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主イエス・キリストの福音

2019-04-28 14:39:03 | メッセージ

礼拝宣教 ガラテヤ1章1-10節 

本日の礼拝から6月上旬まで、ガラテヤの信徒へ使徒パウロが書き送った手紙をご一緒に読んで、ここから主の御心を受け取ってまいりたいと願っております。

ガラテヤは大きく小アジア地方、今のトルコ中央部の地域を指しています。

当時そこには一つの教会でなく、「諸教会」とあるように複数の地域教会が存在していました。

使徒パウロは第一回目の伝道旅行でガラテヤ地方の周辺を訪れ、さらに二回目の伝道旅行ではガラテヤ地方を本格的に訪ね、福音を宣べ伝えました。

そこにはすでにクリスチャンとなった人たちがいたわけですが、パウロはそこで「十字架につけられたキリスト」、その人間の罪と贖いによるゆるしと救いを徹底して宣教し、諸教会の成立に大きな影響を与えたようです。

ガラテヤの諸教会は、当然その地方に住む人たち(いわば異邦人)が多かったのですが、そこに兼ねてより暮らしていたユダヤ人や迫害を逃れてきたユダヤ人もともに信仰の交わりを持って、地域教会(ローカルチャーチ)が構成されていたということです。

 

さて、そのようなガラテヤの諸教会にパウロが手紙を書き送った時期と場所については、使徒言行録19章の第三回目の伝道旅行のエフェソ滞在中の頃、であったとされています。

その執筆の動機については、本日の1章1-10節を読めば大方の察しがつきますが。

まあ、パウロの書いた手紙、書簡は新約聖書の中に多くございますが、ローマの諸教会、コリントの諸教会、フィリピの諸教会等に宛てられたそのほとんどの最初の冒頭のあいさつでは、その諸教会と信徒たちに対する感謝のことばで始まっているのです。

ところが、このガラテヤの信徒への手紙の冒頭のあいさつでは、ガラテヤの信徒たちへの感謝のことばは皆無です。

主の恵みと平和があるように、と祝福の言葉を述べてはいますが、6節以降になると、かなり露骨に、激しい怒りとも言える感情がむき出しになってゆくのがわかります。

そしてそこには、どうしてガラテヤの信徒たち対して、こんな厳しい言葉で手紙を書き送らなければならなかったかが記されているのであります。

 

パウロは6節で「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」といっていますけれど。

これは原文に近い「あきれ果てている」と言う言葉が最初に来ていて、「もう本当にあきれ果てている」とパウロは本気になって怒りを露わにしながら、彼らがキリストの救いの恵みという最も根本的な福音から離れようとしていることを憂いているのですね。

 

パウロはさらに、7節「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしていることにすぎないのです」と述べます。

ガラテヤの信徒たちの福音理解はただされねばなりませんが、しかし彼らも実は誤った教えによる被害者であるのです。

 

問題は、ガラテヤの諸教会の中の「ある人々」が、「イエスさまの十字架の贖いによる救い」という最も大切な教えを軽んじて、あるいは捻じ曲げて、「かくあらねばならない、これを行わねば救いにあずかることは出来ない」、というようなことを説いてガラテヤの信徒たちを惑わしていたことにありました。

さらに、彼らは「パウロは反律法主義者で使徒などではないなど」と、ガラテヤの信徒たちに向けて非難していたのです。

ここに問題の根源があったのですね。

 

もう少し詳しく申しますと、この「ある人々」とは、ユダヤ教徒から改宗したクリスチャンの一部の人たちで、彼らはまだ「主イエス・キリストの救いに対する正しい福音理解」が進んでいないうえに、「律法を守り行うことによって自らの義を立てよう」とすることから、いまだ真の解放を得ていなかったのです。

 

これは何もガラテヤの諸教会と信徒たちに限った問題ではありません。

今日のところはよく理解して心に留めていないと、むしろ真面目で熱心なクリスチャンほど自分を本来の福音から遠ざけ、高慢になって隣人、兄弟姉妹までも裁いてしまうという状況を作り出してしまうんですね。

 

使徒パウロが説く福音とは「キリストの十字架が、罪ある私たちに完全な救いをもたらす贖いと解放の業である」ということです。

神の御心により、主イエスが私たちの罪の身代わりとなってくださった。

そのキリストが十字架で流された血と裂かれた肉とによって私たちの罪はゆるされている。

そしてこの「神の恵みを信じる者はだれであろうと救われる」。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと分け隔てなく万民がこの神の救いに招かれているのです。

