日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

打ち砕かれた霊

2018-10-28 20:56:47 | メッセージ

礼拝宣教 詩編51編1-21節

詩編51編の始めに「賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とございますように、この出来事についてはサムエル記下11章~12章に詳細が記されておりますが。ダビデ王は部下のウリアから妻バト・シェバを欲望の赴くままに奪って妻としたのです。さらにダビデ王はその仕業を隠すために計略をねり、戦場の最前線にウリアを送り出し、彼をそこに一人残して戦死させるのです。地位や立場を利用しての不貞と殺害という恐ろしい罪をダビデ王は重ねるのです。

そこに現れた預言者ナタンは、このダビデ王に面と向かってその罪の重大さを指摘するのでありますが。ダビデ王はそう指摘されて初めてそれが神の前にどれほど重大な罪であったかを思い知らされるのです。

地位や権力は時としておぞましい高慢を生じさせます。そうでなくとも人の尊厳を認めていくということは、常に意識していなければいとも簡単に人を軽んじたり、排除したりしてしまう、そういう弱さをだれもが抱えているのではないでしょうか。

まあ、そうして預言者ナタンにズバッと指摘されたダビデ王は「わたしは主に罪を犯した」と、悔い改めに至ります。

この詩編51編はそのダビデの罪と悔い改めの詩であるわけです。詩編には7つの悔い改めの詩がありますが、今日の51編はその中でも代表的な悔い改めの詩であると言われます。

ダビデ王は3-4節で「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐みをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」と神に訴え祈ります。

「神よ、わたしを憐れんで下さい」。それはもはや自分で自分を救うことができない。神の憐みを乞うほかない。そういう者の祈りです。

「神よ、あなたは慈しみ深いお方です。その慈しみをもって憐れんでください」とダビデは訴えます。又ダビデは「罪、咎をぬぐってください。洗い清めてください」と言っています。

聖なる全き神の前に、罪、咎を負った自分はとうてい立ちえない。だからわたしを清めて今一度あなたの前に立てる者としてくださいと、そういう神さまとの関係回復をダビデは願っているのです。

私たちは自分の犯した罪を自分の力や業で消し去ったり、清めるということはできません。何か善行をなせば罪は消えるでしょうか。修行を積めば咎は軽くなるでしょうか。自らの罪の深さや重さを思い知らされる時、人はもはや「神よ、わたしを憐れんでください」と呻き、乞うほかありません。

12節で彼はこう祈っています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」と。ここに「創造」という言葉がでてきます。創造というのは、それまでなかったものが新しく創り出されるということです。それは、清さが自分の内には無い、だから新しく創り出される必要があるということですね。自分の内には無いからこそ、切実な祈りをもって「神よ、どうか清い心を創造してください。新しく確かな霊を授けてください」と願い求めているのです。唯一完全なお方である神だけが、人を全く新たに造り変えることがおできになる。そういう信仰の祈りです。

それはただ、主の憐みと慈しみ、一方的な主の赦しによる以外できないことです。罪によって断絶された神さまとの関係の回復に与って生きる。言うまでもなく私たち主である神を信じて生きる者の救いは、イエス・キリストによって罪、咎があがなわれ、神さまのきよめに与ることがゆるされ、神さまとの関係の回復の道が開かれていることであります。心からこの主に感謝する者でありますが。

 

さて、天地をお造りになりすべてを治めておられる主なる神さまは、「すべてのことをご存じであられる」お方でありますが。それは私たちにとってどんなに大きな慰めでしょう。

たとえ人からわかってもらえなくても、又誤解されても主は知っていてくださる。

けれどもその一方で、自分の罪や咎すべてまでも見逃すことなく、一切を知られているということに、私たちは恐れを生じのではないでしょうか。たとえ自分や人はごまかせても、神の御目はごまかすことが決してできないということです。

先日新聞に三谷幸喜さんのコラムが載っていました。三谷さんは「自分は普通、人に迷惑を掛けないように生きている」と自負していたそうです。ところが人間ドックに行って麻酔をされて内視鏡検査を受けようとした時、ほとんど意識がないわけえすが、「やめろー!」「いやだ!」

と激しく抵抗して「大変だった」とあとで医者から聞かされショックを受けたということです。コラムによれば医学界では人間ドックの最中に受診者が意識のない状態で暴れまくることを「虎になる」と言うらしいですが。医者は三谷さんに「麻酔の効き方がゆるいと意識が残って、普段抑制している本来の自分が出てしまうんです」と言ったそうです。三谷さんは「僕の本当の姿は虎なのか。そんなに荒々しい部分をひた隠し抑えに抑えて生きてきたのか。暴力的で自分本位で、人からどう思われようが己の本能に従って生きる野獣のような男。それが本当の僕なのか」と自問自答し、「いつの日か抑制が効かなくなり、自分の中に虎が突然現れた時のことを想像すると、居ても立っても居られない」とまあ面白おかしく綴っておりましたが。

