度の汚染水は漏れ続け、危険な作業が日夜続けられています。さらに、特定秘密保護法の強行採決、武器銃弾輸出、沖縄米軍基地の代替地として辺野古埋め立ての問題。そして首相の独断的な靖国参拝により、中国や韓国をはじめ米国、EU、ロシアなど世界との緊張が益々高まっています。
今日の元旦礼拝にR宣教師夫妻もご出席くださいました。先生方は東日本大震災の被災者の支援活動「東北ケア」の働きのために、現地に何度もボランティアに行かれているということを伺っています。その貴いお働きに敬意を表します。被災地の方々が抱えておられる焦りや閉塞感に寄り添うお働きは大変な事とは存じますが。ヨハネ1章で「光は闇の中で輝いている」と語られている出来事が、先生方のお働き、私どもバプテスト連盟の被災地の教会の働を通して現わされてまいりますよう今年度も覚えていきたいものです。
世界の各地、又この国の現実の状況は暗く不穏な空気が漂っていますが。けれども、この世界をすべ治めておられるお方は主であられます。その主のみ言葉に聴き従って「キリストの勝利の行進に連ならせて」戴く私たちの歩みとなりますよう、心から祈り求めてまいりましょう。

例年この元旦礼拝において新年度の年間聖句とテーマ案を掲げる事となっていますが。2014年の聖句はⅡコリント2章14節「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」を掲げます。この所から年間テーマ「キリストの香りを放つ教会」とさせて戴きました。

私たち大阪教会は、昨年の3月から11月までの9ヶ月間は新会堂建築工事のために筋向いの大川ビルの一室をお借りして礼拝と祈祷会を行ってきましたが。この40週の270日の仮会堂でのあゆみは、モーセに率いられたイスラエルの民がカナンの地に向けた荒れ野の旅になぞらえることができるでしょう。先週の歳晩礼拝でもうしましたように、そこで様々なことがありましたが、主の先立ちと導きのもと守られて新会堂が完成し、12月1日晴れて新会堂での最初の礼拝を感謝と喜びをもって主にお捧げすることができました。このように私たちは仮会堂での荒れ野の旅路を経て、今は旧約聖書でいえば約束のカナンの地に入ることができたといえましょう。
しかしカナンの地に入ったイスラエルの民の歩みはそれで完結し、めでたしめでたで終わったかというと決してそうではありませんでした。旧約聖書のヨシュア記や士師記にはカナンの地に入ったイスラエルの民の歩みについて記されています。そこには彼らが祝福を勝ち取っていくための戦いが記されています。主の民を受け入れようとしない世の力との戦い。又、彼ら自身のうちにある罪や偶像における戦いが起こりました。カナンの地に至ったその日から彼らの新たなる神の民として生きる戦いが始まっていくのであります。

私たちも、新会堂が完成したことは喜びと感謝の出来事でありますが。実はこれからこの新会堂を用い、イエス・キリストの救いの御業である福音を守っていくだけでなく、如何に福音を伝え、分かち合っていくかという伝道の働きがまさに今後大事なのですね。
先日、西南学院大学神学部学生会が毎年発行している文集「道」が届き、目を通させて戴きました。神学部の教師や神学生たちが紹介されているので、皆さんもぜひ読んで戴けると、今の西南神学部や神学生のことが身近になるかと思います。
その文集の中で、次のある神学生が書かれた言葉に目が留まりました。
「私には最近ようやく書けるようになった漢字があります。それは『伝道』です。今までどうしても『伝道』を『伝導』;伝え導くと書いてしまうのでした。どんなに「直そう、直そう」と思っても、『道』ではなく『導』と書いてしまうのです。伝道はイエス様の道を伝えることであり、自分が導くことではないと分かってはいても、ついクリスチャンの私が、クリスチャンでない人を導かねばと肩に力を入れてしまうのです。そんな自分にとって『伝道』とは『伝導』であったようです。」 このように伝道ということについての気づきを綴っておられました。化学用語で熱伝導と言えば、例えば金属の棒の一方を火で熱すると、どんどん熱が伝わって、もう一方の側まで熱くなるという現象が起こるわけですが。それを考えますと、イエス・キリストの愛に熱せられた私が、様々な人との関わりと出会いを通してキリストの愛のぬくもりを熱伝導するものとして用いられる、という事で、神学生の言う伝道;伝え導くことも、当てはまらないことはないかも知れません。いずれにしても、伝道というのは、「私が人を導くのではなく、私がキリストの道を生きる」。そこに神さまの力が臨み、聖霊が豊かに働かれるということなんです。伝道の主役は主なる神さまご自身であられ、「キリストの道を生きるクリスチャン」を「主が伝道のためにお用いになられる」のです。
 
本日のⅡコリント2章14節には、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と記されています。
主ご自身が、私たちを通してキリストを知るという知識の香りを漂わせてくださるのです。主が、キリストの道を生きようとする私をお用いになり、至るところにキリストの香りを放ってくださる、というのです。相手の気持ちも考えず、自分の考えを押しつけようとしたり、自分の力で人を悔改めさせようといわば上から目線で力み意気込むことで、かえってキリストの香りではなく、人工的な悪臭が放たれるとしたなら、これは逆効果ですよね。

新しい会堂が完成いたしました。確かにこの建物が「キリスト教会ここにあり」ということを示し、証ししている存在感は大変ありがたいことです。しかし、それだけでは教会とは言えません。まさに教会に集う私たち一人ひとりが、キリストの香りを至るところに放っている、イエス・キリストにあって生きる証しをもっているということが、ほんとうに大切であります。
私たちが、イエス・キリストの言動、救いのみ業を常に心に思い、希望をもって祈る続ける中に、必ずや「神さまは私たちをその勝利の行進に連ならせ、私たちを通してキリストの香りを漂わせて下さる」でありましょう。

この一年のはじまりの元旦、私たちは生ける神、救いの主イエス・キリスト、すべての人間の罪を贖い復活の命を与えてくださる神さま、世界をすべおさめたもう神さまの御前において礼拝することができることは、何よりも代え難い恵みであります。
今年も主の栄光を仰ぐ一年となりますよう、お祈りいたします。

今年の「ブログ」も、どうぞよろしくお願いいたします。
2014年の皆さまお一人の歩みが、主にあってご健康とお働きが守られ祝され、又すべての必要が満たされていきますよう、祝福をお祈りいたします。

聖暦2014 平安・在主
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