さらには先週ありましたように、主イエスが復活されたことによって私たちは罪の滅びから救いのご計画、すなわち永遠の命の希望へと移されているということです。

これこそが主イエスにある福音の真理であります。

けれどもユダヤ人のある人たちはこの福音に対して懐疑的で否定的でした。

この人たちはクリスチャンとなっても、なおユダヤ人として律法の厳守、割礼の義務を自他ともに強いたのです。

ガラテヤの異邦人のクリスチャンたちに対しても、そのように行うことこそが救いの条件であるというふうに説いていたのです。

 

ガラテヤの諸教会の信徒の多くは、異邦人でありましたから、彼らにしてみればそういったいわば本家本元のユダヤ人が行ってきたように、律法を細かに守って生きることは、「神の前に正しい生き方なのだろう」と、まあ良いことのように映り、真新しい教えと響いたのかも知れません。

 

又、割礼という目に見える儀式を施すことによって、神の民となる保証に与れるというのも、異邦人にとっては心惹かれる教えとなったのかもしれません。

まあこのようにして、ガラテヤの異邦人クリスチャンたちの多くは、「この別の福音」の教えの影響を受け、それだけでなく、それを支持すべく動きが活発になっていったのであります。

これは、「キリストの福音」、主を信じる者はだれでも救われるという神の福音が骨抜きされる危機的事態に、ガラテヤの教会は直面していたということです。

 

パウロは8節で、「わたしがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と、さらに9節でも「あなたがたたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」と、重ねて記してます。

聖書の学び会の場でも、使徒パウロともあろう人が「呪われよ」などと口にしているが、よほどそう言わざるを得なかったのか。とか、そんな「呪われるがよい」などと言うことがゆるされるんだろうか、どうなんだろうか、と。

その問いに対してはどうにも答えようがありませんけれども。

ただ、少なくともパウロには、そこまで言ってでも何とか間違った教え、主イエスの十字架をないがしろにするような教えを改めてほしいという、切なる願いがあったことには違いなかったのです。

それは又、厳しい言葉には違いありませんが、ガラテヤの兄弟姉妹に対するキリストにある愛と祈りに根差した叱責であったのですね。

 

今日の箇所の先の13節以降のところで、パウロは「キリストの福音」によって救われてクリスチャンとなる以前の自分自身の有様(ありよう)について、次のように記しています。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

そのように熱心に律法を厳守し、ユダヤ教に徹しようとしてキリストの教会と信徒を迫害していたパウロが、シリアのダマスカス途上で復活の主イエス・キリストと出会うのです。

「パウロ、パウロなぜわたしを迫害するのか」という主イエスの御声を聞いたパウロは、これまで神のためと思って自分の思いで熱心に行ってきたことすべてが、実は神を痛め苦しめ人々を迫害していたのだということ、その罪の大きさに打ちのめされて、しばらく目が見えなくなるのです。

神の憐れみにより、クリスチャンのアナニヤの、とりなしの祈りによって目を開かれたパウロは、「神の御子を十字架に磔にして殺害したのは、自分自身の罪であること」をさとり、自ら主イエス・キリストの福音による救いを信じ受け入れて、新しく生まれ変わり、クリスチャンとなります。

 

「律法を守らなければならない、神の民としてふさわしくあるには義を立てるような働きをするべきだ」。パウロはそういった、かつての考えからこうして解放され、神の愛、イエス・キリストの十字架とその贖いによって、本当の救いと解放、神との和解による平安を得るのであります。

 

このようにして主の恵みによる御救いに与ることを、身をもって経験したパウロでしたから、ガラテヤの諸教会の信徒たちがその素晴らしい「キリストの福音」から離れていくことがとてもじゃないけど耐えられなかったのでしょう。

 

そのようにパウロは人一倍、キリストとその十字架における神の愛と救いを経験し、律法主義や民族主義といったものに囚われることの危うさを知っていたからこそ、愛するガラテヤの信徒たちに対して、手紙の冒頭からあれほどまでに激しい感情を露わにして訴えかけたのですね。

 

今日私共もまた新しい思いで、この使徒パウロのメッセージに聞き、主イエスとその十字架の贖いにおける、神さまの深い愛と憐みこそ本当の福音であることを確認いたしましょう。

律法的信仰観、こうあらねばならないという考えに縛られた裁きの古い生き方から、キリストの愛と救いに生かされる感謝と喜びにあふれる新しい人へと新たにされてまいりましょう。

今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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イースターメッセージ

2019-04-21 17:35:19 | メッセージ

「主イエスの復活と聖霊の約束」 ルカ24章36~53節 


「イースターおめでとうございます」。
主イエス・キリストの御復活を記念するイースターを心よりお祝い申しあげます。

 

本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもありましたルカ福音書24章36節~53節から「主イエスの復活と聖霊の約束」と題し、イースターのメッセージとして聞いていきたいと思います。

 