多くの人は自分の本性というか性質がわからない。知らないで過ごしているのでないでしょうか。「自分はそんな悔い改める罪など犯したことない」「自分は親切で優しい」。そう思い込んで生きてきて、でも本当にそうだろうか?麻酔を受けるのが怖くなりますが。まあ人はごまかせても神さまの前ではすべては明らかで、神さまを信じていればこそ、そこに畏れも生じものであります。過ちを犯せば罪や咎に対する慙愧の念に苛まれ、取り返しのつかない事をしたことを強く悔やみ恥じて苦しむわけです。

 

この詩人は5節で「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」とうたっています。

「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」。ここには確かに罪を犯したことに対する慚愧に堪えない、いわば後悔の思いが示されているのですが。注目すべきは、その罪は「あなたに背いたこと」から生じていると言っているんですね。

それは6節においても「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」とあるとおりです。

つまりどんな罪であれ、その大本は、神に背を向けて、その関係性が断たれたところに起こっているということです。「罪」はギリシャ語でハマルティアと言います。それは「的外れ」という意味です。

ダビデの罪は具体的には部下のウリアやバト・シェバに対してのものでした。にもかかわらず、ここでは「主なる神さまに対して『あなたに背を向け』『あなた、あなたのみに罪を犯しました』と言っていますね。

 

それは何かダビデ王が部下のウリアやバト・シェバに対して犯した罪をいい加減にしているとか、軽視しているということでは決してありません。そうではなくその罪の大本、出所が神の御前にあって的外れな状態、そこから罪が生じたのだということです。

罪というと刑法に触れる犯罪や人としての道義に外れる行為など草草のことが思い浮かびますが、それは罪の一部に過ぎません。

聖書は罪の大本は、神に対して的外れに生きている個々の状態にあることを教えます。

たとえば人を傷つけたり裏切るというような行為も、それはそのまま神に対する的外れな行為であったと認識した時、罪ということを本当に知ったことになるのです。人間関係だけですったもんだしている間は、罪の認識は浅く、表面的なものでしかありません。

刑法に触れるような犯罪を犯した人が、たとえそれ相応の処罰を受けたり刑期を終えたとしても、その人が神に対して的外れな行為をなしたという意識がなければ罪の認識も浅く、また大なり小なり同様の過ちを繰り返すかも知れません。

 

ダビデ王も預言者ナタンの指摘がなければ、相変わらず的外れな生き方をして同様の罪を犯し続け滅びを招いていたかも知れません。しかしダビデはその指摘によって神に立ち返りました。すべてをご存じであられる神にゆるしを乞い、神に立ち返るこの真の悔い改めこそ、赦しと平安、救いをもたらすのです。

 

13-14節に「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください」とうたわれているように、真心から神に立ち返って生きるところにこそ、単なる後悔で終わらない希望、救いの喜びが与えられてゆくのです。

創造の主によって造られた霊的存在である私たちは、神との交わりが断たれることは霊的死を意味します。創造主に造られた者として、いつも罪や咎、後悔や自己嫌悪に囚われることなく、主を仰いで生きるように自由の霊をもってお支え下さいと、祈り求めることがゆるされているのです。

 

最後になりますが、18-19節でこのようにうたわれています。

「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げものが御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。

私たちは奉仕や善い行いやて献金をささげます。そのように心がけます。けれど、それらをささげられるから、私たちの罪がゆるされたり、軽くなったりするのではないということを私たちはすでに知らされてきました。何よりも主イエスが私たちの罪の身代わりとなって贖いの十字架の業を成し遂げてくださったがゆえに、私たちは救いの道を歩むことがゆるされているのです。それはまさに神さまからの一方的な恵みです。

この詩編の「焼き尽くす献げもの」とは、動物の犠牲による贖罪(罪の赦しのため)という儀礼を示していました。まあ、犠牲の動物さえ献げておれば、まあ罪は赦されるという、いわば悔い改めが形だけのものとなっていたことに対して、詩人は、神さまは形式だけの犠牲やいけにえは好まれない。神の前に「打ち砕かれた霊」こそが神に喜ばれると、言っているのですね。

神さまが私たちに期待されることがあるとするなら、それは私たちが主に立ち返って生きる真の悔い改めと、救いとゆるしの恵みに喜びと感謝の心をもって日々神の御心に生きる「打ち砕かれた霊」による新たな人としての生き方です。

 

今日は罪の「悔い改め」ということを柱にしながら御言葉に聞いていきました。

真の悔い改めとは「打ち砕かれた霊」を主にお捧げし、立ち返って生きる事。そのメッセージを受け取りました。

罪の自覚は、神さまとの関係でしか本当の意味では生まれません。人の関係でそのことを見てもそれは表面的、浅いのです。

人を傷つけたり、躓かせたり、裏切ったりした時、人は後悔します。しかし、先ほども触れましたが。後悔と悔い改めは根本的に違います。後悔は罪の根っこがわからないために、ただ一時的に自己の内に悔いるのみで、また同じような過ちを繰り返してしまうでしょう。

