チホーの生活の知恵

良い人生を過ごす為のコメント。
日常生活・健康・仕事・利殖・etc..

巡査部長は管理職か?

2007-05-14 20:12:50 | Weblog
最近の事件で「巡査部長」の名前が出てきましたが、民間の会社の部長クラスと勘違いして批判しているブログがありました。

漫画の「こち亀」や映画などを見て「部長は管理職」と誤解している人がいますね。

「巡査部長」とは民間の会社でいえば、下から2番目に当たる「主任」になります。
ですから、警察官同士では「○○主任」と呼んでいます。
巡査部長の下の階級は普通の「巡査」しかいません。
会社でいえば平社員です。

「巡査部長」の上は「警部補」であり、仲間同士であれば「○○係長」と呼んでいます。
「警部補」の上は「警部」であり、「課長」と呼ばれています。
そして、警部から上が管理職になります。

その上が「警視」であり、小さな警察署の署長クラスになります。
また、部門別の「部長」にもなります。
(例えば、刑事部長、交通部長、など)
部門別の部長と「巡査部長」とは同じ部長でも全く違います。
その上が「警視正」であり、大きな警察署の署長クラスになります。

普通の人が警察官になった場合、定年までは何とか警部補まではなれますが、警部には中々成れないみたいです。

漫画の「こち亀」みたいに、署長クラスの人や本当の部長クラスの人は交番なんかには絶対来ません。
なお、交番勤務の人は直接交番に出勤するのではなく、一旦本署(管轄の警察署)に出勤した後に交番に出向く訳です。
(但し、山奥などの「駐在所」は別です)

なお、地方の県の警察のトップは「県警本部長」ですから、警察には3種類の「部長」がある訳ですね。
なんか、ややこしいですね。。


ふケツな話(食事前には読まないで下さい)

2007-05-12 18:32:01 | Weblog
世界中を航海した船員さんに聞いたんですけれど、ちょっとふケツで信じられない話なんです。

「アメリカ人(アングロサクソン)はトイレで大○と小便を同時にできない」
というものです。
どうしてそんな下の話になったのかはシリませんが、日本人の船員さんが
「そんなことは絶対あり得ない、大○をした時に同時に小便も出る」
と反論したところ、アメリカ人もむきになって、
「それはあり得ない、嘘を言うな!」
と喧嘩になりそうになりました。

その為、やむを得ず日本人の船員さんが実験することになったのです。
そうして、トイレの戸を開けて見えるように屈んで大○と小便を同時にしたところ、
「信じられない!」と叫んだとか。

この話は事実なのでしょうか?
もし、事実であればアメリカ人は
「大○を出しているときは、小便は出ない」ということになります。

まさしく、ある様なない様なお話でした。



天海僧正=明智光秀か?

2007-05-05 18:12:10 | Weblog
漫画「あずみ」に徳川幕府のブレーンとして「天海僧正」が出てきますよね。
この人は架空の人物ではなく、実在した人なんです。
徳川幕府のブレーンであったことも間違いはなく、家康・秀忠・家光、の三代に渡って仕えます。
但し、出生地や幼いときの経歴は不明であり、歴史上表に出てくるのは1588年秀吉の北条攻めの時に初めて家康の陣幕に居たといわれています。

一方、明智光秀は1582年6月2日未明、本能寺に信長を攻め天下を奪います。
しかし、中国より電光石火戻った秀吉連合軍により、6月13日「山崎の戦い」によって敗れます。
以後、近江の坂本城に戻る途上、小栗栖の竹薮にて土民に襲撃されて深傷を負い部下の介錯で自害したと伝えられています。
その後、光秀の首は土民の手によって秀吉の元に運ばれましたが、著しく腐乱しており判別は不可能だったといわれます。
それでも、秀吉としては「光秀死亡す」の既成事実の情報だけでもあれば充分でした。
このことから考えても、竹薮で光秀が本当に死亡したのかは疑問が残ります。

また、光秀が死亡した年から6年目に初めて天海僧正が歴史舞台に登場します。
そのため、かなり以前から「光秀=天海」説はあったのですが、学者や作家の間では、
「この虚構は光秀への愛惜から生まれたものだということに変わりはない」(新人物往来社、別冊歴史読本、1989年・11月号、作家・中島道子)の虚構である考えが主流でした。
まぁ、確かに源義経=ジンギスハーンという「とんでも伝説」があるくらいですから、普通の学者や作家が信憑性を疑うのは当然でした。