「肉体をもった復活の主イエス」

私たちの信仰の土台は、主イエスの十字架と復活にございます。

もしイエスさまのご復活がなく、十字架の死で終わっていたならどうだったでしょう。

私たち肉なる人間には、十字架の罪の贖いと神さまの救いのご計画を理解し、希望をもって信じることなど到底できなかったでしょう。

そういうことから、私たちは主イエスがどういうお姿で復活されたのかを、今日のルカ福音書による証言から今一度しっかりと確認してゆきたいと願っております。

 

今日の箇所のはじめのところには、「イエスご自身が彼ら(弟子たち)の真ん中に立たれたので、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。

亡霊という元の言葉は、単に霊と言う言葉です。

霊は霊でも、彼らは亡霊だと思った。まあ肉体のように見えるけど、いやそんなはずがないと、主イエスが亡霊、幽霊のようになって現れたのだと、弟子たちは思ったのです。

私たちは死んだ後、どのように復活するのか、深い関心を持つでしょう。

まあ人間は例外なく肉体が朽ち果て死ぬ時が訪れます。そのことから死後どうなるのか。肉体は滅んでも霊魂は死後も生き続けるという思想は世界中どこでも根強いものがあります。

それで死んだ人を拝んだり祀ったりするのですが、実際のところその霊はどこにどのようにあるのか人にはわかりません。

死んだら亡霊になるという世にあってそういう考え方が多くを占める中で、聖書はそれとは異なる「復活の命」を、イエスさまの「肉」のからだをまとったお姿を通して示します。

それは何かわけのわからない幽霊のようなおどろおどろしいものではなく、人格をもった存在としての姿です。

 

ここには主イエスが「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」とおっしゃって、イエスさまご自身であることをはっきりとお示しになります。

 

けれど、弟子たちは喜びのあまりまだ信じられず不思議がっていた、とあります。

喜びのあまり信じられないなんてどんな状態だろうと思いますが、まあ俗な話ですみませんけど、高額の宝くじでも当たったら、喜びつつも、うそ!信じられない!と、ほっぺたをつねるというようなことがあるんじゃないでしょうか。

そんな喜びつつも半信半疑の弟子たちに、主イエスはさらに、御自分がまぎれもなく肉のからだを持って復活されたことを明らかになさるために、「焼いた魚一切れを、彼らの前で食べられた」というのです。

肉体があるからこそ、食べることができる。亡霊や幽霊という有るか無いか分からないような存在ならば、そんなことはできません。

 

十字架にお架かりになる前イエスさまは復活を否定するサドカイ派の人たちと復活についての問答をなさいましたが。ルカ福音書20章27節以降ですけど。

そこを読みますとイエスさまは「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかるものとして神の子だからである。

神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は神によって生きているからである。」とおっしゃいました。

 

神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神!

復活のイエスさまのお姿は、まさにそのお言葉を体現なさったものであるといえます。

肉体をもって主イエスが復活されたとの聖書の証言は、死んだ者のためにではなく、今まさに生きている私たちと、生ける主がともにおられのだとのメッセージであります。

肉体をもって苦闘しつつ生きる私たちとともに、生ける神が、死んだ後などではない、今、すでに共にいてくださっている。

これが復活の主のお姿からのメッセージであります。

 

私事で恐縮ですが。一か月前に集中治療室でその生と死のさかいにあった義父を見舞い祈ってきましたが。もう口にくだを入れて今日か明日かというほどでしたが、神さまの御憐みとみなさまのお執り成しの祈りをいただき、くだを外しても不思議にマスクで呼吸して、そのあと一つ一つ体につけていたものが外れていって、ほんとに奇跡的に先日集中治療室を出て一般病棟に移ることができました。お医者さんは3回も繰り返し「ビックリです、ビックリです、といったそうですが。私は木曜日帰りで見舞ったのですが、ちょうどその移動の日で感謝でした。

まあまだ痰がからんで苦しい中にも、昨日はひと月ぶりに腰掛けることができたということでした。

このことを通して「主が祈り依り頼む私たちと共にいてくださっている」ということを私もあらためて知らされる日々でございます。

今を生きる私たちと共におられる、生ける復活の主を賛美しますとともに、主にありますところの兄弟姉妹のみなさまの愛とお祈り、家族、病院関係者の方々のたゆまない看病と見守りに、ただただ感謝であります。

 

聖書に戻りますが。初めのほうで復活の主イエスご自身が弟子たちの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われました。

口語訳では「平安」と訳されていますが。

それは単に心の平安ということだけではなく、体も心も生活もさらには地域社会全体に至りますまで、つまり人の生の全領域に及ぶ平和を示すものです。

そこに復活の主イエスが共にいてくださる、そこから与えられる真の平和、平安なのですね。

肉体をもって主イエスが復活されたとの聖書の証言は、私たちの生の全領域、肉体をもって生きる私たちの生活の端々にまで、主が共にいてくださる、そこに本当の平安、真の平和があるのだという救いの約束そのものでありますことを覚え、イースターの喜びを分かち合いたいと思います。