悔い改めは、自分が神に対して的外れの状態にあることを認識することから生まれます。

私たちは日々この主との関係を正され、真の喜びと平安を頂いて歩むものとされていきたいと願います。

今日の御言葉を自らに重ねつつ、今週もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。


 



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ルワンダ国際ミッションボランティア・佐々木和之さん帰国報告会@関西

2018-10-23 17:59:19 | お知らせ

貴重な「ルワンダでの和解と平和の働きに仕える」佐々木さんからのお話を伺います。

入場は無料です。ただし自由献金はございます。

 

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ナインの会@大阪 ご案内

2018-10-23 17:29:47 | お知らせ

対象はクリスチャンのご家族を亡くされた方、又クリスチャンの親しい友を亡くされた方。

午後2時の礼拝時からは一般公開です。

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神は私たちの避けどころ

2018-10-21 20:44:00 | メッセージ

礼拝宣教 詩編46編1-12節 

 

  「自然の猛威と災い」

10月を迎えようやく秋らしくなってきました。朝晩もぐっと冷え込み体温の調整が難しくなってきましたが。和歌山や関東では何と桜が咲いているのをニュースで知りました。まあ昔から10月桜というのはありますが。どうも今年は年の始めから気候の乱れが著しかったこともあり春桜の開花ができなかったため、葉のない桜が今ごろになってちらほらと咲きだしたということです。驚きです。

とにかく今年は地震・台風・豪雨が日本列島を襲いました。4か月前には大阪北部地震が起こり、8月には大阪市内にはめったに直撃したことのない台風、それも非常に激しい台風21号がもろに襲来し、今までにない恐怖と危機感を経験しました。

 

今日の3節に「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移る」とか。「海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震える」とありますが。あたかもそのような出来事が現実となって今世界中に起こっています。地震、大津波、豪雨、洪水によって山々までも無残に崩れ、海には火山が出現する。そんな映像を頻繁に目にするようになりました。まあそれはSNSなどの文明の利器によって世界中どこにあっても生々しい状況が瞬時に伝わるようになった、ということはあるでしょう。けれどそんな科学文明の発達が自然災害の規模を拡大させ、自然のままなら起こり得なかった2次災害や環境汚染を引き起こしています。

私たちは、自然の脅威を知らされる時、人間はほんとうにちっぽけな存在だなあと考えさせられますし、同時に自然や環境を自分たちの思うままコントロールし、支配できるかのような錯覚をしてきたことを思い知らされます。

先日ニュースで観たのですが。高級魚トラフグの生産がより安価に効率的にでき、将来の私たちの食卓にも手軽にのぼるようになるための研究をある大学の研究グループが進めているということでした。まあ私も防波堤から魚釣りをしていると小さな毒のあるクサフグがよくかかり、針まで飲み込んで、大変やっかいものなんですが。そのクサフグの体内にトラフグの遺伝子を組み入れて、大量のクサフグからトラフグを生み出すようにするという、まあいってみれば遺伝子組み換えによって効率よく、手軽にトラフグが食べられるようにしているということなんですね。まあ、こういった野菜や家畜の肥料に関しては、もう普通に出回っているわけですが。遺伝子組み換えは、命の操作です。それは神の領域を侵すことにもなりまねません。本来神が造られ「良し」とされた命を、人が思うままに作り変える。それは本来ないはずのものですから、生態系にどういう影響を及ぼすのか。又、それらを食べ続けるとき人の体にどんな影響を及ぼすのか。不気味さや不安を同時に覚えますよね。いずれにしろ、神さまが良しとしてお造りになられた動物や植物を、人が管理を怠ったり、身勝手に扱うなら、これこそ人のおごり、高ぶりといえるでしょう。

 

今日の4節には「海の水が騒ぎ。沸き返り」とありますが。最近解ったことは、温暖化によって引き起こされる大型台風等による気圧の大きな変動によって海水温や潮位が上がったり、さらに地殻変動まで誘発して地震になったり、海底火山が噴火したりすることがあるようです。

ある聖書注解書には、この詩編46編は預言の歌である、とありましたが。まあそのような事態を実際目にすることが多くなる中、この46編は私たちに益々重要な意味をもって迫って来るように思えます。

人類は天地万物をお造りになられた主、生ける神を知り、御前に立ち返って人としての領分をわきまえ知らなければ、自ら滅びを招くことになるでしょう。

先週も申しましたが、恵み豊かな地上の良き管理者として神の御前に務め、生きる。天地万物の創造の主はそれを「良し」とされ、祝福してくださるのです。そこに私たち人間の命と平和があるのです。

 

