おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その1。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-21 22:02:01 | 水戸街道

 12月17日(土)。快晴。風もなく、気温は低いけれど歩くには最適(と思われる)ようなお天気。どこまで進めるか?

 JR「ひたち野うしく」駅に降り立ち、前回の終了地点へ(8:59)。

 (9:08)歩き始めるとさっそく「牛久市」と「土浦市」との市境の左右に「一里塚」。
               

 右にあるのは「中根一里塚」。
    

牛久市指定文化財(史跡) 中根一里塚
 徳川家康は、慶長9年(1604)頃に全国の主要街道を改修、改良を加えて一里塚を設け、この時期に開かれた「水戸道中」の起点江戸日本橋から17番目に「中根一里塚」が築かれた。一里塚は旅人の標識と休息の施設として一里(約4㎞)毎に街道の両側に約五間四方(約9m四方)、高さ一丈(約3m)程の塚を築いたものである。市内には、外に「成井」「田宮」に一里塚があったが、現在は「成井一里塚」が残されている。中根一里塚は、昭和61年、江沢大輔氏より市に寄贈されたものです。

 平成2年3月1日 牛久市教育委員会

塚の上には切り株のみ残っています。

反対側は土浦市内となる「荒川沖一里塚」。
                            こちらは、平成10年、地主の本田春義氏より市に寄贈されたものだそうです。

牛久市方向を望む。

「東京まで57㎞」ポスト。

 (9:24)しばらく進み、「荒川沖南区」交差点で、国道から離れて右の道へ入って行きます。JR「荒川沖」駅方向。
    

 「乙戸川」に架かる「荒川橋」。東京に住む人間だと都内を悠々流れる「荒川」を連想しますが・・・。
    

宿内のようす。

蔵造りを模した建物。

駅入口近くにある「宇野家」の豪壮なおうち。

その斜め前の向かいには、名主であった「川村家」。昔の宿場の面影を残す街並み、建物が残っています。
    

荒川沖宿
 水戸街道の、千住宿から9つ目の宿場町。現在の茨城県土浦市荒川沖西にあたる。
 宿場町は南北に数百メートルの範囲で広がっていた。
 小さな宿場町で、本陣は置かれていなかった。宿場町としての役務は隣の牛久宿と分担して行っており、荒川沖宿のみで完結したものではなかったという。正規の宿場町ではあったものの、継ぎの宿という位置づけであったとされる。
          現代地図に旧水戸街道の道筋を重ねた地図。(「Wikipedia」より) 

■「荒川沖」
 荒川沖宿の由来は、水戸街道が慶長9年に開通したとき、阿見町荒川本郷から移住した有力農民7戸が街道沿いに宿場を形成したのが村の起こりで、 いわゆる荒川沖宿で水戸街道20宿の一つです。
 「荒川沖」駅は茨城県土浦市にありますが、名前の元は隣町の「稲敷郡阿見町荒川本郷」と関係があります。
 江戸時代以前、この一帯は「荒川野」と呼ばれていました。これは川(実際は乙戸川や霞ヶ浦と牛久沼)が頻繁に氾濫していた為一帯は年中水に浸かっていました。この様子から「荒れる川の野」「川に荒らされた野」と言われたのが始まりらしいです。その「荒川野」を沖に見る地区が現在の「荒川沖」です。荒川本郷から遠くに見えるところから“荒川の沖” (沖:遠いところの意味)と言われ、水戸街道の歴史と共に歩んで来たところです。

■水戸街道と共に栄えた庶民の宿場
 もともと水戸街道は、鎌倉街道の脇街道として、水戸道中とか江戸往還などと言われる細い道が通っていましたが、 徳川家康が江戸幕府開設早々の慶長9年(1604)7月から同14年12月にかけて、直轄工事でまっすぐに改修したものです。
 荒川沖と牛久間の改修については、牛久藩主山口重政がその任に当たり、完成後、慶長15年11月荒川道取締りのために、領内の信田郡荒川村(阿見町荒川本郷)の有力農民7戸を選んで、ここに移転させ、藩の役人の下で街道取締りに当らせました。 そして街道用務の増大に伴って、領民を張りつけました。
 寛永8年(1631年)の記録では、宿戸数は40戸になって、街道の宿駅村落としての形態が形成されたといいます。 荒川宿はかくして、その名を正式名称としましたが、当時の書付をみると、沖村、荒川村、沖荒川村などと書かれており、 一般的には荒川宿で通用していたのです。
 その荒川宿は、いわゆる殿様が宿泊する陣屋宿場でなく、牛久陣屋宿場と中村陣屋宿場の中間にあたる 「継立宿場」としてもっぱら庶民の宿場でした。

■発展してゆく宿場
 荒川本郷から移転した農民は初め、開拓農耕のかたわら、公的交通の用務に従事していましたが、往還の増加に対応して、商いにも精をだすようになり、 旅籠や灯油、灯心を売る油屋、そば屋などの店を開く者も多くなり、宿場らしい雰囲気をつくっていきました。
 ところで荒川宿の継立問屋は、代々名主の川村八宗治家が継いでいたが、その継立区域は、 上りは牛久本陣までの1里33町、下りは中村宿24町までの間でした。往還は公的な場合は馬とか駕籠でしたから、宿駅の問屋では、乗馬10頭とか駕籠3挺、 それに荷担ぎ人足25人というように、常時備えておかなければなりませんでした。
 文政5年(1822年)の記録でみると、荒川宿を通った諸大名は、津軽、松前、南部、仙台、秋田、 水戸、土浦藩など22藩におよんでいますが、特に関東の大名は、2月と8月の半年交代が例でしたから、 問屋の仕事は他の街道に比べて忙しく、且つ気遣いが多かったと言われています。
 また、街道宿には、旅籠や女郎屋がつきものでした。藩でもこれを半ば公然と認めていました。だから荒川宿の夜は軒行灯の灯色を映らせて、遊女屋から流れる三味線の音や酒盛りのざれ唄が、そこかしこに聞こえて「女なくして何の道中かなし」といった、宿場独特の情緒で夜が明けたといいます。一方、近辺で農業を専業とする者も、農業の合間には問屋の荷担ぎ人足や宿場雑務に雇われ賃金を得たので、他村に比べて経済的に恵まれていました。半面、宿場特有の女と酒、賭博に身を持ち崩し、先祖伝来の田畑を失う者もいたといいます。  宿通り(荒川沖派出所から西1丁目)の佐野屋、二六屋、荒井屋、おおぎ屋 松屋、岡本屋、鶴屋などの屋号は、そうした往時の繁昌した宿場商店の名残りです。

(以上「」HP参照)

    
                     (9:38)郵便局の隣にある茅葺き屋根の建物。「旅籠佐野屋」。

                     その先にも立派な藁葺き屋根の建物。「鶴町たばこ店」。
    

立派な門構えに大きな敷地のおうちがチラホラ。

宿場の外れ、「国道6号線」に合流する手前には診療所の大きな洋風建築。
          

宿内を振り返って望む。

(9:45)国道6号線に合流します。

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