 

「心の目が開かれる」

次に、復活の主イエスは弟子たちに聖書のことをお話になります。

44節「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

この「モーセの律法と預言者の書と詩編」というのは旧約聖書全体をさしていますが。

その旧約聖書全体が示すメッセージが来るべきメシア、主イエスに関することであるということです。

私たちは特にクリスマスなどにそのことをよく覚えて過ごすのでありますが。

しかしこのときの弟子たちは主がおっしゃることを理解することができなかったのですね。

ですから、復活の主イエスは「彼らの心の目を開かれた」のです。

 

それはイエスさまが生前弟子たちと一緒に歩んでおられた時に、弟子たちに語り伝えてきたことのすべてが実現したということを確認することでした。

46節、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」

まさに、かつて語り続けていた旧約聖書の言葉、又イエスさまがお語りになっていた言葉が実現したことを、復活の主イエスによって彼らは悟ることができたのですね。そのようにして彼らの「心の目が開かれる」のです。

 

「聖霊の約束」

私たちも自分で聖書を読んでいても分からない時があります。

心の目が閉じているような時もあります。だからこそこの弟子たちのように心の目を開いていただく必要があります。

私たちはイエスさまをこの弟子たちのように肉眼で見ることや手で触れることはできないかもしれませんが、約束のご聖霊のお働きによってそれを知ることができます。

さらに私たちには生ける主のお言葉である聖書があります。

聖書は人を介して書かれた書物ですが、神の霊によってしるされた神の御言葉です。

これだけ世界中の多くの人々に読まれているのは、そこに聖書のお言葉が人を活かし、支え、救う力がある生きたいのちの言葉であるからです。

 

聖書を悟らせてくださる力とは、49節で主イエスは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われた、その聖霊でございます。。

「高い所から力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と言われた「高い所からの力、それもまた「聖霊」のことであります。

礼拝の始めに、招詞としてヨハネ14章26節以下が読まれました。ここはイエスさまが地上を去っていくにあたって弟子たちに伝えたいわゆる告別説教の部分です。

もう一度25節からお読みしたいと思います。

「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

その主イエスのお言葉どおり、主の約束が実現された日ペンテコステ、聖霊降臨以来、今日に至るまで、今の私たちの時代もまた、この聖霊の臨在とお導きよって、私たちは聖書の真理を悟らせていただき、主の御業を日々仰がせていただき、ますます信仰を強められて、福音を証し、隣人に、世界に、福音を告げ知らせるものとされているのです。

この聖霊の臨在とお導きによって、私たちはたとえ目には見えなくとも、「主がわたしたちと共にいてくださる」ということを日々体験することが与えられているのです。そこにこの世のものでは得られない、真(しん)の平和、真の平安があります。

「祝福しながら天に上げられる主イエス」

最後になりますが。51節で、復活の主イエスは「弟子たちを祝福しながら彼らを離れ、天にあげられた」とあります。

これがルカによる福音書に描かれている主イエスの最後のお姿です。

それは弟子たちのために祝福の手を上げ続けているお姿です

本当に素晴らしいお姿だなあと感慨深いものがありますが。

まあ祝福というと私たちはそれがどういうことかわかりにくいように思えます。

祝福の反対語について、聖書に「呪い」ということが書かれていて、呪いはなんか分かるように思えますが。まあ呪いにもいろんなものがあるでしょうけど、この呪いとは「お前は要らない」「お前とは関係ない」と切捨て、無視すること。これが「呪い」ということになります。

となると、祝福は呪いの反対語ですから、「あなたは良い」「あなたは必要」「あなたは大切」ということになりますね。

創世記のはじめに天地創造をなさった神さまがすべての創造物をご覧になって「見よ、それは極めて良かった」と宣言されたこの「良い」、「すばらしい」。これが祝福ですね。

そして祝福しながら天に上げられた主イエスのお姿を見た弟子たちは、主イエスを伏し拝み、礼拝を捧げた後、大喜びでエルサレムに帰っていった、ということです。

 

ここには、主イエスとの別れに悲しみ嘆く弟子たちの様子はみじんも伺えません。

彼らはそれぞれに主イエスの祝福によって大きな喜びにあふれていたからです。

それは主イエスが「あなたは良い」、とストレートに保証してくださっている(主イエスが太鼓判を押してくださっている)その喜びでいっぱいだったからでしょう。

自分の不甲斐なさ、かけや破れを思い知らされた弟子たち。

だからこそ喜びもほんとに大きかったでしょうね。

彼らは絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた、と記されています。

実はこの神を「ほめたたえる」といるという言葉も、原語では「祝福」と同じ言葉なのです。

ただ、人が神さまを「祝福」するということになるとおかしいので、ここでは主をほめたたえ、賛美したということですね。

そうして彼らは聖霊の約束をしっかりと保って、エルサレムにとどまって聖霊の降臨のときを待つのです。

大変な思いをした、そして危険なエルサレムで聖霊の降臨を待つという弟子たちを支え続けたのは、「あなたは良い」「あなたは大切だ」と、主イエスが保障してくださった祝福にあったのですね。

