おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「泪橋」。「思川」。音無川跡をたどる。(「台東区」と「荒川区」の区界。その1。)

2013-09-13 20:41:57 | 河川痕跡
 音無川。石神井用水とも。「石神井川」の水を王子神社と南の飛鳥山の間で堰をつくり、農業用水として東南方向へ流した。北区王子から田端、西日暮里、日暮里とJR線の東に沿って流れ、日暮里駅前から、荒川区と台東区の区界となっている。「三ノ輪」付近で二本に分かれ、東方向の流れは「思川」として明治通りに沿い、「泪橋」を経由して白鬚橋付近で隅田川に注いだ。南東の流れ・「音無川」本流は「日本堤」沿いに進み、「山谷堀」から今戸付近で隅田川に注いだ。現在は、JR敷地内はもちろん、すべて暗渠、道路の一部となっている。

 今回、荒川区と台東区の区界をなしている「音無川」跡を、久々に折りたたみ自転車でたどりました。東から西へ、約5㎞の道のり、探し探しで、約2時間。これまでの区界探索と同じように、けっこうくねくね曲がって、少し細い路地もありました。標高は0㍍地点から4㍍地点、その差は、約4㍍。低湿地帯の田んぼの中を流れていたようです。
「今昔マップ」より。明治末頃。赤い線が「音無川」、「思川」。途中、三ノ輪付近で分岐する水色の線が「山谷堀」から隅田川のルート。赤い○に注目!「北豊島郡」。明治になっても、ここから北は「北豊島郡」となる。「(本・元)豊島(十島?)」は、浅草寺、待乳山付近の隆起した島で、のちに海岸の縁となった低台地を指す。ここ一帯は「豊島」氏の支配下。
「同」より。現在。地図上でd、c、b、aの順でたどっていきました。eが旧山谷堀。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治10年代。)
「橋場の渡し」付近。現在の白鬚橋のたもと。中央上に見える川が「思川」か? 現在の「明治通り」? 田んぼが広がっています。
「橋場の渡し」説明板。

 対岸の墨田区寺島とを結ぶ約160㍍の渡しで「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は幾度か移動したらしく、はっきりしない。大正3年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。荒川区教育委員会

 渡し場は、上の地図では「思川」より少し南に位置しているようだ。ということは、「思川」は現在の明治通りよりも少し北側に流れていたのではないか(東京ガスの敷地内)。

「思川」と「山谷堀」との位置関係。隅田川上流が「橋場の渡し」、下流が「今戸の渡し」。

 白鬚橋の西詰から明治通りを西に。さっそく右手に見えるのが旧東京ガス千住工場。
広大な敷地に巨大なガスタンク群。昔から変わらぬ風景。ここの歴史はかなり古く、明治期の赤煉瓦造りの建物は、小平市にある「GAS MUSEUM ガスミュージアム」に移設されているそうです。また、最先端の研究技術開発などの建物があるようです。

《東京ガスの歴史》(「ガスミュージアム」HPより)
1872年(明治05年) 横浜で日本初のガス事業が始まる 新橋~横浜間鉄道開業
1874年(明治07年) 東京でガス製造工場が稼働し、銀座通りにガス灯が点灯
1876年(明治09年) 東京府瓦斯局が開設
1885年(明治18年) 東京瓦斯会社創立(芝区浜崎町)
1886年(明治19年) 東京電力の前身である東京電燈会社創立
1893年(明治26年) 社名を東京瓦斯株式会社に改称
・・・

「泪橋」。明治通りと旧奥州街道(コツ通り)との交差点。
荒川区方向。この先、JR常磐線を越えたところに小塚原刑場跡がある。
「歴史的農業環境閲覧システム」より。中央下の交差部分が「泪橋」。東西に流れる細い川が「思川」。

 泪橋(なみだばし)は 東京には荒川区と品川区に一ヶ所ずつの計二ヶ所あった。いずれも近隣の刑場に深い関連があるとされている。

1.荒川区南千住にある小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋。 現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はなく、その名前は交差点やバスの停留所に付けられる事で残っている。