しかし、その後2000年頃より色々と状況証拠が出てきてテレビでも放映されました。
その状況証拠はたくさんあって書ききれませんが、主たるものは次の通りです。

①日光東照宮の建物に明智家の「桔梗の紋」が残っている。
②三代目将軍の家光の乳母は「春日局」であるが、本名を「お福」といい、光秀の妹の子供である。つまり、光秀はお福の伯父にあたる。
③光秀は織田信長時代から朝廷と密接である。

一方で双方の筆跡鑑定の結果、「少し似ている部分もあるが、別人である」との見方もある。(2000年8月6日、「日立・世界ふしぎ発見!」より)
しかしながら、権力のある人は良く「代書人に手紙を書かせてサインは自分」という例は珍しくないのです。
特に織田信長の若き頃は、「代書人に偽の手紙を書かせて、今川家の家臣の謀反の書状を作った」ことは有名です。
光秀が土民に殺された年齢は55歳くらいといわれていますが、天海が徳川家に仕えた年が<60歳~106歳>となれば、矛盾はないと思われます。

どちらにしろ、何が本当かの決定的な証拠は出てこないでしょう。
このように歴史はミステリーであるゆえ、面白いのではないでしょうか。。


佐々成政のアルプス越え

2007-05-04 14:33:02 | Weblog
日本でもアルプス越えをした武将が居ますね。

織田信長亡き後、秀吉連合軍と家康枢軸国が対立し、「小牧・長久手の戦い」以後も双方は対立していました。
家康枢軸国とは家康以外には「織田信雄(信長の次男・清洲の城主)」と「佐々成政・越中富山の城主」でした。
織田信雄としては「父親の信長と長男の信忠亡き後は、次男の自分が織田家の後継者」と思っていましたが、
秀吉が我が物顔で居ることに我慢できなかったのです。
(なお、信長の長男信忠は本能寺の変で既に死亡していた)
一方、家康としては秀吉と戦う大儀名分として信雄の要請に応じて参戦したのでした。
ところが、1584年12月に佐々成政が末森城で前田利家軍と戦闘中に「秀吉と信雄が講和す」とのニュースが突然入り驚きました。
なぜなら、雪が解ければ春には秀吉が北陸に援軍を出すことは目に見えていたからです。

成政は「これはヤバイ!」と思いました。
なんとしても、ここは家康に援軍を頼むしかありませんでした。
でも頼れる家康のお城は北アルプスの立山連峰の向こう側の浜松でした。
普通の道路は近江経由でしか行けません。しかし、そこは秀吉連合軍の領地です。
その為、富山→黒部峡谷→北アルプス→信濃へと「アルプス越え」を決行したのでした。
まぁ、現在でも真冬に富山から長野県に通じる道路はありません。
これを「さらさら越え」といいますが、その名前は「さらさら峠を越えて行ったから」といわれています。
でも、さらさら峠とはどこにあるのでしょう?

結局、成政は冬の北アルプスを越えて無事浜松に到着し家康に面会できました。
さすがの家康も突然成政が現れてびっくり仰天しました。
しかし、成政に援軍を出すことはとても無理でした。
次に、成政は清洲の信雄にも会いに行きました。でも信雄はつれない返事。
成政は失意のうちに帰ったのです。

翌年、秀吉連合軍が北陸に攻めて来ました。
そして、富山城の少し手前の丘陵地帯に布陣しました。
圧倒的な数の秀吉連合軍相手では勝敗は目に見えています。
成政は降伏せざるを得なかったのです。

この時に秀吉が布陣した丘陵地帯は「太閤山」と名づけられて、現在は住宅団地となっています。
地元でも「太閤山」の名前の由来を知っている人は少ないと思います。




それからのハンニバルとスキピオ (同 ⑮)

2007-05-03 15:02:40 | Weblog
ハンニバルの記述の順番を整理しようとしましたら、一寸間違って返って順番を間違ってしまって、入れ替え差し替えと混乱しました。
というのは、今まで書いたものは基本的には年代別ですが、同時進行してた部分もあるので勘違いしてしまった訳です。
今後、ハンニバルはギリシャに渡り、その後シリアに行ってローマ軍と戦闘しますが今までのようには活躍できません。
一方、スキピオの方は「アフリカヌス」(敬称、アフリカを制した偉大な人という意味か?)と冠して呼ばれてローマの第一人者になります。
しかしながら、兄の公金使い込みの嫌疑で元老院のアジテイター・カトー(加藤ではありません)に追及をされ、紀元前187年に失脚します。
失脚後、間も無く病死します。


