今回は、「興津」駅から静岡まで。当初の目標は「安倍川橋」まで、と。結局、「府中宿」にちょっと入っただけ。せめてもうちょっと核心部くらいは、と思いました。が、久々の長い距離。足にまめが出来たようで、痛みが・・・。
そこで、次回、宿内のジグザクコースから頑張ることにして、「江川町」交差点でリタイアして、静岡駅へ。
「166㎞」ポスト。ここからスタート。
この先は、かつての「清見潟」あたり。その街道筋で見かけたお店、二つ。
「うなぎや洋品店」。
「うなぎ」と「洋品」との組み合わせがインパクトあり。昔は「うなぎや」さんだった?
こちらは「小川梅吉式剪定鋸」。
小川梅吉製鋸所は、天保年間(1830年代)に鉄砲と丸鋸の製造から始まりました。
四代目の梅吉(1868~1923)からは、丸鋸、薪挽鋸、根切鋸等、鋸一切を取り扱っていました。
六代目の嘉吉(1903~1985)から、現在の主力商品である果樹剪定鋸の製造が始まりました。
皆様ご存知のように静岡はみかんの名産地で、当店の製品は多くの柑橘農家や研究者の方々に愛用して頂き
県内のみならず、県外からも多くの注文を受けています。
なお、七代目の一男(1931~)は、以下の賞をいただいております。
☆1996年11月 静岡県優秀技能者功労表彰(知事功労表彰)
☆2002年11月 「卓越した技能者(現代の名工)」認定(厚生労働大臣表彰)
☆2003年11月 黄綬褒章受章(技能功労)
現在、娘婿の若月克己が、家業を継いでおります。
当店の剪定鋸を末永く使用して頂くよう、目立ても随時受け付けております。
どうぞ、ご利用ください。
(以上、「小川梅吉製鋸所」HPより)
さて、旧道の左に入ると、清見潟公園。万葉の時代から風光明媚なところだった。
「万葉歌碑」。
万葉集巻三
和銅元年(708)三月 従五位上 田口益人大夫、上野の国司に任ぜられける時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌
廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし
静岡市清水区の北部は、古く廬原郡といった。現在、この辺りは倉庫群が建ち並び、浜辺を見ることは出来ない。
その奥には、正岡子規の句碑。月の秋 興津の借家 尋ねけり
「説明板」。
明治33年、病床にあった正岡子規は、温暖な地・興津への移居を思い立ちました。叔父大原恒徳宛の書簡に「興津が墳墓の地」とあります。
移転先として松川医院(現在の興津本町河村医院)の病室を、弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐らによって借りる手筈までつけましたが、周囲の反対などから興津行きは遂に断念しなければなりませんでした。
二年後の明治35年(1902)9月19日、子規は36歳の短い生涯を終えます。
果たされることなかった子規の想いを偲んで、野菊の歌壇を設けるとともに、病床にて詠める一句を碑に刻してここに建てることといたしました。
〈月の秋興津の借家尋ねけり〉
平成14年子規100年の忌日に正岡子規を偲ぶ集い
子規の句=良知文宛書・石垣松黄刻
野菊の花壇=興津花の会設営
旧道に戻った左手には西園寺公望の別荘、「坐漁荘」。
興津坐漁荘
西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91歳の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されいます。
そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力、ご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。
平成16年4月
坐漁荘庭園より三保の松原を臨む(昭和20年代)。 現在の景観。建物越しにかすかに見えるのみ。
その先、「波多打川」沿いに進み、左手に折れて、旧道に入る。
来た道を振り返って望む。
頭上は、「静清バイパス」。
JR東海道線「横砂踏切」。
再び1号線と合流。正面には「常夜燈」。
通りの左手にある「井上侯爵之松」
興津にあった別荘・「長者荘」との関連があるか?
「袖師ケ浦」。
「横砂」から「袖師」へ。興津からこの辺り一帯にかけて、白砂青松の地であったのだろう。現在、海岸線は見えない。
しばらく進むと、「辻町」の三叉路へ。その右手に一本の松。旧道はその脇を進んで行く。
「細井の松」。
ほそいの松原(細井の松原)
慶長6年(1601)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し、江尻宿場が設置された。同9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門・奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612)完成したと伝えられている。
元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、辻村戸数110戸 松原の全長199間2尺(約360米)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。
いまの松は平成四年二月、社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。
辻地区まちづくり推進委員会
「無縁さんの碑」。
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に祈念碑を建て霊を慰めた。平成13年、東海道400周年を記念しこの石碑を建立した。
平成14年3月 「生き活き」街づくり辻の会
「袖師ケ浦」(西久保)からこの付近まで見事な松並木であったことが想像される。それにしても、伐採されるとは。当時は、お寺の梵鐘なども供出させれらた時代ではあったが・・・。
そこから来た道を振り返る。
中央、通りのはるか遠くに白雪の富士山が見える。
しばらく歩くと右側の壁に看板。
秋葉道入口
東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。
この入口には戦後まで「秋葉山五丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶店も3,4軒あり、東側は細井の松原に接していた。
平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会
しばらく進むと、左手に看板。
「辻一里塚」跡。
ここが日本橋から42番目の一里塚。
一里塚跡
江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
塚は五間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
辻の一里塚は江戸より四十二番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。
平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会
東側を望む。
それからすぐの交差点の右側に再び看板が。ここが「江尻宿」東木戸跡。
「江尻宿東木戸」跡。
江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。
平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会
くの字かどうかわかりにくいが。
そこで、次回、宿内のジグザクコースから頑張ることにして、「江川町」交差点でリタイアして、静岡駅へ。
「166㎞」ポスト。ここからスタート。
この先は、かつての「清見潟」あたり。その街道筋で見かけたお店、二つ。
「うなぎや洋品店」。
「うなぎ」と「洋品」との組み合わせがインパクトあり。昔は「うなぎや」さんだった?