詩編の作者は、天地にあらゆる事象が起こり、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らごうとも、わたしたちは決して恐れない」(3節)と言っています。それは、なぜなら8節「万軍の主はわたしたちと共におられる」からです。「万軍」と聞くと何か軍隊のようなものをイメージしますが、そうではありません。それは「全宇宙を司る主」という意味です。天上の星々、流星をも司られるような力あるお方がわたしたちと共におられる。

だから、恐れる必要などない。私たち主を信じるものの平安はまさにここにございます。詩編の作者は、およびもつかないような状況にたとえあったとしても、「揺るぎない神の都。いと高き神の居ます聖所を仰ぎ見て、万軍の主がわたしたちと共にお出で下さる。だからわたしは決して恐れない、と賛美します。私どもは本当にこの信仰によって生きる者でありたいと強く願うものです。

 

  「争いによる災い」

さて、今日のところは自然災害とともにもう一つ、戦や争いにおける災いが記されています。

9節~11節で詩編の作者はこううたっています。

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを絶ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる』」。イエスさまがお生まれるになる700年くらい前の時代、イスラエルの民が周囲の大国の脅威にさらされる中で、大国との軍事協定を結んでいこうといたします。そういう中で神の預言者イザヤは、軍事力により頼まず、ただ主にのみより頼んでいくように指導者はじめ民に警告していきます。

けれど結局、イスラエルの民は神の御言葉に従わず、その都は滅ぼされ囚われの民となっていきました。

その後、イスラエルの民は捕囚から解放されて都を再建していくのでありますが。しかしそれからも周辺諸国との軋轢の中で神に頼るのではなく、武力に依り頼んでゆこうとする誘惑に絶えずさらされていくのですね。

現代も世界のいたるところで紛争が絶えないわけですが。そういう中で、この詩編の作者はどのような時代においても真の平和をもたらすのは、万軍の主、すべてを司り治めたもう生ける神さまである、とうたうのです。

9節「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう」。11節「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」。そのように主により頼むところにこそ真の平和が実現されることを指し示すのです。

 

預言者イザヤも争いの危機に際して大国の武力に頼らないで「主に立ち返って、静まって主に信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30・15)と、預言しました。私たちも又、この詩編の作者のように、イザヤの預言に示されるように主にのみかたく信頼し、主の成し遂げられることを仰ぎ見る、そのような希望を抱いて生きる者でありたいと願います。

 

「魂の平安」

最後に、宗教改革者マルティン・ルターは1529年に「神はわがやぐら/わがつよき盾/苦しめるときの/近きたすけぞ/おのが力/おのが知恵をたのみとせず/よみの長も/などおそるべき」との讃美歌を作りました。それはまさに実体験の中で望みとした詩編46編から生まれた讃美歌でありました。その後世界中の多くの教会の礼拝においてこの讃美歌は愛唱されてきました。私が持っている日本基督教団讃美歌、バプテスト連盟新生讃美歌にもこの讃美歌は入っており、私たちそれぞれも大きな慰めと力を頂いてきたことではないでしょうか。

6月末に天の神の御もとに旅立っていかれた米澤イサ子さんの愛唱賛美歌でもありました。

それは、この詩編46編1節に「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ず、そこにいまして助けて下さる」とあるように、もろもろの災いから私たちを守る万軍の主、主はわたしたちと共にいますという主への信頼を力強くうたっているからです。

 

一昨日ですが、止揚学園の2人のスタッフがご訪問くださり、今の園のことやいくつかの証をお聞きすることができ感謝でした。

8月に運動会が開かれたそうですが、毎回それに先立って召天者記念礼拝が行わるそうです。それは止揚学園の先に天に召されて神さまのもとへ帰っていった仲間たちや入所者自身のご家族を覚えての記念礼拝であるわけですが。そういう主にある一つの家族としてのつながりを、今たとえ肉の目で見えないとしても信じている入所者の人や家族にとって「天の国は決して遠い世界のことではなく、日常の事柄とつながっているんですよ」というお証をお聞きしました。そうですね。私たちクリスチャンの生活だけがすべてではないんですね。今日の詩編とルターの讃美歌を思いめぐらす中での、そのようなお証でありました。

 

詩編の作者は、この世界に自然の甚大な災害、又戦乱による災いが起こることを示します。

主イエスも世の終わりのしるしとして生じる幾多の自然災害や戦乱、悪しき出来事を示しましたが。しかしそういう中で、主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」と、ひたすら主に目を留めて生きることをお示しになられています。

いかなる状況の中でもひたすら主により頼むことができる人は幸いです。

今日は詩編46編から主のメッセージを頂きました。信仰はインスタント食品のようにできるものではありません。日常の中における主との祈り、対話、そこで導かれ、聞いた御言葉に実際に応えて生きる、そういう主とつながりの延長線上に、ここでうたわれているような「魂の平安」が与えられ、保たれていくのです。