こうして聖霊の降臨によって、彼らの上に主に集められたエクレシア、教会の群れに聖霊が降臨し、弟子たちは使徒となってエルサレムから各地に派遣されて、証と伝道の業に励み、主の教会が建てられていき、世界中に福音が拡げられていくのであります。

今日はイースター。

主イエスが死より復活されたことをお祝する日です。

たとえ主イエスを肉眼で見ることはできなくとも、確かなる聖霊の臨在とお導きによって私たちは主が生きておられること、共におられること、その体験を日々与えられています。

ここに主イエスさまが「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった真の平安、平和が、決して何ものも奪うことのできない平安、平和があります。

 

今週も主の平安、主の平和、シャロームの挨拶をもって、このイースターのメッセージからそれぞれの日常へと遣わされてまいりましょう。

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主イエスの十字架の言葉

2019-04-14 14:08:21 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ23章26~43節 受難週

 

本日はルカ23章よりイエスさまが十字架で処刑されていくご受難の記事から、「主イエスの十字架の言葉」と題し、聖書のメッセージを聞いてまいります。

ここには、無理やりイエスさまの十字架を背負わされたキレネ人のシモン、民衆と女性たち、さらに2人の犯罪人、ユダヤの議員たち、ローマの兵士たちと、様々な登場人物が記されています。
彼らにとって、イエスさまの十字架とはどういうものであったのでしょうか。

キレネ、今の北アフリカのトリポリの辺りには多くのユダヤ人が住んでいました。

それはユダヤの民の信仰に対する迫害から、そこに移り住んだ人達です。

シモンはそこから過ぎ越しの祭りをエルサレムで過ごすために出て来たところ、イエスさまの十字架を背負わされることになったのです。

離散して祝福の地から遠く離れているユダヤの民。

しかし主はこの救いの実現の決定的な瞬間に、彼らの代表としてシモンを招かれるのですね。主の変わることのない慈しみを知らされることでありますが。

ただまあ、その時のシモンはそんなことを知るよしもなく、罪人とされたイエスさまとは何の関係もないのに、なぜ自分がその十字架を背負わねばならないのか、と理不尽な思いもあったのではないかと想像します。

 

次に、嘆き悲しむ女性たちでありますが。

主は彼女達の方を振り向かれ、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供達のために泣け・・云々」と言われます。

この女性たちはイエスさまが十字架で処刑される悲惨さを深く嘆きはいたします。

なぜ、あんなにお話しも素晴らしくて、優しく、人を片寄り見ないで癒しもなされるようなお方が、こんな残酷な目に遇わなければいけないのか。と、彼女らは心から嘆いたのです。

それはしかし、主の十字架との関係性においては自分たちと何の関わりもないことでした。

この後の世代にはエルサレムはローマによって瓦礫ひとつ残らない程破壊され、辛うじて生き延びた人々も、散り散りに散らされて行く事となります。

ユダヤではエルサレムはじめ街まちは女性形であらわされます。彼女達はある意味都エルサレムやユダヤの町の象徴的存在であったとも言えるのかもしれません。

神の救いを受け入れようとしない自分たちの罪のため、主がはりつけにされていることを、このときの彼女らは知るよしもなかったのです。

 

そしてさらに議員たち、兵士たち、さらにイエスさまと同じ十字架にはりつけにされた犯罪人の一人が登場します。が、彼らはそれぞれ「自分を救うがよい」「自分を救ってみろ」「自分自身と我々を救ってみろ」と、口々に同じ言葉をイエスさまに浴びせます。

彼らに共通していたのは、十字架のイエスさまの姿が「無力なものに見えた」ということです。

「この人の、どこが救い主メシヤなのか、どこに神の子としての威厳があると言うのか。」

そのように彼らはみな、イエスさまの十字架と自分との関係を退けていたということです。

ここまで読んで、私は主の十字架を前に一体どこに立っているのだろうかと考えさせられる訳でありますが。

 

さて、今日箇所で、十字架にはりつけにされたイエスさまが最初に口にされたのは、「父よ、彼らをお赦しにください。自分が何をしているのか知らないのです」とのお言葉でした。

近くにいた議員、兵士、そしてイエスさまと一緒に十字架にはりつけにされたこのひとりの犯罪人には、そのイエスさまのお声が聞こえていたのではないでしょうか。

けれども 彼らは十字架上のイエスさまを、あざ笑い、侮辱し、ののしり続けたのです。

 