こちらは「小川梅吉式剪定鋸」。
小川梅吉製鋸所は、天保年間(1830年代)に鉄砲と丸鋸の製造から始まりました。
四代目の梅吉(1868~1923)からは、丸鋸、薪挽鋸、根切鋸等、鋸一切を取り扱っていました。
六代目の嘉吉(1903~1985)から、現在の主力商品である果樹剪定鋸の製造が始まりました。
皆様ご存知のように静岡はみかんの名産地で、当店の製品は多くの柑橘農家や研究者の方々に愛用して頂き
県内のみならず、県外からも多くの注文を受けています。
なお、七代目の一男(1931~)は、以下の賞をいただいております。
☆1996年11月 静岡県優秀技能者功労表彰(知事功労表彰)
☆2002年11月 「卓越した技能者(現代の名工)」認定(厚生労働大臣表彰)
☆2003年11月 黄綬褒章受章(技能功労)
現在、娘婿の若月克己が、家業を継いでおります。
当店の剪定鋸を末永く使用して頂くよう、目立ても随時受け付けております。
どうぞ、ご利用ください。
(以上、「小川梅吉製鋸所」HPより)
さて、旧道の左に入ると、清見潟公園。万葉の時代から風光明媚なところだった。
「万葉歌碑」。
万葉集巻三
和銅元年(708)三月 従五位上 田口益人大夫、上野の国司に任ぜられける時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌
廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし
静岡市清水区の北部は、古く廬原郡といった。現在、この辺りは倉庫群が建ち並び、浜辺を見ることは出来ない。
その奥には、正岡子規の句碑。月の秋 興津の借家 尋ねけり
「説明板」。
明治33年、病床にあった正岡子規は、温暖な地・興津への移居を思い立ちました。叔父大原恒徳宛の書簡に「興津が墳墓の地」とあります。
移転先として松川医院(現在の興津本町河村医院)の病室を、弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐らによって借りる手筈までつけましたが、周囲の反対などから興津行きは遂に断念しなければなりませんでした。
二年後の明治35年(1902)9月19日、子規は36歳の短い生涯を終えます。
果たされることなかった子規の想いを偲んで、野菊の歌壇を設けるとともに、病床にて詠める一句を碑に刻してここに建てることといたしました。
〈月の秋興津の借家尋ねけり〉
平成14年子規100年の忌日に正岡子規を偲ぶ集い
子規の句=良知文宛書・石垣松黄刻
野菊の花壇=興津花の会設営
旧道に戻った左手には西園寺公望の別荘、「坐漁荘」。
興津坐漁荘
西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91歳の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されいます。
そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力、ご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。
平成16年4月
坐漁荘庭園より三保の松原を臨む(昭和20年代)。 現在の景観。建物越しにかすかに見えるのみ。
その先、「波多打川」沿いに進み、左手に折れて、旧道に入る。
来た道を振り返って望む。
頭上は、「静清バイパス」。
JR東海道線「横砂踏切」。
再び1号線と合流。正面には「常夜燈」。
通りの左手にある「井上侯爵之松」
興津にあった別荘・「長者荘」との関連があるか?
「袖師ケ浦」。
「横砂」から「袖師」へ。興津からこの辺り一帯にかけて、白砂青松の地であったのだろう。現在、海岸線は見えない。
しばらく進むと、「辻町」の三叉路へ。その右手に一本の松。旧道はその脇を進んで行く。
「細井の松」。
ほそいの松原(細井の松原)
慶長6年(1601)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し、江尻宿場が設置された。同9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門・奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612)完成したと伝えられている。
元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、辻村戸数110戸 松原の全長199間2尺(約360米)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。
いまの松は平成四年二月、社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。
辻地区まちづくり推進委員会
「無縁さんの碑」。
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に祈念碑を建て霊を慰めた。平成13年、東海道400周年を記念しこの石碑を建立した。
平成14年3月 「生き活き」街づくり辻の会
「袖師ケ浦」(西久保)からこの付近まで見事な松並木であったことが想像される。それにしても、伐採されるとは。当時は、お寺の梵鐘なども供出させれらた時代ではあったが・・・。
そこから来た道を振り返る。
中央、通りのはるか遠くに白雪の富士山が見える。
しばらく歩くと右側の壁に看板。
秋葉道入口
東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。
この入口には戦後まで「秋葉山五丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶店も3,4軒あり、東側は細井の松原に接していた。
平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会
しばらく進むと、左手に看板。
「辻一里塚」跡。
ここが日本橋から42番目の一里塚。
一里塚跡
江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
塚は五間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
辻の一里塚は江戸より四十二番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。
平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会
東側を望む。
それからすぐの交差点の右側に再び看板が。ここが「江尻宿」東木戸跡。
「江尻宿東木戸」跡。
江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。
平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会
くの字かどうかわかりにくいが。
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