単なる強がりではない。勇ましいだけの人を鼓舞するかのような歌とは異なる、むしろ人の力の及ばない状況、苦難の中で必ずそこに共にいまして助けて下さる主への希望と信頼をうたう詩編46編。

そのルターの「神はわがやぐら」。命と平和の主を賛美しつつ、今日もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。祈ります。

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人としての使命

2018-10-14 15:14:29 | メッセージ

礼拝宣教 詩編8:1-10 

今年も集中豪雨、地震、台風と各地に大きな被害が出ていますが。都会に住み慣れますといかにも便利さや情報によって守られているかのような生活をしており、自然への畏敬やそれをいつくしむ感性も鈍くなってきている気がいたします。

宣教後に「輝く日を仰ぐとき」という賛美をいたしますが、その歌詞に「輝く日を仰ぐとき月星ながめる時、いかずちなりわたる時、まことのみ神を想う」とございます。

そのように自然界の美しさ、壮大さを覚える時、人は森羅万象すべてを生かし治めたもう、創造主なるお方への畏敬の念が湧いてまいります。
以前にもお話しましたが、大阪市内ではなかなか夜空に輝く美しい星を見ることが少ないですが。私が小学5年生の時でしたか。山口県の秋吉台で北九州地方連合の夏期聖書学校のキャンプに参加した折、秋吉台の草原に横たわって夜空に輝く満天の星を見て大変感動したものです。星があまりに美しく間近に迫ってくるような感覚であったことが今でも忘れられません。

先週関西地方連合壮年会の呼びかけでホームワーク、主に草刈作業ですが、京都のバプテストホームで行われたのですが、家族で参加してきました。

もう秋を漂わすススキが所々に生えており、周辺の山からは美しい鳥のさえずりや秋の虫たちの泣き声が響いてきて心が和みましたが。その帰りの道、京都から大阪までの高速道路を車で走らせている途中、車窓から天空を見上げると、まるで海面に群れをなして泳ぐイワシの大群のような秋のイワシ雲が、大空に見事に映えている光景を目の当たりにすることができました。

4節「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの」とうたわれてあるとおり、秋は神さまの御手の業の素晴らしさに感嘆する時節ですね。

 

まあそのような神さまの創造のみ業の壮大さを知らされる時、私たち人間ってほんとうにちっぽけな存在であるということを思わされます。

が、今日の詩編8編のところには、その私たち人間に神さまが与えられた「大いなる恵み」と「大切な使命」が語られているのです。

 

まず「神さまが私たち人間に与えられた大いなる恵み」。

それは5節に「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」とこううたわれていますように、他の動物とは違う特異な存在として創られているということです。


ヘブライ語で「人間」はエノシュという言葉、それは「無力な存在」とか「弱い存在」であるという意味がございます。又、「人の子」はアダムという言葉で、創世記のあの最初の人であるアダムに由来します。アダムはアダマー「土のちり」という言葉からなり、人はそんな土のちりで造られたようなもろく小さき存在であることを表しています。
この詩人であるダビデ王は、人間の「無力さ」や「弱さ」、又人の子の「もろさ」や「小ささ」を、その様々な経験を通して自ら思い知った人でありました。ダビデはそういう無力さの中で、神さまがそのような者を「御心に留めてくださる」「顧みてくださる」という主の御憐みを経験したのです。

御心に留める、顧みるとは、「主がこんなちっぽけな人間の苦悩や苦闘を知っていてくださり、主により頼む者を決してお見捨てにならない」ということです。その力強い確信によってダビデはその生涯を全うしたのですね。

苦難や痛みの中で天を仰ぐ時、自分はなんて砂粒のようにちっぽけななんだろう、と思います。しかしこの大空を造られたお方が私を知っていて下さる。決して見放すことも見捨てることもなさらない。この確信こそ、まことの神さまを信じて生きる者にとっての大いなる恵み、真の幸いです。

 

次に、「神さまがそのような人、人間に与えられた使命」についてでありますが。

6節のところで詩人ダビデはこううたっています。

「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」。

祈祷会の聖書の学びの中で、この「神に僅かに劣るものとして人を造り」という言葉に対して、劣るという言葉をめぐり、どういう意味なのか?等の議論がありました。

口語訳聖書では「ただ少しく人を神よりも低く造って」と訳されておりますが。

そのことを解くヒントが、創世記の天地創造の記事にあるかと思います。

その一つは、1章26節以降で、創造主である神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、神は御自分にかたどって人を創造された神にかたどって人を創造されたと、記してあることです。

しかし神の似姿とはなんともかけ離れたような私たちの存在ということができないでしょうか。どんなに修練を重ね努めても到底完全なものにはなり得ない、聖なる全き義なるお方の前に、主のゆるしがなければ到底立ちえない、それが私たち人の存在であります。けれどもこの欠けたる人に神は、人にしかなし得ない使命をここで託されます。