イエスさまは、そうした彼らの態度に対して、どうか彼らに天罰をとか。懲らしめを、と神に訴えるどころか、唯、父の神さまに「彼らは自分で何をしているのかを知らないのです」。口語約聖書では「自分が何をしているのかわからないのです」と訳しているように、どうぞ彼らを赦してやってくださいと、滅びに向かうような彼らのことを案じて父なる神さまに願われるのです。

ご自分は見捨てられ十字架にはりつけにされているのに、神の愛を知らないで滅びに向かうような彼らに「イエスさまは無関心でいられなかった」のです。

ご自分と 関係の無いものとはなさらなかったのです。

これは私どもが考える常識を遥かに超えています。

人と人との関係は、相手の対応に応じて変化するものです。

好意的に接するものには好意的に対応するでしょうし、自分に対して危害をおよぼすものや悪く当たる人には、こちらも負けじと強気で逆らい対抗するでしょう。

又、 自分にとって何の得にもならなければ 関わらない、無視するというのが 世間一般なのではないでしょうか。

イエスさまは 十字架におかかりになる以前に、「 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも自分を愛してくれる人を愛している。」「また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。」中略「 しかしあなたがたは敵を愛しなさい。そうすれば沢山の報いがあり、 いとたかきかた方の子となる。いとたかき方は恩を知らないものにも悪人にもなさけ深いからである。あなた方の父が憐れみに深いようにあなたがたも哀れみ深いものとなりなさい。」ルカ6章27~36節で その様におっしゃいました。

 

まさにイエスさまは十字架上においてそのお言葉を自ら実践なさったのです。

しかもイエスさまは苦しい死の間際の十字架上において、そのように執り成し祈られるのであります。

これが主の愛です。これ程までの愛、その執り成しによって私達一人一人もまた祈られ、救おうとされているのですね。

 

さて、そうしてイエスさまは二人の犯罪人と共に十字架にかけられました。

一人は右に、一人は左に、罪の無いイエスさまはその二人の犯罪人の真ん中に、まるで罪人の頭でもあるかのように、十字架にはりつけにされました。

先ほど、旧約聖書のイザヤ書53章を交読いたしましたが。

その中でイザヤが、「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。」さらに「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成したのは この人であった。」と預言されたこれらのことが、十字架上のイエスさまによって現実のものとなるのです。

 

ところで、マルコやマタイの福音書では、犯罪人の二人ともイエスさまをののしった、と記されておりますが。このルカ福音書では、もう一人の犯罪人の方が、イエスさまは父の神に、赦しを乞い求めたことが記されています。

彼がどうしてそのような心境になったかはわかりませんが。

まあきっと イエスさまの噂ぐらいは耳にしていたことでしょう。そして実際にイエスさまにお会いしてその執り成しのお言葉と祈りとに心打たれるものがあったのではないでしょうか。あるいは「本当に この人は神の子だ」と信じる信仰が与えられたのかもしれません 。

 いずれにしましても、彼はもう一人の犯罪人に、「お前は神をも恐れなのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と、たしなめたと記されています。

彼はイエスさまの十字架のお姿を通して、神を畏れ敬う心を取り戻したのではないでしょうか。

彼が「この方は何も悪いことはしていない」と、どうしてそう言うことができたのか?と水曜日の聖書の学び会で話題になりました。

さて、どうしてかはわかりません。

いずれにしても、十字架にはりつけにされたこの犯罪人は、主イエスさまの傍らにいて、十字架のイエスさまと自分との関係を確かに見いだしたのです。

彼の「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うその言葉がそれを表しています。彼はイエスさまが自分に救いをもたらす権威あるお方と認め、自分から進んで関係性を築こうとするんですね。

 

イエスさまはそのようなこの人に、

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(原語は未来形:あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるであろう)」。とおっしゃるのであります。

自ら進んで、神のみ前に立ち帰るこの人に、 主イエスによる「救い」の宣言がなされるのですね。

 

以前にこの最期の場面を読んで、ある方が「この犯罪人はこのイエスさまの、『今日わたしと一緒に楽園にいる』との約束を戴いて、亡くなってしまうのですね」とおっしゃいました。その通りです。彼は十字架から下りて助かるというのではなく、その十字架の上で地上の生涯を終えるのです。

 

これは何もこの犯罪人が特別そうであるというのではなく、私たちも同様です。人間には例外なく、必ず死が訪れます。死なない者はだれ一人おらず、永遠に地上を生きながらえることなどできません。

