おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-19 22:12:16 | 甲州街道

初狩宿
 下初狩宿と中初狩宿の2宿で1つの宿場の任を担い、月の前半15日を中初狩宿、後半15日を下初雁宿が勤めました。下初狩宿は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠12軒と比較的大きな甲州街道の宿場町でした。建物の敷地と道路とはかなり段差があるものの、旧本陣だった奥脇家の建築年代は不詳ですが木造2階建、切妻、平入、桟瓦葺、間口が広く本陣としての威容は健在でした。宿場の入り際には文化3年(1806)に建立された聖護院道興歌碑「今はとて かすみを分けてかえるさに おぼつかなしやはつかりの里」があり文明19年(1487)に聖護院道興が訪れ「回国雑記」の中に下初狩宿に訪れた様子が記されています。又、山本周五郎誕生之地としても知られ、生家は洪水によって消失しましたが石碑が建立されています。
・・・
 中初狩宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、宮川橋は当時は名勝として知られ、橋の上から富士山が見える事から「宮川橋の一目富士」と言われたそうです。

(以上、「初狩宿(甲州街道・宿場町)- 山梨県:歴史・観光・見所 www.yamareki.com/ootuki/hatu.html」HP参照)

(12:18)初狩駅旧ホーム跡(現側線)。
  
 首都圏路線の軌道のバラスト(砕石)を製造する「砕石工場」(前回紹介)があり、ここから出発する砕石輸送列車のために、スイッチバックの施設が今でも残されているようです。
 かつての中央本線にはこの付近だけでも笹子駅や勝沼ぶどう郷駅(旧勝沼駅)など多数のスイッチバック構造を持つ駅が存在した。
 ただしこのスイッチバック構造は当駅(初狩駅)発着の工事列車および貨物列車が発着するための設備として残されているに過ぎない。当駅の付近に東洋一の規模といわれた砕石工場(甲州砕石)があり当駅から専用線がのびているため、この設備が必要なのである。また、当駅の側線脇に保線基地を有しており、ここへ越中島貨物駅接続のJR東日本東京レールセンターからの工事資材用のレールの到着がある。
 現在でも当駅はJR東日本の砕石(バラスト)輸送列車の発駅およびレール輸送列車の着駅となっているが、JR貨物の貨物列車の発着は既になくなっている。また工事列車自体の編成も短い事から、スイッチバック施設も大部分が遊休化しており、末端部の引き上げ線付近が道路拡張によって一部撤去されている。
 かつては当駅に停まる旅客列車もスイッチバックを行っていたが、1968年(昭和43年)の複線化の際、勾配のある本線上に新しくホームが設けられ、スイッチバックは行われなくなった。

                                          (以上、「Wikipedia」参照)

 ここで、江東区の「越中島貨物駅」が登場するとは思いませんでした。「レール」がここまで運ばれて来るのですね。

「大月市立初狩小学校」。
 小学校の校庭に「芭蕉句碑・山賊乃 頤とつる 葎哉 芭蕉」があるようですが、見逃しました。

やまがつの おとがいとずる むぐらかな

 貞亨2年、43歳。『野ざらし紀行』の帰途、甲州谷村への道筋での句。山梨県内の何処であるかは本当は不明だが、今日では山梨県都留市であると同市では主張している。
 甲州の山は何処も急峻。夏草の茫々と生い茂る山路では、さすがに山人もおとがいを閉じて歩かなくては、口の中に夏草の穂先が入ってしまう。おとがい(頤)とは下顎のこと。
 山道で会った木こりか猟師が無口で通り過ぎたのを、夏草が口を塞いで喋れないためとして興じたものであろう。
 
           (「山梨県立大学」 http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kai.htm HPより)
  
土蔵造り。

(12:28)右手に「明治天皇御小休遺跡」という石碑。立派な門構えのおうち。小林本陣跡。


                       

その先にも旧家らしいたたずまい。

(12:35)「唐沢橋」のたもとに「首塚」案内板(↓)。

これは武田勝頼から離反した、小山田信茂の「首塚」だといわれています。
         

小山田信茂の謀反と武田氏の滅亡(以下、「Wikipedia」参照)
 天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し、また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。木曽義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。・・・
 勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
 なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある。
 勝頼一行が郡内領へ退避するさなか、信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
 信茂離反に関して、武田方の史料『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。
 一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
 一方、織田・徳川方の史料『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
 織田・徳川勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
 『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。・・・『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

左手崖上に古仏が何体も。

前方が次第に開けてきます。

                  

中央線の電車。

田植えを終えたばかりの田んぼ。


                     

「船石橋」。

(12:44)左手に「船石由来」碑。
  

  

 「船石」とは、船の形をした大きな石だったそうで、親鸞上人が船石の上で説法を行い、また、船石の上で布に名号を書き、老婆に与えたといいます。石は明治代に水害で埋没しまったようです。左側には草に埋もれて「御船石所在地ハ従是東三拾間余」と刻まれた碑もあります。
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