本日の詩編8編6節後半から8節にかけて、詩人ダビデはこううたいます。

なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も/空の鳥も、海の魚、海路を渡るものも」。

御手によって造られたものをすべて治めるように。

それは先ほどの創世記1章26節で、創造主である神さまがおっしゃった「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」とのお言葉をまるでダビデが受けてうたっているかのようにも思えますが。

人間には、神さまがお造りになられたこの世界、自然界、そこに生きるあらゆる被造物を治める使命が託されているのです。

それは他の動物にはない、神の似姿として造られた私たち人に与えられた特別な使命なのです。

もう一つは、人の創造に関する創世記2章6節では、他の動物の記述には見られないある特徴が記されているということです。

それは、神さまご自身が「その鼻に命の息を吹き入れて人は生きる者となさった」ということです。人たるゆえん、それは神の息吹によって生かされている霊的存在であるということです。

霊的存在というと何か神秘的体験のように思われるかもしれませんが。そういうことではありません。

霊的存在というのは、スピリチュアルとも訳せますが。私たち人は神さまとの関係性をもって生きる者とされている存在だということです。神を仰ぎつつ礼拝し、感謝と賛美を捧げ、祈り語り合う者として造られた存在なのです。それがダビデのうたう「栄光と威光を冠としていただかせ」という事ではないでしょうか。

人は本来そのように霊的存在でありますから、この地上での歩みにおいて目に見える物質的な面が如何に満たされようともそこに神との関係がないのなら恐れや不安があり、平安を得ることができません。いつの日か息をひき取られるその時に、神さまの愛のうちにおかれていることを知っているか。神さまに生かされる恵みを経験しているかどうかで、その状況は大きく異なるでしょう。

霊的存在たる人間は本来そのように創造主の御手のうちにいつもおかれおり、その信頼の関係性の中で、主を仰ぎ見て生きることを幸い、平安として造られているのです。

 

ここが人の創造の過程においての特筆すべき点であり、たとえ人がどんなにか神に劣る存在であったとしても神の似姿として造られたといわれるゆえんでありましょう。

まあ、いわゆる人によく似た霊長類や哺乳類の動物がおります。人はサルが進化したものだとの説もありますが、このサルやゴリラが神の息を吹き入れられて生きるものとされた霊的存在であるなら、進化論も通用するでしょうが。

しかし聖書は人以外の動物に対して神の意志に従って生きるように、などと命じていません。神は人に対しては、特別な使命を与えています。それこそが、神がお造りになった世界・自然界・すべての被造物を、「治める」という使命なのです。

 

今日、世界の各地域で異常気象によるさまざま災害が連日のように起こり、甚大な被害が生じています。確かに神さまは時を定められ、地殻変動も天地のすべての事象もすべて司っておられます。

しかし、その被害の拡大の多くは、これは自然災害というより、地球環境や自然界の破壊を繰り返す人災によって引き起こされている面も多いと専門家からの警鐘が促されています。科学技術の発達とともに大気汚染や環境破壊の規模も大きくなり、生態系が崩れすべての生きものが生きにくい世界になっているのは皮肉なことです。


本日の詩編にうたわれた、「神に僅かに劣るものとして造られた人」が、霊的存在であることを忘れ、神から賜ったその使命を軽視し、神の意に反して地球のゆたかな資源や自然の環境をむさぼり続けてきたことへのツケが、回ってきているといっても過言でないでしょう。

あのノアの時代、人々は神に背を向け思うままに生き滅びを招いてしまいました。神に従い、無垢な人であったノアは、家族ともに箱舟に入り難を逃れます。

神さまはノアの前で、地のすべての生き物と祝福の契約を結ばれ、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない、とおっしゃいました。神さまは空に虹が現れるとその契約を心にお留になるということでしたが。そのように、いつまでも虹がかかる美しい空が保たれるように、と願うものです。

この神の祝福の契約は、まさにこの詩編8編にもうたわれているのです。

それは、創造主であられる神と人と全被造物との関係の回復にあるということを、現代に生きる私たちに向けて語りかけているのです。

 

詩人ダビデは、「天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」と、うたっていますが。

幼子や乳飲み子というのは、世にあって小さく弱い立場にある存在、軽んじられているような存在を表しているようです。幼子や乳飲み子は母親を必死に慕い求めますが。

そのように主に助けと窮乏を訴え、求める者を主は顧みて下さり、天に輝く主の威光を仰ぎ見て、ほめたたえるのです。

私たちもこの幼子や乳飲み子のように、主に慕い求めて続け、主の恵みによる育みが不可欠な存在なのであります。

今日の御言葉をしっかりと留め、霊的存在として生かして下さっている主の恵みに感謝しながら、主の使命を果たすために、ここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。

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秋のチャペルコンサート

2018-10-13 11:12:28 | イベント

日時 11月21日(日)会場13:30 開演14:00-15:30

イングリッシュハンドベル&歌声で紡ぐ♬

~天使の歌声ハンドベルの澄んだ音色に聞き入り、ごいっしょに声を合わせて歌いましょう ♪~

 