けれども、十字架上で彼は、「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいるだろう」というイエスさまの約束を頂くのです。神との和解に与った者は罪のゆるし、神の救いに入れられるのですそれこそ決して取り去られることのない、主に救われた者の希望。「永遠のいのち」。主が与えてくださっている、主がいつも共にいてくださる楽園、パラダイスなのです。

それは、主イエスの十字架のあがないによってもたらされた神の救いです。

この犯罪人が主に立ち帰り、救われたように、もう誰もが、今日にでもその主の御救いに、永遠の命に与ることができる。これが福音であります。

最後になりますが。

この2人の犯罪人について、皆さんはどうお思いになるでしょうか。

十字架にはりつけにされたイエスさまと自分との関係を見いだし、神への畏れを持って立ち返った者と、十字架にはりつけにされたイエスさまと自分との関係を退け、神の救いを拒んでののしり続ける者。

聖書は何も前者が合格、天国で、後者は失格✖、地獄、とは言っていません。

ただ、イエスさまはそんな彼ら二人の真ん中に十字架にはりつけにされておられるのです。

イエスさまは片方の人に救いの宣言をしながら、一方の自分をののしり続ける人にも、「父よ、彼をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、あきらめることなく、救いのとりなしの祈りを捧げておられるのですね。

アーメン。ああ、何と主の愛の素晴らしいものでしょうか!

 

今日、私たちは、イエスさまが最も苦しい十字架上で、あざける人々、十字架の救いを知らず無関心であった人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し祈られたこと。

また、罪あるそんな私たち人間をあきらめず、執り成しの祈りを捧げ続けていてくださるその愛。そして「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という救いと祝福の宣言を頂きました。

 

この「いのちの御言葉」によって、主イエスの十字架と自分との関係を見つめ、魂新たにされていきたいと願います。

今日の御言葉をもって、受難週もここから遣わされてまいりましょう。

祈ります。

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夕べの礼拝へのご案内!

2019-04-13 07:18:19 | お知らせ

月14日(日)午後6時-7時半  

受難週をおぼえつつ、主の御名を賛美いたします。

ご案内~

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 

 お車でお越しの方は、ご一報ください。


みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております!



日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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こども食堂「おいでや」のご案内

2019-04-09 09:17:22 | 教会案内

日時 4月10日(水)午後3時半~7時

会場 日本バプテスト大阪教会

2階ホールに集まれ!


4月のメニュ~ 手製ナポリタン スパゲティ~&フレッシュ サラダ

幼児・小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円

新学期がスタートしました、今年もやります。集まれ!

みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフ常駐)



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主イエスの祈り

2019-04-07 13:59:42 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ22章31~34節 54~62節 受難節・レント5節


この前カレンダーの2月をめくったかと思えば、あっという間に3月も過ぎ、早4月となりました。うちはみ言葉カレンダーですが、4月のところに次のような聖句が掲げられています。

「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」使徒言行録17章30節の聖句です。

悔い改め:メタノイアは、神に立ち帰る、神の愛と憐みに立ち戻って生きることです。1月より礼拝でルカ福音書を読んできていますが。その中の一つのキーワード、強調されているのは、「悔い改め」:神に立ち帰って生きる」ということでありますね。

そのことを心に留めながら、今日のルカ22章のみ言葉に聞いていきたいと思います。

この個所は、イエスさまが「ペトロの離反を予告」し、ペトロがイエスさまの予告通り、イエスさまのことを知らないと言って否んだ」、よく知られているところですが。

 

今日の聖書の箇所を一通り読みまして気づくことは、イエスさまはシモン・ペトロが離反することをすでにご存じのうえで、31節「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願った。(ちなみに「聞き入れられた」という原語はありません)しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、そのようにおっしゃっているのです。

ちなみにこの部分は、他の福音書にはなく、ルカの福音書にのみ記されています。ここには「主イエスのペトロのための祈り」があり、又、ペトロが立ち直る:正確には「主に立ち帰る」ことへの期待が語られているのです。

 

シモンはそういうことも知らず、イエスさまにこう答えます。

「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」

まあ、自分はイエスさまの一番弟子なんだ、という責任感やプライド、あるいは自負というもがあったのかも知れませんね。

 

するとイエスさまはペトロに言われます。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 

その後、イエスさまは人々から捕らえられ、大祭司の家に連行されます。

ペトロはどうしたかと言いますと、「遠く離れて従った」とここにあります。そして「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて一緒に座っているその中にペトロも混じって腰を下ろした」ともあります。

この時のペトロの心情というものはどうだったのかわかりませんが。大祭司の側にあった人々の中に混じっていたことから、少なくとも、彼はイエスさまとの距離をおいていたことがわかります。

 

そんな時、ある女中がたき火に照らされて座っているペトロを目にして、しっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言います。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言います。

その後、他の人がペトロを見るや、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言うんですね。

さらに一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ると、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と答えるんですね。