だから、今後の二人の行動を追っても面白いかどうかは疑問です。
ただ、歴史に興味のある人はジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)~オクタビアヌスの時代までは面白いと思います。

↓(①から順番に読んでね)

ザマの会戦 (同 ⑭)

2007-05-03 10:13:10 | Weblog
「ザマ」の名前は地名から名づけたものと思われます。

戦力は次の通り。

ローマ連合軍
歩兵3万4千 騎兵6千 合計 4万

カルタゴ連合軍(マケドニアからの傭兵もあった)
歩兵4万6千 騎兵4千 合計 5万 他 象80頭

兵士の総合数ではハンニバル軍が勝っていたが、兵士の質はローマ軍の方が上であった。
また、騎兵の戦力はローマ連合軍が2千騎勝っていた。

もともとイタリアでは馬はあまりおらず、戦争でも使われなかった。
伝統的なローマ軍の戦法は「重装歩兵団」である。
その為、イタリア地内にてハンニバル軍が圧倒したのは騎兵の存在が大きかった。
したがって、ザマの戦場では歩兵と騎兵の比率が逆転していた。
ハンニバル自身はこの事実に気付いていた。

[ハンニバル軍の布陣]
最前線  象80頭
二列目  歩兵1万2千(傭兵)
三列目  歩兵1万9千(カルタゴ市民兵と傭兵)
両翼 2千騎ずつの騎兵

[スキピオ軍の布陣]
最前線  軽装歩兵
次に重装歩兵が三段続く
騎兵は両脇に三千ずつ
ここで注意すべきことは、三段の重装歩兵は縦一列であったが、軽装歩兵は重装歩兵とはオフセット状態で配列したことである。
つまり、重装歩兵の前方に軽装歩兵を配列せずに、重装歩兵と重装歩兵の間の空間の前方に軽装歩兵を配置したのである。
そのことは、相手側のハンニバル軍からは分からなかった。但し、兵隊が少し横に広がって見えたかも知れない。

[戦端]
ローマ軍の左右の騎兵の突撃と、ハンニバル軍の象の出撃によって始められた。
象が突進して間近に迫ったときに、軽装歩兵は像の進路を避けて左右の重装歩兵の間に割り込んだ。
象の直前に空白ができて、象は歩兵団の間を通過しただけの結果になった。
象という動物は一旦走ると「ドー~にも止まらない♪」という性格らしい。
通過してしまった象は投槍を浴びて完全に戦線から脱落した。

[経過]
中央ではローマ軍が数では劣勢だったが、兵士の質が高いので優勢に押した。
両翼の騎兵は数の面でも優勢なローマ軍が圧倒し、カルタゴ軍は徐々に敗走し始めた。
この機に、ローマ軍は正面のみならず、カルタゴ軍の空いた両脇をも重装歩兵に攻めさせた。
カルタゴ軍歩兵は三方から攻められ逃げることはできない。後方にはハンニバルのベテラン1万5千が塞いでいた。
それでも、カルタゴ兵は隊列を崩してまで逃げようとするものが続出した。
この時、ハンニバルは子飼いの1万5千兵に前進を命じた。

これに対して、スキピオは陣形の建て直しを命じた。
具体的には、負傷兵を後方に運び出して、敵兵の死体を両脇に片付けた。
次に縦方向だった歩兵の隊列を横方向に広げた。
数では既に勝っていたため、前進するカルタゴ軍を包み込むような陣形に変えた。
包囲網を完成したときに、敵騎兵を撃破した騎馬隊が戦場に戻ってきた。
1万5千のハンニバル子飼いの兵士はザマで全滅した。

[結果]

カルタゴ兵の戦死者合計2万強、捕虜2万。
ローマ軍 戦死者 千五百。
ハンニバル自身は逃走した。そして首都カルタゴに帰った。
そして、再度の両国の講和条約の内容が討議されることとなるのであった。