2.品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋。 現在では名称が「浜川橋」に変わっている。

「泪」という名の由来

 江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場であり、磔火焙り獄門が行われ牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。
 小塚原は山谷地区の北端にあり、地区のはずれに泪橋がかかっていた。刑場にいくにはこの橋をわたった。ここが、江戸市中と市外との境界でもあった。「泪橋」は、現在は、台東区と荒川区の区界となっている。
 一方、鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置された。鈴ヶ森刑場の周辺は、かつて海岸沿いのさびれた地であった。鈴ヶ森の刑場に向かうには、近くの立会川にかかる泪橋をわたった。
 二つの泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。(以上、「Wikipedia」参照。)

 ここは、なんといってもあしたのジョー」 。高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画。

 泪橋の下に丹下段平がジムを構えていたという設定でした。作品では史実と異なり、実際に川が流れその上に橋が架かっています(ただし、川が思川と明言はされていない)。また、名前の由来は人生に敗れドヤ街へ流れ着く者が涙を流しながらこの橋を渡るからとされており、作中に登場する「泪橋を逆に渡る」というフレーズは拳一つでどん底から這い上がり明日の栄光を目指すというこの作品のテーマを示している、と。
 講談社の『週刊少年マガジン』に、1968年(昭和43年)1月1日号(発売日は1967年(昭和42年)12月15日)から1973年(昭和48年)5月13日号にかけて連載されました。
 累計発行部数は2000万部。連載中の社会的反響は大きく、ジョーのライバルである力石徹が死んだ時には東由多加によって実際に葬儀が行われ、よど号ハイジャック事件では、ハイジャック犯が「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と声明を残しているほど。また辰吉丈一郎をはじめ現実のボクシング界にも大きな影響を与えました。これら社会的反響の大きさから、「戦後最大のヒット漫画」の1つに数えられています。

《ストーリー》
 東京・山谷のドヤ街に、ふらりと1人の少年が現われた。矢吹丈(ジョー)と名乗るその少年に一方的にたたきのめされたアル中の元ボクサー・丹下段平は、その動きから天性のボクシングセンスを見いだし、一流のボクサーに仕立て上げんと奮闘する。しかしジョーは、ドヤ街の子供たちを引き連れて乱行を繰り広げた揚げ句、自分に向けられる段平の情熱を利用して犯罪に手を染め、警察に逮捕されて鑑別所・少年院へと送られてしまった。
 ある日、少年鑑別所のジョーあてに、「あしたのために」の書き出しで始まる段平からのはがきが届く。その内容は、左ジャブの打ち方から始まるボクシング技術の講義であった。時間と体力を持て余していたジョーは、そのアドバイスに従ってボクシングの練習に身を入れるようになり、やがて自分のパンチの切れが、今までと比べ物にならないほど向上してゆくのを実感する。野菊島の東光特等少年院での、ライバル・力石徹との宿命の出会いを経て、ジョーは本格的にボクシングの道へと足を踏み入れることとなった。
 その後、ジョーは強敵カーロス、金竜飛らとの対戦を乗り越え、世界チャンピオンの座を賭け最強のボクサー・ホセとの闘いに挑む。パンチドランカーに冒されていたジョーは、善戦むなしく判定負けを喫し敗れ去る。灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。

 TV放映中にちばてつやが病気で連載を休載したこと、また遅筆であったこともあり、ストーリーが原作に追いついてしまった。そのため矢吹丈VSカーロス・リベラ戦で終了している。原作の魅力に加え、初めて監督格となった出統の先鋭的な演出によりその名を高めた。また、矢吹丈と丹下段平の声を(元来アニメ声優ではない)あおい輝彦と藤岡重慶が担当し、そのハマリ具合の絶妙さから、続編や劇場版において他の人物の声の配役が大幅に変更される中でも、この両名だけは常に不動とされた。
《声の出演》
矢吹 丈 - あおい輝彦
丹下 段平 - 藤岡重慶
力石 徹 - 仲村秀生
(以上、「Wikipedia」参照。)

 
あしたのジョー名言集
「YouTube」より。

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