チホーの生活の知恵

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それからのハンニバルとスキピオ (同 ⑮)

2007-05-03 15:02:40 | Weblog
ハンニバルの記述の順番を整理しようとしましたら、一寸間違って返って順番を間違ってしまって、入れ替え差し替えと混乱しました。
というのは、今まで書いたものは基本的には年代別ですが、同時進行してた部分もあるので勘違いしてしまった訳です。
今後、ハンニバルはギリシャに渡り、その後シリアに行ってローマ軍と戦闘しますが今までのようには活躍できません。
一方、スキピオの方は「アフリカヌス」(敬称、アフリカを制した偉大な人という意味か?)と冠して呼ばれてローマの第一人者になります。
しかしながら、兄の公金使い込みの嫌疑で元老院のアジテイター・カトー(加藤ではありません)に追及をされ、紀元前187年に失脚します。
失脚後、間も無く病死します。


だから、今後の二人の行動を追っても面白いかどうかは疑問です。
ただ、歴史に興味のある人はジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)~オクタビアヌスの時代までは面白いと思います。

↓(①から順番に読んでね)

ザマの会戦 (同 ⑭)

2007-05-03 10:13:10 | Weblog
「ザマ」の名前は地名から名づけたものと思われます。

戦力は次の通り。

ローマ連合軍
歩兵3万4千 騎兵6千 合計 4万

カルタゴ連合軍(マケドニアからの傭兵もあった)
歩兵4万6千 騎兵4千 合計 5万 他 象80頭

兵士の総合数ではハンニバル軍が勝っていたが、兵士の質はローマ軍の方が上であった。
また、騎兵の戦力はローマ連合軍が2千騎勝っていた。

もともとイタリアでは馬はあまりおらず、戦争でも使われなかった。
伝統的なローマ軍の戦法は「重装歩兵団」である。
その為、イタリア地内にてハンニバル軍が圧倒したのは騎兵の存在が大きかった。
したがって、ザマの戦場では歩兵と騎兵の比率が逆転していた。
ハンニバル自身はこの事実に気付いていた。

[ハンニバル軍の布陣]
最前線  象80頭
二列目  歩兵1万2千(傭兵)
三列目  歩兵1万9千(カルタゴ市民兵と傭兵)
両翼 2千騎ずつの騎兵

[スキピオ軍の布陣]
最前線  軽装歩兵
次に重装歩兵が三段続く
騎兵は両脇に三千ずつ
ここで注意すべきことは、三段の重装歩兵は縦一列であったが、軽装歩兵は重装歩兵とはオフセット状態で配列したことである。
つまり、重装歩兵の前方に軽装歩兵を配列せずに、重装歩兵と重装歩兵の間の空間の前方に軽装歩兵を配置したのである。
そのことは、相手側のハンニバル軍からは分からなかった。但し、兵隊が少し横に広がって見えたかも知れない。

[戦端]
ローマ軍の左右の騎兵の突撃と、ハンニバル軍の象の出撃によって始められた。
象が突進して間近に迫ったときに、軽装歩兵は像の進路を避けて左右の重装歩兵の間に割り込んだ。
象の直前に空白ができて、象は歩兵団の間を通過しただけの結果になった。
象という動物は一旦走ると「ドー~にも止まらない♪」という性格らしい。
通過してしまった象は投槍を浴びて完全に戦線から脱落した。

[経過]
中央ではローマ軍が数では劣勢だったが、兵士の質が高いので優勢に押した。
両翼の騎兵は数の面でも優勢なローマ軍が圧倒し、カルタゴ軍は徐々に敗走し始めた。
この機に、ローマ軍は正面のみならず、カルタゴ軍の空いた両脇をも重装歩兵に攻めさせた。
カルタゴ軍歩兵は三方から攻められ逃げることはできない。後方にはハンニバルのベテラン1万5千が塞いでいた。
それでも、カルタゴ兵は隊列を崩してまで逃げようとするものが続出した。
この時、ハンニバルは子飼いの1万5千兵に前進を命じた。

