玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*岩波茂雄の伝記

2013年12月10日 | 捨て猫の独り言

105

 庭ではカキの木がすべての葉を落した。ニシキギとツツジの紅葉はいまだに健在だ。サザンカが咲いているが、いま一番いきいきと咲いているのは淡紅色のネリネだろう。最近の早朝5時のラジオでは「誕生日の花」にヒイラギと茶ノ木の花が続けて登場していた。ところで6日の新聞につぎのような記事が出た。日展において「書」部門で本審査前に入選者の会派別の割り当てが行われていたと第三者委員会が報告した。これまで公然の秘密だったことだ。そこで「書」部門には何らかの改善策が求められているのだが難しい問題だ。11月1日に始まった日展の東京開催は12月8日で終了した。

106

 図書館の新刊コーナーで出会った「岩波茂雄」を読んだ。昭和の膨張主義的ナショナリズムに抗った岩波の風貌がよく伝わる作品だ。この本の著者は1975年生まれの中島岳志で、副題に「リベラル・ナショナリストの肖像」とある。岩波茂雄は1881年(明治14年)に生まれ1946年(昭和21年)に65歳で死去している。50年以上も前に、哲学者で漱石門下の四天王と呼ばれた安倍能成(よししげ1883~1966)が「岩波茂雄伝」を書いている。その安倍から返却された10個ほどの段ボールの資料が岩波書店の書庫で眠り続けていた。中島による今回の再びの伝記執筆の作業は、その資料の一つ一つを年代順に整理し直し、分類することだったという。

110

 中島はこの本の「あとがき」でつぎのように書いている。「資料の読み解きは、岩波との格闘であるとともに、安倍との闘いでもあった。『岩波茂雄伝』は岩波の正史であり、一高時代から歩みをともにしてきた親友の作品である。安倍が目を通し、執筆に使用した岩波文書の紐解きは、安倍の技法を追体験する作業でもあった。そのプロセスで分かったことは、安倍の突出した力量と共に、彼が避けて通った資料の存在だった。安倍が描いた岩波像と、私の描こうとした岩波像が衝突した。時間を越えた無言の討論はスリングだった」とある。こう書かれるといつか安倍の著作も読もうという気になってしまう。

095

 岩波書店の創業は大正2年で、32歳の時である。第一章は創業以前の岩波で「煩悶と愛国」というタイトルが付いている。第一章から印象に残った記述を一つだけ取り上げておこう。岩波が16歳の時のことである。父は前年の正月に急死している。「当時、村には伊勢講があった。母を説得し許可を得る。この年はほかに希望者がなかったため人生初めての一人旅が実現する。12月30日に諏訪から歩いて甲府に出て、鰍沢(かじかざわ)から富士川を船で下り、身延山久遠寺を参拝した。そして名古屋を経由し、山田で一泊した後、1月2日に目的の伊勢神宮を参拝した。ここで旅を止めず、京都に向かった。目的は妙心寺にある佐久間象山の墓参りだった。象山は吉田松陰の師であり、岩波にとっては憧憬の対象だった。その後、岩波は神戸から船に乗り鹿児島を目指した。その目的は憧れの西郷隆盛の墓参りだった。西郷隆盛関係の旧跡を訪ね歩いた。そして、琉球へ渡ろうと思いつき、波止場まで行った。しかし、船は出たばかりだったため断念した」(写真は日展の作品)

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 家庭新聞を発行していた | トップ | *山頭火の妻 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

捨て猫の独り言」カテゴリの最新記事