おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京急「六郷土手駅」~京急大師線「小島新田駅」。その7。「多摩川スカイブリッジ」を渡る。都県境の真上。京急・大師線。鈴木町。(「都県境を探ってみる」。第22回目)

2023-05-20 21:18:28 | 都県境を探ってみる

遊歩道から階段を上がり、橋の上に出ます。

                     車道と歩道、自転車道と区分され歩きやすい。

   上流方向。

現在地を示す標識。けっこう設置されています。

河口側。ほぼ都県境の上で。

振り返る。橋の全長、約675メートル。

          バス、自家用車、自転車、歩行者とけっこう行き来があります。

羽田空港方面。

川崎市側。

             右手奥に「多摩川河口」碑があるはずです。

        

まもなく川崎市側橋詰。

                 このまま渡り終えてしまうのは、もったいない感じ。

交通の便利さの他、観光名所になること間違いなし!

「多摩川スカイブリッジ」。

               

案内板。都県境が川の中央に。

「多摩川スカイブリッジ」を振り返る。

京急大師線の終点「小島新田駅」に向かいます。この先、もう少し歩きそうです。

久々に川崎市のマンホール。

                 

                この地域には、こうした医薬関連の施設が建っています。

幹線道路脇に貨物の引込線。 

貨物線沿いに駅へ向かいます。

跨線橋から。

          日本貨物鉄道関東支社川崎車両所。

 

付近の案内図。 

「京急川崎駅」まで。

ところで、

京急・大師線 (「Wikipedia」より)

 京浜急行電鉄のルーツ。当初は川崎大師への参詣路線として建設され、1899年に開業した。営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのもの。
 人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れも3年後の1902年に果たした。なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1926年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。
 海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収された上に1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 産業道路駅間とほぼ一致しているが、産業道路駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である。
 同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参詣客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。 開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
 太平洋戦争中は陸上交通事業調整法により東京急行電鉄の運営となり、防諜上の理由により一部駅名を変更した。また、工業地帯への通勤輸送を担うため、海岸電気軌道の廃線跡を一部活用して桜本駅まで延伸された。
 戦後、京浜急行電鉄として独立後の1952年に塩浜駅 - 桜本駅間を川崎市交通局(当時は交通部)に譲渡し、1964年には国鉄塩浜操車場駅(現在の川崎貨物駅)建設のため小島新田駅 - 塩浜駅が休止され、1970年に正式に廃止、現在の路線が確定した。

上記にもあるように、小島新田駅から塩浜駅、さらに桜本駅まで市電の路線があったのですが、それらは廃線となりました。その廃線跡を訪ねて、「小島新田駅」から歩いたことがあります。

途中、「鈴木町」駅。

              周囲には、「味の素」の工場が集中しています。

味の素グループの川崎工場は、京急大師線の鈴木町駅前から広がる鈴木町という街にあります。その鈴木町という地名、実は創業者・鈴木三郎助の名前に由来しています。
ここが「味の素®」の工場用地となったのは1913年のこと。創業当時の工場は神奈川県逗子市にありましたが、製品に確かな需要を感じていた鈴木三郎助は、大きな河川が近く、なだらかで運送の利便さに恵まれた土地で大規模な生産設備の建設を計画。わずか1年後となる1914年9月1日には操業を開始。そして1917年、味の素グループの前身となる「株式会社鈴木商店」を設立しました。

川崎工場は、1923年の関東大震災によって一度は崩壊したものの、二代目鈴木三郎助の機転と努力によって再建し、翌年には操業を再開。創業者の名前にちなみ、この地が「鈴木町」と呼ばれるようになりました。
味の素グループ川崎工場の工場見学では、各見学コースのクルーによってこうした歴史や知られざるエピソードが語られることも。鈴木町の明るくのどかな雰囲気をぜひ味わってみてください。 

(この項、「」HPより)

 

                                       (「今昔マップ」より) 

都県境は南に大きく迂回し、この地域は荏原郡六郷村(現東京都大田区)に所属していた。

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