【ハンドベル演奏】 ベル・フィリア

【曲  目】 花、お江戸日本橋 ロンド・クラシックス 山の上の太陽 水辺にて もみじ ふるさと さんぽ

 

入場は無料です。

台風21号被災教会を覚えてのチャリティコンサートとして自由献金にご協力いただければ幸いです。

♫ 小さなお子さんからご年配の方までどなたでも楽しめます ♬


会場 日本バプテスト大阪教会

電話 06-6771-3865

メール obcs@nifty.com


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祝福の約束

2018-10-07 15:26:53 | メッセージ

礼拝宣教 詩編1編1-6節 

 

またまた今回も台風25号の影響を案じていましたが、今日も礼拝をこうして共に捧げることが許され感謝であります。が、先の西日本豪雨や北海道地震で災害に遭われ、二次被害におびえながら、生活の復旧がままならない方々が多くいらっしゃることを、心に留め、お祈りいたします。今月21日礼拝後は台風24号による関西地方の被災教会を覚えてのチャリティーコンサートを開催いたしますが、主がお用いくださいますよう願っております。

 

10月は詩編にはいります。4週だけですのでざっと終わるのがもったいない思いもいたしますが、讃美歌の原点ともいえるこの詩編から私たちに語りかける主のメッセージを共に聴いていきたいと思います。

 

今日の詩編1編を読みますと、これはまさに歌だなぁと感じられる方も多いのではないでしょうか。先ほどこの詩編の御言葉のままのワーシップソングを一緒に歌い、主を賛美いたしましたが、流れるようなその御言葉であります。

 

この詩(うた)は「いかに幸いなることか」で始まっていますように、そのテーマは「祝福の約束」といっても過言ではありません。主イエスはのどかな山の上で人々に「幸い」を語られました。ちょっと開けてみましょう。新約聖書マタイ5章3~12節。少し長いですがご一緒に読んでみましょう。「3~12節朗読」。

このイエスさまの幸いも又、「祝福の約束」にほかなりません。

 

さらに、イエスさまのお言葉と今日の詩編の共通点として語られていることは、「主の前にあって、2つの道がある」ということです。それは「神に従う人の道」と「神に逆らう者の道」であります。

神に従う人の道について、1節に、「神に逆らう者の計らいに従って歩まず」「罪ある者の道にとどまらず」「傲慢な者と共に座らず」と3つの「歩まず」「とどまらず」「座らず」と、悪と罪を避ける人の幸いを歌っています。それはイエスさまも又、ルカ福音書の方の平野で語られた「幸いと不幸」のところで、神に背を向けて生きる者の不幸を示しておられます。

それら、神に逆らう者の道に歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢なものと共に座らないという行動、あるいは選び取りといったものは、何か強いられてなすものではありません。

それは2節にございますように、祝福に与る人は強いられて窮屈な思いからしかめっ面でそうするのではなく、むしろ「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、つまり主の教えを自分の喜びとして日夜愛しているから、世の悪や罪から離れる。そうやって生きていくというのです。イエスさまの教えもそうですね。ゆるされている喜びと感謝をもってゆるしていく。主の愛を受けて愛する者とされる。

 

「主の教え」とこの詩編が言っているのは、当時はユダヤ人たちが信仰の基盤としていた「モーセ五書」律法のことです。その律法をユダヤ人たちは重荷というのでなく、神からの恵み、賜物として愛している、ということであります。

ユダヤ教の人たちは今でも慣習として、幼児が物心つくと御言葉が書かれた上に蜂蜜をたらし御言葉を蜜のように甘いといってそれをなめさせるということです。まあそれくらい「主の教えを愛する」ということが幼い頃から身につけられているということであります。

その根底に流れておりますのは、まさに民数記7章7節にあるとおり、神は彼らを「わが宝の民として選ばれた」からです。

 

旧約聖書の時代に生きる人たちは、そのような神への感謝をもって主の教え(神の律法)を喜びとし日夜口ずさむのでるのです。ちなみにこの口ずさむは、「思いめぐらす」とも訳せます。ただ単に気持ちよく歌うのではなく主の教え、御言葉を思いめぐらし、これは何度も何度も噛みしめ反芻するようにして生きる人のことですね。

このように神が愛してやまない民として選ばれた、その信仰と実践を抜きにしてはこの詩編を理解することはできません。

こうして先行する神の愛によって、湧き上がる信仰の喜びが「神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者」から離れる力となり、罪と滅びからその人を守るのです。

私たちも又、主イエスによって救われ、神の民に連なる喜びがあるからこそ、御言葉に生きる力が働いて、人を滅ぼす悪から離れるように生かされているのです。

 