ペトロは調子がいいときは強いことを言ったのですが、状況が変わってしまうとその思いも変わってしまうんですね。それは又、私たちもそうではないでしょうか。

 

さて、ペトロが「あなたの言うことがわからない」と言い終わらないうちに、突然鶏が鳴きます。そうすると61節、「主は振り向いてペトロを見つめられた」というのです。

ここは岩波訳聖書ですと、「主が振り返って(ペトロ)を見つめられた」となっています。振り向くも振り返るも同じように聞こえますが。原語のギリシャ語では、これは「立ち帰る」という言葉に近い意味をもっているのです。

そうしますと、ご自分を三度知らないと否んだペトロに、イエスさま御自身が近づかれ、立ち帰って見つめられたということになります。

これは考えるとおかしなことです。ペトロが立ち帰るということなら分りますが、イエスさまが立ち返るとはどういうことでしょう。

 

ペトロは結局のところ、イエスさまとのつながりを、関係のないものとして否みましたが、イエスさまはそうではなかったのです。そうしてペトロが3度イエスさまを否んでしまったにも拘わらず、イエスさま御自身はなおもそのペトロに近づき、振り返る、つまりペトロの方に立ち返って愛の眼差しを注がれるのです。ペトロはそのイエスさまの愛の眼差しに打ちのめされたのではないでしょう。

 

すると、ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスさまの言葉を思い出し、外に出て、激しく泣くのです。

その涙は単なる後悔の涙ではありません。自分の罪深さをほんとうに知った者の涙です。

私たちの信仰もまた、そのような主イエスの愛の眼差しによって、主に立ち帰ることができるんですね。それを呼び起こしてくださるのは、主の御言葉とご聖霊のお働きです。

いつも絶えることなく主の御言葉とご聖霊のお働きを求めてまいりましょう。

 

さて、今日は宣教題を「主イエスの祈り」とつけました。

そこには、イエスさまとの関わりを否んだペトロになおも、イエスさまが近づき、振り返って見つめられた。その眼差しの奥には、ペトロへの怒り、断罪、裁きといったものは一切なく、ただ「ゆるし」と「受容」の祈りがあったのです。

 

今日の箇所のはじめで、イエスさまがすでにペトロのことをご存じの上で、「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」と、おっしゃったということを申しましたが。

このイエスさまの祈りは、その眼差しと同様、ゆるしと受容の祈りです。

同じルカ福音書の「十字架状でのイエスさまの祈り」、それは『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23章34節)。口語訳では「自分が何をしているのか分らないのです」となっていますが。それはまさに、ゆるしと受容の祈り。ここに主イエスの祈りの原点がございます。 

 

自分では何をしているのかが分からない者たち、自分のことが分かっていない者たちであることをイエスさまはご存じのうえで、父の神に執り成し祈られるのです。

私たちも又、このゆるしと受容の中で生かされていることを今一度覚えたいと思います。

 

話は逸れますが。何でも鑑定団という番組がありますが。まあ、お宝かごみ同然となるようなモノかを鑑定し、見分けることは、本物を知っている目利きでないと見わけがつきませんよね。

それ以上に、人を見抜くということってほんとうに難しいです。人は状況によって如何様にも変わりゆくものだから、難しいものです。そのうえ自分のことさえよく分かっていない、そんな自分が人を見抜く何て、とんでもないことなのかも知れません。

しかし、イエスさまは、どのような人をも見抜く、ご存じであられるお方なのです。

その上で、どのような人に対しても、変わることのない眼差しを注ぎ、執り成し祈ってくださるお方なのです。

 

主イエスの祈りは、人を立ち帰らせ、希望へと向かわせる力があります。

この後、イエスさまはゴルゴダの十字架にかかって死を遂げられますが。散り散りバラバラになって逃げ去っていたペトロをはじめ弟子たちに、復活の主イエスは出会われるのです。

ここでペトロは本当に主イエスに立ち帰っていくこととなるのです。そうしてさらに聖霊降臨を経験してから、兄弟たちを励まし、迫害や世の惑わしに抗いながら主イエスの福音を大胆に証しし続けていったのです。

もはや、そこにはかつてのペトロの姿はなく、ゆるしに応えて生きる者の姿があったのです。

私たちも、この主イエスの祈り、ゆるしと受容の愛によって今、生かされていることを心に留め、今週もここから日々主の福音を証する者として遣わされてまいりましょう。

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こども食堂「おいでや」のご案内

2019-04-05 09:35:29 | 教会案内

日時 4月10日(水)午後4時~7時

場所 日本バプテスト大阪教会 

 

会場:2階ホールへおいでください。

今回のメニュー:温かいほくほくの「おでん」を用意いたします!

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円

新学期がスタートしました、今年もやります。集まれ!

みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフ常駐)

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