これに対して、スキピオは陣形の建て直しを命じた。
具体的には、負傷兵を後方に運び出して、敵兵の死体を両脇に片付けた。
次に縦方向だった歩兵の隊列を横方向に広げた。
数では既に勝っていたため、前進するカルタゴ軍を包み込むような陣形に変えた。
包囲網を完成したときに、敵騎兵を撃破した騎馬隊が戦場に戻ってきた。
1万5千のハンニバル子飼いの兵士はザマで全滅した。

[結果]

カルタゴ兵の戦死者合計2万強、捕虜2万。
ローマ軍 戦死者 千五百。
ハンニバル自身は逃走した。そして首都カルタゴに帰った。
そして、再度の両国の講和条約の内容が討議されることとなるのであった。

(この時代は、戦争が終わっても戦勝国の都合の良い裁判をしなかったのでA級戦犯とかは出ませんでした。カルタゴ側の交渉の主席代表はなんとハンニバル本人だったのである。「戦争と犯罪とは違う」という考えが普通だったのだろう。敗戦国の日本としては考えさせられます。現代社会に対する意見を当時のスキピオやハンニバルに聞けるのであれば知りたいですね)

5月3日にリセット


ハンニバル帰国後 (同 ⑬)

2007-05-03 10:12:33 | Weblog
(前回の記述の間違いは一部削除しました。第三次ポエニ戦争はこれから54年後の紀元前149年に始まるのです。したがって、第二次ポエニ戦争はまだ終わっておりません)

休戦中に事故が発生した。
スキピオの元に送られてきた補給船団が嵐に会って首都カルタゴの近くに避難した。
カルタゴ人はなんと、その船を奪い首都の港に曳航したのだ。
これを聞いたスキピオは直ちに抗議を送り返還を要求した。
カルタゴ政府内で議論が割れているときに、ハンンバルのカルタゴ到着の知らせがあった。
これが、カルタゴ人を強気にした。
スキピオも再戦争の準備をし始めた。

ハンニバルもカルタゴから南東100キロの「ハドゥルメトゥム」にて戦争の準備をしていた。
翌年の紀元前202年春には、歩兵4万6千・騎兵4千・八十頭の象の軍隊が終結した。
ただ騎兵の質が落ちており、数も充分とはいえなかった。

一方、スキピオの手持ちの兵は3万であり、このままではハンニバル軍と交戦するには不十分であった。
友人である「ヌミディア王」のマシニッサに援軍を求めた所「歩兵6千と騎兵4千で参戦する」と返答してきた。

ここで3軍の位置関係を説明すると次の通り。
スキピオの軍隊を三角形の上の頂点とすれば、ハンニバル軍の位置は右下の角であり、ヌメィデア王国は西側だったのでマニシッサの軍隊は左下の角付近から東に進む訳である。

これでは、ハンニバル軍としては「相手の両軍が合流する前にその間に割って入り「各個撃破」の戦略であろうし、スキピオ軍とすれば「少しでも早くヌメディア軍に合流したい」ではなかったかと思われる。

その為、両軍もヌメィデア軍の方向に向けて軍隊の移動を急がせた。
行軍の速度はスキピオ軍の方が速かった。理由は軍勢が少なかった事と象が居なかったためである。

紀元前202年秋、史上有名な「ザマの会戦」の前日、ハンニバルよりの申し入れで両軍のトップ会談がなされた。

ハンニバルの口上の概要。
「両国が外に出たのが間違いだった。
しかし、それは過去のこと。問題は現在だ。
危険な賭けを回避したいなら、両国間の争いをやめるしかない。
もしあなたが勝利者になっても、あなたの名声があがる訳でもない。
反対にもしあなたが敗者になったら、これまでのスキピオの輝かしい戦歴は無に消すだけではなく、あなた自身の破滅にもなるだろう」

スキピオの口上の概要。
「この戦争を始めたのはローマ人ではなく、カルタゴ側であった。
『運が変わりやすいこと』は知っている。
もし、自発的にイタリアから退去していたら、今の提案は満足できたかも知れない。
講和の条件は提示したものから変えるわけにはいかない。
あなたに『明日の会戦の準備をすすめること』しかわたしにはできない」

