正岡子規の句碑で終わった前回。「新居町」駅を出て右に行くと、公園のところに種田山頭火(たねださんとうか)の句碑があります。今回はそこからスタート。
浜名街道
水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火
種田山頭火(1881~1940)大正・昭和の初期の俳人。
明治15年山口県に生まれる。本名は正一。荻原井泉水に師事。俳誌「層雲」に俳句を発表。大正13年、仏門に入る。尾崎放哉に傾倒、妻子を捨て庵を結び、一笠一杖の乞食行脚でで各地を遍歴、禅味ある自由律の独自の句を残した。
この作品は、二度目の遠州路を旅した昭和14年4月、当時の浜名街道を直截に詠んだものである。句集「草木塔」に所載。
新居町教育委員会
ここで、自由律句の巨頭・山頭火の句に出会うとは思いませんでした。
・あるけばかつこういそげばかつこう
・うしろすがたのしぐれてゆくか
・笠にとんぼをとまらせてあるく
・けふもいちにち風を歩いてきた
・この旅、果もない旅のつくつくぼうし
・また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
・分け入つても分け入つても青い山
けっこう気に入った句が多いです。
この先「栄町」の交差点で国道1号線と別れ、右側の道を行きます。
しばらく行くと、「浜名橋」。
橋の欄干には広重の浮世絵が6枚、モニュメントとして展示されています。
このほかのものは、HPより拝借します。
このように、安藤広重さんの東海道は売れに売れて、宿場によっては7種類の浮世絵が誕生しました。よく目にする保永堂版以外にも、隷書、行書、人物、狂歌入、美人、竪絵。そのうち、「新居(荒井)宿」は、六つ(「美人」がない)。
道筋には関所、宿場町を意識した建物が目立ちます。
新聞販売店。 お蕎麦屋さん。
地元消防団の詰所。
そして、右手の敷地に「新居関所」の堂々とした建物が。観覧料:410円(旅籠紀伊國屋資料館とセットで)
大正期のようす(「知足美術館」HPより)。
新居宿が他の52の宿場と大きく違うところは、「関所」と「渡船」の2つの役割を持っていたところです。現在、関所前まであった海は埋め立てられて、宿場の雰囲気は失われてしまいましたが、当時は目の前まで浜名湖が広がっていて、舟は直接、関所に接岸しました。
東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図 / 歌川 広重
今切を出た堂々とした大名行列の船と、なりふり構わぬ奴を乗せた供船が、対岸の荒井へ向かっている様子である。幔幕の家紋は亀山の石川日向守である。吹き流しや旗、毛槍の先などから風の様子がわかる。
(「知足美術館」HPより)
新居関所(「パンフレット」より)
新居関所は江戸時代には今切関所といわれ、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖の今切口に近い位置にありましたが、元禄12年(1699)・宝永4年(1707)と度重なる災害によりわずか7年の間に西北へと2度移転を繰り返しました。関所は常に浜名湖岸に建ち、構内には東海道の新居・舞坂を結ぶ今切渡しの渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と「入り鉄砲でっと出女」を取り締まりました。
関所は慶長5年から江戸幕府が管理していましたが、元禄15年(1702)以降は三河国吉田藩に移管されました。明治2年(1869)正月の行政官布告で全国の関所は廃止されることとなりました。約270年間江戸の防衛を目的とした関所はその役割を終え、以後小学校や役場として使われました。
現存している関所建物は安政2年(1855)から5年かけて建てかえられたものです。昭和30年(1955)国の特別史跡に指定され、同46年には解体修理を行い、今では全国で唯一現存する関所建物として大切に保存し、公開しています。・・・
実物大の役人達。それぞれに丁寧な説明があります。武器の展示も。
江戸時代、新居と舞阪の間は、渡船による交通が行われた。
この渡船場跡は、宝永5年(1708)に今切関所が現在地に移転してからのものである。
大正年間の埋立により、今はその面影をまったくとどめていないが、平成14年(2002)に渡船場の一部を復元整備した。
平成22年3月 湖西市教育委員会
大御門。
大御門の枡形には新居宿の高札場があり、大御門より西は新居の宿場でした。
関所を出て、すぐ近くの「旅籠 紀伊国屋」へ向かいます。
「旅籠 紀伊国屋資料館」。
江戸時代中期より昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり旅館業を続けていたそすです。なかなか風情のある建物でした。
内部。
内庭。
水琴窟。
2階からの眺め。
箱まくら。
当時の旅の様子なども資料としてあって、興味深い。
「旅籠 伊勢屋」跡。
そのまま宿内を西に進むとT字路。その正面にあるのが、「飯田武兵衛本陣跡」。そこを左に曲がります。
飯田武兵衛本陣跡
飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪百九十六坪で、門構え、玄関を備えていた。
飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約七十家が利用した。
明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌二年の再幸、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所は明治18年(1883)、奥山方広寺に移築された。
平成22年3月 湖西市教育委員会
そのすぐ先に疋田八郎兵衛本陣跡。
疋田八郎兵衛本陣跡
新居宿に3軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪百九十三坪で、門と玄関を備えていた。
八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋、年寄役などを務めた。
平成22年3月 湖西市教育委員会
さらにそのすぐ先には寄馬跡。
寄馬跡
江戸時代の宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百疋の馬を用意していた。
しかし、交通量が多い場合は助郷(すけごう)制度といって付近の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。
この場所は寄せ集められた人馬のたまり場になったところである。
平成22年3月 湖西市教育委員会
その先の右手には、
「常夜燈」。
さらにしばらく行った左手には、「新居一里塚跡」。ここが日本橋から69里目。
一里塚跡
一里塚は、江戸の日本橋を起点として街道の一里(4キロメートル)ごとに土を盛り、その上にエノキなどを植えた
里程の印として、旅行者にとっては馬や駕籠代の計算などの目安となった。
慶長9年(1604)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では104ヶ所あった。
ここには左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。
平成22年3月 湖西市教育委員会
その先で東海道は右に曲がります。この道筋は枡形。
ただ、ちょうどその付近で、国道1号線へ繋がる道路工事が完成間近。そうすると、枡形という形状がはっきりしなくなる感じです。そんなことで佇んでいたら、近所の壮年の方がこちらに気を取られてしまい、工事中の溝に足を取られて転倒。大丈夫ですか、と声を掛けると、こうして道が出来るという地元の念願が叶うまではけっこう大変だった、とのこと。しばらく雑談。
振り返って宿内を望む。
今度は、左に曲がります。「棒鼻跡」碑。
棒鼻跡
ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。棒鼻とは駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき先頭(棒先)を整えたのでこの場所を棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。
平成22年3月 湖西市教育委員会
左手の角の休憩スペースで一休み。
ここで、新居宿ともお別れです。
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