(この時代は、戦争が終わっても戦勝国の都合の良い裁判をしなかったのでA級戦犯とかは出ませんでした。カルタゴ側の交渉の主席代表はなんとハンニバル本人だったのである。「戦争と犯罪とは違う」という考えが普通だったのだろう。敗戦国の日本としては考えさせられます。現代社会に対する意見を当時のスキピオやハンニバルに聞けるのであれば知りたいですね)

5月3日にリセット


ハンニバル帰国後 (同 ⑬)

2007-05-03 10:12:33 | Weblog
(前回の記述の間違いは一部削除しました。第三次ポエニ戦争はこれから54年後の紀元前149年に始まるのです。したがって、第二次ポエニ戦争はまだ終わっておりません)

休戦中に事故が発生した。
スキピオの元に送られてきた補給船団が嵐に会って首都カルタゴの近くに避難した。
カルタゴ人はなんと、その船を奪い首都の港に曳航したのだ。
これを聞いたスキピオは直ちに抗議を送り返還を要求した。
カルタゴ政府内で議論が割れているときに、ハンンバルのカルタゴ到着の知らせがあった。
これが、カルタゴ人を強気にした。
スキピオも再戦争の準備をし始めた。

ハンニバルもカルタゴから南東100キロの「ハドゥルメトゥム」にて戦争の準備をしていた。
翌年の紀元前202年春には、歩兵4万6千・騎兵4千・八十頭の象の軍隊が終結した。
ただ騎兵の質が落ちており、数も充分とはいえなかった。

一方、スキピオの手持ちの兵は3万であり、このままではハンニバル軍と交戦するには不十分であった。
友人である「ヌミディア王」のマシニッサに援軍を求めた所「歩兵6千と騎兵4千で参戦する」と返答してきた。

ここで3軍の位置関係を説明すると次の通り。
スキピオの軍隊を三角形の上の頂点とすれば、ハンニバル軍の位置は右下の角であり、ヌメィデア王国は西側だったのでマニシッサの軍隊は左下の角付近から東に進む訳である。

これでは、ハンニバル軍としては「相手の両軍が合流する前にその間に割って入り「各個撃破」の戦略であろうし、スキピオ軍とすれば「少しでも早くヌメディア軍に合流したい」ではなかったかと思われる。

その為、両軍もヌメィデア軍の方向に向けて軍隊の移動を急がせた。
行軍の速度はスキピオ軍の方が速かった。理由は軍勢が少なかった事と象が居なかったためである。

紀元前202年秋、史上有名な「ザマの会戦」の前日、ハンニバルよりの申し入れで両軍のトップ会談がなされた。

ハンニバルの口上の概要。
「両国が外に出たのが間違いだった。
しかし、それは過去のこと。問題は現在だ。
危険な賭けを回避したいなら、両国間の争いをやめるしかない。
もしあなたが勝利者になっても、あなたの名声があがる訳でもない。
反対にもしあなたが敗者になったら、これまでのスキピオの輝かしい戦歴は無に消すだけではなく、あなた自身の破滅にもなるだろう」

スキピオの口上の概要。
「この戦争を始めたのはローマ人ではなく、カルタゴ側であった。
『運が変わりやすいこと』は知っている。
もし、自発的にイタリアから退去していたら、今の提案は満足できたかも知れない。
講和の条件は提示したものから変えるわけにはいかない。
あなたに『明日の会戦の準備をすすめること』しかわたしにはできない」

こうして、『ザマの会戦』は地中海世界の将来を決する戦いになるのだった。


講和とハンニバルの帰国 (同 ⑫)

2007-05-03 10:12:05 | Weblog
カルタゴ政府は完全にパニックに陥った。
政府内でも意見は分かれたが、列記すると次の通り。

①ローマの軍船の攻撃。
②篭城戦
③講和
④ハンニバルを呼び戻してローマ軍と闘わせる。

スキピオの提示した講和の条項。

1、ローマはカルタゴの自主独立と自治権を認める。

2、イタリアとガリア以南のカルタゴ兵は全員が退去すること。(ハンニバルの退去を当然含む)

3、スペインでのカルタゴ利権の完全放棄。

4、マシニッサの王国を認める。

5、20隻を除く軍船をローマ側に手渡すこと。

6、講和の交渉の期間中、カルタゴはアフリカに居るローマ軍の兵糧をまかなう。

7、賠償金として、5千タレントをローマに支払う。
(カルタゴの農業の年間収益1万2千タレント→非常に軽い負担)

ローマは敗戦国に対してはどの国に対しても「忍耐と寛容」で臨んだようです。


[ハンニバル帰還す]

本国より帰還を命じられたハンニバルはイタリアに侵攻してから16年が経過していた。(29歳から44歳)
2万6千人の兵士から精鋭1万5千人だけを連れて行くことにした。

(喉元過ぎればなんとかで、ハンニバルが帰還した後にカルタゴ政府は強気に転換します)


5月2日にリセット

ローマ軍 VS カルタゴ連合軍 (同 ⑪)

2007-05-03 10:11:26 | Weblog
1、夜襲。

ローマ軍は夜襲という奇襲はハンニバル以前はしなかった。
しかし、時代は変わった。
2万6千で9万3千に直接会戦は無謀である。

約10キロ離れた敵の陣営を午前3時頃に襲った。
敵の陣営地は木材と葦で造られており燃えやすかった。
火矢よって陣営はたちまち燃え上がった。
この夜襲によって、カルタゴ連合軍は3万人死んだ。


2、会戦

春の終わりになって、カルタゴ連合軍は再軍備をした。
戦力はカルタゴ単独で3万、ヌミディアは参戦したが兵数は激減していた。
定石と違って、スキピオは騎兵を先攻させた。
ヌミディア騎兵は思わず後退した際に、カルタゴ連合軍の両脇は空白となった。
この機に、スキピオはカルタゴ軍の両脇に待機していた歩兵を当てた。
三方を囲まれた敵の歩兵は屍の山を築いた。

カルタゴの司令官・ジスコーネはカルタゴに何とか逃げ戻った。
残りのカルタゴ連合軍は敗走したが、ヌミディア王・シファンチェはローマ軍の捕虜となった。
変わりに、スキピオの友人マシニッサがヌミディアの新しい王となった。

こうして、ローマ連合軍はカルタゴ連合軍に対して完全勝利した。


ローマ軍・スキピオ、アフリカ上陸す(同 ⑨)

2007-05-03 10:10:40 | Weblog
紀元前204年春、スキピオは2万6千の兵士と440隻の船隊にて出航した。
首都カルタゴの西側に目指していたが、風向きの影響で東側の第二の都市「ウイッカ」近くに到着して上陸した。
上陸後の経過は悪い情報ばかりであった。

まず、カルタゴの隣国の「ヌミディア王・シファチェ」に同盟を申し出たところ、カルタゴ側についたという知らせが入ったのである。
もう一人のヌミディア王の「マシニッサ」だが、シファチェに王国を侵略され、二つの王国は事実上一王国しかないのと同然であった。
200騎のみを従えてマシニッサはスキピオの前に現れた。
スキピオは内心落胆していたが、「それで充分だ」と微笑んで答えた。
ここに二人の友情が生まれた。(ここがハンニバルとの大きな違いです)
また、長年行動を一緒にしてきた「「レリウス」も加えた。
ここに男三人の共同作戦が実現した。

カルタゴ側の反応は鈍かった。
今まで他国に侵略されたことのない国は、迎え撃つ軍の編成に数ヶ月を要した。

同年秋ごろに、ようやくカルタゴ軍3万千とヌミディア軍6万の共闘体制はなった。
これでは、戦闘は翌年になるということでもあった。(冬は戦争をしないらしい)
予想される兵員はスピキオ軍2万6千 VS カルタゴ連合軍9万3千であった。
これでは兵数では差がありすぎる。
スキピオは「ヌミデッア王・シファチェ」に名誉ある講和の仲介を望んでいると匂わせて依頼した。
実は、スペインでのカルタゴ相手の戦争の時、シファチェに対してカルタゴの武将の娘の絶世の美女を紹介して妻となっているのである。
また、シファチェ自身は義理で戦争に参加しているのであり、強大国2国の戦争には参加したくはないという本心であった。
一方スペインで「イリパの会戦」でスキピオに惨敗したカルタゴの将軍「ジスコーネ」も戦いに乗り気ではなかった。

講和の交渉は長引き、翌年の春にスキピオの方から交渉は打ち切りした。

[追記]

当時の北アフリカは現在と違って、緑豊かな肥沃した土地だったと記録されています。
サハラ砂漠も小さかったのかな?