hiro’s

僕は何のために生まれてきたの?
誰かのために力になれてるかな?
思うことを言葉にしてみよう

53歳

2023-03-26 18:14:28 | 日記
そういえば53歳になったんだ。
バタバタしているうちに誕生日を迎え、Facebookにメッセージと、元妻からのテンプレートメール。

僕は4日前の元妻の誕生日を初めて忘れた。メッセージを送らなかったことを、返信に載せて詫びた。

環境は大きく変わった。

時間が出来た。
親父が逝ってから3週間ぐらいか。
落ち着いたとは言い難いが、こんなに時間がある生活は今まで経験したことがあるのか?

夜はまだまだショートスリーパーだけど、身体は楽になっているはず。まあ、これが普通なんだろうけど。
リセットしなさいということか。

親父、そういうことだよな。

あまりのんぴりも性に合わないので、2週間ぐらいかけて店の看板を作っていた。予算は5000円ほどか。ホームセンターで板とペンキを買って、今朝完成した。
今日はあいにくの雨。
それもいい、雨風に立ち向かう思いで、親父の作った庭の隅にぶっ建てた。

何かをすれば、環境は動きだす。
近くの公衆浴場で成しえなかった、地元への恩返しはここで出来るかもしれない。

それも楽しもう。

今になって疲れを感じる。
リセットしないとな。

53になっても、TOUGH & WILD。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葬儀

2023-03-23 21:57:56 | 日記


お袋の79回目の誕生日である3月7日、
親父の葬儀を行った。

人生2回目の喪主。

以前からお袋と相談して、コロナ禍でもあるし、親父の葬儀は家族葬で行おうと決めていたが、このセレモニーホールのスタッフは、親父の生前の人脈を考えると弔問客が多数考えられるので、焼香はしてもらった方が良いとのアドバイスをしてくれた。自宅に多数来られると、休まる暇が無くて大変とのこと。新聞にお悔やみを掲載すると、それは免れられないと。

親父の親族は車で3時間弱掛けて来る。
なので、11時から一般弔問を始め、焼香して帰っていただき、12時半から親族のみで告別式。14時から火葬して、1日で全て終わらせる方式をとった。

こちらの地方では先に火葬してしまうのが通例だが、今回は弔問客が親父と対面してお別れできるという、関東方式。これは実際にやってみると好評だった。

写真はデイサービスに通っていた頃の71歳の誕生日の色紙に使用されたもの。今の技術は凄いねぇ。色鮮やかに甦らせた。

棺にはスーツとトレードマークの帽子。あとはたくさんの花で埋めた。何となく喜んだ風の顔に見えた。

何が嬉しかったって、息子がカナダから一時帰国してくれたこと。葬儀前日の最終の新幹線で到着した。

娘は就活の都合で調整が難しく、無理はさせなかった。

次男坊の母にも連絡しておいたが、先だって僕が外出している間に、安直してある家族部屋に来てくれた。

長男には感動した。さすがというところである。

僕の勤め先からも、30人分以上の香典を預かって、iさんとN沢さんが夜勤明けで来てくれた。

お袋方の親戚、親父方の親戚、東京方面からの親戚の方々、地元の皆さん、多くの人々に見送られ、最後、火葬場へ。

また息子と並んで、棺を送った。
20年前を思い出す。あの時は息子に手を振ってもらったものだ。

あの頑固な親父が、遂に骨になった。
設備が良いのか、骨が頑丈なのか、大腿骨などもそのまま形が残っていた。硬縮して伸びなくなっていた脚も真っ直ぐに伸びて出てきた。

あんなに嫌なことが沢山あった親父だが、死んでしまって骨と遺影と位牌になると、仏さまだなぁ。

難しい感情は消えていく。

喪主の仕事もほぼ終わり、今頃僕は疲れている。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月3日

2023-03-21 21:57:50 | 日記
この日の前日、親父の施設から電話があった。
「血圧が上がらないから面会に来ても良いですよ。」
折々にこんな電話があった。
コロナ禍でもあり、普段は抗体検査でマイナスにならないと面会は許されない。
その都度、お袋が対応していた。
僕はこの日は、自分のメンテナンスに向かっていた。森ランドから全て引き上げて、部屋も片づかないまま、久しぶりのメンテナンスだった。僕は120分、悲鳴をあげていた。

お袋に電話すると、状態は落ち着いてきたとのこと。皆、疲れきっていた。

翌、3月3日は僕な休みだった、
何をしていたのかは覚えていないが、確か次の温泉施設を模索していたはずだ。

夕方、17時ぐらいだろうか、また施設から電話があった。

「今、心臓が止まりました。病院から先生が来ますので、こちらに向かってください。」

3月3日 18:00 親父、死亡確認。

まだ温かった。
僕は「お疲れさま、頑張ったな」と、顔を撫でた。家族が揃うと、親父は嬉しそうだった。

この街で一番のホテルを改装した施設の、客室のような部屋で、親父は旅立って行ったのだ。

日中はお袋が長い時間、面会に訪れていて、「バイバイ」と言うお袋に、布団の中から手を振っていたようだ。

家には連れて帰らず、そのままセレモニーホールへ。迎えに来たスタッフは、その昔、この夫婦に色々友人葬のことを教わった人だった。

縁というのは不思議なものである。

この日から4泊、僕は親父と共にいた。

最期は食事も満足に摂れなかったが、アイスクリームを少し含んだ後、そのまま逝ったとのこと。苦しむことも無かったことは、お袋が願った「自然のまま、苦しまず」の通りだった。

去り際は格好良かったな。
僕はそう思った。

5月には81歳だった。
行年、82歳と位牌には記された。

今日、この日まで書けなかった。
書きたいことは、たくさんあるのに。

5月3日に生まれた親父は、
3月3日に亡くなり、
妻の誕生日である3月7日に皆に送られた。

親父、お疲れさま。
ありがとう。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする