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ハンニバル帰国後 (同 ⑬)

2007-05-03 10:12:33 | Weblog
(前回の記述の間違いは一部削除しました。第三次ポエニ戦争はこれから54年後の紀元前149年に始まるのです。したがって、第二次ポエニ戦争はまだ終わっておりません)

休戦中に事故が発生した。
スキピオの元に送られてきた補給船団が嵐に会って首都カルタゴの近くに避難した。
カルタゴ人はなんと、その船を奪い首都の港に曳航したのだ。
これを聞いたスキピオは直ちに抗議を送り返還を要求した。
カルタゴ政府内で議論が割れているときに、ハンンバルのカルタゴ到着の知らせがあった。
これが、カルタゴ人を強気にした。
スキピオも再戦争の準備をし始めた。

ハンニバルもカルタゴから南東100キロの「ハドゥルメトゥム」にて戦争の準備をしていた。
翌年の紀元前202年春には、歩兵4万6千・騎兵4千・八十頭の象の軍隊が終結した。
ただ騎兵の質が落ちており、数も充分とはいえなかった。

一方、スキピオの手持ちの兵は3万であり、このままではハンニバル軍と交戦するには不十分であった。
友人である「ヌミディア王」のマシニッサに援軍を求めた所「歩兵6千と騎兵4千で参戦する」と返答してきた。

ここで3軍の位置関係を説明すると次の通り。
スキピオの軍隊を三角形の上の頂点とすれば、ハンニバル軍の位置は右下の角であり、ヌメィデア王国は西側だったのでマニシッサの軍隊は左下の角付近から東に進む訳である。

これでは、ハンニバル軍としては「相手の両軍が合流する前にその間に割って入り「各個撃破」の戦略であろうし、スキピオ軍とすれば「少しでも早くヌメディア軍に合流したい」ではなかったかと思われる。

その為、両軍もヌメィデア軍の方向に向けて軍隊の移動を急がせた。
行軍の速度はスキピオ軍の方が速かった。理由は軍勢が少なかった事と象が居なかったためである。

紀元前202年秋、史上有名な「ザマの会戦」の前日、ハンニバルよりの申し入れで両軍のトップ会談がなされた。

ハンニバルの口上の概要。
「両国が外に出たのが間違いだった。
しかし、それは過去のこと。問題は現在だ。
危険な賭けを回避したいなら、両国間の争いをやめるしかない。
もしあなたが勝利者になっても、あなたの名声があがる訳でもない。
反対にもしあなたが敗者になったら、これまでのスキピオの輝かしい戦歴は無に消すだけではなく、あなた自身の破滅にもなるだろう」

スキピオの口上の概要。
「この戦争を始めたのはローマ人ではなく、カルタゴ側であった。
『運が変わりやすいこと』は知っている。
もし、自発的にイタリアから退去していたら、今の提案は満足できたかも知れない。
講和の条件は提示したものから変えるわけにはいかない。
あなたに『明日の会戦の準備をすすめること』しかわたしにはできない」

こうして、『ザマの会戦』は地中海世界の将来を決する戦いになるのだった。


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