こうして、『ザマの会戦』は地中海世界の将来を決する戦いになるのだった。


講和とハンニバルの帰国 (同 ⑫)

2007-05-03 10:12:05 | Weblog
カルタゴ政府は完全にパニックに陥った。
政府内でも意見は分かれたが、列記すると次の通り。

①ローマの軍船の攻撃。
②篭城戦
③講和
④ハンニバルを呼び戻してローマ軍と闘わせる。

スキピオの提示した講和の条項。

1、ローマはカルタゴの自主独立と自治権を認める。

2、イタリアとガリア以南のカルタゴ兵は全員が退去すること。(ハンニバルの退去を当然含む)

3、スペインでのカルタゴ利権の完全放棄。

4、マシニッサの王国を認める。

5、20隻を除く軍船をローマ側に手渡すこと。

6、講和の交渉の期間中、カルタゴはアフリカに居るローマ軍の兵糧をまかなう。

7、賠償金として、5千タレントをローマに支払う。
(カルタゴの農業の年間収益1万2千タレント→非常に軽い負担)

ローマは敗戦国に対してはどの国に対しても「忍耐と寛容」で臨んだようです。


[ハンニバル帰還す]

本国より帰還を命じられたハンニバルはイタリアに侵攻してから16年が経過していた。(29歳から44歳)
2万6千人の兵士から精鋭1万5千人だけを連れて行くことにした。

(喉元過ぎればなんとかで、ハンニバルが帰還した後にカルタゴ政府は強気に転換します)


5月2日にリセット

ローマ軍 VS カルタゴ連合軍 (同 ⑪)

2007-05-03 10:11:26 | Weblog
1、夜襲。

ローマ軍は夜襲という奇襲はハンニバル以前はしなかった。
しかし、時代は変わった。
2万6千で9万3千に直接会戦は無謀である。

約10キロ離れた敵の陣営を午前3時頃に襲った。
敵の陣営地は木材と葦で造られており燃えやすかった。
火矢よって陣営はたちまち燃え上がった。
この夜襲によって、カルタゴ連合軍は3万人死んだ。


2、会戦

春の終わりになって、カルタゴ連合軍は再軍備をした。
戦力はカルタゴ単独で3万、ヌミディアは参戦したが兵数は激減していた。
定石と違って、スキピオは騎兵を先攻させた。
ヌミディア騎兵は思わず後退した際に、カルタゴ連合軍の両脇は空白となった。
この機に、スキピオはカルタゴ軍の両脇に待機していた歩兵を当てた。
三方を囲まれた敵の歩兵は屍の山を築いた。

カルタゴの司令官・ジスコーネはカルタゴに何とか逃げ戻った。
残りのカルタゴ連合軍は敗走したが、ヌミディア王・シファンチェはローマ軍の捕虜となった。
変わりに、スキピオの友人マシニッサがヌミディアの新しい王となった。

こうして、ローマ連合軍はカルタゴ連合軍に対して完全勝利した。


ローマ軍・スキピオ、アフリカ上陸す(同 ⑨)

2007-05-03 10:10:40 | Weblog
紀元前204年春、スキピオは2万6千の兵士と440隻の船隊にて出航した。
首都カルタゴの西側に目指していたが、風向きの影響で東側の第二の都市「ウイッカ」近くに到着して上陸した。
上陸後の経過は悪い情報ばかりであった。

まず、カルタゴの隣国の「ヌミディア王・シファチェ」に同盟を申し出たところ、カルタゴ側についたという知らせが入ったのである。
もう一人のヌミディア王の「マシニッサ」だが、シファチェに王国を侵略され、二つの王国は事実上一王国しかないのと同然であった。
200騎のみを従えてマシニッサはスキピオの前に現れた。
スキピオは内心落胆していたが、「それで充分だ」と微笑んで答えた。
ここに二人の友情が生まれた。(ここがハンニバルとの大きな違いです)
また、長年行動を一緒にしてきた「「レリウス」も加えた。
ここに男三人の共同作戦が実現した。