さて、そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない」とあります。

今年初めて希望の家の庭に、食べて甘いいちじくが実りました。

私がここに移り住んでかれこれ13年になりますけれど、ビワの実は結構実るのですが、いちじくの実は13年以上年月が経って食べられるものが成ったのは今年が初めてです。

川の流れのないような丘ですが、雨が降り、太陽の光が長く差して、よく育ったということなんでしょうが。でもやはり時が巡りくればの「時」というのがあるということなんですね。

 

ここを読みますとき、私たち主イエスの愛と慈しみによって救いに招き入れられ、その御言葉に生きているということは、この命の川の「流れのほとりに植えられた木」とされているということであります。

その私たち一人ひとりは時宜に適って実を結ぶものとされている又、そのように神に期待されているということです。

 

さて、その一方で、4節「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」とあります。

「風に飛ぶもみ殻」というのは、収穫した麦を脱穀し、熊手のようなもので救って空中に放ると風がふわっともみ殻だけ飛んでいって麦を収穫できるということで。そういう何か風が吹けばどこかに飛んでいって跡かたもなくなるような生き方を指しているようです。

神に逆らう人生、神に背を向け自我の欲望に走る人生は、「神の裁き」に堪えないということでしょう。

ただここで、「神に逆らう者」、又「罪ある者」というのは、読みようによっては全く主なる神さまのことを知らない者というのではないように思えます。なぜなら知っているから逆らうのであって、知らないのなら逆らい様もありません。

神の教えを知っていながら逆らい罪を犯す者にとって裁きの座は堪え難いもの、又、神に従う人の集いに居ることが堪えられなくなる、ということです。

主は光でありますから、闇の中にいる者を照らし、罪を露わにされ、聖なる集いに堪えられなくなってしまうということでしょう。

一度主の愛と憐みによって救いに招き入れられたクリスチャン、信仰者となっても、その初めの愛から離れ去っていく者、神ではなく人を見て心かたくなになって、その主の恵みの重さと尊さを忘れ去っていく人たちも残念でありますが、確かにいます。

 

しかし、主はそのような人であったとしても、いつでも初めの愛に立ち返っていこうとする人には、再生と立ち直る道を備えていてくださっている。これが十字架の罪のゆるし、あがないの主イエス・キリストの福音です。ここにクリスチャンの大いなる祝福があります。

体調や諸事情でしばらく礼拝にもお出でになっていない兄弟姉妹もおられますが。

この前の「もっと大阪教会を知ろう~ともに語り祈り合う」会の場で、「自分一人で祈るより、みなで一人ひとりのことを覚えて祈りがささげられるなら、きっと大きく主がお働き下さるにちがいない」というような発言がありました。そうですね。主にある兄弟姉妹として共に祈り合うことは、教会の大きな恵みです。

私たち一人ひとりの祈りを、できる限り多くの兄弟姉妹で共有し、覚え、祈り合っていくように具体的に努めていきましょう。そして今は礼拝に集うことが難しい方々のためにも祈りとりなす、神の愛に溢れる教会でありたいと願います。

 

最後に今日はもう一つのことをこの詩編の御言葉から導かれました。

それは、主の教えを昼も夜も口ずさむ「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」ということですが。これはもちろんこの地上にあって主を信頼して私たちが主に従って生きるなら、主の祝福とお守りが与えられると信じていますし、そこに立つ私たちの祈りに主が答えてくださり、主の御業を見ることが与えられるわけです。

しかし、時に祈り願っていたこととは違う結果になることもあるのではないでしょうか。詩編の前に記されているヨブ記のヨブはまさにそのような体験をした人でした。神の前に正しい人であったヨブが、世にある祝福をことごとく剥ぎ取られていくわけです。信仰者である彼は大変苦悩するのであります。しかしヨブはその最終章で、究極にすべてをおさめ導いておられるお方を目の当りにし、伏して「自分を退け、悔い改めます」と言うのであります。

 

それは今日の6節に記されているところの、神に従う人の道を主は知っていてくださるという最も根源的な「祝福」であります。究極の統べおさめたもうお方が神に従う私の道を知っていて下さる

実はこれこそが、何ものにも代えがたい私たちにとっての最大の祝福なのです。

11月3日からいよいよ待望の「パウロ」の映画が上映されますが。主に従って生きる者の道も決して平たんなものではありません。時には祝福と到底思えないような険しく、厳しい道を通らねばならない時もあることでしょう。

新約聖書のヤコブの手紙1章12節にはこうあります。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。

「いかに幸いなことか。主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす」。

今週もこの祝福の約束をもって、ここから遣わされてまいりましょう。

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おいでやこども食堂・天王寺 

2018-10-05 07:44:14 | 教会案内

10月10日(水)午後4時~7時

 

教会2階ホールへおいでください。

今回のメニュー:三色丼、わかめスープとなります。

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円

みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎、おいでや。

ボランティアさん、ほぼ10人でまっています。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフがおります)

場所 日本バプテスト大阪教会 (検索)

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