おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その4。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-27 20:50:59 | 奥州街道

「寄居」集落のようす。

土蔵造り。屋根は赤茶けた色合い。

 ここではこうした朱塗りの屋根や塀が目につきます。
    

(12:14)「寄居本郷」バス停。

「道標」。

 「寄居」は「下野国」最後の間の宿として賑わっていたようですが、今は静かな街並みです。
    「常夜燈」。

「寄居」を振り返って望む。

 (12:21)再び国道に合流します。

 「白坂」宿から「芦野宿」までの区間。「国道294号線(旧奥州街道)」の整備・拡幅(直線化等)工事によって旧道は寸断され、丘陵と平地(田んぼ)の間にあった集落同士を結んで進んでいた旧道は、ほとんど消滅してしまい、集落内に一部残っているだけのようです。

路傍にある古い石塔群。その付近に旧道? 

 歩道沿いにある植樹が鳥の姿に刈り込まれています。
    

遠く「寄居」方向を望む。

左手が旧道? 

国道脇の小高い塚・墳墓? 振り返って望む。

けっこう長く続く道(信号機はまったくない)。

左手に常夜燈。新しいもののようですが。

その脇の道が旧道? 

(12:40)「平田」バス停。裏手は「三ヶ村公民館」。

左手にある「板屋」という間の宿へ向かいます。

(12:45)火の見櫓のもとに「五輪塔」。
   
                                          「道標」。

左の道を入ると「脇沢」。

古い馬頭観音碑群。  

ここにも朱塗りの屋根のおうち。

 小さな集落を抜けて田んぼの脇の道を進みます。路傍には「馬頭観音」などが。
    

「横岡」「高瀬」? を振り返って望む。
 右手に「高徳寺」。もう少し進んだ、写真の右手後方に「手つかずの奥州街道」道があるとか。

再び田んぼ沿いの道。

坂道を進むと「板屋」地区。

 (13:10)坂道を登り切ったところに「板屋の一里塚」。
    

解説板と馬頭観音など数碑。

那須町指定史跡 板屋の一里塚
 奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長9年(1604)5月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の三ケ所がある。板屋の一里塚は、日本橋から44里(176キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西二ケ所に残存し、当時の面影を残している。

                            那須町教育委員会

どの部分が塚なのか、左右とも判然としません。坂を削って切り通しにしたために、塚は高い位置になっています。

来た道を振り返って望む。

行く先を望む。けっこう急な坂道。

集落の中心地に入って行きます。

坂下にも「一里塚」の解説板。

 (13:14)右手に「諭農の碑」があります。この先の集落にある「べこ石」と同じく、芦野宿の問屋を務めた戸村忠恕が記したもの。
    

諭農の碑 
 板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。
 べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。

                         那須町教育委員会

隣には雑然とした花屋さん? 

    
    集落内のようす。                       集落ごとに火の見櫓。

「板屋」バス停。

土蔵造りを改造した「第六分團機具置場」。

振り返って望む。


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