カルタゴ側の反応は鈍かった。
今まで他国に侵略されたことのない国は、迎え撃つ軍の編成に数ヶ月を要した。

同年秋ごろに、ようやくカルタゴ軍3万千とヌミディア軍6万の共闘体制はなった。
これでは、戦闘は翌年になるということでもあった。(冬は戦争をしないらしい)
予想される兵員はスピキオ軍2万6千 VS カルタゴ連合軍9万3千であった。
これでは兵数では差がありすぎる。
スキピオは「ヌミデッア王・シファチェ」に名誉ある講和の仲介を望んでいると匂わせて依頼した。
実は、スペインでのカルタゴ相手の戦争の時、シファチェに対してカルタゴの武将の娘の絶世の美女を紹介して妻となっているのである。
また、シファチェ自身は義理で戦争に参加しているのであり、強大国2国の戦争には参加したくはないという本心であった。
一方スペインで「イリパの会戦」でスキピオに惨敗したカルタゴの将軍「ジスコーネ」も戦いに乗り気ではなかった。

講和の交渉は長引き、翌年の春にスキピオの方から交渉は打ち切りした。

[追記]

当時の北アフリカは現在と違って、緑豊かな肥沃した土地だったと記録されています。
サハラ砂漠も小さかったのかな?





居座るハンニバルと割れるローマ政界の言論(同⑧)

2007-05-03 10:10:14 | Weblog
紀元前206年冬、スキピオは4年ぶりに帰国した。
しかし、ハンニバル軍は相変わらずイタリアの南部に居座っていた。

これに対するスキピオの意見の要旨は次の通りである。
「これからはローマがカルタゴに戦いをする。
ハンニバルがイタリアでやってきたことと同じことを、ローマ人がアフリカでやるのです。
敵の本拠地を攻撃するのがいかに有効であるかは、ハンニバルが実証してくれたからです」

これに対してローマの元老院の第一人者である70歳のファビウスはこう言った。
「お若いの、まずやるべきことはイタリアに平和を取り戻すこと。アフリカに行って戦うのは、その後のことだ」と。

元老院の議場の賛同の空気は五分五分であった。
高齢者はファビウスに賛同し、若い議員はスキピオに賛同した。
結果、折衷的な妥協が成立した。

スキピオの任地はローマの属州である、シチリア島に決まった。(映画「ゴッドファーザー」の故郷)
そして、次年度であればアフリカに向かう権利も認められた。
但し、これはスキピオの個人的な権利であり、正式な官職=執政官(参謀長クラス?)の権利は与えられなかった。
普通の司令官の職であった
(費用は与えるので傭兵を雇って勝手にアフリカに行っても良いが、責任は元老院にはない、という意味)
紀元前205年、30歳になった「お若い人」はシチリア島に発った。


[追記]

シチリア島は思ったより大きな島ですね。
日本の四国より大きいですね。
シチリア 面積 約25700平方キロ  現在の人口 約509万人
四国   面積 約18800平方キロ  人口  約400万人

また、当時は現在の様に乾燥しておらず、肥沃な土地であり小麦の出荷量が多かったと記録されています。






ローマ軍 スペインに侵攻 (同 ⑦)

2007-05-03 10:09:22 | Weblog
「攻撃は最大の防御である」とはよく言ったものである。

仮にイタリア地内にてハンニバル軍・カルタゴ軍に勝ったとしても、これはあくまでも本土防衛戦に成功したということにしかならない。
その防衛すらままならないローマ連合にとって、カルタゴの植民地であるスペインにおける戦線が差し詰まってきた。
というのは、前に書いたイタリアに侵攻したハンニバルの弟のハシュドゥバルが前207年に戦死したことを受けて、スペインのカルタゴ軍は総力をあげて反撃に出ることを決意した。
スペインにおけるカルタゴの戦力は総勢7万4千からなる大軍であった。(現地の傭兵含む)

これに対しローマ軍の司令官は29歳の天才的な武将「プブリウス・コルネリウス・スキピオ」であった。
総勢4万8千の兵力(歩兵4万5千・騎兵3千)で、南フランスの海岸沿いに西に向けてゆっくりと進攻した。

[イリパの会戦]

カルタゴ兵全線戦で正面に突き進む。
ローマ軍は主力の重装歩兵団は敵の両翼の歩兵を攻撃す。
カルタゴ軍の象はローマ軍の放つ矢を浴びて、怒り狂って敵に向かうどころか味方の騎兵に乱入。
ローマ軍騎兵がカルタゴ軍の騎兵に向けて攻撃。
徐々にカルタゴ兵疲労す。
カルタゴ軍の傭兵の逃走始まる。
カルタゴ軍総崩れとなり、敗走しはじめる。
逃げ切れたカルタゴ兵はたかだか6千であった。

紀元前206年の冬、スペインはカルタゴの植民地から解放されローマ連合国の支配下となった。
(後年、スペインもローマ連合の同盟国となる)



ハンニバルの援軍壊滅す!(同 ⑥)

2007-05-03 07:39:31 | Weblog
紀元前207年春、スペインの司令官だったハンニバルの弟のハシュドゥルバルがガリアの傭兵3万を加えて総勢5万の兵にて北イタリアに入った。
この時、ハンニバルは40歳になり、弟は30代であった。
ハンニバルの戦隊は南イタリアで一進一退の状況であった。

北よりイタリアに入ったハシュドゥルバルは南イタリアの兄と合流の必要性があった。
兄のハンニバルは「いずれ弟の戦隊が北から到着する」ことは知っていたが、当時は携帯電話などない時代である。
情報は手紙しかない。
弟はポー河付近にて兄に手紙を送った。
6人の騎士に持たせた手紙には合流予定地が記載されていた。

ところが6人はローマ側に捕らえられ、手紙はイタリア南部司令官のネオに届けられた。
(まるで、明智光秀の毛利軍宛の手紙が秀吉に渡った状況と似ていますね)
ネオは精兵7千を率いて、夜間にひっそりと北上し、北部方面司令官リヴィウス率いる3万の戦隊と合流した。
(合計3万7千)

[メタウロ会戦]

戦場は崖に挟まれた狭い一帯である。
数ではカルタゴ軍が優っていたが、地形がローマ軍に有利に働いた。
前線では五分五分であったが、これを見たネオ司令官率いる7千の精兵は戦線を離れ、味方の背後を迂回して敵の右翼を突いた。
これがきっかけでまずガリア兵が総崩れとなり、スペインから従えて来た3万の兵が全滅した。
ハシュドゥバル自身も戦死した。

ハンニバルが全てを知ったのは、敵兵より投げ込まれた包みによってであった。
包みの中から弟の生首が現れた。
以後、ハンニバルは南イタリアの「長靴の先端」にこもったきり、2年間出てこなかった。

[当時、スペインはカルタゴの植民地であった]
[カルタゴとはフェニキア人が築いた都市国家である。]
[フェニキア人とは、現在のレバノン付近に住んでいた人種であるがはっきりしない。レバノン人の祖先か? ]
[ガリア人とは今のフランス人の祖先と考えて良いと思います]

5月1日にリセット



ハンニバル将軍 VS ラオウ(同 ⑤)

2007-05-03 07:37:36 | Weblog
[閑話休題]

ハンニバル将軍の外貌は写真が残っている訳ではありませんので、詳しいことは分かりません。

でも、イメージとして書かれた挿絵なんかを見ますと「北斗の拳」の「ラオウ」にどことなく似ています。
ラオウほどゴッツイ感じではなく、少しスリムにした感じです。
そして、少し悲しんでいるようなイメージで描かれています。

そう言えば、ラオウも闘争の鬼神でしたね。
ハンニバル将軍は軍の司令官としても天才であり、軍略家でもありました。
また政治家としても卓越していたと歴史家は言っているようです。

一寸戻りますが、紀元前216年の「カンネの会戦」は陸軍士官学校ならば世界中どこでも学習します。
もちろん、イラク戦争に参戦した参加国の司令官クラスは誰でも知っているはずです。